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[[536年]]([[大同 (梁)|大同]]2年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]により置かれた南譙州を前身とする。その州治は桑根山の朝陽に置かれた。南譙州は[[新昌郡]]・[[高塘郡]]・[[南梁郡]]・[[臨滁郡]]を管轄した。[[551年]]([[天保 (北斉)|天保]]3年)、[[北斉]]によりその州治は新昌郡[[南譙区|頓丘県]]に移転された<ref>『[[太平寰宇記]]』巻128</ref>。 |
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[[581年]]([[開皇]]元年)、[[隋]]が建国されると、南譙州は滁州と改められた。[[605年]]([[大業]]元年)に滁州は廃止されて、管轄県は[[揚州 (江蘇省)|揚州]]に統合された<ref>『[[隋書]]』地理志下</ref>。 |
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[[620年]]([[武徳]]3年)、[[唐]]が[[杜伏威]]を降伏させると、隋の[[揚州 (江蘇省)|江都郡]][[南譙区|清流県]]に滁州が置かれた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、滁州は永陽郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、永陽郡は滁州の称にもどされた。滁州は[[淮南道]]に属し、清流・[[全椒県|全椒]]・[[来安県|永陽]]の3県を管轄した<ref>『[[旧唐書]]』地理志三</ref>。 |
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[[五代十国]]のとき、滁州は[[呉 (十国)|呉]]および[[南唐]]の統治下に入った。[[956年]]([[顕徳]]3年)、[[後周]]が滁州を攻め落としたが、同年のうちに再び南唐の統治下にもどった<ref>『[[新五代史]]』周本紀</ref>。 |
[[五代十国]]のとき、滁州は[[呉 (十国)|呉]]および[[南唐]]の統治下に入った。[[956年]]([[顕徳]]3年)、[[後周]]が滁州を攻め落としたが、同年のうちに再び南唐の統治下にもどった<ref>『[[新五代史]]』周本紀</ref>。 |
2020年8月20日 (木) 00:35時点における版
滁州(じょしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代から民国初年にかけて、現在の安徽省滁州市一帯に設置された。
概要
536年(大同2年)、南朝梁により置かれた南譙州を前身とする。その州治は桑根山の朝陽に置かれた。南譙州は新昌郡・高塘郡・南梁郡・臨滁郡を管轄した。551年(天保3年)、北斉によりその州治は新昌郡頓丘県に移転された[1]。
581年(開皇元年)、隋が建国されると、南譙州は滁州と改められた。605年(大業元年)に滁州は廃止されて、管轄県は揚州に統合された[2]。
620年(武徳3年)、唐が杜伏威を降伏させると、隋の江都郡清流県に滁州が置かれた。742年(天宝元年)、滁州は永陽郡と改称された。758年(乾元元年)、永陽郡は滁州の称にもどされた。滁州は淮南道に属し、清流・全椒・永陽の3県を管轄した[3]。
五代十国のとき、滁州は呉および南唐の統治下に入った。956年(顕徳3年)、後周が滁州を攻め落としたが、同年のうちに再び南唐の統治下にもどった[4]。
宋のとき、滁州は淮南東路に属し、清流・全椒・来安の3県を管轄した[5]。
1278年(至元15年)、元により滁州は滁州路総管府と改められた。1283年(至元20年)、滁州路は滁州の称にもどされた。滁州は揚州路に属し、清流・全椒・来安の3県を管轄した[6]。
1374年(洪武7年)、明により滁州は鳳陽府に属した。1389年(洪武22年)、滁州は京師に直隷した(南直隷)。滁州は全椒・来安の2県を管轄した[7]。
清のとき、滁州は安徽省に属し、全椒・来安の2県を管轄した[8]。
1912年、中華民国により滁州は廃止され、滁県と改められた。