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乾正祐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
乾正祐の墓
 
乾 正祐
時代 江戸時代
生誕 不明
死没 寛文12年6月12日1672年7月6日
別名 與惣兵衛
墓所 高知県高知市薊野東町(板垣山)
主君 山内忠義忠豊
土佐国高知藩上士
氏族 清和源氏武田氏支流、板垣氏後裔、乾氏
父母 乾正行毛利治郎右衛門の娘
兄弟 正祐正直友正
早崎石見の娘
正方十次郎
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乾 正祐(いぬい まさすけ)は、江戸時代前期の土佐藩上士

禄高は500石。板垣支流乾氏の第3代。通称は與惣兵衛。家紋は「榧ノ内十文字」。

来歴

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土佐藩上士馬廻格・300石)乾正行(金右衛門)の嫡男として高知城下(現高知県高知市)に生まれる。母は毛利治郎右衛門の娘。

土佐藩主山内忠義の時代に、父正行が老年に及び、かつ眼病(白内障)を煩った為、父を補佐することが屡々あり、願い出て父の健在なうちに家督を無相違下し置かれ相続した。

1650年1月20日慶安2年12月18日)父正行が卒去。

1657年3月14日明暦3年1月30日)、土佐藩主山内忠義の時代、伊予松山藩松平定行への使者を仰せ付られて出発し、役目を果たして3月8日(旧暦2月5日)土佐に帰藩した。

1660年1月28日万治2年12月16日)、慶安の変で嫌疑をかけられ約10年間、江戸に留まっていた紀伊和歌山藩藩祖徳川頼宣御国(紀伊)へ国入りする際に、山内忠豊から使者を仰せ付けられ、役目を果たし1月28日(旧暦12月28日)に土佐に帰藩した。

1663年寛文3年)、柄弦御指物役を仰せ付けられる。1668年6月(寛文8年5月)、御弓知を仰せ付けられ役禄100石を下し置かれた。1671年12月(寛文12年1月)土佐藩主山内豊昌の時代、御弓知から鉄砲足軽知(役禄200石)に格上げされ都合500石を治めた。 1672年7月6日(寛文12年6月12日)江戸で病死した。葬儀は曹洞宗青松寺で行われ、墓は土佐国土佐郡薊野村板垣山(現 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)に建てられた。

家族

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家紋(榧之内十文字)
  • 父:乾正行(金右衛門)
  • 母:毛利治郎右衛門の娘
    • 本人:乾正祐(與惣兵衛)
    • 妻:早崎石見の娘
      • 嫡男:乾正方(庄右衛門)
      • 二男:乾十次郎
    • 弟:乾正直(市郎兵衛)
    • 弟:乾友正(源五郎)

補注

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参考文献

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