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2020年9月14日 (月) 22:47時点における版
綿州(めんしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代から民国初年にかけて、現在の四川省綿陽市一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
553年(廃帝2年)、西魏により設置された潼州を前身とする。
隋代
隋代が成立すると当初は3郡8県を管轄した。585年(開皇5年)、潼州は綿州と改称された。607年(大業3年)、郡制施行に伴い金山郡と改称され、下部に7県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | |||
州 | 潼州 | 郡 | 金山郡 | |||
郡 | 巴西郡 | 万安郡 | 安城郡 | 県 | 巴西県 昌隆県 魏城県 金山県 神泉県 万安県 涪城県 | |
県 | 巴西県 昌隆県 魏城県 金山県 益昌県 西充国県 |
万安県 | 涪城県 |
唐代
618年(武徳元年)、唐により金山郡は綿州と改められた。742年(天宝元年)、綿州は巴西郡と改称された。758年(乾元元年)、巴西郡は綿州の称にもどされた。綿州は剣南道に属し、巴西・涪城・昌明・魏城・羅江・神泉・塩泉・竜安・西昌の9県を管轄した[2]。
宋代
宋のとき、綿州は成都府路に属し、巴西・彰明・魏城・羅江・塩泉の5県を管轄した[3]。
元代
元のとき、綿州は潼川府に属し、彰明・羅江の2県を管轄した[4]。
明代以降
1370年(洪武3年)、明により綿州は成都府に転属した。1377年(洪武10年)、綿州は綿県に降格した。1380年(洪武13年)、綿県は再び綿州に昇格した。綿州は羅江・彰明の2県を管轄した[5]。
1727年(雍正5年)、清により綿州は綿州直隷州に昇格した。綿州直隷州は四川省に属し、徳陽・安・綿竹・梓潼・羅江の5県を管轄した[6]。
1913年、中華民国により綿州は廃止され、綿陽県と改められた。