板垣鉾太郎
板垣 鉾太郎(いたがき ほこたろう、慶応4年5月15日(1868年7月4日) - 昭和17年(1942年)2月4日)は、日本の教育家。従四位。
来歴
[編集]慶応4年5月15日(1868年7月4日)土佐藩士・板垣退助の嫡男として土佐国高知城下に生まれる。母は土佐藩士・小谷正臣(善五郎)の娘、鈴。
明治10年(1877年)に北川貞彦が「立志社」の下部組織として興した民権結社「発陽社」(跡地・高知県高知市天神町14)に実弟・乾正士と共に参加[1]。 同社は機関紙『江南新誌』を発行するなど、立志社傘下の有力な結社として活動。北川貞彦、弘瀬重正、宮地茂春、徳弘馬域郎らがいた[2]。
明治21年(1888年)5月15日、山田平左衛門を校長に招聘し、高知県土佐郡種崎町に私立学校泰平学校を設立した[3]。開校初年度は教員13名・生徒203名であった[4]。同校は尋常小学校卒業者を入学の対象者とし、英・和・漢・数・仏学・法律・翻訳などの教育に心血を注いだ。
明治31年(1898年)には『現今華族上流社会の矯正を望む』と題した論考を発表し、その中で「華族上流にある者、己が良心に顧みて、社会の悪弊を一洗するに躊躇せず、我、日本帝国の名誉を挽回する事を勉めずんばあるべからず」と主張した[5]。
大正8年(1919年)7月16日父退助の薨去に際し、退助の持論である 一代華族論[6]を実践するために自ら廃嫡し、襲爵をしなかった。家督は鉾太郎の次男守正が相続した。
一般に病弱のように書かれるが、それは上記廃嫡の手続きを取るにあたり「疾病により、家督を相続することができないため」という口実で襲爵の手続きを遅延させ、時効[7]になさしめたためである。
昭和16年(1941年)6月18日、実弟・乾正士が大阪で死去[8]。
家族
[編集]補註
[編集]- ^ 『舊各社事蹟』島崎猪十馬編、昭和6年(1931年)、88頁。北代健太郎、井上蜂萬、乾正士、筒井楠太郎、加藤弥之助、岡本静、板垣鉾太郎、麻田久寿衛、野崎伊太郎らの名があり。
- ^ “『自由のともしび』第74号”. 高知市立自由民権記念館 (2013年3月1日). 2020年10月1日閲覧。
- ^ 「泰平学校の開校」『土陽新聞』明治21年(1888年)5月15日号より。
- ^ 「泰平学校教員・生徒の現在数」『土陽新聞』明治21年(1888年)9月22日号より。
- ^ 「現今華族上流社会の矯正を望む」板垣鉾太郎、(所収『婦人新報』第14号、婦人新報社、19頁)
- ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798399/1
- ^ 明治40年の華族令改正による「相続人が6カ月以内に家督相続の届出をしなければ爵位返上となる」を利用したものである。正当な理由なく襲爵手続きを遅延させることが出来なかったので、「健康不良」を理由として手続きを遅延させた。
- ^ 『板垣会会報』第1号