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'''アフリカ文学''' |
'''アフリカ文学'''(アフリカぶんがく)は、[[文学]]におけるカテゴリーの一つで、[[アフリカ]]発祥の文学を指す。アフリカには56の国家と2000以上ともいわれる言語があり、各地の民族語に加えて[[アラビア語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[ポルトガル語]]などで作品が発表されている。口伝による口承文芸から、出版物として世界的に読まれる作品まで存在する。 |
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歴史的には、古代エジプトからの文学作品があり、イスラームの伝播にともないアラビア語の文学が書かれるようになった。19世紀の[[アフリカ分割]]による植民地化と、1930年代のネグリチュード運動を経て、1950年代には植民地主義への対抗や伝統的文化の価値が描かれた{{sfn|加藤ほか編|2000|p=13}}。独立が相次いだ1960年代には独立国の問題が書かれ、1970年代には社会批判とともに詩や演劇の現代化が進み、民族語による創作も始まった{{sfn|加藤ほか編|2000|pp=14-15}}。1980年代には[[新植民地主義]]への対抗や、南アフリカにおけるアパルトヘイトへの抵抗が続き、他方でアフリカを離れた人々の視点が増えていった{{sfn|加藤ほか編|2000|pp=16-19}}。1990年代には民族主義とは異なる価値観を持つ作家が輩出され、社会の急激な変化を注視しつつ創作を続けている{{sfn|加藤ほか編|2000|pp=16-19}}。 |
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== 概要 == |
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'''アフリカ文学'''の口承文学では、グリオ<ref>マリの歌手、サリフ・ケイタもグリオの家系である</ref>と呼ばれる吟遊詩人が物語や音楽を伝える地域もある<ref>[http://www.infoplease.com/ce6/ent/A0802673.html African literature at info-please.] 2022年5月2日閲覧</ref>。各地の民族語にくわえて、[[アラビア語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[ポルトガル語]]などの作品が存在する。殊に[[1950年代]]以降は英語で書く作家たちの活躍がめざましく、[[植民地]]時代を経て、激動する政治背景を描いた良質の作品が数多く生み出されている。 |
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== 定義 == |
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文字による[[ブラックアフリカ]]の文学は、ヨーロッパ由来の言語による文学以前にも[[ハウサ諸王国]]の『[[カノ年代記]]』のような[[アラビア語文学]]が存在した。また、[[アラビア文字]]によって書かれた[[バンバラ語]]、[[ウォロフ語]]、[[フルフルデ語]]などによるイスラーム文学や、[[ラテン文字]]によって書かれた[[コーサ語]]によるキリスト教文学が存在した<ref>砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月 p.52</ref>。 |
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アフリカ文学は言語・民族・地理などの境界によって定義することが困難とされる。母語となる言語が多数あり、地域による文化の特徴が多様であり、国外での生活が常態化しているためである{{sfn|福島|1999|pp=10-11}}。国際的な文学賞におけるアフリカ人作家の定義は、本人がアフリカ生まれであること、アフリカの国籍を有すること、両親のどちらかがアフリカの国籍を有することのいずれかとなっている{{efn|アフリカ作家の英語短編小説の文学賞である{{仮リンク|ケイン賞|en|Caine Prize}}の例{{sfn|神田|2017|pp=198-199}}。}}{{sfn|神田|2017|pp=198-199}}。 |
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アフリカ文学の研究者の間では、どの地域をアフリカ文学に含めるかで意見の相違がある。[[サハラ砂漠]]以南のアフリカは[[サブサハラ]]と呼ばれ、黒人の住民が多いために[[ブラックアフリカ]]とも呼ばれる。他方で地中海に面している北部アフリカは、アルジェリア・チュニジア・モロッコ等を合わせて[[マグリブ]]と呼ばれる。マグリブとは「日の没する処」という意味のアラビア語に由来し、中東世界を基準とする地域名である。このため北部アフリカをアフリカ文学に含めない研究者もいる。他方で、あえて自身について「アフリカ人作家とこそ名乗らなければならない」と主張したアルジェリアの[[カテブ・ヤシーン]]のような作家もいる{{sfn|鵜戸|2007|pp=36-37}}。 |
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一方、[[ヨーロッパ]]由来の言語によってアフリカ人に書かれた最初期の作品としては、{{仮リンク|オラウダ・イクイアーノ|en|Olaudah Equiano}}の『[[アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語]]』(1789年)の名が挙げられ、現代のアフリカ文学は大きな影響をイクイアーノから受けている<ref>小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月 pp.181-182</ref>。 |
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アフリカ出身の作家や批評家には、さまざまな事情により国外で暮らす者が多い([[#移民、難民|後述]])。そのため出身地だけをアイデンティティの特定に使うのは適切ではないともいわれる{{sfn|大池|1999|p=114}}。たとえばアフリカ人初のノーベル文学賞受賞者の[[ウォーレ・ショインカ]]は、政府の弾圧を逃れてナイジェリアを去り、アメリカ等で生活しながら世界各地の大学で講義を行なったのちに故郷のアベオクタに帰った{{efn|ショインカは差別的・抑圧的な政権に一貫して反対を表明している。アメリカ合衆国の永住権を取得していたが、ドナルド・トランプの大統領就任をきっかけに放棄した{{sfn|島田|2019|p=221}}。}}{{sfn|島田|2019|pp=220-221}}。こうした状況は、アフリカ文学の担い手とは誰なのかという問いをもたらしている{{sfn|大池|1999|p=114}}。 |
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[[南アフリカ共和国]]や[[ナイジェリア]]のような、自国内での出版産業が成立し、文学市場が存在するごく一部の国を除いて、基本的にアフリカ諸国では自国内での文学の出版、消費が薄いため、現在も、アフリカ文学は[[パリ]]や[[ロンドン]]や[[ニューヨーク]]の出版社からヨーロッパ諸言語で出版され、北側先進国の人間を主な市場としている<ref>砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月 pp.56-57</ref>。また、植民地時代と比較すればアフリカ諸国の[[識字]]率は向上したとはいえ、未だに言語の壁は厚く、1950年代から60年代にかけてフランス語で創作したセネガルの[[センベーヌ・ウスマン]](センベーヌが姓である)は、自国の人たちに理解してもらうにはフランス語では限界があると考えて、1970年代には[[映画監督]]に転身するという事件もあった。[[ケニア]]の[[グギ・ワ・ジオンゴ]]はこのようなヨーロッパの言語で書かれるアフリカ文学を批判し、精神の非植民地化を図るために、自らの[[母語]]である[[ギクユ語]]のみでの創作活動を行うことを宣言した<ref>砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月 p.57</ref>。グギの姿勢はアフリカの知識人に影響を与え、[[スワヒリ語]]、[[ウォロフ語]]、[[ショナ語]]、[[バンバラ語]]、[[リンガラ語]]、[[ハウサ語]]、[[ヨルバ語]]、[[コーサ語]]などによる文学活動も、多くの困難を抱えながらも徐々に実践され始めている<ref>砂野幸稔「アフリカの文化と精神の非植民地化」『「南」から見た世界03 アフリカ 国民国家の矛盾を超えて共生へ』北川 勝彦:編、[[大月書店]]、1999年3月 pp.226-227</ref>。 |
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== 歴史 == |
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エジプトには[[古代エジプト文学]]の作品が残されており、文学という言葉は全ての書字を含む場合がある。それらの作品は[[オストラカ]]、[[パピルス]]、石碑などに記されている{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|p=475}}。古代エジプトには[[知恵文学]]という分野があり、内容は教訓的な[[セバイト]]と、厭世的な論説に分かれる。最古のセバイトは紀元前2550年頃のハルジェデフの作品とされる{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|p=325}}。[[中王国時代]]から物語が書かれるようになり、中でも『[[シヌヘの物語]]』が知られている。[[エジプト新王国|新王国時代]]にはジャンルが増えて[[新エジプト語]]で書かれた。[[プトレマイオス朝]]では[[デモティック]]で書かれており、最も知られているのは英雄的な冒険譚である{{efn|デモティックで書かれた物語は、ホメロスの叙事詩やヘレニズムの文芸作品の影響を受けているといわれる{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|p=476}}。}}{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|pp=475-476}}。3世紀から4世紀に誕生した[[コプト文字]]や、紀元前数世紀頃にアラビア半島から[[アビシニア]]へ移住した人々が使った[[ゲエズ文字]]による聖書の翻訳や宗教詩的、年代記的な文献がある{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|pp=189-190}}{{sfn|秋山|2002|p=2}}。 |
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===ノーベル文学賞受賞者=== |
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アフリカ文学に関連するノーベル文学賞受賞者は、[[ウォーレ・ショインカ]](1986年)、[[ナギーブ・マフフーズ]](1988年)、[[ナディン・ゴーディマー]] (1991年)、[[ジョン・クッツェー|J. M. クッツェー]](2003年)、[[ドリス・レッシング]](2007年)、[[アブドゥルラザク・グルナ]](2021年)の6名(2021年現在)。 |
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=== 7世紀 - 15世紀 === |
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7世紀以降に[[イスラーム]]がアフリカへ広まるにつれて[[アラビア語]]の話者が増えた{{sfn|砂野|2002|p=52}}。9世紀頃から[[イスラーム王朝]]による奴隷貿易が行われ、当時のアラビア語文献による差別的な黒人観は後世にも影響を与えた([[#ポストコロニアル|後述]]){{efn|アフリカ系奴隷の出身でアラビア語文化圏で活動した者もおり、{{仮リンク|ジルヤーブ|en|Ziryab}}は9世紀アンダルスで最も著名な音楽家となった{{Sfn|木島|1983|pp=117-118}}。}}{{Sfn|私市|2004|pp=3, 85-87}}。各地の言語が[[アラビア文字]]によって文字化され、[[イスラーム文学]]が書かれた{{efn|[[バンバラ語]]、[[ウォロフ語]]、[[フルフルデ語]]、[[スワヒリ語]]などによる{{sfn|砂野|2002|p=52}}。}}{{sfn|砂野|2002|p=52}}。これらの文芸作品の多くは韻文で、[[イスラーム教徒]]としての生き方を説いている{{sfn|西江|2009|pp=296-297, 319-320}}。アラビア語文学には、歴史・物語・学問の散文を詩にまとめる教育的韻文と呼ばれる分野があり、この韻文化は[[アッバース朝]]の前期に始まり、北部アフリカへ伝わった{{Sfn|苅谷|2011|p=285}}。文字を使わない地域では、出来事や王の系譜が口頭伝承によって伝えられた{{sfn|川田|1992|pp=52-55}}。 |
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{{See also|{{仮リンク|国別のアフリカの作家の一覧|en|List of African writers}}}} |
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※「国名」(五十音順)>「生年」順で並べた。 |
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[[File:Timbuktu-139080.jpg|thumb|200px|トンブクトゥ写本]] |
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==== アルジェリア ==== |
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東部アフリカでは13世紀頃からイスラームを信仰する[[スワヒリ語]]の話者として{{仮リンク|スワヒリ人|en|Swahili people}}がいた。東部アフリカの伝承を集めた史料として『{{仮リンク|キルワ年代記|en|Kilwa Chronicle}}』があり、原本は16世紀とされる{{sfn|家島|2021|pp=416, 436}}。17世紀頃にスワヒリ語がアラビア文字で筆記できるようになり、説教詩、英雄や預言者の生涯、戦争などをテーマした叙事詩が書かれた{{Sfn|小野田|2016|p=8}}。 |
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{{main|アルジェリア文学}} |
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* {{仮リンク|ジャン・アムルーシュ|fr|Jean Amrouche}}([[1906年]]-[[1962年]]) |
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* [[ムールード・フェラウン]]([[1913年]]-[[1962年]]) - 『貧者の息子』(1950) |
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* [[ムールード・マムリ]]([[1917年]]-[[1989年]]) - 『阿片と鞭』(1965) |
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* [[カテブ・ヤシーン]]([[1929年]]-[[1989年]]) - 『ネジュマ』(1956年) |
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* [[アシア・ジェバール]]([[1936年]]-[[2015年]]) - 『墓のない女』(2002) |
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* [[ブアレム・サンサル]]([[1949年]]-) - 『2084 世界の終わり』(2015) |
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* [[アフラーム・モスタガーネミー]]([[1953年]]-) |
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* [[ヤスミナ・カドラ]]([[1955年]]-) - 『カブールの燕たち』(2002)、『昼が夜に負うもの』(2008) |
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* [[カメル・ダウド]]([[1970年]]-) - 『もうひとつの『異邦人』― ムルソー再捜査』(2014) |
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西部アフリカでは[[サハラ交易]]の拠点だった[[トンブクトゥ]]が学問の街としても栄え、13世紀から17世紀にかけて書物が収集され、数十万部ともいわれるアラビア語写本が作られた。これらは[[トンブクトゥ写本]]と呼ばれ、法学、医学、数学、文学などについて書かれている{{efn|写本の冊数は数十万点ともいわれており、56の写本図書館に保管されている{{Sfn|伊東|2021|p=92}}。}}{{Sfn|伊東|2021|p=87}}。モロッコ出身の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は14世紀前半にアフリカやアジアを旅行し、『[[大旅行記]]』を口述した。マンデ人の最大の口承作品は『{{仮リンク|スンジャタ叙事詩|en|Epic of Sundiata}}』で、14世紀に栄えた[[マリ帝国]]と国王[[スンジャタ・ケイタ]]の生涯を語りと歌で伝えている{{sfn|川田|2000|pp=71-72}}。 |
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==== アンゴラ ==== |
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{{main|アンゴラ文学}} |
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* [[ジョゼ・ルアンディーノ・ヴィエイラ]]([[1935年]]-) - 『ルーアンダ』(Luuanda,1963) |
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* [[ペペテラ]]([[1941年]]-) - 『[[マヨンベ]]』(1980) |
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* [[ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ]]([[1960年]]-) - ''O Vendedor de Passados''(2004) |
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=== 16世紀 - 18世紀 === |
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16世紀からヨーロッパ諸国{{efn|奴隷貿易の参加国は、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリス、スコットランド、ブランデンブルク、デンマーク、スウェーデン等{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=3008/8297}}。}}による[[大西洋奴隷貿易]]が急増し、1200万人ともいわれる人々が連れ去られた{{efn|奴隷貿易の悪影響は、現在にも及んでいるとされる。{{仮リンク|ネイサン・ナン|en|Nathan Nunn}}の研究によれば、奴隷貿易が最も激しかった地域は21世紀のアフリカにおける最貧困地域である{{Sfn|ナン|2018|pp=第5章}}。ネイサン・ナンと{{仮リンク|レナード・ワンチェコン|en|Leonard Wantchekon}}によれば、奴隷貿易の被害にあった地域は、そうでない地域に比べて家族・隣人・民族・政府に対する信頼感が低いという{{Sfn|Nunn, Wantchekon|2011}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=2994-3015/8297}}{{Sfn|ナン|2018|pp=第5章}}。奴隷貿易によるアフリカ人とヨーロッパ人の接触によって、アフリカ人がヨーロッパ由来の言語で文芸作品を書くようになった{{sfn|小林|2002|pp=181-182}}。 |
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* [[オコト・ビテック]]([[1931年]]-[[1982年]]) |
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南部アフリカでは、17世紀に[[オランダ東インド会社]]による植民が始まり、アフリカ人の他にアジアからも奴隷を輸入して労働力とした{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=4202-4228/8297}}。ケープタウンの人口は増えたが、18世紀末に東インド会社は破産して19世紀にイギリス領の[[ケープ植民地]]が成立する{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=4297-4303/8297}}。この時期を舞台にした作品が、のちにオランダ系白人を中心とする[[アフリカーナー]]の作家によって多数書かれることになった([[#アパルトヘイト|後述]]){{Sfn|福島|1999|p=47}}。 |
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==== エジプト ==== |
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{{main|エジプト文学}} |
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* [[ナギーブ・マフフーズ]]([[1911年]]–[[2006年]])1988年ノーベル賞 |
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* [[ユースフ・イドリース]]([[1927年]]-[[1991年]]) |
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* [[アリーファ・リファアト]]([[1930年]]-[[1996年]]) |
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* [[ナワール・エル=サァダーウィー]]([[1931年]]-) |
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* [[タウフィーク・アル=ハキーム]] |
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東部アフリカ文芸作品の最古の記録は『タブクの戦いの書』の写本(1728年)で、アラビア文字の写本が残っているが原本はスワヒリ語で書かれていた可能性がある{{Sfn|小野田|2016|p=8}}。古典的なスワヒリ語詩の登場人物は女性が中心で、作者や聴き手にも女性が多かった{{sfn|西江|2009|pp=333-334}}。アラビア語による韻文化は、北部アフリカをへて17世紀には西部アフリカまで伝わった{{Sfn|苅谷|2011|p=285}}。 |
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==== エチオピア ==== |
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{{main|{{仮リンク|エチオピア文学|en|Ethiopian literature}}}} |
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* [[サーハレ・セラシェ]] - 『扇動者たち』(1979) |
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[[File:Vassa book.jpg|thumb|200px|オラウダ・イクイアーノの『アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語』]] |
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==== カメルーン ==== |
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アフリカ人がヨーロッパの言語で書いた最初期の作品として、{{仮リンク|オラウダ・イクイアーノ|en|Olaudah Equiano}}の『[[アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語]]』(1789年)がある{{sfn|小林|2002|pp=181-182}}。イクイアーノは別名グスタブス・バサといい、故郷の[[ベニン王国]]で誘拐されて奴隷として売られた。解放された後は[[奴隷制度廃止運動]]に参加し、[[奴隷体験記]]を英語で発表した{{efn|奴隷体験記はアメリカで多数書かれた。他の著者には[[フレデリック・ダグラス]]、{{仮リンク|ハリエット・ジェイコブズ|en|Harriet Jacobs}}、[[ブッカー・T・ワシントン]]らがいる{{Sfn|山田|2009|p=80}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3056-3079/8297}}。 |
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{{main|{{仮リンク|カメルーン文学|fr|Littérature camerounaise|en|Literature of Cameroon}}}} |
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* {{仮リンク|フェルディナン・オヨノ|en|Ferdinand Oyono}}([[1929年]]-) |
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* {{仮リンク|モンゴ・ベティ|en|Mongo Beti|fr|Mongo Beti}}([[1932年]]-) |
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* [[フランシス・ベベイ]](1929年 - [[2001年]])- 『アガト・ムディオの息子』(1967) |
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=== 19世紀 === |
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19世紀初頭には奴隷貿易の廃止が進み、奴隷制度も19世紀前半に廃止が進んだ。しかし、ヨーロッパ諸国は奴隷貿易に替わってアフリカの植民地化を進め、アフリカを原料供給地や製品市場とみなして占領、統治した{{efn|[[ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化]]と奴隷貿易は、近代以降のヨーロッパの経済成長の原因とされている{{sfn|ポメランツ|2015|pp=275-276}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3204-3216/8297}}。宗主国の言語がアフリカで公用語に定められ、植民地の行政や教育で宗主国の言語が強制され、アフリカ文学の創作でこれらの言語が使われる原因となった{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=84}}。 |
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* [[アイ・クウェイ・アーマー]]([[1939年]]-) - 『美しき者いまだ生まれず』(1968) |
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* [[アマ・アタ・アイドウ]]([[1942年]]-) |
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アフリカ各地でキリスト教の布教が行われ、それにともない聖書がアフリカの言語に翻訳され、布教のための辞書や文法書、教科書も作られた{{efn|1833年に[[ズールー語]]の聖書、1850年にズールー語の文法書、1861年に[[ソト語]]の雑誌が出版された{{sfn|楠瀬|2001|pp=397-398}}。}}{{sfn|楠瀬|2001|pp=397-398}}。文字のなかった地域では、宣教師が布教目的でアルファベット形式の文字を作った。文字になった民族語は現実の言語とのずれがあったものの、言語の定着と文芸作品へとつながっていった{{sfn|溝口|2018|pp=33-34}}。 |
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==== ギニア ==== |
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* [[カマラ・ライエ]]([[1928年]]-[[1980年]]) |
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口承文芸が外部の者によって文字に記録されるようになった。19世紀中頃からドイツの言語学者{{仮リンク|ヴィルヘルム・ブリァク|en|Wilhelm Bleek}}は[[サン人]]の言語と物語を記録した{{sfn|福島|1999|pp=23-27}}。イギリスの宣教師{{仮リンク|エドワード・スティア|en|Edward Steere}}は収集した話をもとに『スワヒリの昔話』(1870年)を発表した{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=77}}。西部アフリカの[[ハウサ人]]の『[[カノ年代記]]』は、口頭伝承の内容が19世紀に北アフリカからの外来者によってアラビア文字に記録されたと推測される{{sfn|川田|2000|pp=71-72}}。マダガスカルでは[[マダガスカル語]]、[[クレオール語]]、[[コモロ語]]の口承文芸があったが、フランスの植民地化によってフランス語の大衆文学が読まれた。マダガスカル語文学の作家の国外追放や、フランス語雑誌の普及も影響し、フランス語文学が主流となった{{sfn|伊川|2000|pp=66-67}}。 |
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==== ギニアビサウ ==== |
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* [[アミルカル・カブラル]]([[1924年]]-[[1973年]]) |
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最初のヨルバ語作家といわれる{{仮リンク|サミュエル・クラウザー|en|Samuel Ajayi Crowther}}は、奴隷船から救い出されてイギリスで学び、アフリカへ戻って布教を行った人物で、ヨルバ語の辞典も編纂した{{sfn|宮本|2014|p=689}}。西部アフリカでの最初期のフランス語の記録として、セネガルの探検家の{{仮リンク|レオポル・パネ|fr|Léopold Panet}}による1850年の記録や、神父の{{仮リンク|ダヴィッド・ボワラ|fr|David Boilat}}の『セネガル素描』(1853年)がある。パネとボワラはともに混血だった{{sfn|マバンク|2022|p=38}}。 |
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==== ケニア ==== |
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* [[グレイス・オゴト]]([[1930年]]-) |
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* [[レベッカ・ンジャウ]]([[1932年]]-) |
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* [[アセナス・ボレ・オダガ]]([[1938年]]-) |
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* [[グギ・ワ・ジオンゴ]]([[1938年]]-) - ングーギ・ワ・ジオンゴとも言う。[[ギクユ語]]での創作を宣言。[[アメリカ合衆国]]への亡命後もギクユ語で出版している。 |
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* [[デイヴィッド・マイルー]]([[1939年]]-) |
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* [[メジャ・ムワンギ]]([[1948年]]-) |
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* [[トマス・アカレ]]([[1950年]]-) |
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* [[ムトニ・リキマニ]] |
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南部アフリカでは、1820年代にスコットランドの詩人{{仮リンク|トマス・プリングル|en|Thomas Pringle}}が[[ケープ植民地]]を訪れ、アフリカーナーによって奴隷状態で使役されている先住民族を憂い、詩の中では自然の中で暮らす先住民族を讃えた。プリングルは言論の自由や英語文学の発展に貢献し、帰国後は奴隷廃止運動に参加した{{sfn|福島|1999|pp=20-21}}。最初期の英語小説である{{仮リンク|オリーブ・シュライナー|en|Olive Schreiner}}の『{{仮リンク|アフリカ農場物語|en|The Story of an African Farm}}』(1883年)は、白人女性の立場からケープ植民地での生活や、人種、宗教、女性の労働や[[女性参政権]]について書いている{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=84}}。[[ラテン文字]]によって書かれた[[コーサ語]]によるキリスト教文学も存在した{{sfn|砂野|2002|p=52}}。 |
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==== コートジボワール ==== |
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* [[アマドゥ・クルマ]]([[1927年]]-[[2003年]]) - 『アラーの神にもいわれはない』(2000) |
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東部アフリカではスワヒリ詩がアラビア文字で表現された。『ムワナ・クポナの娘』(1858年)はイスラームの教訓詩で、スワヒリ語圏で最も広範に知られている古典作品に属する。この詩の作者{{仮リンク|ムワナ・クポナ|en|Mwana Kupona}}は19世紀のスワヒリ人の詩人で、人生について娘に教え諭す内容になっている{{sfn|西江|2009|pp=333-334}}。東部アフリカは19世紀に[[オマーン帝国]]の侵攻を受けた影響で、人々を団結させる詩が作られるようになった。それまでイスラームの知識人が書き宗教的な内容が中心だったスワヒリ詩が、庶民も創作し身近な題材を書くようになった{{Sfn|小野田|2020|pp=3, 39}}。この時代の詩人にムヤカ・ビン・ハジ(Muyaka bin Haji al-Ghassaniy)がおり、スワヒリ詩を「モスクから市場へ持ち出した」と評価されている{{efn|植民地化される前のスワヒリ詩は{{仮リンク|ウテンジ|en|Utenzi}}という叙事詩形式の長い定型詩だったが、ムヤカは{{仮リンク|シャイリ|sw|Shairi}}という短い定型詩を普及させた{{Sfn|小野田|2016|p=8}}。}}{{Sfn|小野田|2016|p=8}}。 |
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==== コンゴ共和国 ==== |
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* [[エマニュエル・ドンガラ]] - 『世界が生まれた朝に』(1987) |
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* [[ソニー・ラブ・タンシ]]([[1947年]]-[[1995年]]) - 『一つ半の生命』(1979) |
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北部アフリカでは、マグレブと呼ばれるモロッコ、アルジェリア、チュニジアをフランスが植民地化した。中でも1830年代から植民地化が進んだアルジェリアは[[ピエ・ノワール|コロン]]と呼ばれる入植者が増え、フランス語をもとにして独自の創作が始まった。元来の民族語に加えて、各地からやって来た移民の言語も混じり、マグレブには混淆文化が生まれた{{efn|元来のベルベル語とアラビア語に加えて、フランス語、イタリア語、スペイン語、カタルーニャ語、プロヴァンス語が混ざり合って使われた{{Sfn|鵜戸|2011|p=17}}。}}。アルジェリア初の流行作家ミュゼット(Musette)は、パタウェットやサビールと呼ばれる混成語を駆使してアルジェリア文学を開拓した{{Sfn|鵜戸|2011|pp=17-18}}。 |
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==== コンゴ民主共和国 ==== |
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* {{仮リンク|アントワーヌ=ロジャー・ボランバ|fr|Antoine-Roger Bolamba}} (1913年-2002年)- 『壊れた鎖』(1945) |
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* {{仮リンク|レオニー・アボ|fr|Léonie Abo|en|Léonie Abo}}(1945年-) - 『危険な証言』(1996) |
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* [[カマ・シウォール・カマンダ]]([[1952年]]-) |
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=== 1900年代 - 1920年代 === |
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宗主国や言語を超えて植民地のアフリカ人が協力する運動が始まった。中でも[[パンアフリカニズム]]は作家も参加し、のちの植民地解放にも影響を与える運動となる{{efn|アフリカとアメリカの黒人が連携して、1900年にはパン・アフリカ・コンフェレンスがロンドンで開催され、北アメリカ、カリブ、アフリカの黒人知識人が初めて集まった。アメリカの作家[[W・E・B・デュボイス]]は『{{仮リンク|黒人のたましい|en|The Souls of Black Folk}}』(1903年)を発表し、[[パン・アフリカ会議]]を推進して、政治家の[[クワメ・ンクルマ]]、[[ジョモ・ケニヤッタ]]、{{仮リンク|ブレーズ・ジャーニュ|fr|Blaise Diagne}}らに影響を与えた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5378-5404/8297}}{{Sfn|マバンク|2022|pp=59-60}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5378-5404/8297}}。アメリカ合衆国で人種分離政策が進められると、[[アフリカ系アメリカ人]]の作家にはヨーロッパへ亡命する者がいて、特にフランスへの亡命者が多かった。フランスにはアフリカの植民地から移り住んだ者も多く、パリでは黒人作家の交流が行われた{{efn|アメリカから[[ラングストン・ヒューズ]]やアラン・ロックなどの作家が来てパリに滞在した{{sfn|佐久間|2018|p=22}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=36-37}}。 |
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* [[ドリス・レッシング]]([[1919年]]-)2007年ノーベル賞 |
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* [[チェンジェライ・ホーヴェ]]([[1954年]]-) |
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* [[ダンブズオ・マレチェラ]]([[1955年]]-[[1987年]]) |
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* [[J.ノジポ・マライレ]] |
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* [[チャールズ・ムンゴシ]] |
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植民地には宗主国の文芸作品も流入した。19世紀末から20世紀初頭にかけてのケープ植民地では同化政策が進められ、シェイクスピアの作品はアフリカ人が教養を示す証としても用いられた{{efn|一定の収入と教育のあるアフリカ人の成人男性は、条件付きで選挙権や土地所有権が認められた時期もあった{{sfn|溝口|2018|p=29}}。}}{{sfn|溝口|2018|p=29}}。しかし{{仮リンク|原住民土地法 (1913年)|en|Natives Land Act, 1913}}をはじめとして黒人の権利の剥奪が進み、[[ツワナ人]]の作家・ジャーナリストである{{仮リンク|ソル・プラーキ (作家)|en|Sol Plaatje|label=ソル・プラーキ}}は法律の撤回運動に参加した。プラーキは『ヴェニスの商人』や『リア王』を引用しつつ、イギリス政府を批判した{{sfn|溝口|2018|pp=30-32}}。 |
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==== スーダン ==== |
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* [[アッ=タイーブ・サーレフ]]([[1929年]]-) |
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記録にある最初期のアフリカ人女性小説家として、リリス・カカザ(Lilith Kakaza)がいる。カカザは1913年か1914年頃に[[コーサ語]]で中編と長編の小説を書いた{{sfn|大池|1999|p=124}}。{{仮リンク|ルネ・マラン|fr|René Maran}}のフランス語小説『{{仮リンク|バトゥアラ|fr|Batouala}}』(1921年)は、「真のニグロ小説」と副題がついており論議を呼んだ。マランは[[フランス領ウバンギ・シャリ]]で植民地行政研修官をしており、『バトゥアラ』は植民地制度に対する風刺を含んでいるが、制度自体への問題提起ではなかった{{efn|マランは植民地省やプロパガンダ局で働き、植民地のプロパガンダを支える新聞記事を書いた{{sfn|マバンク|2022|pp=40-41}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=39-40}}。 |
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==== セネガル ==== |
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{{main|{{仮リンク|セネガル文学|en|Senegalese literature}}}} |
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* [[レオポール・セダール・サンゴール]]([[1906年]]-[[2001年]]) |
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* [[センベーヌ・ウスマン]]([[1923年]]-[[2007年]])- 『帝国の最後の男』(1981)、『ニーワン』(1987) |
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* [[マリアマ・バー]]([[1929年]]-[[1981年]]) - 『かくも長き手紙』(1979) |
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* [[アリュン・ジョップ]] |
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* [[ファトゥ・ジョム]] |
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* [[シェイ・アミドゥ・カヌ]](シェク・ハミドゥ・カン) - 『曖昧な冒険』(1961) |
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北部アフリカの[[フランス領アルジェリア]]では、植民者コロンの文学はアラビア語文学よりも盛んになった{{sfn|鵜戸|2007|p=37}}。コロンの2世代目にあたる作家の{{仮リンク|ロベール・ランドー|fr|Robert Randau}}や{{仮リンク|ルイ・ベルトラン|fr|Louis Bertrand (écrivain)}}らは、{{仮リンク|アルジェリアニスム|fr|Algérianisme}}と呼ぶ文学運動を起こした。アルジェリアニスムの参加者は、移民の混淆文化によってフランスとは異なるアルジェリア独自の文学が誕生したと宣言し、その後の世代の作家はアルジェ派とも呼ばれた{{efn|アルジェ派の作家には、{{仮リンク|ガブリエル・オーディジオ|fr|Gabriel Audisio (écrivain)}}、{{仮リンク|エマニュエル・ロブレス|fr|Emmanuel Roblès}}、[[ジュール・ロワ]]、[[アルベール・カミュ]]らがいる{{sfn|鵜戸|2011|p=18}}。}}{{Sfn|鵜戸|2011|pp=17-18}}。チュニジアではユダヤ人作家を中心にフランス語文学が書かれるようになった{{Sfn|青柳|2004|p=3}}。エジプトは1919年の[[エジプト革命 (1919年)|エジプト革命]]から独立が進んだ影響でナショナリズムが高まり、エジプト固有の歴史への注目が集まった。1920年代以降は古代エジプトの[[ファラオ]]の時代を舞台にした歴史小説が書かれた{{efn|エジプト短編小説の開拓者であるイーサー・ウバイド、{{仮リンク|マフムード・タイムール|en|Mahmud Taymur}}、ターヒル・ラーシンらは、この時代に執筆を始めている{{sfn|平|2016|p=29}}。}}{{sfn|平|2016|p=30}}。 |
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==== ソマリア ==== |
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{{main|{{仮リンク|ソマリア文学|en|Somali literature}}}} |
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* [[アリ・ジマール・アハメッド]] |
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* [[ヌルディン・ファラー]] |
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東部アフリカはドイツとイギリスに植民地化され、スワヒリ語の詩はアラビア文字から[[ラテン文字]]に移行した。海岸地方の文化だったスワヒリ語の文芸作品が内陸地方でも読まれるようになった{{efn|この時代に活動した詩人には、{{仮リンク|シャーバン・ロバート|sw|Shaaban bin Robert}}、アムリ・アベディ、{{仮リンク|サーダニ・カンドロ|sw|Saadani Abdu Kandoro}}らがいる{{Sfn|小野田|2020|p=3}}。}}{{Sfn|小野田|2020|p=3}}。 |
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==== タンザニア ==== |
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* [[アブドゥルラザク・グルナ]] |
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* [[ピーター・K・パランギョ]] |
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=== 1930年代 === |
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フランス語圏の黒人を中心として[[ネグリチュード]]運動が起きた。アフリカ、フランス、カリブ海、アメリカ合衆国などの黒人たちが、出身地域を越えて人種主義への対抗と黒人思想の解放を目指す運動だった{{sfn|マバンク|2022|pp=58-66}}。ネグリチュードの先駆けとして、1931年に創刊された雑誌『{{仮リンク|黒人世界評論|en|La Revue du Monde Noir}}』がある。発行者は{{仮リンク|ポーレット・ナルダル|fr|Paulette Nardal}}と{{仮リンク|ジャンヌ・ナルダル|fr|Jeanne Nardal}}姉妹で、全ての評論・エッセイがフランス語と英語の2言語で表記され、政治を含まない議論の場を提供し、黒人文化を「ネーグル」の文化と表現した。黒人としての意識を共有したナルダル姉妹の活動は、ネグリチュードの誕生に影響を与えた{{efn|その他の先駆け的な雑誌として、{{仮リンク|ルネ・メニル|fr|René Ménil}}による『{{仮リンク|正当防衛 (雑誌)|fr|Légitime Défense (Martinique)|label=正当防衛}}』、マルティニーク学生協会の機関紙『{{仮リンク|黒人学生|fr|L'Étudiant noir}}』、セゼールらによる『{{仮リンク|熱帯 (雑誌)|fr|Tropiques (revue)|label=熱帯}}』があった{{sfn|佐久間|2018|p=22}}。}}{{sfn|小川|2018|pp=36, 40}}。 |
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{{main|{{仮リンク|チャド文学|en|Chadian literature}}}} |
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* {{仮リンク|ジョセフ・ブラヒム・セイド|en|Joseph Brahim Seïd}}(1927年-1980年)-『星空の下のチャド』(1962)、『チャドの子供』(1967) |
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ネグリチュードを主導したマルチニークの[[エメ・セゼール]]、セネガルの[[レオポール・セダール・サンゴール]]、フランスの{{仮リンク|レオン=ゴントラン・ダマス|fr|Léon-Gontran Damas}}らはフランスに留学していた詩人で、当初は詩の流派として表現された{{sfn|マバンク|2022|pp=66-67}}。ダマスは『色素』(1937年)、セゼールは『{{仮リンク|帰郷ノート|fr|Cahier d'un retour au pays natal}}』(1939年)を発表し、『帰郷ノート』ではじめてネグリチュードという言葉が現れた{{sfn|マバンク|2022|pp=43-44, 72-73}}。サンゴールはフランスの高等教育を身につけた開化民(エヴォリュエ)と呼ばれるアフリカ人だったが、自らが受けたフランスへの同化教育を否定してアフリカ文化を称揚した{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3838-3844/8297}}。 |
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==== チュニジア ==== |
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* [[アルベール・メンミ]](1920年-2020年)-『塩の柱』(1953年)、『あるユダヤ人の肖像』(1962) |
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南部アフリカでは、1930年に黒人による最初の英語小説として、ソル・プラーキの『{{仮リンク|ムーディ (小説)|en|Mhudi|label=ムーディ}}』や[[ズールー人]]の{{仮リンク|R・R・R・ドローモ|en|Rolfes Robert Reginald Dhlomo}}の『あるアフリカ人の悲劇』が出版された{{sfn|楠瀬|2001|p=398}}{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=84}}。[[ソト人]]の{{仮リンク|トーマス・モフォロ|en|Thomas Mofolo}}はソト語で『チャカ』(1931年)を発表した{{sfn|福島|1999|p=120}}。プラーキやモフォロは宣教師会の学校で教育を受けており、その作品は口承文芸の伝統にもとづきながらキリスト教倫理を含んでいた{{efn|これ以後のプラーキらの創作は、宣教師の検閲などが原因で進まなかった{{sfn|楠瀬|2001|p=398}}。}}{{sfn|福島|1999|pp=120-121}}。1930年代には黒人による演劇運動も起き、バンツー人演劇協会(1932年)を先駆けとして各演劇団体が設立された{{efn|初の黒人による英語劇の上演は、ドローモの戯曲『身代わりに死んだ娘』(1936年)とされる{{sfn|宮本|1989|p=135}}。}}{{sfn|宮本|1989|pp=134-135}}。 |
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==== 中央アフリカ共和国 ==== |
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* {{仮リンク|エティエンヌ・ゴイエミデ|en|Etienne Goyémidé}}([[1942年]]-[[1997年]]) - 『森の沈黙(原題:Le silencedelaforêt)』(1984) |
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==== ナイジェリア ==== |
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{{main|ナイジェリア文学}} |
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* {{仮リンク|オラウダ・イクイアーノ|en|Olaudah Equiano}}([[1745年]]-[[1797年]]) - [[ベニン帝国]]出身。[[奴隷]]として[[西インド諸島]]の[[バルバドス]]に連行された後、解放されて英語で創作活動を行った。 |
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* [[エイモス・チュツオーラ]]([[1920年]]-[[1997年]])-『やし酒飲み』(1946) |
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* [[チヌア・アチェベ]]([[1930年]]-)- 『{{仮リンク|崩れゆく絆 (小説)|en|Things Fall Apart|label=崩れゆく絆}}』(1958)、『もはや安楽なし』(1960) |
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* [[フローラ・ンパワ]]([[1931年]]-[[1993年]]) |
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* [[ウォーレ・ショインカ]]([[1934年]]-)1986年ノーベル賞 |
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* [[ケン・サロ=ウィワ]] ([[1941年]] - [[1995年]]) |
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* [[イシドレ・オペウオ]]([[1942年]]-) |
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* [[コレ・オモトショ]]([[1943年]]-) |
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* [[ブチ・エメチェタ]]([[1944年]]-) |
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* [[フェミ・オショフィーサン]]([[1946年]]-) |
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* [[フェスタス・イヤーイ]]([[1948年]]-) |
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* [[ボデ・ショワンデ]]([[1948年]]-) |
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* [[ベン・オクリ]]([[1959年]]-) |
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* [[チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ]]([[1977年]]-) |
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* [[エレチ・アマディ]] |
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北部アフリカでは、独立後の1920年代のエジプトで流行した古代エジプトテーマの作品が急減した{{sfn|八木|1994|pp=143-144}}。エジプトの詩においては、アーンミーヤの作品が増えた。アラビア語には学習によって身につける共通語としての[[フスハー]]と、地域固有の[[アーンミーヤ]]があり、それまでの文芸作品で使われていたフスハーに代わってアーンミーヤで創作が行われた。アーンミーヤの詩は1919年のエジプト革命の時期に反英闘争の手段として使われたことをきっかけに増え続け、{{仮リンク|バイラム・アル=チュニシー|en|Bayram al-Tunisi}}はアーンミーヤ詩人としてのちの作家に影響を与えた{{sfn|平|2016|pp=31-32}}。 |
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==== ナミビア ==== |
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* [[レスリー・ビーク]] |
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=== 1940年代 === |
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1947年には{{仮リンク|アリウン・ジョップ|fr|Alioune Diop}}が雑誌『{{仮リンク|プレザンス・アフリケーヌ|fr|Présence africaine}}』を創刊し、セゼール、サンゴール、ダマスらも寄稿した{{sfn|マバンク|2022|pp=43-44}}。同誌の重要作家だった詩人の{{仮リンク|ダヴィッド・ジョップ|fr|David Diop (poète)}}はセネガル人を父、カメルーン人を母としてフランスに生まれ、植民地主義を激しく批判する詩を発表した{{sfn|中村|2018|pp=63, 68}}。サンゴールは『影の歌』(1945年)を発表したほか、『フランス語表現ニグロ・マダガスカル新詞華集』(1948年)を編纂した。この詩集によって、フランス語で創作をするアフリカの詩人が知られるようになった{{efn|セネガルの{{仮リンク|ビラゴ・ジョップ|fr|Birago Diop}}や{{仮リンク|ラミン・ディアカテ|fr|Lamine Diakhaté}}、マダガスカルの{{仮リンク|ジャック・ラベマナンザラ|fr|Jacques Rabemananjara}}らがいる{{sfn|マバンク|2022|p=44}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=43-44}}。 |
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* [[アブドライエ・ママニ]] |
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南部アフリカでは、鉱山で急速に発展した[[ヨハネスブルグ]]に黒人労働者が集まり、ドローモや[[ピーター・エイブラハムズ]]は都市の黒人を主題にした。ドローモはヨハネスブルグを舞台に短編小説を開拓した{{sfn|福島|1999|pp=117-118}}。ヨハネスブルグ出身のエイブラハムズは『{{仮リンク|坑夫 (1946年の小説)|en|Mine Boy|label=坑夫}}』(1946年)で金鉱山の黒人の世界を描いた{{sfn|福島|1999|pp=119-120}}。国外から南アフリカの鉱山へ働きに行く者たちの運命や別れを、モザンビークの[[ジョゼ・クラヴェイリーニャ]]やアンゴラの[[アントーニオ・ジャシント]]は詩にうたった{{sfn|福島|1999|pp=112-117}}。[[南アフリカ連邦]](のちの南アフリカ共和国)では1948年に[[アパルトヘイト]](人種隔離政策)が始まり、検閲や投獄によって作家や文学に影響を与えた([[#アパルトヘイト|後述]]){{sfn|楠瀬|2001|pp=380-381}}。 |
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==== ボツワナ ==== |
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* [[ベッシー・ヘッド]]([[1937年]]-[[1986年]]) |
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北部アフリカでは、[[ナギーブ・マフフーズ]]が[[カイロ]]の下町を舞台とした小説を精力的に発表した。マフフーズの作風には、1919年のエジプト革命が影響を及ぼしている。人々が宗教を越えて協力した19年革命は、ナショナリズムとリベラリズムを核にしていた。マフフーズはその点を意識しつつ、エジプト人のアイデンティティをめぐって創作を続けた{{efn|マフフーズは1930年代から1940年代にかけて古代エジプトを舞台にした作品を書いたが、現代を舞台にした作品へと移っていった{{sfn|八木|1994|pp=143-144}}。}}{{sfn|八木|1991|pp=75-77}}。 |
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==== マリ ==== |
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* [[アマドゥ・ハンパテ・バー]] |
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東部アフリカでは、1948年に[[イギリス領東アフリカ]]で東アフリカ文学局が設立されてスワヒリ語の育成を行った。近代スワヒリ文学の祖といわれる詩人の{{仮リンク|シャアバン・ビン・ロバート|en|Shaaban bin Robert}}は、東アフリカ文学局につとめた植民地官吏でもあった。一貫してスワヒリ語で創作をしたシャアバンの姿勢は、後の世代の作家に影響を与えた{{sfn|竹村|1993|pp=50-58}}。 |
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==== 南アフリカ ==== |
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{{main|{{仮リンク|南アフリカ文学|en|South African literature}}}} |
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* [[オリーヴ・シュライナー]]([[1855年]]-[[1920年]]) |
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* [[アラン・ペイトン]]([[1903年]]-[[1988年]]) |
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* [[ハリー・ブルーム]]([[1913年]]-[[1981年]]) |
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* [[エゼキエル・ムパシェーレ]]([[1919年]]-) |
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* [[ピーター・エイブラハムズ]]([[1919年]]-) |
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* [[ナディン・ゴーディマー]] ([[1923年]]-)1991年ノーベル賞 |
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* [[アレックス・ラ・グーマ]]([[1925年]]-[[1985年]]) |
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* [[ダン・ジェイコブソン]]([[1929年]]-) |
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* [[ジェイムズ・マシューズ]]([[1929年]]-) |
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* [[マジシ・クネーネ]]([[1930年]]-) |
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* [[リチャード・リーヴ]]([[1931年]]-[[1989年]]) |
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* [[アソル・フガード]]([[1932年]]-) |
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* [[アンドレ・プリンク]]([[1935年]]-) |
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* [[ジョン・クッツェー|J. M. クッツェー]]([[1940年]]-) 2003年ノーベル賞 |
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* [[オズワルド・ムチャーリ]]([[1940年]]-) |
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* [[モンガーン・セローテ]]([[1944年]]-) |
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* [[ジャブロ・ンデベレ]]([[1948年]]-) |
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* [[グシナ・ムショーペ]] |
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* [[ロレッタ ゴッボ]] |
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* [[マイク・ニコル]] |
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* [[ミリアム・トラーディ]] |
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* [[ティム・ジェンキン]] |
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* [[エレン・クズワヨ]] |
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* [[シンディウェ・マゴナ]] |
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* ゾーイ・ウィカム(1948年-) |
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=== 1950年代 === |
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[[File:Chinua Achebe - Buffalo 25Sep2008 crop.jpg|thumb|180px|『崩れゆく絆』(1958年)の著者、チヌア・アチェべ]] |
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{{main|モザンビーク文学}} |
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1950年代以降、アフリカでは[[脱植民地化]]と独立が相次いだ{{efn|サブサハラで最も早く独立したのはガーナで、指導者は[[パンアフリカニズム]]を主張した[[クワメ・ンクルマ]]だった。ンクルマは{{仮リンク|全アフリカ人民会議|en|All-African Peoples' Conference}}(1958年)を開催し、結束を呼びかけた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5550-5568/8297}}。}}。この時期には、植民地支配のさまざまな面を非難するとともに、アフリカの伝統に注目した作品が多数書かれた{{sfn|マバンク|2022|pp=47-48}}。カメルーンの{{仮リンク|モンゴ・ベティ|fr|Mongo Beti}}は「ブラック・アフリカ、薔薇色の文学」という論文を発表し、アフリカの作家に対して植民地政府に対する[[アンガージュマン]]を呼びかけた{{sfn|マバンク|2022|p=47}}。また、旧宗主国の言語ではなくアフリカの言語を使って創作をするという運動が1950年代から始まった{{sfn|砂野|2021|p=3}}。 |
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* [[ジョアン・ディアス]] - 『ゴディド』(1952) |
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* [[ルイス・ベルナルド・ホンワナ]]([[1942年]]-) - 『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』(1964) |
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* [[ミア・コウト]]([[1955年]]-) -『{{仮リンク|夢遊の大地|pt|Terra Sonâmbula|en|Sleepwalking Land}}』(1992) |
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* [[ウングラニ・バ・カ・コーサ]]([[1957年]]-) - 『ウアララピ』(1987) |
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北部アフリカでは、1950年代前半から独立が進んだ{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5571-5576/8297}}。フランス語マグレブ作家が活発になり、アルジェリアでは[[ムールード・フェラウン]]の『貧者の息子』(1950年)をきっかけとして、[[ムハンマド・ディブ]]や[[カテブ・ヤシーン]]らが続いた。1954年には解放闘争である[[アルジェリア戦争]]が始まり、この時期に作品を発表した作家たちは54年世代とも呼ばれた{{efn|この時期の作品にはヤシーンの戯曲「包囲された屍体」、モロッコの{{仮リンク|ドリス・シュライビ|fr|Driss Chraïbi}}の『単純過去』、チュニジアの[[アルベール・メンミ]]の『塩の柱』などがある{{sfn|鵜戸|2007|p=37}}。}}{{sfn|鵜戸|2007|p=37}}。ヤシーンは、{{仮リンク|マダガスカル蜂起|fr|Insurrection malgache de 1947}}を主題とした「さまよえる民」(1950年)という詩でマダガスカル人に連帯を表明し、アルジェリア戦争中には小説『ネジュマ』(1954年)を発表した{{sfn|鵜戸|2007|pp=38-40, 50-51}}。 |
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==== モロッコ ==== |
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{{main|{{仮リンク|モロッコ文学|en|Moroccan literature}}}} |
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* [[ターハル・ベン=ジェルーン]]([[1944年]]-) |
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* [[ライラー・アブーゼイド]]([[1950年]]-) |
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西部アフリカでは、コートジボワールの[[ベルナール・ダディエ]]が『クランビエ』(1956年)でフランス語がもたらす[[文化変容]]の問題を扱った。カメルーンの{{仮リンク|フェルディナン・オヨノ|fr|Ferdinand Oyono}}は『{{仮リンク|老いぼれニグロとメダル|fr|Le Vieux Nègre et la médaille}}』(1956年)でアフリカ人がフランス軍の兵士として動員される不条理を描いた{{sfn|マバンク|2022|pp=45-47}}。ナイジェリアの[[チヌア・アチェベ]]は『{{仮リンク|崩れゆく絆 (小説)|en|Things Fall Apart|label=崩れゆく絆}}』(1958年)で[[イボ人]]の伝統的社会が植民地支配で崩壊する様子を描き、世界的に注目されて40以上の言語に翻訳された{{efn|『崩れゆく絆』という書名は[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]の詩「再臨」(1920年)の一節からとられている{{sfn|神田|2017|pp=189-190}}。1988年までに300万部が売れ、アフリカ全土の中・高校生の英語クラスや大学の文学コースで必読書となった{{Sfn|宮本|1989|pp=161-162}}。}}{{sfn|神田|2017|pp=189-190}}。 |
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==== ルワンダ ==== |
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* {{仮リンク|マリー・ビアトリス・ウムテシ|fr|Marie Béatrice Umutesi}}(1959年 - ベルギー亡命) |
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* [[スコラスティック・ムカソンガ]](1956年 - フランス亡命) |
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南部アフリカでは、南アフリカ連邦の都市部で人種の分断が進み、黒人居住区について書かれるようになった{{sfn|福島|1999|pp=122-123}}。1950年には黒人文芸誌『{{仮リンク|ドラム (雑誌)|en|Drum (South African magazine)|label=ドラム}}』が創刊されて作家デビューの場となった{{efn|『ドラム』でデビューした作家は、{{仮リンク|アレックス・ラ・グーマ|en|Alex La Guma}}、{{仮リンク|エゼキエル・ムパシェーレ|en|Es'kia Mphahlele}}、[[ルイス・ンコシ]]など多数いる{{sfn|楠瀬|2001|pp=41-42}}。}}{{sfn|楠瀬|2001|pp=41-42}}。 |
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== アフリカ文学の[[翻訳]]者 == |
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=== 1960年代 === |
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[[File:Dennis Brutus (1967).jpg|thumb|180px|南アフリカ共和国の成立によって多くの作家が亡命をした。その1人であるデニス・ブルータス。]] |
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「アフリカの年」と呼ばれる1960年には17カ国が独立し、サブサハラのフランス領は全て独立国となった。イギリス領は地域によって時期や形態が異なり、最も遅かったのはポルトガル領だった{{efn|ポルトガル領の独立が遅れた要因としては、(1) 本国でも軍事支配を行い、植民地解放の世論を抑圧した。(2) イギリスやアメリカがポルトガルを支持した。(3) ポルトガル農村の貧困化によって植民地への移民が急増し、移民は植民地支配を支持した{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=4079-4090/8297}}。}}。またベルギー領の独立をめぐっては[[コンゴ動乱]]が起きた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5598-5616/8297}}。この時期には作家の方法論が大きく分かれていった。1つは文学の役割を植民地支配からの解放とする方法があり、もう1つは自分の芸術に応じてテーマを決める方法だった。方法論をめぐっては作家の間で論争も起きた{{sfn|マバンク|2022|pp=48-49}}。 |
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西部アフリカでは、セネガルの[[センベーヌ・ウスマン]]が『{{仮リンク|神の森の木々|en|God's Bits of Wood}}』(1960年)で、民衆に支持された1947年のセネガルの鉄道員ストライキを題材として労働者の権利と植民地統治の誤りを描いた{{efn|世界大戦中にアフリカの都市化と都市労働者の増加が進み、労働組合も結成された。これに対して植民地宗主国は、労働者の運動を妨害した{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=5495/8297}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=45-47}}。ネグリチュードの主導者の1人だったサンゴールは、1960年にセネガルの初代大統領となった{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3838-3844/8297}}。 |
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東部アフリカでは、独立したタンザニアがスワヒリ語を公用語としたことで、それまで各民族が創作していたスワヒリ語作品が国民文学として扱われるようになった。[[ユーフレイズ・ケジラハビ]]は、スワヒリ語で初めて自由詩や実験的小説を発表した{{efn|同時期の作家として{{仮リンク|マティアス・ムニャンパラレ|en|Mathias E. Mnyampala}}、ムギャブゾ・ムロコジ(mugyabuso mulokozi)らがいる{{sfn|小野田|2020|p=3}}。}}{{sfn|小野田|2020|p=3}}{{sfn|小野田|2019|p=281}}。{{仮リンク|ムハンマド・サイド・アブドゥラ|en|Muhammed Said Abdulla}}はスワヒリ語最初の探偵小説『祖先の霊場』(1960年)をはじめ中短編小説を多数発表した{{sfn|宮本|2014|p=714}}。 |
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南部アフリカでは、1960年の[[シャープビル虐殺事件]]をきっかけとして南アフリカの言論・表現の自由はさらに抑圧され、1961年に[[南アフリカ共和国]]が成立して[[アパルトヘイト]]政策が続いた{{sfn|楠瀬|2001|pp=41-42}}。マダガスカルでは流刑にされた{{仮リンク|ジャック・ラベマナンザーラ|en|Jacques Rabemananjara}}が獄中で創作を続けて戯曲で支持を得て、独立後の[[フィリベール・ツィラナナ]]政権で閣僚となった{{efn|マダガスカルでは1947年に自治権を求める反乱が起き、8万人から10万人がフランス軍によって虐殺された{{sfn|伊川|2000|p=76}}。}}{{sfn|伊川|2000|p=72}}。 |
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=== 1970年代 === |
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アフリカ諸国の政治的な独立が進んだものの、経済的な自立は困難だった。植民地時代の経済が宗主国の利益のために制度化されていたため、独立後の経済開発が難航した{{efn|農産物や鉱物は旧宗主国への輸出にあてられており、独立後も外貨を獲得するために旧宗主国に依存した。インフラストラクチャーは旧宗主国の利益に合わせて建設されていた。手工業は宗主国の製品を買わせるために抑制され、工業が発展していなかった。こうして財源確保や食料自給が難航した{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5652-5696/8297}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5652-5696/8297}}。加えて政変が起きた国が多く、経済政策の一貫性が保てなかった。経済政策を強力に推進するための一党制が変質し、汚職を招くという弊害も起きた{{efn|軍事と文民由来のものを合わせると1988年までに31カ国でクーデターが起きた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=5722/8297}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5709-5715/8297}}。 |
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この状況で、1950年代から1960年代に活動した作家たちの発表は少なくなり、次の世代の作家がアフリカ人社会の中での個人・民衆のアイデンティティや、社会秩序を模索した{{Sfn|宮本|1989|pp=90-91}}。独立後の問題を題材にした作品も発表された。指導者や中産階級の繁栄の陰で、その他の大衆が犠牲になる状況を憂う作家が増えた{{sfn|宮本|2014|p=467}}。アフリカの独立が期待とは異なり、白人植民者が黒人独裁者に取って代わった時の失望が書かれ、アフロ・ペシミズムとも呼ばれた{{sfn|マバンク|2022|pp=49-50}}。 |
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[[File:Nawal El Saadawi 02.JPG|thumb|180px|ナワル・エル・サーダウィー]] |
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1970年代以降には女性の作家による作品が増えていった([[#ジェンダー|後述]]){{sfn|マバンク|2022|pp=51-52}}。[[ベッシー・ヘッド]]は南アフリカのアパルトヘイトから逃れてボツワナへ移住し、精神をわずらって入退院を繰り返しながら作品を書き続けた{{sfn|大池|1999|p=131}}。[[ナワル・エル・サーダウィー]]は、『女性と性』(1972年)でアラブ圏の小説として初めて[[女性器切除]]の習慣を公然と批判した{{sfn|サーダウィー|1996|pp=183-184}}。マリの{{仮リンク|アワ・ケイタ|fr|Aoua Keïta}}は『アフリカの女』(1978年)で助産婦や活動家としての人生を描いた{{sfn|マバンク|2022|pp=51-52}}。 |
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西部アフリカでは、独立後の問題に目を向けた作品が多数書かれた。[[コートジボワール]]の[[アマドゥ・クルマ]]『独立の偉大な太陽たち』(1968年)、ギニアの{{仮リンク|アリウム・ファントゥレ|fr|Alioum Fantouré}}『熱帯園』(1972年)、[[カメルーン]]のモンゴ・ベティ『カメルーン強奪』(1972年)、[[コンゴ共和国]]の[[ソニー・ラブ・タンシ]]『{{仮リンク|一つ半の生命|fr|La Vie et demie}}』(1979年)などの作品がこれにあたる{{sfn|佐久間|2018|p=1}}{{sfn|マバンク|2022|pp=49-50}}。セネガルの{{仮リンク|アミナタ・ソ・ファル|fr|Aminata Sow Fall}}は『乞食のストライキ』(1979年)で国家の発展の邪魔者とされた乞食たちがストライキをするという物語で社会批判をした{{sfn|村田|2018|p=75}}。 |
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北部アフリカでは、移民がフランスで社会問題となった影響で、マグレブ移民についての作品が増えた。アルジェリアの{{仮リンク|ラシッド・ブージェドラ|fr|Rachid Boudjedra}}の『典型的襲撃に理想的なトポグラフィー』(1975年)やムハンマド・ディブの『ハベル』(1977年)、モロッコの[[ターハル・ベン・ジェルーン]]の『孤独な禁固重労働』(1976年)などがある{{sfn|石川|2017|pp=18-19}}。フランス語で執筆するマグレブの作家たちの作品は、{{仮リンク|フランス語マグレブ文学|fr|Littérature maghrébine francophone}}と呼ばれるようになった{{sfn|鵜戸|2007|pp=36-37}}。アルジェリアではアラビア語文学が70年代から80年代にかけて活発になり、{{仮リンク|アブデルハミード・ベンハッドゥーガ|fr|Abdelhamid Benhedouga}}と{{仮リンク|ターハル・ワッタール|fr|Tahar Ouettar}}の2人が現代アルジェリアのアラビア語文学の先駆者とされる{{efn|ベンハッドゥーガはアルジェリア初のアラビア語長編小説『南風』(1971年)を発表し、ワッタールは実験的な手法の『地震』(1974年)をベイルートで出版した{{Sfn|鵜戸|2011|p=25}}。}}。古典文学を学ぶだけでは現代的な小説を書くことは困難であり、2人ともチュニジアの{{仮リンク|ザイトゥーナ大学|en|University of Ez-Zitouna}}で教育を受けた際に、レバノンやエジプトのアラビア語小説に接した{{Sfn|鵜戸|2011|pp=25-26}}。 |
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[[File:Ngũgĩ wa Thiong'o 2019 (48139052733).jpg|thumb|180px|1970年代にウォロフ語で創作を始めたグギ・ワ・ジオンゴ]] |
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東部アフリカでは、ケニアの{{仮リンク|メジャ・ムアンギ|en|Meja Mwangi}}が『{{仮リンク|早く俺を殺してくれ|en|Kill Me Quick}}』(1973年)をはじめとする数作で[[ナイロビ]]のスラム街と都市労働者の生活を描いた{{efn|原題の『Kill Me Quick』は、アルコール度数の高い密造酒{{仮リンク|チャンガー|en|Changaa}}の別名を表している{{Sfn|宮本|1989|p=157}}。}}{{Sfn|宮本|1989|pp=91, 156-157}}。[[グギ・ワ・ジオンゴ]]は長編小説第2作『{{仮リンク|血の花弁|en|Petals of Blood}}』(1977年)で独立ケニアの利権争いや汚職などを取り上げつつ、[[ギクユ語]]の戯曲を発表して民族語文芸の運動も進めた{{Sfn|宮本|1989|p=92}}。{{仮リンク|サイド・アフメド・モハメド|de|Said Ahmed Mohamed}}は小説、戯曲、詩集などを手がけ、最も精力的なスワヒリ語作家となった{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=77}}。 |
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南部アフリカでは、南アフリカの検閲強化によって小説の発表が減り、若い作家を中心に詩作が増えた。アパルトヘイトの状況を直接に描写する小説よりも、象徴的に表現しやすい詩が選ばれるようになった。{{仮リンク|オズワルド・ムチャーリ|fr|Oswald Mbuyiseni Mtshali}}の詩集『牛皮のドラムのひびき』(1971年)は黒人の尊厳を唄いあげて若者に影響を与え、[[ソウェト蜂起]]などのエネルギーの源となった{{efn|ムチャーリは、抵抗運動活動家の[[スティーブ・ビコ]]と親交があり、ビコの殺害後に『ビコ』という演劇を上演した{{sfn|土屋|1994|pp=156-157}}。}}{{sfn|土屋|1994|pp=152-154}}。1978年に反アパルトヘイトの雑誌『{{仮リンク|スタッフライダー|en|Staffrider}}』が創刊され、抑圧に抵抗する作家や芸術家の活動の場としてアパルトヘイト廃止後の1996年まで続いた{{efn|誌名の由来はスラングで、電車の屋根や外にしがみついて通勤する人々を指す。白人居住地区に住めない{{仮リンク|クリップタウン|en|Kliptown}}の若者が多かった<ref name=HEAPS20200107 />。}}。『スタッフライダー』には編集部が存在せず、誌面は寄稿者主導だった。有名作家と新人作家の作品が並び、一般の投稿作品も掲載された<ref name=HEAPS20200107>{{Cite news|url=https://www.dommune.com/reserve/2013/1106/ |title=文化表現の自由を掴みに走った雑誌『Staffrider』。南ア・アパルトヘイト政権下のクリエイター、アンダーグラウンドの共闘 |last= |first= |date=2020-01-07 |work=HEAPS Magazine |access-date=2022-08-08 |language= |issn=}}</ref>。 |
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=== 1980年代 === |
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[[File:WoleSoyinka2015.jpg|thumb|180px|アフリカ人初のノーベル文学賞受賞者、ウォーレ・ショインカ]] |
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アフリカ大陸だけではなく、移民をはじめとしてアフリカから離れて暮らす人々についての作品が増えていった。加えて、移民が置かれた状況や不満、不正に注目する作家が増えた{{efn|カメルーンの{{仮リンク|カリクスト・ベヤラ|fr|Calixthe Beyala}}、セネガルの{{仮リンク|ファトゥ・ジョム|fr|Fatou Diome}}、コンゴ共和国の{{仮リンク|ダニエル・ビヤウラ|fr|Daniel Biyaoula}}らがいる{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。}}。 |
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1970年代以降はアフリカで内戦が増えた時代でもあり、植民地時代に地域や民族が分断された影響で対立が起きた{{efn|イギリスが[[間接統治]]をしていた地域では民族が分断されており、独立後にしばしば内戦の原因となった{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5588-5595/8297}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5588-5595/8297}}。こうした社会背景によって内戦についての作品が発表されるようになった([[#紛争|後述]]){{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。独立戦争についての作品も書かれ続け、アンゴラの[[ペペテラ]]は[[アンゴラ独立戦争]]で兵士として参加した体験をもとに『[[マヨンベ]]』(1980年)を発表した{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。 |
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1986年には、アフリカ人初の[[ノーベル文学賞]]としてナイジェリアのウォーレ・ショインカが受賞した。ショインカは諷刺に優れた劇作家で、新旧の文化の不整合や不合理を表現し、アフリカ劇とヨーロッパ演劇の融合を目指して演劇の普及にもつとめた{{sfn|宮本|1989|p=177}}。ショインカは受賞後の1987年に「私の受賞を大騒ぎする必要はない。アフリカにもノーベル賞のような賞を制定して、50年目か100年目かにヨーロッパ人に初めて与えれば、誰もが大騒ぎするだろうか」と語った。この発言には、ショインカの特徴である諷刺とともに、文化の多元主義をすすめる意図が込められていた{{sfn|宮本|1989|p=175}}。 |
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南部アフリカでは、1980年代から南アフリカの民主化運動が活発になり、政府は非常事態宣言を出した。{{仮リンク|ミリアム・トラーディ|en|Miriam Tlali}}はソウェト蜂起を題材にした『アマンドラ』(1980年)、{{仮リンク|ジャブロ・ンデベレ|en|Njabulo Ndebele}}は『愚者たち』(1983年)を発表した{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=85}}。タンザニアの{{仮リンク|ペニナ・ムハンド|en|Penina Muhando}}は社会・政治の混迷と腐敗を風刺する戯曲『臭いものに香水』(1984年)を発表した{{Sfn|宮本|1989|p=107}}。 |
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=== 1990年代 === |
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[[File:Maam Yunus JENG 2017.jpg|thumb|180px|初のウォロフ語小説を発表したマーム=ユヌス・ジェン]] |
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旧宗主国の言語ではなくアフリカの言語で創作をする活動が続けられ、出版もされた。西部アフリカでは、1980年代末からウォロフ語の詩集が出版された。初のウォロフ語小説として、セネガルの{{仮リンク|マーム=ユヌス・ジェン|wo|Maam Yunus Jeŋ}}が『アーウォ・ビ(第1夫人)』(1992年)を発表した{{efn|セク=アリウ・ンダオが1972年に発表した『ブール・ティレーン - メディナの王』は、もともとウォロフ語で書いていたが、出版できなかったためフランス語に書き直したという。執筆時期という点では、ンダオの作品が最初のウォロフ語小説になる{{sfn|砂野|2021|p=3}}。}}{{sfn|砂野|2021|p=1}}。識字教室の成果として、1995年にはNGOのTOSTANが編集したウォロフ語詩集『あふれ出る思い - 農村の女性たちの詩』が発行された{{sfn|砂野|2017|p=21}}。この詩集には、それまでは語られてこなかった農村女性の感情や価値観が当人たちによって表現されている{{efn|このプロジェクトには、音楽家のチェールノ=セイドゥ・サルが農村女性と行ったワークショップも影響を与えた{{sfn|砂野|2017|p=39}}。}}{{sfn|砂野|2017|p=39}}。 |
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北部アフリカでは、1991年から10万人以上の死者を出す[[アルジェリア内戦]]が起き、アルジェリア作家によるフランス語作品が多数フランスで出版された{{sfn|武内|2000|pp=41-42}}。フランス語で執筆する作家の中には、フランスへの移住を選ぶ者もいた{{efn|また、マグレブからフランスへの移民の2世たちによる作品は、ブール文学とも呼ばれている。ブール(beur)とはアラブ(arabe)を逆さにした隠語で、当初はマグレブ移民に対する蔑称だったものをあえて自称に使うようになった{{sfn|石川|2017|pp=20-21}}。}}{{sfn|石川|2017|pp=20-21}}。ジャーナリスト・作家の{{仮リンク|ターハル・ジャウート|fr|Tahar Djaout}}が暗殺される事件が起きるなどテロによる民間人の犠牲が増え、[[ブアレム・サンサル]]や[[ヤスミナ・カドラ]]はテロをテーマに執筆した。また、アルジェリア女性作家として初の長編小説となった{{仮リンク|アフラーム・モスタガーネミー|fr|Ahlam Mosteghanemi}}の『肉体の記憶』(1993年)はベストセラーとなった{{sfn|鵜戸|2011|pp=32-33}}。 |
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南部アフリカでは、1991年にアパルトヘイト政策の廃止が宣言され、1994年の総選挙後には亡命していた作家たちが帰国して教育や政治面で国づくりに参加した。ジャブロ・ンデベレはノース大学の学長、アメリカでアフリカ文学を教えていた詩人の{{仮リンク|ブレロ・ムザマネ|en|Mbulelo Mzamane}}は[[フォートヘア大学]]の学長、アメリカで教鞭をとっていたズールー民族詩人{{sfn|竹内|1991}}の{{仮リンク|マジシ・クネーネ|en|Mazisi Kunene}}はナタール大学の教授になった{{sfn|楠瀬|2001|p=381}}。 |
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1990年代にはアルジェリア、ソマリア、リベリア、ケニアなどで紛争が起き、中でもルワンダとブルンジの状況が激しかった{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=6422-/8297}}。1994年に起きた[[ルワンダ虐殺]]はアフリカの作家に大きな影響を与え、文学プロジェクト「ルワンダ、記憶する義務によって書く」が企画され、約10人の作家が参加した([[#紛争|後述]]){{sfn|村田|2018|p=77}}{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。 |
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都市化にともなって民族間の結婚が増え、西部や東部アフリカで混淆文化を形成した{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=6553-6565/8297}}。この影響で、新しい家族観にもとづく作品が書かれるようになった([[#家族|後述]]){{Sfn|土屋|1994|pp=209-211}}。また、移民についての作品も増え続けた。セネガルの{{仮リンク|ケン・ブグル|fr|Ken Bugul}}の『リワン、あるいは砂の道』(1999年)には、ヨーロッパに滞在したのちに故国に帰って伝統的な生活を選ぶ語り手が登場する{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。 |
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アフリカ文学史の全体をまとめた研究書として、『Story of Twentieth-Century African Literature』(1993年)が出版された。1章から5章が英語圏アフリカ文学、6章から8章がフランス語圏アフリカ文学、9章がポルトガル語圏アフリカ文学、10章がアフリカ諸語文学、11章が女性作家、12章が言語の問題、13章がアフリカの出版という構成になっている{{sfn|大池|1999|p=118}}。 |
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=== 2000年代以降 === |
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[[File:Congreso Futuro 2020 - Chimamanda Ngozi Adichie 01.jpg |thumb|180px|チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ]] |
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アフリカから世界各地に住む移民や難民についての作品が増え続けている。故郷から離れた者の孤独、伝統文化と異国で身につけた文化の選択、新たな不正などが題材となった。出身地のアフリカよりも各地の移民が置かれた状況に眼を向ける作家が増えており、ネグリチュードと移住を合わせた「ミグリチュード」という造語も現れた{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。この世代の作家として、スーダンの{{仮リンク|レイラ・アブルエラー|en|Leila Aboulela}}{{sfn|アブルエラー|2009|p=106}}、コンゴ共和国の{{仮リンク|アラン・マバンク|fr|Alain Mabanckou}}、トーゴの{{仮リンク|コシ・エフゥイ|fr|Kossi Efoui}}、ガボン人とスイス人が両親の{{仮リンク|ベソラ|fr|Bessora}}、ジブチの{{仮リンク|アブドラマン・ワベリ|fr|Abdourahman Waberi}}、ナイジェリアの[[ベン・オクリ]]や[[チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ]]、ジンバブエの{{仮リンク|ノヴァイオレット・ブラワヨ|en|NoViolet Bulawayo}} {{要出典|date=2022年9月}}らがいる。アフリカと欧米を往来する生活を送る作家も多い{{sfn|マバンク|2022|pp=54-55}}。アフリカ研究が各国で行われるようになり、欧米でアフリカ文学を教えるアフリカ人作家も増えた{{efn|国外の大学で教えた作家の例として、チヌア・アチェベ(マサチューセッツ大学)、アシア・ジェバール(ニューヨーク大学)、アシル・ムブンベ(カリフォルニア大学アーヴァイン校等)、スレイマン・バシル・ジャーニュ(コロンビア大学)、エレケ・ベーマー(オクスフォード大学)、アラン・マバンク(コレージュ・ド・フランス)らがいる{{sfn|阿久津|2010|p=337}}{{sfn|早川|2012|p=19}}{{sfn|マバンク|2022|pp=2-3}}。}}{{sfn|マバンク|2022|p=3}}。 |
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アフリカにとって[[奴隷貿易]]は重要な史実であるが、文芸においては半ばタブー視されていた。奴隷貿易を行ったのはヨーロッパ人だけでなくアフリカ人にもいたため、いまだにデリケートな問題になっている{{efn|奴隷貿易で繁栄した国として[[ダホメ王国]]、[[ベニン王国]]、[[アシャンティ王国]]、[[フータ・ジャロン・イマーム国]]などがある{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3079, 3099-3105/8297}}。奴隷貿易をしていた首長の日記(1785年-88年)には当時の信用取引の実態が記録されている{{sfn|島田|2017|pp=47-48}}。他方で、ダホメの{{仮リンク|アガジャ|en|Agaja}}やコンゴの[[ンジンガ・ムベンバ]]など奴隷貿易に反対する国王もいた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3079, 3099-3105/8297}}。}}{{sfn|元木|2015|pp=33, 47}}。トーゴの{{仮リンク|カンニ・アレン|fr|Kangni Alem}}は『奴隷たち』(2009年)で[[ダホメ王国]]の奴隷貿易を描いた。カメルーンの{{仮リンク|レオノーラ・ミアノ|fr|Léonora Miano}}は『{{仮リンク|影の季節|fr|La Saison de l'ombre}}』(2013年)で、奴隷貿易による荒廃が進む前の時代における奴隷狩りを描いた{{sfn|元木|2015|pp=33, 37}}。 |
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2011年から[[アラブの春]]と呼ばれる民衆運動と政変が起きた。発端となったのはチュニジアの[[ジャスミン革命]]であり、現地のデモでは{{仮リンク|アブー・アル=カースィム・アッ=シャーッビー|fr|Abou el Kacem Chebbi}}の詩の一節が歌われた。エジプトのデモでは、アーンミーヤ詩人の{{仮リンク|アブドッラフマーン・アブヌーディ|en|Abdel Rahman el-Abnudi}}が『広場』と題する100行以上の詩を朗読し、[[タハリール広場]]のデモ参加者に連帯するとともにホスニー・ムバーラク大統領の辞任を呼びかけた{{efn|『広場』には次のような詩句があった。「真偽を選り分ける エジプトの褐色の手たちが/雄叫びの中で掲げられ 枠を打ち壊す/群衆の声の輝き 陽光に照らされたエジプトを見よ/立ち去る時が来たのだ 老いぼれどもの国よ」{{sfn|山本|2013|p=}}。}}。アラビア語の詩は、イスラーム前の時代から社会の価値観に形を与える役割を持っており、民衆運動と詩の連動はアラビア語詩の伝統に連なるといわれる{{efn|同様に、アラビア語詩の特徴はラップにも影響を与えている。ラップは抵抗の重要な手段となり、チュニジアの{{仮リンク|エル・ジェネラル|en|El Général}}や、エジプトのラーミー・ドンジュアン(Ramy Donjewan)などのラッパーがYouTubeに発表した曲は反政府メッセージの象徴となった{{sfn|山本|2013|p=}}。}}{{sfn|山本|2013|p=}}。 |
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南アフリカでは、アパルトヘイト時代の埋もれた歴史を掘り起こす作品が書かれた。他方で、歴史にとらわれずに創作をする世代の作家たちも輩出されている{{efn|フレッド・クマロ(Fred Khumalo)、{{仮リンク|ズキスワ・ワナー|en|Zukiswa Wanner}}、{{仮リンク|コパノ・マツルワ|en|Kopano Matlwa}}らがいる{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=87}}。}}{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=87}}。 |
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== 言語 == |
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{{see also|アフリカの言語|アフリカの地理}} |
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アフリカの言語は2011年時点で2000以上があるとされ、世界で話されている言語の30%以上になる{{sfn|米田ほか|2011|p=43}}。アフリカでの言語の使用は重層的で、1地域内に複数の言語があり、1人が複数の言語を使う場合が多い{{efn|たとえばエチオピアでは[[ウォライタ語]]などの地域ごとの言語と公用語の[[アムハラ語]]が使われる{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。西部アフリカで教育のある人物は、出身の村や町の言語、いくつかの村や町で共通している言語、国の公用語の3言語を使い分ける{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|p=46}}。元から存在する多数の言語に加えて、植民地時代に宗主国の言語である英語、フランス語、ポルトガル語などが公用語となった。言語による支配と被支配の関係が明らかだったため、創作でどの言語を選ぶかが、政治的な態度表明と見なされやすい。これは作者が創作する時だけでなく、読者にとっても重要となる{{efn|1つの社会で、2つの言語の間に社会的機能文化があり、優劣や価値の高低と連動している状況を[[ダイグロシア]]という{{sfn|米田ほか|2011|p=43}}。}}{{sfn|神田|2017|p=188}}。文字として書式が確立されていない言語もある{{sfn|米田ほか|2011|pp=54-55}}。 |
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各地域によって、主に次のような言語が使われている。 |
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* [[北部アフリカ]]:[[ベルベル諸語]]、[[セム諸語]]、[[クシ諸語]]、[[オモ諸語]]、[[ナイル・サハラ語族|ナイル・サハラ諸語]]、アラビア語{{efn|エジプト、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=44}}。}}、[[フランス語]]{{efn|モロッコ、アルジェリア、チュニジアで使われる{{sfn|米田ほか|2011|p=44}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|p=44}}。 |
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* [[西部アフリカ]]:[[チャド諸語]](最多は[[ハウサ語]])、[[マンデ諸語]]、[[フルフルデ語]]、[[ヨルバ語]]、アラビア語、フランス語{{efn|セネガル、ギニア、コートジボワール、トーゴ、ベナン、マリ、ニジェール、チャド、カメルーン等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。}}、[[英語]]{{efn|シエラレオネ、リベリア、ガーナ、ナイジェリア等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。}}、[[ポルトガル語]]{{efn|ギニアビサウ、カーボヴェルデ等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|pp=47-49}}。 |
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* [[東部アフリカ]]:[[バントゥ諸語]](最多は[[スワヒリ語]])、[[ナイル諸語]]、[[クシ諸語]]、[[コイサン諸語]]、フランス語{{efn|コンゴ共和国、ルワンダ、ブルンジ等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=51}}。}}、英語{{efn|ケニア、ウガンダ、タンザニア、ルワンダ等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=51}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|pp=49-50}}。 |
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* [[南部アフリカ]]:バントゥ諸語(最多は[[ショナ語]]、[[ズールー語]])、コイサン諸語、[[アフリカーンス語]]、ポルトガル語{{efn|モザンビーク、アンゴラの公用語{{sfn|米田ほか|2011|pp=53-54}}。}}、英語{{efn|ボツワナ、ナミビア、ジンバブエ、南アフリカ等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|pp=53-54}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|pp=51-54}}。 |
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=== 口語 === |
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[[File:Diffa Niger Griot DSC 0177.jpg|thumb|200px|ニジェールの[[ディファ]]でパフォーマンスをするグリオ。{{仮リンク|ハラム (楽器)|en|Xalam|label=ハラム}}と呼ばれる弦楽器の一種を使っている。]] |
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[[口承文芸]]は、肉声で演じられ人々に聴かれることで伝えられる。アフリカの口承文芸は、言葉だけでなく演じる場所、身体や音楽の表現、演者と聴者などが合わさって成立する{{sfn|江口|1985|p=71-72}}。全ての年齢層にわたって演じられ、コミュニティの構成員全員が参加することで、生活の知恵や生活の指針などを伝え、コミュニティの維持に役立てている{{Sfn|赤岩|2003|pp=2-3}}{{sfn|西江|2009|pp=296-297}}。 |
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職業的に口承文芸を演じる者がアフリカ各地におり、物語や音楽を伝える吟遊詩人として、西部アフリカの[[グリオ]]や、エチオピアの{{仮リンク|アズマリ|en|Azmari}}、ラリべロッチ(Lalibalocc)などが知られる{{Sfn|川瀬|2016|pp=40-41}}。スワヒリ詩の口承文芸で最も人気があるのは[[ターラブ]]という形式で、恋愛などの人間関係を歌う内容が多く、東部アフリカでポピュラー音楽として聴かれている{{Sfn|小野田|2016|p=13}}。 |
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口頭伝承の一種として、[[トーキング・ドラム]]やドラム・ランゲージと呼ばれる太鼓を使った言語がある。[[モシ人]]には王朝の系譜をトーキング・ドラムで語る楽師がおり、ベンドレと呼ばれる太鼓を使う{{sfn|川田|2000|p=69}}。[[モンゴ人]]を中心とする熱帯林地域の人々は、長距離伝達用の太鼓を使う{{sfn|梶|2012|pp=21-22}}。モンゴ人の伝達用太鼓の言葉は韻文として表現され、太鼓文学とも呼べる内容を持っている{{sfn|梶|2012|pp=25-26}}。 |
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かつて口承文芸は個々の集団で演じられていたが、アフリカ各地が独立国になってからは、国民全体で共有する国家の文化遺産とされた。こうして口承文芸は言語面だけが取り出されて翻訳・印刷され、教育や教養として読まれている{{sfn|西江|2009|p=298}}。社会的機能が失われた作品は継承が困難になるため、語り手がいなくなる前に収集を進めている国立大学もある{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=77}}。 |
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口承文芸を調査・研究する作家もおり、ズールー語の創作と研究を行った{{仮リンク|マジシ・クネーネ|en|Mazisi Kunene}}{{Sfn|赤岩|2003|pp=2-4}}、サン人と生活した[[ローレンス・ヴァン・デル・ポスト]]{{Sfn|赤岩|2005|pp=17-18}}、マリの[[フルベ人]]である{{仮リンク|アマドゥ・ハンパテ・バー|fr|Amadou Hampâté Bâ}}らがいる。ハンパテ・バーは1960年のユネスコ大会で「アフリカでは、老人1人が死ぬとは、図書館1つが燃えてしまうことだ」と語った。この発言は、複数ある情報源の1つを守る必要があるという主旨だったが、文字に対する口承の優位を示していると誤解される場合がある{{sfn|マバンク|2022|pp=35-36}}。口承文芸を背景に持ちながら執筆した作家にはナイジェリアの[[エイモス・チュツオーラ]]がおり、小説『{{仮リンク|やし酒飲み (小説)|en|The Palm-Wine Drinkard|label=やし酒飲み}}』(1952年)は口承文芸的な内容ながら欧米でも支持された特異な作品にあたる{{Sfn|赤岩|2008|p=33}}。南部アフリカには{{仮リンク|イジボンゴ|en|Izibongo}}と呼ばれる口承文芸があり、作家に影響を与えている{{efn|イジボンゴの詩法や口承を取り入れた作家として、マラウィの{{仮リンク|ジャック・マパンジェ|en|Jack Mapanje}}、南アフリカの{{仮リンク|アルフレッド・テンバ・カブラ|en|Alfred Themba Qabula}}、ジンバブエの{{仮リンク|チェンジェライ・ホーヴェ|en|Chenjerai Hove}}らがいる{{Sfn|福島|1999|pp=68, 83, 157-158, 201}}。}}{{Sfn|福島|1999|pp=68, 83, 157-158, 201}}。 |
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=== 文語 === |
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[[File:Tinifagh intedeni.jpg|thumb|200px|マリに残る古代のティフィナグ文字]] |
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19世紀末までに使われていた伝統的な文字は、エジプト文字、コプト文字、アラビア文字とそこから派生した{{仮リンク|アジャミ文字|en|Ajami script}}、ベルベル人の[[ティフィナグ文字]]、エチオピアの[[ゲエズ文字]]、バムン人の[[バムン文字]]、リベリアの[[ヴァイ文字]]などだった{{Sfn|江口|1985|p=71}}。特にアラビア文字の文献が多い。 |
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植民地時代と比較すればアフリカ諸国の識字率は向上したとはいえ、いまだに言語の壁は厚い。どの言語で書くかという問題は1930年代から論じられており、ネグリチュード運動の詩人ダヴィッド・ジョップは、支配者側の言語を使うことで民衆から離れてしまう危険性を主張した{{sfn|中村|2018|p=66}}。アフリカの言語で創作をする運動は1950年代に始まり、歴史学者・人類学者の{{仮リンク|シェク=アンタ・ジョップ|fr|Cheikh Anta Diop}}は『黒人諸民族と文化』(1954年)でアフリカ言語の国語化を主張した{{sfn|砂野|2021|p=3}}。1962年にはウガンダの[[マケレレ大学]]で「英語表現アフリカ作家会議」が初めて開催され、1963年にはセネガルの[[ダカール]]で「フランス語表現のアフリカ人作家会議」が開催されたが、いずれの会議でも創作の言語について議論になった{{sfn|砂野|2021|pp=3-4}}。批評家オビ・ワリは「アフリカ文学の末路」(1963年)と題した文章で、真のアフリカの文学はアフリカの言語で書かれなければならないと論じて、多くのアフリカ人作家が反論した{{sfn|宮本|2014|p=471}}。文学に使う言語については論争が続いており、旧宗主国の言語で書く者を植民地イデオロギーの推進者だと見なして非難する意見もある{{sfn|村田|2010|pp=46-47}}。 |
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フランス語で創作したセネガルの[[センベーヌ・ウスマン]]は1960年にアフリカに帰国した際、欧州の言語で書いた作品が大衆に読まれず、映画館が盛況なのを見た。そこで大衆に語りかける方法として、1960年代から映画制作を始めた{{efn|映画への転換をはかったのちも小説の発表は続けた{{sfn|恒川|1985|pp=47-48}}。}}{{sfn|恒川|1985|p=47}}。ケニアのグギ・ワ・ジオンゴはヨーロッパの言語で書かれるアフリカ文学を批判し、母語であるギクユ語のみでの創作活動を行うことを宣言した{{sfn|宮本|2014|p=}}。グギはこれを「{{仮リンク|精神の非植民地化|en|Decolonising the Mind}}」(1986年)と呼んだ{{sfn|宮本|2014|p=}}。グギの姿勢はアフリカの知識人に影響を与え、アフリカ諸語による文学活動も、多くの困難を抱えながら実践されている{{sfn|砂野|1999|pp=226-227}}。 |
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複数の言語で執筆する作家もおり、ジンバブエの{{仮リンク|チャールズ・ムンゴシ|en|Charles Mungoshi}}は[[ショナ語]]と英語で執筆をする{{sfn|宮本|2014|p=714}}。ブルキナファソの{{仮リンク|ベルナテッド・ダオ|fr|Bernadette Sanou Dao}}はフランス語と[[ジュラ語]]で創作し、ジュラ語の教科書作成に参加した{{sfn|村田|2010|pp=46-47}}。自分の育った環境や感情を細かく表現するために、アフリカの言語と旧宗主国の言語を混ぜる作家も多い。[[アマドゥ・クルマ]]は『独立の太陽』において、出身である[[マリンケ族|マリンケ人]]の言い回しをフランス語に訳して使った。{{仮リンク|ナズィ・ボニ|fr|Nazi Boni}}は、『いにしえの時代の黄昏』で、母語{{仮リンク|ブワム語|fr|Bwamu}}の単語にハイフンでフランス語を結んだり、口頭伝承のニュアンスを作中に入れた{{sfn|村田|2010|pp=40-41}}。作品を通して語彙を増やす努力も行われている。サイド・アフメド・モハメドは造語も駆使しながらスワヒリ語の表現に幅を持たせて語彙を増やし、読者のイメージを喚起した{{efn|たとえば基本形の語に接頭辞を追加して意味に程度差をつけたり、類義語の意味領域を明確にするなど工夫をしている。こうした語彙はスワヒリ語辞書に収録されていないものが多い{{sfn|竹村|1991|pp=19-20}}。}}{{sfn|竹村|1991|pp=18-20, 30}}。 |
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== 作品とテーマ == |
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=== 伝承、伝統的価値観 === |
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口承文芸の内容には、詩歌、伝統的歴史、神話、信仰、伝説、叙事詩、諺・謎かけ・早口言葉のような短い決まり文句、冗談、民謡、労働歌、子守唄などがある{{sfn|ワンジャラ|1990|p=23}}{{sfn|江口|1985|pp=72-75}}。歴史的な事件が保存されている場合もあり、アフリカ文化協会とユネスコの2010年の調査によれば、[[ベナン]]で[[奴隷貿易]]の記憶が口頭伝承で共有されていることが明らかになった{{sfn|元木|2015|p=37}}。口頭伝承は年代が不明であり、西部アフリカの王の系譜は11世紀までさかのぼるという推論もあったが、研究方法の進展で15世紀より古い出来事は口頭伝承にはないという説もある{{sfn|川田|1992|pp=52-55}}。 |
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ヨルバ人の民話をもとにしたとされるチュツオーラの『やし酒飲み』は、アフリカの内外で相反する評価となった。欧米では「豊穣な原始的イメージ」や「欧米人からは失われた原始的想像力」などと形容されて好評だったが、アフリカでは「無教養な英語で書かれたヨルバ民話の盗作的作品」などの酷評を受けた{{sfn|宮本|1989|pp=115-116, 261-263}}。 |
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アフリカの伝統的な価値観として、トーテム、守護霊、分身などがあり、これらは現代の作品にも取り入れられている。ギニアの{{仮リンク|カマラ・ライエ|fr|Camara Laye}}の自伝的小説『{{仮リンク|アフリカの子|fr|L'Enfant noir}}』(1953年)では、主人公の父のトーテムである黒蛇が未来を知らせる。チヌア・アチェべの『崩れゆく絆』やアマドゥ・ハンパテ・バーの『{{仮リンク|ワングランの不思議|fr|L’Étrange Destin de Wangrin}}』(1973年)では、守護霊に逆らったりトーテムを殺した人物が運に見放される{{sfn|元木|2008|p=57}}。アラン・マバンクの『{{仮リンク|ヤマアラシの回想|fr|Mémoires de porc-épic}}』(2006年)は、人間の命令で殺人をするヤマアラシの分身が語り手となり、平和的な分身と害をなす分身の世界が描かれる{{sfn|元木|2008|pp=57-60}}。 |
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伝統的な価値観が作家に対する抑圧や攻撃となる場合がある。父権制度や女性器切除の慣習などを批判したナワル・エル・サーダウィは、1991年にイスラーム過激派の暗殺リストに加えられた{{sfn|竹村|1994|pp=46, 61}}<ref name=newsweek>{{cite web |url=https://www.newsweekjapan.jp/mobile/stories/world/2018/07/86-1_1.php |title=エジプトで自由を求め続ける86歳の女闘士 |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date=July 2018 |work=ニューズウィーク日本版 |publisher= |access-date=3 August 2022}}</ref>。1992年には{{仮リンク|ファラジ・フォダ|en|Farag Foda}}が[[イスラム集団|アル=ガマーア・アル=イスラーミーヤ]]に殺害された<ref name=Amnesty>{{cite web |url=https://www.amnesty.org/en/documents/mde12/022/1998/en/ |title=DOCUMENT - EGYPT: HUMAN RIGHTS ABUSES BY ARMED GROUPS |author=<!--Staff writer(s); no by-line.--> |date=September 1998 |work=amnesty.org |publisher=[[Amnesty International]] |access-date=3 August 2022}}</ref>。ナギーブ・マフフーズが宗教をテーマにした小説『{{仮リンク|我が町内の子供達|en|Children of Gebelawi}}』(1959年)は、[[アズハル大学]]の抗議によって発禁同然の扱いを受け、[[ウラマー]]に批判された。そしてウラマーの批判を知った青年が、1994年にマフフーズの殺害未遂事件を起こした。青年はマフフーズの著作を読んではいなかった{{sfn|八木|1995|pp=171-172}}。 |
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=== ジェンダー === |
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ネグリチュード運動における女性の活動は当時は目立たず、のちに評価が進んだ。『黒人世界評論』を刊行してネグリチュードに影響を与えたナルダル姉妹の他に、{{仮リンク|クリスティアーヌ・ヤンデ・ジョップ|fr|Christiane Yandé Diop}}、雑誌『{{仮リンク|トロピック (雑誌)|fr|Tropiques (revue)|label=トロピック}}』に寄稿していた[[シュザンヌ・セゼール]]らがいる{{efn|1956年の黒人作家芸術家会議には、グアドループ出身の歌手{{仮リンク|ムーヌ・ド・リヴェル|fr|Moune de Rivel}}やアメリカ出身でフランスに移住した歌手[[ジョセフィン・ベイカー]]が祝いのメッセージを贈った{{sfn|マバンク|2022|pp=81-82}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=82-85}}。 |
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サンゴールをはじめとするネグリチュードの男性作家による女性の表現は、母親としての女性とエロティックな女性がアフリカの大地や文化の源とされており、後年に批判されるようになった{{sfn|大池|1999|pp=114-115}}。アチェべの『崩れゆく絆』の女性は、民族や国家を担う男性を支える役割として比喩化されており、社会の一員や歴史の主体としての女性が登場しない。こうしたステレオタイプな描写は女性作家の作品によって変化していった{{sfn|大池|1999|pp=116-117}} |
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[[File:Awa Thiam.jpg|thumb|180px|アワ・チャム]] |
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1970年代以降に女性作家の作品が増えた{{sfn|マバンク|2022|pp=51-52}}。女性批評家による論文も増え、インガ・ショガ(Yinga Shoga)、ロゼアン・P・ベル(Roseann P. Bell)、[[マリーズ・コンデ]]らによって女性作家の作品が評価された{{sfn|大池|1999|p=118}}。1980年代後半にはアフリカ文学研究雑誌で女性作家の特集がなされ、ジェンダーの視点が注目されるようになった。アフリカ文学全体をジェンダーの視点から再検討した研究として、フローレンス・ストラトン(Florence Stratton)の『Contemporary African Literature and the Politics of Gender』(1994年)がある{{sfn|大池|1999|pp=120-121}}。 |
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==== 性差別、抑圧 ==== |
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ボツワナの[[ベッシー・ヘッド]]は、『力の問題』(1973年)でアパルトヘイトの人種差別、地元での民族差別、社会の女性差別によって精神を病む女性の内面に迫った。伝統的な共同体とのつながりが書かれない点でアフリカ文学の中で異質でありつつも、高く評価されている{{sfn|大池|1999|p=131}}。ベルナテッド・ダオの短編の多くは、女性たちを中心とする社会的弱者を主人公として、男性の前で意思表示や選択が許されない様子や、女性器切除、親が決めた強制的な結婚、夫の不実などが描かれている{{sfn|村田|2010|pp=46-47}}。ジンバブエの{{仮リンク|ツィツィ・ダンガレムバ|en|Tsitsi Dangarembga}}の『Nervous Conditions』(1988年)は少女の成長物語であり、植民地制度に精神をむしばまれる従姉を通して、家父長制や植民地主義の矛盾が明らかにされる{{efn|書名は、[[フランツ・ファノン]]の『地に呪われたるもの』に前書きを書いた[[サルトル]]の言葉から来ている{{sfn|大池|1999|p=128}}。}}{{sfn|大池|1999|p=128}}。ナイジェリアの{{仮リンク|ブチ・エメチェタ|en|Buchi Emecheta}}は、抑圧される女性を主人公にしつつ、独立後の近代的な都市で母親の社会参加が阻まれる様や、伝統的な家庭観と現代的な労働という二重の要求の苦境、移民のアイデンティティなどを描いた{{sfn|大池|1999|pp=129-130}}。 |
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==== 家族 ==== |
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[[File:Mariama.jpg|thumb|180px|マリアマ・バー]] |
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ガーナの[[アマ・アタ・アイドゥ]]は『Anowa』(1970年)で植民地化の歴史と夫婦の力関係を描いた。『Changes』(1991年)では主人公の離婚や再婚を軸としつつ、さまざまな社会階層・宗教・民族の結婚が登場し、一夫多妻への批判も含まれている{{sfn|大池|1999|pp=125-126}}。セネガルの{{仮リンク|アワ・チャム|fr|Awa Thiam}}は小説『{{仮リンク|言葉をニグロの女たちに|fr|La Parole aux négresses}}』(1978年)で[[一夫多妻制]]や女性器切除を批判した{{sfn|マバンク|2022|pp=51-52}}。セネガルの{{仮リンク|マリアマ・バー|fr|Mariama Ba}}は教師として働きつつ女性運動や教育運動にも関わり、51歳から作家活動を始めた。『かくも長き手紙』(1979年)は書簡体小説で、恋愛結婚のあとで2番目の妻をめとった夫の裏切り、仕事と育児、夫の死などが語られる。中産階級の女性の心情という形をとりつつ、伝統社会の社会階層、女性差別、母系制の家族意識などが織り込まれている{{sfn|大池|1999|p=127}}。[[ナワル・エル・サーダウィー]]の『0度の女』(1983年)は、強制結婚と[[ドメスティックバイオレンス|夫の暴力]]から逃れた女性の物語で、24ヵ国語以上に翻訳された<ref name=newsweek />{{sfn|サーダウィー|1996|pp=183-184}}。初のウォロフ語小説であるマーム=ユヌス・ジェンの『アーウォ・ビ(第1夫人)』(1992年)は、結婚して農村の大家族で暮らす女性の物語を通して、農村女性を励ます内容だった。バーの『かくも長き手紙』が都会の女性だったのに対して、ジェンはウォロフ語話者が多い農村女性に向けた作品を書いた{{sfn|砂野|2021|pp=12, 19-20}}。 |
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都市人口の急増と、就業形態の変化によって、都市では民族間の結婚が増え、これをテーマにした作品が書かれた。ナイジェリアの{{仮リンク|チュクウメカ・イケ|en|Chukwuemeka Ike}}の『探索』(1991年)は異民族間の結婚をナイジェリアの統一に象徴させている{{Sfn|土屋|1994|p=209}}。ケニアのムワンギ・ギチェル(Mwangi Gicheru)の『ミックスたち』(1991年)は植民地時代を舞台に白人と黒人の結婚と絆を描いた。ケニア出身でタンザニア育ちのインド系作家{{仮リンク|M・G・ヴァッサンジ|en|M. G. Vassanji}}は、短編集『ウルフ・ストリート』(1991年)で[[ダルエスサラーム]]のインド人街を舞台として、表題作ではアフリカ人とインド人が障害を乗り越えて結婚する{{Sfn|土屋|1994|p=210}}。 |
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==== 歴史 ==== |
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[[File:Assia Djebar.jpg|thumb|180px|アシア・ジェバール]] |
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アルジェリアの[[アシア・ジェバール]]は1830年の[[アルジェリア侵略]]から[[アルジェリア戦争]]による独立までを題材とした4部作(1985年-1995年)によって、女性の声で歴史を語りなおした。独立後の女性の状況や問題も語り、フェミニズムやポストコロニアルの視点からも高く評価されている{{sfn|大池|1999|p=129}}。アパルトヘイト廃止前の南アフリカでは解放闘争の内部でも性差別や民族間対立があり、{{仮リンク|ゾーイ・ウィカム|en|Zoë Wicomb}}は『デイヴィッドの物語』(2000年)でその問題を明示しない形で描いた<ref name=アフリカ日本協議会20180331>{{Cite news|url=https://ajf.gr.jp/africanow110-womensday/ |title=南アフリカ女性の日キャンペーンで駆け抜けた1年 |last=くぼた |first=のぞみ |date=2018-04-06 |work=アフリカ日本協議会 |access-date=2021-04-08 |language= |issn=}}</ref>。 |
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==== フェミニズム ==== |
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1986年に女性文学評論集『Ngambika』が出版され、アフリカ文学における[[フェミニズム]]について基本的な定義を行った。編者は{{仮リンク|キャロル・ボイス・デイヴィース|en|Carole Boyce Davies}}とアン・アダムズ・グレイヴス(Anne Adams Graves)で、アフリカの女性に含まれる2重の定義として「人種/民族」と「ジェンダー/セクシュアリティ」を枠づけている。この定義はその後のアフリカ女性研究や第3世界の女性研究においても議論の中心となった{{sfn|大池|1999|pp=119-120}}。フェミニストとして著名な作家として、前述の他には、{{仮リンク|カリクスト・ベヤラ|fr|Calixthe Beyala}}、{{仮リンク|ミシェレ・ギザエ・ムゴ|en|Micere Githae Mugo}}、{{仮リンク|ウェレウェレ・リキング|en|Werewere Liking}}らがあげられる{{sfn|宮本|2014|pp=682, 691-692, 700, 708, 717}}。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは[[TEDx]]で「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」(2012年)と題する講演を行い{{sfn|アディーチェ|2017|p=5}}、アメリカのアーティスト[[ビヨンセ]]の楽曲『***Flawless』にサンプリングされた{{sfn|神田|2017|p=197}}。 |
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=== 政治 === |
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[[File:Ken-letter (2).jpg|thumb|180px|ケン・サロ=ウィワが協力者のMajella McCarronにあてて密かに送った手紙]] |
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口承文芸を行う詩人の活動は社会を対象としており、その表現の自由は公共性に支えられている。社会の規範が守られているかを口承詩人は確認し、褒め称えるか非難するかを決める。特に南部アフリカの口承詩人であるイジボンゴたちのパフォーマンスは民衆の声としての面もあるため、権力者が詩人の自由を保障する文化があった{{efn|ズールーの王である{{仮リンク|ムジリカジ|en|Mzilikazi}}を非難したイジボンゴに対して、ムジリカジは危害を加えなかったという記録がある{{sfn|土屋|1994|pp=79-81}}。}}{{sfn|土屋|1994|pp=78-80}}。しかし、独立後の国家で独裁政権が成立するとイジボンゴも拘束され、公共性が損なわれるようになった。{{仮リンク|テンブ人|en|Thembu people}}のイジボンゴであるムブツマは、アパルトヘイトに協力的だった首長の{{仮リンク|カイザー・マタンジマ|en|Kaiser Matanzima}}や、無気力な大首長{{仮リンク|サバタ|en|Sabata Jonguhlanga Dalindyebo}}を非難して警察の家宅捜査や尋問を受けた{{sfn|土屋|1994|pp=80-82}}。マラウィのジャック・マパンジェは詩集『{{仮リンク|カメレオンと神々|en|Of Chameleons and Gods}}』(1981年)で[[ヘイスティングズ・カムズ・バンダ]]政権を批判して治安警察に逮捕され、国際的な活動によって釈放されるまで4年間かかった{{sfn|土屋|1994|pp=83-84}}。 |
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アフリカ作家が英語やフランス語で書く作品は、アフリカの苦境を他国に伝える手段としての役割も果たした{{sfn|神田|2017|p=187}}。政治活動を行う作家も多く、サンゴールはセネガルの初代大統領になった。[[ビアフラ戦争]]が起きた際、チヌア・アチェべは[[ビアフラ共和国]]の大使になって国際社会に理解を求め、ウォーレ・ショインカはナイジェリアとビアフラの和平を計画したが実現せず、ビアフラ共和国は崩壊した{{sfn|神田|2017|p=192}}。アルジェリアのアシア・ジェバールの作品は現在のアルジェリア社会を批判しており、政治的な理由によって本国でアラビア語に翻訳されていない{{sfn|大池|1999|p=129}}。ナイジェリアの[[ケン・サロ=ウィワ]]はジャーナリストや環境保護活動家でもあり、[[オゴニ民族生存運動]]や石油企業への反対運動を行ったが、軍の特別法廷で死刑とされた{{sfn|望月|2007|p=}}。ナワル・エル・サーダウィーは2004年のエジプト大統領選に出馬しようとしたが阻止された{{sfn|宮本|2014|pp=691-692}}。 |
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コンゴ共和国では、国内にとどまりながら独裁政治を批判する作家がアフリカとしては例外的に多い。コンゴにおいて独裁を批判する小説の描写は、夢と現実が交錯したり、魑魅魍魎の世界を嘲笑・諷刺するものが多い{{sfn|元木|1995|pp=82-83}}。 |
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独立のための闘争を題材とした作品も各地で書かれた。1980年に独立したジンバブエでは、独立後にチムレンガ文学と呼ばれる作品が英語、ショナ語、ンデベレ語で発表された。{{仮リンク|チムレンガ|en|Chimurenga}}とはショナ語で「蜂起」を意味し、19世紀末に[[ショナ人]]と{{仮リンク|ンデベレ人|en|Ndebele people}}がケープ植民地のイギリス軍と戦ったことに由来する{{sfn|福島|1999|pp=197-198, 215}}。政策の普及のために作られた文芸作品もあった。植民地時代には、植民地統治を正当化するプロパガンダが書かれた{{sfn|マバンク|2022|pp=40-41}}。独立後のタンザニアでは、{{仮リンク|ウジャマー政策|en|Ujamaa}}と呼ばれる社会主義的な政策の理念を伝えるための文芸作品が多数書かれ、ウジャマー文学とも呼ばれた{{sfn|小野田|2019|p=180}}。 |
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==== アパルトヘイト ==== |
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南アフリカでは長年に渡り植民者であるオランダ系白人[[アフリカーナー]]とイギリス系白人の覇権争いが続いたが、[[ボーア戦争]]から約半世紀後の1948年にアフリカーナーを支持母体とする国民党が政権を握り、人種隔離政策[[アパルトヘイト]]が打ち出された{{sfn|トンプソン|2009|pp=333-445}}。学校や公共図書館も人種別とされて蔵書量に大きな格差があり、黒人の読書機会は奪われ続けた{{sfn|楠瀬|2001|pp=396-397}}。この体制は1994年まで続いて、表現の自由は制限され、作家の生活を脅かした。検閲・投獄・自宅拘禁があり、作品の発表ができない無名の作家も多数いた{{sfn|楠瀬|2001|pp=380-381}}。 |
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1950年代は反アパルトヘイトが盛んになり、人種平等と民主的な社会を実現する運動が南アフリカで初めて明確となった。しかし主な活動家は逮捕され、都市部では黒人居住区が潰されていった{{efn|黒人の不服従運動(1952年)や全人種合同会議による自由憲章の採択(1955年)があったが、ネルソン・マンデラをはじめとする活動家が1956年に国家反逆罪で逮捕された{{sfn|福島|1999|pp=135-137}}。}}{{sfn|福島|1999|pp=128-129, 136-137}}。1950年創刊の雑誌『ドラム』は犯罪ルポなどのセンセーショナルな内容で始まったが、短編やルポルタージュで黒人居住区の現実を伝える誌面に変わり、多くの若い作家が活動した{{sfn|福島|1999|pp=128-129}}。{{仮リンク|エゼキエル・ムパシェーレ|en|Es'kia Mphahlele}}は『ドラム』で活動し、黒人居住区の暮らしを描くとともに、英語でアフリカ人の現実を表現する問題に取り組んだ{{efn|ムパシェーレは、黒人の母語である話し言葉を英語に置き換えて表現する苦心を論じている{{sfn|福島|1999|p=123}}。}}{{sfn|福島|1999|pp=123-125}}。また、ムパシェーレは南アフリカの白人によるキリスト教の抑圧的な面に触れ、キリスト教と決別した{{sfn|福島|1999|pp=125-126}}。{{仮リンク|カン・テンバ|en|Can Themba}}はジャーナリスティックな文章で{{仮リンク|ソフィアタウン|en|Sophiatown}}や[[ソウェト]]を舞台にした作品を発表し、『ドゥーベ・トレイン』では朝の通勤電車の劣悪な環境と暴力を描いた{{sfn|福島|1999|pp=129-132}}。{{仮リンク|アレックス・ラ・グーマ|en|Alex La Guma}}はケープタウンの黒人居住区である{{仮リンク|第6地区|en|District Six}}出身で、『夜の徘徊』(1962年)をはじめとして黒人たちの困窮を赤裸々に描き、投獄や発禁処分を受けて亡命した{{efn|第6地区は、トタンとボール紙の小屋も建っている環境だった{{sfn|宮本|1989|p=139}}。}}{{sfn|宮本|1989|pp=139-140}}。{{仮リンク|ジェームズ・マシューズ (作家)|en|James Matthews (writer)|label=ジェームズ・マシューズ}}が書いた『公園』(1962年)には、白人用公園にしか存在しないブランコに乗りたいと願う黒人少年が登場する{{sfn|福島|1999|pp=127-128}}。 |
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1960年以降にアフリカで多数の独立国が誕生する中、南アフリカはイギリス連邦から一方的に独立して[[南アフリカ共和国]]となり、アパルトヘイトをさらに強化した。[[シャープビル虐殺事件]](1960年)は白人作家にも衝撃を与え、白人作家の中でも当局に協力しない者が増えたため、政府は1963年に出版興行法を制定して検閲を強化した{{sfn|福島|1999|pp=148-149}}。同法の非合法化の適用条項は97におよび、攻撃的な表現が望ましくないとされた{{efn|出版興行法は、特にアフリカーンス語系の作家や出版社にとって抑圧になった。英語圏の白人作家の多くはロンドンで出版しており影響は少なかった{{sfn|福島|1999|p=149}}。}}{{sfn|土屋|1994|p=152}}。アフリカーナーの詩人{{仮リンク|イングリット・ヨンカー|en|Ingrid Jonker}}は『煙と黄土』(1963年)でシャープビル虐殺事件で死んだ子供を詩にうたった。ヨンカーの父親は検閲法の作成に関わっており、父娘は対立し、ヨンカーは自殺した{{sfn|福島|1999|pp=139-142}}。 |
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[[ナディン・ゴーディマ]]の作品は、白人が黒人に対して抱く潜在的な恐怖というテーマが共通しており、アパルトヘイトが全ての人間に影響を与える様子が明らかにされている{{efn|ゴーディマの7作目の小説『{{仮リンク|バーガーの娘|en|Burger's Daughter}}』はシャープビルの虐殺について書き、検閲で発禁処分を受けた{{sfn|藤原|1999|pp=137-139}}{{sfn|楠瀬|2001|pp=175-176}}。}}{{sfn|楠瀬|2001|pp=91-92}}。ゴーディマは自らを歴史の産物と呼び、「政治的な作家にはなりたくない、だが南アフリカの生活は、どんな1人の人間を描こうとも政治的な次元を扱わなければならないほどに政治的な状況に満ちている」と語った{{efn|ゴーディマは南アフリカの状況を表現するのに[[アントニオ・グラムシ]]の次の言葉を引用した。「古いものは死に絶えようとしているが、新しいものが生まれる可能性は見えない。このような空白の時期にあってはじつにさまざまの病的な兆候が生まれる」{{sfn|福島|1999|p=194}}。}}。ゴーディマはノーベル文学賞を受賞した際のコメントで黒人たちの運動を賞賛し、その後も黒人の作家活動を支援した{{sfn|楠瀬|2001|pp=90-91}}。アフリカーナーの[[J・M・クッツェー]]や{{仮リンク|アンドレ・ブリンク|en|André Brink}}は、アパルトヘイトを告発する現代小説の他に、アフリカーナーが植民を進めた18世紀を舞台にした作品も発表した{{efn|18世紀が舞台の作品として、クッツェーの『{{仮リンク|ダスクランド|en|Dusklands}}』(1974年)や『[[夷狄を待ちながら]]』(1980年)、ブリンクの『{{仮リンク|声から声へ|en|A Chain of Voices}}』(1982年)などがある{{sfn|福島|1999|pp=47-52}}。}}{{sfn|福島|1999|pp=47-52}}。ウォーレ・ショインカはノーベル文学賞受賞の際、南アフリカ政府を批判した{{sfn|福島|1999|pp=174-175}}。 |
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アパルトヘイト撤廃後は、国外で活動していた[[アフリカ民族会議]](ANC)のメンバーが帰国し、国会議員になった者もいる。詩人の{{仮リンク|リンディウェ・マブザ|en|Lindiwe Mabuza}}は演説で自作の詩を朗読した{{sfn|楠瀬|2001|p=381}}。アパルトヘイト時代の埋もれた歴史を掘り起こす作品も書かれ、ジャブロ・ンデベレの『ウィニー・マンデラの叫び』(2003年)や、ゾーイ・ウィカムの『光の中で戯れて』(2006年)などがある{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=87}}。 |
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==== 紛争 ==== |
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[[File:ChenjeraiHove2007.jpg|thumb|180px|チェンジェライ・ホーヴェ]] |
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アフリカでの紛争は終息に向かう傾向にある{{efn|1990年代以降に収拾に向かった主な紛争として[[ルワンダ紛争]]、{{仮リンク|ブルンジ内戦|en|Burundian Civil War}}、[[コンゴ内戦]]、[[リベリア内戦]]、[[シエラレオネ内戦]]、{{仮リンク|コートジボワール内戦|en|First Ivorian Civil War}}、[[スーダン内戦]]などがある{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=6605-6624/8297}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=6605/8297}}。それまでに各地で起きた紛争を題材とする作品が多数発表されている。 |
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南アフリカと同様に、[[南ローデシア]]は少数者の白人が支配を維持するために1965年にイギリス連邦から一方的に独立した。黒人側は解放戦線を組織し、1980年にジンバブエとして独立するまで[[ローデシア紛争]]が起きた。独立後に勝利を賛美する文芸作品が発表される中、{{仮リンク|チェンジェライ・ホーヴェ|en|Chenjerai Hove}}は農村での実体験をもとに詩集『武器をもって立ち上がれ』(1982年)や小説『骨たち』(1987年)で死の不条理や苦痛、武器を持たずに翻弄される一般民衆を描いた{{sfn|福島|1999|pp=202, 207, 216-217}}。 |
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1970年代以降にアフリカ各地で内戦が増え、それにともなって増えた[[子供兵]]は社会問題となり文芸作品のテーマにもなった{{sfn|マバンク|2022|pp=180-181}}。アマドゥ・クルマは『{{仮リンク|アラーの神にもいわれはない|fr|Allah n'est pas obligé}}』(2000年)で少年を語り手として、子供兵になるいきさつや内戦の残虐行為を無邪気な言葉づかいで表現した{{efn|その他に子供兵を主題とした作品として、[[ケン・サロ=ウィワ]]がビアフラ戦争を舞台に書いた『{{仮リンク|ソザボーイ|en|Sozaboy}}』(1985年)や、西アフリカの架空の国を舞台にした[[エマニュエル・ドンガラ]]の『{{仮リンク|狂犬ジョニー|fr|Johnny chien méchant}}』(2002年)などがある{{sfn|マバンク|2022|pp=180-181}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=186-187}}。 |
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1994年のルワンダ虐殺後、アフリカ人作家の間では創作について再考する意見や論争が起きた。被害者や加害者の言葉を収集することの影響や、文芸的な金儲けの手段にすることの危険性が論じられた。作家の視点からは、テクストでこのテーマを書いた際に、その場にいなかったり乗り遅れてやってきたという印象を与えてしまう問題もあった{{sfn|マバンク|2022|pp=212-215}}。 |
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ルワンダ内戦についての文学プロジェクト「ルワンダ、記憶する義務によって書く」は、チャドの作家ノッキィ・ジェダヌン(Nocky djedanoum)の主導で始まった。ジェダヌンは、アフリカ文化を紹介するフランスの団体「フェスタフリカ」の責任者でもあった{{sfn|村田|2018|p=77}}。このプロジェクトでルワンダを訪れた作家が、自らの取材や体験をもとに作品を発表した。コートジボワールの{{仮リンク|ヴェロニク・タジョ|fr|Véronique Tadjo}}は『イマーナの影』(2000年)で、社会の隅に追いやられて精神的・経済的支援を受けられない人々や、自分たちは国の再建の邪魔であり語る場がないと思っている虐殺の被害者などに注目した{{efn|その他の作品として、{{仮リンク|ブバカル・ボリス・ジョップ|fr|Boubacar Boris Diop}}の『ムランビ』(2000年)や、{{仮リンク|アブドゥラマン・ワベリ|fr|Abdourahman Waberi}}の『頭骨狩り』(2000年)などがある。ワベリは、ルワンダやアフリカの友人に対する道徳的な義務によって早く発表したと述べている{{sfn|マバンク|2022|pp=212-214}}。}}{{sfn|村田|2018|pp=74, 78-80}}。 |
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内戦についての分析が進むにつれて、植民地時代の弊害が再確認された。ルワンダ内戦や虐殺では[[フツ]]と[[ツチ]]の対立があったが、原因は[[ベルギー植民地帝国|ベルギー]]が植民地時代に行った分断政策にある{{sfn|マバンク|2022|pp=205-207}}。元来はツチとフツは社会的なカテゴリーだったが、ベルギーは2つを民族集団として扱って対立させ、統治に利用した{{efn|元来のルワンダの社会的カテゴリーは、牧畜(ツチ)、農業(フツ)、狩猟(トゥワ)だった{{sfn|マバンク|2022|pp=207-210}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=207-210}}。ベルギーの政策は、聖書にもとづいて黒人をハム系とバントゥー系に分ける人種主義に由来しており、比較文学者の{{仮リンク|カトリーヌ・コキオ|en|Catherine Coquio}}は「妄想の輸出」、アラン・マバンクは「有害な文学」と呼んでいる{{efn|植民地時代のルワンダにおける人種主義は、{{仮リンク|ジャン=ピエール・クレティアン|fr|Jean-Pierre Chrétien}}とマルセル・カバンダ(Marcel Kabanda)の著書『ルワンダ、人種主義、ジェノサイド』(2013年)などで論じられている{{sfn|マバンク|2022|p=205}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=205-207}}。 |
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アンゴラの詩人・歴史家である[[ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ]]は、小説『過去を売る男』(2004年)で[[アンゴラ内戦]]終結後の混乱する社会を舞台とし、顧客の過去を捏造する人物を主人公にした{{sfn|アグアルーザ|2020|pp=273-274}}。 |
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=== 移民、難民 === |
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[[File:Abdulrazak Gurnah 2022.jpg|thumb|180px|アブドゥルラザク・グルナ]] |
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政治的な事情や言論抑圧の状況を避けて亡命する作家は多い。南アフリカからはアパルトヘイトを避けてイギリス等へ亡命する者がいた。1960年代の南アフリカは、政府に批判的な作家に出国許可を与える代わりに帰国を禁じたため、亡命したのちに自ら命を絶つ作家もいた{{efn|亡命中に命を絶った作家として、短編小説家の{{仮リンク|ナット・ナカサ|en|Nat Nakasa}}や{{仮リンク|カン・テンバ|en|Can Themba}}、詩人の{{仮リンク|アーサー・ノーキ|en|Arthur Nortje}}らがいた{{sfn|福島|1999|p=143}}。}}{{sfn|福島|1999|p=143}}。 |
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ギニアでは1958年以降の[[セク・トゥーレ]]政権時代に大半の作家が亡命し、ギニア出身の作家は独裁政治を告発する小説を多数発表し、その描写は写実的で悲劇的であるものが多い{{sfn|元木|1995|pp=82-83}}。ケニアのグギ・ワ・ジオンゴは、ギクユ語の戯曲『{{仮リンク|したい時に結婚するわ|en|Ngaahika Ndeenda}}』(1977)を{{仮リンク|グギ・ワ・ミリエ|en|Ngugi wa Mirii}}と共作して好評を呼んだ{{efn|物語は、金持ちの農場で働く貧しい農夫が、支配階級と[[多国籍企業]]によって土地を失い、社会悪の解決に目覚めるという内容だった{{sfn|宮本|2014|pp=237-239}}。}}{{sfn|宮本|2014|pp=234-236}}。しかしケニアの支配階級を非難したとみなされて拘禁され、のちに亡命した{{sfn|宮本|2014|pp=237-239, 247-248, 326-327}}。1960年代以降に盛んになったフランス語マグレブ文学は、教育や政治・経済的な理由でフランスに定住した作家が中心となっている{{Sfn|青柳|2004|p=4}}。ルワンダ内戦後はフランス等への亡命が多く、体験記の記録が出版された。マダガスカル出身のジャーナリスト・作家の{{仮リンク|ジャン・ハッツフェルド|fr|Jean Hatzfeld (journaliste)}}はルワンダ内戦についての証言記録を3部作として発表した{{sfn|マバンク|2022|p=212}}。 |
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植民地時代と独立以降では移民の扱いが法律面で異なり、文芸作品での表現も変化した。たとえば植民地時代のフランスでは旧植民地の在留者はフランス市民だった。労働力が必要な時代だったため移動が比較的容易であり、植民地時代の作品の登場人物には勉学や旅行のために宗主国に旅をする者がいた{{efn|ただし、アフリカ人がフランス市民権を獲得する条件は厳しく、フランス語の読み書き・官吏や軍人の叙勲、議員の経験など一般人には不可能なほどだった{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=3850/8297}}。}}。独立以降は移民が政治の争点となり、移民排斥を訴える政治家が出るようになった。独立以降の登場人物は不平等な扱い、留置所や手続き、不法滞在などの問題に直面する者が多い{{sfn|マバンク|2022|pp=119-123}}。1992年には亡命作家による国際会議も開催された([[#イベント|後述]])。2021年のノーベル文学賞を受賞した[[アブドゥルラザク・グルナ]]は、タンザニアから難民としてイギリスに移住した経験を持ち、難民や移民についての作品を多数発表している。 |
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=== ポストコロニアル === |
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植民地経験を基盤とする文学を{{仮リンク|ポストコロニアル文学|en|Postcolonial literature}}とも呼ぶ。ポストという語が使われているが、明確に植民地の前後を区別するものではなく、地域を越えて共通する経験や経過を分析する{{sfn|神田|2017|pp=193-194}}。 |
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言語や国を越えるアフリカ文学の共通性を明確にした最初の思想として、ネグリチュードがある。人種的特徴としての黒人性を主張するネグリチュードは問題点を指摘されたが、植民地主義が抑圧した文化を初めて自己主張した運動として評価されている{{efn|アルジェリア独立で活動した思想家[[フランツ・ファノン]]は、植民地化において植民者-被植民者、善-悪、白-黒などの2分法が行われる点を分析をした。そして、人種的特徴とは植民地化によって進められる虚構だとして、人種の類型化を否定した{{sfn|アッシュクロフト, グリフィス, ティフィン|1998|pp=224-225}}。}}{{sfn|アッシュクロフト, グリフィス, ティフィン|1998|pp=223-226}}。 |
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[[ポストコロニアリズム]]の視点から、欧米文学が描いてきたアフリカのイメージについてアフリカ作家の批評が行われている。先駆的な議論としては、チヌア・アチェベの講演「アフリカのイメージ - コンラッド『闇の奥』における人種主義」(1975年)がある{{efn|この講演はアチェベがマサチューセッツ大学英文学科で教鞭をとっていた時期に行われた。コンラッドの作品がポストコロニアルや[[カルチュラル・スタディーズ]]の観点から読まれるきっかけとなった{{sfn|阿久津|2010|p=337}}。}}。アチェべは、[[ジョゼフ・コンラッド]]の小説『[[闇の奥]]』においてアフリカ人が非人間的に描写されていると批判した{{sfn|神田|2017|pp=194-196}}。アチェべは作家志望のきっかけとして、{{仮リンク|ジョイス・ケアリ|en|Joyce Cary}}の『{{仮リンク|ミスター・ジョンソン (小説)|en|Mister Johnson (novel)|label=ミスター・ジョンソン}}』(1939年)を[[イバダン大学]]時代に読み、ステレオタイプなアフリカ人に不満を持った点をあげている{{Sfn|宮本|1989|pp=161-162}}。 |
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フランス革命200年が記念された1989年には、ナイジェリアの{{仮リンク|ボデ・ショワンデ|en|Bode Sowande}}の戯曲『夢に充ち溢れるトネイド』が上演された。ギニア湾から[[サン・ドミンゴ]]に奴隷として売られたマグダレーナという女性が、[[ハイチ革命]]に呼応して奴隷解放運動に参加する物語だった{{sfn|土屋|1994|pp=186-187}}。 |
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ケニアの{{仮リンク|ビニャヴァンガ・ワイナイナ|en|Binyavanga Wainaina}}は、雑誌『{{仮リンク|Granta|en|Granta}}』92号に「アフリカの描き方」(2005年)を発表し、アフリカに対するイメージを風刺した。そこでは飢えに苦しむアフリカ人、難民キャンプ、苦悩を話す母親、動物の保護、悲劇の主人公であるセレブなどが、売れるアフリカのコンテンツとして列挙されている。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは短編小説「ジャンピング・モンキー・ヒル」(2009年)で、旧宗主国の文学者がアフリカ文学や「本当のアフリカ」をステレオタイプに分析する様子を描いた<ref name=Granta2019>{{Cite news|url=https://granta.com/how-to-write-about-africa/ |title=How to Write About Africa |last=Wainaina |first=Binyavanga |date=2019-05-02 |work=Granta |access-date=2022-08-30 |language= |issn=}}</ref>{{sfn|神田|2017|pp=194-196}}。{{仮リンク|エレケ・べーマー|en|Elleke Boehmer}}は小説を発表しつつ、アフリカ文学におけるポストコロニアル研究を進めている{{sfn|早川|2012|pp=19-20}}。 |
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アフリカ人のイメージは、植民地化以前から旅行記や地誌などの文献によって作られてきた。イスラーム王朝では9世紀頃からアフリカ人が[[アラブ人の奴隷貿易|奴隷]]にされてアフリカの他に[[アンダルス]]、アラビア半島、メソポタミアへと運ばれた。アフリカ人奴隷の増加にともない、アラビア語の文献では黒人が劣った人間として記録され、この傾向は16世紀まで続いた{{efn|最初期の文献は地理学者・歴史家の[[マスウーディー]]による『[[黄金の牧場と宝石の鉱山]]』(947年)で、同様の記述をした者として地理学者・歴史家の[[アブー・ウバイド・バクリー]]、地理学者・地図学者の[[イドリースィー]]、旅行家の[[イブン・バットゥータ]]、歴史家・思想家の[[イブン・ハルドゥーン]]、旅行家の[[レオ・アフリカヌス]]らがいる{{Sfn|私市|2004|pp=3, 85-87}}。}}。こうしたアラビア語文献のアフリカ人のイメージは、ヨーロッパ人に影響を与えたともいわれている{{Sfn|私市|2004|p=85}}。マリの{{仮リンク|ヤンボ・ウォロゲム|fr|Yambo Ouologuem}}は『{{仮リンク|暴力の義務|fr|Le Devoir de violence}}』(1968年)で、ヨーロッパが奴隷貿易を行う前からアラブ人やアフリカの権力者による奴隷制が存在していたことを書き、議論を呼んだ{{Sfn|マバンク|2022|pp=175-176}}。 |
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== 出版 == |
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[[File:Publicité-édition-Togo-2017.jpg|thumb|200px|アフリカの出版社の広告。欧米で出版された作品をアフリカで再販するという宣伝を掲載している。]] |
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ヨーロッパの活版印刷はアフリカでも知られていたが、アラビア語圏を中心として写本文化が根強かったために導入されなかった。印刷機の使用が始まったのは、1821年のエジプトのブーラーク印刷所で、当初はアラビア語・トルコ語・ペルシア語の書籍や雑誌が出版された{{efn|当初の印刷機はナポレオンの[[エジプト・シリア戦役|エジプト遠征]](1798年)で持ち込まれたものを使った。エジプトは[[オスマン帝国]]の支配下にあったためトルコ語の出版が多かった{{sfn|平野|2011|p=5}}。}}{{sfn|平野|2011|p=5}}。印刷・出版物による流通は、[[アル=ナフダ]]と呼ばれるアラビア語圏の文芸復興運動に影響を与え、他の地域からエジプトに移って文芸雑誌や新聞を刊行する作家や知識人も増えた{{sfn|平野|2011|p=6}}。 |
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[[南アフリカ共和国]]や[[ナイジェリア]]のような、出版産業が成立して文学市場が存在する一部の国を除けば、アフリカ諸国では自国内での文学の出版が少ない。特に内陸の国や経済基盤の小さな国での出版事情は厳しい{{efn|たとえばブルキナファソでは1983年に政府が文化振興政策を始める前には出版社がなかった。その後の2008年時点ではブルキナファソ出版社協会が16の出版社を束ねており、作家の自作出版の会社も含まれる{{sfn|村田|2010|p=44}}。}}{{sfn|村田|2010|p=44}}。 |
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ヨーロッパ諸語で書かれた作品は[[パリ]]や[[ロンドン]]や[[ニューヨーク]]の出版社から出版され、欧米の読者を主な市場としている{{sfn|砂野|2002|pp=56-57}}。こうした作品が、「西洋一般読者のためにフォーマット化された作品」と呼ばれる場合もある{{sfn|マバンク|2022|p=155}}。アラビア語の作品は、レバノンの[[ベイルート]]で出版されれば国際的に流通するが、国内で出版された作品は他国で入手しにくい{{Sfn|鵜戸|2011|pp=33-34}}。 |
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翻訳では、英語やフランス語で発表されたアフリカ人作家の作品がアフリカの諸言語に翻訳される場合や、その逆もある{{sfn|マバンク|2022|pp=156-157}}。話者の少ない言語では、作者が翻訳も兼ねる場合がある。ズールー語を母語とするマジシ・クネーネは、自作の詩や劇を自ら英語に翻訳している{{Sfn|赤岩|2003|p=2}}。使っている言語によって作品を囲い込む動きもあり、フランス語圏における[[フランコフォニー]]文学、英語圏における[[イギリス連邦|コモンウェルス]]文学などがある{{Sfn|砂野|2001|p=10}}。 |
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出版社があっても法律が障害になる場合がある。南アフリカのミリアム・トラーディは『二つの世界のはざま』を1969年に書いたが、アパルトヘイト下の南アフリカの法律では女性に所有権、財産権、売買契約の権利などがなかったため出版契約ができなかった。トラーディは特例として契約ができたが、検閲で原稿は大幅に削除された{{Sfn|楠瀬|2001|pp=45-46}}。 |
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=== 出版社 === |
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アフリカ人が主導した初の出版社は、{{仮リンク|アリウン・ジョップ|fr|Alioune Diop}}が中心となって1949年に設立したプレザンス・アフリケーヌ社(PA社)だった。同社はジョップが1947年に創刊した雑誌『{{仮リンク|プレザンス・アフリケーヌ|fr|Présence africaine}}』が発展したものだった{{sfn|佐久間|2018|p=21}}。『プレザンス・アフリケーヌ』は2018年時点までに194号が発行され、アフリカ・カリブ出身の詩人や作家にとって重要な発表の場となった。言語はフランス語の他に英語、ポルトガル語、スペイン語の文章も掲載された{{efn|英語圏ではデュボイス、リチャード・ライト、[[マルコムX]]、フランスでは[[サルトル]]や[[アンドレ・ジッド]]、[[ミシェル・レリス]]らが寄稿した{{sfn|佐久間|2018|p=23}}。}}{{sfn|佐久間|2018|pp=22-23}}。PA社は雑誌の他に文芸作品や政治的な書籍を出版し、黒人交流のための国際会議を主催した{{sfn|佐久間|2018|p=26}}。 |
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英語圏では、1960年にイギリスの{{仮リンク|ハイネマン (出版社)|label=ハイネマン社|en|Heinemann (publisher)}}が『{{仮リンク|ハイネマン・アフリカンライターズシリーズ|en|Heinemann African Writers Series}}』を始めてアフリカの作家や政治家の作品が紹介され、1960年代からアフリカ文学研究書が出版されるようになった{{efn|当時の批評家としては{{仮リンク|ジェラルド・ムーア (学者)|en|Gerald Moore (scholar)|label=ジェラルド・ムーア}}、{{仮リンク|ユースタス・パーマー|en|Eustace Palmer}}、{{仮リンク|オスカー・ダソーネ|en|Oscar Dathorne}}らがいる{{sfn|大池|1999|p=117}}。}}{{sfn|大池|1999|p=117}}。しかし、これらの研究書では女性作家は扱われない傾向にあった。ハイネマン社のシリーズは刊行から6年後の26冊目に初めて女性作家の作品を選び、1983年には256冊目にして初の女性作家の作品集を出版し、24人の作家の作品を掲載した{{efn|作品集を編集したのは[[アイオワ大学]]の{{仮リンク|シャーロット・H・ブルナー|en|Charlotte H. Bruner}}だった{{sfn|大池|1999|p=119}}。}}{{sfn|大池|1999|pp=117-119}}。フランス語圏ではプレザンス・アフリケーヌの他に、アティエ社の『黒人世界』叢書、アクト・スユッド社の『アフリカ組曲』叢書などがあり、2000年に創刊されたガリマール社の『{{仮リンク|黒い大陸|fr|Continents noirs}}』叢書が最も有名とされる{{sfn|マバンク|2022|pp=136-137}}。ヨーロッパには、アフリカ人作家の作品をアフリカで再販する出版社もある。たとえばグギ・ワ・ジオンゴのウォロフ語作品は、英語系の出版社がアフリカで出版している{{sfn|マバンク|2022|pp=153-154}}。世界規模のアフリカ文学研究専門誌としては、『{{仮リンク|Research in African Literatures|en|Research in African Literatures}}』がある{{sfn|宮本|2014|p=636}}。 |
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アフリカ各地で独立が相次ぐと、各国で出版社が設立された。ナイジェリアでは1971年にチヌア・アチェベによって文芸誌の季刊『オキケ(Okike, 「創造」を意味する)』が創刊された{{sfn|宮本|1989|p=145}}。セネガルでは初代大統領になったサンゴールの主導で1972年に{{仮リンク|新アフリカ出版社|fr|Nouvelles Éditions africaines}}(NEA)が設立され、NEA解散後はコートジボワール政府が事業を引き継ぎ、民営化をへて{{仮リンク|新コートジボワール出版社|fr|Nouvelles Éditions ivoiriennes}}(NEI)となった{{sfn|村田|2010|p=43}}。1982年のアフリカ人作家協会(AWA)によってアフリカ人主導の出版社の設立が決定され、ユネスコやNGOの援助を受けてスコッタヴィル出版社が創立された{{Sfn|楠瀬|2001|p=399}}。1980年に独立したジンバブエは建国当初から出版に力を入れ、ジンバブエ出版社から[[ショナ語]]や[[ンデベレ語]]の本が出版された{{sfn|楠瀬|2001|p=122}}。 |
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文筆活動を制限されている人々のための雑誌として『{{仮リンク|インデックス・オン・センサーシップ|en|Index on Censorship}}』(1972年創刊)があり、アフリカの作家も参加している。1988年5月の100号記念特集では、ウォーレ・ショインカら10人のアフリカ作家が発言を寄せ、宗教的熱狂が人権にもたらす危機、アパルトヘイトの悲劇、文学と政治の関係、作家の獄中詩などが掲載された{{sfn|宮本|1989|pp=144-145}}。 |
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=== 装丁 === |
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アフリカ文芸作品の表紙は、アフリカ的なイメージが紋切り型に使われていると批判される場合がある。フランス語の新聞『[[クーリエ・アンテルナショナル]]』が2014年に掲載した「アフリカ文学 - あまりに紋切り型な表紙の数々」という記事では、サヴァンナにある[[アカシア]]の木、サヴァンナに沈む夕日、ヴェールをかぶった女性などがしばしば使われると指摘している{{efn|この記事は、「アフリカ・イズ・ア・カントリー」というブログの記事がもとになっている{{sfn|マバンク|2022|p=133}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=132-133}}。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『{{仮リンク|半分のぼった黄色い太陽|en|Half of a Yellow Sun}}』は、アメリカで出版された時の表紙はアカシアの木が使われ、フランスで出版された表紙はより中立的に太陽が使われた。コンゴ共和国のアラン・マバンクの小説『ウェルキンゲトリクスのニグロの孫たち』(2002年)は1990年代のコンゴとブラザヴィルの内戦の物語だったが、表紙には投げ槍をもつ[[マサイ人]]が描かれていた。こうした表紙が作られる原因は、特にアメリカの一般読者が期待しそうなものを使ってしまう出版業界の怠慢とする意見もある{{sfn|マバンク|2022|pp=133-136}}。 |
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== 文学賞、イベント == |
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=== 文学賞 === |
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黒人として初の[[ゴンクール賞]]受賞者は、『バトゥアラ』(1921年)の著者ルネ・マランだった{{sfn|マバンク|2022|pp=39-40}}。女性作家として初の国際的な文学賞受賞は、マリアマ・バーの[[野間アフリカ出版賞]](1980年)であり、バーの影響でフランス語圏のアフリカ女性作家が読まれるようになったともいわれる{{sfn|大池|1999|p=127}}。 |
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アジア・アフリカ作家会議は機関紙『{{仮リンク|ロータス (雑誌)|en|Lotus (magazine)|label=ロータス}}』を発行し、アジア・アフリカのノーベル賞とも呼ばれた「[[ロータス賞]]」を運営した{{sfn|宮本|2014|p=634-635}}。アフリカ人作家を対象とした文学賞として、フランス語圏では1961年創設の{{仮リンク|ブラック・アフリカ文学大賞|fr|Grand prix littéraire d'Afrique noire}}、英語圏では2000年創設の英語短編小説の{{仮リンク|ケイン賞|en|Caine Prize}}などがある。ケイン賞の候補作は、作家が自作をエントリーした中から選ばれる。最終候補作のアンソロジーの出版はアフリカ8カ国の出版社に委託されており、生産や利益がアフリカ中心となるように配慮されている{{efn|8カ国は南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、ケニア、ウガンダ、カメルーン、ナイジェリア、ガーナとなっている{{sfn|神田|2017|p=198}}。}}{{sfn|神田|2017|pp=198-199}}。 |
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アフリカ文学に関連するノーベル文学賞受賞者は、[[ウォーレ・ショインカ]](1986年)、[[ナギーブ・マフフーズ]](1988年)、[[ナディン・ゴーディマー]] (1991年)、[[J・M・クッツェー]](2003年)、[[ドリス・レッシング]](2007年)、[[アブドゥルラザク・グルナ]](2021年)の6名となっている(2021年現在)。ショインカが受賞する前に、ノーベル文学賞選考委員の[[ペール・ヴェストバリ]]は雑誌『ウェスト・アフリカ』において「ヨーロッパの審美的基準からすれば、アフリカには取るに足る作品は一つもない」と発言して論議を呼び、ウェストベリは同誌で謝罪した{{sfn|土屋|1994|pp=172-173}}。 |
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=== イベント === |
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[[File:Lettera27 - Visitors of the Chimurenga Stand.jpg|thumb|200px|ケープタウンのブックフェア]] |
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1956年のパリで第1回{{仮リンク|黒人作家芸術家会議|en|Congress of Black Writers and Artists}}が開催され、言語を越えて黒人作家たちが集まった。主催は『プレザンス・アフリケーヌ』、主催者はマダガスカルのジャック・ラベマナンザーラで、反植民地主義と反人種主義を掲げた[[バンドン会議]]を受けて黒人文学者たちが企画した。参加者はアフリカ、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、カリブを中心とする27名で、3日間行われた{{sfn|吉田|2018|p=127}}。しかし、アメリカ合衆国と他の地域の間で植民地化についての理解の違いが明らかになった。アメリカの代表団はアメリカ国内の人種主義に限定して論じたが、アフリカ各地では植民地解放闘争が進行中であり、アフリカ側にとっては距離感があった{{sfn|吉田|2018|pp=127-128}}。また、[[冷戦]]の影響でアメリカの対外政策が[[反共]]だった時期にあたり、アメリカとその他の地域の参加者で意見の違いが大きかった{{efn|アメリカの[[リチャード・ライト (小説家)|リチャード・ライト]]の講演は、植民地主義には伝統や古い信仰を破壊する解放的な面があったとする内容を含んでいたため、聴衆の支持は薄かった{{sfn|吉田|2018|pp=130-132}}。ライトはアメリカ政府の反共政策に協力しており、共産主義者と思われる者を当局に報告し、ガーナの政党周辺の共産党シンパを密告した{{sfn|吉田|2018|pp=130-132}}。}}{{sfn|吉田|2018|pp=127-128}}。 |
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1958年には[[アジア・アフリカ作家会議]]、1962年にはウガンダのマケレレ大学で「英語表現アフリカ作家会議」、1963年には「フランス語表現のアフリカ人作家会議」が開催された{{sfn|砂野|2021|pp=3-4}}。1969年に始まった[[カイロ国際ブックフェア]]は、アラブ圏最大のブックフェアとなっている<ref name=ArabMediaSociety20080510>{{Cite news|url=https://www.arabmediasociety.com/censorship-and-social-realism-at-the-cairo-book-fair/ |title=Censorship and social realism at the Cairo Book Fair |last=Wassmann |first=Ingrid |date=2008-05-10 |work=Arab Media & Society |access-date=2022-08-08 |language= |issn=}}</ref>。ジンバブエでは建国から3年後の1983年から{{仮リンク|ジンバブエ国際ブックフェア|en|Zimbabwe International Book Fair}}を開催している{{sfn|楠瀬|2001|p=122}}。 |
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ロンドンは留学、移民、難民などの背景でアフリカ、カリブ、アメリカ出身の作家が集まる都市でもあり、1982年には{{仮リンク|ラディカル・ブラック及び第3世界のブックフェア|en|International Book Fair of Radical Black and Third World Books}}が開催された{{sfn|楠瀬|2001|p=201}}。1992年にはロンドンでアフリカ人亡命作家会議が開催され、亡命や難民生活をしている作家が集まった{{efn|参加した作家はナイジェリア、ケニア、セネガル、ガーナ、ソマリア、南アフリカ、スーダン、トリニダードなどをあとにした人々だった{{sfn|楠瀬|2001|pp=200-201}}。}}{{sfn|楠瀬|2001|pp=200-201}}。それぞれが持つホームシックや孤独、不安、貧困、民主化闘争などの経験を共有し、議論が行われた。特に亡命生活が長く1960年代から国外で暮らしている[[ルイス・ンコシ]]、{{仮リンク|デニス・ブルータス|en|Dennis Brutus}}、{{仮リンク|ロレタ・ンゴボ|en|Lauretta Ngcobo}}らが会議を主導した{{sfn|楠瀬|2001|p=201}}。 |
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近年ではネットワークや文学祭の開催が活発になっている。文学ネットワークのクワニ・トラストは[[ナイロビ]]の作家や編集者たちによって2003年に設立され、文芸ジャーナル『{{仮リンク|クワニ?|en|Kwani?}}』を発行し、2006年から2年周期で「クワニ?文芸フェスト」を開催してアフリカ諸国から参加者を集めている。2007年にはケニアのナイロビで「ストーリーモジャ・フェスティバル(Storymoja Festival)」{{efn|ストーリーモジャ・フェスティバルは2016年にはガーナの[[アクラ]]でも開催された{{sfn|神田|2017|p=202}}。}}、2011年に南アフリカの[[ケープタウン]]で「{{仮リンク|オープン・ブック・フェスティバル|en|Open Book Festival}}」、2013年にナイジェリアの[[アベオクタ]]で「{{仮リンク|アケ・フェスティバル|en|Aké Arts and Book Festival}}」が始まり、それぞれ毎年開催されている。文学祭は作家のアピールや、出版物の販路開拓の役割も果たしている{{sfn|神田|2017|pp=199-200}}。 |
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== 主な作家 == |
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{{main|アフリカの国別の著作家一覧}} |
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== アフリカ文学の翻訳者 == |
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* [[粟飯原文子]] |
* [[粟飯原文子]] |
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* [[市之瀬敦]] |
* [[市之瀬敦]] |
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* [[砂野幸稔]] |
* [[砂野幸稔]] |
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* [[土屋哲]] |
* [[土屋哲]] |
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* [[恒川邦夫]] |
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* [[樋口裕一]] |
* [[樋口裕一]] |
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* [[福島富士男]] |
* [[福島富士男]] |
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* [[真島一郎]] |
* [[真島一郎]] |
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* [[山本玲子]] |
* [[山本玲子]] |
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{{Colend}} |
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== 脚 |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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== |
=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="†"|}} |
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* 砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月。 |
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{{Notelist|2|}} |
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* 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月。 |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|20em|}} |
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== 参考文献(著者・編者五十音順) == |
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* {{Cite journal|和書|author=[[粟飯原文子]] |title=『崩れゆく絆』の余白 : ヴィクトリア時代の黒人宣教師 |url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009407611971072 |journal=ヴィクトリア朝文化研究 |publisher=日本ヴィクトリア朝文化研究学会 |year=2018 |month=nov |volume=16 |issue= |pages=303-311 |naid= |issn=18823092 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|粟飯原|2018}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=青柳悦子 |title=チュニジアにおける多言語状況と文学 |url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1520853833518040832 |journal=外国語教育論集 |publisher=筑波大学外国語センター |year=2004 |month= |volume=26 |issue= |pages=141-156 |naid= |issn=09160051 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|青柳|2004}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=赤岩隆 |title=アフリカ文学とOral Literature (1) : Mazisi Kunene, Emperor Shake the Great |url=http://hdl.handle.net/10076/1961 |journal=人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 |publisher=三重大学人文学部文化学科 |year=2003 |month=mar |volume=20 |issue= |pages=1-14 |naid= |issn=02897253 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|赤岩|2003}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=赤岩隆 |title=アフリカ文学とOral Literature(3) : ヴァン・デル・ポストとブッシュマン |url=http://hdl.handle.net/10076/2012 |journal=人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 |publisher=三重大学人文学部文化学科 |year=2005 |month=mar |volume=22 |issue= |pages=17-31 |naid= |issn=02897253 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|赤岩|2005}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=赤岩隆 |title=アフリカ文学とOral Literature. 5 : チュツオーラのモダニティ |url=http://hdl.handle.net/10076/9737 |journal=人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 |publisher=三重大学人文学部文化学科 |year=2003 |month=mar |volume=25 |issue= |pages=33-46 |naid= |issn=02897253 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|赤岩|2008}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=秋山学 |title=古典エチオピア語文法形態論覚え書き:代名詞・動詞 |url=http://hdl.handle.net/2241/9775 |journal=文藝言語研究. 言語篇 |publisher=筑波大学文藝・言語学系 |year=2002 |month=oct |volume=12 |issue= |pages=1-12 |naid= |issn=03877515 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|秋山|2002}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = [[ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ]] |
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| title ={{仮リンク|忘却についての一般論|pt|Teoria Geral do Esquecimento}} |
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| translator = 木下眞穂 |
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| year = 2020 |
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| publisher = 白水社 |
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| series = エクス・リブリス |
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| isbn = |
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| ref = {{sfnref|アグアルーザ|2020}} |
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}}(原書 {{Cite| 洋書 |
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| author = José Eduardo Agualusa. |
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| year = 2012 |
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| title = Teoria Geral do Esquecimento |
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| publisher = |
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| isbn = |
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}}) |
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* {{Cite journal|和書|author=阿久津昌三 |title=帝国と人種 : コンラッド『闇の奥』と人類学の黎明期 |url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20100228-0327 |journal=法學研究 : 法律・政治・社会 |publisher=慶應義塾大学法学研究会 |year=2010 |month=feb |volume=83 |issue=2 |pages=327-365 |naid= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|阿久津|2010}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author1 = ビル・アッシュクロフト |
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| author2 = {{仮リンク|ガレス・グリフィス|en|Gareth Griffiths (academic)}} |
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| author3 = {{仮リンク|ヘレン・ティフィン|en|Helen Tiffin}} |
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| title = ポストコロニアルの文学 |
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| publisher = 青土社 |
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| year = 1998 |
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| translator = 木村茂雄 |
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| ref = {{sfnref|アッシュクロフト, グリフィス, ティフィン|1998}} |
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}}(原書 {{Cite| 洋書 |
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| last1 = Ashcroft |
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| first1 = Bill |
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| last2 = Griffiths |
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| first2 = Gareth |
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| last3 = Tiffin |
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| first3 = Helen |
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| authorlink = |
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| year = 1989 |
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| title = The Empire Writes Back: Post-Colonial Literatures, Theory & Practice |
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| publisher = |
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| isbn = |
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}}) |
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* {{Cite journal|和書|author=石川清子 |title=フランスで「移民」が/について書くということ : マグレブ移民をめぐる文学 |url=http://doi.org/10.34382/00003056 |journal=立命館言語文化研究 |publisher=立命館大学国際言語文化研究所 |year=2017 |month=sep |volume=29 |issue=1 |pages=15-29 |naid= |issn=09157816 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|石川|2017}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=伊東未来 |title=トンブクトゥにおける写本の救出活動 |url=http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/2186 |journal=西南学院大学国際文化論集 |publisher=西南学院大学学術研究所 |year=2000 |month=feb |volume=36 |issue=1 |pages=87-104 |naid= |issn=09130756 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|伊東|2021}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=鵜戸聡 |title=現代アルジェリア文学における「アフリカ」の思想 : カテブ・ヤシンの詩的戦略 |url=https://doi.org/10.24498/ajames.23.2_33 |journal=日本中東学会年報 |publisher=日本中東学会 |year=2007 |month=mar |volume=23 |issue=2 |pages=33-60 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|鵜戸|2007}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = 鵜戸聡 |
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| chapter = アラブ・フランコフォニーと越境の文学 |
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| title = 反響する文学 |
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| publisher = 風媒社 |
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| editor = 土屋勝彦 |
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| series = 人間文化研究叢書 : 名古屋市立大学 |
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| year = 2011 |
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| isbn = |
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| ref = {{sfnref|鵜戸|2011}} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[江口一久]] |title=アフリカの口承文芸 |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_21 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=1985 |month= |volume=27 |issue= |pages=71-90 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|江口|1985}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=大池真知子 |title=アフリカ女性文学研究の発展と文献紹介 |url=http://www.igs.ocha.ac.jp/igs/IGS_publication/journal/02/02_09.pdf |journal=ジェンダー研究 |publisher=お茶の水女子大学 ジェンダー研究所 |year=1999 |month=mar |volume=2 |issue= |pages=113-168 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|大池|1999}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=大場千景 |title=無文字社会における「歴史」の構造 : エチオピア南部ボラナにおける口頭年代史を事例として |url=https://doi.org/10.14890/jjcanth.78.1_26 |journal=文化人類学 |publisher=日本文化人類学会 |year=2013 |month= |volume=78 |issue=1 |pages=26-49 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|大場|2013}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=小川了 |title=『黒人世界評論』から『プレザンス・アフリケーヌ』へ |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_35 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2018 |month=dec |volume=2018 |issue=94 |pages=35-47 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|小川|2018}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=小野田風子 |title=スワヒリ詩の変容と展開 ―定型詩、ターラブ、自由詩― |url=http://web.kyoto-inet.or.jp/people/keiko-ku/Africa/Mwenge%2043.pdf |journal=MWENGE |publisher=アフリカ文学研究会 |year=2016 |month=apr |volume=43 |issue= |pages=7-25 |naid= |issn=09181075 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|小野田|2016}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=小野田風子 |title=ユーフレイズ・ケジラハビの作家研究 |url=https://doi.org/10.18910/72343 |journal= |publisher=大阪大学 |year=2019 |month= |volume= |issue= |pages=1-346 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|小野田|2019}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=小野田風子 |title=スワヒリ語詩の社会志向性 ― 19 世紀初頭モンバサの詩人ムヤカ・ビン・ハジに着目して ― |url=http://web.kyoto-inet.or.jp/people/keiko-ku/Africa/onoda45.pdf |journal=MWENGE |publisher=アフリカ文学研究会 |year=2020 |month= |volume=45 |issue= |pages=1-43 |naid= |issn= |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|小野田|2020}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=梶茂樹 |title=アフリカ人のコミュニケーション ―音・人・ビジュアル― |url=https://doi.org/10.11435/gengo.142.0_1 |journal=言語研究 |publisher=日本言語学会 |year=2012 |month= |volume=142 |issue= |pages=1-28 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|梶|2012}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = |
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| chapter = |
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| year = 2000 |
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| title = 世界の黒人文学 アフリカ・カリブ・アメリカ |
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| publisher = 鷹書房弓プレス |
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| series = |
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| isbn = |
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| editor = 加藤恒彦, 北島義信, 山本伸 |
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| ref = {{sfnref|加藤ほか編|2000}} |
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}} |
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* {{Cite journal|和書|author=苅谷康太 |title=西アフリカのアラビア語詩における韻文化と折句:アフマド・バンバの著作を中心に |url=https://doi.org/10.24498/ajames.27.1_283 |journal=日本中東学会年報 |publisher=日本中東学会 |year=2011 |month= |volume=27 |issue=1 |pages=283-305 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|苅谷|2011}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[川瀬慈]] |title=エチオピアの音楽職能集団アズマリの職能機能についての考察 |url=http://doi.org/10.15021/00006114 |journal=国立民族学博物館研究報告 |publisher=国立民族学博物館 |year=2016 |month=aug |volume=41 |issue=1 |pages=37-78 |naid= |issn=0385180X |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|川瀬|2016}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| first = 順造 |
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| last = 川田 |
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| author-link = 川田順造 |
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| title = 無文字社会の歴史: 西アフリカ・モシ族の事例を中心に |
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| year = 1992 |
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}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=川田順造 |title=マンデ音文化とハウサ音文化 イスラーム音文化の地方的展開 |url=https://doi.org/10.14890/minkennewseries.65.1_62 |journal=民族學研究 |publisher=日本文化人類学会 |year=2000 |month= |volume=65 |issue=1 |pages=62-77 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|川田|2000}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=神田麻衣子 |title=アフリカ文学から多文化共生を考える |url=https://doi.org/10.18910/60737 |journal=未来共生学 |publisher=大阪大学未来戦略機構第五部門未来共生イノベーター博士課程プログラム |year=2017 |month=mar |volume=4 |issue= |pages=187-204 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|神田|2017}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author-link = 私市正年 |
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| title = サハラが結ぶ南北交流 |
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| publisher = 山川出版社 |
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}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=木島健一 |title=アンダルシアにおけるアラブ音楽に関するノート(II) : 大音楽家ジルヤーブとその時代 |url=http://id.nii.ac.jp/1300/00000658/ |journal=研究紀要 |publisher=東京音楽大学 |year=1983 |month= |volume=8 |issue= |pages=117-126 |naid=AN00158002 |issn= |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|木島|1983}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=北島義信 |title=ベン・オクリの短編小説におけるマジカル・リアリズム : 「栄える世界」を中心に |url=https://doi.org/10.24584/jeiyu.2.1_91 |journal=四日市大学環境情報論集 |publisher=四日市大学 |year=1998 |month=sep |volume=2 |issue=1 |pages=91-102 |naid= |issn=13411241 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|北島|1998}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = [[楠瀬佳子]] |
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| title = 南アフリカを読む - 文学・女性・社会 |
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}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = 小林信次郎 |
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}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=佐久間寛 |title=特集:プレザンス・アフリケーヌ研究 序論 ─プレザンス・アフリケーヌとは何か─ |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_21 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2018 |month=dec |volume=2018 |issue=94 |pages=21-33 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|佐久間|2018}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = [[ナワル・エル・サーダウィー]] |
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| title = 女性に天国はあるのか |
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| translator = 鳥居千代香 |
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| ref = {{sfnref|サーダウィー|1996}} |
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}}(原書 {{Cite| 洋書 |
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| author = Nawal El Saadawi |
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| year = 1979 |
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| title = Kānat hiya al-aḍʻaf |
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| isbn = |
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}}) |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = [[島田周平]] |
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| title = 物語 ナイジェリアの歴史 - 「アフリカの巨人」の実像 |
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}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author1 = {{仮リンク|イアン・ショー|en|Ian Shaw (Egyptologist)}} |
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| author2 = ポール・ニコルソン |
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| title = 大英博物館 古代エジプト百科事典 |
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| translator = 内田杉彦 |
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| ref = {{sfnref|ショー, ニコルソン|1997}} |
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}}(原書 {{Cite| 洋書 |
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| author = Ian Shaw, Paul Nicholson |
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| year = 1995 |
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| title = The Dictionary of Ancient Egypt |
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}}) |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = [[砂野幸稔]] |
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| chapter = アフリカの文化と精神の非植民地化 |
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| title = 「南」から見た世界03 アフリカ 国民国家の矛盾を超えて共生へ |
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}} |
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* {{Cite journal|和書|author=砂野幸稔 |title=アフリカ文学研究 回顧と展望 |url=https://doi.org/10.11619/africa1964.2001.9 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2001 |month= |volume= |issue=57 |pages=9-11 |naid= |issn= |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|砂野|2001}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = 砂野幸稔 |
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| chapter = アフリカ文化のダイナミズム |
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| title = ハンドブック現代アフリカ |
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| year = 2002 |
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| ref = {{sfnref|砂野|2002}} |
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}} |
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* {{Cite journal|和書|author=砂野幸稔 |title=セネガルのフランス語文学とイスラーム |url=http://rp-kumakendai.pu-kumamoto.ac.jp/dspace/handle/123456789/724 |journal=文学部紀要 |publisher=熊本県立大学文学部 |year=2011 |month=mar |volume=17 |issue= |pages=67-75 |naid= |issn=13411241 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|砂野|2011}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=砂野幸稔 |title=詩集『あふれ出る思い』が伝えるセネガル農村女性の声 - 「私」の思いと「私たち」の価値 - |url=https://doi.org/10.18910/66373 |journal=スワヒリ&アフリカ研究 |publisher=大阪大学大学院言語文化研究科 スワヒリ語研究室 |year=2017 |month=mar |volume= |issue=28 |pages=21-40 |naid= |issn=09158758 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|砂野|2017}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=砂野幸稔 |title=マーム=ユヌス・ジェン『アーウォ・ビ(第一夫人)』を読む : 「最初のウォロフ語小説」は何を語ったか |url=https://doi.org/10.18910/81404 |journal=スワヒリ&アフリカ研究 |publisher=大阪大学大学院言語文化研究科 スワヒリ語研究室 |year=2021 |month=jan |volume= |issue=32 |pages=1-21 |naid= |issn=09158758 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|砂野|2021}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=平寛多朗 |title=エジプトの近代アラビア語文学史におけるナショナリズムの研究 |url=http://hdl.handle.net/10108/86228 |journal=言語・地域文化研究 |publisher=東京外国語大学大学院総合国際学研究科 |year=2016 |month=jan |volume=22 |issue= |pages=21-40 |naid= |issn=13419587 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|平|2016}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=武内旬子 |title=アルジュリア女性による90年代フランス語表現文学 |url=http://id.nii.ac.jp/1085/00001300/ |journal=神戸外大論叢 |publisher=神戸市外国語大学研究会 |year=2000 |month=oct |volume=51 |issue=5 |pages=41-72 |naid= |issn=02897954 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|武内|2000}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=竹村景子 |title=作家の語彙と造語力 : サイド・アフメド・モハメドの短編集から |url=https://doi.org/10.18910/71068 |journal=スワヒリ&アフリカ研究 |publisher=大阪大学大学院言語文化研究科 スワヒリ語研究室 |year=1991 |month= |volume=2 |issue= |pages=18-47 |naid= |issn=09158758 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|竹村|1991}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=竹村景子 |title=多民族国家における国家語の役割 : タンザニアのスワヒリ語の場合 |url=https://doi.org/10.18910/71068 |journal=スワヒリ&アフリカ研究 |publisher=大阪大学大学院言語文化研究科 スワヒリ語研究室 |year=1993 |month= |volume=4 |issue= |pages=34-99 |naid= |issn=09158758 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|竹村|1993}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=竹村景子 |title=「女性問題」と「イスラム」 : サイド・アフメド・モハメドの視点 |url=https://doi.org/10.18910/71068 |journal=スワヒリ&アフリカ研究 |publisher=大阪大学大学院言語文化研究科 スワヒリ語研究室 |year=1994 |month= |volume=5 |issue= |pages=46-62 |naid= |issn=09158758 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|竹村|1994}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = [[土屋哲]] |
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| year = 1994 |
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}} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[恒川邦夫]] |title=仏語表現黒人アフリカ文学管見(2) : センベーヌ・ウスマンの小説(承前) |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_61 |journal=言語文化 |publisher=一橋大学語学研究室 |year=1985 |month=nov |volume=22 |issue= |pages=33-51 |naid= |issn=04352947 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|恒川|1985}}}} |
|||
* {{Citation| 和書|author = {{仮リンク|レナード・トンプソン|en|Leonard Thompson (historian)}} | title = 南アフリカの歴史【最新版】| translator =宮本正興, 吉國恒雄, 峯陽一, 鶴見直城 | year = 2009 |
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| publisher = 明石書店| isbn = 9784750331003 |
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| ref = {{sfnref|トンプソン|2009}} |
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}}(原書 {{Cite| 洋書 |
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| author = Leonard Thompson. |
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| year = 2000 |
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| title = A HISTORY OF SOUTH AFRICA, Third Edition |
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| publisher = Yale University press. |
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}}) |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[中村隆之 (文学者)|中村隆之]] |title=ダヴィッド・ジョップの〈アフリカ〉 |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_61 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2018 |month=dec |volume= |issue=94 |pages=61-72 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|中村|2018}}}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = {{仮リンク|ネイサン・ナン|en|Nathan Nunn}} |
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| chapter = 奴隷貿易はアフリカにどのような影響を与えたか |
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| translator = 小坂恵理 |
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| publisher = 慶應義塾大学出版会 |
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| editor = [[ジャレド・ダイアモンド]], {{仮リンク|ジェイムズ・A・ロビンソン|en|James A. Robinson (economist)}} |
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| ref = {{sfnref|ナン|2018}} |
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}}(原書 {{Cite| 洋書 |
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| editor1 = Jared Diamond |
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* {{Citation| 和書 |
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| first = 雅之 |
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| author-link = 西江雅之 |
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| title = アフリカのことば アフリカ/言語ノート集成 |
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}} |
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* {{Citation| 和書 |
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| title = アフリカ学事典 |
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| editor = [[日本アフリカ学会]] |
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| year = 2014 |
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| ref = {{sfnref|日本アフリカ学会編|2014}} |
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}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=早川敦子 |title=自己と世界の境界:Elleke Boehmerの場合 |url=http://id.nii.ac.jp/1234/00000010/ |journal=津田塾大学紀要 |publisher= |year=2012 |month=mar |volume=44 |issue= |pages=19-35 |naid= |issn=02877805 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|早川|2012}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=平野淳一 |title=近代中東・イスラーム世界におけるプリント・メディアの歴史と構造 |url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009409514280960 |journal=情報処理学会研究報告 |publisher=情報処理学会 |year=2011 |month=apr |volume= |issue= |pages=1-8 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|平野|2011}}}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
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| first = 富士男 |
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| last = 福島 |
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| author-link = 福島富士男 |
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| title = アフリカ文学読みはじめ |
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| ref = {{sfnref|福島|1999}} |
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| publisher = スリーエーネットワーク |
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}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
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| author = [[ケネス・ポメランツ]] |
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| title = 大分岐 - 中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成 |
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| translator = 川北稔監 |
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}}(原書 {{Cite| 洋書 |
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| last = Pomeranz |
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| first = Kenneth L. |
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| author-link = |
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| year = 2000 |
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| title = The great divergence: China, Europe, and the making of the modern world economy |
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| isbn = |
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}}) |
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* {{Citation| 和書 |
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| author = {{仮リンク|アラン・マバンク|fr|Alain Mabanckou}} |
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| title = アフリカ文学講義 植民地文学から世界 ‐ 文学へ |
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| publisher = みすず書房 |
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| translator = 中村隆之, 福島亮 |
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| ref = {{sfnref|マバンク|2022}} |
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}}(原書 {{Cite| 洋書 |
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| last = Mabanckou |
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| first = Alain |
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| year = 2020 |
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| title = Huit leçons sur l'Afrique |
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| publisher = Grasset |
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| isbn = |
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}}) |
|||
* {{Cite journal|和書|author=溝口昭子 |title=ソル・プラーキのシェイクスピア劇『間違いの喜劇』のツワナ語翻訳『間違いの上の間違い』を巡る政治学 |url=http://id.nii.ac.jp/1632/00026488/ |journal=東京女子大学比較文化研究所紀要 |publisher=東京女子大学比較文化研究所 |year=2018 |month= |volume=79 |issue= |pages=29-47 |naid= |issn=05638186 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|溝口|2018}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=宮川朗子 |title=モンゴ・ベティ『強すぎる陽射しが愛を殺す』の複数性 |url=http://doi.org/10.15027/29365 |journal=表現技術研究 |publisher=広島大学表現技術プロジェクト研究センター |year=2010 |month=mar |volume= |issue=6 |pages=1-17 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|宮川|2010}}}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = [[宮本正興]] |
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| title = 文学から見たアフリカ |
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| ref = {{sfnref|宮本|1989}} |
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| publisher = 第三書館 |
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| year = 1989 |
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| isbn = |
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}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=宮本正興 |title=修羅の作家グギ・ワ・ジオンゴ評伝 -20世紀アフリカ文学の遺産- |url=https://doi.org/10.14989/doctor.r12863 |journal= |publisher=京都大学 |year=2014 |month=sep |volume= |issue= |pages=1-724 |ncid=AA12016400 |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|宮本|2014}}}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
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| author = |
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| ref = {{sfnref|宮本, 松田編|2018}} |
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| chapter = |
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| title = 改訂新版 新書アフリカ史 |
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| series = 講談社現代新書(Kindle版) |
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| editor1 = 宮本正興 |
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| editor2 = [[松田素二]] |
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| periodical = |
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| year = 2018 |
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}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=村田はるせ |title=アフリカで作家であるということ : ベルナール・ダディエ (Bernard Dadié) とヴェロニック・タジョー (Véronique Tadjo) から読む西アフリカのフランス語文学 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000025-I006676814-00 |journal= |publisher=東京外国語大学 |year=2010 |month=jan |volume= |issue= |pages=1-352 |naid= |issn=18845533 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|村田|2010}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=村田はるせ |title=文学としてジェノサイドを書く |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_73 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2018 |month=dec |volume=2018 |issue=94 |pages=73-83 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|村田|2018}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=望月克哉 |title=ナイジェリア石油産出地域における社会運動の展開とその背景(文献レビュー) |url=https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/pdf/2006_04_17_04.pdf |editor=重冨真一 |journal=『開発と社会運動 先行研究の検討』調査研究報告書 |publisher=アジア経済研究所 |year=2007 |month= |volume= |issue= |pages= |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|望月|2007}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=元木淳子 |title=1980年代のコンゴの状況と文学 : ソニー・ラブ・タンシを中心に |url=https://doi.org/10.20634/ellf.67.0_82 |journal=フランス語フランス文学研究 |publisher=日本フランス語フランス文学会 |year=1995 |month= |volume=67 |issue= |pages=82-93 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|元木|1995}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=元木淳子 |title=ジェノサイドの起源 : スコラスティック・ムカソンガの『ナイルの聖母マリア』を読む |url=http://doi.org/10.15002/00009915 |journal=法政大学小金井論集 |publisher=法政大学小金井論集編集委員会 |year=2013 |month=dec |volume=10 |issue= |pages=33-58 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|元木|2013}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=元木淳子 |title=分身の寓話--アラン・マバンクの 『ヤマアラシの回想』を読む |url=http://doi.org/10.15002/00003280 |journal=法政大学小金井論集 |publisher=法政大学小金井論集編集委員会 |year=2008 |month=mar |volume=5 |issue= |pages=57-70 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|元木|2008}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=元木淳子 |title=奴隷貿易の原点 : レオノーラ・ミアノの『影の季節』を読む |url=http://doi.org/10.15002/00012242 |journal=法政大学小金井論集 |publisher=法政大学小金井論集編集委員会 |year=2015 |month=mar |volume=11 |issue= |pages=33-51 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|元木|2015}}}} |
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* {{Cite journal|和書|author=米田信子, 若狭基道, 塩田勝彦, 小森淳子, 亀井伸孝 |title=アフリカの言語 |url=https://doi.org/10.11619/africa.2011.78_43 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2011 |month= |volume=2011 |issue=78 |pages=43-60 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|米田ほか|2011}}}} |
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* {{Citation| 和書|author = [[チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ]] | title = 男も女もみんなフェミニストでなきゃ| translator =[[くぼたのぞみ]] | year = 2017 |
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== 関連文献 == |
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* [http://www.bekkoame.ne.jp/~hirao-k/Africabooks.htm アフリカ文学日本語訳一覧] |
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2022年9月22日 (木) 12:33時点における版
アフリカ文学(アフリカぶんがく)は、文学におけるカテゴリーの一つで、アフリカ発祥の文学を指す。アフリカには56の国家と2000以上ともいわれる言語があり、各地の民族語に加えてアラビア語、英語、フランス語、ポルトガル語などで作品が発表されている。口伝による口承文芸から、出版物として世界的に読まれる作品まで存在する。
歴史的には、古代エジプトからの文学作品があり、イスラームの伝播にともないアラビア語の文学が書かれるようになった。19世紀のアフリカ分割による植民地化と、1930年代のネグリチュード運動を経て、1950年代には植民地主義への対抗や伝統的文化の価値が描かれた[1]。独立が相次いだ1960年代には独立国の問題が書かれ、1970年代には社会批判とともに詩や演劇の現代化が進み、民族語による創作も始まった[2]。1980年代には新植民地主義への対抗や、南アフリカにおけるアパルトヘイトへの抵抗が続き、他方でアフリカを離れた人々の視点が増えていった[3]。1990年代には民族主義とは異なる価値観を持つ作家が輩出され、社会の急激な変化を注視しつつ創作を続けている[3]。
定義
アフリカ文学は言語・民族・地理などの境界によって定義することが困難とされる。母語となる言語が多数あり、地域による文化の特徴が多様であり、国外での生活が常態化しているためである[4]。国際的な文学賞におけるアフリカ人作家の定義は、本人がアフリカ生まれであること、アフリカの国籍を有すること、両親のどちらかがアフリカの国籍を有することのいずれかとなっている[注釈 1][5]。
アフリカ文学の研究者の間では、どの地域をアフリカ文学に含めるかで意見の相違がある。サハラ砂漠以南のアフリカはサブサハラと呼ばれ、黒人の住民が多いためにブラックアフリカとも呼ばれる。他方で地中海に面している北部アフリカは、アルジェリア・チュニジア・モロッコ等を合わせてマグリブと呼ばれる。マグリブとは「日の没する処」という意味のアラビア語に由来し、中東世界を基準とする地域名である。このため北部アフリカをアフリカ文学に含めない研究者もいる。他方で、あえて自身について「アフリカ人作家とこそ名乗らなければならない」と主張したアルジェリアのカテブ・ヤシーンのような作家もいる[6]。
アフリカ出身の作家や批評家には、さまざまな事情により国外で暮らす者が多い(後述)。そのため出身地だけをアイデンティティの特定に使うのは適切ではないともいわれる[7]。たとえばアフリカ人初のノーベル文学賞受賞者のウォーレ・ショインカは、政府の弾圧を逃れてナイジェリアを去り、アメリカ等で生活しながら世界各地の大学で講義を行なったのちに故郷のアベオクタに帰った[注釈 2][9]。こうした状況は、アフリカ文学の担い手とは誰なのかという問いをもたらしている[7]。
歴史
エジプトには古代エジプト文学の作品が残されており、文学という言葉は全ての書字を含む場合がある。それらの作品はオストラカ、パピルス、石碑などに記されている[10]。古代エジプトには知恵文学という分野があり、内容は教訓的なセバイトと、厭世的な論説に分かれる。最古のセバイトは紀元前2550年頃のハルジェデフの作品とされる[11]。中王国時代から物語が書かれるようになり、中でも『シヌヘの物語』が知られている。新王国時代にはジャンルが増えて新エジプト語で書かれた。プトレマイオス朝ではデモティックで書かれており、最も知られているのは英雄的な冒険譚である[注釈 3][13]。3世紀から4世紀に誕生したコプト文字や、紀元前数世紀頃にアラビア半島からアビシニアへ移住した人々が使ったゲエズ文字による聖書の翻訳や宗教詩的、年代記的な文献がある[14][15]。
7世紀 - 15世紀
7世紀以降にイスラームがアフリカへ広まるにつれてアラビア語の話者が増えた[16]。9世紀頃からイスラーム王朝による奴隷貿易が行われ、当時のアラビア語文献による差別的な黒人観は後世にも影響を与えた(後述)[注釈 4][18]。各地の言語がアラビア文字によって文字化され、イスラーム文学が書かれた[注釈 5][16]。これらの文芸作品の多くは韻文で、イスラーム教徒としての生き方を説いている[19]。アラビア語文学には、歴史・物語・学問の散文を詩にまとめる教育的韻文と呼ばれる分野があり、この韻文化はアッバース朝の前期に始まり、北部アフリカへ伝わった[20]。文字を使わない地域では、出来事や王の系譜が口頭伝承によって伝えられた[21]。
東部アフリカでは13世紀頃からイスラームを信仰するスワヒリ語の話者としてスワヒリ人がいた。東部アフリカの伝承を集めた史料として『キルワ年代記』があり、原本は16世紀とされる[22]。17世紀頃にスワヒリ語がアラビア文字で筆記できるようになり、説教詩、英雄や預言者の生涯、戦争などをテーマした叙事詩が書かれた[23]。
西部アフリカではサハラ交易の拠点だったトンブクトゥが学問の街としても栄え、13世紀から17世紀にかけて書物が収集され、数十万部ともいわれるアラビア語写本が作られた。これらはトンブクトゥ写本と呼ばれ、法学、医学、数学、文学などについて書かれている[注釈 6][25]。モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータは14世紀前半にアフリカやアジアを旅行し、『大旅行記』を口述した。マンデ人の最大の口承作品は『スンジャタ叙事詩』で、14世紀に栄えたマリ帝国と国王スンジャタ・ケイタの生涯を語りと歌で伝えている[26]。
16世紀 - 18世紀
16世紀からヨーロッパ諸国[注釈 7]による大西洋奴隷貿易が急増し、1200万人ともいわれる人々が連れ去られた[注釈 8][30][28]。奴隷貿易によるアフリカ人とヨーロッパ人の接触によって、アフリカ人がヨーロッパ由来の言語で文芸作品を書くようになった[31]。
南部アフリカでは、17世紀にオランダ東インド会社による植民が始まり、アフリカ人の他にアジアからも奴隷を輸入して労働力とした[32]。ケープタウンの人口は増えたが、18世紀末に東インド会社は破産して19世紀にイギリス領のケープ植民地が成立する[33]。この時期を舞台にした作品が、のちにオランダ系白人を中心とするアフリカーナーの作家によって多数書かれることになった(後述)[34]。
東部アフリカ文芸作品の最古の記録は『タブクの戦いの書』の写本(1728年)で、アラビア文字の写本が残っているが原本はスワヒリ語で書かれていた可能性がある[23]。古典的なスワヒリ語詩の登場人物は女性が中心で、作者や聴き手にも女性が多かった[35]。アラビア語による韻文化は、北部アフリカをへて17世紀には西部アフリカまで伝わった[20]。
アフリカ人がヨーロッパの言語で書いた最初期の作品として、オラウダ・イクイアーノの『アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語』(1789年)がある[31]。イクイアーノは別名グスタブス・バサといい、故郷のベニン王国で誘拐されて奴隷として売られた。解放された後は奴隷制度廃止運動に参加し、奴隷体験記を英語で発表した[注釈 9][37]。
19世紀
19世紀初頭には奴隷貿易の廃止が進み、奴隷制度も19世紀前半に廃止が進んだ。しかし、ヨーロッパ諸国は奴隷貿易に替わってアフリカの植民地化を進め、アフリカを原料供給地や製品市場とみなして占領、統治した[注釈 10][39]。宗主国の言語がアフリカで公用語に定められ、植民地の行政や教育で宗主国の言語が強制され、アフリカ文学の創作でこれらの言語が使われる原因となった[40]。
アフリカ各地でキリスト教の布教が行われ、それにともない聖書がアフリカの言語に翻訳され、布教のための辞書や文法書、教科書も作られた[注釈 11][41]。文字のなかった地域では、宣教師が布教目的でアルファベット形式の文字を作った。文字になった民族語は現実の言語とのずれがあったものの、言語の定着と文芸作品へとつながっていった[42]。
口承文芸が外部の者によって文字に記録されるようになった。19世紀中頃からドイツの言語学者ヴィルヘルム・ブリァクはサン人の言語と物語を記録した[43]。イギリスの宣教師エドワード・スティアは収集した話をもとに『スワヒリの昔話』(1870年)を発表した[44]。西部アフリカのハウサ人の『カノ年代記』は、口頭伝承の内容が19世紀に北アフリカからの外来者によってアラビア文字に記録されたと推測される[26]。マダガスカルではマダガスカル語、クレオール語、コモロ語の口承文芸があったが、フランスの植民地化によってフランス語の大衆文学が読まれた。マダガスカル語文学の作家の国外追放や、フランス語雑誌の普及も影響し、フランス語文学が主流となった[45]。
最初のヨルバ語作家といわれるサミュエル・クラウザーは、奴隷船から救い出されてイギリスで学び、アフリカへ戻って布教を行った人物で、ヨルバ語の辞典も編纂した[46]。西部アフリカでの最初期のフランス語の記録として、セネガルの探検家のレオポル・パネによる1850年の記録や、神父のダヴィッド・ボワラの『セネガル素描』(1853年)がある。パネとボワラはともに混血だった[47]。
南部アフリカでは、1820年代にスコットランドの詩人トマス・プリングルがケープ植民地を訪れ、アフリカーナーによって奴隷状態で使役されている先住民族を憂い、詩の中では自然の中で暮らす先住民族を讃えた。プリングルは言論の自由や英語文学の発展に貢献し、帰国後は奴隷廃止運動に参加した[48]。最初期の英語小説であるオリーブ・シュライナーの『アフリカ農場物語』(1883年)は、白人女性の立場からケープ植民地での生活や、人種、宗教、女性の労働や女性参政権について書いている[40]。ラテン文字によって書かれたコーサ語によるキリスト教文学も存在した[16]。
東部アフリカではスワヒリ詩がアラビア文字で表現された。『ムワナ・クポナの娘』(1858年)はイスラームの教訓詩で、スワヒリ語圏で最も広範に知られている古典作品に属する。この詩の作者ムワナ・クポナは19世紀のスワヒリ人の詩人で、人生について娘に教え諭す内容になっている[35]。東部アフリカは19世紀にオマーン帝国の侵攻を受けた影響で、人々を団結させる詩が作られるようになった。それまでイスラームの知識人が書き宗教的な内容が中心だったスワヒリ詩が、庶民も創作し身近な題材を書くようになった[49]。この時代の詩人にムヤカ・ビン・ハジ(Muyaka bin Haji al-Ghassaniy)がおり、スワヒリ詩を「モスクから市場へ持ち出した」と評価されている[注釈 12][23]。
北部アフリカでは、マグレブと呼ばれるモロッコ、アルジェリア、チュニジアをフランスが植民地化した。中でも1830年代から植民地化が進んだアルジェリアはコロンと呼ばれる入植者が増え、フランス語をもとにして独自の創作が始まった。元来の民族語に加えて、各地からやって来た移民の言語も混じり、マグレブには混淆文化が生まれた[注釈 13]。アルジェリア初の流行作家ミュゼット(Musette)は、パタウェットやサビールと呼ばれる混成語を駆使してアルジェリア文学を開拓した[51]。
1900年代 - 1920年代
宗主国や言語を超えて植民地のアフリカ人が協力する運動が始まった。中でもパンアフリカニズムは作家も参加し、のちの植民地解放にも影響を与える運動となる[注釈 14][52]。アメリカ合衆国で人種分離政策が進められると、アフリカ系アメリカ人の作家にはヨーロッパへ亡命する者がいて、特にフランスへの亡命者が多かった。フランスにはアフリカの植民地から移り住んだ者も多く、パリでは黒人作家の交流が行われた[注釈 15][55]。
植民地には宗主国の文芸作品も流入した。19世紀末から20世紀初頭にかけてのケープ植民地では同化政策が進められ、シェイクスピアの作品はアフリカ人が教養を示す証としても用いられた[注釈 16][56]。しかし原住民土地法 (1913年)をはじめとして黒人の権利の剥奪が進み、ツワナ人の作家・ジャーナリストであるソル・プラーキは法律の撤回運動に参加した。プラーキは『ヴェニスの商人』や『リア王』を引用しつつ、イギリス政府を批判した[57]。
記録にある最初期のアフリカ人女性小説家として、リリス・カカザ(Lilith Kakaza)がいる。カカザは1913年か1914年頃にコーサ語で中編と長編の小説を書いた[58]。ルネ・マランのフランス語小説『バトゥアラ』(1921年)は、「真のニグロ小説」と副題がついており論議を呼んだ。マランはフランス領ウバンギ・シャリで植民地行政研修官をしており、『バトゥアラ』は植民地制度に対する風刺を含んでいるが、制度自体への問題提起ではなかった[注釈 17][60]。
北部アフリカのフランス領アルジェリアでは、植民者コロンの文学はアラビア語文学よりも盛んになった[61]。コロンの2世代目にあたる作家のロベール・ランドーやルイ・ベルトランらは、アルジェリアニスムと呼ぶ文学運動を起こした。アルジェリアニスムの参加者は、移民の混淆文化によってフランスとは異なるアルジェリア独自の文学が誕生したと宣言し、その後の世代の作家はアルジェ派とも呼ばれた[注釈 18][51]。チュニジアではユダヤ人作家を中心にフランス語文学が書かれるようになった[63]。エジプトは1919年のエジプト革命から独立が進んだ影響でナショナリズムが高まり、エジプト固有の歴史への注目が集まった。1920年代以降は古代エジプトのファラオの時代を舞台にした歴史小説が書かれた[注釈 19][65]。
東部アフリカはドイツとイギリスに植民地化され、スワヒリ語の詩はアラビア文字からラテン文字に移行した。海岸地方の文化だったスワヒリ語の文芸作品が内陸地方でも読まれるようになった[注釈 20][66]。
1930年代
フランス語圏の黒人を中心としてネグリチュード運動が起きた。アフリカ、フランス、カリブ海、アメリカ合衆国などの黒人たちが、出身地域を越えて人種主義への対抗と黒人思想の解放を目指す運動だった[67]。ネグリチュードの先駆けとして、1931年に創刊された雑誌『黒人世界評論』がある。発行者はポーレット・ナルダルとジャンヌ・ナルダル姉妹で、全ての評論・エッセイがフランス語と英語の2言語で表記され、政治を含まない議論の場を提供し、黒人文化を「ネーグル」の文化と表現した。黒人としての意識を共有したナルダル姉妹の活動は、ネグリチュードの誕生に影響を与えた[注釈 21][68]。
ネグリチュードを主導したマルチニークのエメ・セゼール、セネガルのレオポール・セダール・サンゴール、フランスのレオン=ゴントラン・ダマスらはフランスに留学していた詩人で、当初は詩の流派として表現された[69]。ダマスは『色素』(1937年)、セゼールは『帰郷ノート』(1939年)を発表し、『帰郷ノート』ではじめてネグリチュードという言葉が現れた[70]。サンゴールはフランスの高等教育を身につけた開化民(エヴォリュエ)と呼ばれるアフリカ人だったが、自らが受けたフランスへの同化教育を否定してアフリカ文化を称揚した[71]。
南部アフリカでは、1930年に黒人による最初の英語小説として、ソル・プラーキの『ムーディ』やズールー人のR・R・R・ドローモの『あるアフリカ人の悲劇』が出版された[72][40]。ソト人のトーマス・モフォロはソト語で『チャカ』(1931年)を発表した[73]。プラーキやモフォロは宣教師会の学校で教育を受けており、その作品は口承文芸の伝統にもとづきながらキリスト教倫理を含んでいた[注釈 22][74]。1930年代には黒人による演劇運動も起き、バンツー人演劇協会(1932年)を先駆けとして各演劇団体が設立された[注釈 23][76]。
北部アフリカでは、独立後の1920年代のエジプトで流行した古代エジプトテーマの作品が急減した[77]。エジプトの詩においては、アーンミーヤの作品が増えた。アラビア語には学習によって身につける共通語としてのフスハーと、地域固有のアーンミーヤがあり、それまでの文芸作品で使われていたフスハーに代わってアーンミーヤで創作が行われた。アーンミーヤの詩は1919年のエジプト革命の時期に反英闘争の手段として使われたことをきっかけに増え続け、バイラム・アル=チュニシーはアーンミーヤ詩人としてのちの作家に影響を与えた[78]。
1940年代
1947年にはアリウン・ジョップが雑誌『プレザンス・アフリケーヌ』を創刊し、セゼール、サンゴール、ダマスらも寄稿した[79]。同誌の重要作家だった詩人のダヴィッド・ジョップはセネガル人を父、カメルーン人を母としてフランスに生まれ、植民地主義を激しく批判する詩を発表した[80]。サンゴールは『影の歌』(1945年)を発表したほか、『フランス語表現ニグロ・マダガスカル新詞華集』(1948年)を編纂した。この詩集によって、フランス語で創作をするアフリカの詩人が知られるようになった[注釈 24][79]。
南部アフリカでは、鉱山で急速に発展したヨハネスブルグに黒人労働者が集まり、ドローモやピーター・エイブラハムズは都市の黒人を主題にした。ドローモはヨハネスブルグを舞台に短編小説を開拓した[82]。ヨハネスブルグ出身のエイブラハムズは『坑夫』(1946年)で金鉱山の黒人の世界を描いた[83]。国外から南アフリカの鉱山へ働きに行く者たちの運命や別れを、モザンビークのジョゼ・クラヴェイリーニャやアンゴラのアントーニオ・ジャシントは詩にうたった[84]。南アフリカ連邦(のちの南アフリカ共和国)では1948年にアパルトヘイト(人種隔離政策)が始まり、検閲や投獄によって作家や文学に影響を与えた(後述)[85]。
北部アフリカでは、ナギーブ・マフフーズがカイロの下町を舞台とした小説を精力的に発表した。マフフーズの作風には、1919年のエジプト革命が影響を及ぼしている。人々が宗教を越えて協力した19年革命は、ナショナリズムとリベラリズムを核にしていた。マフフーズはその点を意識しつつ、エジプト人のアイデンティティをめぐって創作を続けた[注釈 25][86]。
東部アフリカでは、1948年にイギリス領東アフリカで東アフリカ文学局が設立されてスワヒリ語の育成を行った。近代スワヒリ文学の祖といわれる詩人のシャアバン・ビン・ロバートは、東アフリカ文学局につとめた植民地官吏でもあった。一貫してスワヒリ語で創作をしたシャアバンの姿勢は、後の世代の作家に影響を与えた[87]。
1950年代
1950年代以降、アフリカでは脱植民地化と独立が相次いだ[注釈 26]。この時期には、植民地支配のさまざまな面を非難するとともに、アフリカの伝統に注目した作品が多数書かれた[89]。カメルーンのモンゴ・ベティは「ブラック・アフリカ、薔薇色の文学」という論文を発表し、アフリカの作家に対して植民地政府に対するアンガージュマンを呼びかけた[90]。また、旧宗主国の言語ではなくアフリカの言語を使って創作をするという運動が1950年代から始まった[91]。
北部アフリカでは、1950年代前半から独立が進んだ[92]。フランス語マグレブ作家が活発になり、アルジェリアではムールード・フェラウンの『貧者の息子』(1950年)をきっかけとして、ムハンマド・ディブやカテブ・ヤシーンらが続いた。1954年には解放闘争であるアルジェリア戦争が始まり、この時期に作品を発表した作家たちは54年世代とも呼ばれた[注釈 27][61]。ヤシーンは、マダガスカル蜂起を主題とした「さまよえる民」(1950年)という詩でマダガスカル人に連帯を表明し、アルジェリア戦争中には小説『ネジュマ』(1954年)を発表した[93]。
西部アフリカでは、コートジボワールのベルナール・ダディエが『クランビエ』(1956年)でフランス語がもたらす文化変容の問題を扱った。カメルーンのフェルディナン・オヨノは『老いぼれニグロとメダル』(1956年)でアフリカ人がフランス軍の兵士として動員される不条理を描いた[94]。ナイジェリアのチヌア・アチェベは『崩れゆく絆』(1958年)でイボ人の伝統的社会が植民地支配で崩壊する様子を描き、世界的に注目されて40以上の言語に翻訳された[注釈 28][95]。
南部アフリカでは、南アフリカ連邦の都市部で人種の分断が進み、黒人居住区について書かれるようになった[97]。1950年には黒人文芸誌『ドラム』が創刊されて作家デビューの場となった[注釈 29][98]。
1960年代
「アフリカの年」と呼ばれる1960年には17カ国が独立し、サブサハラのフランス領は全て独立国となった。イギリス領は地域によって時期や形態が異なり、最も遅かったのはポルトガル領だった[注釈 30]。またベルギー領の独立をめぐってはコンゴ動乱が起きた[100]。この時期には作家の方法論が大きく分かれていった。1つは文学の役割を植民地支配からの解放とする方法があり、もう1つは自分の芸術に応じてテーマを決める方法だった。方法論をめぐっては作家の間で論争も起きた[101]。
西部アフリカでは、セネガルのセンベーヌ・ウスマンが『神の森の木々』(1960年)で、民衆に支持された1947年のセネガルの鉄道員ストライキを題材として労働者の権利と植民地統治の誤りを描いた[注釈 31][94]。ネグリチュードの主導者の1人だったサンゴールは、1960年にセネガルの初代大統領となった[71]。
東部アフリカでは、独立したタンザニアがスワヒリ語を公用語としたことで、それまで各民族が創作していたスワヒリ語作品が国民文学として扱われるようになった。ユーフレイズ・ケジラハビは、スワヒリ語で初めて自由詩や実験的小説を発表した[注釈 32][66][103]。ムハンマド・サイド・アブドゥラはスワヒリ語最初の探偵小説『祖先の霊場』(1960年)をはじめ中短編小説を多数発表した[104]。
南部アフリカでは、1960年のシャープビル虐殺事件をきっかけとして南アフリカの言論・表現の自由はさらに抑圧され、1961年に南アフリカ共和国が成立してアパルトヘイト政策が続いた[98]。マダガスカルでは流刑にされたジャック・ラベマナンザーラが獄中で創作を続けて戯曲で支持を得て、独立後のフィリベール・ツィラナナ政権で閣僚となった[注釈 33][106]。
1970年代
アフリカ諸国の政治的な独立が進んだものの、経済的な自立は困難だった。植民地時代の経済が宗主国の利益のために制度化されていたため、独立後の経済開発が難航した[注釈 34][107]。加えて政変が起きた国が多く、経済政策の一貫性が保てなかった。経済政策を強力に推進するための一党制が変質し、汚職を招くという弊害も起きた[注釈 35][109]。
この状況で、1950年代から1960年代に活動した作家たちの発表は少なくなり、次の世代の作家がアフリカ人社会の中での個人・民衆のアイデンティティや、社会秩序を模索した[110]。独立後の問題を題材にした作品も発表された。指導者や中産階級の繁栄の陰で、その他の大衆が犠牲になる状況を憂う作家が増えた[111]。アフリカの独立が期待とは異なり、白人植民者が黒人独裁者に取って代わった時の失望が書かれ、アフロ・ペシミズムとも呼ばれた[112]。
1970年代以降には女性の作家による作品が増えていった(後述)[113]。ベッシー・ヘッドは南アフリカのアパルトヘイトから逃れてボツワナへ移住し、精神をわずらって入退院を繰り返しながら作品を書き続けた[114]。ナワル・エル・サーダウィーは、『女性と性』(1972年)でアラブ圏の小説として初めて女性器切除の習慣を公然と批判した[115]。マリのアワ・ケイタは『アフリカの女』(1978年)で助産婦や活動家としての人生を描いた[113]。
西部アフリカでは、独立後の問題に目を向けた作品が多数書かれた。コートジボワールのアマドゥ・クルマ『独立の偉大な太陽たち』(1968年)、ギニアのアリウム・ファントゥレ『熱帯園』(1972年)、カメルーンのモンゴ・ベティ『カメルーン強奪』(1972年)、コンゴ共和国のソニー・ラブ・タンシ『一つ半の生命』(1979年)などの作品がこれにあたる[116][112]。セネガルのアミナタ・ソ・ファルは『乞食のストライキ』(1979年)で国家の発展の邪魔者とされた乞食たちがストライキをするという物語で社会批判をした[117]。
北部アフリカでは、移民がフランスで社会問題となった影響で、マグレブ移民についての作品が増えた。アルジェリアのラシッド・ブージェドラの『典型的襲撃に理想的なトポグラフィー』(1975年)やムハンマド・ディブの『ハベル』(1977年)、モロッコのターハル・ベン・ジェルーンの『孤独な禁固重労働』(1976年)などがある[118]。フランス語で執筆するマグレブの作家たちの作品は、フランス語マグレブ文学と呼ばれるようになった[6]。アルジェリアではアラビア語文学が70年代から80年代にかけて活発になり、アブデルハミード・ベンハッドゥーガとターハル・ワッタールの2人が現代アルジェリアのアラビア語文学の先駆者とされる[注釈 36]。古典文学を学ぶだけでは現代的な小説を書くことは困難であり、2人ともチュニジアのザイトゥーナ大学で教育を受けた際に、レバノンやエジプトのアラビア語小説に接した[120]。
東部アフリカでは、ケニアのメジャ・ムアンギが『早く俺を殺してくれ』(1973年)をはじめとする数作でナイロビのスラム街と都市労働者の生活を描いた[注釈 37][122]。グギ・ワ・ジオンゴは長編小説第2作『血の花弁』(1977年)で独立ケニアの利権争いや汚職などを取り上げつつ、ギクユ語の戯曲を発表して民族語文芸の運動も進めた[123]。サイド・アフメド・モハメドは小説、戯曲、詩集などを手がけ、最も精力的なスワヒリ語作家となった[44]。
南部アフリカでは、南アフリカの検閲強化によって小説の発表が減り、若い作家を中心に詩作が増えた。アパルトヘイトの状況を直接に描写する小説よりも、象徴的に表現しやすい詩が選ばれるようになった。オズワルド・ムチャーリの詩集『牛皮のドラムのひびき』(1971年)は黒人の尊厳を唄いあげて若者に影響を与え、ソウェト蜂起などのエネルギーの源となった[注釈 38][125]。1978年に反アパルトヘイトの雑誌『スタッフライダー』が創刊され、抑圧に抵抗する作家や芸術家の活動の場としてアパルトヘイト廃止後の1996年まで続いた[注釈 39]。『スタッフライダー』には編集部が存在せず、誌面は寄稿者主導だった。有名作家と新人作家の作品が並び、一般の投稿作品も掲載された[126]。
1980年代
アフリカ大陸だけではなく、移民をはじめとしてアフリカから離れて暮らす人々についての作品が増えていった。加えて、移民が置かれた状況や不満、不正に注目する作家が増えた[注釈 40]。
1970年代以降はアフリカで内戦が増えた時代でもあり、植民地時代に地域や民族が分断された影響で対立が起きた[注釈 41][128]。こうした社会背景によって内戦についての作品が発表されるようになった(後述)[127]。独立戦争についての作品も書かれ続け、アンゴラのペペテラはアンゴラ独立戦争で兵士として参加した体験をもとに『マヨンベ』(1980年)を発表した[127]。
1986年には、アフリカ人初のノーベル文学賞としてナイジェリアのウォーレ・ショインカが受賞した。ショインカは諷刺に優れた劇作家で、新旧の文化の不整合や不合理を表現し、アフリカ劇とヨーロッパ演劇の融合を目指して演劇の普及にもつとめた[129]。ショインカは受賞後の1987年に「私の受賞を大騒ぎする必要はない。アフリカにもノーベル賞のような賞を制定して、50年目か100年目かにヨーロッパ人に初めて与えれば、誰もが大騒ぎするだろうか」と語った。この発言には、ショインカの特徴である諷刺とともに、文化の多元主義をすすめる意図が込められていた[130]。
南部アフリカでは、1980年代から南アフリカの民主化運動が活発になり、政府は非常事態宣言を出した。ミリアム・トラーディはソウェト蜂起を題材にした『アマンドラ』(1980年)、ジャブロ・ンデベレは『愚者たち』(1983年)を発表した[131]。タンザニアのペニナ・ムハンドは社会・政治の混迷と腐敗を風刺する戯曲『臭いものに香水』(1984年)を発表した[132]。
1990年代
旧宗主国の言語ではなくアフリカの言語で創作をする活動が続けられ、出版もされた。西部アフリカでは、1980年代末からウォロフ語の詩集が出版された。初のウォロフ語小説として、セネガルのマーム=ユヌス・ジェンが『アーウォ・ビ(第1夫人)』(1992年)を発表した[注釈 42][133]。識字教室の成果として、1995年にはNGOのTOSTANが編集したウォロフ語詩集『あふれ出る思い - 農村の女性たちの詩』が発行された[134]。この詩集には、それまでは語られてこなかった農村女性の感情や価値観が当人たちによって表現されている[注釈 43][135]。
北部アフリカでは、1991年から10万人以上の死者を出すアルジェリア内戦が起き、アルジェリア作家によるフランス語作品が多数フランスで出版された[136]。フランス語で執筆する作家の中には、フランスへの移住を選ぶ者もいた[注釈 44][137]。ジャーナリスト・作家のターハル・ジャウートが暗殺される事件が起きるなどテロによる民間人の犠牲が増え、ブアレム・サンサルやヤスミナ・カドラはテロをテーマに執筆した。また、アルジェリア女性作家として初の長編小説となったアフラーム・モスタガーネミーの『肉体の記憶』(1993年)はベストセラーとなった[138]。
南部アフリカでは、1991年にアパルトヘイト政策の廃止が宣言され、1994年の総選挙後には亡命していた作家たちが帰国して教育や政治面で国づくりに参加した。ジャブロ・ンデベレはノース大学の学長、アメリカでアフリカ文学を教えていた詩人のブレロ・ムザマネはフォートヘア大学の学長、アメリカで教鞭をとっていたズールー民族詩人[139]のマジシ・クネーネはナタール大学の教授になった[140]。
1990年代にはアルジェリア、ソマリア、リベリア、ケニアなどで紛争が起き、中でもルワンダとブルンジの状況が激しかった[141]。1994年に起きたルワンダ虐殺はアフリカの作家に大きな影響を与え、文学プロジェクト「ルワンダ、記憶する義務によって書く」が企画され、約10人の作家が参加した(後述)[142][127]。
都市化にともなって民族間の結婚が増え、西部や東部アフリカで混淆文化を形成した[143]。この影響で、新しい家族観にもとづく作品が書かれるようになった(後述)[144]。また、移民についての作品も増え続けた。セネガルのケン・ブグルの『リワン、あるいは砂の道』(1999年)には、ヨーロッパに滞在したのちに故国に帰って伝統的な生活を選ぶ語り手が登場する[127]。
アフリカ文学史の全体をまとめた研究書として、『Story of Twentieth-Century African Literature』(1993年)が出版された。1章から5章が英語圏アフリカ文学、6章から8章がフランス語圏アフリカ文学、9章がポルトガル語圏アフリカ文学、10章がアフリカ諸語文学、11章が女性作家、12章が言語の問題、13章がアフリカの出版という構成になっている[145]。
2000年代以降
アフリカから世界各地に住む移民や難民についての作品が増え続けている。故郷から離れた者の孤独、伝統文化と異国で身につけた文化の選択、新たな不正などが題材となった。出身地のアフリカよりも各地の移民が置かれた状況に眼を向ける作家が増えており、ネグリチュードと移住を合わせた「ミグリチュード」という造語も現れた[127]。この世代の作家として、スーダンのレイラ・アブルエラー[146]、コンゴ共和国のアラン・マバンク、トーゴのコシ・エフゥイ、ガボン人とスイス人が両親のベソラ、ジブチのアブドラマン・ワベリ、ナイジェリアのベン・オクリやチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ、ジンバブエのノヴァイオレット・ブラワヨ [要出典]らがいる。アフリカと欧米を往来する生活を送る作家も多い[147]。アフリカ研究が各国で行われるようになり、欧米でアフリカ文学を教えるアフリカ人作家も増えた[注釈 45][151]。
アフリカにとって奴隷貿易は重要な史実であるが、文芸においては半ばタブー視されていた。奴隷貿易を行ったのはヨーロッパ人だけでなくアフリカ人にもいたため、いまだにデリケートな問題になっている[注釈 46][154]。トーゴのカンニ・アレンは『奴隷たち』(2009年)でダホメ王国の奴隷貿易を描いた。カメルーンのレオノーラ・ミアノは『影の季節』(2013年)で、奴隷貿易による荒廃が進む前の時代における奴隷狩りを描いた[155]。
2011年からアラブの春と呼ばれる民衆運動と政変が起きた。発端となったのはチュニジアのジャスミン革命であり、現地のデモではアブー・アル=カースィム・アッ=シャーッビーの詩の一節が歌われた。エジプトのデモでは、アーンミーヤ詩人のアブドッラフマーン・アブヌーディが『広場』と題する100行以上の詩を朗読し、タハリール広場のデモ参加者に連帯するとともにホスニー・ムバーラク大統領の辞任を呼びかけた[注釈 47]。アラビア語の詩は、イスラーム前の時代から社会の価値観に形を与える役割を持っており、民衆運動と詩の連動はアラビア語詩の伝統に連なるといわれる[注釈 48][156]。
南アフリカでは、アパルトヘイト時代の埋もれた歴史を掘り起こす作品が書かれた。他方で、歴史にとらわれずに創作をする世代の作家たちも輩出されている[注釈 49][157]。
言語
アフリカの言語は2011年時点で2000以上があるとされ、世界で話されている言語の30%以上になる[158]。アフリカでの言語の使用は重層的で、1地域内に複数の言語があり、1人が複数の言語を使う場合が多い[注釈 50][160]。元から存在する多数の言語に加えて、植民地時代に宗主国の言語である英語、フランス語、ポルトガル語などが公用語となった。言語による支配と被支配の関係が明らかだったため、創作でどの言語を選ぶかが、政治的な態度表明と見なされやすい。これは作者が創作する時だけでなく、読者にとっても重要となる[注釈 51][161]。文字として書式が確立されていない言語もある[162]。
各地域によって、主に次のような言語が使われている。
- 北部アフリカ:ベルベル諸語、セム諸語、クシ諸語、オモ諸語、ナイル・サハラ諸語、アラビア語[注釈 52]、フランス語[注釈 53][163]。
- 西部アフリカ:チャド諸語(最多はハウサ語)、マンデ諸語、フルフルデ語、ヨルバ語、アラビア語、フランス語[注釈 54]、英語[注釈 55]、ポルトガル語[注釈 56][164]。
- 東部アフリカ:バントゥ諸語(最多はスワヒリ語)、ナイル諸語、クシ諸語、コイサン諸語、フランス語[注釈 57]、英語[注釈 58][166]。
- 南部アフリカ:バントゥ諸語(最多はショナ語、ズールー語)、コイサン諸語、アフリカーンス語、ポルトガル語[注釈 59]、英語[注釈 60][168]。
口語
口承文芸は、肉声で演じられ人々に聴かれることで伝えられる。アフリカの口承文芸は、言葉だけでなく演じる場所、身体や音楽の表現、演者と聴者などが合わさって成立する[169]。全ての年齢層にわたって演じられ、コミュニティの構成員全員が参加することで、生活の知恵や生活の指針などを伝え、コミュニティの維持に役立てている[170][171]。
職業的に口承文芸を演じる者がアフリカ各地におり、物語や音楽を伝える吟遊詩人として、西部アフリカのグリオや、エチオピアのアズマリ、ラリべロッチ(Lalibalocc)などが知られる[172]。スワヒリ詩の口承文芸で最も人気があるのはターラブという形式で、恋愛などの人間関係を歌う内容が多く、東部アフリカでポピュラー音楽として聴かれている[173]。
口頭伝承の一種として、トーキング・ドラムやドラム・ランゲージと呼ばれる太鼓を使った言語がある。モシ人には王朝の系譜をトーキング・ドラムで語る楽師がおり、ベンドレと呼ばれる太鼓を使う[174]。モンゴ人を中心とする熱帯林地域の人々は、長距離伝達用の太鼓を使う[175]。モンゴ人の伝達用太鼓の言葉は韻文として表現され、太鼓文学とも呼べる内容を持っている[176]。
かつて口承文芸は個々の集団で演じられていたが、アフリカ各地が独立国になってからは、国民全体で共有する国家の文化遺産とされた。こうして口承文芸は言語面だけが取り出されて翻訳・印刷され、教育や教養として読まれている[177]。社会的機能が失われた作品は継承が困難になるため、語り手がいなくなる前に収集を進めている国立大学もある[44]。
口承文芸を調査・研究する作家もおり、ズールー語の創作と研究を行ったマジシ・クネーネ[178]、サン人と生活したローレンス・ヴァン・デル・ポスト[179]、マリのフルベ人であるアマドゥ・ハンパテ・バーらがいる。ハンパテ・バーは1960年のユネスコ大会で「アフリカでは、老人1人が死ぬとは、図書館1つが燃えてしまうことだ」と語った。この発言は、複数ある情報源の1つを守る必要があるという主旨だったが、文字に対する口承の優位を示していると誤解される場合がある[180]。口承文芸を背景に持ちながら執筆した作家にはナイジェリアのエイモス・チュツオーラがおり、小説『やし酒飲み』(1952年)は口承文芸的な内容ながら欧米でも支持された特異な作品にあたる[181]。南部アフリカにはイジボンゴと呼ばれる口承文芸があり、作家に影響を与えている[注釈 61][182]。
文語
19世紀末までに使われていた伝統的な文字は、エジプト文字、コプト文字、アラビア文字とそこから派生したアジャミ文字、ベルベル人のティフィナグ文字、エチオピアのゲエズ文字、バムン人のバムン文字、リベリアのヴァイ文字などだった[183]。特にアラビア文字の文献が多い。
植民地時代と比較すればアフリカ諸国の識字率は向上したとはいえ、いまだに言語の壁は厚い。どの言語で書くかという問題は1930年代から論じられており、ネグリチュード運動の詩人ダヴィッド・ジョップは、支配者側の言語を使うことで民衆から離れてしまう危険性を主張した[184]。アフリカの言語で創作をする運動は1950年代に始まり、歴史学者・人類学者のシェク=アンタ・ジョップは『黒人諸民族と文化』(1954年)でアフリカ言語の国語化を主張した[91]。1962年にはウガンダのマケレレ大学で「英語表現アフリカ作家会議」が初めて開催され、1963年にはセネガルのダカールで「フランス語表現のアフリカ人作家会議」が開催されたが、いずれの会議でも創作の言語について議論になった[185]。批評家オビ・ワリは「アフリカ文学の末路」(1963年)と題した文章で、真のアフリカの文学はアフリカの言語で書かれなければならないと論じて、多くのアフリカ人作家が反論した[186]。文学に使う言語については論争が続いており、旧宗主国の言語で書く者を植民地イデオロギーの推進者だと見なして非難する意見もある[187]。
フランス語で創作したセネガルのセンベーヌ・ウスマンは1960年にアフリカに帰国した際、欧州の言語で書いた作品が大衆に読まれず、映画館が盛況なのを見た。そこで大衆に語りかける方法として、1960年代から映画制作を始めた[注釈 62][189]。ケニアのグギ・ワ・ジオンゴはヨーロッパの言語で書かれるアフリカ文学を批判し、母語であるギクユ語のみでの創作活動を行うことを宣言した[190]。グギはこれを「精神の非植民地化」(1986年)と呼んだ[190]。グギの姿勢はアフリカの知識人に影響を与え、アフリカ諸語による文学活動も、多くの困難を抱えながら実践されている[191]。
複数の言語で執筆する作家もおり、ジンバブエのチャールズ・ムンゴシはショナ語と英語で執筆をする[104]。ブルキナファソのベルナテッド・ダオはフランス語とジュラ語で創作し、ジュラ語の教科書作成に参加した[187]。自分の育った環境や感情を細かく表現するために、アフリカの言語と旧宗主国の言語を混ぜる作家も多い。アマドゥ・クルマは『独立の太陽』において、出身であるマリンケ人の言い回しをフランス語に訳して使った。ナズィ・ボニは、『いにしえの時代の黄昏』で、母語ブワム語の単語にハイフンでフランス語を結んだり、口頭伝承のニュアンスを作中に入れた[192]。作品を通して語彙を増やす努力も行われている。サイド・アフメド・モハメドは造語も駆使しながらスワヒリ語の表現に幅を持たせて語彙を増やし、読者のイメージを喚起した[注釈 63][194]。
作品とテーマ
伝承、伝統的価値観
口承文芸の内容には、詩歌、伝統的歴史、神話、信仰、伝説、叙事詩、諺・謎かけ・早口言葉のような短い決まり文句、冗談、民謡、労働歌、子守唄などがある[195][196]。歴史的な事件が保存されている場合もあり、アフリカ文化協会とユネスコの2010年の調査によれば、ベナンで奴隷貿易の記憶が口頭伝承で共有されていることが明らかになった[197]。口頭伝承は年代が不明であり、西部アフリカの王の系譜は11世紀までさかのぼるという推論もあったが、研究方法の進展で15世紀より古い出来事は口頭伝承にはないという説もある[21]。
ヨルバ人の民話をもとにしたとされるチュツオーラの『やし酒飲み』は、アフリカの内外で相反する評価となった。欧米では「豊穣な原始的イメージ」や「欧米人からは失われた原始的想像力」などと形容されて好評だったが、アフリカでは「無教養な英語で書かれたヨルバ民話の盗作的作品」などの酷評を受けた[198]。
アフリカの伝統的な価値観として、トーテム、守護霊、分身などがあり、これらは現代の作品にも取り入れられている。ギニアのカマラ・ライエの自伝的小説『アフリカの子』(1953年)では、主人公の父のトーテムである黒蛇が未来を知らせる。チヌア・アチェべの『崩れゆく絆』やアマドゥ・ハンパテ・バーの『ワングランの不思議』(1973年)では、守護霊に逆らったりトーテムを殺した人物が運に見放される[199]。アラン・マバンクの『ヤマアラシの回想』(2006年)は、人間の命令で殺人をするヤマアラシの分身が語り手となり、平和的な分身と害をなす分身の世界が描かれる[200]。
伝統的な価値観が作家に対する抑圧や攻撃となる場合がある。父権制度や女性器切除の慣習などを批判したナワル・エル・サーダウィは、1991年にイスラーム過激派の暗殺リストに加えられた[201][202]。1992年にはファラジ・フォダがアル=ガマーア・アル=イスラーミーヤに殺害された[203]。ナギーブ・マフフーズが宗教をテーマにした小説『我が町内の子供達』(1959年)は、アズハル大学の抗議によって発禁同然の扱いを受け、ウラマーに批判された。そしてウラマーの批判を知った青年が、1994年にマフフーズの殺害未遂事件を起こした。青年はマフフーズの著作を読んではいなかった[204]。
ジェンダー
ネグリチュード運動における女性の活動は当時は目立たず、のちに評価が進んだ。『黒人世界評論』を刊行してネグリチュードに影響を与えたナルダル姉妹の他に、クリスティアーヌ・ヤンデ・ジョップ、雑誌『トロピック』に寄稿していたシュザンヌ・セゼールらがいる[注釈 64][206]。
サンゴールをはじめとするネグリチュードの男性作家による女性の表現は、母親としての女性とエロティックな女性がアフリカの大地や文化の源とされており、後年に批判されるようになった[207]。アチェべの『崩れゆく絆』の女性は、民族や国家を担う男性を支える役割として比喩化されており、社会の一員や歴史の主体としての女性が登場しない。こうしたステレオタイプな描写は女性作家の作品によって変化していった[208]
1970年代以降に女性作家の作品が増えた[113]。女性批評家による論文も増え、インガ・ショガ(Yinga Shoga)、ロゼアン・P・ベル(Roseann P. Bell)、マリーズ・コンデらによって女性作家の作品が評価された[145]。1980年代後半にはアフリカ文学研究雑誌で女性作家の特集がなされ、ジェンダーの視点が注目されるようになった。アフリカ文学全体をジェンダーの視点から再検討した研究として、フローレンス・ストラトン(Florence Stratton)の『Contemporary African Literature and the Politics of Gender』(1994年)がある[209]。
性差別、抑圧
ボツワナのベッシー・ヘッドは、『力の問題』(1973年)でアパルトヘイトの人種差別、地元での民族差別、社会の女性差別によって精神を病む女性の内面に迫った。伝統的な共同体とのつながりが書かれない点でアフリカ文学の中で異質でありつつも、高く評価されている[114]。ベルナテッド・ダオの短編の多くは、女性たちを中心とする社会的弱者を主人公として、男性の前で意思表示や選択が許されない様子や、女性器切除、親が決めた強制的な結婚、夫の不実などが描かれている[187]。ジンバブエのツィツィ・ダンガレムバの『Nervous Conditions』(1988年)は少女の成長物語であり、植民地制度に精神をむしばまれる従姉を通して、家父長制や植民地主義の矛盾が明らかにされる[注釈 65][210]。ナイジェリアのブチ・エメチェタは、抑圧される女性を主人公にしつつ、独立後の近代的な都市で母親の社会参加が阻まれる様や、伝統的な家庭観と現代的な労働という二重の要求の苦境、移民のアイデンティティなどを描いた[211]。
家族
ガーナのアマ・アタ・アイドゥは『Anowa』(1970年)で植民地化の歴史と夫婦の力関係を描いた。『Changes』(1991年)では主人公の離婚や再婚を軸としつつ、さまざまな社会階層・宗教・民族の結婚が登場し、一夫多妻への批判も含まれている[212]。セネガルのアワ・チャムは小説『言葉をニグロの女たちに』(1978年)で一夫多妻制や女性器切除を批判した[113]。セネガルのマリアマ・バーは教師として働きつつ女性運動や教育運動にも関わり、51歳から作家活動を始めた。『かくも長き手紙』(1979年)は書簡体小説で、恋愛結婚のあとで2番目の妻をめとった夫の裏切り、仕事と育児、夫の死などが語られる。中産階級の女性の心情という形をとりつつ、伝統社会の社会階層、女性差別、母系制の家族意識などが織り込まれている[213]。ナワル・エル・サーダウィーの『0度の女』(1983年)は、強制結婚と夫の暴力から逃れた女性の物語で、24ヵ国語以上に翻訳された[202][115]。初のウォロフ語小説であるマーム=ユヌス・ジェンの『アーウォ・ビ(第1夫人)』(1992年)は、結婚して農村の大家族で暮らす女性の物語を通して、農村女性を励ます内容だった。バーの『かくも長き手紙』が都会の女性だったのに対して、ジェンはウォロフ語話者が多い農村女性に向けた作品を書いた[214]。
都市人口の急増と、就業形態の変化によって、都市では民族間の結婚が増え、これをテーマにした作品が書かれた。ナイジェリアのチュクウメカ・イケの『探索』(1991年)は異民族間の結婚をナイジェリアの統一に象徴させている[215]。ケニアのムワンギ・ギチェル(Mwangi Gicheru)の『ミックスたち』(1991年)は植民地時代を舞台に白人と黒人の結婚と絆を描いた。ケニア出身でタンザニア育ちのインド系作家M・G・ヴァッサンジは、短編集『ウルフ・ストリート』(1991年)でダルエスサラームのインド人街を舞台として、表題作ではアフリカ人とインド人が障害を乗り越えて結婚する[216]。
歴史
アルジェリアのアシア・ジェバールは1830年のアルジェリア侵略からアルジェリア戦争による独立までを題材とした4部作(1985年-1995年)によって、女性の声で歴史を語りなおした。独立後の女性の状況や問題も語り、フェミニズムやポストコロニアルの視点からも高く評価されている[217]。アパルトヘイト廃止前の南アフリカでは解放闘争の内部でも性差別や民族間対立があり、ゾーイ・ウィカムは『デイヴィッドの物語』(2000年)でその問題を明示しない形で描いた[218]。
フェミニズム
1986年に女性文学評論集『Ngambika』が出版され、アフリカ文学におけるフェミニズムについて基本的な定義を行った。編者はキャロル・ボイス・デイヴィースとアン・アダムズ・グレイヴス(Anne Adams Graves)で、アフリカの女性に含まれる2重の定義として「人種/民族」と「ジェンダー/セクシュアリティ」を枠づけている。この定義はその後のアフリカ女性研究や第3世界の女性研究においても議論の中心となった[219]。フェミニストとして著名な作家として、前述の他には、カリクスト・ベヤラ、ミシェレ・ギザエ・ムゴ、ウェレウェレ・リキングらがあげられる[220]。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはTEDxで「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」(2012年)と題する講演を行い[221]、アメリカのアーティストビヨンセの楽曲『***Flawless』にサンプリングされた[222]。
政治
口承文芸を行う詩人の活動は社会を対象としており、その表現の自由は公共性に支えられている。社会の規範が守られているかを口承詩人は確認し、褒め称えるか非難するかを決める。特に南部アフリカの口承詩人であるイジボンゴたちのパフォーマンスは民衆の声としての面もあるため、権力者が詩人の自由を保障する文化があった[注釈 66][224]。しかし、独立後の国家で独裁政権が成立するとイジボンゴも拘束され、公共性が損なわれるようになった。テンブ人のイジボンゴであるムブツマは、アパルトヘイトに協力的だった首長のカイザー・マタンジマや、無気力な大首長サバタを非難して警察の家宅捜査や尋問を受けた[225]。マラウィのジャック・マパンジェは詩集『カメレオンと神々』(1981年)でヘイスティングズ・カムズ・バンダ政権を批判して治安警察に逮捕され、国際的な活動によって釈放されるまで4年間かかった[226]。
アフリカ作家が英語やフランス語で書く作品は、アフリカの苦境を他国に伝える手段としての役割も果たした[227]。政治活動を行う作家も多く、サンゴールはセネガルの初代大統領になった。ビアフラ戦争が起きた際、チヌア・アチェべはビアフラ共和国の大使になって国際社会に理解を求め、ウォーレ・ショインカはナイジェリアとビアフラの和平を計画したが実現せず、ビアフラ共和国は崩壊した[228]。アルジェリアのアシア・ジェバールの作品は現在のアルジェリア社会を批判しており、政治的な理由によって本国でアラビア語に翻訳されていない[217]。ナイジェリアのケン・サロ=ウィワはジャーナリストや環境保護活動家でもあり、オゴニ民族生存運動や石油企業への反対運動を行ったが、軍の特別法廷で死刑とされた[229]。ナワル・エル・サーダウィーは2004年のエジプト大統領選に出馬しようとしたが阻止された[230]。
コンゴ共和国では、国内にとどまりながら独裁政治を批判する作家がアフリカとしては例外的に多い。コンゴにおいて独裁を批判する小説の描写は、夢と現実が交錯したり、魑魅魍魎の世界を嘲笑・諷刺するものが多い[231]。
独立のための闘争を題材とした作品も各地で書かれた。1980年に独立したジンバブエでは、独立後にチムレンガ文学と呼ばれる作品が英語、ショナ語、ンデベレ語で発表された。チムレンガとはショナ語で「蜂起」を意味し、19世紀末にショナ人とンデベレ人がケープ植民地のイギリス軍と戦ったことに由来する[232]。政策の普及のために作られた文芸作品もあった。植民地時代には、植民地統治を正当化するプロパガンダが書かれた[59]。独立後のタンザニアでは、ウジャマー政策と呼ばれる社会主義的な政策の理念を伝えるための文芸作品が多数書かれ、ウジャマー文学とも呼ばれた[233]。
アパルトヘイト
南アフリカでは長年に渡り植民者であるオランダ系白人アフリカーナーとイギリス系白人の覇権争いが続いたが、ボーア戦争から約半世紀後の1948年にアフリカーナーを支持母体とする国民党が政権を握り、人種隔離政策アパルトヘイトが打ち出された[234]。学校や公共図書館も人種別とされて蔵書量に大きな格差があり、黒人の読書機会は奪われ続けた[235]。この体制は1994年まで続いて、表現の自由は制限され、作家の生活を脅かした。検閲・投獄・自宅拘禁があり、作品の発表ができない無名の作家も多数いた[85]。
1950年代は反アパルトヘイトが盛んになり、人種平等と民主的な社会を実現する運動が南アフリカで初めて明確となった。しかし主な活動家は逮捕され、都市部では黒人居住区が潰されていった[注釈 67][237]。1950年創刊の雑誌『ドラム』は犯罪ルポなどのセンセーショナルな内容で始まったが、短編やルポルタージュで黒人居住区の現実を伝える誌面に変わり、多くの若い作家が活動した[238]。エゼキエル・ムパシェーレは『ドラム』で活動し、黒人居住区の暮らしを描くとともに、英語でアフリカ人の現実を表現する問題に取り組んだ[注釈 68][240]。また、ムパシェーレは南アフリカの白人によるキリスト教の抑圧的な面に触れ、キリスト教と決別した[241]。カン・テンバはジャーナリスティックな文章でソフィアタウンやソウェトを舞台にした作品を発表し、『ドゥーベ・トレイン』では朝の通勤電車の劣悪な環境と暴力を描いた[242]。アレックス・ラ・グーマはケープタウンの黒人居住区である第6地区出身で、『夜の徘徊』(1962年)をはじめとして黒人たちの困窮を赤裸々に描き、投獄や発禁処分を受けて亡命した[注釈 69][244]。ジェームズ・マシューズが書いた『公園』(1962年)には、白人用公園にしか存在しないブランコに乗りたいと願う黒人少年が登場する[245]。
1960年以降にアフリカで多数の独立国が誕生する中、南アフリカはイギリス連邦から一方的に独立して南アフリカ共和国となり、アパルトヘイトをさらに強化した。シャープビル虐殺事件(1960年)は白人作家にも衝撃を与え、白人作家の中でも当局に協力しない者が増えたため、政府は1963年に出版興行法を制定して検閲を強化した[246]。同法の非合法化の適用条項は97におよび、攻撃的な表現が望ましくないとされた[注釈 70][248]。アフリカーナーの詩人イングリット・ヨンカーは『煙と黄土』(1963年)でシャープビル虐殺事件で死んだ子供を詩にうたった。ヨンカーの父親は検閲法の作成に関わっており、父娘は対立し、ヨンカーは自殺した[249]。
ナディン・ゴーディマの作品は、白人が黒人に対して抱く潜在的な恐怖というテーマが共通しており、アパルトヘイトが全ての人間に影響を与える様子が明らかにされている[注釈 71][252]。ゴーディマは自らを歴史の産物と呼び、「政治的な作家にはなりたくない、だが南アフリカの生活は、どんな1人の人間を描こうとも政治的な次元を扱わなければならないほどに政治的な状況に満ちている」と語った[注釈 72]。ゴーディマはノーベル文学賞を受賞した際のコメントで黒人たちの運動を賞賛し、その後も黒人の作家活動を支援した[254]。アフリカーナーのJ・M・クッツェーやアンドレ・ブリンクは、アパルトヘイトを告発する現代小説の他に、アフリカーナーが植民を進めた18世紀を舞台にした作品も発表した[注釈 73][255]。ウォーレ・ショインカはノーベル文学賞受賞の際、南アフリカ政府を批判した[256]。
アパルトヘイト撤廃後は、国外で活動していたアフリカ民族会議(ANC)のメンバーが帰国し、国会議員になった者もいる。詩人のリンディウェ・マブザは演説で自作の詩を朗読した[140]。アパルトヘイト時代の埋もれた歴史を掘り起こす作品も書かれ、ジャブロ・ンデベレの『ウィニー・マンデラの叫び』(2003年)や、ゾーイ・ウィカムの『光の中で戯れて』(2006年)などがある[157]。
紛争
アフリカでの紛争は終息に向かう傾向にある[注釈 74][258]。それまでに各地で起きた紛争を題材とする作品が多数発表されている。
南アフリカと同様に、南ローデシアは少数者の白人が支配を維持するために1965年にイギリス連邦から一方的に独立した。黒人側は解放戦線を組織し、1980年にジンバブエとして独立するまでローデシア紛争が起きた。独立後に勝利を賛美する文芸作品が発表される中、チェンジェライ・ホーヴェは農村での実体験をもとに詩集『武器をもって立ち上がれ』(1982年)や小説『骨たち』(1987年)で死の不条理や苦痛、武器を持たずに翻弄される一般民衆を描いた[259]。
1970年代以降にアフリカ各地で内戦が増え、それにともなって増えた子供兵は社会問題となり文芸作品のテーマにもなった[260]。アマドゥ・クルマは『アラーの神にもいわれはない』(2000年)で少年を語り手として、子供兵になるいきさつや内戦の残虐行為を無邪気な言葉づかいで表現した[注釈 75][261]。
1994年のルワンダ虐殺後、アフリカ人作家の間では創作について再考する意見や論争が起きた。被害者や加害者の言葉を収集することの影響や、文芸的な金儲けの手段にすることの危険性が論じられた。作家の視点からは、テクストでこのテーマを書いた際に、その場にいなかったり乗り遅れてやってきたという印象を与えてしまう問題もあった[262]。
ルワンダ内戦についての文学プロジェクト「ルワンダ、記憶する義務によって書く」は、チャドの作家ノッキィ・ジェダヌン(Nocky djedanoum)の主導で始まった。ジェダヌンは、アフリカ文化を紹介するフランスの団体「フェスタフリカ」の責任者でもあった[142]。このプロジェクトでルワンダを訪れた作家が、自らの取材や体験をもとに作品を発表した。コートジボワールのヴェロニク・タジョは『イマーナの影』(2000年)で、社会の隅に追いやられて精神的・経済的支援を受けられない人々や、自分たちは国の再建の邪魔であり語る場がないと思っている虐殺の被害者などに注目した[注釈 76][264]。
内戦についての分析が進むにつれて、植民地時代の弊害が再確認された。ルワンダ内戦や虐殺ではフツとツチの対立があったが、原因はベルギーが植民地時代に行った分断政策にある[265]。元来はツチとフツは社会的なカテゴリーだったが、ベルギーは2つを民族集団として扱って対立させ、統治に利用した[注釈 77][266]。ベルギーの政策は、聖書にもとづいて黒人をハム系とバントゥー系に分ける人種主義に由来しており、比較文学者のカトリーヌ・コキオは「妄想の輸出」、アラン・マバンクは「有害な文学」と呼んでいる[注釈 78][265]。
アンゴラの詩人・歴史家であるジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザは、小説『過去を売る男』(2004年)でアンゴラ内戦終結後の混乱する社会を舞台とし、顧客の過去を捏造する人物を主人公にした[268]。
移民、難民
政治的な事情や言論抑圧の状況を避けて亡命する作家は多い。南アフリカからはアパルトヘイトを避けてイギリス等へ亡命する者がいた。1960年代の南アフリカは、政府に批判的な作家に出国許可を与える代わりに帰国を禁じたため、亡命したのちに自ら命を絶つ作家もいた[注釈 79][269]。
ギニアでは1958年以降のセク・トゥーレ政権時代に大半の作家が亡命し、ギニア出身の作家は独裁政治を告発する小説を多数発表し、その描写は写実的で悲劇的であるものが多い[231]。ケニアのグギ・ワ・ジオンゴは、ギクユ語の戯曲『したい時に結婚するわ』(1977)をグギ・ワ・ミリエと共作して好評を呼んだ[注釈 80][271]。しかしケニアの支配階級を非難したとみなされて拘禁され、のちに亡命した[272]。1960年代以降に盛んになったフランス語マグレブ文学は、教育や政治・経済的な理由でフランスに定住した作家が中心となっている[273]。ルワンダ内戦後はフランス等への亡命が多く、体験記の記録が出版された。マダガスカル出身のジャーナリスト・作家のジャン・ハッツフェルドはルワンダ内戦についての証言記録を3部作として発表した[274]。
植民地時代と独立以降では移民の扱いが法律面で異なり、文芸作品での表現も変化した。たとえば植民地時代のフランスでは旧植民地の在留者はフランス市民だった。労働力が必要な時代だったため移動が比較的容易であり、植民地時代の作品の登場人物には勉学や旅行のために宗主国に旅をする者がいた[注釈 81]。独立以降は移民が政治の争点となり、移民排斥を訴える政治家が出るようになった。独立以降の登場人物は不平等な扱い、留置所や手続き、不法滞在などの問題に直面する者が多い[276]。1992年には亡命作家による国際会議も開催された(後述)。2021年のノーベル文学賞を受賞したアブドゥルラザク・グルナは、タンザニアから難民としてイギリスに移住した経験を持ち、難民や移民についての作品を多数発表している。
ポストコロニアル
植民地経験を基盤とする文学をポストコロニアル文学とも呼ぶ。ポストという語が使われているが、明確に植民地の前後を区別するものではなく、地域を越えて共通する経験や経過を分析する[277]。
言語や国を越えるアフリカ文学の共通性を明確にした最初の思想として、ネグリチュードがある。人種的特徴としての黒人性を主張するネグリチュードは問題点を指摘されたが、植民地主義が抑圧した文化を初めて自己主張した運動として評価されている[注釈 82][279]。
ポストコロニアリズムの視点から、欧米文学が描いてきたアフリカのイメージについてアフリカ作家の批評が行われている。先駆的な議論としては、チヌア・アチェベの講演「アフリカのイメージ - コンラッド『闇の奥』における人種主義」(1975年)がある[注釈 83]。アチェべは、ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』においてアフリカ人が非人間的に描写されていると批判した[280]。アチェべは作家志望のきっかけとして、ジョイス・ケアリの『ミスター・ジョンソン』(1939年)をイバダン大学時代に読み、ステレオタイプなアフリカ人に不満を持った点をあげている[96]。
フランス革命200年が記念された1989年には、ナイジェリアのボデ・ショワンデの戯曲『夢に充ち溢れるトネイド』が上演された。ギニア湾からサン・ドミンゴに奴隷として売られたマグダレーナという女性が、ハイチ革命に呼応して奴隷解放運動に参加する物語だった[281]。
ケニアのビニャヴァンガ・ワイナイナは、雑誌『Granta』92号に「アフリカの描き方」(2005年)を発表し、アフリカに対するイメージを風刺した。そこでは飢えに苦しむアフリカ人、難民キャンプ、苦悩を話す母親、動物の保護、悲劇の主人公であるセレブなどが、売れるアフリカのコンテンツとして列挙されている。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは短編小説「ジャンピング・モンキー・ヒル」(2009年)で、旧宗主国の文学者がアフリカ文学や「本当のアフリカ」をステレオタイプに分析する様子を描いた[282][280]。エレケ・べーマーは小説を発表しつつ、アフリカ文学におけるポストコロニアル研究を進めている[283]。
アフリカ人のイメージは、植民地化以前から旅行記や地誌などの文献によって作られてきた。イスラーム王朝では9世紀頃からアフリカ人が奴隷にされてアフリカの他にアンダルス、アラビア半島、メソポタミアへと運ばれた。アフリカ人奴隷の増加にともない、アラビア語の文献では黒人が劣った人間として記録され、この傾向は16世紀まで続いた[注釈 84]。こうしたアラビア語文献のアフリカ人のイメージは、ヨーロッパ人に影響を与えたともいわれている[284]。マリのヤンボ・ウォロゲムは『暴力の義務』(1968年)で、ヨーロッパが奴隷貿易を行う前からアラブ人やアフリカの権力者による奴隷制が存在していたことを書き、議論を呼んだ[285]。
出版
ヨーロッパの活版印刷はアフリカでも知られていたが、アラビア語圏を中心として写本文化が根強かったために導入されなかった。印刷機の使用が始まったのは、1821年のエジプトのブーラーク印刷所で、当初はアラビア語・トルコ語・ペルシア語の書籍や雑誌が出版された[注釈 85][286]。印刷・出版物による流通は、アル=ナフダと呼ばれるアラビア語圏の文芸復興運動に影響を与え、他の地域からエジプトに移って文芸雑誌や新聞を刊行する作家や知識人も増えた[287]。
南アフリカ共和国やナイジェリアのような、出版産業が成立して文学市場が存在する一部の国を除けば、アフリカ諸国では自国内での文学の出版が少ない。特に内陸の国や経済基盤の小さな国での出版事情は厳しい[注釈 86][288]。
ヨーロッパ諸語で書かれた作品はパリやロンドンやニューヨークの出版社から出版され、欧米の読者を主な市場としている[289]。こうした作品が、「西洋一般読者のためにフォーマット化された作品」と呼ばれる場合もある[290]。アラビア語の作品は、レバノンのベイルートで出版されれば国際的に流通するが、国内で出版された作品は他国で入手しにくい[291]。
翻訳では、英語やフランス語で発表されたアフリカ人作家の作品がアフリカの諸言語に翻訳される場合や、その逆もある[292]。話者の少ない言語では、作者が翻訳も兼ねる場合がある。ズールー語を母語とするマジシ・クネーネは、自作の詩や劇を自ら英語に翻訳している[293]。使っている言語によって作品を囲い込む動きもあり、フランス語圏におけるフランコフォニー文学、英語圏におけるコモンウェルス文学などがある[294]。
出版社があっても法律が障害になる場合がある。南アフリカのミリアム・トラーディは『二つの世界のはざま』を1969年に書いたが、アパルトヘイト下の南アフリカの法律では女性に所有権、財産権、売買契約の権利などがなかったため出版契約ができなかった。トラーディは特例として契約ができたが、検閲で原稿は大幅に削除された[295]。
出版社
アフリカ人が主導した初の出版社は、アリウン・ジョップが中心となって1949年に設立したプレザンス・アフリケーヌ社(PA社)だった。同社はジョップが1947年に創刊した雑誌『プレザンス・アフリケーヌ』が発展したものだった[296]。『プレザンス・アフリケーヌ』は2018年時点までに194号が発行され、アフリカ・カリブ出身の詩人や作家にとって重要な発表の場となった。言語はフランス語の他に英語、ポルトガル語、スペイン語の文章も掲載された[注釈 87][298]。PA社は雑誌の他に文芸作品や政治的な書籍を出版し、黒人交流のための国際会議を主催した[299]。
英語圏では、1960年にイギリスのハイネマン社が『ハイネマン・アフリカンライターズシリーズ』を始めてアフリカの作家や政治家の作品が紹介され、1960年代からアフリカ文学研究書が出版されるようになった[注釈 88][300]。しかし、これらの研究書では女性作家は扱われない傾向にあった。ハイネマン社のシリーズは刊行から6年後の26冊目に初めて女性作家の作品を選び、1983年には256冊目にして初の女性作家の作品集を出版し、24人の作家の作品を掲載した[注釈 89][302]。フランス語圏ではプレザンス・アフリケーヌの他に、アティエ社の『黒人世界』叢書、アクト・スユッド社の『アフリカ組曲』叢書などがあり、2000年に創刊されたガリマール社の『黒い大陸』叢書が最も有名とされる[303]。ヨーロッパには、アフリカ人作家の作品をアフリカで再販する出版社もある。たとえばグギ・ワ・ジオンゴのウォロフ語作品は、英語系の出版社がアフリカで出版している[304]。世界規模のアフリカ文学研究専門誌としては、『Research in African Literatures』がある[305]。
アフリカ各地で独立が相次ぐと、各国で出版社が設立された。ナイジェリアでは1971年にチヌア・アチェベによって文芸誌の季刊『オキケ(Okike, 「創造」を意味する)』が創刊された[306]。セネガルでは初代大統領になったサンゴールの主導で1972年に新アフリカ出版社(NEA)が設立され、NEA解散後はコートジボワール政府が事業を引き継ぎ、民営化をへて新コートジボワール出版社(NEI)となった[307]。1982年のアフリカ人作家協会(AWA)によってアフリカ人主導の出版社の設立が決定され、ユネスコやNGOの援助を受けてスコッタヴィル出版社が創立された[308]。1980年に独立したジンバブエは建国当初から出版に力を入れ、ジンバブエ出版社からショナ語やンデベレ語の本が出版された[309]。
文筆活動を制限されている人々のための雑誌として『インデックス・オン・センサーシップ』(1972年創刊)があり、アフリカの作家も参加している。1988年5月の100号記念特集では、ウォーレ・ショインカら10人のアフリカ作家が発言を寄せ、宗教的熱狂が人権にもたらす危機、アパルトヘイトの悲劇、文学と政治の関係、作家の獄中詩などが掲載された[310]。
装丁
アフリカ文芸作品の表紙は、アフリカ的なイメージが紋切り型に使われていると批判される場合がある。フランス語の新聞『クーリエ・アンテルナショナル』が2014年に掲載した「アフリカ文学 - あまりに紋切り型な表紙の数々」という記事では、サヴァンナにあるアカシアの木、サヴァンナに沈む夕日、ヴェールをかぶった女性などがしばしば使われると指摘している[注釈 90][312]。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』は、アメリカで出版された時の表紙はアカシアの木が使われ、フランスで出版された表紙はより中立的に太陽が使われた。コンゴ共和国のアラン・マバンクの小説『ウェルキンゲトリクスのニグロの孫たち』(2002年)は1990年代のコンゴとブラザヴィルの内戦の物語だったが、表紙には投げ槍をもつマサイ人が描かれていた。こうした表紙が作られる原因は、特にアメリカの一般読者が期待しそうなものを使ってしまう出版業界の怠慢とする意見もある[313]。
文学賞、イベント
文学賞
黒人として初のゴンクール賞受賞者は、『バトゥアラ』(1921年)の著者ルネ・マランだった[60]。女性作家として初の国際的な文学賞受賞は、マリアマ・バーの野間アフリカ出版賞(1980年)であり、バーの影響でフランス語圏のアフリカ女性作家が読まれるようになったともいわれる[213]。
アジア・アフリカ作家会議は機関紙『ロータス』を発行し、アジア・アフリカのノーベル賞とも呼ばれた「ロータス賞」を運営した[314]。アフリカ人作家を対象とした文学賞として、フランス語圏では1961年創設のブラック・アフリカ文学大賞、英語圏では2000年創設の英語短編小説のケイン賞などがある。ケイン賞の候補作は、作家が自作をエントリーした中から選ばれる。最終候補作のアンソロジーの出版はアフリカ8カ国の出版社に委託されており、生産や利益がアフリカ中心となるように配慮されている[注釈 91][5]。
アフリカ文学に関連するノーベル文学賞受賞者は、ウォーレ・ショインカ(1986年)、ナギーブ・マフフーズ(1988年)、ナディン・ゴーディマー (1991年)、J・M・クッツェー(2003年)、ドリス・レッシング(2007年)、アブドゥルラザク・グルナ(2021年)の6名となっている(2021年現在)。ショインカが受賞する前に、ノーベル文学賞選考委員のペール・ヴェストバリは雑誌『ウェスト・アフリカ』において「ヨーロッパの審美的基準からすれば、アフリカには取るに足る作品は一つもない」と発言して論議を呼び、ウェストベリは同誌で謝罪した[316]。
イベント
1956年のパリで第1回黒人作家芸術家会議が開催され、言語を越えて黒人作家たちが集まった。主催は『プレザンス・アフリケーヌ』、主催者はマダガスカルのジャック・ラベマナンザーラで、反植民地主義と反人種主義を掲げたバンドン会議を受けて黒人文学者たちが企画した。参加者はアフリカ、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、カリブを中心とする27名で、3日間行われた[317]。しかし、アメリカ合衆国と他の地域の間で植民地化についての理解の違いが明らかになった。アメリカの代表団はアメリカ国内の人種主義に限定して論じたが、アフリカ各地では植民地解放闘争が進行中であり、アフリカ側にとっては距離感があった[318]。また、冷戦の影響でアメリカの対外政策が反共だった時期にあたり、アメリカとその他の地域の参加者で意見の違いが大きかった[注釈 92][318]。
1958年にはアジア・アフリカ作家会議、1962年にはウガンダのマケレレ大学で「英語表現アフリカ作家会議」、1963年には「フランス語表現のアフリカ人作家会議」が開催された[185]。1969年に始まったカイロ国際ブックフェアは、アラブ圏最大のブックフェアとなっている[320]。ジンバブエでは建国から3年後の1983年からジンバブエ国際ブックフェアを開催している[309]。
ロンドンは留学、移民、難民などの背景でアフリカ、カリブ、アメリカ出身の作家が集まる都市でもあり、1982年にはラディカル・ブラック及び第3世界のブックフェアが開催された[321]。1992年にはロンドンでアフリカ人亡命作家会議が開催され、亡命や難民生活をしている作家が集まった[注釈 93][322]。それぞれが持つホームシックや孤独、不安、貧困、民主化闘争などの経験を共有し、議論が行われた。特に亡命生活が長く1960年代から国外で暮らしているルイス・ンコシ、デニス・ブルータス、ロレタ・ンゴボらが会議を主導した[321]。
近年ではネットワークや文学祭の開催が活発になっている。文学ネットワークのクワニ・トラストはナイロビの作家や編集者たちによって2003年に設立され、文芸ジャーナル『クワニ?』を発行し、2006年から2年周期で「クワニ?文芸フェスト」を開催してアフリカ諸国から参加者を集めている。2007年にはケニアのナイロビで「ストーリーモジャ・フェスティバル(Storymoja Festival)」[注釈 94]、2011年に南アフリカのケープタウンで「オープン・ブック・フェスティバル」、2013年にナイジェリアのアベオクタで「アケ・フェスティバル」が始まり、それぞれ毎年開催されている。文学祭は作家のアピールや、出版物の販路開拓の役割も果たしている[324]。
主な作家
アフリカ文学の翻訳者
脚注
注釈
- ^ アフリカ作家の英語短編小説の文学賞であるケイン賞の例[5]。
- ^ ショインカは差別的・抑圧的な政権に一貫して反対を表明している。アメリカ合衆国の永住権を取得していたが、ドナルド・トランプの大統領就任をきっかけに放棄した[8]。
- ^ デモティックで書かれた物語は、ホメロスの叙事詩やヘレニズムの文芸作品の影響を受けているといわれる[12]。
- ^ アフリカ系奴隷の出身でアラビア語文化圏で活動した者もおり、ジルヤーブは9世紀アンダルスで最も著名な音楽家となった[17]。
- ^ バンバラ語、ウォロフ語、フルフルデ語、スワヒリ語などによる[16]。
- ^ 写本の冊数は数十万点ともいわれており、56の写本図書館に保管されている[24]。
- ^ 奴隷貿易の参加国は、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリス、スコットランド、ブランデンブルク、デンマーク、スウェーデン等[27]。
- ^ 奴隷貿易の悪影響は、現在にも及んでいるとされる。ネイサン・ナンの研究によれば、奴隷貿易が最も激しかった地域は21世紀のアフリカにおける最貧困地域である[28]。ネイサン・ナンとレナード・ワンチェコンによれば、奴隷貿易の被害にあった地域は、そうでない地域に比べて家族・隣人・民族・政府に対する信頼感が低いという[29]。
- ^ 奴隷体験記はアメリカで多数書かれた。他の著者にはフレデリック・ダグラス、ハリエット・ジェイコブズ、ブッカー・T・ワシントンらがいる[36]。
- ^ ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化と奴隷貿易は、近代以降のヨーロッパの経済成長の原因とされている[38]。
- ^ 1833年にズールー語の聖書、1850年にズールー語の文法書、1861年にソト語の雑誌が出版された[41]。
- ^ 植民地化される前のスワヒリ詩はウテンジという叙事詩形式の長い定型詩だったが、ムヤカはシャイリという短い定型詩を普及させた[23]。
- ^ 元来のベルベル語とアラビア語に加えて、フランス語、イタリア語、スペイン語、カタルーニャ語、プロヴァンス語が混ざり合って使われた[50]。
- ^ アフリカとアメリカの黒人が連携して、1900年にはパン・アフリカ・コンフェレンスがロンドンで開催され、北アメリカ、カリブ、アフリカの黒人知識人が初めて集まった。アメリカの作家W・E・B・デュボイスは『黒人のたましい』(1903年)を発表し、パン・アフリカ会議を推進して、政治家のクワメ・ンクルマ、ジョモ・ケニヤッタ、ブレーズ・ジャーニュらに影響を与えた[52][53]。
- ^ アメリカからラングストン・ヒューズやアラン・ロックなどの作家が来てパリに滞在した[54]。
- ^ 一定の収入と教育のあるアフリカ人の成人男性は、条件付きで選挙権や土地所有権が認められた時期もあった[56]。
- ^ マランは植民地省やプロパガンダ局で働き、植民地のプロパガンダを支える新聞記事を書いた[59]。
- ^ アルジェ派の作家には、ガブリエル・オーディジオ、エマニュエル・ロブレス、ジュール・ロワ、アルベール・カミュらがいる[62]。
- ^ エジプト短編小説の開拓者であるイーサー・ウバイド、マフムード・タイムール、ターヒル・ラーシンらは、この時代に執筆を始めている[64]。
- ^ この時代に活動した詩人には、シャーバン・ロバート、アムリ・アベディ、サーダニ・カンドロらがいる[66]。
- ^ その他の先駆け的な雑誌として、ルネ・メニルによる『正当防衛』、マルティニーク学生協会の機関紙『黒人学生』、セゼールらによる『熱帯』があった[54]。
- ^ これ以後のプラーキらの創作は、宣教師の検閲などが原因で進まなかった[72]。
- ^ 初の黒人による英語劇の上演は、ドローモの戯曲『身代わりに死んだ娘』(1936年)とされる[75]。
- ^ セネガルのビラゴ・ジョップやラミン・ディアカテ、マダガスカルのジャック・ラベマナンザラらがいる[81]。
- ^ マフフーズは1930年代から1940年代にかけて古代エジプトを舞台にした作品を書いたが、現代を舞台にした作品へと移っていった[77]。
- ^ サブサハラで最も早く独立したのはガーナで、指導者はパンアフリカニズムを主張したクワメ・ンクルマだった。ンクルマは全アフリカ人民会議(1958年)を開催し、結束を呼びかけた[88]。
- ^ この時期の作品にはヤシーンの戯曲「包囲された屍体」、モロッコのドリス・シュライビの『単純過去』、チュニジアのアルベール・メンミの『塩の柱』などがある[61]。
- ^ 『崩れゆく絆』という書名はウィリアム・バトラー・イェイツの詩「再臨」(1920年)の一節からとられている[95]。1988年までに300万部が売れ、アフリカ全土の中・高校生の英語クラスや大学の文学コースで必読書となった[96]。
- ^ 『ドラム』でデビューした作家は、アレックス・ラ・グーマ、エゼキエル・ムパシェーレ、ルイス・ンコシなど多数いる[98]。
- ^ ポルトガル領の独立が遅れた要因としては、(1) 本国でも軍事支配を行い、植民地解放の世論を抑圧した。(2) イギリスやアメリカがポルトガルを支持した。(3) ポルトガル農村の貧困化によって植民地への移民が急増し、移民は植民地支配を支持した[99]。
- ^ 世界大戦中にアフリカの都市化と都市労働者の増加が進み、労働組合も結成された。これに対して植民地宗主国は、労働者の運動を妨害した[102]。
- ^ 同時期の作家としてマティアス・ムニャンパラレ、ムギャブゾ・ムロコジ(mugyabuso mulokozi)らがいる[66]。
- ^ マダガスカルでは1947年に自治権を求める反乱が起き、8万人から10万人がフランス軍によって虐殺された[105]。
- ^ 農産物や鉱物は旧宗主国への輸出にあてられており、独立後も外貨を獲得するために旧宗主国に依存した。インフラストラクチャーは旧宗主国の利益に合わせて建設されていた。手工業は宗主国の製品を買わせるために抑制され、工業が発展していなかった。こうして財源確保や食料自給が難航した[107]。
- ^ 軍事と文民由来のものを合わせると1988年までに31カ国でクーデターが起きた[108]。
- ^ ベンハッドゥーガはアルジェリア初のアラビア語長編小説『南風』(1971年)を発表し、ワッタールは実験的な手法の『地震』(1974年)をベイルートで出版した[119]。
- ^ 原題の『Kill Me Quick』は、アルコール度数の高い密造酒チャンガーの別名を表している[121]。
- ^ ムチャーリは、抵抗運動活動家のスティーブ・ビコと親交があり、ビコの殺害後に『ビコ』という演劇を上演した[124]。
- ^ 誌名の由来はスラングで、電車の屋根や外にしがみついて通勤する人々を指す。白人居住地区に住めないクリップタウンの若者が多かった[126]。
- ^ カメルーンのカリクスト・ベヤラ、セネガルのファトゥ・ジョム、コンゴ共和国のダニエル・ビヤウラらがいる[127]。
- ^ イギリスが間接統治をしていた地域では民族が分断されており、独立後にしばしば内戦の原因となった[128]。
- ^ セク=アリウ・ンダオが1972年に発表した『ブール・ティレーン - メディナの王』は、もともとウォロフ語で書いていたが、出版できなかったためフランス語に書き直したという。執筆時期という点では、ンダオの作品が最初のウォロフ語小説になる[91]。
- ^ このプロジェクトには、音楽家のチェールノ=セイドゥ・サルが農村女性と行ったワークショップも影響を与えた[135]。
- ^ また、マグレブからフランスへの移民の2世たちによる作品は、ブール文学とも呼ばれている。ブール(beur)とはアラブ(arabe)を逆さにした隠語で、当初はマグレブ移民に対する蔑称だったものをあえて自称に使うようになった[137]。
- ^ 国外の大学で教えた作家の例として、チヌア・アチェベ(マサチューセッツ大学)、アシア・ジェバール(ニューヨーク大学)、アシル・ムブンベ(カリフォルニア大学アーヴァイン校等)、スレイマン・バシル・ジャーニュ(コロンビア大学)、エレケ・ベーマー(オクスフォード大学)、アラン・マバンク(コレージュ・ド・フランス)らがいる[148][149][150]。
- ^ 奴隷貿易で繁栄した国としてダホメ王国、ベニン王国、アシャンティ王国、フータ・ジャロン・イマーム国などがある[152]。奴隷貿易をしていた首長の日記(1785年-88年)には当時の信用取引の実態が記録されている[153]。他方で、ダホメのアガジャやコンゴのンジンガ・ムベンバなど奴隷貿易に反対する国王もいた[152]。
- ^ 『広場』には次のような詩句があった。「真偽を選り分ける エジプトの褐色の手たちが/雄叫びの中で掲げられ 枠を打ち壊す/群衆の声の輝き 陽光に照らされたエジプトを見よ/立ち去る時が来たのだ 老いぼれどもの国よ」[156]。
- ^ 同様に、アラビア語詩の特徴はラップにも影響を与えている。ラップは抵抗の重要な手段となり、チュニジアのエル・ジェネラルや、エジプトのラーミー・ドンジュアン(Ramy Donjewan)などのラッパーがYouTubeに発表した曲は反政府メッセージの象徴となった[156]。
- ^ フレッド・クマロ(Fred Khumalo)、ズキスワ・ワナー、コパノ・マツルワらがいる[157]。
- ^ たとえばエチオピアではウォライタ語などの地域ごとの言語と公用語のアムハラ語が使われる[159]。西部アフリカで教育のある人物は、出身の村や町の言語、いくつかの村や町で共通している言語、国の公用語の3言語を使い分ける[159]。
- ^ 1つの社会で、2つの言語の間に社会的機能文化があり、優劣や価値の高低と連動している状況をダイグロシアという[158]。
- ^ エジプト、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア等の公用語[163]。
- ^ モロッコ、アルジェリア、チュニジアで使われる[163]。
- ^ セネガル、ギニア、コートジボワール、トーゴ、ベナン、マリ、ニジェール、チャド、カメルーン等の公用語[159]。
- ^ シエラレオネ、リベリア、ガーナ、ナイジェリア等の公用語[159]。
- ^ ギニアビサウ、カーボヴェルデ等の公用語[159]。
- ^ コンゴ共和国、ルワンダ、ブルンジ等の公用語[165]。
- ^ ケニア、ウガンダ、タンザニア、ルワンダ等の公用語[165]。
- ^ モザンビーク、アンゴラの公用語[167]。
- ^ ボツワナ、ナミビア、ジンバブエ、南アフリカ等の公用語[167]。
- ^ イジボンゴの詩法や口承を取り入れた作家として、マラウィのジャック・マパンジェ、南アフリカのアルフレッド・テンバ・カブラ、ジンバブエのチェンジェライ・ホーヴェらがいる[182]。
- ^ 映画への転換をはかったのちも小説の発表は続けた[188]。
- ^ たとえば基本形の語に接頭辞を追加して意味に程度差をつけたり、類義語の意味領域を明確にするなど工夫をしている。こうした語彙はスワヒリ語辞書に収録されていないものが多い[193]。
- ^ 1956年の黒人作家芸術家会議には、グアドループ出身の歌手ムーヌ・ド・リヴェルやアメリカ出身でフランスに移住した歌手ジョセフィン・ベイカーが祝いのメッセージを贈った[205]。
- ^ 書名は、フランツ・ファノンの『地に呪われたるもの』に前書きを書いたサルトルの言葉から来ている[210]。
- ^ ズールーの王であるムジリカジを非難したイジボンゴに対して、ムジリカジは危害を加えなかったという記録がある[223]。
- ^ 黒人の不服従運動(1952年)や全人種合同会議による自由憲章の採択(1955年)があったが、ネルソン・マンデラをはじめとする活動家が1956年に国家反逆罪で逮捕された[236]。
- ^ ムパシェーレは、黒人の母語である話し言葉を英語に置き換えて表現する苦心を論じている[239]。
- ^ 第6地区は、トタンとボール紙の小屋も建っている環境だった[243]。
- ^ 出版興行法は、特にアフリカーンス語系の作家や出版社にとって抑圧になった。英語圏の白人作家の多くはロンドンで出版しており影響は少なかった[247]。
- ^ ゴーディマの7作目の小説『バーガーの娘』はシャープビルの虐殺について書き、検閲で発禁処分を受けた[250][251]。
- ^ ゴーディマは南アフリカの状況を表現するのにアントニオ・グラムシの次の言葉を引用した。「古いものは死に絶えようとしているが、新しいものが生まれる可能性は見えない。このような空白の時期にあってはじつにさまざまの病的な兆候が生まれる」[253]。
- ^ 18世紀が舞台の作品として、クッツェーの『ダスクランド』(1974年)や『夷狄を待ちながら』(1980年)、ブリンクの『声から声へ』(1982年)などがある[255]。
- ^ 1990年代以降に収拾に向かった主な紛争としてルワンダ紛争、ブルンジ内戦、コンゴ内戦、リベリア内戦、シエラレオネ内戦、コートジボワール内戦、スーダン内戦などがある[257]。
- ^ その他に子供兵を主題とした作品として、ケン・サロ=ウィワがビアフラ戦争を舞台に書いた『ソザボーイ』(1985年)や、西アフリカの架空の国を舞台にしたエマニュエル・ドンガラの『狂犬ジョニー』(2002年)などがある[260]。
- ^ その他の作品として、ブバカル・ボリス・ジョップの『ムランビ』(2000年)や、アブドゥラマン・ワベリの『頭骨狩り』(2000年)などがある。ワベリは、ルワンダやアフリカの友人に対する道徳的な義務によって早く発表したと述べている[263]。
- ^ 元来のルワンダの社会的カテゴリーは、牧畜(ツチ)、農業(フツ)、狩猟(トゥワ)だった[266]。
- ^ 植民地時代のルワンダにおける人種主義は、ジャン=ピエール・クレティアンとマルセル・カバンダ(Marcel Kabanda)の著書『ルワンダ、人種主義、ジェノサイド』(2013年)などで論じられている[267]。
- ^ 亡命中に命を絶った作家として、短編小説家のナット・ナカサやカン・テンバ、詩人のアーサー・ノーキらがいた[269]。
- ^ 物語は、金持ちの農場で働く貧しい農夫が、支配階級と多国籍企業によって土地を失い、社会悪の解決に目覚めるという内容だった[270]。
- ^ ただし、アフリカ人がフランス市民権を獲得する条件は厳しく、フランス語の読み書き・官吏や軍人の叙勲、議員の経験など一般人には不可能なほどだった[275]。
- ^ アルジェリア独立で活動した思想家フランツ・ファノンは、植民地化において植民者-被植民者、善-悪、白-黒などの2分法が行われる点を分析をした。そして、人種的特徴とは植民地化によって進められる虚構だとして、人種の類型化を否定した[278]。
- ^ この講演はアチェベがマサチューセッツ大学英文学科で教鞭をとっていた時期に行われた。コンラッドの作品がポストコロニアルやカルチュラル・スタディーズの観点から読まれるきっかけとなった[148]。
- ^ 最初期の文献は地理学者・歴史家のマスウーディーによる『黄金の牧場と宝石の鉱山』(947年)で、同様の記述をした者として地理学者・歴史家のアブー・ウバイド・バクリー、地理学者・地図学者のイドリースィー、旅行家のイブン・バットゥータ、歴史家・思想家のイブン・ハルドゥーン、旅行家のレオ・アフリカヌスらがいる[18]。
- ^ 当初の印刷機はナポレオンのエジプト遠征(1798年)で持ち込まれたものを使った。エジプトはオスマン帝国の支配下にあったためトルコ語の出版が多かった[286]。
- ^ たとえばブルキナファソでは1983年に政府が文化振興政策を始める前には出版社がなかった。その後の2008年時点ではブルキナファソ出版社協会が16の出版社を束ねており、作家の自作出版の会社も含まれる[288]。
- ^ 英語圏ではデュボイス、リチャード・ライト、マルコムX、フランスではサルトルやアンドレ・ジッド、ミシェル・レリスらが寄稿した[297]。
- ^ 当時の批評家としてはジェラルド・ムーア、ユースタス・パーマー、オスカー・ダソーネらがいる[300]。
- ^ 作品集を編集したのはアイオワ大学のシャーロット・H・ブルナーだった[301]。
- ^ この記事は、「アフリカ・イズ・ア・カントリー」というブログの記事がもとになっている[311]。
- ^ 8カ国は南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、ケニア、ウガンダ、カメルーン、ナイジェリア、ガーナとなっている[315]。
- ^ アメリカのリチャード・ライトの講演は、植民地主義には伝統や古い信仰を破壊する解放的な面があったとする内容を含んでいたため、聴衆の支持は薄かった[319]。ライトはアメリカ政府の反共政策に協力しており、共産主義者と思われる者を当局に報告し、ガーナの政党周辺の共産党シンパを密告した[319]。
- ^ 参加した作家はナイジェリア、ケニア、セネガル、ガーナ、ソマリア、南アフリカ、スーダン、トリニダードなどをあとにした人々だった[322]。
- ^ ストーリーモジャ・フェスティバルは2016年にはガーナのアクラでも開催された[323]。
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関連文献
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