「東北・上越新幹線反対運動」の版間の差分
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1976年(昭和51年)8月22日に、大宮市内での反対運動組織「大宮新幹線対策特別協議会」と国鉄東京第三工事局は、公害対策などで合意に達し、合意事項に調印を行った。この結果、大宮市内での反対運動は一つのヤマを越した。この中で「全列車を大宮駅に停車させる」との項目があった<ref>1976年(昭和51年)8月23日付『読売新聞』</ref>。また、[[畑和]]埼玉県知事は、東北新幹線を受け入れるにあたって、1977年(昭和52年)12月県議会の答弁の中で、通勤新線の建設、全列車の大宮駅停車、環境基準の達成、新交通システムの実現、という打開のための4条件を提示した<ref>1986年(昭和61年)10月30日付『日本経済新聞』「私の履歴書」</ref>。 |
1976年(昭和51年)8月22日に、大宮市内での反対運動組織「大宮新幹線対策特別協議会」と国鉄東京第三工事局は、公害対策などで合意に達し、合意事項に調印を行った。この結果、大宮市内での反対運動は一つのヤマを越した。この中で「全列車を大宮駅に停車させる」との項目があった<ref>1976年(昭和51年)8月23日付『読売新聞』</ref>。また、[[畑和]]埼玉県知事は、東北新幹線を受け入れるにあたって、1977年(昭和52年)12月県議会の答弁の中で、通勤新線の建設、全列車の大宮駅停車、環境基準の達成、新交通システムの実現、という打開のための4条件を提示した<ref>1986年(昭和61年)10月30日付『日本経済新聞』「私の履歴書」</ref>。 |
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しかし、東北新幹線上野開業の際には、大宮駅を通過する列車が登場している。これについて、1985年(昭和60年)3月8日の衆議院予算委員会第七分科会で国鉄の対応を問う質問に対して、[[須田 |
しかし、東北新幹線上野開業の際には、大宮駅を通過する列車が登場している。これについて、1985年(昭和60年)3月8日の衆議院予算委員会第七分科会で国鉄の対応を問う質問に対して、[[須田寬]]国鉄常務理事は「埼玉県の皆様方から大宮全列車停車ということが、工事に関係いたしまして非常に強い御要望があったことは承知をいたしておりますし、当方が現地で地元の皆様方にそういったいろいろお話を申し上げる中で、大宮につきましては全列車停車可能な構造になっていることはこれは事実でございますし、今も可能なわけでございますが、そういうことを御説明いたします過程で、あるいはそういう御印象を与えたことがあったかということは必ずしも否定をいたしません。ただ、やはりその後のいろいろ列車のダイヤを考えてまいります中で、どうしても今申し上げましたようなことで、東北・上越新幹線全体として一番効用の高いダイヤというものを考えました中で、御案内のようなことになった次第でございますので、いろいろそういうふうなことで誤解を与えたりあるいは御説明のまずかった点は、これはおわび申し上げなければいけないと思いますが、何とぞ御理解をいただきたいというふうに考えます。」と、大宮駅への全列車停車は「誤解」「説明がまずかった」に過ぎないものとの答弁をしている。 |
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== 通勤新線(埼京線) == |
== 通勤新線(埼京線) == |
2020年12月21日 (月) 03:28時点における版
東北・上越新幹線反対運動(とうほく・じょうえつしんかんせんはんたいうんどう)とは、東北・上越新幹線建設に対して、沿線の地元自治体や住民が展開した反対運動のことである。反対運動は東北地方を含む各地で生じたが、特に埼玉県南部および東京都北区において激化・長期化した。
本稿では、埼玉県南部および東京都北区において激化・長期化した反対運動について記述する。
概要
東北新幹線の東京都 - 盛岡市間、および上越新幹線の東京都 - 新潟市間の整備計画は、1971年(昭和46年)4月に全国新幹線鉄道整備法に基づき決定され[1]、同年10月に建設認可、同年11月に建設が開始された[2]。新幹線の騒音に関する環境基準が設けられたのは、1975年(昭和50年)7月の環境庁告示第46号「新幹線鉄道騒音に係る環境基準について」によってであり、東北新幹線・上越新幹線の建設開始時点では、環境基準は未設定であった。
この頃、既に開業していた東海道新幹線や、1972年(昭和47年)3月に新大阪駅 - 岡山駅間が開業した山陽新幹線の沿線では、新幹線車両による騒音が社会問題化していた。1974年(昭和49年)には、愛知県名古屋市において新幹線0系電車の騒音・振動による運行差止および損害賠償請求の「名古屋新幹線訴訟」が提訴されている。このような中、建設が開始された東北新幹線・上越新幹線の沿線各地では、新幹線の騒音・振動を懸念した反対運動が発生した。
特に、通勤新線(埼京線)の併設を条件とする東北・上越新幹線の高架化案が1973年(昭和48年)3月10日に発表されると、高架化すれば騒音問題が起きるなどとして、広範に宅地化が進行していた埼玉県南部(与野市〈現・さいたま市〉・浦和市〈現・さいたま市〉・戸田市)および東京都北区では反対運動が激化・長期化した。
その後、国鉄側が東京駅 - 大宮駅間の工事中断や、東北・上越新幹線の大宮駅暫定開業などの考えを明らかにし、通勤新線の併設を正式に表明、そんな中当時の埼玉県知事畑和が
など、国鉄対案を骨格とする4条件を埼玉県議会に示した[3]。この4条件を国鉄側も受け入れたことにより埼玉県が軟化、次に東京都北区も条件付き賛成に転じた。1978年(昭和53年)12月16日に通勤新線の建設が認可されると、今度は浦和市と、当時からラッシュ緩和や通勤時の交通利便性の向上が切実な課題であった与野市・戸田市も条件付きで賛成を表明、両市は建設反対から条件闘争へ移り、両市内に通勤新線の駅を設置することと快速電車の停車を設定することを国鉄側へ要望した。それを受け住民側の反対運動は一部を除き次第に下火となって行き、最終的には自治体の要望が叶うかたちで新幹線および通勤新線の建設・運営が実現化した。
こうした経緯が主要因となり、東北新幹線の大宮駅 - 盛岡駅間および上越新幹線は1982年(昭和57年)に大宮までの区間で暫定開業し、上野駅 - 大宮駅間の開業は1985年(昭和60年)まで遅れることとなった。[4][5]。
反対運動の経緯
本節では、当時の沿線自治体や住民の反対運動の経緯を「建設計画時」、「全線高架への計画変更以降」、「通勤新線の建設正式表明以降」の節に分けて記述する。
建設計画時
1971年(昭和46年)10月1日に東北・上越新幹線の建設計画の認可が下りた。この時点の計画では、「赤羽から高架で北上しながら荒川沿いを通り、荒川を斜めに渡って戸田市に入り、戸田市の途中から地下に潜って浦和市・与野市の地下を通過して大宮駅に至り、大宮駅からまた高架になって北上する」というものであった。この発表に伴い、戸田市民と東京都北区民を中心とした建設反対を掲げる住民運動が展開された。一方建設区間のうち、当初の工事実施計画で荒川から大宮駅南側にかけて、延長10.6kmの「南埼玉トンネル」によって地下を通過する[6]こととされていた浦和市民や与野市民の間には、目立った反対運動は生じなかった[2][4]。
- 年表
- 1971年(昭和46年)
- 1月18日 - 運輸大臣により東北・上越新幹線の基本計画が決定される。
- 4月1日 - 運輸大臣により東北・上越新幹線の建設計画が決定される。
- 10月1日 - 東北・上越新幹線の建設計画の認可が下りる。
- 10月8日 - 栗原浩埼玉県知事から戸田市・浦和市・与野市・大宮市の4市の市長(市名は当時)に、東北・上越新幹線のルートが戸田市・浦和市・与野市を経て大宮市に至ると内示される。
- 10月9日 - 国鉄の当該区間の工事担当部署である東京第三工事局の責任者が、沿線となる各市を訪れ正式に概要を説明する。
- 10月12日 - 東北・上越新幹線の工事認可申請。
- 10月14日 - 東北・上越新幹線の工事実施計画が運輸大臣によって認可される。
- 10月21日 - 戸田市の対策担当責任者が東京第三工事局を訪れ、「赤羽 - 荒川までは高架、戸田 - 大宮操車場付近は地下トンネル(「南埼玉トンネル」)にする」と説明を受ける。
- 11月26日 - 東北・上越新幹線の建設が開始されるが、伊奈町から北区にかけては反対運動が強く着手できず[2]。
全線高架への計画変更以降
その後、当該区間において顕著な地盤の沈下・隆起がみられることを理由として、1973年(昭和48年)3月10日に地下区間を高架方式とする計画変更が発表されると、当初は目立った反対運動の見られなかった浦和市、与野市でも反対運動が発生、埼玉県もこの提案を拒否した。
また計画変更は、東京都北区・板橋区における経路の変更を伴うものであり、これによって直下にトンネル(赤羽台トンネル)が新たに掘られることとなった、東京都北区での反対運動も激化することとなった[3]。主な住民組織として、与野市に「与野市新幹線反対同盟協議会」、浦和市に「浦和市新幹線対策住民連絡協議会」、戸田市に「戸田市通過反対市民同盟会」が組織され、さらに1974年(昭和49年)4月には、この3市の住民からなる「新幹線反対県南三市連合会(三市連)」が組織された。
赤羽台トンネルの真上に位置する星美学園が騒音などの問題から強硬に反対、そして東京都北区の住民による「北区新幹線対策連絡協議会(北新連)」が組織され、これらの住民組織が反対運動を展開することとなった[3][4]。
住民による反対運動は、デモ行進、ピケッティングなどによって展開された。このほか、日本国有鉄道(国鉄)の説明会場へ押しかけ説明会を開催させない、あるいは会場を何時間にも渡って取り囲み、国鉄職員が外へ出られない状況を作ったりなどした。一方で、成田闘争のような過激派の介入を防ぐことにも、注意が払われた。
後に、「与野市新幹線反対同盟協議会」の代表であった遠藤富寿は次のように述懐している。
国家権力による一方的な手法に対して、普通の主婦も立ち上がらざるを得ない状況だった。ただ、「成田闘争」には悪いイメージがあって、極左の排除には気をつかった。 — 『回想畑県政二十年』1996年、p62
また、反対運動当時の埼玉県知事であった畑和は、次のように述懐している。
反対運動が盛り上がる中、私はたびたび「三市連」の幹部と会談した。激励さえしなかったものの、「まあ、悪いようにはしないから」とは常々言っていたと思う。彼らの運動を目の当たりにし、心の中で「捨てたもんじゃない」とある種の感動を覚えていたことも確かだった。「成田闘争」のような過激な集団でなかったことも助かった。彼らのやり方は住民運動の好例になるような感じだった。 — 『回想畑県政二十年 』1996年、pp62-63
このような反対運動の高まりの中で、1975年(昭和50年)5月に衆議院公害環境特別委員会で国鉄の藤井松太郎総裁が、東京駅 - 大宮駅間の工事中断を表明、1976年(昭和51年)12月16日に当時の埼玉県知事の畑知事が「大宮駅 - 赤羽駅間の通勤新線建設」「開業時に環境基準遵守のためのスピードダウン、緩衝地帯として都市施設帯等の設置」「大宮駅に全列車を停車[注 1]」「大宮 - 伊奈間の新交通システム導入」を4条件として県南高架建設に条件付同意を埼玉県議会で示した[3]。その後、1977年(昭和52年)10月に福田赳夫首相が東北・上越新幹線の大宮駅暫定開業の考えを示し、さらに国鉄は、通勤新線の建設を埼玉県に約束をして、地元の柔軟化に期待した[4]。
- 年表
- 1973年(昭和48年)
- 3月10日 - 畑和埼玉県知事と佐藤文生運輸政務次官が会談。佐藤次官が「地盤沈下がひどく地下化は無理」「全面高架を認めてもらえるならば、県南で要望の強い通勤線をこれに併設[注 2]」と発言する。
- 同日 - 東北新幹線の大宮駅 - 赤羽駅間の工事実施計画の変更が発表される。この計画変更の内容は、東京都北区内のルートが西寄りのより人家の多い地帯を通過すること、および埼玉県南部の地下案を撤回し浦和市・与野市でも高架とすること。これに伴い北区の住民運動は激化、浦和市・与野市でも反対運動が発生。
- 4月26日 - 与野市議会新幹線等対策特別委員会に対して市民300名が押しかけ、大混乱となる。
- 5月1日 - 「与野市新幹線反対同盟協議会」発足。
- 1974年(昭和49年)4月13日 - 「新幹線反対県南三市連合会」(戸田市・浦和市・与野市の3市〈市名は当時〉)発足。通称「三市連」。
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)12月16日 - 畑知事が「大宮駅 - 赤羽駅間の通勤新線建設」「開業時に環境基準遵守のためのスピードダウン、緩衝地帯として都市施設帯等の設置」「大宮駅に全列車を停車」「大宮 - 伊奈間の新交通システム導入」を4条件として、県南高架建設に条件付同意を埼玉県議会で示す。
- 1977年(昭和52年)10月 - 福田赳夫首相が東北・上越新幹線の大宮駅暫定開業の考えを示す。国鉄も、通勤新線の建設を表明。
通勤新線の建設正式表明以降
前節で示された埼玉県知事の4条件に対し、国鉄がその条件の受け入れを表明。それを契機に埼玉県が軟化し、1978年(昭和53年)5月には北区が条件付き賛成に転向した。それでも建設に反対する3市の住民側は、1978年(昭和53年)8月26日から「一坪運動」を開始した。これは、一坪の(あるいは十分狭い)土地を数十名で共有し、権利関係を複雑にすることで、用地買収を難しくする活動である(一坪地主参照)[3]。
1978年(昭和53年)11月22日には「通勤新線」赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅 - 宮原駅間の建設認可を運輸省(現・国土交通省)に申請、同年12月16日に森山欽司運輸大臣が通勤新線の建設を認可、その結果、1979年(昭和54年)6月7日に知事は4条件が整ったと判断し、新幹線の建設促進の態度を表明した[7]。
これを受け、住民組織側も同年8月には浦和市の組織が、同年12月には与野市と戸田市のそれぞれの組織が、条件付き賛成や条件闘争への軟化に転じた[注 3]ため、三市連が事実上の分裂状態になった[4]。
また、1979年(昭和54年)11月20日には「三市連」代表と地崎宇三郎運輸大臣が会談して、これを境に反対運動は収束に向かい、徐々に反対運動から条件闘争へと移ってゆくが、戸田市・浦和市・与野市の埼玉県南3市では、長らく一部の住民らによる「絶対反対」の運動が続けられ、1980年(昭和55年)4月24日には、埼玉県南部の3市(与野市、浦和市、戸田市)で認可取り消しを求める行政訴訟が起こされたが、当時の埼玉県知事・畑和の提案などによって沈静化し、最終的には建設合意に至った。
この合意について、当時国鉄側の用地買収の責任者だった岡部達郎[注 4]は次のように述べている。
過去の住民対策の経験を生かす機会が到来したと判断し、全力で作戦を練ることにしました。要は推進主体を運輸省 - 国鉄本社 - 工事局 - 良識派住民代表 - 関係住民ということとして、この間に強い信頼のパイプを構築し、反対派の思想宣伝や党勢拡張、あるいは補償金目当てのプロリーダーを排除していくことです。当方の内部でお互い不信感があったり、上層部の無責任な言動などがあると、反対派のプロリーダーに絶好のチャンスを与えることになります。彼らは弁護士、マスコミ、学者、政治家、自治体など、ありとあらゆる方に手を伸ばして問題をこじらせ、業務の遂行を不能にしてしまうわけです。
(中略)こうした中で、堂々と住民大会に乗り込み、彼らに敵ながら天晴れと言わしめた工事局職員や、おどしに屈しない良識派リーダー、施工業者の人々の努力を忘れてはならないと思います。 — 「公共工事と住民パワー」『汎交通』1992年4月
1982年(昭和57年)5月7日には大宮駅以北区間で最後まで残った大宮市桜木団地の19世帯の移転がまとまり[8]、「一坪運動」も1983年(昭和58年)12月3日に全面解消している。
一方、埼玉県南3市が建設合意に至ろうとしている最中、東京都北区の赤羽台トンネル付近では、1980年(昭和55年)3月12日に星美学園が赤羽駅 - 荒川間の建設工事および荒川橋梁建設工事の中止を求める仮処分を申請した[7]。また、北区沿線の反対派住民運動組織である「北区新幹線対策連絡協議会(北新連)」により結成された203名の原告団が、1980年(昭和55年)9月23日に東北新幹線の建設差し止めを求める民事訴訟を行った[7]。このうち、25名の原告が赤羽台トンネル直上部の居住であった[9]。
しかし、これまで強硬に反対していた星美学園は、法廷において交渉が続けられた結果、騒音・振動により環境が阻害されないように措置すること、建設工事で支障を及ぼさないこと、区分地上権を設定すること、相当額の用地譲渡と建物補償に応じることを条件として、1982年(昭和57年)11月25日に和解が成立した[10]。
さらに、北新連側の住民も時とともに理解が得られるようになり、太平洋戦争中に崖下から台地へ向けて掘られた防空壕を調査して埋め戻すことを条件として、土砂運搬導坑の掘削が認められるようになった[11]。1984年(昭和59年)6月30日に、トンネル上部の支障住宅の移転が完了し[9]、8月8日には地元と工事に関する協定書が正式に調印された[11]。裁判も10月3日に和解が成立し、全体の着工が可能となった[9]。
上記などの紆余曲折を経て、東北・上越新幹線は建設され、1982年(昭和57年)6月23日に東北新幹線大宮駅 - 盛岡駅間が開業し、同年11月15日に上越新幹線大宮駅 - 新潟駅間開業した。そして1985年(昭和60年)3月14日に東北・上越新幹線、上野駅 - 大宮駅間が延伸開業した。当初の計画からルートを変更した結果、上野駅 - 大宮駅間は半径800m以下のカーブが17箇所にのぼり、半径1500m以下のカーブのない区間が連続するのは最長でも6kmに満たない区間となった[12]。このような線形上の理由から、頭打ち速度としてアナログATC(ATC-2型)の110km/h以下での運行となった[13][注 5]。
なお、JR東日本は2002年にDS-ATCの導入に合わせて東京駅 - 大宮駅間のスピードアップの検討に着手し、2006年頃の所要時間短縮を目指すと発表した[15]。しかしこの区間の増速計画は大幅に遅れ、2018年5月にようやく上野駅 - 大宮駅間のうち荒川橋梁以北の埼玉県内区間で、騒音対策工事に約2年を掛けたうえで、最高速度を最大130km/hに向上させることが発表された。これによる時間短縮効果は最大1分程度としている[14]。一方、荒川橋梁以南の東京都内区間については依然として増速の具体的な動きはない。
- 年表
- 1978年(昭和53年)
- 8月26日 - 建設に反対する3市の住民側による「一坪運動」が始まる。
- 11月22日 - 「通勤新線」赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅 - 宮原駅間の建設認可申請。
- 12月16日 - 森山欽司運輸大臣が通勤新線の建設を認可。
- 1979年(昭和54年)
- 1980年(昭和55年)
- 1982年(昭和57年)
- 1983年(昭和58年)
- 12月3日 - 「一坪運動」全面解消。
- 12月22日 - 埼玉新都市交通ニューシャトル(伊奈線)大宮駅 - 羽貫駅間が開業。
- 1986年(昭和61年)3月3日 - 埼京線池袋駅 - 新宿駅間延伸開業。
- 1990年(平成2年)
- 1991年(平成3年)6月20日 - 東北・上越新幹線、上野駅 - 東京駅間延伸開業。東北・上越新幹線は当初の建設区間が全線開通。
大宮駅への全列車停車
1976年(昭和51年)8月22日に、大宮市内での反対運動組織「大宮新幹線対策特別協議会」と国鉄東京第三工事局は、公害対策などで合意に達し、合意事項に調印を行った。この結果、大宮市内での反対運動は一つのヤマを越した。この中で「全列車を大宮駅に停車させる」との項目があった[16]。また、畑和埼玉県知事は、東北新幹線を受け入れるにあたって、1977年(昭和52年)12月県議会の答弁の中で、通勤新線の建設、全列車の大宮駅停車、環境基準の達成、新交通システムの実現、という打開のための4条件を提示した[17]。
しかし、東北新幹線上野開業の際には、大宮駅を通過する列車が登場している。これについて、1985年(昭和60年)3月8日の衆議院予算委員会第七分科会で国鉄の対応を問う質問に対して、須田寬国鉄常務理事は「埼玉県の皆様方から大宮全列車停車ということが、工事に関係いたしまして非常に強い御要望があったことは承知をいたしておりますし、当方が現地で地元の皆様方にそういったいろいろお話を申し上げる中で、大宮につきましては全列車停車可能な構造になっていることはこれは事実でございますし、今も可能なわけでございますが、そういうことを御説明いたします過程で、あるいはそういう御印象を与えたことがあったかということは必ずしも否定をいたしません。ただ、やはりその後のいろいろ列車のダイヤを考えてまいります中で、どうしても今申し上げましたようなことで、東北・上越新幹線全体として一番効用の高いダイヤというものを考えました中で、御案内のようなことになった次第でございますので、いろいろそういうふうなことで誤解を与えたりあるいは御説明のまずかった点は、これはおわび申し上げなければいけないと思いますが、何とぞ御理解をいただきたいというふうに考えます。」と、大宮駅への全列車停車は「誤解」「説明がまずかった」に過ぎないものとの答弁をしている。
通勤新線(埼京線)
東北・上越新幹線の全面高架化の見返りとして建設された。大宮 - 赤羽間の通勤ラッシュの緩和目的のほか、当時在来線の鉄道駅がない一方、東北・上越新幹線の通過ルートとして予定された当時の与野市(現・さいたま市)[注 7]・戸田市へ配慮した結果の産物である。新幹線への通勤新線の併設は、1973年(昭和48年)3月10日の新幹線の工事実施計画の変更(地下方式から全面高架方式への変更等)と同時に、国鉄側から公表されたもので、それまで目立った建設反対運動を起こしていなかった浦和市・与野市では、これを契機に建設反対運動が発生した。その後、駅数、快速停車駅など条件闘争においては3市(特に当時の与野市)の要求が反映されている。
大宮駅以北の運用に関する論争
大宮駅以北の延伸については、県内自治体から相反する要求が出された。
上尾事件後に事件の背景として指摘されたように、高崎線の沿線は高度経済成長以降、急速な通勤通学人口の増加が起こった。このため、同線は営業係数でも常に上位にランクするなど国鉄経営への貢献の大きな線区の一つに成長したが、反面、輸送力の増強が追いついておらず、1980年代初頭でも280%余りの混雑率を記録していた。このような中、展望が開けるきっかけとなったのが通勤新線の建設であり、新聞でも高崎線沿線からの混雑緩和への期待感が報じられている[注 8]。1979年12月20日には埼玉県議会で「通勤新線・熊谷乗り入れに関する意見書」が全会一致で可決された。この要求を考慮した国鉄は、高崎線が混雑率でもワーストクラスにあったことから、当初中間で赤羽線を取り込んだ上で、宮原駅 - 新宿駅間を開業させるとの計画[注 9]だった。しかし、沿線地域でも要望には差があり、上記1979年12月の県議会議決の直後にも、与野市・浦和市・戸田市の三市長ならびに議長が県に対して反対を申し入れている。
一方で、川越線沿線住民からも「通勤新線を相互乗り入れしてほしい」との要望は強く出されていた。この要望についても国鉄は検討を行い、南古谷に車両基地(の用地)を確保できれば、川越線の電化を行うことで、川越駅まで直通運転が可能であると判断した[注 10]。車両基地は埼京線内(戸田駅付近)や高崎線内(宮原駅付近)の計画が用地買収の難航で頓挫していた[20]。川越線の電化および通勤新線開業後の一体的運用への計画変更は、こうした判断がきっかけとなっている。車両基地などの用地買収も円滑に進められ、土地は確保された。埼京線の車両基地が開業当初より指扇駅 - 南古谷駅間間に川越電車区(現・川越車両センター)として設けられたのも、このような経緯による。なお、車両基地の設置場所が確定した後も、県北自治体からは通勤新線を宮原駅以北に乗り入れさせるように運動が行われた。具体的には、沿線13市町村の首長、議会議長で構成する「通勤新線熊谷乗り入れ促進協議会」や県議会議員で構成する「国鉄高崎線輸送力増強推進協議会」などの活動が報じられている。これらは当時の埼玉県の構想にも反映され、将来的には乗り入ればかりでなく、宮原駅以北の高崎線複々線化も視野に入れていた[注 11]。
車両の確保
なお、延伸開通後の新幹線の騒音が懸念されていたが、新幹線は最高速度110km/hで走行することとなったため、当時山手線・京浜東北線などから埼京線に転用され運転本数もはるかに多かった埼京線の103系電車が最高速度100km/hで走行するほうが新幹線よりも10dBほど騒音が大きいという皮肉な結果となった[22]。
なお、国鉄東京第三工事局長および第一工事局長が連名で1982年(昭和57年)5月17日付で東京都環境保全局長へ提出した公文書「東北新幹線(西日暮里・荒川間)等の建設計画に伴う環境対策について」においては、「6 通勤別線の騒音・振動対策」の項で「通勤別線と新幹線とは、同一構造で建設し、一般高架部、橋りょう部、トンネル部すべての区間で前記の新幹線と同等の騒音・振動対策を通勤別線に対して実施する。従って、通勤別線の騒音・振動は、新幹線のそれとほぼ同等の値になるものと予想するが、周辺の立地条件等を勘案して十分な音源対策を実施し、沿線の環境保全につとめる。」としている。
また、北新連との訴訟の和解文において「3.債権者国鉄は、債権者住民らとの間において、在来線の騒音、振動対策として、今後ともロングレール化、レールの重量化、枕木のコンクリート化、ゴムパットの使用及び鉄桁対策等に努力するとともに、さらに各種発生源対策の技術開発に努める。」との文言が盛り込まれている[23]。上落合地区新幹線反対同盟では、各駅停車上りの平均が72.3ホン、下りの平均が72.85ホン、快速では上りの平均が76.3ホン、下り平均が75.4ホンと、新幹線の騒音を越えることを公表[24]している。1985年(昭和60年)10月30日に行われた国鉄との交渉では「国鉄側も埼京線の騒音問題について誤算だったことを認め、車両の整備で対応することを約束した。」[25]としている。しかし、「昭和60年以降は、国鉄の分割民営化への動きが本格化し、担当局であった東京第三工事局の存続すら難しい局面を迎えたこともあって、もはや住民との交渉の当事者能力を喪っていった。こうして、継続交渉は何らかの合意に至ることなく幕を引かざるを得なかった。」[26]とされる。
また、東京都北区生活環境部長は、2002年(平成14年)6月19日北区議会において「在来線の速度、騒音、振動測定と、対策の検証につきましては、新設線や大規模改良線の指針を除きまして、在来線につきましては、環境基準等が設定されておりません。この点につきましては、特別区長会として、国に対し、これまでも、在来線の騒音対策として、環境基準等を設けて、新幹線に準ずる防止対策を行うよう適切な措置を講じられたいとの要望をしてきているところでございます。」と答弁している。
開業前後の時期は、より低騒音な車両として205系電車が開発されており、逐次山手線に投入されつつあった。しかし、当時の国鉄財政状況は最悪の状態にあり、国鉄は予算査定にシビアな姿勢で臨んでいた。山手線自体は利益計上に貢献する代表的な線区であったが、国鉄経営全体の視点からは、その利益は他線区の赤字との相殺が問題になる。このことは車両発注にも現れ、山手線で使用していた103系の転用の計画が立たなければ山手線向け205系の発注にも踏み切れないほどの状況であった旨が、日経産業新聞で報じられている[注 12]。日経産業新聞によれば、国鉄は1984年12月、埼京線として1985年11月の開業の目処が立ち[注 13]車両増強が必要となったため、1985年度発注分として100両を発注した。車両制作期間として6か月から8か月程度を見込んでの措置である。これは前年度の40両に比較して倍以上の数であった。山手線、埼京線とも当時の編成は10両であったので、編成組み換えなどの煩雑な作業による経費増加を抑えて転用することができる。以上が、国鉄の計算であった。なお、山手線の在籍車両は当時でも550両程あるため、1985年度の100両を投入しても山手線の置き換えは完了しない。当時の時点で、4年 - 5年にまたがった更新計画として考えられている。山手線でさえこのような状況で、かつ新車を必要とする線区が数多くあった中、国鉄には埼京線に新車を回す余力はなかった[27]。
埼京線の車両置き換えは国鉄民営化を挟み、山手線の205系置き換えが完了した後に着手され、1990年には全車両が205系に置き換えられた(さらに2013年よりE233系7000番台へ置き換え)。
しかし、東京都環境保全局による「平成10年度在来線鉄道騒音調査結果報告書」によると、同一地点(板橋区舟渡)において、205系化後の埼京線の騒音は未だ新幹線を上回っていることが示されていた。
都市施設帯
騒音・振動対策として、都市施設帯が幅20mにわたって高架の両脇に設けられた。設けられているのは与野市・浦和市・戸田市の3市(当時)の北与野駅から戸田公園駅南端にかけてであり、3市以上に人口密度の高い東京都北区には設けられていない。当時県南3市が沿線に都市施設を計画しており、その空間を沿線に確保するように国鉄に求めたのが始まりである。用地買収に当たってその資金を誰が負担するかが問題となったが、費用負担については別途協議することとして鉄道高架の建設時に国鉄が先行取得の形で用地費を全額負担した。会計検査院の報告や『高速文明の地域問題』によれば、買収には1200億円以上(1220億4655万円)の費用がかかり、その面積は買収時で24万7500平方メートルとなっている[28]。このアイデアの大元は建設局に在籍した岡部達郎によるものであったとされる。国鉄は最終的には地元自治体が有償で買い取るべきだと言う主張で一貫していた[注 14]。
国鉄側は県南3市側が「都市施設」との呼称を持ち出した上述の経緯もあり、自ら買収に当たったこの敷地に「都市施設帯」と名付けた。会計検査院も「都市施設用地」との呼称を用いている[30]。『高速文明の地域問題』など国鉄に批判的な研究書でもこの呼称を尊重している例がある。一部のメディア側は「環境空間」または「緩衝地帯」と言う土地の性格に着目して報道した。なお、赤羽駅 - 大宮駅間の埼京線・新幹線の建設費はキロ当たり371億円で、その42%は用地費であり、東北・上越新幹線の地方の区間に比較して高くついた[31][注 15]。
国鉄分割民営化により、都市施設帯の所有権はJR東日本に承継され、ジェイアール東日本都市開発が受託管理する形態となっている(所々に警告板が設置されている)。1999年にJR東日本と埼玉県南3市との間で都市施設帯の取り扱いに関する基本合意が交わされ、与野市・浦和市が合併したさいたま市とは2003年3月に改めて基本合意確認書を締結した。
1990年代以降、地元自治体との折衝により、与野本町駅・北与野駅のそれぞれ周辺部において、都市施設帯だった敷地に遊歩道が整備された。それ以外の場所では、開業後20年程度は緩衝帯に雑草生い茂り、四方を木製の柱と有刺鉄線で囲って立ち入り禁止にしていたが、2000年代以降保育所・駐車場・店舗(飲食店・ドラッグストアなど)・テニスクラブ用地として各地で開発が進んでいる。2010年頃に与野本町駅 - 北与野駅間が公園になったほか、2016年4月には武蔵浦和駅周辺の桜の名所として知られる花と緑の散歩道(別所排水路)に隣接した区画が公園として開園した[32]。
脚注
注釈
- ^ ただし、東北新幹線の上野駅 - 大宮駅間延伸開業のダイヤ改正で、大宮駅を通過する列車(回送列車も含む)を設定したことで反故にされたが、徐々に通過列車は減少し、2015年3月よりすべての営業列車が停車されている。
- ^ 始発地を伊奈町とし、赤羽以南は赤羽線を介して、池袋駅・新宿駅へ至ると示した。また、このルートを走行する新幹線は東北新幹線に限定させた上で上越新幹線は新宿発着とし、大宮駅 - 赤羽駅間は東北貨物線を転用し、赤羽駅以南は赤羽線の直上に高架を設けて池袋駅へ至り、池袋駅 - 新宿駅は山手貨物線を転用すると示した。
- ^ その前の11月に与野市の「与野市新幹線反対同盟協議会」は、条件闘争への軟化を決定した。
- ^ 1970年より1975年まで国鉄東京第三工事局長(当該区間の担当部署)
- ^ なお、デジタルATC(DS-ATC)化以降も、2018年現在まで、大宮駅 - 上野駅間のATCによる速度制限は110km/hで頭打ちとなっている。[14]
- ^ 会談の詳細な内容は伝えられておらず、最後まで反対を続ける与野市住民の代表への説得工作であったともいわれる。
- ^ 京浜東北線与野駅の所在は与野市ではなく浦和市であった。現在もさいたま市浦和区に所在している。
- ^ 1982年度を例にとると102億の利益、高崎線混雑率が280%を記録していること、将来の混雑緩和策として1984年2月1日国鉄ダイヤ改正で集結輸送を廃止する一方で東北貨物線にラッシュ時赤羽行きを高崎線より2本乗り入れ(増発)することと、本命の対策として通勤新線を開業させることが触れられている[18]
- ^ 列車の運用としては、宮原駅以北の高崎線への乗り入れを想定していた。なお、建設用地は今も多くが手付かずのまま残されている。
- ^ 川越線からの要望検討について[19]
- ^ 県北自治体の運動団体や宮原以北の複々線化構想について[21]
- ^ 開業直前の埼京線車両の手配と山手線車両の置き換え、転属計画との関係について[27]
- ^ 1984年12月時点での目途である。実際には1985年9月30日に開業した。
- ^ 都市施設帯に対する国鉄のスタンスについて[29]
- ^ 出水で約8000億円の建設費を要した中山トンネルや、東京都内の地下区間を除く。
出典
- ^ 全国新幹線鉄道の整備について 昭和46年度運輸白書 各論-Ⅰ陸運-(I)鉄道-第6章第4節
- ^ a b c 船橋晴俊 著「東北新幹線建設と住民運動」、栗原 彬・庄司興吉編 編『社会運動と文化形成』東京大学出版会、1987年、142頁。
- ^ a b c d e 船橋晴俊 著「東北新幹線建設と住民運動」、栗原 彬・庄司興吉編 編『社会運動と文化形成』東京大学出版会、1987年、144頁。
- ^ a b c d e 佐藤信之編「第1章 国鉄時代の大規模投資 3.東北新幹線と埼京線」『鉄道ピクトリアル 東京圏都市鉄道プロジェクト』2013年7月号別冊、電気車研究会、2013年7月、48頁。
- ^ 小佐野カゲトシ「埼京線その歴史とあらまし」『鉄道ダイヤ情報 No.378 〔特集〕埼京線と東京メガループの“周辺”に注目』2015年10月号、交通新聞社、2015年10月、11頁。
- ^ 『東北新幹線工事誌 上野・大宮間』p13
- ^ a b c d e f g 船橋晴俊 著「東北新幹線建設と住民運動」、栗原 彬・庄司興吉編 編『社会運動と文化形成』東京大学出版会、1987年、146頁。
- ^ a b c 船橋晴俊 著「東北新幹線建設と住民運動」、栗原 彬・庄司興吉編 編『社会運動と文化形成』東京大学出版会、1987年、147頁。
- ^ a b c 『東北新幹線工事誌 上野・大宮間』pp.574 - 575
- ^ 『東北新幹線工事誌 上野・大宮間』pp.77 - 79
- ^ a b 隅内敏夫「東北新幹線赤羽台トンネルの施工」p.84
- ^ 『東北新幹線工事誌 上野・大宮間』中の「東北新幹線線路縦断面図(上野・大宮間)」
- ^ 新幹線50年史 p.312
- ^ a b “新幹線 上野~大宮間の所要時間短縮に向けた工事着手について”. 東日本旅客鉄道. (2018年5月16日) 2019年5月10日閲覧。
- ^ “新幹線東京~大宮間の到達時間短縮の検討について”. 東日本旅客鉄道. (2002年3月27日) 2018年2月28日閲覧。
- ^ 1976年(昭和51年)8月23日付『読売新聞』
- ^ 1986年(昭和61年)10月30日付『日本経済新聞』「私の履歴書」
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- ^ 小佐野カゲトシ「埼京線その歴史とあらまし」『鉄道ダイヤ情報 No.378 〔特集〕埼京線と東京メガループの“周辺”に注目』2015年10月号、交通新聞社、2015年10月、13 - 14頁。
- ^ 「東北新幹線 上野・大宮間工事誌」日本国有鉄道
- ^ 「新幹線を「ノー」といった人たち -与野市における新幹線反対運動の足跡- 」与野市新幹線対策住民委員会・編 148頁
- ^ 「新幹線を「ノー」といった人たち -与野市における新幹線反対運動の足跡- 」与野市新幹線対策住民委員会・編 149頁
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- ^ 「埼京線新駅の整備と都市施設用地の負担問題」『高速文明の地域問題 東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』有斐閣選書 1988年
- ^ 『高速文明の地域問題 東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』有斐閣選書 1988年P137-138
- ^ 第10 東北新幹線の建設に伴い取得された都市施設用地について 会計検査院、1998年(平成10年)
- ^ 『高速文明の地域問題 東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』有斐閣選書 1988年P77-78
- ^ 浅川靖之「業務資料 都市施設帯の有効(暫定)活用」『日本鉄道施設協会誌』2006年4月
参考文献
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- 船橋晴俊 著「東北新幹線建設と住民運動」、栗原 彬・庄司興吉編 編『社会運動と文化形成』東京大学出版会、1987年、123 - 155頁。
- 船橋晴俊、長谷川公一、畠中宗一、梶田孝道『高速文明の地域問題―東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』有斐閣、1988年、各頁頁。
- 佐藤信之編「第1章 国鉄時代の大規模投資 3.東北新幹線と埼京線」『鉄道ピクトリアル 東京圏都市鉄道プロジェクト』2013年7月号別冊、電気車研究会、2013年7月、48頁。
- 小佐野カゲトシ「埼京線その歴史とあらまし」『鉄道ダイヤ情報 No.378 〔特集〕埼京線と東京メガループの“周辺”に注目』第44巻10号(通巻402号)、交通新聞社、2015年10月、10 - 15頁。