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*:韓国併合後に授爵 |
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2020年7月22日 (水) 04:44時点における版
伯爵(はくしゃく、仏: comte、英: count, earl、独: Graf)は、爵位の一つである。侯爵の下位、子爵の上位に相当する[1]。
漢字表現の「伯爵」は中国で使われていた名称で、近代日本の華族の五爵第3位として採用され、転じて古代ローマ帝国の役職名にまで起源を遡るヨーロッパの貴族の称号の日本語訳、中国語訳にも用いられるようになった。
欧州の伯爵
欧州の爵位で、「伯爵」と翻訳されることが一般的なもの、翻訳されることがあるもの。
- 欧州のロマンス諸語圏(つまりイタリア、フランス、スペインなど)における伯爵相当。
古代ローマ帝国においては、帝国の高官[2]。 欧州のロマンス語圏、つまりイタリア、フランス、スペインなど巨大な古代ローマ帝国の本国および属州であった国々の伯爵相当の語は、古代ローマ帝国の「comes コメス」(複数形は「comitis コミティス」)、つまり、ラテン語でローマ帝国属州の政務官の補佐役を指した語に起源を持つ爵位であり、初期のローマ皇帝による各地の統治に起源を持つ爵位である。
- (伯#ヨーロッパ大陸も参照。)
- その他、ヨーロッパ北部の国々
- なおイツではGrafと付く爵位は下記のように多数あるが、地位はそれぞれ異なる。
中国の伯爵
西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「伯」は五つある爵の上から三番目に位置づけている[3]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、伯は大夫が受けるものとしている[4]。『礼記』・『孟子』とともに伯は七十里四方の領地をもつものと定義している[4]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[5]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[6]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[7]。
漢代においては二十等爵制が敷かれ、「伯」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、伯の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[8]。食邑は大国なら千二百戸、六十里四方の土地、次国なら千戸、五十五里四方の土地が与えられることとなっている[8]。その後西晋および東晋でも爵位は存続している[9]。
南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[10]。
主要な中国の伯爵
竹林の七賢の一人である山濤は、武帝受禅の際に子から伯(新沓伯)へ陞爵している[11]。また当時の晋王司馬昭の弟であった司馬亮、司馬伷らも咸熙元年に「伯」の爵位を受けているが、晋王朝成立後はいずれも諸侯王となった[12]。
日本の伯爵
- 皇族
- 皇族の臣籍降下に伴って与えられた爵位は侯爵または伯爵である。時期によって叙爵方針に差異が存在する。
- 皇室典範制定前に様々な事象により離脱した皇族は、宮家から最初に離脱した者でも伯爵に叙された(家教王は、明治維新前に一度臣籍降下し、復籍後再度離脱している)。
- 上記の例に類似した例として、上野家と二荒家は北白川宮能久親王の落胤として臣籍から一度皇籍に入り、再度臣籍降下して伯爵に叙されている。
- 皇室典範制定前は明治維新以前の運用方針により四世襲親王家当主以外は臣籍降下し華族に列するとしたが、家教王以外に事例は無く、間もなく典範制定により永世皇族制が採用され原則として男子の臣籍降下は無くなった。上野・二荒の二例は皇族内規を準用した例外的な運用である。
- 皇室典範が増補された1899年(明治32年)以降臣籍降下制度が典範に正式に制定された。これ以降は原則として離脱した皇族は侯爵に叙されている。
- しかし増補後も臣籍降下が進まず皇室財政の圧迫が懸念され「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定された1920年(大正9年)以降、降下前の宮家から二人目以降の降下である場合、通常伯爵が与えられた。
- 公家
- 武家
- 徳川旧御三卿、旧中藩知事(現米五万石以上)
- 御三卿 - 清水徳川家(後爵位返上)、田安徳川家、一橋徳川家
- 大名家 - 備後福山藩阿部家、筑後久留米藩有馬家、近江彦根藩井伊家、出羽米沢藩上杉家、豊前小倉藩小笠原家、豊前中津藩奥平家、播磨姫路藩酒井家、出羽庄内藩酒井家、若狭小浜藩酒井家、筑後柳河藩立花家、伊予宇和島藩伊達家(後侯爵)、陸奥仙台藩伊達家、陸奥弘前藩津軽家、伊勢津藩藤堂家、美濃大垣藩戸田家、豊後岡藩中川家、陸奥盛岡藩南部家、伊予松山藩久松家、下総佐倉藩堀田家、越中富山藩前田家、越前福井藩松平家(後侯爵)、出雲松江藩松平家、上野前橋藩松平家、讃岐高松藩松平家、越後新発田藩溝口家、大和郡山藩柳沢家、対馬厳原藩宗家、肥前平戸藩松浦家
- 陞爵 - 肥前大村藩大村家、石見津和野藩亀井家、信濃松代藩真田家、日向佐土原藩島津家、信濃龍岡藩大給家
- その他
- 新華族
- 国家ニ勲功アル者
- 朝鮮貴族
- 韓国併合後に授爵
- 上記のうち、公家の1及び2、武家の1及び2、新華族の1が1884年(明治17年)の華族制度発足とともに伯爵を授爵された家である。
- 武家2のうちで太字となっているものは、内規(現米5万石以上)を満たしていないにもかかわらず特別な事情により伯爵を授爵した家である。朝鮮との外交を担ってきた宗家は国主・十万石格の家格をもっていたことが、松浦家は9代藩主松浦清の11女・中山愛子が明治天皇の生母中山慶子の母にあたり外戚であることが、それぞれ配慮されたと言われている。
- 公家3、武家3、新華族3は勲功によって子爵から陞爵された家である。ただし新華族3において斜字となっている家は男爵から直接伯爵に陞爵された。また新華族2のカテゴリーは、華族制度発足の際には授爵されなかったが、1884年(明治17年)以降に伯爵を陞爵ではなく直接与えられた家を意味している。
- 貴族院へは伯爵同士の互選により伯爵議員を選出した(華族議員)。
ロマンス語圏の伯爵
巨大な古代ローマ帝国の本国、および属州であった各国の伯爵について解説する。
イタリアの伯爵
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フランスの伯爵
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スペインの伯爵
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イギリスの伯爵
- 歴史
そもそも爵位の歴史を理解するためには、ヨーロッパ全体の歴史を知らなければならない。ヨーロッパというのは古代ローマ帝国時代、帝国の「本国」域に当たるイタリア半島に近い地域ほど文明が進んでいて、帝国の端、辺境に行けば行くほど「野蛮」な地域で社会制度も整っていない、とされたわけで、イギリスは歴史をたどれば、もともとローマ帝国の辺境に位置し「野蛮」とされた地域であり、イギリスの爵位の体系の歴史というのは、ヨーロッパの中では相対的には歴史が浅い。とはいえ、エドワード懺悔王(在位:1042年-1066年)の代にはすでに貴族の爵位の原型があったようである。
なお、フランスで1789年にフランス革命が起き共和制となり、中世の貴族制度はアンシャン・レジーム(「旧体制」)として廃止され、他のヨーロッパ諸国の多くの国でも続々と共和制や民主主義が取り入れられ、貴族制度は実質的に廃止され、爵位を名乗る人々は消えていったわけなので、その後になって爵位が、旧態然と王政・貴族制を残してしまった国で爵位を名乗る人のことばかり指すようになってしまい、本当は貴族らしく歴史が長く由緒正しいのはヨーロッパの南方のほうの貴族だったのだが、北方の(かつての「ローマ帝国の辺境」で「野蛮人の地」で)、結果として、現代でも(文明国らしい、人間を全て平等に重んじる制度を取り入れられず)王政を残してしまった国々の爵位の存在感が、ここ200年ほど、相対的に増したわけである。イギリスはそうした国のひとつである。
さて、イギリスでの爵位や伯爵の歴史に話を戻すと、エドワード懺悔王はイングランドを四分割して、それぞれを治める豪族にデーン人が使っていた称号"Eorl"を与えたという。ただこの頃には位階や称号が曖昧だった[13]。
確固たる貴族制度をイングランドに最初に築いた王は征服王ウィリアム1世(在位:1066年-1087年)である。彼はもともとフランスのノルマンディー公であったがエドワード懺悔王の崩御後、イングランド王位継承権を主張して1066年にイングランドを征服し、イングランド王位に就いた(ノルマン・コンクエスト)。重用した臣下もフランスから連れて来たノルマン人だったため、大陸にあった貴族の爵位制度がイングランドにも持ち込まれた[14]。
ウィリアム1世によって最初に制度化された貴族称号は伯爵(Earl)であり、1072年にウィリアム1世の甥にあたるヒューに与えられたチェスター伯爵(Earl of Chester)がその最初の物である[注 2]。伯爵は大陸では"Count"と呼ぶが、イングランドに導入するにあたってウィリアム1世は、エドワード懺悔王時代の"Eorl"を意識して"Earl"とした。ところが伯爵夫人たちには"Earless"ではなく大陸と同じ"Countess"の称号を与えた。これは現在に至るまでこういう表記であり、伯爵だけ夫と妻で称号がバラバラになっている[13][17]。
14世紀初頭まで貴族身分はごく少数のEarl(伯爵)と大多数のBaron(男爵)だけだった[18]。初期のBaronとは貴族称号ではなく直属受封者を意味する言葉だった[18][19]。Earlのみが、強力な支配権を有する大Baronの持つ称号であった[20]。ヨーロッパ大陸から輸入された公爵(Duke)、侯爵(Marquess)、子爵(Viscount)が国王勅許状で貴族称号として与えられるようになったことでBaronも貴族称号(「男爵」と訳される物)へと変化していった[20]。
侯爵から男爵までの貴族への敬称は家名(姓)ではなく爵位名にLordをつけて「○○卿(Lord)」とされる(公爵のみは「○○公 Duke of ○○」)。例えばカーナーヴォン伯爵の「カーナーヴォン」は爵位名であって家名はハーバートだが、カーナーヴォン卿と呼び、ハーバート卿にはならない。また日本の華族は一つしか爵位を持たないが、イギリスでは一人で複数の爵位を持つことが多い。中でも公爵・侯爵・伯爵の嫡男は当主の持つ従属爵位のうち二番目の爵位を儀礼称号として称する[21]。
伯爵の長男は従属爵位を持つがゆえにLord(卿、ロード)の敬称がつけられ、次男以下にはHonarable(オナラブル)がつけられる。娘にはLady(レディ)がつけられる。
現存する伯爵家一覧
イングランド貴族
- シュルーズベリー伯爵(1442年)/タルボット伯爵(1784年グレートブリテン貴族)/ウォーターフォード伯爵(1446年アイルランド貴族) : チェットウィンド=タルボット家
- ダービー伯爵(1485年) : スタンリー家
- ハンティンドン伯爵(1529年) : ヘイスティング=バス家
- ペンブルック伯爵(1551年)/モントゴメリー伯爵(1605年) : ハーバート家
- デヴォン伯爵(1553年) : コートネイ家
- リンカン伯爵(1572年) : ファインズ=クリントン家
- サフォーク伯爵(1603年)/バークシャー伯爵(1626年) : ハワード家
- デンビー伯爵(1622年)/デズモンド伯爵(1628年アイルランド貴族) : フィールディング家
- ウェストモーランド伯爵(1624年) : フェーン家
- リンジー伯爵(1626年)/アビンドン伯爵(1682年) : バーティ家
- ウィンチルシー伯爵(1628年)/ノッティンガム伯爵(1681年) : フィンチ=ハットン家
- サンドウィッチ伯爵(1660年) : モンタギュー家
- エセックス伯爵(1661年) : カペル家
- カーライル伯爵(1661年) : ハワード家
- シャフツベリ伯爵(1672年) : アシュリー=クーパー家
- ポートランド伯爵(1689年) : ベンティンク家
- スカーバラ伯爵(1690年) : ラムリー家
- アルベマール伯爵(1697年) : ケッペル家
- コヴェントリー伯爵(1697年) : コヴェントリー家
- ジャージー伯爵(1697年) : ヴィリアーズ家
スコットランド貴族
- クロフォード伯爵(1398年)/バルカレス伯爵(1651年) : リンジー家
- エロル伯爵(1453年) : ヘイ家
- サザーランド伯爵(1230年or1275年or1347年) : サザーランド家
- マー伯爵(1114年頃) : マー家
- ロシズ伯爵(1458年) : レズリー家
- モートン伯爵(1458年) : ダグラス家
- バカン伯爵(1469年) : アースキン家
- エグリントン伯爵(1508年)/ウィントン伯爵(1859年連合王国貴族) : モントゴメリー家
- ケイスネス伯爵(1455年) : シンクレア家
- マー伯爵(1565年)/ケリー伯爵(1619年) : アースキン家
- マリ伯爵(1562年) : ステュアート家
- ヒューム伯爵(1605年) : ダグラス=ヒューム家
- パース伯爵(1605年) : ドラモンド家
- ストラスモア=キングホーン伯爵(1606年) : ボーズ=ライアン家
- ハーディントン伯爵(1619年) : バイリー=ハミルトン家
- ギャロウェイ伯爵(1623年) : ステュワート家
- ローダーデール伯爵(1624年) : メイトランド家
- リンジー伯爵(1633年) : リンジー=ベテューヌ家
- ラウダウン伯爵(1633年) : アベニュー=ヘイスティングス家
- キノール伯爵(1633年) : ヘイ家
- エルギン伯爵(1633年)/キンカーディン伯爵(1643年) : ブルース家
- ウィームズ伯爵(1633年)/マーチ伯爵(1697年) : チャータリス家
- ダルハウジー伯爵(1633年) : ラムゼイ家
- エアリー伯爵(1639年) : オギルヴィ家
- リーブン伯爵(1641年)/メルヴィル伯爵(1690年) : リズリー=メルヴィル家
- ディザート伯爵(1643年) : グラント家
- セルカーク伯爵(1646年) : ダグラス=ハミルトン家
- ノーセスク伯爵(1647年) : カーネギー家
- ダンディー伯爵(1660年) : スクリームジョア家
- ニューバラ伯爵(1660年) : ロスピリョージ家(イタリア貴族ロスピリョージ公爵)
- アナンデイル=ハートフェル伯爵(1662年) : ホープ=ジョンストン家
- ダンドナルド伯爵(1669年) : コクラン家
- キントーア伯爵(1677年) : ケイス家
- ダンモア伯爵(1686年) : マレー家
- オークニー伯爵(1696年) : セント・ジョン家
- シーフィールド伯爵(1701年) : スタッドリー家
- ステアー伯爵(1703年):ダーリンプル家
- ローズベリー伯爵(1703年)/ミッドロージアン伯爵(1911年連合王国貴族) : プリムローズ家
- グラスゴー伯爵(1703年) : ボイル家
グレートブリテン貴族
- フェラーズ伯爵(1711年) : シャーリー家
- ダートマス伯爵 (1711年) : レッグ家
- タンカーヴィル伯爵(1714年) : ベネット家
- アイルズフォード伯爵(1714年) : フィンチ=ナイトレイ家
- マクルズフィールド伯爵(1721年) : パーカー家
- ウォルドグレイヴ伯爵(1729年) : ウォルドグレイヴ家
- ハリントン伯爵(1742年) : スタンホープ家
- ポーツマス伯爵(1743年) : ウォロップ家
- ウォリック伯爵(1759年)/ブロック伯爵(1746年) : グレヴィル家
- バッキンガムシャー伯爵(1746年) : ホバート=ハンプデン家
- ギルフォード伯爵(1752年) : ノース家
- ハードウィック伯爵(1754年) : ヨーク家
- イルチェスター伯爵(1756年) : フォックス=ストラングウェイズ家
- デ・ラ・ウェア伯爵(1761年) : ウェスト家
- ラドナー伯爵(1765年) : プリーデル・ブーベリー家
- スペンサー伯爵(1765年) : スペンサー家
- バサースト伯爵(1772年) : バサースト家
- クラレンドン伯爵(1776年) : ヴィリアーズ家
- マンスフィールド伯爵(1776年)/マンスフィールド伯爵(1792年) : マレー家
- マウント・エッジカム伯爵(1789年) : エッジカム家
- フォーテスキュー伯爵(1789年) :フォーテスキュー家
- カーナーヴォン伯爵(1793年) : ハーバート家
- カドガン伯爵(1800年) : カドガン家
- マームズベリー伯爵(1800年) :ハリス家
アイルランド貴族
- コーク伯爵(1620年)/オレリー伯爵(1660年) : ボイル家
- ウェストミース伯爵(1621年) : ニュージェント家
- ミース伯爵(1627年) : ブラバゾン家
- キャバン伯爵(1647年) : ランバート家
- ドロヘダ伯爵(1661年) : ムーア家
- グラナード伯爵(1684年) : フォーブス家
- ダーンリー伯爵(1725年) : ブライ家
- ベスバラ伯爵(1739年) : ポンソンビー家
- キャリック伯爵(1748年) : バトラー家
- シャノン伯爵(1756年) : ボイル家
- アラン伯爵(1762年) : ゴア家
- コータウン伯爵(1762年) : ストップフォード家
- メクスバラ伯爵(1766年) : サヴィル家
- ウィンタートン伯爵(1766年) : ターナー家
- キングストン伯爵(1768年) : テニソン家
- ローデン伯爵(1771年) : ジョセリン家
- リズバーン伯爵(1776年) : ヴォーン家
- クランウィリアム伯爵(1776年) : ミード家
- アントリム伯爵(1785年) : マクドネル家
- ロングフォード伯爵(1785年) : パケナム家
- ポーターリントン伯爵(1785年) : ドーソン=ダマー家
- メイヨー伯爵(1785年) : バーク家
- アンズリー伯爵(1789年) : アンズリー家
- エニスキレン伯爵(1789年) : コール家
- アーン伯爵(1789年) : クライトン家
- ルーカン伯爵(1795年) : ビンガム家
- ベルモア伯爵(1797年) : ローリー=コリー家
- キャッスル・ステュワート伯爵(1800年) : ステュアート家
- ドナウモア伯爵(1800年) :ヒーリー=ハッチンソン家
- カレドン伯爵(1800年) : アレクサンダー家
- リメリック伯爵(1803年) : ペリー家
- クランカーティ伯爵(1803年) : ル・プア・トレンチ家
- ゴスフォード伯爵(1806年) : アチソン家
- ロッセ伯爵(1806年) : パーソンズ家
- ノーマントン伯爵(1806年) : エイガー家
- キルモリー伯爵(1822年) : ニーダム家
- リストーエル伯爵(1822年) : ヘア家
- ノーベリー伯爵(1827年) : グラハム=トーラー家
- ランファーリ伯爵(1831年) : ノックス家
連合王国貴族
- ロスリン伯爵(1801年) : セント・クレアー=アースキン家
- クレイヴン伯爵(1801年) : クレイヴン家
- オンズロー伯爵(1801年) : オンズロー家
- ロムニー伯爵(1801年) : マーシャム家
- チチェスター伯爵(1801年) : ペラム家
- ウィルトン伯爵(1801年) : グローヴナー家
- ポウィス伯爵(1804年) : ハーバート家
- ネルソン伯爵(1805年) : ネルソン家
- グレイ伯爵(1806年) : グレイ家
- ロンズデール伯爵(1807年) : ラウザー家
- ハロービー伯爵(1809年) : ライダー家
- ヘアウッド伯爵(1812年) : ラッセルズ家
- ミントー伯爵(1813年) : エリオット=マーレイ=キニンマウンド家
- カスカート伯爵(1814年) : カスカート家
- ヴェルラム伯爵(1815年) : グリムストン家
- セント・ジャーマンズ伯爵(1815年) : エリオット家
- モーレイ伯爵(1815年) : パーカー家
- ブラッドフォード伯爵(1815年) : ブリッジマン家
- エルドン伯爵(1821年) : スコット家
- ハウ伯爵(1821年) : カーゾン家
- ストラドブローク伯爵(1821年) : ラウス家
- ストーのテンプル伯爵(1821年) : テンプル=ゴア=ラントン家
- コーダー伯爵(1827年) : キャンベル家
- リッチフィールド伯爵(1831年) : アンソン家
- ダラム伯爵(1833年) : ラムトン家
- グランヴィル伯爵(1833年) : ルーソン=ゴア家
- エフィンガム伯爵(1837年) : ハワード家
- デュシー伯爵(1837年) : モートン家
- ヤーバラ伯爵(1837年) : ペラム家
- レスター伯爵(1837年) : コーク家
- ゲインズバラ伯爵(1841年) : ノエル家
- ストラフォード伯爵(1847年) : ビング家
- コッテナム伯爵(1850年) : ピープス家
- カウリー伯爵(1857年) : ウェルズリー家
- ダドリー伯爵(1860年) : ウォード家
- ラッセル伯爵(1861年) : ラッセル家
- クロマーティ伯爵(1861年) : マッケンジー家
- キンバリー伯爵(1866年) : ウッドハウス家
- ワーンクリフ伯爵(1876年) : モンタギュー=ステュアート=ウォートレイ家
- ケアンズ伯爵(1878年) : ケアンズ家
- リットン伯爵(1880年) : リットン家
- セルボーン伯爵(1882年) : パーマー家
- イデスリー伯爵(1885年) : ノースコート家
- クランブルック伯爵(1892年) : ゲイソン=ハーディ家
- クローマー伯爵(1901年) : ベアリング家
- プリマス伯爵(1905年) : ウィンザー=クライヴ家
- リヴァプール伯爵(1905年) : フォジャム家
- セント・アルドウィン伯爵(1915年) : ヒックス=ビーチ家
- ビーティー伯爵(1919年) : ビーティー家
- ヘイグ伯爵(1919年) : ヘイグ家
- アイヴァー伯爵(1919年) : ギネス家
- バルフォア伯爵(1922年) : バルフォア家
- オックスフォード=アスキス伯爵(1925年) : アスキス家
- ジェリコー伯爵(1925年) : ジェリコー家
- インチケープ伯爵(1929年) : マッカイ家
- ピール伯爵(1929年) : ピール家
- ビュードリーのボールドウィン伯爵(1937年) : ボールドウィン家
- ハリファックス伯爵(1944年) : ウッド家
- ゴーリー伯爵(1945年) : リヴァン家
- ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵(1945年) : ロイド・ジョージ家
- ビルマのマウントバッテン伯爵(1947年) : ナッチブル家
- チュニスのアレグザンダー伯爵(1952年) : アレクサンダー家
- スウィントン伯爵(1955年) : カンリフ=リスター家
- アトリー伯爵(1955年) : アトリー家
- ウォールトン伯爵(1956年) : マーキス家
- スノードン伯爵(1961年) : アームストロング=ジョーンズ家
- ストックトン伯爵(1984年) : マクミラン家 ※2015年現在、臣民に対して与えられた最後の世襲貴族爵位
- ウェセックス伯爵(1999年)/フォーファー伯爵(2019年): 王族エドワード王子の爵位。
脚注
注釈
- ^ 中納言を一旦辞任することなく、大納言に任じられることを「直任」といい、一時中納言を辞してから後日改めて大納言に任じられるより格上とされた。「宣任の例多き」とは、一度でもこの直任の例があることを指す(浅見政男『華族誕生』)。
- ^ ヒューの子孫は1237年に絶え、チェスター伯爵位も一時途絶えたが、1254年にヘンリー3世(在位:1216年-1272年)が皇太子エドワード(エドワード1世)に与えて以降、現在に至るまでイングランド・イギリス皇太子に継承される称号となっている[15]。最古参の爵位としてチェスター伯爵位は別格であり、同じくイギリス皇太子の称号であるコーンウォール公爵位よりも上位に書かれる[16]。
出典
- ^ 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)2236頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年2018頁、2019頁参照。
- ^ a b c [https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/comte/17838 Larousse, comte.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 2-3.
- ^ a b 石黒ひさ子 2006, p. 3.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 5.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 4.
- ^ 石黒ひさ子 2006, p. 6.
- ^ a b 袴田郁一 2014, p. 86-87.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 95.
- ^ 今堀誠二, p. 422-423.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 125.
- ^ 袴田郁一 2014, p. 100.
- ^ a b 森(1987) p.2
- ^ 小林(1991) p.16-17
- ^ 森(1987) p.3
- ^ 森(1987) p.4
- ^ 小林(1991) p.17
- ^ a b 近藤(1970)上巻 p.161
- ^ マリオット(1914) p.174-175
- ^ a b 近藤(1970)上巻 p.164
- ^ 森(1987) p.15
参考文献
- 小林章夫『イギリス貴族』講談社〈講談社現代新書1078〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4061490789。
- 近藤申一『イギリス議会政治史 上』敬文堂、1970年(昭和45年)。ISBN 978-4767001715。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年(昭和62年)。ISBN 978-4469240979。
- ジョン・マリオット 著、占部百太郎 訳『英国の憲法政治』慶応義塾出版局、1914年(大正3年)。ASIN B0098TWQW4 。
- 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
- 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059
- 石黒ひさ子 (2006-12-25). “「五等爵制」再考”. 駿台史學 129: 1-20 .
- 袴田郁一 (2014). “両晉における爵制の再編と展開 : 五等爵制を中心として”. 論叢アジアの文化と思想 (アジアの文化と思想の会) 23: 79-134. NAID 120005819881.
- 今堀誠二 (1942). “唐代封爵制拾遺”. 社会経済史学 (社会経済史学会) 12(4): 419-451. NAID 110001212961.
関連項目
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