乾正祐
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛文12年6月12日(1672年7月6日) |
別名 | 與惣兵衛 |
墓所 | 高知県高知市薊野東町(板垣山) |
主君 | 山内忠義→忠豊 |
藩 | 土佐国高知藩上士 |
氏族 | 清和源氏、武田氏支流、板垣氏後裔、乾氏 |
父母 | 乾正行、毛利治郎右衛門の娘 |
兄弟 | 正祐、正直、友正 |
妻 | 早崎石見の娘 |
子 | 正方、十次郎 |
禄高は500石。板垣支流乾氏の第3代。通称は與惣兵衛。家紋は「榧ノ内十文字」。
来歴
[編集]土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正行(金右衛門)の嫡男として高知城下(現高知県高知市)に生まれる。母は毛利治郎右衛門の娘。
土佐藩主山内忠義の時代に、父正行が老年に及び、かつ眼病(白内障)を煩った為、父を補佐することが屡々あり、願い出て父の健在なうちに家督を無相違下し置かれ相続した。
1657年3月14日(明暦3年1月30日)、土佐藩主山内忠義の時代、伊予松山藩主松平定行への使者を仰せ付られて出発し、役目を果たして3月8日(旧暦2月5日)土佐に帰藩した。
1660年1月28日(万治2年12月16日)、慶安の変で嫌疑をかけられ約10年間、江戸に留まっていた紀伊和歌山藩の藩祖徳川頼宣が御国(紀伊)へ国入りする際に、山内忠豊から使者を仰せ付けられ、役目を果たし1月28日(旧暦12月28日)に土佐に帰藩した。
1663年(寛文3年)、柄弦御指物役を仰せ付けられる。1668年6月(寛文8年5月)、御弓知を仰せ付けられ役禄100石を下し置かれた。1671年12月(寛文12年1月)土佐藩主山内豊昌の時代、御弓知から鉄砲足軽知(役禄200石)に格上げされ都合500石を治めた。 1672年7月6日(寛文12年6月12日)江戸で病死した。葬儀は芝の曹洞宗青松寺で行われ、墓は土佐国土佐郡薊野村板垣山(現 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)に建てられた。