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「板垣退助」の版間の差分

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下野後、退助は[[五箇条の御誓文]]の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、明治7年([[1874年]])に[[愛国公党]]を結成し、後藤象二郎らと左院に[[民撰議院設立建白書]]を提出したが、却下された。また、高知に[[立志社]]を設立した。明治8年([[1875年]])、[[大阪会議]]によって参議に復帰したが、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞して再び[[自由民権運動]]に身を投じた。
下野後、退助は[[五箇条の御誓文]]の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、明治7年([[1874年]])に[[愛国公党]]を結成し、後藤象二郎らと左院に[[民撰議院設立建白書]]を提出したが、却下された。また、高知に[[立志社]]を設立した。明治8年([[1875年]])、[[大阪会議]]によって参議に復帰したが、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞して再び[[自由民権運動]]に身を投じた。


明治14年([[1881年]])、10年後に[[帝国議会]]を開設するという[[国会開設の詔]]が出されたのを機に、[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]を結成して[[総理]](党首)となった。以後、全国を遊説して回り、党勢拡大に努めていた明治15年([[1882年]])4月、[[岐阜市|岐阜]]で遊説中に暴漢・[[相原尚けい|相原尚褧]]に襲われ負傷した([[岐阜事件]])。その際、板垣は襲われたあとに[[竹内綱]]に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い
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{{Refnest|group="注"|当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また[[岐阜県警察部|岐阜県警部長]]の川俣正名が[[岐阜県知事|岐阜県令]]に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている。<ref>[http://www.jacar.go.jp/modernjapan/p04.html 知っていましたか? 近代日本のこんな歴史|板垣退助暗殺未遂事件〜「板垣死すとも自由は死せず」〜]</ref>}}、これがやがて「'''板垣死すとも自由は死せず'''」という表現で広く伝わることになった。この事件の際、板垣は当時医者だった[[後藤新平]]の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている<ref>『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007</ref>。
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11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。明治17年([[1884年]])10月、自由民権運動の激化で[[加波山事件]]が起き、自由党を一旦解党した。
11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。明治17年([[1884年]])10月、自由民権運動の激化で[[加波山事件]]が起き、自由党を一旦解党した。

2020年8月20日 (木) 00:37時点における版

板垣 退助
いたがき たいすけ
1906年頃(70歳頃)
生年月日 1837年5月21日
天保8年4月17日
出生地 日本の旗 日本 土佐国高知城下中島町
(現、高知県高知市
没年月日 (1919-07-16) 1919年7月16日(82歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府東京市
前職 武士土佐藩士
所属政党自由党→)
愛国公党→)
自由党→)
憲政党
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 林益之丞政護妹(正妻)
中山弥平治秀雅次女(継妻)
板垣鈴(継妻)
板垣絹子(継妻)
板垣清子(継妻)
子女 板垣鉾太郎(長男)
乾正士(次男)
板垣孫三郎(三男)
板垣正實(四男)
乾六一(五男)
片岡兵子(長女)
宮地軍子(次女)
小川腕子(三女)
浅野千代子(四女)
小山良子(五女)
親族 乾正清(五世祖父)
乾直建(高祖父)
乾正聰(曾祖父)
乾信武(祖父)
乾正成(父)
片岡光房(娘婿)
宮地茂春(娘婿)
小川一眞(娘婿)
浅野総一郎(娘婿)
小山鞆絵(娘婿)
板垣守正(孫)
板垣正貫(孫)
乾一郎(孫)
宮地茂秋(孫)
杉崎光世(曾孫)

日本の旗 第13代 内務大臣
内閣 第1次大隈内閣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日

日本の旗 第10代 内務大臣
内閣 第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
在任期間 1896年4月14日 - 1896年9月20日
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板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日1837年5月21日) - 大正8年(1919年7月16日)は、日本武士土佐藩士)、政治家幼名猪之助。退助は通称は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。無形(むけい)。栄典従一位勲一等伯爵土佐三伯の1人(ほかに後藤象二郎佐々木高行)。明治維新の元勲自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

生涯

生い立ち

生誕地(高知県高知市

天保8年4月17日1837年5月21日)、土佐藩上士馬廻格・300乾正成の嫡男として、高知城下中島町(現・高知県高知市本町通2丁目)に生まれた。なお、乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である(退助の復姓については後述)。後藤象二郎とは竹馬の友である。退助は同じ土佐藩の中岡慎太郎と気脈が通じたらしく交誼がよく知られている。また千葉さな子が開業した鍼灸院には退助自ら患者としてでなく、自由党員の小田切謙明(のちに無縁仏となったさな子の身元引受人となる)をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている。 上士と下士の身分が確立されていた土佐藩の中で谷干城佐々木高行と同じく、下士に対し寛大だった[注 1]

少年期は腕白そのものであったという。退助は晩年、自分の少年時代を振り返り「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。成長すると、また仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教えられた」と述懐している[2]

安政3年(1856年8月8日、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村に蟄居し、ここで身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれたが、父・正成の死後、家禄を220石に減ぜられて家督相続を許された。

江戸へ出向

文久元年(1861年)10月25日、江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、11月21日に高知を出て江戸へ向かう。文久2年(1862年)6月、小笠原唯八とともに、佐々木高行に会い勤皇に盡忠することを誓う。10月17日、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、尊皇攘夷を唱える。文久3年(1863年)1月4日、高輪の薩摩藩邸で、大久保一蔵(のちの利通)に会う。1月11日、容堂に随行して上洛のため品川を出帆するが、悪天候により下田港に漂着する。1月15日、容堂の本陣に勝麟太郎(のちの海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議。4月12日、土佐に帰藩する。

慶応元年(1865年)1月14日、洋式騎兵術修行を命ぜられ、江戸で幕臣・倉橋長門守(騎兵頭)や深尾政五郎[注 2](騎兵指図役頭取)らにオランダ式騎兵術を学ぶ[3]。慶応2年(1866年)11月、薩摩藩士の吉井友実らと交流する。慶応3年(1867年)2月、水戸浪士の中村勇吉相楽総三、里見某らを独断で江戸の土佐藩邸に匿った。

武力討幕へ

薩土討幕之密約紀念碑
密約が締結される前段階として京都「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)

退助は、土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張していた(当時の土佐藩上士は公議政体論が主流)。慶応3年(1867年)5月には上洛し、前月に脱藩の罪を許されたばかりの中岡慎太郎の手紙を受けて、5月18日、京都の料亭「近安楼」で、福岡藤次船越洋之助らとともに中岡と会見し武力討幕を議した。さらに5月21日、中岡の仲介によって、京都の小松清廉邸で、土佐藩の谷干城・毛利恭助らとともに薩摩藩の西郷吉之助(のちの隆盛)らと武力討幕を議し、退助は「戦となれば、藩論の如何にかかわらず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語り、薩土密約を結ぶ。翌日、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げる。5月27日、薩土密約に基づき大坂でアルミニー銃300挺を購入し、6月2日に土佐に帰国。藩の大監察に復職し、7月22日には軍制改革を指令する。8月20日、土佐藩よりアメリカ合衆国派遣の内命を受ける(のち中止)。9月6日、土佐勤王党弾圧で投獄されていた島村寿之助安岡覚之助らを釈放する。これに応じ、七郡勤王党幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議する。10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。

慶応3年(1867年)12月、武力討幕論を主張し、大政奉還論に真っ向から反対して失脚した乾退助を残して土佐藩兵が上洛。12月28日、土佐藩・山田平左衛門吉松速之助らが伏見の警固につくと、薩摩藩・西郷隆盛は土佐藩士・谷干城へ薩長芸の三藩には既に討幕の勅命が下ったことを示し、薩土密約に基づき、乾退助を大将として国元の土佐藩兵を上洛させ参戦することを促した。谷は大仏智積院の土州本陣に戻って、執政・山内隼人(深尾茂延、深尾成質の弟)に報告。慶応4年(1868年1月1日、谷は下横目・森脇唯一郎を伴って京を出立、(1月3日、鳥羽伏見で戦闘が始まり、1月4日、山田隊、吉松隊、山地元治北村重頼二川元助らは藩命を待たず、薩土密約を履行して参戦)、1月6日、谷が土佐に到着。1月9日、乾退助の失脚が解かれ、1月13日、深尾成質を総督、乾退助を大隊司令として迅衝隊を編成し土佐を出陣、戊辰戦争に参戦した[4]

戊辰戦争で活躍

迅衝隊(前列左から伴権太夫、板垣退助(中央)、谷乙猪(少年)、山地忠七。 中列、谷神兵衛谷干城(襟巻をして刀を持つ男性)、山田清廉吉本平之助祐雄。 後列、片岡健吉真辺正精西山榮北村重頼別府彦九郎

戊辰戦争では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」と、岩倉具視らの助言を得て、板垣氏に姓を復した。

この策が講じて甲州勝沼の戦いで大久保大和(近藤勇)の率いる新選組を撃破したばかりではなく、その後に江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召し抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった。

東北戦争では、三春藩を無血開城させ、二本松藩仙台藩会津藩などを攻略するなどの軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。

官軍の将でありながら、維新後すぐから賊軍となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であったため、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。

明治政府の要職を歴任

朝鮮国の不義を糺すために立ちあがった板垣退助らの征韓議論。(1877年明治10年)鈴木年基作)

明治2年(1869年)、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信とともに参与に就任する。明治3年(1870年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令。明治4年(1871年)に参議となる。

明治6年(1873年)、書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に世論が沸騰し、板垣は率先して征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らとともに下野。世論もこれを圧倒的に支持し、板垣・西郷に倣って職を辞する官僚が600名あまりに及び、板垣と土佐派の官僚が土佐で自由民権を唱える契機となった(明治六年政変)。

自由民権運動

大阪会議開催の地にある大久保利通(上左)・木戸孝允(上中央)・板垣退助(上右)・伊藤博文(下左)・井上馨(下右)のレリーフ
大阪府大阪市中央区北浜
板垣退助の岐阜遭難事件

下野後、退助は五箇条の御誓文の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、明治7年(1874年)に愛国公党を結成し、後藤象二郎らと左院に民撰議院設立建白書を提出したが、却下された。また、高知に立志社を設立した。明治8年(1875年)、大阪会議によって参議に復帰したが、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、間もなく辞して再び自由民権運動に身を投じた。

明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。以後、全国を遊説して回り、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い [注 3]、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。この事件の際、板垣は当時医者だった後藤新平の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている[6]。 11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。明治17年(1884年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。

自由民権運動家の立場から、華族制度には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていたが、明治20年(1887年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にしてやむなく伯爵位を授爵した。その結果、衆議院議員となることはなく(華族当主には衆院選の被選挙権がない)、また貴族院でも伯爵議員の互選にも勅選議員の任命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかった。

帝国議会開設以後

大同団結運動の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は林有造らとともに愛国公党を再び組織し、第1回衆議院議員総選挙に対応した。明治23年(1890年)の帝国議会開設後には河野広中大井憲太郎らとともに旧自由党各派(愛国公党、自由党大同倶楽部、九州同志会)を統合して立憲自由党を再興した。翌年には自由党に改称して党総理に就任した。

明治29年(1896年)、議会内で孤立していた自由党は第2次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は内務大臣として入閣。続く第2次松方内閣においても留任したがすぐに辞任した。明治30年(1897年)3月、自由党総理を辞任している。

明治31年(1898年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称・隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし、内閣は内紛が激しく、4か月で総辞職せざるを得なくなる。明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。

晩年

政界引退後は、明治37年(1904年)に機関誌『友愛』を創刊したり、同40年(1907年)には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行った。大正2年(1913年)2月に肥田琢司を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就いた。大正3年(1914年)には二度台湾を訪問し、台湾同化会の設立に携わった。

大正8年(1919年)7月16日、肺炎のため死去。享年83(満82歳没)。法名は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎は自ら廃嫡し家督相続を遅らせたため板垣家は華族の栄典を喪失した[7][注 4]

逸話

50銭政府紙幣
日本銀行券B100円券
  • 明治4年(1871年)、武田信玄の300回忌法要の際に、松本楓湖の画による武田二十四将の肖像が武田氏一族の菩提寺である甲斐恵林寺に奉納される際、各武将の直系子孫が画賛を書くことになり、依頼されて退助は板垣信方の肖像画に直筆で画賛を書いた。退助は揮毫を依頼されてもほとんど断っており、確実に自筆と判明している2点(1点は「死生亦大矣」の書)のうちの一つであり、数少ない板垣退助の直筆史料として、現在は財団法人歴史博物館信玄公宝物館の所蔵となっている。
  • 少年時代、「蝦蟇の油を塗ると川に潜っても呼吸ができる」との言い伝えを信じ、後藤象二郎と一緒に、蛙を捕獲して釜で煮て蝦蟇の油を作り、鏡川を潜水したが呼吸ができず、蝦蟇の油の効力が迷信であることを知る。これによって迷信を疑うようになり、実証主義に転じて、翌日今度は、神社のお守りをに捨ててみて、神罰が本当に起こるのか試したことがある(結果、何事も起こらなかった)。同様の主旨で、退助が神田村(こうだむら)に蟄居していたとき、当時の人が食べ合わせ(「うなぎと梅干」「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた迷信に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証したことがある。
  • 武市瑞山の命令で自分を斬りにきた中岡慎太郎を見透かし、暗殺を留まらせた。そのとき、中岡と意気投合し、ともに倒幕に身を投じることとなった。
  • 自らの命を狙われた岐阜遭難事件の犯人である相原尚褧に対して、特赦嘆願書を明治天皇に提出した結果、相原は特赦となり、改心した相原は退助に謝罪に訪れている[8]
  • 家屋敷を売り払い、私財をなげうって自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮していたと伝えられている。明治44年(1911年)ごろ、人を介して密かに杉山茂丸を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前長船(大宮派)の初代「盛重」(南北朝時代の作)という名刀であった。茂丸は「これはどこで手に入れたのか?」と刀を持ち込んだ人に問うと、最初はためらったものの「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取ってもらうように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と嘆息するエピソードがある[9]。この後、杉山は「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と山縣有朋に説いて天皇や元老から救援金が出るようはからった。
  • 市島謙吉 「昔改進党時代に、常用で板垣伯を訪ねたことがある。当時の伯の住所は芝公園内の第何号地という様な分り悪い所にあった。辛うじて番号を尋ね当てたが、さてその家が如何にもみすぼらしいので、自由党総理の家とは思えぬ。そこで念の為その家に就いて問うて見ると、矢張り伯の家であった。下駄の三足も並ぶと一杯になる入口に障子が二枚ある。どうしても下等の判任官の住居としか見えぬ。下駄脱から御免というて取次を頼むと、中でお上りという声がする。戸を開けると、直ぐそこに伯が客と対談中で、今上れと言われたのが主人の伯であったのに一驚を喫した。伯は無造作に応接されて、用は立ちどころに弁じたが、一方改進党総理大隈伯の殿様振りと板垣伯の生活振りが余りに懸隔あるので案外に感じた」[10]
  • 宣教師・フルベッキが高知に宣教をするにあたって紹介し、同郷の片岡健吉坂本直寛の受洗などに多大な影響を与えたが、退助自身はキリスト教には入信しなかった。高知の板垣家歴代墓所には、各々「十字」が刻まれているため、クリスチャンだったと誤解する人がいるが、これは家紋であり、板垣家の代々の宗旨は曹洞宗である。菩提寺は、東京・青松寺)。
  • 後藤象二郎とともに日本人としてはきわめて早い時期の(1896年以前の)ルイ・ヴィトンのトランクを所持していた[11]立憲政治視察のため後藤象二郎と渡欧した1882年から1883年の間に購入したとされる)。なお初めて顧客になったのが後藤と板垣であると長らく信じられてきたが、実際には板垣たちの渡欧よりも5年前の1878年鮫島尚信(在仏特命全権公使)と中野健明(一等書記官)が購入していたことが当時の顧客名簿から判明している。
  • 退助の曾孫の家に保管されていた、明治2年(1869年)ごろ撮影と見られる板垣退助と二人の武士[注 5]が写った幕末古写真が、平成24年(2012年)7月13日に記者公開され、同年8月1日から8月31日まで高知市立自由民権記念館で一般公開された[12]

呑敵流

柔術呑敵流小具足術本山団蔵に学んだ。

板垣退助は、明治15年(1882年)に岐阜で相原尚褧に襲われた際、とっさに呑敵流当身で反撃をした。敵の心臓を狙って肘で当身をしたが、力を入れすぎたために下にずれて腹部に当たった。のちの取り調べで相原尚褧が警察に痛みを訴えたため、調べてみると脇腹が黒いあざになっていたという。

岐阜事件のあと、板垣は命が助かったのは師のおかげと思い、本山団蔵に贈り物をしてこのことを話したところ、本山団蔵は板垣に教えた武術が実地に功を奏したことを喜び呑敵流皆伝免状を授けたという。

相伝系譜

吉里呑敵齋信武 - 馬渕嘉平正保 - 本山団蔵重隆 - 板垣退助

武術

学問

赤穂山鹿流伝系

山鹿素行 - 大石良重 - 菅谷政利 - 太田利貞 - 岡野禎淑 - 清水時庸 - 黒野義方 - 窪田清音 - 若山勿堂 - 板垣退助

評価

  • 有馬藤太 「或時西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」[18]
  • 尾崎咢堂 「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた」[19]
  • 中江兆民
    • 「私情に絡まるのは政治や公党の公では良く無いに違いないが、私交上ではむしろ美徳である。板垣は政治家としてよりも、むしろ個人としての美しい徳を持っていた近世の偉人である」
    • 「板垣は日本の民主主義発展に大きな功績を残した。彼は無欲恬淡、金銭欲も淡白でしたたかさが無かった」
  • 谷干城 「板垣という男は困ったもんぢゃ。学問がないから人騒がせしたり大言する。人間は根本の学問が第一ぢゃ。フランス流の自由がなんぢゃ。口を開けばルソオの民約論に何と書いてあるという。実際読みもせずに偉そうにしゃべるとは一体あれや何ぢゃ?俺はあんな演説を聞くと胸糞が悪くなる」[20]
  • 谷甚之助 「板垣さんの偉さは小事にこだわらない点だ。また部下には全幅の信頼をかけ、決して参謀の言に疑をさしはさまぬ人だった」[21]
  • 谷流水 「子供の時から習字が嫌い、読書が嫌い、物をしんみり考えることが嫌い。好きなのは鶏の喧嘩、犬の喧嘩、武術、それに大人の喧嘩でもあると飯も食わずに見物するというのだから今日このごろだったら中学校の入学試験は落第だね」[22]
  • 伊藤痴遊 「板垣が演説するときの態度や、その言い回しには、何となく荘重な所はあったが、大隈の如く快活な所が少しもなかった。板垣は自分の理論に捉われて、理屈の氷漬けを見たようになる欠点があった」[23]
  • 小説家の海音寺潮五郎司馬遼太郎は「板垣は政治家より軍人に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で山縣有朋の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている[24]
  • 自由民権運動の思想はその基礎を王政復古に求めるものであり、天賦人権論を基盤としたものである[25]
  • 「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く知られているように、板垣は自由民権運動の英雄である。その一方で、藩閥政府による懐柔や、隈板内閣内の論争などといった板垣の政治的な行動は、民衆の議論を賑わせた。内務大臣への就任については多くの風刺画が描かれ(内務大臣は警察を管轄し、言論統制選挙干渉などを行ったことで評判の悪いポストであった)、宮武外骨の『滑稽新聞』は、自由は死んだのに板垣は生きていると揶揄した。風刺画研究者の清水勲によれば、板垣は伊藤博文・大隈重信と並んで風刺画に描かれることの多い明治の政治家の「ベスト・スリー」であるという[26]

栄典

位階
勲章等

肖像

年代別写真

銅像

  • 国会議事堂大日本帝国憲法施行五十周年を記念して建立)
    中央広間の四隅に銅像の台座があり、板垣退助像、大隈重信像、伊藤博文像、そして空の台座となっている。板垣像は、北村西望の作。
  • 岐阜県岐阜市岐阜公園金華山の麓)
    板垣遭難(岐阜事件)の地に大正6年(1917年)に建てられた。
  • 高知県高知市高知城登城口
    銅像の作者・本山白雲高村光雲の弟子)は退助の親族でもある。
  • 青梅市
  • 栃木県日光市日光東照宮参道へと通じる神橋入口
    日光東照宮に立てこもる大鳥圭介ら旧幕臣達に対し、板垣退助は「先祖の位牌の陰に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるであろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得した。また、強硬に破壊を主張する因州鳥取藩に対しては「日光東照宮には、陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる扁額が掲げられており、これを焼き討ちすることは天皇家への不敬にあたるため回避せられよ」と両者に対して理由を使い分けて説得し、日光山を戦火から守った功績によるものである。初め昭和4年(1929年)に彫刻家の本山白雲による像が作られ、徳川宗家16代目を継いだ徳川家達が、板垣に感謝し銅像の題字を揮毫した。大東亜戦争末期に金属供出されたため、昭和42年(1967年)、彫刻家・新関国臣の作による像が再建された。銅像の題字は、拓本をもとに徳川家達の揮毫を再刻して復元された。

系譜

乾氏(板垣氏)
乾家の初代・正信は、甲斐の武田晴信(信玄)に仕えた部将・板垣信方の孫である。正信の父・板垣信憲がゆえあって改易されたあとに誅された事件があったため、籠居して乾氏に名を改めた。正信は長じて小田原征伐陣借りして奮戦し、その功によって山内一豊遠江国掛川に封ぜられた天正18年(1590年)に召し抱えられた(掛川衆)。江戸時代は代々土佐藩士で、家格は馬廻役(上士)。家紋は、甲斐板垣氏はもともと「地黒菱[注 6]」を用いたが、姓を乾氏に改めた戦国時代末期ごろから明治時代中期ごろまでは「榧之内十文字」を用いた。板垣退助は、土佐山内氏から賜った「土佐桐[注 7]」を明治中期以降は用いた。

系図

土佐板垣(乾)氏系図

  • 実線は実子、点線は養子
  • 江戸時代部分は(御侍中先祖書系圖牒)より
板垣松溪
 
 
 
 
願阿彌陀佛
 
 
 
 
板垣善満坊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣備州板垣信泰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣伯耆守板垣信方室住虎登女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1板垣信憲酒依昌光板垣信安[注 8]板垣信安室
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2板垣正信板垣正寅女子板垣修理亮板垣隼人
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3乾正行[注 9]板垣正善酒依昌吉半右衛門女子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4乾正祐乾正直乾友正平右衛門諸星信茂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5乾正方乾十次郎乾正房乾六一[注 10]板垣知貞諸星信時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
乾加助6乾正清近藤通賢室乾十助乾吉勝板垣信精諸星信職
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7乾直建乾直強中山秀信乾強正乾正英乾正愛
 
 
 
 
 
 
8乾正聡乾正壽
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9乾信武野本信照女子乾正春本山茂良
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10乾正成平井政実室長屋彦太夫室乾正勝乾正厚乾正厚[注 11]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11板垣退助乾久馬女子高屋長豪室日野成雄乾正士[注 12]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣鉾太郎乾正士[注 13]板垣孫三郎板垣正實乾六一[注 14]片岡兵子宮地軍子小川婉子浅野千代子小山良子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
板垣武生12板垣守正13板垣正貫川瀬美世子中村朝子乾一郎宮地茂秋本山信子浅野一治浅野五郎小山朝光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾崎正三島拓子板垣正明秋山範子14板垣退太郎板垣直磨川瀬勝世杉崎光世中村純子髙岡眞理子浅野治史浅野一小山朝和
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
尾崎公正秋山竹生秋山竹史秋山百合板垣裕子板垣晶大中村直敬中村和敬井深美香髙岡功太郎浅野造史浅野一郎小山朝顯

家族

板垣退助と妻子の墓(品川神社裏)。
右から退助、絹子、正實、六一、清子、武生(鉾太郎長男・早世)
同じ墓域には乾信武と、正實の乳母・青木タキの墓もある。

墓所

板垣退助の墓(東京・品川神社裏)
  • 薊野山(板垣山) - 山全体が乾氏専用の大きな墓地となっており、初代・正信から退助までの10代の墓石が整然とあり、退助の墓は3番目の妻・小谷氏と並んで建てられている。正信から退助まですべて「榧之内十文字」の紋がつけられている。退助の墓のみ「土佐桐」の紋が台座についている(所在地:高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)。
  • 安楽寺 - 乾氏(板垣氏)の一族の墓がある。(所在地:高知県高知市洞ヶ島町5-3)
  • 品川神社 - 江戸で客死した退助の祖父・信武の墓石以外は、退助を含め明治以降に亡くなった一族の墓石があり、退助の墓は4番目の妻・福岡氏と並んで建てられている。明治以降の墓のため「土佐桐」の紋がついている。墓石のとなりには、明治維新100年・板垣伯薨去50回忌を記念して、板垣退助先生顕彰会によって建てられた佐藤栄作の揮毫による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がある。品川神社の社域がもと東海寺の寺域であったため、社殿裏が墓となっている。(所在地:東京都品川区北品川3-7-15。昭和53年11月22日品川区史跡に指定されている)

著作

板垣退助の墓(高知・板垣山)
  • 五古周二編 編『板垣政法論』植木枝盛記、自由楼、1881年3月。NDLJP:782887 
  • 木滝清類編 編『板垣君意見要覧』木滝清類、1881年12月。NDLJP:782885 
  • 木滝清類編 編『板垣君演説集並ニ板垣君刺客変報詳記』木滝清類、1882年4月。NDLJP:782886 
  • 遊佐発編 編『板垣君口演征韓民権論勇退雪寃録』渡部虎太郎、1882年6月。NDLJP:783269 
  • 砂山藤三郎編 編『戎座大演説会傍聴筆記』開成社、1882年7月。 
  • 師岡国編 編『板垣君欧米漫遊日記』松井忠兵衛、1883年6月。NDLJP:760930 
  • 和田稲積編 編『通俗無上政法論』植木枝盛記、絵入自由出版社、1883年12月。NDLJP:783507 
    • 和田稲積編 編『通俗無上政法論』植木枝盛記、友文書屋、1884年8月。NDLJP:783508 
  • 清水益次郎編 編『板垣君欧米漫遊録』清水益次郎、1883年3月。NDLJP:760931 
  • 前野茂久次編 編『板垣退助君演舌』前野茂久次、1883年9月。NDLJP:782888 
  • 斉藤和助編 編『東洋自由泰斗板垣退助君高談集 上編』共立支社、1885年5月。NDLJP:782889 
  • 『板垣南海翁之意見』郷敏儒、1890年2月。NDLJP:782890 
    • 岩本米一郎編 編『板垣南海翁之意見』岩本米一郎、1890年5月。NDLJP:782891 
  • 小河義郎編 編『板垣伯の意見』小河義郎、1890年3月。NDLJP:782894 
  • 出射吾三郎編 編『愛国論』吉田書房、1890年3月。NDLJP:782873 
  • 『板垣伯演説筆記』馬場秀次郎記、落合貫一郎、1891年2月。NDLJP:782893 
  • 『板垣伯意見書』憲政党党報局、1899年1月。NDLJP:782892 
  • 宇田友猪・和田三郎共編 編『自由党史』 上巻、五車楼、1910年3月。NDLJP:991339 
  • 宇田友猪・和田三郎共編 編『自由党史』 下巻、五車楼、1910年3月。NDLJP:991340 
    • 『自由党史』 第1冊、板垣退助監修、後藤靖解説、青木書店〈青木文庫〉、1955年8月。 
    • 『自由党史』 第2冊、板垣退助監修、後藤靖解説、青木書店〈青木文庫〉、1955年9月。 
    • 『自由党史』 第3冊、板垣退助監修、後藤靖解説、青木書店〈青木文庫〉、1955年11月。 
      • 『自由党史』 (上)、板垣退助監修、遠山茂樹佐藤誠朗校訂、岩波書店岩波文庫〉、1957年3月。ISBN 9784003310519 
      • 『自由党史』 (中)、板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫〉、1958年6月。ISBN 9784003310526 
      • 『自由党史』 (下)、板垣退助監修、遠山茂樹・佐藤誠朗校訂、岩波書店〈岩波文庫〉、1958年12月。ISBN 9784003310533 
  • 『一代華族論』社会政策社、1912年6月。NDLJP:798399 
    • 『一代華族論』社会政策社、1912年11月。NDLJP:947723 
    • 『一代華族論』忠誠堂、1919年。NDLJP:957490 
  • 『神と人道』忠誠堂、1919年10月。NDLJP:957491 
  • 『独論七年』広文堂書店、1919年10月。NDLJP:955680 
  • 『立国の大本』忠誠堂、1919年。NDLJP:957489 
    • 『立国の大本』板垣会館建設後援会、1932年。NDLJP:1457761 
  • 板垣守正編 編『板垣退助全集』春秋社、1931年11月。 
  • 板垣会編 編『憲政と土佐』板垣会、1941年11月。 
  • 板垣会編 編『板垣退助先生武士道観』板垣会、1942年4月。 
  • 『選挙法改正意見』。NDLJP:784225 

関連作品

映画

演じた俳優

映画
テレビドラマ
テレビアニメ
漫画

脚注

注釈

  1. ^ 退助が神田村に蟄居中、樵(きこり)や農夫たちと身分の隔てなく親しく交わり、それが後年、庶民の立場に立った自由民権運動に目覚めるきっかけとなったことや、免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をするのを見て、万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い。私にも遠慮なく文句があれば申し出てくださいと語った話など、下士や農民たちに対しても寛大であった(当時としては変人とみられることもあった)逸話は豊富である。そえがゆえに退助が自由民権運動に没頭し全国を遊説していた頃には庶民派として大衆の人気を博した。[1]
  2. ^ 『柳営補任』によると旗本・深尾善十郎の養子総領。実父は松波平兵衛。
  3. ^ 当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また岐阜県警部長の川俣正名が岐阜県令に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている。[5]
  4. ^ 板垣家の家督は孫の守正が相続した。
  5. ^ 板垣を中央に右が後藤象二郎と左が乾正厚との所伝がある。
  6. ^ 「花菱」紋を陰陽反転したもの。この頃は、武田氏も「四つ割菱」紋はまだ用いてはおらず「四つ割菱」紋を陰陽反転したものでは無い。
  7. ^ 俗説に、板垣の紋は「五三の桐」と言うが、品川神社裏の墓石などによれば板垣の紋は葉脈の数が三本、葉型は鬼葉(刻みの尖った葉)で、花が描かれており「五三の桐」とは形が全く異なる。
  8. ^ 板垣信方の娘婿。実は於曾氏。永祿元年(1558年)、武田信玄の命に依って、板垣家を再興
  9. ^ 永原一照次男
  10. ^ 板垣退助五男、絶家再興
  11. ^ 乾正春の養子となる
  12. ^ 板垣退助次男
  13. ^ 乾正厚の養子となる
  14. ^ 乾友正家の絶家再興

出典

  1. ^ 『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社1893年、『自由党史』
  2. ^ 高知歴史散歩『武田信玄と板垣退助(2)』広谷喜十郎著。-高知市広報「あかるいまち」2007年2月号より-
  3. ^ 『迅衝隊出陣展』39頁
  4. ^ 『板垣退助君戊辰戦略』一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻
  5. ^ 知っていましたか? 近代日本のこんな歴史|板垣退助暗殺未遂事件〜「板垣死すとも自由は死せず」〜
  6. ^ 『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007
  7. ^ 『官報』第2350号、大正9年6月3日
  8. ^ 『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、原書房、2009年
  9. ^ 『杉山茂丸伝』、野田美鴻著、島津書房、1992年
  10. ^ 市島謙吉「随筆春城六種」
  11. ^ ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 ひ孫、トランク寄託”. 朝日新聞 (2011年9月17日). 2011年9月17日閲覧。
  12. ^ 壮年期の板垣退助の写真公開 明治初期 子孫が保管”. 高知新聞. 2015年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月13日閲覧。
  13. ^ 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社「友綱再興に燃えた喧嘩玉錦」
  14. ^ 石井代蔵『土俵の修羅』時事通信社「友綱再興に燃えた喧嘩玉錦」
  15. ^ 『佐藤一斎と其の門人』第九章
  16. ^ 『山鹿素行兵法学の史的研究』十一章
  17. ^ 風間健「武士道教育総論」(壮神社)
  18. ^ 維新史の片鱗1921
  19. ^ 『咢堂漫談』
  20. ^ 『生きている歴史』P184
  21. ^ 『生きている歴史』P177
  22. ^ 『生きている歴史』P179
  23. ^ 『伊藤痴遊全集 第7巻』
  24. ^ たとえば海音寺「敬天愛人西郷隆盛」学研M文庫、4巻、P103~104
  25. ^ 坂野潤治田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,190頁
  26. ^ 清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波書店(岩波文庫)、1997年)、p.81,92。
  27. ^ 『官報』第2989号「叙任及辞令」1893年6月17日。
  28. ^ 『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。
  29. ^ 『官報』第2085号「叙任及辞令」1919年7月17日。
  30. ^ 『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。
  31. ^ 『官報』第3978号「叙任及辞令」1896年9月30日。
  32. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  33. ^ 『官報』第2085号「叙任及辞令」1919年7月17日。
  34. ^ 墓碑銘に「板垣退助次男 乾正士」とあり。所在地:大阪府池田市五月山(昭和46年(1971年)3月高知県高知市より移葬)
  35. ^ 墓碑銘に「板垣退助三男 板垣孫三郎」とあり。所在地:高知県高知市薊野東町 乾・板垣家歴代墓所
  36. ^ 墓碑銘に「伯爵板垣退助四男 板垣正實」とあり。所在地:東京都品川区北品川 東京板垣家歴代墓所
  37. ^ 墓碑銘に「伯爵板垣退助五男 板垣六一」とあり。所在地:東京都品川区北品川 東京板垣家歴代墓所

参考文献

関連項目

外部リンク

先代
乾正成
土佐板垣(乾)氏当主
第10代:1860年 - 1919年
次代
板垣守正
公職
先代
芳川顕正
芳川顕正
日本の旗 内務大臣
第10代:1896年4月14日 - 同9月20日
第13代:1898年6月30日 - 同11月8日
次代
樺山資紀
西郷従道
日本の爵位
先代
叙爵
伯爵
板垣家初代
1887年 - 1919年
次代
(栄典喪失)