コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「応神天皇」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
88行目: 88行目:
即位14年、[[弓月君]](秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、その民は[[加羅]]に留まっていた。そこで[[葛城襲津彦]]を派遣したが三年経っても弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで即位16年8月、新羅の妨害を防いで弓月君の民の渡来させるため[[平群木菟]]宿禰と[[的戸田宿禰]]が率いる精鋭が派遣され新羅国境に軍を展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
即位14年、[[弓月君]](秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、その民は[[加羅]]に留まっていた。そこで[[葛城襲津彦]]を派遣したが三年経っても弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで即位16年8月、新羅の妨害を防いで弓月君の民の渡来させるため[[平群木菟]]宿禰と[[的戸田宿禰]]が率いる精鋭が派遣され新羅国境に軍を展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。


即位15年8月、百済の阿花王([[阿シン王|阿莘王]])が良馬二頭を[[阿直岐]](あちき)に付けて献上した。この阿直岐は阿直岐史の祖であり、経典が読めたので[[菟道稚郎子]]の師となった。天皇はさらに優れた人物を望み、阿直岐から推薦された[[王仁]](わに)を即位16年2月に呼び寄せた。王仁は書首(ふみのおびと)の祖である。『古事記』にも同様の記事が見えるが、百済の王は照古王([[近肖古王]])とされ、阿知吉師([[阿直岐]])は牡馬と牝馬を献上し、阿直史らの祖となったとある。また天皇が「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので「命を受けて貢上れる人、名は[[王仁|和邇吉師]](わにきし)。すなわち[[論語]]十巻、[[千字文]]一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また[[呉織|呉服]](くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」とある。この論語と千字文の貢進がそれぞれ儒教と漢字の伝来とされている。
即位15年8月、百済の阿花王([[阿莘王]])が良馬二頭を[[阿直岐]](あちき)に付けて献上した。この阿直岐は阿直岐史の祖であり、経典が読めたので[[菟道稚郎子]]の師となった。天皇はさらに優れた人物を望み、阿直岐から推薦された[[王仁]](わに)を即位16年2月に呼び寄せた。王仁は書首(ふみのおびと)の祖である。『古事記』にも同様の記事が見えるが、百済の王は照古王([[近肖古王]])とされ、阿知吉師([[阿直岐]])は牡馬と牝馬を献上し、阿直史らの祖となったとある。また天皇が「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので「命を受けて貢上れる人、名は[[王仁|和邇吉師]](わにきし)。すなわち[[論語]]十巻、[[千字文]]一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また[[呉織|呉服]](くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」とある。この論語と千字文の貢進がそれぞれ儒教と漢字の伝来とされている。


即位20年9月、「[[倭の漢直]]の祖[[阿知使主]](あちのおみ)、その子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて渡来。即位37年、阿知使主と都加使主は縫製女工(きぬぬいおみな)を求めるため呉へ派遣され、倭王[[讃]]の朝貢にも比定される。またこれらは神功皇后紀における『[[三国志 (歴史書)|魏志]]』と現存しない『[[西晋|晋]]起居注』の引用を除けば『[[日本書紀]]』における中国関連最初の記事である。
即位20年9月、「[[倭の漢直]]の祖[[阿知使主]](あちのおみ)、その子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて渡来。即位37年、阿知使主と都加使主は縫製女工(きぬぬいおみな)を求めるため呉へ派遣され、倭王[[讃]]の朝貢にも比定される。またこれらは神功皇后紀における『[[三国志 (歴史書)|魏志]]』と現存しない『[[西晋|晋]]起居注』の引用を除けば『[[日本書紀]]』における中国関連最初の記事である。
258行目: 258行目:


=== 紀年 ===
=== 紀年 ===
年代に関して、『[[日本書紀]]』では応神天皇3年条に百済の[[辰斯王]]が死去したことが記述されているが、『[[三国史記]]』「百済本紀」の辰斯王が死去したと記述されている年は[[392年|西暦392年]]である。また、『日本書紀』では応神天皇8年条に「百済記([[百済三書]]の一つ)には、[[阿シン王|阿花王]](あくえおう、あかおう)が王子直支を遣わしたとある。」と記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が太子[[腆支王|腆支]](直支のこと)を遣わしたと記述されている年(阿莘王6年)は[[397年|西暦397年]]である。また、『日本書紀』では応神天皇16年条に百済の阿花王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が死去したと記述されている年(阿莘王14年)は[[405年|西暦405年]]である。<ref>[http://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E8%8A%B1%E7%8E%8B 阿花王(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)](朝日新聞社コトバンクより)。</ref><ref>『日本古代氏族人名辞典 普及版』(吉川弘文館、2010年)阿花王項。</ref> (詳しくは[[百済史年表]]を参照)また、『日本書紀』では応神天皇25年条に直支王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において腆支王が死去したと記述されている年は[[420年|西暦420年]]である。『日本書紀』では応神天皇39年条に直支王が妹の新斉都媛と7人の女性を遣わしたともあり、明白に矛盾する記述となっている。
年代に関して、『[[日本書紀]]』では応神天皇3年条に百済の[[辰斯王]]が死去したことが記述されているが、『[[三国史記]]』「百済本紀」の辰斯王が死去したと記述されている年は[[392年|西暦392年]]である。また、『日本書紀』では応神天皇8年条に「百済記([[百済三書]]の一つ)には、[[阿王|阿花王]](あくえおう、あかおう)が王子直支を遣わしたとある。」と記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が太子[[腆支王|腆支]](直支のこと)を遣わしたと記述されている年(阿莘王6年)は[[397年|西暦397年]]である。また、『日本書紀』では応神天皇16年条に百済の阿花王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が死去したと記述されている年(阿莘王14年)は[[405年|西暦405年]]である。<ref>[http://kotobank.jp/word/%E9%98%BF%E8%8A%B1%E7%8E%8B 阿花王(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)](朝日新聞社コトバンクより)。</ref><ref>『日本古代氏族人名辞典 普及版』(吉川弘文館、2010年)阿花王項。</ref> (詳しくは[[百済史年表]]を参照)また、『日本書紀』では応神天皇25年条に直支王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において腆支王が死去したと記述されている年は[[420年|西暦420年]]である。『日本書紀』では応神天皇39年条に直支王が妹の新斉都媛と7人の女性を遣わしたともあり、明白に矛盾する記述となっている。


=== 新王朝説 ===
=== 新王朝説 ===

2020年7月12日 (日) 21:33時点における版

応神天皇
集古十種』より「応神帝御影」
誉田八幡宮

在位期間
応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日
時代 古墳時代
摂政 神功皇后
先代 仲哀天皇
神功皇后(摂政であり、女帝説もある)
次代 仁徳天皇

誕生 宇瀰
崩御 明宮(一説に大隅宮)
陵所 惠我藻伏崗陵
漢風諡号 応神天皇
和風諡号 誉田天皇
別称 誉田別尊
誉田別天皇
胎中天皇
品陀和気命
大鞆和気命
品太天皇
凡牟都和希王
父親 仲哀天皇
母親 神功皇后
皇后 仲姫命
子女 仁徳天皇
額田大中彦皇子
大山守皇子
菟道稚郎子皇子
八田皇女
雌鳥皇女
稚野毛二派皇子継体天皇の高祖父)
隼総別皇子
草香幡梭皇女他多数
皇居 不明(『日本書紀』)
軽島豊明宮(『古事記』)
難波大隅宮(行宮)
テンプレートを表示

応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。『日本書紀』での名は譽田天皇。実在性は定かでないが八幡神として神格化されている。

略歴

実在したとすれば4世紀後半。足仲彦天皇(仲哀天皇)の第四皇子。母は気長足姫尊(神功皇后)。異母兄に麛坂皇子忍熊皇子がいる。神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で仲哀天皇9年(若井敏明によると西暦367年)に生まれたとされるが、これは足仲彦天皇が崩御して十月十日後である。胎中天皇とされ、異母兄たちはこれに抵抗して叛乱を起こしたが気長足姫尊によって鎮圧され排除された。神功皇后摂政3年に立太子。

即位2年、仲姫命を皇后として大鷦鷯尊仁徳天皇)らを得た。他にも多くの妃や皇子女がいた。即位6年、近江へ行幸。『古事記』によればこのとき宮主矢河枝比売を娶り菟道稚郎子八田皇女を得たと言う。在位中には様々な渡来人の来朝があった。韓人には池を作らせたほか蝦夷や海人を平定して山海の部民を定めた。名のある渡来人には弓月君阿直岐王仁阿知使主といった人物がおり、弓月君は秦氏の祖である。『古事記』によると和邇吉師(王仁)によって論語千字文、すなわち儒教漢字が伝わったという[1]。また即位37年、阿知使主と子の都加使主は縫製の女工を求めるため呉(東晋あるいは)に派遣されたという。即位40年、大鷦鷯尊大山守皇子に相談の上で菟道稚郎子を立太子。即位41年に111歳で崩御。『古事記』では130歳、甲午年9月9日に崩じたとされる。

  • 譽田天皇(ほむたのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
  • 誉田別尊(ほむたわけのみこと)- 『日本書紀』
  • 胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)- 『日本書紀』
  • 品陀和氣命(ほむだわけのみこと) - 『古事記
  • 大鞆和気命(おおともわけのみこと) - 『古事記
  • 品太天皇(ほむだのすめらみこと)- 『播磨国風土記
  • 凡牟都和希王(ほむたわけのみこ)- 『上宮記』逸文。

漢風諡号である「応神天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

事績

即位

『日本書紀』によれば母后摂政(神功皇后)が崩御した翌年に即位。即位2年3月、仲姫命を立后。子に大鷦鷯尊仁徳天皇)らがいる。また皇后の姉の高城入姫命との間には大山守皇子らを得た。『日本書紀』によると即位3年10月に「蝦夷をもって厩坂道作らしむ」、即位5年8月に「諸国に令して、海人及び山守を定む」、即位7年9月に「高麗人・百済人・任那人・新羅人、並(ならび)に来朝(まうけ)り。時に武内宿禰に命して、即位11年10月に「剣池・軽池(かるのいけ)・鹿垣池(ししかきのいけ)・厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」とある。剣池は奈良県橿原市石川町の石川池という。『古事記』にも同様の記事が見え、「この御世に、海部(あまべ)、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき。また、剣池(つるぎのいけ)を作りき。また新羅人参渡(まいわた)り来つ。ここをもちて建内宿禰命引い率て、堤池に役ちて、百済池(くだらのいけ)を作りき」とある。

行幸

宇治

即位6年2月、近江国に行幸し、途中の菟道野(宇治)で歌を詠んだという。

千葉の 葛野を見れば 百千足る 家庭も見ゆ 国の秀も見ゆ

古事記』によると菟道野から北上して木幡村に到った天皇は道端で美しい少女と出会った。何者か問うと少女は和弭比布礼能意富美(わに の ひふれのおみ)の娘の宮主矢河枝比売(みやぬし やかえひめ)と名乗った。天皇は翌日の帰り道に必ず少女の家に寄ると約束し、少女も父に事情を報告した。翌日、天皇は酒を注ぎながら長い歌を詠み、宮主矢河枝比売を娶った。こうして生まれたのが皇太子となる菟道稚郎子と異母兄の皇后となる八田皇女である。

吉野

即位19年10月、吉野へ行幸。国樔人は白樫で横臼を作って大御酒を醸した。その大御酒をたてまつる時、口鼓を撃って演じ歌を詠んだ。

橿の生に 横臼を作り 横臼に醸める大御酒 うらまに 聞こし持ち食せ まろが父

吉野は山深い土地であり、日本書紀が書かれた奈良時代初頭でも吉野の人々が来朝することはまれであった。しかし時折、名産品を献上するときがあり、国主らはその際にこの歌を詠んだという

吉備

即位22年春3月5日、難波の大隅宮に行幸。14日、高台に登り遠望した。その時、妃の兄媛(えひめ)が西の方を望んで嘆いた。なぜ嘆いているのかを問うと故郷の父母が恋しいからだと兄媛は答えた。兄媛は吉備氏の娘であり故郷の方角を見て望郷の念にかられたのだった。そこで兄媛の里帰りの希望を許し、淡路の御原の海人八十人を水手として集めた。そして4月に大津から吉備に向かう兄媛を見送って歌を詠んだ

淡路島 いや二並び 小豆島 いや二並び 宜しき 島々 誰か た去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの

秋になって天皇は吉備へ行幸することにした。9月6日に淡路で狩りをし、小豆島を経て10月10日に吉備の葉田葦守宮に至った。そのとき兄媛の兄の御友別が出迎えて一族総出で食事を奉った。天皇は御友別の謹惶(かしこまり)を喜び、その子孫たちに吉備国を割いて封じることにした。彼らが吉備上道臣、下道臣祖などの祖となった。また織部(はとりべ)が兄媛に与えられた。『古事記』では対応する伝承が応神記ではなく仁徳記にあり、兄媛は黒日売という名で登場する。御友別にあたる人物は登場せず、黒日売が自ら大御飯(おおみけ)を献上する。

甘美内宿禰の讒言

即位9年4月、武内宿禰を百姓の監察に筑紫へ遣わした際、その弟の甘美内宿禰が兄を廃そうとして天皇に讒言した。それは武内宿禰が筑紫三韓を率いて天下を奪おうとしているというものだった。武内宿禰は神功皇后の新羅出兵や天皇の即位に尽力した功臣である。しかし天皇は甘美内宿禰を疑わず武内宿禰を誅殺するため使いを出した。驚き嘆いた武内宿禰だったが、壱岐真根子(壱伎直祖)という者が自ら進み出て身代わりとなって死んだ。武内宿禰はひとり悲しみながらも南海を通って帰国し天皇の前で甘美内宿禰と抗弁して争った。判断がつかなかった天皇は磯城川のほとりに出て探湯で二人を戦わせることにした。武内宿禰が勝ち、敗れた甘美内宿禰は兄に殺されそうになった。命だけは天皇の勅によって救われたが、その身は紀直らの祖に隷属民として授けられたという。

渡来人

即位14年、弓月君(秦氏の先祖)が百済から来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、その民は加羅に留まっていた。そこで葛城襲津彦を派遣したが三年経っても弓月君の民を連れて帰還することはなかった。そこで即位16年8月、新羅の妨害を防いで弓月君の民の渡来させるため平群木菟宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が派遣され新羅国境に軍を展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

即位15年8月、百済の阿花王(阿莘王)が良馬二頭を阿直岐(あちき)に付けて献上した。この阿直岐は阿直岐史の祖であり、経典が読めたので菟道稚郎子の師となった。天皇はさらに優れた人物を望み、阿直岐から推薦された王仁(わに)を即位16年2月に呼び寄せた。王仁は書首(ふみのおびと)の祖である。『古事記』にも同様の記事が見えるが、百済の王は照古王(近肖古王)とされ、阿知吉師(阿直岐)は牡馬と牝馬を献上し、阿直史らの祖となったとある。また天皇が「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので「命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師(わにきし)。すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻をこの人に付けてすなわち貢進りき。この和爾吉師は文首等の祖。また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」とある。この論語と千字文の貢進がそれぞれ儒教と漢字の伝来とされている。

即位20年9月、「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、その子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて渡来。即位37年、阿知使主と都加使主は縫製女工(きぬぬいおみな)を求めるため呉へ派遣され、倭王の朝貢にも比定される。またこれらは神功皇后紀における『魏志』と現存しない『起居注』の引用を除けば『日本書紀』における中国関連最初の記事である。

武庫水門の火災

即位31年、武庫水門に停泊していた新羅の使者の失火により多くの船が失われてしまった。これらは即位5年10月に伊豆国へ命じて造らせた長さ十丈の「枯野」という船が老朽化したため、その代わりとして建造されたものだった。「枯野」とは船が軽く速く進む様子から名付けられたというが、それなら「軽野」と呼ぶはずであり後代に訛ったのではないかと日本書紀では推察されている。老朽化した「枯野」は塩を作るための薪にされ、塩は諸国に配られ、それを資金源として作られた新たな五百艘の船が武庫水門に集っていたというわけである。新羅王は船を燃やしてしまった謝罪として技術者を献上した。技術者たちは猪名部(いなべ)の祖先とされる。焼け残りの材木は琴にされ、その音が遠くまでよく音が聞こえたので天皇は歌を詠んだ。

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に造り 掻き彈くや 由良の門の 門中の海石に 觸れ立つ なづの木の さやさや

古事記』では対応する伝承が応神記ではなく仁徳記にあり、河内の菟寸河にあった大木を「枯野」にしたと書かれている。この木の影は朝には淡路島を、夕方には高安山を隠すほど巨大で、船になってからは淡路島の寒泉(しみず)を飲料水として運ぶ役目を担ったと言う。そして「この船、破れ壊れ、以ちて塩を焼き、其の焼け残れる木を取りて琴を作るに、其の音、七里に響きき」とある。新たな造船と続く失火については記載がない。

菟道稚郎子の立太子

晩年の即位40年1月8日、天皇は大山守命大鷦鷯尊を呼び寄せ「お前たち、子どもは愛おしいか?」と尋ねた。二人が肯定すると次に「年長と年少ではどちらがより愛おしいか?」と尋ねた。大山守命が年長だと答えると天皇は不機嫌になった。そこで大鷦鷯尊が空気を読んで「年長は多く年月を経て既に成熟しており心配ありません。しかし年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。天皇は「その通りだ」と大変喜んだ。天皇はかねてから年少の菟道稚郎子を立太子しようと思っていたので、年長の二皇子の気持ちも知りたいと思いこの問いをしたのだった。24日、天皇は菟道稚郎子を皇太子とし、大鷦鷯尊は太子の補佐役として国事を仕切らせ、大山守命には山川林野を任せた。大山守命はこれを不服に思い翌年に天皇が崩御すると反乱を起こすこととなる。また菟道稚郎子は即位を拒否し、大鷦鷯尊との譲り合いの末に自決した。結局、皇位を継いだのは大鷦鷯尊だった(仁徳天皇)。

系譜

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
彦坐王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
11 垂仁天皇
 
丹波道主命
 
山代之大筒木真若王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上毛野氏
下毛野氏
 
12 景行天皇
 
倭姫命
 
迦邇米雷王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本武尊
 
13 成務天皇
 
息長宿禰王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
神功皇后
(仲哀天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16 仁徳天皇
 
菟道稚郎子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇
 
18 反正天皇
 
19 允恭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
意富富杼王
 
忍坂大中姫
(允恭天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子
 
木梨軽皇子
 
20 安康天皇
 
21 雄略天皇
 
 
 
 
 
乎非王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女
 
24 仁賢天皇
 
23 顕宗天皇
 
22 清寧天皇
 
春日大娘皇女
(仁賢天皇后)
 
彦主人王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手白香皇女
(継体天皇后)
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


応神天皇は後に男系断絶した仁徳天皇皇統と現在まで続く継体天皇皇統の共通の男系祖先である。そのため後世に皇祖神として奉られることになった。早くから神仏習合がなり八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され[2]、神社内に神宮寺が作られ各地の八幡宮に祭られた。平安時代後期以降は清和源氏桓武平氏など皇別氏族の武家が武功を立てる際に氏神として大いに神威を発揮したことで武神弓矢八幡」として崇敬を集めた[3]

后妃・皇子女

年譜

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[5]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 仲哀天皇9年
    • 12月、誕生
  • 神功皇后摂政3年
    • 1月、皇太子に立てられる
  • 神功皇后摂政13年
  • 応神天皇元年
    • 1月、即位
  • 応神天皇2年
  • 応神天皇3年
    • 10月、蝦夷に厩坂道を作らせる
    • 11月、阿曇連の祖の大濱宿禰に海人を平定させる
  • 応神天皇5年
    • 8月、海人部と山守部を定める
    • 10月、伊豆国に長さ十丈の船を造らせ、これを枯野と名付ける
  • 応神天皇6年
    • 2月、近江国へ行幸
  • 応神天皇7年
  • 応神天皇9年
  • 応神天皇11年
    • 10月、剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池を作る
  • 応神天皇13年
    • 3月、美人と名高い日向の髪長媛を呼び寄せる
    • 9月、来朝した髪長媛を大鷦鷯尊に譲る
  • 応神天皇14年
    • 2月、百済が絹衣工女を献上
    • 秦氏の祖の弓月君が来朝を希望したので葛城襲津彦を派遣。以後、三年帰国せず
  • 応神天皇15年
    • 8月、百済が阿直岐を派遣して馬を献上
  • 応神天皇16年
    • 2月、阿直岐の紹介で王仁が来朝。数々の典籍を伝え、阿直岐と共に菟道稚郎子(後に皇太子となる)の師となる
    • 8月、平群木菟と的戸田を派遣、弓月君を来朝させ葛城襲津彦を連れ戻す
  • 応神天皇19年
    • 10月、吉野に行幸。倭漢直の祖の阿知使主・都加使主が来朝
  • 応神天皇22年
    • 3月、難波の大隅宮へ行幸。妃の兄媛を実家の吉備に返す
    • 9月、難波から淡路島、吉備へ行幸。兄媛の兄弟と甥たちに吉備の統治権を与える
  • 応神天皇28年
  • 応神天皇31年
    • 8月、武庫水門新羅人の過失により枯野船が炎上。焼け残りの木で塩と琴を作る
  • 応神天皇37年
    • 2月、阿知使主・都加使主を呉(東晋あるいは)に派遣
  • 応神天皇40年
  • 応神天皇41年
    • 2月、崩御。111歳(『日本書紀』)、130歳。(『古事記』)
    • 2月、阿知使主・都加使主が帰国

皇居

日本書紀』では即位後の遷都記事がなく、神功皇后磐余若桜宮(奈良県桜井市池之内)をそのまま使っていたことになる。行宮としては難波大隅宮(なにわのおおすみのみや。現在の大阪市東淀川区大隅、一説に同市中央区)がある。崩御した地は大隅宮とも明宮ともされる。『古事記』では軽島之明宮を皇居としている。現在は応神天皇の皇居として軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや、現在の奈良県橿原市大軽町)が比定されている[6]

陵・霊廟

(みささぎ)の名は惠我藻伏崗陵(恵我藻伏岡陵:えがのもふしのおかのみささぎ)。宮内庁により大阪府羽曳野市誉田6丁目にある遺跡名「誉田御廟山古墳」に治定されている。墳丘長約420メートルの前方後円墳である。宮内庁上の形式は前方後円

『日本書紀』には陵名の記載はないが、雄略紀に「蓬蔂丘(いちびこのおか)の誉田陵」とある。『古事記』には「御陵は川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡にあり」とある。『延喜式諸陵寮には「惠我藻伏崗山陵」として「兆域東西五町、南北五町、陵戸二烟、守戸三烟」と見える。誉田御廟山古墳は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)に次ぐ(第2位の規模)5世紀初造営ともいわれる大前方後円墳である。ただし考古学の絶対年代はよほど強力な史料などが出ない限り、常に浮動的であることに注意する必要がある。2011年宮内庁により考古学者らの立ち入り調査が認められた。

上記とは別に、大阪府堺市北区百舌鳥本町にある遺跡名「御廟山古墳」が宮内庁により百舌鳥陵墓参考地(もずりょうぼさんこうち)として治定されており、応神天皇が被葬候補者に想定されている[7]

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承

※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る[5]

誕生

応神天皇こと誉田別尊の誕生は神秘に彩られている。

出生前の仲哀天皇8年、母の気長足姫神功皇后)は筑紫橿日宮で神託を行い「海を渡り金銀財宝のある新羅を攻めるべし」という託宣を受けた。父帝はこれに背いたため天神地祇は皇后のお腹の中にいた皇子に三韓を与えることにした。まもなく父帝は崩御し、皇后は託宣を現実のものとするため新羅遠征を行い成功させた。皇后は遠征と出産が重ならぬよう月延石や鎮懐石と呼ばれる石をお腹に当てて出産を遅らせた。父帝が崩御してちょうど十月十日後に筑紫で誕生した皇子は誉田別尊(ほむたわけのみこと)と名付けられた。その腕の肉が弓具の(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来し「ほむた」の音に「譽田」の字をあてたものだという。母の神功皇后の胎内にあったときから皇位に就く宿命にあったので「胎中天皇」とも称された。

誉田別尊を君主と認めない異母兄の坂王忍熊王の策謀は皇后と武内宿禰らに平定され、皇太后となった母の摂政のもと誉田別尊は三歳(計算上は四歳)で太子となった。71歳での即位まで母の神功皇后摂政したという。そうであれば西暦367年-437年は天皇不在となる(神功皇后は女帝と認められていないため)。

氣比神宮参詣

神功皇后摂政13年2月8日、十四歳の誉田別尊は武内宿禰に連れられ禊のため角鹿(敦賀)の笥飯大神に参詣した。角鹿は父帝が笥飯宮を設け母后が熊襲征伐と新羅遠征へ出発した地であり、太子の角鹿参詣によって一連の出征が終わったと解釈できる。このとき太子の誉田別尊と大神の去来紗別尊(いざさわけのみこと)が互いの名を交換したという説話がある。『書紀』は分注に一伝として「誉田別尊の元の名は去来紗別尊といい氣比神宮の笥飯大神と名前を交換して譽田別尊の名を得たのであろうが、他に所見なく未詳」としている。『古事記』でも同様の説話があるが、さらにその続きとして「魚(な)と名(な)の交換」の説話がある。「名の交換」とはこれの誤伝とする説が有力である。詳しくは「氣比神宮」参照。17日、太子が角鹿から戻ると母后は大殿で宴を開き、祝いの酒を飲み交わして歌を詠んだ。

此の酒は 我が御酒ならず 神酒の神 常世に坐す いはたたす 少名御神の 豊寿ぎ 寿ぎもとほし 神寿ぎ 寿ぎくるほし 祭り来し 御酒ぞ 乾さず 飮せ 酒

これに対し武内宿禰が太子に代わって返歌をした。

此の御酒を 釀みけむ人は 其の鼓 臼に立てて 歌ひつつ 釀みけめかも 此の御酒の あやに 歌樂し 酒

信仰

誉田別命(応神天皇)が崩御して久しい欽明天皇32年(571年)、その神霊が豊前国宇佐に初めて示顕したと伝わる[8]。これが八幡神である。誉田別命を主神として母の神功皇后比売神を合わせて八幡三神として祀られてもいる。なお本来の八幡神は豊前国宇佐で信仰されていた土着神で由来は誉田別命と無関係である。習合が始まったのは奈良時代後期から平安時代初期とされる。『豊前国風土記』逸文では新羅由来の神とも示唆されている[9]

考証

実在性

学術的に確定しているわけではないが、4世紀後半から5世紀初頭に実在した可能性が高いと見られている。井上光貞は、御名に装飾性がなく(後述)『記紀』に記された事跡が具体的でなおかつ朝鮮の史書の記述に符合する部分も窺えることから「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」としている[10]。また中国の史書との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の「讃」に比定する説もある(ほかに仁徳天皇や17代履中天皇を比定する説もあり)。一方で、岡田英弘は「応神天皇の五世孫」として即位した越前国出身の26代継体天皇の祖先神であるとして、その実在性を否定する[11]。『記紀』において次帝の仁徳天皇の条と記述の重複・混乱が見られることから、両者を同一人物と考える説もある。

諡号か実名か

諡号である「誉田別」(ほむだわけ)は生前に使われた実名だったとする説がある。応神天皇から26代継体天皇にかけての名は概して素朴なもので装飾性が少なく、21代雄略天皇の「幼武」(わかたける)のように明らかに生前の実名と証明されたものもある[12]。しかし確実性を増してからの書紀の記述によれば、和風諡号を追号するようになったのは6世紀の半ば以降と見られる。

『日本書紀』には、吉備臣の祖として「御友別」(みともわけ)の名が、『古事記』には、近江の安(やす)国造の祖先として「意富多牟和気」(おほたむわけ)の名が見えるが、これらの豪族の名の構成は「誉田別」と全く同じである。これらのことから、「ワケ」(別・和気・和希などと表記)の称を有する名は4世紀から5世紀にかけて皇族・地方豪族の区別なく存在し、ごく普遍的に用いられた名であることが解る。事実、12代景行・17代履中・18代反正の各天皇の名にも「ワケ」が含まれており、実名を基にした和風諡号である可能性が高い。なお、この「ワケ」の語義ならびに由来については諸説あって明らかにしがたい。『古事記』では、景行天皇が設置した地方官の官職名であり、皇族から分かれて諸地方に分封された豪族の称としているが、これは観念的説明であろう(としての「ワケ」の項も参照)。

系譜

父は14代仲哀天皇で母は神功皇后とされるが、異説も多い。その理由は既述の通り応神の出生に謎が多いことによる。仲哀以外の父として「是に皇后、大神と密事あり」とある住吉三神[13]や、神功皇后に近侍していた武内宿禰とする説もある。安本美典は応神を神功皇后と武内宿禰との間の子であり、本来の後継者であった坂皇子と忍熊皇子を押しのけて皇位に即いたとし、武内宿禰が応神の父であると考えればその後裔である葛城氏蘇我氏の興起もうまく説明できるとしている[14]。なお武内宿禰も皇族であることから、仲哀帝が父でなくても王朝交代とまでは言えない。

紀年

年代に関して、『日本書紀』では応神天皇3年条に百済の辰斯王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」の辰斯王が死去したと記述されている年は西暦392年である。また、『日本書紀』では応神天皇8年条に「百済記(百済三書の一つ)には、阿花王(あくえおう、あかおう)が王子直支を遣わしたとある。」と記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が太子腆支(直支のこと)を遣わしたと記述されている年(阿莘王6年)は西暦397年である。また、『日本書紀』では応神天皇16年条に百済の阿花王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が死去したと記述されている年(阿莘王14年)は西暦405年である。[15][16] (詳しくは百済史年表を参照)また、『日本書紀』では応神天皇25年条に直支王が死去したことが記述されているが、『三国史記』「百済本紀」において腆支王が死去したと記述されている年は西暦420年である。『日本書紀』では応神天皇39年条に直支王が妹の新斉都媛と7人の女性を遣わしたともあり、明白に矛盾する記述となっている。

新王朝説

応神天皇をそれ以前の皇統とは無関係な人物と考え、新たに興った新王朝の創始者とする説がある。この応神から始まる王朝は河内に宮や陵を多く築いていることから「河内王朝」、また「ワケ」の名がついた天皇が多いことから「ワケ王朝」などと歴史学上呼称される(詳細は王朝交替説の項目を参照)。

こうした説が唱えられる理由として出生にまつわる謎がある。父母は14代仲哀天皇とその皇后である神功皇后であるが(後述)、この両者はどちらも実在が疑われることが多い。また伝承の項にもある通り出生時の状況も不自然であり、母である神功皇后が身重でありながら朝鮮に赴き、出産を遅らせて三韓征伐を指揮し、九州に帰国した際に生まれたとされている。広開土王碑などの国外史料からも実証できるように4世紀末に倭国が朝鮮半島に侵攻をかけて百済と新羅を服属させたことは歴史的事実ではあるが、『記紀』における三韓征伐の記述は神話的でありそのまま信用することはできない。さらに父が死んだ後に生まれた子であり『書記』によればその出生日が父の死からちょうど十月十日であることも信頼を疑わせる根拠となっている。

井上光貞は、『記紀』に応神が九州の産まれで異母兄弟の坂皇子忍熊皇子達と戦って畿内に入ったという記述があることから、応神は本来ヤマト王権に仕えていた九州の豪族であり、朝鮮出兵を指揮する中で次第に中央政権をしのぐ力をつけて皇位を簒奪し、12代景行天皇の曾孫である仲姫命を娶ることによって入婿のような形で王朝を継いだのではないかと推測している。仲哀天皇と先帝の13代成務天皇はその和風諡号が著しく作為的(諡号というより抽象名詞に近い)であり、その事績が甚だ神話的であることから実在性を疑問視されることが多く、井上はこの二帝は応神の皇統と10代崇神天皇から景行天皇までの皇統を接続するために後世になって創作された存在と考察している[17]。一方宝賀寿男は井上の説と前半までは同旨であるが、系譜研究と暦年研究から仲姫命の父・五百城入彦皇子を成務天皇と同人であると見て、仲哀天皇も応神天皇と同世代であるとしている[18]。天皇の神話的な物語は後世の潤色、表象、転訛に過ぎず、その程度の不合理さだけで大王家の歴史的な流れや諸豪族の系譜を無視した勝手な系譜改変、非実在説を唱える立場の者に対して非科学的、非論理的であるとしている[19]。また直木孝次郎は、それまで大和地方に拠点を置いていたヤマト王権が応神の代より河内地方に拠点を移していることから、河内の豪族だった応神が新たな王朝を創始したと推測している[20]

脚注

  1. ^ 山尾幸久「日本国家の形成」岩波新書、1977年
  2. ^ 飯沼賢司『八幡神とはなにか』角川学芸出版, 2004, p.98
  3. ^ 宇佐神宮|宇佐神宮について - ご祭神
  4. ^ 雌鳥皇女 めとりのおうじょKotobank
  5. ^ a b 『日本書紀(二)』岩波書店 ISBN 9784003000427
  6. ^ 岡田隆夫「軽島豊明宮」『国史大辞典』 吉川弘文館。
  7. ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
  8. ^ 宇佐神宮|宇佐神宮について - 由緒
  9. ^ 「道教について」『日本の道教遺跡を歩く』(福永光司千田稔・高橋徹著、朝日新聞社)
  10. ^ (井上 1973)P373-374
  11. ^ (岡田 1977)P189-190
  12. ^ (赤城 2006)P118
  13. ^ 住吉大社神代記
  14. ^ (安本 1999)P43
  15. ^ 阿花王(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)(朝日新聞社コトバンクより)。
  16. ^ 『日本古代氏族人名辞典 普及版』(吉川弘文館、2010年)阿花王項。
  17. ^ (井上 1973)P275-280、377-380
  18. ^ 宝賀寿男『巨大古墳と古代王統譜』青垣出版、2005年、298頁。
  19. ^ 宝賀寿男『「神武東征」の原像』青垣出版、2006年。
  20. ^ (直木 1990)P28、183-184

参考文献

  • 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6 
  • 岡田英弘『倭国』中央公論社〈中公新書〉、1977年。ISBN 4-12-100482-5 
  • 直木孝次郎『日本神話と古代国家』講談社〈講談社学術文庫〉、1990年6月。ISBN 4-06-158928-8 
  • 安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3 
  • 安本美典『応神天皇の秘密』廣済堂出版、1999年11月。ISBN 4-331-50704-1 
  • 赤城毅彦『『古事記』『日本書紀』の解明: 作成の動機と作成の方法』文芸社、2006年。ISBN 4286017303 

関連項目

外部リンク