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蹴鞠らしきものは、4000年近く前の[[華北]]に展開した[[殷]]の時代の記録に現われ、雨乞いの儀式と結びついて行われていたと言われる<ref name=nakazawa>『精霊の王』中沢新一、講談社学術文庫、2018年、第1章 謎の宿神</ref>。雨が降らないのは天と地のバランスが崩れているからであり、物が天と地の中間である空中に留まり続けることで天と地の媒介となると考え、毬を空中に蹴り上げる儀式を行なうことで、両者のバランスを取り戻そうとしたという<ref name=nakazawa/>。 |
蹴鞠らしきものは、4000年近く前の[[華北]]に展開した[[殷]]の時代の記録に現われ、雨乞いの儀式と結びついて行われていたと言われる<ref name=nakazawa>『精霊の王』中沢新一、講談社学術文庫、2018年、第1章 謎の宿神</ref>。雨が降らないのは天と地のバランスが崩れているからであり、物が天と地の中間である空中に留まり続けることで天と地の媒介となると考え、毬を空中に蹴り上げる儀式を行なうことで、両者のバランスを取り戻そうとしたという<ref name=nakazawa/>。 |
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中国の'''蹴鞠'''<ref>{{commonscat-inline|cuju|中国の蹴鞠}}</ref>(しゅくきく、{{ピン音|cùjú}}、[[国際音声記号|IPA]]: [{{IPA2|tsʰuː˥˩ tɕy˧˥}}])の歴史は紀元前300年以上前の[[田斉|斉]]([[戦国時代 (中国)|戦国時代]])での軍事訓練に遡るとされる。[[漢]]代には12人のチームが対抗して鞠を争奪し「球門」に入れた数を競う遊戯として確立し、宮廷内で大規模な競技が行われた。[[唐]]代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に一個設けられるなどの形になった。この時期、鞠は羽根を詰めたものから動物の[[膀胱]]に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。[[宋 (王朝)|宋]]代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落とさないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。『[[水滸伝]]』で有名な[[ |
中国の'''蹴鞠'''<ref>{{commonscat-inline|cuju|中国の蹴鞠}}</ref>(しゅくきく、{{ピン音|cùjú}}、[[国際音声記号|IPA]]: [{{IPA2|tsʰuː˥˩ tɕy˧˥}}])の歴史は紀元前300年以上前の[[田斉|斉]]([[戦国時代 (中国)|戦国時代]])での軍事訓練に遡るとされる。[[漢]]代には12人のチームが対抗して鞠を争奪し「球門」に入れた数を競う遊戯として確立し、宮廷内で大規模な競技が行われた。[[唐]]代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に一個設けられるなどの形になった。この時期、鞠は羽根を詰めたものから動物の[[膀胱]]に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。[[宋 (王朝)|宋]]代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落とさないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。『[[水滸伝]]』で有名な[[高俅]]は蹴鞠の才によって出世した。また[[モンゴル帝国]]の遠征に伴って[[東欧]]にも伝来したと言われている。 |
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その後、[[明]]初期には貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事を疎かにしたり、娼妓が男たちの好きな蹴鞠を覚えて客たちを店に誘う口実にしたりすることが目立ったため、蹴鞠の禁止令が出され、蹴鞠は女性の遊戯となった。さらに[[清]]における禁止令で中国からはほぼ姿を消した。 |
その後、[[明]]初期には貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事を疎かにしたり、娼妓が男たちの好きな蹴鞠を覚えて客たちを店に誘う口実にしたりすることが目立ったため、蹴鞠の禁止令が出され、蹴鞠は女性の遊戯となった。さらに[[清]]における禁止令で中国からはほぼ姿を消した。 |
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== フィクションの中の蹴鞠 == |
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2020年8月5日 (水) 02:58時点における版
蹴鞠(けまり/しゅうきく)とは、日本の平安時代に流行した球技の一つ。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技である。
本項では、中国にかつて存在した類似した競技についても解説する。
歴史
中国
蹴鞠らしきものは、4000年近く前の華北に展開した殷の時代の記録に現われ、雨乞いの儀式と結びついて行われていたと言われる[1]。雨が降らないのは天と地のバランスが崩れているからであり、物が天と地の中間である空中に留まり続けることで天と地の媒介となると考え、毬を空中に蹴り上げる儀式を行なうことで、両者のバランスを取り戻そうとしたという[1]。
中国の蹴鞠[2](しゅくきく、拼音: 、IPA: [tsʰuː˥˩ tɕy˧˥])の歴史は紀元前300年以上前の斉(戦国時代)での軍事訓練に遡るとされる。漢代には12人のチームが対抗して鞠を争奪し「球門」に入れた数を競う遊戯として確立し、宮廷内で大規模な競技が行われた。唐代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に一個設けられるなどの形になった。この時期、鞠は羽根を詰めたものから動物の膀胱に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。宋代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落とさないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。『水滸伝』で有名な高俅は蹴鞠の才によって出世した。またモンゴル帝国の遠征に伴って東欧にも伝来したと言われている。
その後、明初期には貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事を疎かにしたり、娼妓が男たちの好きな蹴鞠を覚えて客たちを店に誘う口実にしたりすることが目立ったため、蹴鞠の禁止令が出され、蹴鞠は女性の遊戯となった。さらに清における禁止令で中国からはほぼ姿を消した。
日本
蹴鞠は600年代、仏教などと共に中国より日本へ渡来したとされる。中大兄皇子が法興寺で「鞠を打った」際に皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに親しくなり(『日本書紀』)、これがきっかけで645年に大化の改新が興ったことは広く知られている。ただし、「鞠を打つ」=蹴鞠と解釈されたのは、『今昔物語集』『蹴鞠口伝集』などの後世の著作であり、「鞠を打つ」=打鞠(打毬)すなわち今日のポロのような競技であった可能性も否定出来ない[3]。『本朝月令』や『古今著聞集』には、大化の改新の56年後にあたる文武天皇の大宝元年5月5日(701年6月15日)に日本で最初の蹴鞠の会が開かれたと記しており、この頃に蹴鞠が伝来したという説も存在する。
蹴鞠は日本で独自の発達を遂げ、数多の蹴鞠の達人を輩出した(下記「蹴鞠の達人」の章にて紹介)。平安時代には蹴鞠は宮廷競技として貴族の間で広く親しまれるようになり、延喜年間以後急激にその記録が増加することになる。貴族達は自身の屋敷に鞠場と呼ばれる専用の練習場を設け、日々練習に明け暮れたという。辛口の評論で知られる清少納言でさえ、著書『枕草子』のなかで「蹴鞠は上品ではないが面白い」と謳っているほどであった。『蹴鞠口伝集』には、毬を落とした責任を感じて逃げた者や蹴り数が百以上続いたところで「もし落としたら」と考えただけで逃げ出した者が紹介されており、当時の貴族が蹴鞠をいかに真剣にとらえていたかを示している[4]。藤原道長も、とにかく毬を落とさず蹴り続けることを目的とすると記している[4]。そのためには身体の訓練だけでなく、心の構えが重要であると口伝書は説き、蹴鞠がうまい人はそうしたことが十全にできる人としてみなされた[4]。
蹴鞠は貴族だけに止まらず、武家、神官はては一般民衆に至るまで老若男女の差別無く親しまれた。蹴鞠の達人は「名足」(めいそく)と讃えられた。藤原成通は、蹴鞠をしながら清水の舞台の欄干上を往復したとの伝承が残る[3](「蹴鞠の達人」参照)。同じく平安後期に後白河院に仕えた藤原頼輔の名声も高く、子孫がこれを良く伝えたために難波・飛鳥井両家は蹴鞠の家として知られるようになった。蹴鞠に関する種々の制度が完成したのは鎌倉時代で、以降近代に至るまでその流行は衰えることは無かった。
室町時代には、幕府将軍の足利義満や義政が蹴鞠を盛んに行ったこともあり、蹴鞠は武家の嗜みとされた。足利義輝は永禄2年(1559年)に大友義鎮を九州探題、伊達晴宗を奥州探題に任命してから、翌年に飛鳥井雅教を大友のもとにやり、その翌年には伊達のもとに行かせた。両人に蹴鞠を教えさせ、蹴鞠を仲立ちにした関係強化を図ったものとされる[5]。土佐の戦国大名・長宗我部元親が天正2年(1574年)に定めた『天正式目』では、武士がたしなむべき技芸として、和歌や茶の湯、舞や笛などとともに蹴鞠が挙げられている。島津家家臣の上井覚兼が天正年間に記した日記『上井覚兼日記』には島津家で盛んに蹴鞠が行われていることが描かれており[6]、上井覚兼自身も蹴鞠の上手であった。 しかし、織田信長が相撲を奨励したことで、織豊時代が進むにつれて蹴鞠の人気は次第に終息していったといわれる。
江戸時代前半に、中世に盛んだった技芸のいくつかが町人の間で復活したが、蹴鞠もその中に含まれる[7]。公家文化に触れることの多い上方で盛んであり、井原西鶴は『西鶴織留』で町民の蹴鞠熱を揶揄している。江戸後期には蹴鞠は曲芸の一種ともなり、天保期の『藤岡屋日記』には、手まり太夫菊川国丸の曲鞠興業の様子が記述されている。
ルール
蹴鞠は、懸(かかり)または鞠壺(まりつぼ)と呼ばれる、四隅を元木(鞠を蹴り上げる高さの基準となる木。)で囲まれた三間程の広場の中で実施される。1チーム4人、6人または8人で構成され、その中で径7寸から8寸の鞠をいくたび「くつ」(沓)をはいた足で蹴り続けられるかを競った団体戦と、鞠を落とした人が負けという個人戦があった。
その場所には砂を敷き、四隅、艮(東北)に桜、巽(東南)に柳、坤(西南)に楓、乾(西北)に松を植える。周囲の鞠垣は本式では7間半四方、広狭で3間四方までにする。東に堂上(どうじょう)の入り口、南に地下(じげ)の入り口、西に掃除口がある。懸の樹木はウメ、ツバキなど季節のものを用いることもあり、その樹と鞠垣との間を野という。禁裏、仙洞、皇族、将軍家ならびに家元はマツばかり4本、また臨時には枝または竹を用い、切立(きりたち)という。
開始には、まず下﨟の者が第四の樹の下から斜めに進み、中央から3歩ほどの所で跪き、爪先で進み、鞠を中央に置く。
一座の中に師範家がいると第一の上座、すなわち一の座、または軒というのを、その人に譲り、第二、第三と身分に従って懸にはいり、樹の下に立つ。ただし高貴な人がいると軒を譲り、師範家は第二となる。禁裏、仙洞などで御前ならば皆が蹲踞し、他の家ならば堂上は立ち、地下は蹲踞する。人数が揃ったら第一から立ち、立ち終わると、第八の者が進み、中央に置かれた鞠から3歩ほど手前で蹲い、蹲いながら進み、右手拇指と人差指とで執皮を摘み、鞠を右に向け、左手を添え、腰皮を横に、ふくろを上下にし、蹲ったまま3歩退いて立つ。第七の者が進み出て、中央から3歩ほどの所に立って第八に向かうと、第八から第七に鞠を蹴渡す。第七から第一、第二、第三、第四、第五、第六、第七、第八と一巡、蹴渡しおわると、第八からまた第一すなわち軒に渡す。軒は受けて上鞠(あげまり)といって高く蹴る。それから随意に蹴る。1人3足が普通で、1は受け鞠、2は自分の鞠、3は渡す鞠である。8人立ちのときは、八境といって中央から8個に区分し、1区を1人の区域とし、その域外に蹴出すとその区域の者が受けて蹴る。
用語
- 懸
- 蹴鞠を行う競技場
- 元木
- 懸の四方に植えられた柳(東南)、桜(東北)、松(西北)、楓(西南)などの植木。高さは一丈五尺以下で、鞠を蹴り上げる為の基準となった。「きりたて」ともいう。
- 鞠足
- 蹴鞠を行うプレイヤー。名プレイヤーを名足、下手な人を非足と呼んだ。
- 野伏
- 外に出た鞠を中へ蹴り返す補助役。
- 見証
- 審判。
- 上鞠
- サッカーでいえばキックオフのこと。基本的に上鞠を行うことは非常に名誉なことであった。
- 請鞠
- 日暮や天候変化などにより、やむなく試合を中断すること。
鞠
蹴鞠の鞠は革製で、中空である。鹿の滑革(ぬめかわ)2枚を繋ぎ合わせ、その重なる部分を、腰革、また「くくり」という。また取革といって、別に紫革の細いのを刺し通す。閉じ合わせは馬の背筋の革を用いる[3]。
種類は、白鞠、生地鞠、燻鞠、唐鞠がある。白鞠は鞠を白粉で塗ったもの。生地鞠は生地のままのもので、白鞠に対する。燻鞠は燻革で製したもの。唐鞠は五色の革を縫いあわせて製し、中国から伝来したときの鞠のかたちであるという。
『今川大草紙』によれば、「鞠皮は、春二毛の大女鹿の中にも、皮の色白で、爪にて押せば、しわのよる皮を上品とする也」という。
革の縫いかた、取革については、『遊庭秘抄』に、
「洛中に、河原院、又あまべとて、此の二ヶ条ならでは鞠くくりなし。河原院のまり、いかにもまさり、かた穴二つある鞠也。あまべの鞠は、かた穴二つある鞠也。縫ふ様は、針目も、又革も、五見え侍る様に、縫ふべし。或は七にも縫ふ也。韈の革の同色ならん革を、二分計に細く切つて、強くのして、かた穴の頭に穴をあけて、穴の中より革を引出して(革の先を結ぶべし)、かた穴の左の方に穴二つ、右の方に穴二をあけて、穴より入て小穴より出引て、はこの方を結で、かた穴の中(ままこひたひのそばなり)へさし入べし(両方如レ此)、取革といふ五分許の革を取、革の座敷に入とをして、両方の革のはたに穴をあけて、一方をさし入侍れば、革かいさまになるを、続飯にてつけて、さきをそとば頭に切也。取革付けぬ鞠は、今に忌中の鞠に取革付侍ぬ也。可レ得二其意一」(一、二、レは、返り点。)
という。
訓練
練習には、鞠を用いないシャドウ・トレーニングの「空鞠」、通常より小さい小鞠を使って部屋の隅の壁に蹴りあて、跳ねかえってきたものをまた蹴りもどす「隅の小鞠」、桶を頭上に吊るしておき、 直下から鞠を蹴りあげてそれに入れることを狙う「桶鞠」などがあった[4]。これらを経て、また実際に鞠場に立って経験を積むことによって、はじめて鞠の不可測な動きに対処する敏捷性が養われ、そのはてに獲得される足には「足魂」が宿り、頭上の枝に当たって強く跳ねかえった鞠を咄嗟に足を延ばして蹴り上げる「突延」と呼ばれる高度な技術も自然にできるようになるとされた[4]。
蹴鞠の達人
各時代において多数の名足を生み出したが、平安後期の藤原成通は特に希代の名人と言われ、後世の蹴鞠書でも「蹴聖」と呼ばれている。
成道は順徳天皇の『禁秘抄』の中でも「末代の人の信じがたいほどの技芸」と書き記され、清水の舞台の欄干の上を鞠を蹴りながら何度も往復した、とか、従者たちを並ばせてその頭や肩の上でリフティングをしたが従者たちは誰も気付かなかった、など、信じがたいエピソードが数多く残っています。[8]
成通が蹴鞠の上達のために千日にわたって毎日蹴鞠の練習を行うという誓いを立てた。その誓いを成就した日の夜のこと、彼の夢に3匹の猿の姿をした鞠の精霊が現れ、その名前(夏安林(アリ)、春陽花(ヤウ)、桃園(オウ))が鞠を蹴る際の掛声になったと言われている。この3匹の猿は蹴鞠の守護神として現在、大津の平野神社と京都市の白峯神宮内に祭られている。また、その名前から猿田彦を守護神とする伝承もあった事が『節用集』に書かれている。
蹴鞠を家業とする家
公家の流派のうち難波流・御子左流は近世までに衰退したが、飛鳥井流だけはその後まで受け継がれていった。飛鳥井家屋敷の跡にあたる白峯神宮の精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在では蹴鞠保存会の稽古場でもあり、「サッカー神社」とも称される[3]球技・スポーツの神とされている。毎年4月14日と7月7日には蹴鞠奉納が行われる。
下鴨神社では現在でも毎年1月4日に「蹴鞠はじめ」が行われている。日本サッカー協会のシンボルマークのモチーフでもある「八咫烏」は下鴨神社の祭神「賀茂建角身命」の化身とされる。
堂上と地下
蹴鞠の流派は難波・御子左・飛鳥井の堂上家のみだったが、正安4年(1302年)の資料によると、賀茂神社の神主など、昇殿を許されていない地下(じげ)の者で蹴鞠を教える流派が現われた(地下毬)[9]。応永から享徳の間(15世紀前半)に難波流・御子左流が絶えると、蹴鞠は飛鳥井家の門の独占となったが、賀茂系の松下氏などは私的に教えた[9]。これを受けて飛鳥井家は将軍家に訴えて松下氏の教授を禁止する令を何度も出させたが、慶長(17世紀初頭)の頃まで争いは続いた[9]。飛鳥井家は毬装束の制を作って地下との差別化を図ったが、別の地下毬も起こった[9]。寛永正保の頃(17世紀半ば)に外良右近という蹴鞠のうまい人物が現われ、京阪や江戸で興行したが、卑賤の町人に見せたとして師範の飛鳥井家から幕府に訴えられ伊豆大島に遠流された[10]。
蹴鞠を得意とする人々
- 坂上是則
- 土御門天皇
- 順徳天皇
- 後嵯峨天皇
- 後深草天皇
- 亀山天皇
- 後宇多天皇
- 伏見天皇
- 後伏見天皇
- 藤原実資
- 藤原師通
- 藤原成通
- 源頼家
- 源実朝
- 足利義満
- 足利義政
- 織田信長 趣味は舞と小唄。相撲を勧めたので蹴鞠の人気が落ちた[11]。
- 豊臣秀吉
- 今川氏真
- 島津忠恒
- 崇徳天皇
- 明治天皇 自身も蹴鞠をし、教えもした。蹴鞠の作法を知る人が少なくなったのを憂い「蹴鞠を保存せよ」との勅命と下賜金でもって1907年5月7日に飛鳥井家の蹴鞠を伝える蹴球保存会が梅渓道善(うめたにみちとう)を初代会長に発足させた[12]。
近現代
明治天皇の働き掛けもあって命脈が保たれ、21世紀においても愛好者により続けられている。主流の作法は8人または6人で行い、右脚の膝を伸ばしたまま、「アリ」「ヤア」「オウ」と掛け声をしながら、親指の付け根を鞠に当てる。勝敗は競わず、相手が蹴りやすいように鞠を送る。時間制限はないが、15分間ほど互いに蹴り続ける。鞠を蹴り上げる高さは一丈五尺が理想とされ、蹴った時の音(ね)や鞠の回転(色)の良さも追求する。後ろ向きに蹴るのは不作法とされる。装束は立烏帽子、鞠水干、鞠袴、鴨沓を身に着ける[3]。
一方で、貴族らによる優雅な遊戯になる前の蹴鞠は、元々は勝敗を争う球技であったと解釈して、相手陣地に鞠を落とすことを競う「万葉蹴鞠」がNPO法人奈良21世紀フォーラムにより復元されている[3]。
神社
- 下鴨神社(1月の蹴鞠初め)
- 上賀茂神社(2月の紀元祭)
- 白峯神宮(4月の春季例大祭、7月の精大明神例祭)
- 談山神社(4月の春のけまり祭、11月のけまり祭)
- 金刀比羅宮(5・7・12月)
- 藤森神社(6月の紫陽花まつり)
- 平野神社(8月の蹴鞠奉納祭)
- 阿為神社(11月の蹴鞠奉納)
フィクションの中の蹴鞠
- 水滸伝 - 最大の敵役である高俅は、蹴鞠の技巧で皇帝を魅了し、破格の出世を遂げる。
- 蹴鞠師 - 関ジャニ∞青春ドラマシリーズの一編。
脚注
- ^ a b 『精霊の王』中沢新一、講談社学術文庫、2018年、第1章 謎の宿神
- ^ ウィキメディア・コモンズには、中国の蹴鞠に関するカテゴリがあります。
- ^ a b c d e f g (文化の扉)蹴鞠、「和の精神」に通ず/相手思いやり、勝敗なし■「古くは競技」の解釈も『朝日新聞』朝刊2018年11月26日(2019年9月20日閲覧)
- ^ a b c d e 蹴鞠の哲学、または地を這う貴族たち ―院政期精神史のひとつの試み(三) 尾形弘紀、中央大学文学部紀要 哲学59号、2017-02-22
- ^ 佐々木徹 著「戦国期奥羽の宗教と文化」、遠藤ゆり子 編『伊達氏と戦国争乱』吉川弘文館、2016年、239頁。
- ^ 渡辺融 「フットボール、昔と今」
- ^ 増川宏一『合わせもの』法政大学出版局〈ものと人間の文化史〉、2000年、126-129頁。ISBN 4588209418。
- ^ “そもそもルールが全く違う?日本サッカーの意外すぎる歴史とは?”. 初心者女子のためのスポーツメディア♡ | spoitスポイト. 2020年6月13日閲覧。
- ^ a b c d 蹴鞠『国史大辞典. 第2 かーこ』 八代国治等編、吉川弘文館、大正14-15
- ^ 『見世物研究』春陽堂, 1928、p16
- ^ 池 2014, p. 22.
- ^ 池 2014, p. 23.
参考文献
- 永井久美子 著「後白河院政期における蹴鞠-院近臣との関係を中心に-」、義江彰夫 編『古代中世の史料と文学』吉川弘文館、2005年。ISBN 978-4-642-02444-0。
- 池修『日本の蹴鞠』光村推古書院、2014年。ISBN 978-4-8381-0508-3。
関連項目
外部リンク
- 蹴鞠 - 宮内庁
- 蹴鞠保存会 - ウェイバックマシン(2018年11月5日アーカイブ分)
- 『蹴鞠』 - コトバンク
- 蹴鞠とは - Weblio辞書
- 蹴鞠-日本文化いろは事典
- 蹴鞠『古今著聞集』第11巻
- 蹴鞠部『群書類従. 第拾貳輯』353-355巻、塙保己一編(経済雑誌社、1893-1894年)
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