コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「饒州」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
15行目: 15行目:
|州||colspan="1"|'''江州'''||郡||'''鄱陽郡'''
|州||colspan="1"|'''江州'''||郡||'''鄱陽郡'''
|-
|-
||郡||[[ハ陽郡|鄱陽郡]]||rowspan="2"|県||rowspan="2"|[[ハ陽県|鄱陽県]] [[余干県]] [[弋陽県]]
||郡||[[ハ陽郡|鄱陽郡]]||rowspan="2"|県||rowspan="2"|[[鄱陽県]] [[余干県]] [[弋陽県]]
|-
|-
|県||[[ハ陽県|鄱陽県]] [[陽県|広晋県]] [[徳興市|銀城県]]<br/>[[余干県]] [[余干県|安仁県]] [[上饒県]]<br/>[[弋陽県|葛陽県]]
|県||[[鄱陽県]] [[陽県|広晋県]] [[徳興市|銀城県]]<br/>[[余干県]] [[余干県|安仁県]] [[上饒県]]<br/>[[弋陽県|葛陽県]]
|}
|}



2020年8月11日 (火) 03:52時点における版

饒州(じょうしゅう)は、中国にかつて存在した隋代から初にかけて、現在の江西省上饒市一帯に設置された。

魏晋南北朝時代

553年承聖2年)、南朝梁により江州を分割して置かれた呉州を前身とする。呉州は鄱陽郡を管轄した。568年光大2年)、南朝陳により呉州は廃止され、鄱陽郡は江州に編入された[1]

隋代

589年開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、鄱陽郡は廃止されて饒州が置かれた。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、饒州は鄱陽郡と改称され、下部に3県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。

隋代の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
江州 鄱陽郡
鄱陽郡 鄱陽県 余干県 弋陽県
鄱陽県 広晋県 銀城県
余干県 安仁県 上饒県
葛陽県

唐代

621年武徳4年)、により鄱陽郡は饒州と改められた。742年天宝元年)、饒州は鄱陽郡と改称された。758年乾元元年)、鄱陽郡は饒州の称にもどされた。饒州は江南西道に属し、鄱陽・余干・楽平浮梁の4県を管轄した[3]

宋代

のとき、饒州は江南東路に属し、鄱陽・余干・浮梁・楽平・徳興・安仁の6県を管轄した[4]

元代

1277年至元14年)、元により饒州は饒州路総管府と改められた。饒州路は江浙等処行中書省に属し、録事司と鄱陽・徳興・安仁の3県と余干州浮梁州楽平州の3州を管轄した[5]1361年朱元璋により饒州路は鄱陽府と改称され、江南行省に属した。まもなく鄱陽府は饒州府と改められた。

明代以降

のとき、饒州府は江西省に属し、鄱陽・余干・楽平・浮梁・徳興・安仁・万年の7県を管轄した[6]

のとき、饒州府は江西省に属し、鄱陽・余干・楽平・浮梁・徳興・安仁・万年の7県を管轄した[7]

1912年中華民国により饒州府は廃止された。

脚注

  1. ^ 陳書』廃帝紀
  2. ^ 隋書』地理志下
  3. ^ 旧唐書』地理志三
  4. ^ 宋史』地理志四
  5. ^ 元史』地理志五
  6. ^ 明史』地理志四
  7. ^ 清史稿』地理志十三