「台東県」の版間の差分
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嘉慶年間になると、台湾の人口は200万人を超え、西部平野部は開発されつくされ、それ以降は台湾東部への進出が不可欠となった。[[1804年]]に[[屏東県|屏東]][[小琉球]]の陳必先が火焼島(現在の[[緑島]])に上陸し、'''公館'''を建設したのが漢人による東部開拓の開始である。[[1820年]]ころになると、小琉球の漁民30余名が火焼島に上陸し、'''中寮'''という集落を形成するなど、地道な入植が進められた。[[1860年]]頃になると水底寮(現在の[[屏東県]][[枋寮郷]])の商人である'''鄭尚開'''が台東平野に入植し稲作を開始、また'''宝桑庄'''という拠点を築き、これが現在の台東市の発祥となっている。その後も猴仔蘭(カワラン)、知本(テポル)、呂家(リカ)、卑南(ピユマ)、里壠(リラン、現在の[[関山鎮]])、成広澳(現在の[[成功小港]])への入植が進み、[[1873年]]には打狗(現在の[[高雄市]])の間に便船が設けられた。 |
嘉慶年間になると、台湾の人口は200万人を超え、西部平野部は開発されつくされ、それ以降は台湾東部への進出が不可欠となった。[[1804年]]に[[屏東県|屏東]][[小琉球]]の陳必先が火焼島(現在の[[緑島]])に上陸し、'''公館'''を建設したのが漢人による東部開拓の開始である。[[1820年]]ころになると、小琉球の漁民30余名が火焼島に上陸し、'''中寮'''という集落を形成するなど、地道な入植が進められた。[[1860年]]頃になると水底寮(現在の[[屏東県]][[枋寮郷]])の商人である'''鄭尚開'''が台東平野に入植し稲作を開始、また'''宝桑庄'''という拠点を築き、これが現在の台東市の発祥となっている。その後も猴仔蘭(カワラン)、知本(テポル)、呂家(リカ)、卑南(ピユマ)、里壠(リラン、現在の[[関山鎮]])、成広澳(現在の[[成功小港]])への入植が進み、[[1873年]]には打狗(現在の[[高雄市]])の間に便船が設けられた。 |
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[[1871年]]、台風にて台湾東部に[[琉球]]漁船が漂着し、66名が[[恒春半島]]の八瑤湾に上陸したが、牡丹社の住民により殺害された([[牡丹社事件]])。当時琉球の[[宗主権]]問題で清と対立していた日本政府が出兵する[[台湾出兵]]に繋がる事件である。清側で事件の処理を担当した福建海防大臣・[[ |
[[1871年]]、台風にて台湾東部に[[琉球]]漁船が漂着し、66名が[[恒春半島]]の八瑤湾に上陸したが、牡丹社の住民により殺害された([[牡丹社事件]])。当時琉球の[[宗主権]]問題で清と対立していた日本政府が出兵する[[台湾出兵]]に繋がる事件である。清側で事件の処理を担当した福建海防大臣・[[沈葆楨]]は日本軍撤兵後に台湾経営に着手し、[[北洋大臣]]の[[李鴻章]]に対し台湾の東部地区を資源豊富な地域と報告すると同時に、その防衛の重要性を建議、これより清による積極的な東部開発が進行した。[[1875年]]には台南に設置していた南路撫民理番同知を卑南に移し、その下に[[撫墾局]]、また同時に卑南庁を設置し、台湾東部の直接統治に着手している。また[[1877年]]には[[緑島]]、[[蘭嶼]]を正式に清の版図に編入、[[1884年]]には台湾省を新設するなどその統治体制は台東地区に浸透していった。 |
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[[1895年]]の[[下関条約]]により台湾が日本に割譲されると、台湾原住民による抗日活動が行われたが、[[1897年]]には日本軍はこれを完全に平定、台湾に6県3庁を設置し、台東地区には[[台東庁]]が設けられ、その下に卑南、水尾、奇萊の三弁務署が設置された。[[1909年]]には台東庁より花蓮に独立した花蓮港庁が設置され、台東庁は現在の台東県を管轄するようになった。この時の行政区分が現在でも用いられている。 |
[[1895年]]の[[下関条約]]により台湾が日本に割譲されると、台湾原住民による抗日活動が行われたが、[[1897年]]には日本軍はこれを完全に平定、台湾に6県3庁を設置し、台東地区には[[台東庁]]が設けられ、その下に卑南、水尾、奇萊の三弁務署が設置された。[[1909年]]には台東庁より花蓮に独立した花蓮港庁が設置され、台東庁は現在の台東県を管轄するようになった。この時の行政区分が現在でも用いられている。 |
2020年7月26日 (日) 10:38時点における版
別称: - | |
地理 | |
---|---|
位置 |
北緯21°56'-23°26' 東経120°44'-121°37' |
面積: | 3,515.2526 km² |
各種表記 | |
繁体字: | 臺東縣 |
日本語読み: | たいとうけん |
拼音: | {{{pinyin}}} |
ウェード式: | T'ai²-tung¹ Hsien⁴ |
注音符号: | ㄊㄞˊ ㄉㄨㄥ ㄒㄧㄢˋ |
片仮名転写: | タイドンシェン |
客家語: | Thòi-tûng-yen |
パイワン語: | Valangaw |
行政 | |
| |
行政区分: | 県 |
上位行政区画: | 台湾省 |
下位行政区画: | 1市2鎮13郷 |
台東県長: | 黄健庭 |
公式サイト: | 台東県政府 |
情報 | |
総人口: | 217,074[1] 人(2019年10月) |
世帯数: | 83,223[1] 戸(2019年10月) |
郵便番号: | 950~966 |
市外局番: | 089 |
台東県の木: | 樟樹 |
台東県の花: | 胡蝶蘭 |
台東県(タイドン/たいとう けん)は、台湾の南東部にある県。県政府所在地は台東市。
地理
台東県は台湾の東南、東を太平洋、西を平均標高2,500メートルの中央山脈を臨む位置にある。面積は3,515.2526km2であり、台湾の全面積の9.78%を占めている。フィリピン海プレートとユーラシアプレートの造山作用により形成された地形は平地に乏しい急嶮な地形であり、またサンゴ礁によって形成された海洋地形がその特徴である。
歴史
台東地区が歴史史料の中で最初に確認できるのは、オランダ統治時代の1636年である。大航海時代と称された当時ポルトガル、スペイン、オランダが新たな市場を求めで台湾に来航した。オランダは1624年、大員(現在の台南安平)にゼーランディア城(Zeelandia)を築城し、台湾南部への支配を開始した。1636年、瑯嶠社(現在の恒春)の族長が卑南覓(現在の台東)支配への協力を商館員に行い、オランダは中尉のジャン・ジュリアンソン(Jan Jeuriaensen)を派遣し現地調査を実施、その後マーテン・ウェスリン(Marten Wesselingh)を卑南覓に長期駐留させたとの記録があり、これが現段階の史料における台東の初見である。
その後ウェシリンが現地民によって殺害される事件が発生する。1642年、オランダは数度にわたり軍を派遣した。その後オランダは台湾を北部、南部、淡水、東部に分割し、その下に地方会議(Landdagh)を設置し、オランダの統治を受けた族長による支配体制を確立し、1655年までに東部43社がオランダの支配に置かれた。また経済面では瞨社制度を確立し、漢人商人を経由して原住民の鹿皮の専売権を確保している。
1661年に鄭成功が台湾からオランダ勢力を駆逐すると、台湾は反清復明の基地としての性格を帯びるようになる。鄭政権はその支配範囲を南部一帯に主眼を置き、東部はオランダ統治方式を踏襲し、各社に土官を設置し自治を認め、間接統治を実施した。当時卑南覓の46社が支配下に置かれた。
1683年、清朝により台湾が平定されると、清は施琅を派遣し、台廈道経理およびその下に一府三県を設置したが、台湾東部に関しては明確な統治を行えるだけの知識を得ていなかった。当初は鄭政権の統治体制を踏襲し、1696年には卑南覓など65社が入貢し、大清子民としての地位を与えられ、卑南王に冊封ことで台湾東部の名義的な統治権を維持していた。清の官人が実際に東部に進出するのは1721年、朱一貴の反乱に際してである。清はその残党と追捕するため、台湾東部に鄭惟蒿、林天作および通訳の章旺を卑南覓に派遣し、現地の社の協力を得て朱の残党を捕らえている。
嘉慶年間になると、台湾の人口は200万人を超え、西部平野部は開発されつくされ、それ以降は台湾東部への進出が不可欠となった。1804年に屏東小琉球の陳必先が火焼島(現在の緑島)に上陸し、公館を建設したのが漢人による東部開拓の開始である。1820年ころになると、小琉球の漁民30余名が火焼島に上陸し、中寮という集落を形成するなど、地道な入植が進められた。1860年頃になると水底寮(現在の屏東県枋寮郷)の商人である鄭尚開が台東平野に入植し稲作を開始、また宝桑庄という拠点を築き、これが現在の台東市の発祥となっている。その後も猴仔蘭(カワラン)、知本(テポル)、呂家(リカ)、卑南(ピユマ)、里壠(リラン、現在の関山鎮)、成広澳(現在の成功小港)への入植が進み、1873年には打狗(現在の高雄市)の間に便船が設けられた。
1871年、台風にて台湾東部に琉球漁船が漂着し、66名が恒春半島の八瑤湾に上陸したが、牡丹社の住民により殺害された(牡丹社事件)。当時琉球の宗主権問題で清と対立していた日本政府が出兵する台湾出兵に繋がる事件である。清側で事件の処理を担当した福建海防大臣・沈葆楨は日本軍撤兵後に台湾経営に着手し、北洋大臣の李鴻章に対し台湾の東部地区を資源豊富な地域と報告すると同時に、その防衛の重要性を建議、これより清による積極的な東部開発が進行した。1875年には台南に設置していた南路撫民理番同知を卑南に移し、その下に撫墾局、また同時に卑南庁を設置し、台湾東部の直接統治に着手している。また1877年には緑島、蘭嶼を正式に清の版図に編入、1884年には台湾省を新設するなどその統治体制は台東地区に浸透していった。
1895年の下関条約により台湾が日本に割譲されると、台湾原住民による抗日活動が行われたが、1897年には日本軍はこれを完全に平定、台湾に6県3庁を設置し、台東地区には台東庁が設けられ、その下に卑南、水尾、奇萊の三弁務署が設置された。1909年には台東庁より花蓮に独立した花蓮港庁が設置され、台東庁は現在の台東県を管轄するようになった。この時の行政区分が現在でも用いられている。
日本統治時代、台東地区では林業と農業を積極的に興業し、1904年の賀田組、1910年の塩水港製糖株式会社、1912年の台湾製糖株式会社、1919年の花蓮木材株式会社等の企業が進出し、蔗作、製糖、林業、樟脳を主とする産業が誕生している。この産業発展にあわせて1914年には台湾銀行台東支行が開設され、金融発展でも大きな進捗が見られた。
1945年、日本の敗戦により台湾は中華民国の統治下に置かれ、台東には台東県が設置され現在に至っている。
県民
台湾の県では最も原住民の比率が高く、全体の半分は原住民である。
歴代県長
行政区画
区分 | 数 | 名称 |
---|---|---|
市 | 1 | 台東市 |
鎮 | 2 | 成功鎮 | 関山鎮 |
郷 | 13 | 卑南郷 | 大武郷 | 太麻里郷 | 東河郷 | 長浜郷 | 鹿野郷 | 池上郷 | 緑島郷 | 延平郷 | 海端郷 | 達仁郷 | 金峰郷 | 蘭嶼郷 |
対外関係
姉妹自治体・提携自治体
教育
大学
技術学院
高中・高職以下の教育機関は下部行政区域の項目を参照
交通
- 航空
- 海運
- 鉄道
- 道路
特産品
- 釈迦頭
- 釈迦頭は別名を番茘枝とも言い、台東地区で栽培に成功した作物の代表格である。7月から翌年1月にかけてが収穫期であり、果実として出荷される他、アイスクリームの原料としての需要もある。
- 池上米
- 台湾で最も品質がよいとされているコメである。池上・関山地区には工業地帯が無いため、用水の水質が良い上に、気候・地質も稲作に適したことから特に味に優れている。このコメを使用した池上および関山駅の駅弁も有名である。
- 胡蝶蘭
- 胡蝶蘭は熱帯および亜熱帯を原産とする花であり、台東では蘭嶼で最もはやく栽培された。現在ではその栽培は台東錢機に及び、春になると胡蝶蘭が一面に開花する光景を見ることが出来る。
- 茶葉
- 鹿野地区は台東を代表する茶葉の産地である。開けた台地に茶畑が広がり、ここで生産される福鹿茶は評価が高い。最近では太峰茶という新品種も開発されている。
観光地
脚注
- ^ a b 中華民國內政部戶政司 (2018年5月1日). “中華民國 內政部戶政司 全球資訊網”. 中華民國內政部戶政司. 2019年11月14日閲覧。
関連項目
外部リンク
- ウィキトラベルには、台東県に関する旅行ガイドがあります。
- 台東県に関連する地理データ - オープンストリートマップ
- 台東県政府