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2020年8月16日 (日) 06:59時点における版
戎州(じゅうしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から宋代にかけて、現在の四川省宜賓市一帯に設置された。
概要
隋の大業初年、戎州は僰道・犍為・南渓・開辺の4県を管轄した。607年(大業3年)、州が廃止されて郡が置かれると、戎州は犍為郡と改称された[1]。
618年(武徳元年)、唐により犍為郡は戎州と改められ、僰道・犍為・南渓・開辺・存䣖の5県を管轄した。742年(天宝元年)、戎州は南渓郡と改称された。758年(乾元元年)、南渓郡は戎州と改称された。戎州は僰道・南渓・義賓・開辺・帰順の5県を管轄した[2]。
北宋の乾徳年間、開辺・帰順の2県が廃止された。1001年(咸平4年)、戎州は梓州路に属した。1114年(政和4年)、戎州は叙州と改められた[3]。
春秋時代の戎州
本節では、春秋時代に現在の山東省曹県の東南にあった戎州について述べる。春秋時代の戎人の邑であった。紀元前478年、衛の荘公が戎州を破壊した。荘公は石圃の攻撃を受けて、戎州の己氏のもとに逃げ込んだが、己氏に殺害された[4]。
元の戎州
本節では、元代に現在の四川省興文県一帯に設置された戎州について述べる。1285年(至元22年)、大壩都総管を戎州に昇格させた。戎州は馬湖路に属した[5]。1371年(洪武4年)、戎州は戎県に降格された。1573年(万暦元年)、戎県は興文県と改められた[6]。