「襄州」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 「トウ」→「鄧」の改名に伴うリンク修正依頼 (鄧州) - log |
||
43行目: | 43行目: | ||
== 唐代 == |
== 唐代 == |
||
[[621年]]([[武徳]]4年)、[[唐]]が[[王世充]]を平定すると、襄陽郡は襄州と改められた。襄州は襄陽・安養・漢南・義清・南漳・常平の6県を管轄した。襄州には山南道行台が置かれ、山南道行台は[[交州]]・[[広州 (広東省)|広州]]・[[安州 (湖北省)|安州]]・[[黄州 (古代)|黄州]]・[[寿州]]など257州を統轄した。[[624年]](武徳7年)、山南道行台が廃止され、襄州都督府が置かれて襄州・[[ |
[[621年]]([[武徳]]4年)、[[唐]]が[[王世充]]を平定すると、襄陽郡は襄州と改められた。襄州は襄陽・安養・漢南・義清・南漳・常平の6県を管轄した。襄州には山南道行台が置かれ、山南道行台は[[交州]]・[[広州 (広東省)|広州]]・[[安州 (湖北省)|安州]]・[[黄州 (古代)|黄州]]・[[寿州]]など257州を統轄した。[[624年]](武徳7年)、山南道行台が廃止され、襄州都督府が置かれて襄州・[[鄧州]]・[[顕州|唐州]]・[[均州]]・[[淅州]]・[[重州]]を監督した。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)に襄州は襄陽郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、襄陽郡は襄州の称にもどされた。襄州は[[山南東道]]に属し、襄陽・[[樊城区|鄧城]]・穀城・義清・南漳・[[宜城市|宜城]]・[[鍾祥市|楽郷]]の7県を管轄した。[[761年]]([[上元 (唐粛宗)|上元]]2年)、襄州節度使が置かれ、襄州・鄧州・均州・[[遷州|房州]]・[[金州 (陝西省)|金州]]・[[商州]]などを領知した。後に山南東道節度使の治所となった<ref>『[[旧唐書]]』地理志二</ref>。 |
||
== 宋代 == |
== 宋代 == |
2020年7月12日 (日) 22:04時点における版
中国地名の変遷 | |
建置 | 漢代 |
使用状況 | 襄陽市 |
前漢 | 襄陽県 |
---|---|
後漢 | 襄陽郡 |
三国 | 襄陽郡 |
西晋 | 襄陽郡 |
東晋十六国 | 雍州 |
南北朝 | 襄州 |
隋 | 襄州 襄陽郡 |
唐 | 襄州 |
五代 | 襄州 |
北宋/遼 | 襄陽府 |
南宋/金 | 襄陽府 |
元 | 襄陽路 |
明 | 襄陽府 |
清 | 襄陽府 |
中華民国 | 襄陽県 |
現代 | 襄陽市 |
襄州(じょうしゅう)は、中国にかつて設置された州。南北朝時代から北宋にかけて、現在の湖北省襄陽市一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
東晋の太元年間に僑州として設置された雍州を前身とする。西魏により雍州は襄州と改称された。
隋代
隋代が成立すると当初は6郡12県を管轄した。583年(開皇3年)、襄州の属郡6郡は廃止された。607年(大業3年)、郡制施行に伴い襄陽郡と改称され、下部に11県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | ||||||
州 | 襄州 | 鄀州 | 郡 | 襄陽郡 | |||||
郡 | 襄陽郡 | 河南郡 | 徳広郡 | 武泉郡 | 南襄陽郡 | 長湖郡 | 武寧郡 | 県 | 襄陽県 陰城県 穀城県 安養県 上洪県 率道県 漢南県 義清県 南漳県 常平県 鄀県 |
県 | 襄陽県 陰城県 築陽県 穀城県 |
安養県 | 上洪県 | 率道県 漢南県 義清県 |
思安県 | 常平県 旱停県 |
鄀県 |
唐代
621年(武徳4年)、唐が王世充を平定すると、襄陽郡は襄州と改められた。襄州は襄陽・安養・漢南・義清・南漳・常平の6県を管轄した。襄州には山南道行台が置かれ、山南道行台は交州・広州・安州・黄州・寿州など257州を統轄した。624年(武徳7年)、山南道行台が廃止され、襄州都督府が置かれて襄州・鄧州・唐州・均州・淅州・重州を監督した。742年(天宝元年)に襄州は襄陽郡と改称された。758年(乾元元年)、襄陽郡は襄州の称にもどされた。襄州は山南東道に属し、襄陽・鄧城・穀城・義清・南漳・宜城・楽郷の7県を管轄した。761年(上元2年)、襄州節度使が置かれ、襄州・鄧州・均州・房州・金州・商州などを領知した。後に山南東道節度使の治所となった[2]。