「九州王朝説」の版間の差分
m 外部リンクの修正 http:// -> {{Wayback}} (ocn.ne.jp) (Botによる編集) |
|||
341行目: | 341行目: | ||
** 7世紀中頃に創建された[[観世音寺]]の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはなく、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していたことになる。 |
** 7世紀中頃に創建された[[観世音寺]]の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはなく、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していたことになる。 |
||
** [[竈門神社]]の社伝では、[[天智天皇]]の代に大宰府が現在地に遷された際、[[鬼門]](東北)に位置する[[宝満山]]に大宰府鎮護のため[[八百万の神々]]を祀ったのが竈門神社の始まりとされる。つまり大宰府は天智天皇の代(668年-672年)にはあったことになる。 |
** [[竈門神社]]の社伝では、[[天智天皇]]の代に大宰府が現在地に遷された際、[[鬼門]](東北)に位置する[[宝満山]]に大宰府鎮護のため[[八百万の神々]]を祀ったのが竈門神社の始まりとされる。つまり大宰府は天智天皇の代(668年-672年)にはあったことになる。 |
||
** 新羅が西暦250-300年頃には[[金城]]を整備し、高句麗も[[427年]]に都を[[平壌]]に遷している。更に百済は[[538年]]に [[泗 |
** 新羅が西暦250-300年頃には[[金城]]を整備し、高句麗も[[427年]]に都を[[平壌]]に遷している。更に百済は[[538年]]に [[泗沘]]都城を建設している。[[宋 (南朝)|宋]]の皇帝から[[安東大将軍]]に任命され、[[隋]]・[[唐]]朝時代には天子を自称した倭王が、7世紀末まで都城を建設しなかったとは考えられない。また博多では日本最古の計画都市(奴国)が発掘されている。 |
||
** 九州年号に倭京元年([[618年]])とあることから、この年に建設されたと考えられる。 |
** 九州年号に倭京元年([[618年]])とあることから、この年に建設されたと考えられる。 |
||
[[ファイル:Dazaifu.gif|right|thumb|300px|太宰府条坊復元図]] |
[[ファイル:Dazaifu.gif|right|thumb|300px|太宰府条坊復元図]] |
2020年9月3日 (木) 11:21時点における版
九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、古田武彦によって提唱された、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ、「大宰府」とも表記する。)がその首都であったとする説である。
邪馬台国から5世紀の「倭の五王」までを九州に比定する論者は、古くは鶴峰戊申から太平洋戦争後では長沼賢海らがいるが、本説はこれらを7世紀まで敷衍した点に特徴がある。当初古田は九州倭国は白村江の敗戦により滅亡したと考えていたが、近年の九州王朝説では7世紀末まで存在したとする見方をとっている。近年、古田以外の多くの研究者から多くの発表がなされ、古田の同説に対する影響力は低下してきている。
本説は古田の「多元的古代史観」の主要な部分を占める。古田は、「倭」とは九州のことであり「邪馬壹國(邪馬臺國)」は倭国の前身であるとし、その後、九州に倭国が成立したが、663年(天智3年)「白村江の戦い」の敗北により滅亡にむかったとしている。
現在、本説は、井上光貞、榎一雄、山尾幸久を始めとする複数の東洋史・日本史学者等から批判されており、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書[注 1]においては記載されていない[注 2]。
注:下記に記された内容は、古田史学会で発表された論文や九州王朝説支持者の著作の内容などを含むため、古田説とは異なる。また互いに矛盾する箇所もある[注 3]。
概要
経緯
古事記や日本書紀の記述は中国の史書に記されている邪馬台国(邪馬壱国)や倭の五王の記述とは食い違う部分が少なくない。例えば、日本書紀では魏に朝貢した倭王は神功皇后であるとされているが、日本書紀において神功皇后一人の業績とされる記述は魏志倭人伝では卑弥呼・壱与という二人の女王の業績とされており、明らかに矛盾している。
こうした矛盾は江戸時代から議論の対象となっていた。松下見林は異称日本伝において中国史書の内容は信用できないとして日本書紀を基準に解釈すべきことを主張し、邪馬台国も倭の五王もすべて日本書紀の記述に合致するように解釈し直したが、その内容は倭王武を雄略天皇と清寧天皇の二人に比定するなど現代の文献史学の水準からは稚拙な面も存在し、松下の邪馬台国畿内説や倭の五王近畿天皇家説は現在のように広く受け入れられていたわけではなかった。
多くの国学者に影響を与えた本居宣長は馭戒慨言において邪馬臺国や倭の五王は本来の倭王である近畿天皇家ではなく、熊襲や任那日本府が倭王を僭称したとする熊襲偽僭説を主張した。この熊襲偽僭説を完成させたのが鶴峯戊申であり、彼は中近世文書に頻出する大宝以前の古代逸年号についても古代の九州年号である、と主張するなど現在の九州王朝説に近い主張となっていた。明治維新以降も戦前・戦後を問わず神宮奉斎会会長の今泉定助、東京帝国大学教授の飯田武郷、九州帝国大学教授の長沼賢海、東北大学名誉教授の井上秀雄らが熊襲偽僭説や九州王朝説を主張していた。
こうした流れの中、在野の研究者であったものの親鸞研究等で学界からも一定の評価をされていた古田武彦の著書『失われた九州王朝』がベストセラーとなった。さらに彼の九州王朝説による論文「多元的古代の成立」は史学雑誌にも掲載されるなど、学界・アマチュアの双方で彼の説は一定の評価を受け、井上光貞や安本美典らとの間で論争となった。そして市民の古代研究会が結成されると古田の学説は「古田史学」と呼ばれ、主にアマチュアの研究者の間で一世を風靡することとなった。
一方、東日流外三郡誌を巡る論争での古田の学界での影響力の低下、市民の古代研究会の分裂、さらには学術論文の体裁を得ていないアマチュア論文の乱立もあり現時点では九州王朝説は一時期ほどには広まってはいない。しかしながら、古田の学説を継承する古田史学の会は新春講演会に定説派の学者も招聘し[1]、大阪府立大学の講師が幹部を務めるなど、いまなお活発な活動をしている。近年では平成30年に所功が著書『元号 年号から読み解く日本史』で否定的に、百田尚樹が著書『日本国紀』で肯定的に、それぞれ扱うなど今でも歴史家や著名人の注目を集めている学説である。
主な主張
- (以下は古田説の概要ではなく、学者・在野を問わず、各論者の説を纏めたもの。)
- 紀元前から7世紀末まで日本を代表した政権は一貫して九州にあり、倭(ゐ)、大倭(たゐ)、俀(たゐ)と呼ばれていた[注 4]。
- 1世紀には倭奴国(倭国)が北部九州を中心とした地域に成立し、倭奴国王(倭王)は博多湾近くに首都をおいて漢に朝貢し「漢委奴國王」の金印を授与されていた。
- 倭王卑彌呼(ひみか)は伊都国に都し、倭国は福岡平野の奴国(当時としては大都市の2万戸)を中心としていた[注 5]。漢が滅亡し魏が興ったことにより、「漢委奴国王」の金印に代わり魏より「親魏倭王」の金印が授与された。
- 卑弥呼は、筑紫君の祖、甕依姫(みかよりひめ)のことである。また、壹與(ゐよ)は、漢風の名(倭與)を名乗った最初の倭王である。
- 倭の五王(讃、珍、済、興、武)も九州倭国の王であり、それぞれ倭讃、倭珍、倭済、倭興、倭武と名乗っていた。
- 筑紫君磐井(倭わい)は倭(九州)の王(武烈天皇)であり、継体は九州南部の豪族である。磐井の乱は継体による九州内の九州倭国に対する反乱であり、継体が武烈朝を武力討伐した記事である[注 6]。
- 九州倭国の継体朝において日本で初めて独自の元号(九州年号)が建てられた。
- 隋王朝との対等外交を行った「俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌」[注 7]は、九州倭国の倭国王であった。
- 太宰府は倭京元年(618年)から九州倭国の滅亡まで倭京と呼ばれる九州倭国の都であり、日本最古の風水の四神相応を考慮した計画都市であった。
- 「白村江の戦い」では、総司令官である九州倭国の天皇「筑紫君薩夜麻(さちやま・倭薩)」が唐軍の捕虜となったことで九州倭国は敗北した。
- 「壬申の乱」は畿内ではなく九州を舞台としており、乱の前年に唐軍の捕虜から解放され倭(九州)に帰国した薩夜麻(実は天皇の高市皇子のこと)と 薩夜麻が不在中に政務を代行していた中宮天皇(十市皇女)-大友皇子(弘文天皇)との対立に畿内の豪族大海人皇子(天武天皇)が介入し日本列島の覇権を得た事件で、勝敗を決したとされる美濃からの援軍とは畿内日本軍である。
- 「壬申の乱」で九州倭国の天皇(高市皇子=薩夜麻)は大海人皇子(天武)の力を借り大友皇子らに勝利したが、協力を得る為に吉野の盟約で大海人皇子(天武)と九州倭国系の鸕野讚良皇女(持統天皇)の間の息子(草壁皇子)を後継者の皇太子とした。戦乱により九州の有力豪族の多くが滅亡したことにより天皇(高市皇子=薩夜麻)の基盤は弱体化し、戦乱とそれに続く天災[注 8]で荒廃した九州から天武の勢力圏である畿内へ天皇(高市皇子=薩夜麻)は移った。
- 「大化の改新(乙巳の変)」は皇太子であった草壁皇子が即位せずに逝去した為に、次の皇位に誰が付くか不明確となり、疑心暗鬼となった草壁皇子の子の軽皇子(文武天皇)と中臣鎌足(藤原不比等と同一人物)が九州年号の大和(大化)元年(695年)に藤原京で天皇(高市皇子=薩夜麻)とその子を暗殺し、翌年の大化2年(696年)に軽皇子(文武天皇)が即位した事件である。
- 神武東征は、6世紀に任那滅亡等により発生した難民の一部が九州から東征したもので、先に九州から畿内に植民して巨大古墳を築造していた邇藝速日命が支配する長髄彦等の国である日下(日本)を征服したものである。通説で飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト王権(日本・日下)はまだ日本を代表する政権ではなく畿内の地方政権にすぎなかったが、文武の時代に九州倭国から政権を完全に奪い日本全体が「日本」と呼ばれるようになった。
- 古事記・日本書紀は九州倭国の歴史書であり、続日本紀は天武朝の歴史書である。記紀に記された天皇の内初代神武天皇と第9代までの欠史八代の天皇および第40代天武天皇と第41代持統天皇、続日本紀に記された第42代天武天皇から第48代孝謙天皇までの7代、計18代だけが天武朝に連なる系譜である。記紀に記されている天武系の天皇は天皇ではなく畿内の地方豪族に過ぎなかった。記紀に記されたその他の天皇は九州倭国の天皇である。
- 万葉集の歌なども8世紀までの古いものは、殆どが九州で詠まれたものである。
- 神亀6年(729年)藤原氏は、九州倭国系である長屋親王を長屋王の変で抹殺。
- 第3回神宮式年遷宮(729年-732年)により伊勢神宮が八代市から伊勢市に移された。
- 神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は滅亡した九州倭国の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。
古田武彦説
上記概要と古田説の主な異なる部分について、掲載する。古田の論文は『史学雑誌』や『史林』に掲載されるなど、九州王朝説論者の中では数少ない学説の形に世に問うたものであった。
なお、この説の出典は特記のない限り古田の著書『失われた九州王朝』『古代は輝いていた』『古田武彦の古代史百問百答』による。
- 九州王朝の始まりは後に天孫降臨として神話化される出来事であり、天孫降臨の舞台となった場所は福岡県の糸島近辺である。また九州王朝の前には出雲王朝が存在しており、国造制・部民制の原型は既に出雲王朝の時代から存在していた。
- 神武天皇は1世紀から2世紀頃に実在しており、神武東征も基本的に史実である。九州王朝の分家として大和王朝(近畿天皇家)は成立した。
- 古田は近畿天皇家の天皇については、基本的に九州王朝の分王朝の大王として近畿に実在した、と考える。記紀には景行天皇の「九州大遠征」をはじめ、九州王朝の大王・天子の記事からの「盗用」はあるものの、例えば景行天皇自身が九州王朝の大王であった、とは古田は主張していない。
- 欠史八代も含めた天皇は実在したが、当時は大和盆地の南部を支配しているだけであった。崇神天皇の時代になって銅鐸圏の諸国を滅ぼし、後の近畿天皇家(古田は近畿分王朝、近畿大王家等の呼称を提案している)が近畿一帯を支配するようになった。
- 「磐井の乱」は、九州王朝の分家であるヤマト王権が武烈朝から継体朝に替わったことにより、九州王朝への臣従意識が薄れたヤマト(継体)による九州王朝への反乱であり、最終的にヤマトは糟屋屯倉の備蓄を戦利品としただけで、その後も九州王朝は存したとしていた。(もっとも後に「磐井の乱」はなかったとしている[2]。)
- 乙巳の変については、近畿天皇家内部における「親九州王朝派」の蘇我氏が粛清された事件であるとする。
- 天武天皇が近畿天皇家の人間ではなかった可能性については、根拠が中世文書であるため懐疑的である。
また、古田の説で特徴的なものとしては、次のような主張がある。
- 魏志倭人伝における原文改訂を一切認めない。
- 裸国・黒歯国は南米のエクアドルとチリ北部である。
- 狗奴国は邪馬壱国の東方にある。(狗奴国南九州説を支持しない。)なお、狗奴国の位置については当初は「瀬戸内地方説」を唱え、その後「畿内説」を提唱している。
- 聖徳太子架空説は支持しない。
- 推古天皇と聖徳太子は小野妹子を遣隋使ではなく遣唐使として派遣したのである。また、その内容も対等外交ではなく朝貢外交である。
- 聖徳太子は架空の存在ではなく、日本書紀も上宮法皇の記録をそのまま盗用したわけではない。
九州王朝説論者の間の論争点
九州王朝説論者は古田が主唱者ではあるが、学術論文の形をとっていないアマチュアの研究発表を含めると数々の異説が存在する。その主な論点を記す。
- 神武東征説話の信憑性
- 古田は「神話はリアルである」と述べて、神武東征伝承は基本的に信用できるとした。そして九州王朝の王子であった神武天皇が弥生後期に大和盆地に侵入し、九州王朝の分王朝としての近畿天皇家の創始者となったとしている。
- これについて、九州王朝説論者の中には神武天皇非実在説や神武・崇神同一人物説を唱える者もいる。古田史学の会の代表である古賀達也は神武天皇の実在は認めつつ、その説話の中には九州王朝の天孫降臨説話からの盗用があるとしている。
- 近畿天皇家の存在について
- 古田の九州王朝説は多元王朝説の一環として主張されたものであり、近畿天皇家の存在自体を否定するものではなかった。むしろ神武天皇や欠史八代、神功皇后の実在を認める点では戦後の津田史学よりも古田史学の方が記紀の伝承を尊重しているとさえ言えた。
- だが、近畿天皇家の伝承のほぼすべてを九州王朝(や、豊前の分王朝)からの盗用とする主張や、応神天皇以降の歴史のみが近畿天皇家の歴史であるというもの、景行天皇・応神天皇・仁徳天皇・継体天皇・欽明天皇等の数多くの天皇が実際には九州王朝の天皇であったとするものも存在している。なお、近畿天皇家の天皇の一部が実際には近畿ではなく九州に存在していたとする説は九州王朝説論者以外に水野祐や坂田隆も主張していたが、こうした主張を古田は否定していた(水野の主張は『盗まれた神話』で、坂田の主張は「記・紀批判の方法 --坂田隆氏の問いに答える」で、それぞれ批判している)。
- いき一郎は日本書紀は藤原不比等による創作であり、関西に存在したのは近畿天皇家ではなく扶桑国であると述べている[3]。これについて古田は対案として「扶桑国関東説」を示唆しつつ、近畿天皇家自体が存在しなかったという主張には同意することはなかった。
- 狗奴国の位置
- 古田は当初狗奴国讃岐説を主張していたが、後に狗奴国近畿説に転向した。こうした古田自身の主張の変遷もあり、狗奴国の位置については九州王朝説論者の間でも意見が分かれる。
- 従来の邪馬台国九州説論者同様、狗奴国の位置を邪馬台国(邪馬壱国)の南方である南九州に比定する論者も存在する。
- 前期難波宮の位置付け
- 前期難波宮は7世紀における太宰府と並ぶ条坊都市である。古田は前期難波宮は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではないことを主張していたが、では前期難波宮は何の遺跡であるのか、については明確な答えを出さなかった(古田は難波長柄豊碕宮は博多湾岸にあり、そこに白村江の戦い直前に九州王朝の呼びかけに応じてその分王朝である近畿天皇家のメンバーも終結していた、とした[4])。
- 古賀達也は前期難波宮は前後の時代の近畿天皇家の宮殿との連続性が見られないこと、むしろ太宰府と似ている部分があること、前期難波宮の造営・焼失の年代と九州年号の改元が一致していること、等を根拠に「前期難波宮九州王朝副都説」を提唱した。これについは古田史学の会の内部でも議論がある。
- 聖徳太子について
- 古田は聖徳太子架空説を述べていないが、一般に聖徳太子の業績とされる遣隋使は実際には九州王朝が派遣したものであること(聖徳太子は遣唐使を派遣した)、法華義疏は聖徳太子の真筆ではなく九州王朝の上宮法皇が「収集」したものであること(聖徳太子と同年代の作であれば天台大師等の6世紀末・7世紀初頭の僧侶の説が反映されていない、法華義疏の奥付に切り取られた跡がある、等の不審な点を説明できない[5])、を始め聖徳太子の伝承の多くは後世による造作であったり別人物の業績からの盗用であるとした。
- これを受けて聖徳太子関連の業績のほぼ全てを九州王朝からの盗用とする論者や、聖徳太子架空説を主張する論者も存在する。
九州王朝説の根拠となる説明
九州
「九州」の呼称は9国(豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩)からなっていたことに由来するといわれるが、「九州」という用語は本来古代では天子(天皇)の直轄統治領域を意味するもので、中国では周代以前、全土を9つの州に分けて治める習慣があったことから、9つの国の意味ではなく、天下のことである(参考:九州 (中国))。また新羅の九州の実例もある[6]。
金印
以下のことから博多湾の志賀島で発見された「漢委奴國王の金印」は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣の倭国王(倭奴国王)の印綬であり、金印が発見された場所から遠くない場所に金印の所有者である「倭国王」の居城「倭奴国」があった。つまり博多湾の近くに倭国の首都があったと考えられる。
- 皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い[注 9](金印は陪臣に与えるものでない)こと及び、高位の印であることから、この金印は「委奴国王」=「倭国王」に与えられたものである。漢の印制度および金印の役割から通説のように金印を博多湾程度の領域しか有しない小国が授かることはない。卑弥呼が賜ったとされる金印も「親魏倭王」であり倭王に対して下賜されたものである。「漢委奴國王」印も「親魏倭王」印も倭国の国璽として扱われ、漢王朝が続いている間は「漢委奴國王」印が、魏王朝が続いている間は「親魏倭王」印が使われ続けたと考えられる。つまり漢委奴國王の金印を志賀島に埋めたのは卑弥呼である。
- 『旧唐書』倭国条の冒頭等、それ以後のいくつかの書物に「倭国者古倭奴国也(今の倭国は昔の(漢書の)倭奴国のことだ)」等との記事がある[7]。倭奴国とは倭の中の小国「奴国」ではなく、倭国そのものであり[注 10]、倭国を代表すると漢が認めた国であり、漢によって王[注 11]と認められた者の住む国である [注 12]。
- 「倭」の字が減筆され「委」の字が使用されていることから「倭」は「委」と同じ発音であったと考えられる[注 13]。金印は「かん ゐど こく おう」又は「かん ゐな こく おう」と読むべきである。
- 現在でも韓国・朝鮮では日本を「倭奴((왜노)ウェノム)」と呼ぶことがある[8][注 14]。
- 「奴国王」の存在を記した文献資料は一つも無い。『後漢書』に記載されているのは「倭奴國」と「倭國王」だけである。3世紀の『魏志倭人伝』でも王が居る国は「女王国(邪馬壹国,伊都国)」」および敵国の「狗奴国」だけである[注 15]。
邪馬壹国
倭の五王は九州の大王
以下のことから、「倭の五王」は畿内ではなく九州の大王であったと考えられる。
- 畿内地方には多くの巨大古墳が造営されたが、同一の王権が大規模な対外戦争を継続しながら[注 16]同時にこのような大規模な巨大古墳の造営を多数行うということは考えられないので、畿内地方に多くの巨大古墳を造っていたのは、朝鮮半島で活発に軍事活動を行っていた「倭」からはある程度独立した勢力だったとみられる。また、古墳文化の広がりをもってヤマト王権勢力の拡大と見なす意見があるが、宗教文化の広がりと権力の広がりとは必ずしも一致するものではない。古墳文化の広がりは宗教儀礼の広がりでもあり、これとヤマト王権が結びつくとの意見もあるが[注 17]根拠は明確にされておらず古墳文化の広がりを以てヤマト王権勢力の拡大とするには証拠として無理がある。古墳は豪族の墓であり、これが各地で造られたことは中央からは独立した地方勢力の存在を示すものであり、ヤマト王権勢力の支配力が拡大したとする説とも矛盾する。また、この時代は古墳の形態も地域によって特色があり、出雲や吉備等にも独立した勢力が存在したことを示している。
- 『宋書』478年の倭王武の上表文で、「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあるが、倭王武は自らを東夷であると認識しており、通説のように倭を畿内とすると「東の毛人」=中部・関東、「西の衆夷」=畿内・中国・四国・九州、「渡りて海北」=???、となり、比定地を特定することができない。しかし倭を九州とすると、「東の毛人」=畿内、「西の衆夷」=九州、「渡りて海北」=朝鮮半島南部となり、比定地の特定が可能である[注 18][注 19]。
九州倭国の大陸との交流
以下のことから、漢代から代々に朝貢していたのは九州の大王であり、日本列島を代表して大陸と交流・交戦していたのも九州倭国だったと考えられる。
- 広開土王碑、『三国史記』等の倭・倭人関連の朝鮮文献、『日本書紀』によれば、倭は百済と同盟した366年から「白村江の戦い(663年)」までの約300年間、ほぼ4年に1回の割合で頻繁に朝鮮半島に出兵している[注 16]。ヤマト王権にはこれらの軍事活動に対応する記録は存在せず、ヤマト王権の王が畿内を動いた形跡もない。通信手段が未発達な古代にあって朝鮮半島で戦うには、司令部は前線近くの北部九州に置かなければ戦闘に間に合う適切な判断や指示は下せない[注 20]。政治、祭事、軍事が未分化の時代、必然的に王は司令部のある北部九州に常駐することとなる。つまりヤマト王権とは別の倭王が北部九州に常駐し、そこに倭の首都があったことになる。
- 漢-唐の正史によると、漢代から倭とは代々使者を送ったり迎えたりしているのに、『日本書紀』『古事記』には遣唐使以前に使節を送った記録も、迎えた記録も無い。また、倭は長い交流を通じて隋・唐の社会制度・文化や外交儀礼に詳しいはずなのに、初期の遣隋使派遣では、畿内日本は外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使したとされる[注 21]。更に遣隋使・遣唐使とこれに随伴した留学生達によって、畿内地方に唐の社会制度・文化の多くが初めて直接伝えられたとされていることから、遣隋使・遣唐使以前は畿内地方には隋・唐の社会制度・文化は殆ど伝わっておらず、九州倭と畿内日本とは明らかに別物である。『新唐書』日本伝では「開皇年間(581年〜600年)の末に初めて日本国は隋と国交開始した。」と記しており遣隋使・遣唐使が畿内日本と隋・唐の初の直接交流である[注 22]。
- 5世紀の倭の五王は12回もシナの南朝に朝貢し、朝鮮半島で数世紀に亘って継続的な戦闘を続け、「白村江の戦い」では約1千隻の軍船・数万の軍勢を派遣し唐の水軍と大海戦を行うなど、高い航海術・渡海能力を有していたと考えられるが、この倭国軍に比べ、ヤマト王権の派遣した遣唐使船の航海の成功率は50%程度しかなく、航海技術が極めて稚拙である。これも王朝が交代し航海技術が断絶した為である。
磐井の乱
以下のことから磐井の乱とは継体が武烈天皇を武力討伐して政権を奪った九州内の王朝交代の記事であると考えられる。
- (上記#古田武彦説にあるように古田は、磐井の乱とは九州王朝の分家である畿内ヤマトの九州王朝への反乱だと考えていたが、後に自説の矛盾に気がつき、磐井の乱は無かったとしている。)
磐井の乱は史実
以下のことから磐井の乱は史実である。
- 「記紀」や「筑後国風土記」等に同じ事件についての同じような記事がある。「記紀」や「筑後国風土記」等の著者に磐井のような地方豪族の反乱の記事を捏造する必要性が無い。
- 「磐井の乱」を否定する根拠が無い[9]。
- 福岡県八女市に磐井の墓とされる岩戸山古墳が実存し、記録とも一致している[10]
継体は地方豪族
以下のことから、継体は地方豪族に過ぎなかったと考えられる。
- 『日本書紀』継体記末尾に『百済本記』(百済三書の一つ、三国史記の『百済本紀』とは異なる逸失書)から531年に「日本天皇及太子皇子、倶崩薨。」〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕」という記述が引用されている。しかし、継体の子の安閑・宣化は、継体の死後も生きていたので、この記述は継体のことではない。
- 継体21年(547年)、継体は「社稷の存亡ここにあり」という詔を発しているが、天皇が一地方豪族を討伐するにしては大げさである。
- 継体が物部麁鹿火に磐井征伐を命じたとき、「長門より東を朕とらむ。筑紫より西を汝とれ」と言っている。磐井を討伐しないと継体は日本の支配権を得られなかったということであり、継体には政権は無かったということである。
- 継体は、応神朝の最後の大王・武烈から10親等も離れた応神の5代の孫とされており、大王の継承資格がない。
- 継体は、即位するとその正当性を担保するため武烈の姉の手白香皇女を皇后にしている。
磐井は九州倭国の天皇
- 『日本書紀』に逸書『百済本記』から〔日本の天皇、太子、皇子ともに死す〕という記述が引用されている。「磐井の乱」について百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識していた。[11]
- 福岡県八女郡、筑紫国磐井の墳墓とされる岩戸山古墳(前方後円墳)には、衙頭(がとう)と呼ばれる祭政を行う場所や解部(ときべ)と呼ばれる裁判官の石像がある。これは九州に律令があったことを示すもので、九州に王朝があった証拠である。
- 古代わが国では「曲水の宴」は宮廷行事であり主催者は天皇であった。畿内地方で「曲水の宴」が開催されはたのは8世紀以降であるが、福岡県久留米市には、8世紀以前の「曲水の宴」の遺構があり、九州に王権があったことを窺わせる。
- 福岡県古賀市の船原古墳(6世紀末-7世紀初頭)で新羅から倭王に贈られたものと見られる最高級の金銅製装飾馬具が発見されている。
- 福岡県久留米市の高良山にある高良大社は、以下のことからここに王朝があったことを窺がわせる。
- 「筑紫君葛子(ちくしのきみ かつし)は父の罪で命をとられることを恐れて、糟屋の屯倉を献上した。」とあるが、屯倉は、朝廷の直轄地であり、葛子が屯倉を譲ったということは、葛子が朝廷の人物であったということである。
聖徳太子
以下のことから厩戸王子と「日出處天子」は別人であり、「日出處天子」は九州倭国の人物[注 23]で、冠位十二階、遣隋使派遣、仏教に深く帰依した。厩戸王子は畿内日本の人物で、これといった実績はないと考えられる。
- 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」によれば、俀国王の多利思北孤(日出處天子)の国は山島にあり、俀国には阿蘇山があると明記されているので、俀国は九州のことである[注 24]。
- 開皇二十年(600年)の「倭王姓阿毎字多利思北孤」「倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤。」は男王であり「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」「王の妻は雞彌(キミ)と号す。後宮に女が6-700人いる。太子の名を利歌彌多弗利となす。」とあるので、俀国王自身は太子でも女帝(推古天皇)でもない。また、当時の俀国の王が女性なら、儒教の影響の強い隋では大変珍しいので、隋の使者は見逃さずに必ず記録に留めたと考えられる[注 25]。
- 『古事記』には「 用明天皇記」において「厩戸豊聡耳命」という名の記載が1か所あるだけで業績に関する記載は無い。
- 『法隆寺金堂釈迦三尊像』は「厩戸王子」の像ではない。
- 『釈迦三尊像』には「上宮法皇」と記載されている。「法皇」は譲位により皇位を後継者に譲り出家した天皇(「太上天皇」)のことであるが、厩戸王子は天皇に即位していない。
- 『日本書紀』で厩戸皇子は推古29年(621年)2月癸巳(5日)に亡くなったとされているが、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇登遐(とうか)は「癸未年(622)2月22日」である。
- 『日本書紀』で厩戸の母は「間人皇女」、后は「菟道貝蛸皇女」であるが、『釈迦三尊像光背銘』の上宮法皇の母は「鬼前太后」、后は「干食王后」となっている。
- 「聖徳太子」が師事したという伝説がある「日羅」は、火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部「阿利斯登」の子であり、大分県大野川流域や宮崎県などに多くの密教系寺院を開基し、磨崖仏を建立したとされている。
評を制定したのは九州倭国
「評」を制定していたのはヤマト王権に先行した九州倭国である。九州年号では大化元年は695年であり、大化の改新の政変により九州倭国に代わり畿内日本が政権を握り「評」に代わり「郡」が使われるようになったと考えられる。
- 『日本書紀』では「大化の改新」時に「郡」が成立したと記すが、出土した文書(木簡類)により「郡」と言う用語が実際に用いられるのは、大宝律令が制定された701年以降であり、700年以前は「評」を使っていたことが確認されている[注 26]。
- 九州倭国の都だったとされる太宰府政庁跡は現在、都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり都督府跡のことで都督-評督制の名残と考えられる[注 27]。
- 斉明7年(661年)6月と天智7年(688年)に二度も逝去記事がある伊勢王に関する次の記事は34年前の事であり、640年代に九州倭国は評制度を樹立改革していたと考えられる。
- 朱鳥元年(686年)9月の天武天皇の葬儀 → 白雉3年(652年)の孝徳天皇の葬儀[注 28]
- 天武12年(683年)12月天下を巡行し、諸国の境界を分限 → 649年
- 天武13年(684年)10月諸国の境界を定めた → 650年
- 天武14年(685年)10月東国へ向った → 651年
- 『伊予三島縁起』には「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき、番匠(大規模な土木工事)がはじまり、九州年号の常色2年戊申(648年)には日本国に御巡礼される。)とある。つまり「孝徳天皇のとき前期難波宮造営がはじまり、648年に天皇が九州倭国から畿内日本国に行幸し、その途中に伊予に寄った。」と考えられる。
壬申の乱
壬申の乱の舞台は、九州
以下のことから壬申の乱の戦闘があった地域は、九州内であったと考えられる[13]。
- この記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内日本には未だ「京」と呼べるような都市は無く[注 29]「倭京」とは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる。
- この乱では、大分恵尺・大分稚臣等の九州の豪族が活躍している。多臣品治の多氏などの本貫は肥後国である。また、大海人皇子は九州の豪族である宗像氏の娘(胸形尼子娘)を妃にしていた。
- 大津京は近江大津(大津市)ではなく、肥後大津(大津町)にあったと考えられる。
- 近江大津付近には京を設置できるような広い土地はないが、肥後大津付近は条坊制の跡らしき東西と南北に直交する道等が残る広い平野が存在する。(→肥後大津付近)
- 滋賀県の瀬田川に架かる瀬田の唐橋は長大で、日本書紀の記述のように壬申の乱で甲を重ねて刀を抜いて突破することは困難であるが、これが大津町瀬田付近の白川に架かっていたとすると橋は短くなり記述とおり突破が可能である。
- 近江大津では大津京への遷都の理由説明が困難であるが、肥後大津なら「白村江の戦い」の敗戦による唐軍の侵攻に備えた太宰府から内陸部の大津京への首都の疎開である」と説明がつく[14]。
- 万葉集には大津京に遷都した際に阿蘇山を詠んだ歌(万1-17)がある。→#三輪山
- 大津町の北側の菊鹿盆地は、古代には 茂賀の浦(しかのうら)と呼ばれた巨大な湖が存在していたといわれる。→#淡海
- 大分県には竹田・ 三重・大野・犬養・佐伯など壬申の乱に関係する地名が多数存在する。
- ふなんこぐい等のような壬申の乱に因む風習が残るのは、佐賀県鹿島である。
- 源氏が八幡神を氏神とし祀ったことから、八幡神が軍神とされるようになったといわれるが、源氏が八幡神を軍神として氏神に祀ったのは、壬申の乱の時の宇佐神宮の係わりに由来すると考えられる[注 30]。
- 勝敗を決したとされる美濃から来た援軍は畿内日本国が美濃や大和の周辺で招集し九州倭国へ派遣した軍のことと考えられる。
- 『日本書紀』に記された立田山や大坂山は九州内の山であり、難波は筑後平野に在ったと考えられる。[注 31]→#難波
- 『日本書紀』天武8年(679年)11月条に「初めて関を竜田山、大坂山に置く、よりて難波に羅城を築く」とある。上町台地の難波宮に羅城(城壁)の痕跡は見つかっておらず、畿内地方には龍田山や大坂山との名称の山も存在しない。龍田山(立田山)は熊本県熊本市に存在する山であり、大坂山は福岡県のみやこ町と香春町にまたがる山である。→#竜田山(立田山)
- 以下のことから難波(津)は上町台地ではなかったと考えられる[1]
- 上町台地で難波津らしき痕跡は見つかってない。上町台地北端・道修町高麗橋周辺は平安時代に渡辺津と呼ばれていが、この場所からは奈良時代以前の遺物は出土してない。
- 『日本書紀』には、神武が瀬戸内海を経てたどり着いた所は「浪速国・浪花」と記されている。『古事記』でも「浪速」と記している。大坂市の難波は元は浪花と呼ばれており、難波は後世に人為的に付けられた名前である。
- 仁徳紀に記された「難波の堀江」は、人工的に建設されたものとされる[15]が、上町台地の北端、現在の大阪城の北の水路は自然に形成されたもので、弥生時代には存在していたことが確認されており、人工的に掘削されたものではない。
- 上町台は、7世紀頃まで大阪湾と河内湖に挟まれた砂洲であり狭小で多くの住民の住めるような土地もなく、ヤマト王権の本拠地である大和から遠く離れた僻地であったので、仁徳天皇が難波高津宮、孝徳天皇が難波長柄豊碕宮等の宮を置けるような場所ではない。
- 長柄豊碕宮までの「難波」とは筑後川河口(筑後平野)付近に在ったと考えられる。
- 柳川市内には、長柄(北長柄町・南長柄町)という地名が存在し、久留米市内には、高津という地名も存在する。更に、三潴郡大木町には、大隅(大角)という地名も存在する。また、佐賀市には鰡江(しくつえ・祝津江)という地名が存在し、古代難波にあった宮の名が全て遺存する。
- 大阪府には、神崎川・大川・柳川町・大木など筑後川河口にある地名(神埼市・大川市・柳川市・大木町)と同じ地名が存在する。難波の地名の移植に伴い同時に移植されたと考えられる。
- 筑後川中流域は、磐井(武烈天皇)が都を置くなど、倭国の中心部であったと考えられる。応神天皇、仁徳天皇、欽明天皇、孝徳天皇など歴代の天皇が都を置いて当然である。
- 日羅は難波で暗殺され小郡の西畔丘に一旦仮埋葬されたとされる。仮埋葬地の小郡は難波から遠くない所であったと考えられるが、河内国には小郡は存在しない。小郡市があるのは筑後平野である。
- 「壬申の乱」終息時に「大伴吹負」が「難波小郡」で「難波以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収している。「壬申の乱」は20日程度で終息しており、もし難波が上町台地であったなら20日程度で遠く離れた九州等の国司達に命令を伝えて上町台地へ集めることは不可能であり、その目的も不明である。しかし、この「難波小郡」が筑後の「小郡」のことなら「難波以西の国」は九州内だけの国司達のこととなり筑後の「小郡」へ集めることが可能であり、その目的も敵に協力した国司達の解任との推測が成り立つ。
- 古代筑後川は海が内陸まで入り込み船で中流域まで遡上できたと考えられるている。
- 仁徳天皇が「難波の堀江」を築く前の仁徳11年4月の詔で「聊逢霖雨、海潮逆上、而巷里乘船、道路亦泥。(長雨に逢えば、海潮が逆流して、港や里や船や道路は泥にまみれてしまう。)」と言っているように筑後平野は洪水により一夜にして流域が荒廃してしまう様な土地であり、流域の治水・利水は古くから間断なく行われてきた。仁徳天皇が3年の間、全ての課役を免除したように806年の洪水でも租が1年免除されたと記録がある。近年でも、平成24年7月九州北部豪雨や平成29年7月九州北部豪雨で大きな被害が発生している地域である。
- 『日本書紀』推古天皇の21年11月条に「難波より京に至るまでに大道を置く」とあるが、衛星からの観測により九州縦貫自動車道とほぼ同じルートで大宰府と筑後川河口(現中流域)付近を結ぶ古代の巨大な直道の存在が確認されている。
- 古代難波には八十島といわれるほど、島が多くあったとされるが、河内湖は上町台地に遮られており、島が形成される余地は少なかったと考えられる。一方、筑後河口は巨大な三角州であり、陸化の過程で数多くの中州が形成され、有明海は潮の干満の差の大きな海であることから潮が引いた状態では更に多くの州が出現する。
壬申の乱は、易姓革命
以下のことから壬申の乱により、王朝交代(易姓革命)があったと考えられる[16]。
- 『古事記』や『日本書紀』には、同父同母の天智が「兄」で天武が「弟」と書かれているが、天智は671年に46歳で没し、天武は686年に65歳で逝去しているので天武のほうが4歳天智よりも年上である。また天武は天智の娘を4人も妃にしているので、天武と天智が兄弟であることはない。
- 天武は壬申の乱のおりに、自分を百姓(侠客)上がりの漢の高祖劉邦になぞらえて劉邦と同じ赤い旗を使用しているが、身内同士の争では例えとして合っていない。
- 「天智」は、(殷)最後の暴君とされる(紂王)の愛した「天智玉」に由来し、「天武」は、「天は武王を立てて悪しき王紂王を滅ぼした」に由来する。「天智」「天武」の諡号は、殷王朝から周王朝への易姓革命を意識して付けられたものである(森鷗外『帝謚考』)。
〈史書の国号改称記事〉
- 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷 倭國 日本國
- 「日本國者倭國之別種也 也以其國在日邊故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅改爲日本 或云 日本舊小國併倭國之地」
- 『唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷 日本
- 「惡倭名更號日本 使者自言 國近日所出以為名 或云 日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉」
- 『旧唐書』には、倭ないし日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられている。これは九州倭国と畿内日本とは別の国であり、九州が畿内により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたからである[注 32][注 33]。つまり、倭(九州)と日本(畿内)とは別の国であり、九州倭国が畿内日本により征服され、ヤマト王権が日本の名前を使い始めたと考えられる[注 34]。
- 天皇家の最も重要な祭祀である大嘗祭は、673年まで行われていない。それまで大和朝廷に政権がなかったからである。
- 天武2年(673年)8月条に、「詔耽羅使人曰。天皇新平天下、初之即位。由是唯除賀使、以外不召。」とあり「詔で耽羅国の使人に曰く。天皇が新たに天下を平定し、初めて即位する。ゆえに祝賀使は受け入れるが、それ以外は受け入れない。」と宣言している。
- 漢文明圏では、新しく興った王朝が滅んだ前王朝の歴史を編纂するのが通例であるが、天武が歴史編纂を命じたのは天武10年(681年)である。
- 日本書紀によると天武は、三種の神器の一つである草薙剣に祟られているので、天武は、本来正当な後継者ではなかったと考えられる。
九州倭国からヤマト王権
神武東征
古田武彦を始めとする九州王朝説論者の主流派は次のように述べている。(古田史学の会の公式HPより)
大王神武は神話の中の日本(倭)の創始者ではありません。大王神武と久米集団は、弥生後期に倭国から銅鐸国家圏へ攻撃を行いました。尚倭国とは三種の神宝ー鏡・矛・勾玉が祭祀と権力の象徴とする国で、銅鐸国家圏は銅鐸が祭祀と権力の象徴とする国です。神武と同行したのは、海兵隊としての久米の集団のみです。
『古事記』によれば、日向(ひなた、糸島)から東に向かい、安芸(広島県)と吉備(岡山県)で植民し定住しようとしました。しかしそれは失敗し、その結果銅鐸国家圏への侵略に切り換えました。
そして大阪湾の浪速(なにはや 大阪中之島)を通り、河内湖と呼ばれた湖の端である日下の楯津へ上陸しました。しかし日下での戦いに敗れ、彼らは(大阪市)南方の水路を通って、血沼(ちぬ)の海(大阪湾)へ出ました。そこから彼らは紀伊半島を周り、山を越えて熊野から大和に突入しました。
彼は東方侵略に賭け、大和侵入に成功した。大和では彼は倭国から神倭(かんやまと)伊波礼毘古命(いはれひこのみこと)と呼ばれた。
それで彼は後世”大王”と呼ばれたり、神武天皇と呼ばれている。神武天皇とは漢風諡号(かんぷうしごう)といって、古事記・日本書紀編纂時の名前です。
大王神武は実在である。神武東征は弥生後期の大阪湾の地図が根拠を明示しています。
- 以下のことから神武は天皇ではなかったと考えられる。
- 『旧唐書』には、倭と日本について『倭国伝』と『日本国伝』の二つの記事が立てられ下記のように記されている。神武が征服した東方の小国「日下」が九州倭国を併合したと考えられる。
- 日の辺りに在るを以て、故に日本を以て名となす。
- 日本は旧小国、倭の地を併す。
欠史八代
九州王朝説の古田武彦は欠史八代は神武天皇以来の近畿分王朝(九州王朝の分家)として実在した、と主張している。
記録が語る王朝交代
以下のことから九州から王権が移動しヤマト王権が確立したのは7世紀末であると考えられる。
- 古代国家成立の要件は、常設の政府(官僚機構)、常設の軍隊、首都(都城)等である。これらが畿内地方で揃うのは694年以降であるが、九州には奴国や太宰府などの都城が古代から存在しこれらが揃っていたと考えられる。
- 『魏志倭人伝』の邪馬壹國が北部九州に在ったとする説をとると当然ながらその後、九州倭国から畿内日本への権力の移動がなければならないが、漢から唐の歴代の正史では倭についての記述は一貫しており同一の国家についてのことと理解される。唐の正史『旧唐書』、『新唐書』の中で7世紀末に国号が「倭」から「日本」に変わっているので、この時期に王朝が交代したと推定される[注 32]。
- シナの歴史書で日本の歴代天皇の名(彥瀲・神武 - 皇極)が現れるのは、『新唐書』が最初である。この時期に、日本の歴史が改竄・捏造されたと考えられる。
- 万葉集では、8世紀まで大宰府(倭)を日本とは別の国と認識している。
- 八隅知之 吾大王乃 御食国者 日本毛此間毛 同登曾念(やすみしし わがおほきみの をすくには にほんもここも おなじとぞおもふ)八方を統べ治めるわが大君のお治めになる国は、日本もここ(大宰府・倭)も同じだと思う(大宰帥 大伴旅人 万6-956)
- 漢文明圏では新たに成立した王朝は自らの権力の正当性を示すため前王朝の歴史書「正史」を編纂するものであるが、『日本書紀』、『古事記』は8世紀初頭頃に編纂されているので、ヤマト王権が確立したのは7世紀末であると推定される。
- 日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等にヤマト王権以前に九州倭国が定めたとも考えられる「九州年号」(継体元年(517年)-大長九年(712年)下記参照)が多数散見される。「九州年号」も8世紀初頭で終わっており、この時期に王朝の交代があったと推定される。
- 日本書紀によると敏達13年(584年)に畿内へ仏教を伝えたのは播磨にいた高句麗の還俗僧の恵便である。584年以前に既に播磨へは仏教が伝来していたということであり、6世紀末播磨は畿内にとって別の文化圏(=外国)だったということである[注 35]。
- 前述のように発掘された木簡では700年と701年を境に評から郡に変わっている。
8世紀のヤマト王権
8世紀は異常に多くの反乱やクーデターが発生しており、ヤマト王権は政権が安定していない。
- 神亀6年(729年)長屋王の変(九州倭国の嫡流である長屋親王を藤原氏が暗殺した事件。)
- 天平12年(740年)藤原広嗣の乱(藤原四兄弟が天然痘の流行によって全滅。九州倭国の皇統である鈴鹿王、橘諸兄が台頭し、失脚した藤原広嗣は九州倭国の旧都である大宰府において反乱を起し討伐された。)
- 天平勝宝9年(757年)橘奈良麻呂の乱(孝謙天皇が藤原仲麻呂を利用して橘諸兄の子奈良麻呂等443人を粛清。)
- 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱(孝謙上皇・道鏡が邪魔になった藤原仲麻呂を粛清しようとした。仲麻呂は軍事力をもって対抗しようとしたが失敗。)
- 神護景雲3年(769年)宇佐八幡宮神託事件(称徳天皇(孝謙天皇)は宇佐八幡宮の託宣により道鏡に皇位を継がせようとしたが、吉備真備の妨害で失敗。)
- 神護景雲4年(770年)称徳天皇暗殺により天武朝が断絶、藤原氏は滅亡した九州倭国の末裔(光仁天皇)を天皇に擁立した。
- 天応元年(781年)氷上川継の乱(天武天皇の曾孫が計画したクーデタ未遂事件。)
九州倭国の抵抗
以下のことから、九州倭国の抵抗は723年頃まで続いていたと推測される。
防人
防人の配置は、九州倭国制圧のために東国の蝦夷を利用したヤマト王権による「夷を持って夷を制する」政策であったと考えられる。
- 『日本書紀』では、664年以降に防人が置かれたとされているが、防人が置かれたのは九州倭国が滅亡した7世紀末頃と考えられる。
- 『万葉集』には8世紀以前の防人の歌が無い。
- 防人の当初の目的は外敵に対する防衛ではなく九州制圧にあった為と考えられる。
太宰府(倭京)
以下のことから太宰府は、九州倭国の首都(倭京)であったと考えられる[注 36]。
名称
- 「太宰」の本来の意味は宰相(総理大臣)であり、「太宰府」とは「政治を行う所」つまり「首都」という意味に取れる。宋に朝貢していた倭王武は皇帝の最高位の臣(太宰)を自称していた[注 37]。
- 太宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれていたが、「遠の朝廷」とは「遠くにある首都」という意味であり、遠くとは距離的に遠いだけでなく時間的に遠い、昔の首都という意味である[注 38][注 39]。
- 太宰府には「紫宸殿」「内裏」「朱雀門」といった地名字(あざ)が遺存し、太宰府に「天子の居処」のあったことをうかがわせる[注 40]。
- 太宰府政庁跡は現在、都府楼跡と呼ばれているが石碑には「都督府楼跡」とあり本来は都督府と呼ばれていた[17]。都督府とは中国の官職である都督に任ぜられた者が居る場所である。7世紀までは全国各地に評督が置かれていたことが判明しているが、評督とは都督の支配管理下にいる者である。
記録の空白
- 『日本書紀』などのヤマト王権の史書に太宰府を何時設置したか記録がない。また都城本体の建設の記録もない。
- 古代防衛施設遺跡の配置は、北九州に集中しており、守るべき中心が畿内特に大和ではなく、太宰府であった事は明らかである(水城や所在の明瞭な古代山城は、北九州に多い。またヤマト王権に築城の記録が無い古代山城「神籠石(こうごいし)式山城」が北九州から瀬戸内沿岸に存在するが、神籠石式山城の大半も北九州に集中している)。
都城
日本最古の都市
- 下記のことから大宰府は、ヤマト王権最古の条坊制都城である藤原京(694年)より古い、本格的な計画都市である。
- 条坊の建設は単なる区画化した都市計画事業に過ぎず、城砦や城壁を建設するより遥かに簡単である。また何も無い所は攻撃の対象とならず防衛する必要もない。そこに重要な施設が存在していたからこそ、そこを防衛する設備が必要だったのである。『日本書紀』の記述が正しいとして、常識的に考えれば、多くの資材を投入して防衛のための付属施設である大野城・水城等が築城されたとされる664年には、既に本体である都城は存在し、資材を投入するに足りる発展を遂げていたことになる。
- 7世紀中頃に創建された観世音寺の遺構が太宰府の条坊と正確に一致している。寺社に合わせて条坊が建設されることはなく、寺社が条坊に合わせて建設されたと考えられることから、太宰府の条坊は観世音寺が創建された7世紀中頃には存在していたことになる。
- 竈門神社の社伝では、天智天皇の代に大宰府が現在地に遷された際、鬼門(東北)に位置する宝満山に大宰府鎮護のため八百万の神々を祀ったのが竈門神社の始まりとされる。つまり大宰府は天智天皇の代(668年-672年)にはあったことになる。
- 新羅が西暦250-300年頃には金城を整備し、高句麗も427年に都を平壌に遷している。更に百済は538年に 泗沘都城を建設している。宋の皇帝から安東大将軍に任命され、隋・唐朝時代には天子を自称した倭王が、7世紀末まで都城を建設しなかったとは考えられない。また博多では日本最古の計画都市(奴国)が発掘されている。
- 九州年号に倭京元年(618年)とあることから、この年に建設されたと考えられる。
唐の首都(長安)をモデルとした都市
- 都市の区画割が明らかに唐の長安を模した条坊制である(政庁の位置が創建当時から移動していないことから「都市プランは政庁創建当初からあった」と考えられる)。
- ヤマト王権でこのように北に政庁を配置した条坊制の都は、平城京(710年)以降であり、これより46年-92年早い。
- ヤマト王権の都にはない都城周辺の城壁があったと考えられている。
『日本書紀』『続日本紀』『魏志倭人伝』『万葉集』等の記録
- 711年-800年の蓄銭叙位令などが示すように畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが、『続日本紀』769年(神護景雲3年)10月の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也。 この府は人の行き来や交易が盛んで、日本で一番の都会である。」と報告しているように太宰府は国際交易都市であり、役人程度しか住まなかったという藤原京や平城京などのヤマト王権の首都を凌ぎ、古代日本で最も繁栄していた都市であった。
- 『魏志倭人伝』によると3世紀の奴国(博多)でさえ2万戸(10万人以上)の人口があり藤原京や平城京より遥かに人口が多かった。また畿内地方は8世紀まで通貨経済は皆無であったが「國國有市、交易有無、使大倭監之。 国々には市場があり、交易の有無を大倭(倭人で位の高い者)に監視させている。」とあり倭では交易が盛んであったことが窺える。
- 「新唐書・日本伝」に、「其の王の姓は阿毎氏。自ら言う、初めの主は天御中主と号し、・・・筑紫城に居す。」とあり、 筑紫城=大宰府(都府楼)である。
- 『日本書紀』壬申の乱(672年)の記事に「倭京」の名がみえるが、この時期に畿内地方には未だ京と呼べるような都市は無く(飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない)。これは当時日本に存在していた唯一の都市である太宰府のことと考えられる。
- 『万葉集』に大宰小弐小野老朝臣が天平元年(729年)大宰府に着任した時、饗宴で「奈良の都」を偲んで詠ったとされる次の歌があるが、この歌は大宰府の繁栄を詠ったものであり、大宰府の繁栄を示すものである「青丹吉 寧樂乃京師者 咲花乃 薫如 今盛有 あをによし ねいらのみやこは さくはなの にほふがごとく いまさかりなり 万3-238」→#あをによし
測定調査・発掘
- 通説では、約300年にも亘って当初の計画に基づき建設され続けたことになるが、単なる区画整理事業に過ぎず「数か月から数年で可能な条坊の建設に何故300年も要したのか?」「300年にも亘って計画を維持する事が可能か?」「実施した者の正体は何か?」「目的は何か?」などの疑問や矛盾が発生する。
- 現在の太宰府の年代測定は、年輪年代測定や放射性炭素年代測定等によるものではなく科学的根拠が無い。水城の築城は、理科学的測定によれば下部は西暦240年、中部は西暦430年、上部は西暦660年で、水城の排水口の木部も西暦430年であったので『日本書紀』の記述等よりも古くなり、太宰府本体も古くなる可能性がある。鴻臚館の便所からはトイレットペーパー代わりに使われた西暦430年の木片も見つかっている。
- 学習院大学年代測定室の放射性炭素年代測定によれば、昭和43年に太宰府遺跡で竹内理三教授等が発見した焼土層は1600年ほど前の物である。
官僚機構
7世紀末に突如として畿内地方に出現した官僚集団は、九州の太宰府(倭京)から連れて来られたものである。ヤマト王権は九州倭国の官僚機構を引き継ぐことにより、政権に必要な人材を確保することができたと考えられる。
- 養老律令によれば9,000人以上の職員が宮殿や官衙(平城宮)で勤務していたとされるが、飛鳥京には9,000人もの職員やその家族を収容できるような宮殿も官衙も無い。
- ヤマト王権は694年に行政が常駐する都(藤原京)を建設し、701年に大宝律令を制定して官僚組織を整備しているが、7世紀まで日本(畿内)には文字が無かったとされている。
- 奈良時代の下級官僚は薄給であり誤字等に対する罰金制度等があり、妻を質入れするほど困窮する者もあったと記録されている。知識階級でありエリートであるはずの下級官僚に対するヤマト王権の扱いは極めて劣悪である。
- 下記のとおり『続日本紀』神護景雲3年(769年)10月甲辰の記事にあるように8世紀になっても大宰府では学問で身を立てようと志す者が多かった。
- 大宰府言 此府人物殷繁 天下之一都会也 子弟之徒 学者稍衆 而府庫但蓄五経 未有三史正本 渉猟之人 其道不広 伏乞 列代諸史 各給一本 伝習管内 以興学業 詔賜史記 漢書 後漢書 三国志 晋書各一部
- 大宰府の役人が「この府は人の行き来や交易が盛んで日本で一番大きい都会ですが、府庫には五経しかなく三史がないので、学生や学者が、本が読みたくても本が読めません。伏してお願いします。学業のために列代の諸史を各1冊下さい。」と言上してきたので、天皇の命令で史記、漢書、後漢書、三国志、晋書各一部を賜った。
通貨貨幣経済
次のことから、7世紀以前に無文銀銭や富本銭などの貨幣が発行されこれらの貨幣が流通していたのは九州であり、8世紀以後、ヤマト王権は九州の富本銭等を参考にして和開同珎(和同開珎)等の貨幣を発行したと考えられる。古田史学会報「二つの確証について」
- 西日本を中心に弥生時代の遺跡から秦や前漢の通貨である半両銭、前漢から隋の通貨である五銖銭、新の通貨である貨泉等が多数出土している。
- 魏志倭人伝に「乘船南北市糴(船に乗って南北に出かけて米の買い付けを行う)」「國國有市、交易有無、使大倭監之(町々には市場があり、交易の有無を位の高い者に監視させている)」とあり倭は交易が盛んであったと記されている。
- 『続日本紀』769年の記事で太宰府の役人が都に「此府人物殷繁。天下之一都會也(この府は人の行き来や交易が盛んで、日本一の都会である)」と報告しているように北部九州では8世紀既に経済活動が活発であった。
- 『続日本紀』等の記事やその銭文が示すとおり、ヤマト王権が発行した最初の貨幣は和開同珎(708年)である。しかし、古代日本には和開同珎より以前に無文銀銭や富本銭(683年)などの貨幣が存在している。
- 和開同珎等の銅銭でさえ周防国(山口県山口市鋳銭司・下関市長府安養寺町)等の西日本でその多くが鋳造されていた。
- 九州には古代から博多港・坊津・八代港などがあったが、畿内地方には、外洋航海ができるような大型商船が着岸できる貿易港は、平清盛が12世紀に大輪田泊(神戸港)を整備するまで無かった。
- 蓄銭叙位令(711年-800年)などが示すように畿内地方では8世紀になっても通貨経済は未発達であった。畿内地方で通貨経済が発展するのは、12世紀に平清盛によって多量の宋銭が輸入されてからである。
万葉集
『万葉集』に、九州・山陰山陽・四国の人の歌が無いのは、皇権簒奪の事実を隠すためであり、また解釈が皇国史観で歪曲されているからである[18]。代表的歌人でありながら正体不明な「柿本人麻呂」や「額田王」等は九州倭国縁の人物である。山上憶良等も元は九州倭国の役人であったものがヤマト王権に仕えたものである。
九州の歌である
万葉集の古い歌の殆どは九州で詠まれたものである。
- 7世紀以前の畿内ヤマトでは文字が普及しておらず、歌などの記録の保存が難しかったと考えられる。
- 太宰府(九州倭国)の花は梅、畿内日本の花は桜や菊である、万葉集では梅118首、桜40首が詠まれ、菊は1首も詠まれていない。
- 万葉集では北朝で使われた「紅葉」ではなく九州倭国が朝貢した南朝で使われた「黄葉」が多く使われている。
- 古代の河内地域には、巨大な河内湖(草香江)があり雄大な景色が広かってたと考えられるが、7世紀頃には陸化により消滅したといわれている。河内湖は瀬戸内海から大和への通り道であり古代人は頻繁にこれを通ったと考えられ、これを観たり通った古代人が歌を詠まないはずが無いが、万葉集にはこの雄大な河内湖そのものを詠んだ歌や船で河内湖を行く歌が存在しない。
- 万葉集には「白村江の戦」に関する歌が無い。「白村江の戦」は九州倭国が主体として戦ったものであることを隠すために残されなったものである。
香具山
- 万葉歌では香具山から見える鴎を詠った歌(万1-2)があるが、奈良県の香具山からは海は見えない。また標高が152.4メートルしかなく奈良県の山々の中で際立っているとは言い難い。
吉野山
万葉集の吉野山は吉野ヶ里背面の山。
- 『日本書紀』によれば持統天皇は、持統3年(689年)1月から持統11年(697年)4月までの間に、31回も吉野に行幸している。これは、34年前の白村江の戦直前の九州倭国の天子の軍事的目的を持った佐賀県吉野への視察記事から盗用されたものである(部隊は機密保持のため有明海に集結し、有明海→五島列島→韓のコースを辿ったと考えられる)[19]。
関連する主張
日向・高千穂
九州倭国の九州統一
景行天皇の九州大遠征説話は「筑前」を拠点として「九州統一」を成し遂げた九州倭国の史書からの盗用である[21]。
- 畿内の大王が、本拠地を遠く離れ7年間も九州に遠征したとは考え難い。
- 筑後や肥後では現地側の歓迎を受けながら、豊前や球磨・大隅では現地側の勢力と戦闘を行っている(東が討伐で、西が巡行)のは、東の大和から来た遠征軍としては不自然である。
- 浮羽まで来ていながら、九州の中枢筑前へ入っていないのは、不可解である。
- 遠征の出発地点から最終地の浮羽まで詳述しながら、突如浮羽から、日向・大和へ帰り着いている。
- 遠征の出発地点から終点の浮羽まで地名が、異常に詳細に、かつ長大に記述されている。
- 古事記の景行記には「九州遠征」についての記述が全くない。
神功皇后の筑後平定説話は九州倭国の史書からの盗用である。
正倉院
奈良正倉院の宝物の殆どは天平10年(738年)に九州筑後の正倉院から献上されたものであり、元は九州倭国の宝物である[22]。
- 「正倉院文書」中の正税帳によると、当時の税は、稲・塩・酒・粟などを納めるのが普通だが、「筑後国」の貢納物は鷹狩のための養鷹人と猟犬。白玉・青玉・縹玉などの玉類などである。鷹狩・曲水の宴などの貴族趣味は畿内地方にはなく、筑後にはあった。
- 玄界灘の真っ只中、九州本土から約60kmに浮かぶ沖ノ島は、宗像大社の神領であり、日本で最も多くの国宝が出土しており、「海の正倉院」と称されている[23]。沖ノ島から出土した土器のほとんどは北部九州製であり、一部が山口県の土器である[24]。
法隆寺
法隆寺西院伽藍は筑紫の寺院(太宰府都城の観世音寺又は福岡市難波池の難波天王寺又は筑後国放光寺)が移築されたものである[25]。
君が代
- 千代 - 福岡市の中心街の地名。
- 細石(さざれいし) - 福岡県糸島市に細石神社がある。
- 巌(いわお) - 福岡県糸島市に井原(いわら)という地名あり。
- 苔のむすまで - 福岡県糸島市に若宮神社があり、祭神は「苔牟須売神(コケムスメ・苔むすめ)」他である。
源氏物語等
井真成
2004年秋に中華人民共和国陝西省西安市の西北大学が西安市内から日本人遣唐使「井真成」の墓誌を発見した。以下のことから、この「井真成」は、九州倭国の皇族であると考えられる[28]。
- 死後追贈された役職「尚衣奉御」は、皇帝の衣服を管理する部門の責任者で単なる留学生に与えられるものではない。当時この官職に就くことができたのは、皇子を含む皇室貴族だけだった。
- 井真成の死は皇帝に報告され、葬儀の費用は唐政府が負担したと記されているが、これは三等官以上の外国使節に対する扱いである。
- 現在「井」という姓は九州熊本県の産山村・南小国町・一の宮町などに多く存在する[注 41]。
- 井は倭(ゐ)に通じる。
地名
神社
住吉神社、八幡宮など九州を始原とする神社が日本全国に多く分布するのは、九州倭国の信仰をヤマト王権が引き継ぎ広まったものである[注 42]。
駅路
古代日本では、駅路という全長6,300kmにも及ぶ幅6-30mの直線的道路が本州をほぼ縦断して全国に作られ、沿線には「駅家(うまや)」という休憩・宿泊施設も作られていた。これは現在の日本の高速道路網にも匹敵するものであるが、これだけの道路の建設にもかかわらず、どれだけ費用がかかり、誰が負担したかと言う事がわかっていない。当時の人口は500万人程度と推測されており、建設には長い歳月と膨大な労力が必要だったと考えられる。これらも九州倭国が、半島での戦争を遂行するために兵員の移動・物資の補給用に建設したものであると考えられる[30]。
九州年号表
九州年号(倭国年号)は鶴峰戊申が、邪馬台国=熊襲説(倭の五王も熊襲の王とする)を述べた著書『襲国偽僣考』のなかで、それらを熊襲の年号として考証したものである。古田武彦の『失われた九州王朝』で再評価された。史料はこのほかに『二中歴』『海東諸国記』などがある。日本各地の寺社の縁起や地方の地誌・歴史書等には私年号(逸年号。朝廷が定めた元号以外の年号)が多数散見される[注 43]。
九州年号(倭国年号)が制定された理由としては、南朝との交流が502年の梁への朝貢で最後となり、冊封体制から外れた為に自前の年号が必要になったからと考えられる。また倭のライバル高句麗では391年に好太王(永楽太王)が永楽の年号を用いており、倭や高句麗に従属させられていた新羅でさえ536年には建元という年号を建元している。554年には、百済より暦博士が来日しており、隋・唐代には天子を自称していた倭の大王が通説のように701年まで年号を定めなかったことは考えられない。
次に挙げるのは『襲国偽僣考』の考証を修正したものである[注 44]。
開始年 (西暦) |
元号名 | 読み | 干支 | 天皇年代 |
---|---|---|---|---|
517 | 継体 | けいたい | 丁酉 | 継体11年 |
522 | 善化(善記) | ぜんこ | 壬寅 | 継体16年 |
526 | 正和 | しょうわ | 丙午 | 継体20年 |
531 | 殷倒(教到) | えんとう(きょうとう) | 辛亥 | 継体25年 |
536 | 僧聴 | そうちょう | 丙辰 | 宣化 1年 |
541 | 同要(明要) | ずうよう(みょうよう) | 辛酉 | 欽明 2年 |
552 | 貴楽 | きらく | 壬申 | 欽明13年 |
554 | 結清(法清) | けちしょう(ほうしょう) | 甲戌 | 欽明15年 |
558 | 兄弟 | きょうだい | 戊寅 | 欽明19年 |
559 | 蔵和(蔵知) | ぞうわ(ぞうち) | 己卯 | 欽明20年 |
564 | 師安(師要) | しあん(しよう) | 甲申 | 欽明25年 |
565 | 和僧(知僧) | わそわ(ちそわ) | 乙酉 | 欽明26年 |
570 | 金光 | こんこう | 庚寅 | 欽明31年 |
576 | 賢接(賢稱) | けんしょう | 丙申 | 敏達 5年 |
581 | 鏡當(鏡常) | きょうとう(きょうじょう) | 辛丑 | 敏達10年 |
585 | 勝照 | しょうしょう | 乙巳 | 敏達14年 |
589 | 端政(端改) | たんしょう(たんかい) | 己酉 | 崇峻 2年 |
594 | 従貴(告貴) | 甲寅 | 推古 2年 | |
601 | 煩転(願転) | 辛酉 | 推古 9年 | |
605 | 光元 | 乙丑 | 推古13年 | |
611 | 定居 | 辛未 | 推古19年 | |
618 | 倭京 | 戊寅 | 推古26年 | |
623 | 仁王 | 癸未 | 推古31年 | |
629 | 聖徳(聖聴) | しょうとく | 己丑 | 舒明 1年 |
635 | 僧要 | 乙未 | 舒明 7年 | |
640 | 命長 | 庚子 | 舒明12年 | |
647 | 常色 | 丁未 | 孝徳 3年 | |
652 | 白雉 | はくち | 壬子 | 孝徳 8年 |
661 | 白鳳 | はくほう | 辛酉 | 齊明 7年 |
684 | 朱雀 | すざく | 甲申 | 天武12年 |
686 | 朱鳥 | しゅちょう・あかみとり | 丙戌 | 天武14年 |
695 | 大化 | たいか | 乙未 | 持統 9年 |
704 | 大長 | 甲辰 | 文武 8年 |
説の歴史と問題点
説の歴史
九州王朝説の提唱者である古田は親鸞研究での堅実な実績で知られ、当初は『史学雑誌』78-9や『史林』55-6、56-1など、権威あるとされる研究誌での公表を行い、一定の評価を得ていた。九州王朝説に関しても、一時期は高等学校日本史教科書の脚注で「邪馬台国(邪馬壱国とする説もある)」と言及されたこともある。しかしその後、勤務校の紀要を除けば、学術雑誌や学会発表などの手段によって自己の主張を公表する過程を踏むことが少なくなり、学界からの反応がなくなった。
歴史学、考古学等の研究者は、本説の内容に関して、考古学の資料解釈の成果とそぐわないこと等をもって、検証に耐えうる内容ではないとしており[注 45]、当初古田が権威あるとされる研究誌での公表を行っていた頃には評価とあわせ批判をしていたものの、主要な百科事典や邪馬台国論争史を著述した研究書においても記載されていない[注 1]。
その一方で、一般市民や在野の研究者の中には熱心な支持者が存在し、従来の古代日本史学をいまだ皇国史観の影響下にあるものと見て、本説はそれに代わる新しい史観であり、「日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明できる」と主張している。また本説からは多くの亜流が生まれている。
問題点
九州王朝説は根拠に示すとおり多くの証拠があるにも拘らず日本古代史学界からは黙殺されている。それは以下のような理由による。
- 通説とあまりにかけ離れており日本古代史学界の多くの研究成果を否定することになる[注 46]。
- 古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない[注 47]。
- 古田武彦の漢文の読み方が恣意的である[注 48]。
問題点に対する九州王朝説側からの意見等
飛鳥時代以前を記録した一次史料は金石文や発掘された木簡など僅かしか存在しない、従って説の論拠となる史料は、この僅かな一次資料と記紀や万葉集、漢-唐、朝鮮の歴史書等に散見される間接的な記事、九州年号や大宰府、那珂遺跡群、金印、神籠石などである。この資料の少なさが、九州倭国否定論の論拠の一つとなっており、また多くの亜流を生む原因ともなっている。通説側から九州倭国の存在を仮定しての日本書紀等の既存資料の解釈が恣意的であると問題視されているが、九州王朝説からすると「古代ヤマト王権の存在を裏付ける都城などの遺跡、官僚機構の存在を示す木簡などの一次資料は全く存在せず、通説は二次資料・三次資料である記紀を鵜呑みにしたヤマト王権一元論を前提にその他の資料を無視したり曲解しており、資料の扱いが恣意的である」となる。
『日本書紀』の神代巻に「筑紫」は14回出現するが「大和」は1回も出現しないことなどから、神代の舞台は九州であるとする意見は九州王朝説に限らず多いが、九州王朝説の一部の論者の中には上記のように「壬申の乱」の舞台までも九州であるとして、記紀の殆どは「九州倭国」の史書からの盗用であり、「古代ヤマト王権」の文献資料など存在しないとする見方もある。
九州王朝説は九州王朝一元論に陥り易いが、これは記紀の基になった九州王朝の史書が九州王朝一元論によって書かれていたためにそう観えるのであり、現実を正確に反映しているわけではない。古田武彦は自分の仮説は九州王朝と大和王朝の双方の存在をみとめる「多元王朝説」なのであって九州王朝一元説は支持しない[注 49]と明言している。
また、九州王朝説の支持研究者間でも、白村江の戦いまでを九州倭国の歴史と見る、壬申の乱までを九州倭国の歴史と見る、大化の改新まで九州倭国の歴史と見る[注 6]等考え方は様々であり定まっていない。かつて古田の弟子であり今は袂を分かった原田実のように、九州王朝は磐井の乱で大和朝廷に屈したと考える論者もいる。中小路駿逸(元追手門学院大学教授)は、雑誌「市民の古代」への投稿について「控え目に言って玉石混淆」と評しており、一部の支持者の主張が突拍子もないと言う類であることを認めている。
古事記研究家の竹田恒泰は、八代市で行った講演で上記「八代伊勢説」を紹介等したにもかかわらずテレビ番組「そこまで言って委員会NP」の中では「記紀は我々日本人にとって真実なのであり、海外の文献と比較して事実を暴く様な事をしてはいけない。」「日本史の教科書に魏志倭人伝等載せるべきではない。」等と発言し通説側の苦悩を現している。
関連書
肯定側
- 古田武彦 『「邪馬台国」はなかった』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1971年 ISBN 978-4022607416
- 古田武彦 『失われた九州王朝』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1973年 ISBN 978-4022607508
- 古田武彦 『盗まれた神話-記・紀の秘密-』 朝日新聞社(のち角川文庫、朝日文庫)、1975年 ISBN 978-4022607836
- 古田武彦編 『邪馬壹国から九州王朝へ』 新泉社、1987年 ISBN 978-4-7877-8720-0
- 古田武彦 『古代は輝いていた一-『風土記』にいた卑弥呼-』 朝日新聞、1988年 ISBN 978-4022604972
- 古田武彦 『古代は輝いていた二-日本列島の大王たち-』 朝日新聞、1988年 ISBN 978-4022604989
- 古田武彦 『古代は輝いていた三-法隆寺の中の九州王朝-』 朝日新聞、1988年 ISBN 978-4022604996
- 古田武彦 『古代史60の証言』 かたりべ文庫、1991年 ISBN 978-4-397-50339-9
- 古田武彦、福永晋三、古賀達也 『九州王朝の論理—「日出ずる処の天子」の地』 明石書店、2000年 ISBN 4-7503-1293-2
- 古田武彦、谷本茂 『古代史の「ゆがみ」を正す—「短里」でよみがえる古典』 新泉社、1994年 ISBN 4-7877-9403-5
- 内倉武久 『太宰府は日本の首都だった—理化学と「証言」が明かす古代史』 ミネルヴァ書房、2000年 ISBN 4-6230-3238-8
- 草野善彦 『放射性炭素年代測定と日本古代史学のコペルニクス的転回』 本の泉社、2003年 ISBN 4-8802-3646-2
- 九州古代史の会編 『「磐井の乱」とは何か—九州王朝多元説を追う』 同時代社、2006年 ISBN 978-4-88683-593-2
否定側
- 岡田英弘 『倭国—東アジア世界の中で』 中央公論新社、1977年 ISBN 4121004825
- 山尾幸久 『新版 魏志倭人伝』 講談社、1986年 ISBN 406148835X
- 安本美典 『虚妄(まぼろし)の九州王朝—独断と歪曲の「古田武彦説」を撃つ』 梓書院、1995年 ISBN 4-87035-066-1
- 安本美典 『古代九州王朝はなかった—古田武彦説の虚構』 新人物往来社、1986年 ISBN 4-404-01352-3
- 安本美典 『邪馬一国はなかった』 徳間書店、1988年 ISBN 4195986060
- 高木彬光 『邪馬壱国の非論理』 私家版、1977年
- 高木彬光 『邪馬壹国の陰謀』 日本文華社、1978年
- 原田実 『幻想の多元的古代—万世一系イデオロギーの超克』 批評社、2000年 ISBN 4826502958
- 原田実 『トンデモ日本史の真相』 文芸社、2007年 ISBN 4286027511
- 久保田穣 『古代史のディベート』 大和書房、1994年 ISBN 447995029X
- 鷲﨑弘朋 『邪馬台国の位置と日本国家の起源』 新人物往来社、1996年 ISBN 4404024053
- 西野凡夫 『古代天皇の系譜と紀年 さらば九州王朝論』 高城書房出版、1997年 ISBN 4924752584
- 張明澄 『誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば』 久保書店、1992年
脚注
注釈
- ^ a b 最新の邪馬台国論争史研究書である『邪馬台国論争』(佐伯有清、岩波書店、2006年)にも片言も掲載されていない。
- ^ 古田武彦は自ら『学士会報』No857 2006-II所収「九州王朝の史料批判」において「これに対する学会の応答欠乏し」と述べている。
- ^ 「九州王朝の二都制」「唐軍の北九州進駐」などは、執筆者の判断によって省略した。古田による邪馬台国説を改良、「壬申の乱九州内説」を採用、「大化の改新」の解釈を加え、九州倭国の滅亡・ヤマト王権の成立を701年ではなく695年とした(「乙巳の変」による政権簒奪時を政権交代時とした)。神武東征の時期を5〜6世紀とし、欠史八代の時期を古墳時代後期〜飛鳥時代とした。#問題点で批判のあるような『通典』の解釈・古田による『魏志倭人伝』邪馬台国への所要日数(水行十日陸行一月)についての解釈なども省略した。そのほかにも古田武彦と違う面がある。
- ^ 「委」は、上古音(周・秦・漢の音)では「uar、わ」。中古音(隋・唐音)では「ui、ゐ」(両唇音のwはなかった)。「法華義疏」に「大委国上宮王私集非海彼本」とある。倭を委としており、上古音で委の発音は倭(わ)と同じであった証拠の一つである。万葉仮名では「委」は「わ、ゐ」。藤原京出土の木簡に、「伊委之」(=鰯、いわし)。藤堂明保著『漢字語源辞典』(学燈社、1965、ISBN 4312000018)によると、魏代の「倭(委)」は「( I ) uar 」という読みである。
- ^ 「魏志倭人伝」に見える3世紀の「邪馬壹国」(邪馬台国)を記録どおり「邪馬壹国」とする(邪馬壹国説)。古田は、魏志倭人伝など古い記録は、邪馬壹国であり邪馬臺国の表記は誤り、邪馬壹国(やまいちこく)であるとしているが、後漢書倭伝に「邪摩惟(やまたい)」、隋書俀伝に「邪靡堆(やまたい)」等とあることから、南朝滅亡後の倭(ゐ)→大倭・俀(たゐ)への変化に伴い邪馬壹国→邪馬臺国になったと考えられる。
- ^ a b 古田は「磐井の乱」を畿内ヤマトの九州倭国に対する反乱とみていたが、最近は無かったと見ている。
- ^ 「姓は阿毎(アメ・アマ「天」)、字は多利思北(または比)孤(タリシホコ、「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王・アメキミ説あり」)と号す」(※「大王」の使用例 伊予国風土記逸文(「釈日本紀」)「法興六年十月歳在丙辰我法王大王与慧慈法師及葛城臣」万葉集 雑歌 柿本朝臣人麻呂「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而」)
- ^ 筑紫地震(678年):水縄断層系が起震断層とされマグニチュード6.5〜7.5だったと推定されている。
- ^ 「漢匈奴悪適尸逐王」の印を「漢の匈奴の悪適尸逐の王」と読み三段の国名の例が存在するとの意見もあるが、「悪適尸逐王」は匈奴の王号であり二段の国名である。また、この印は銅印である。
- ^ この解釈は古田の解釈とは異なる
- ^ 『漢書(前漢書)』地理志の「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」「楽浪海沖に倭人が現れる。100か国余りに分かれているが、季節になると貢物を持って挨拶に来る。と云う。」から前漢の時代は100国あまりの小国分立の状態であったのが『後漢書』東夷傳では「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統」「武帝が朝鮮を滅ぼして以来、30国ていどが漢と交流している。(それらの)国は全て代々王を称することを伝統としている。」となり国の数が30国あまりに減り統一が進むと共に、一時的に自称王が乱立していたことが察せられる。倭奴国は自己の申告により漢の皇帝から家臣としての王に任命されたもので倭国内の統治の実態は不明だが、王を自称していた他の30あまりの国にから異議が無いところから建武中元二年までに倭国内の他の国々の自称王を降し、初めて倭国を統一した者であろう。この後「桓 靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」「桓帝と霊帝の間、倭国が内戦状態になり、互いに攻め合い。長い間、君主が居なかった。」となり再び統一が乱れたことが察せられる。
- ^ 後漢書に「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」「建武中元2年に倭奴國が朝貢してきた。使いの者は大夫と自称した。倭奴國は倭國の最南端である。光武帝は印章を授けた。安帝永初元年に倭國王の'帥升等が奴隷160人を献上して謁見を願ってきた。」とある。倭国が倭奴国と区別されており、倭奴国について「倭國之極南界也」とあることから倭奴国は倭国の一部であると考えられる。王については倭国の王、帥升(等)しか記されず倭奴国の王については記されていないことから、建武中元二年に「倭國之極南界」に在った倭奴国が使いを遣し漢より印を綬かって倭国全体の王に任ぜられ、倭国王になったと考えられる。
- ^ 「ゐ」は隋唐音であり、「倭」「委」はともに「わ」であるとする反論もある。
- ^ 「倭奴」は日本の蔑称であり、しかも金印には「倭」の字が減筆されニンベンの無い「委」が用いられている(新の王莽が匈奴に与えた「新匈奴單于章」の金印と同じ「漢の皇帝が属国の蛮王に与えた印」という侮辱的印と同じ)。
- ^ 「奴国」は文中に二度登場するが一度目は官の正・副の存在が明記され、二度目は国名が紹介されたのみで王の存在は記されていない。
- ^ a b 倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合でほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている(三韓征伐#概史・年表)。九州王朝説でも九州では軍事が民生を圧迫していたと考えるが、九州の勢力は独自に軍事活動を行っていたとする。
- ^ (1)出現期の前方後円墳の分布の中心は近畿の大和(2)出現期の前方後円墳の分布は瀬戸内海沿岸各地から北部九州。(3)九州南部では東西に地下式横穴墓、地下式板石積石室墓という二大分布圏が存在。前方後円墳は沿岸部のみに分布する。(4)古墳時代前期後半に東日本、近畿、西日本各地で前方後方墳から前方後円墳への転換が確認されている。(5)3世紀中葉すぎ、近畿、中国地方→北部九州への土器の移動が顕著に認められる。逆の動きはほとんど認められない。(参考→「前方後円墳と前方後方墳」 白石太一郎講演))等を根拠であるとする反論。
- ^ 現在でも、九州の北西部に広がる海域を玄界灘と言う。「玄」は「玄武」と同様に「北」の意味であり、玄界灘とは(荒い)北の海を意味する。なお、日本書紀にも2か所「北海」の表記はあるが、これは九州倭国の史書からの盗用であると考えられる。
- ^ 倭王武が九州倭国の王であるとすると、古事記や日本書紀が伝えるところの「ニニギノミコト」「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」「ウガヤフキアエズノミコト」は九州倭国の人間で、そこから東征に派遣された「カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)」の子孫が巨大古墳を築造した畿内日本であることになる。多元王朝説(古田武彦)は神武東征は単なる神話ではなく史実の反映であり、神武が畿内に入植したのは2世紀の頃ではないかと推定している。九州倭国は半島等での軍事活動で疲弊し高句麗のような強力な競争相手のいない新天地に入植した神武の子孫畿内日本はその後も東征を続け発展に向かい、近畿地方から東日本にかけて大勢力を築いたとする。
- ^ 戦国時代でも朝鮮出兵に際して豊臣秀吉は、肥前名護屋城を築城しそこから指揮を執っている。明治になっても日清戦争に際して日本政府は、大本営と首都機能を広島市に移して戦っている。
- ^ 第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが「遣唐使」となっている。
- ^ 『日本書紀』には遣唐使の記録はあっても遣隋使の記録がない。『隋書』にある600年の第一回遣隋使は『日本書紀』に全く記載がなく、第二回の607年の遣隋使も隋ではなく大唐国に派遣したと記している。唐は618年に建国しており607年は隋代であり、唐に行ったことが事実とすると618年以後のこととなる。『日本書紀』の記す第二回遣隋使は実は唐代の619年であり、『日本書紀』では年代を12年繰り上げた為に隋代を大唐国と書いてしまったと考えられる。607年の遣隋使は九州倭国の派遣したもので、隋の従八品文林郎の裴世清が俀国に来たのであり、619年にも唐の家臣となり降格した後の正九品鴻臚寺の掌客の裴世清が小野妹子と供に来たと考えれば辻褄が合う。約12年の誤差
- ^ 九州年号に「聖徳」(629年)とあることを聖徳太子と結びつけ、伝説の聖徳太子は九州倭国の王の一人であった(聖徳太子の太子は本来は、仏教に深く帰依した大師である)とする説もある。しかし、古田武彦はこの説をとらない
- ^ 「有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行禱祭 有如意寶珠 其色青 大如雞卵 夜則有光 云魚眼精也」「阿蘇山がある。その石は訳も無く火が起り天に接するもの。習慣が異なり、よって祈祭をおこなう。如意宝珠あり、その色青く大きい雞卵のようだ。夜はすなわち光あり、魚の眼精だという」
- ^ 毎字多利思北孤(アメ又はアマ・タラシホ(ヒ)コ)は『古事記』、『日本書紀』に見られる呼称と一致し、大王・天君は首長以外にも用いられた尊称であるとして、『隋書』の「俀王姓阿毎字多利思北孤」を厩戸王子を指すとする説もあるが厩戸王子は天皇ではない。
- ^ 名古屋市博物館の常設展示の藤原宮出土木簡には「庚子年(700年)四月/若狭国小丹生評/木ツ里秦人申二斗」「尾治国知多郡/大宝二年(702年)」などの記載がある奈良文化財研究所 木簡データベース
- ^ 『日本書紀』天智六年条に「筑紫都督府」とある。
- ^ 書記には天武天皇には何度も葬儀記事がるが、孝徳天皇には一度も葬儀の記事が無いのはこの記事の入れ替えによると考えられる。また天皇が逝去したので九州年号白雉元年(652年)へ改元したと考えられる。
- ^ 飛鳥宮等は宮殿のみで市街地は持たない6世紀末から7世紀末にかけて、飛鳥地方に諸天皇の宮殿が置かれた都の総称を飛鳥京と呼んだりするが、当時の飛鳥には宮の他には貴族の館や寺院が数軒あった程度であり、一般市民の住む市街地や毎日開かれるような大きな市場は無く京と呼ぶには、あまりにも貧弱である。(参考:バーチャル飛鳥京)
- ^ 藤原広嗣の乱の時も鎮圧に当った大野東人は戦いの前に宇佐神宮で勝利を祈願している。
- ^ 7世紀中頃は白村江戦の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿を造営するとは考えられないにも拘わらず古田武彦は、博多湾岸にある類似地名(名柄川、豊浜)の存在を根拠に、「難波長柄豊碕宮」を福岡市西区の愛宕神社に比定し、『皇太神宮儀式帳』を根拠にここで九州王朝は評制を樹立したとしている。『古代に真実を求めて』12集(明石書店2009)『なかった』五号(ミネルヴァ書房2008/6)
- ^ a b 古田は、九州倭国の滅亡・ヤマト王権の成立を701年としたため九州倭国が7世紀末に日本の国号を使い始め、ヤマト王権が政権簒奪後も日本の国号を使い続けたとしている。
- ^ 唐代には科挙に合格し唐の高官となった阿倍仲麻呂のように、遣唐使として多くの日本人が唐に渡っており、また白村江の戦でも多くの日本人が捕虜として唐に連行されている。これらのことからも、唐代には日本についての情報は豊富であり、旧唐書や新唐書の日本についての情報には事実を反映したものがあると考えられる。旧唐書や新唐書で日本國と倭國が別の國であるように記述されているのは、当時の日本が、漢や魏、南朝に臣従していた過去を否定するために、かつて册封をうけ臣従していた倭國と日本國は別であるとしたものとする解釈がある。
- ^ 続けて「長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物(長安3年(703年)、その国の大臣の朝臣真人が朝貢して来た)」とあることから、九州倭国から畿内日本への政権交代を唐に伝え、唐に日本を承認させたのはこの朝臣真人だと考えられる。
- ^ 百済への仏教伝来は枕流王元年(384年)と記録されている。一方、日本への仏教公伝は6世紀半ば頃とされ欽明天皇代に百済の聖王によって伝えられたとされる。 しかし倭国と百済は親密な関係にあり、倭国への伝来が百済より200年も後とは考えられない。九州倭国への仏教伝来は4世紀末から5世紀初頭の頃であり、6世紀半ばの伝来は畿内日本への仏教伝来のことである。
- ^ 内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』ミネルヴァ書房 (2000/07)
- ^ 倭王武の上表文に「竊自假開府義同三司 其餘咸假授 以勸忠節」「ひそかに、みずから開府義同三司を仮に与え、その余はみな仮に授けて、もって忠節を勧める」とあり、宋代には三司が(三公も含めて)最高クラスの官位になっていることから
- ^ 大槻文彦『大言海』「(一)京都ヨリ遠ク隔リテ、朝政ヲ行フ所。筑紫ノ太宰府、陸奥ノ鎮守府、諸国ノ國衙ナドナリ。コレヲ、ひなのみやこ(都)トモ云フ。(二)専ラ、太宰府ノ稱。(三)又、三韓ヲモ稱ス。」『日本国語大辞典』「(1)都から遠く離れた地にある官府。陸奥の鎮守府や諸国の国衙(こくが)などがこれにあたる。(2)特に、太宰府のこと。(3)新羅(しらぎ)に置かれた官家」
- ^ 柿本朝臣人麻呂筑紫国時海路作歌「大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念(細い水路を蟻が通り抜けるようにして大王の昔の首都(太宰府)に通う時、門のように並んだ二つの島(志賀島、能古島)を見ると、いよいよ繁栄していた神代の時代のことがしのばれる)」
- ^ 吉田東伍『大日本地名辞書』、『筑前国続風土記』によると、紫宸殿、内裏の名称は安徳天皇に由来するとされるが、『平家物語』『源平盛衰記』などの記録では庁舎が戦火で消失していたため平家は大宰府政庁に宮を置いていないので、これは地名の由来を説明するための後代の創作であると考えられる。
- ^ 「井」一族は神武天皇とも関わりのある古い時代からの姓で、有力豪族だったという。また本姓は「井」だが「井野(イの)」等の苗字を名乗っている家も多い。
- ^ 神道発祥の地は壱岐市の月読神社といわれており、日本最古の住吉神社は壱岐市にある住吉神社や福岡市の住吉神社である。また八幡様の総本宮は宇佐神宮であり、宇佐神宮の本宮は飯塚市大分八幡宮である。
- ^ 「白鳳」は、『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)「白鳳以来、朱雀以前、年代玄遠、尋問難明」という記事があり、「法興」は、法隆寺金堂(こんどう)釈迦三尊像の光背、金石文や「伊予温湯碑」(愛媛県道後温泉、碑は現存せず、伊予風土記逸文(「釈日本紀」)による)などに記載がある。
- 古代に真実を求めて 古田史学論集第二十集『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編・明石書店刊)ISBN 978-4750344928、2017/03/25
- 『九州年号の研究』近畿天皇家以前の古代史(ミネルヴァ書房)ISBN 978-4623061419、2012/01/10
- ^ 「二中歴」によれば、「継体」という年号をもって「開始年号」としている。二中歴以外の文献では、「継体」を欠いて二つ目の「善記(善化)」から始まる。二中歴では大化は6年(700年)で終わり九州年号は終了するが、大化を9年(703年)までとし更に大長を加え、大長9年(712年)を九州年号の終わりとする説を紹介する。
- ^ 安本美典 『古代九州王朝はなかった』(新人物往来社)には、井上光貞が九州王朝説を「空中楼閣」と評したとしている。東アジアの視点で、日本の歴史を学ぶ (PDF) ヤマト王権は鉄を使って勢力を広げたって本当? (PDF)
- ^ 日本古代史考古学界では年輪年代学の成果から3世紀中葉に畿内を中心とする連合が形成されたとする見解が主流となりつつある(参照:白石太一郎 『古墳とヤマト政権』 文藝春秋、1999 ISBN 4166600362)。
- ^ 一例を挙げると、同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書を優先、自国史書より利害関係のない外国史書を優先という方法により立論していながら自説と矛盾する『通典』を無視していると思われる発言を支持者がしている。(出典:古田史学の会 横田幸男の発言に「最後に当会は、屁理屈も理屈であると言われる日野陽仁(川村明)氏の九州王朝説批判を批判することはありません。これは、当会の考えとして元の史料である『通典』『唐会要』『太平御覧』の史料批判から出発すべきだと考えるからです。それらの史料性格については、大昔に古田氏が『邪馬臺国の常識』(松本清張編 毎日新聞社)で論じているところであり、新しい知見や再解釈が行なわれば公開させていただきます。そんなことは当面ありそうにないです。」とあり、『通典』とそれを根拠にした批判を無視していくことを公言している。なお、別の九州王朝説論者による批判は存在する。)。
- ^ 山尾幸久 『新版 魏志倭人伝』 講談社、1986 ISBN 406148835X P62、P255-参照。張明澄「誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば」久保書店、1992 は「古田説はただの帳尻合わせ」とする。謝銘仁 『邪馬台国 中国人はこう読む』 立風書房、1983は「水行十日・陸行一月」を帯方郡からのトータルの所要日数とする古田説について、極端な漢文の読み方であり問題にならないとする。『歴史と旅』秋田書店、1984「東アジアからみた邪馬台国」「魏志倭人伝の読み方、日本人のここが間違っている 謝銘仁vs張明澄 司会安本美典」は「水行十日陸行一月」について「帯方郡から邪馬台国まで、すなわち全行程(たとえば古田説)に要した距離ではない。漢文上そういう読み方は無理。その場合は「自帯方郡・・・至邪馬台国…」のようになる。」とする。
- ^ 「私は九州王朝一元史観ではないわけでありまして、多元史観なわけですね。私のいっているのは、多元史観が大事であると、多元史観というのは今おっしゃいました出雲であるとか、吉備であるとか、日向であるとか、そういったところの、それぞれの歴史を大事にしていくということでありまして、その一つを原点にして、全部を説明していく、というやり方をしないということなんです。だから近畿天皇家一元主義にかわる九州王朝一元主義をとるというんじゃないんですね。」大嘗祭と九州王朝の系図
出典
- ^ 古賀達也新春講演会の挨拶
- ^ 「磐井の乱」はなかった
- ^ いき一郎『扶桑国は関西にあった』
- ^ 古田武彦大化改新批判
- ^ 古田武彦「法華義疏」の史料批判
- ^ 古田武彦著『失われた九州王朝』朝日新聞 (1993/01)ISBN 4022607505 p330
- ^
- 「旧唐書倭国伝」倭国は、古(いにしえ)の倭奴国である。
- 「新唐書日本伝」日本は、古(いにしえ)の倭奴国である。
- 「宋史日本国伝」日本国は、もとは倭奴国であった。
- 「元史日本伝」 日本国は東海の東に位置し、昔は倭奴国と称した。
- 「明史日本伝」 日本は、古(いにしえ)の倭奴国である。
- ^ チョッパリ#チョッパリ以外の日本人への蔑称
- ^ 古田武彦は、九州年号の存在をもって磐井の乱は史実でないとしているが、磐井の乱を九州内の反乱・王朝交代と考えれば、否定の根拠にはならない。
- ^ 『岩戸山歴史資料館 展示図録』p. 16
- ^ 以下のように日本書紀と朝鮮側記録等の間には3年のずれがあるので、528年と記録のある「磐井の敗死」も3年ずらして、531年の「日本天皇・皇太子の同時死亡」のこととするのが妥当である。
- ^ (1)物部日良仁光連、(2)日往子明連、(3)日男玉頼連、(4)神力玉依連、(5)日光玉一連、(6)日往玉尊連、 1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩
- ^ 『壬申の乱の舞台を歩く 九州王朝説』 大矢野栄次 (著) 2012/12/25 ISBN 978-4870354760
- ^ 古田史学会報 81号 伊倉2 天子宮は誰を祀るか 古川清久
- ^ 通説では「弥生時代、上町台地の北に長柄砂州が続き、河内湖の水は、現在の新大阪駅の北にあった水路から大阪湾に流れていたが、古墳時代になると淀川上流から運ばれてくる土砂でこの水路が埋まり、出口を失った河内湖の水が溢れ出し洪水が多発、このために上町台地の北端、現在の大阪城の北に堀江を掘削し、溢れた水を大阪湾に流れるようにした。この堀江が後に淀川本流となり、明治の淀川改修以降、現在の大川となった。」としている。
- ^ 『倭国と日本古代史の謎 』斎藤 忠 (著)(学研M文庫) 文庫 2006/6/1 ISBN 978-4059011842
- ^ 『日本書紀』天智六年条に「筑紫都督府」とある。
- ^ 『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林)2001.4.20
- ^ 古田史学論集 第十一集「古代に真実を求めて」古田史学の会(編) 明石書店 2008年3月 ISBN 978-4-7503-2762-4 『日本書紀』「持統紀」の真実——書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号——(正木裕) この歌は大和吉野の歌ではない
- ^ 『天孫降臨地の解明』古田武彦
- ^ 古田 武彦 著『盗まれた神話』
- ^ 古田武彦氏講演会(四月十七日) 抄録
- ^ 伊藤まさこ著「太宰府・宝満・沖ノ島」(不知火書房2014/08)
- ^ 古田武彦著『ここに古代王朝ありき』(ミネルヴァ書房2010/9)
- ^ 米田良三著『法隆寺は移築された』新泉社 (2007/02)ISBN 4787706039
- ^ 『奪われた国歌「君が代」』((株)情報センター出版局)2008年8月11日 『日本の秘密 「君が代」を深く考える』(五月書房)2000.1.28
- ^ 米田良三著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』
- ^ 『和姓に井真成を奪回せよ』(同時代社 (2005/07))ISBN 4886835562
- ^ 古賀達也の洛中洛外日記第520話2013/02/02
- ^ 『古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?』
参考文献
- 坂本太郎他 『日本書紀(1)』 岩波書店、2003年 ISBN 4-00-007230-7
- 石原道博 『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』 岩波書店、1985年 ISBN 4-00-334011-6
- 石原道博 『新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』 岩波書店、1986年 ISBN 4-00-334021-3
- 久保田穣 『古代史における論理と空想』 大和書房、1992年 ISBN 4479950265
- 長沼賢海 『邪馬台と大宰府』 太宰府天満宮文化研究所、1968年 ASIN B000J9GZO2
- 佐伯有清 『邪馬台国論争』 岩波書店、2006年 ISBN 4-00-430990-5
- 家永三郎・古田武彦 『聖徳太子論争』
関連項目
外部リンク
|
|
- 参考