「野菊の墓 (映画)」の版間の差分
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企画、監督選定経緯等、加筆。 タグ: サイズの大幅な増減 |
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=== 企画 === |
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企画は東映[[映画プロデューサー|プロデューサー]]・[[吉田達]]<ref name="kinejun8662">{{Cite journal|和書 |author=吉田達|year=1986|title=我等生涯最良の映画(50) 新人監督誕生の瞬間 『野菊の墓』|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1986年]]([[昭和]]61年)[[6月]]下旬号|pages=143-145|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。吉田は[[東陽一]]監督が[[1979年]]に『[[もう頬づえはつかない]]』を低予算で製作しながら大ヒットさせた手腕に感心し{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=304-305}}、劇場に女性客が多いことに驚いた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=304-305}}。女性客は画面の軽快な[[ナウい]]会話に、一々反応して楽しんでいる<ref name="kinejun8662"/>、東映調とは全く違った[[洋画]]テイストと、さりげない[[エンディング]]に興奮した<ref name="kinejun8662"/>。さっそく東と組み、[[烏丸せつこ]]主演で『[[四季・奈津子]]』(1980年)を製作し{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=304-305}}<ref>{{Cite journal|和書 |author=[[東陽一]]・前田勝弘・吉田達・林冬子|year=1980|title=特集・座談会異なるフィルターが集まり一所懸命ぎくしゃくした中から生まれた『四季・奈津子』|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1980年]]([[昭和]]55年)[[9月]]上旬号|pages=58-62|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>、当時の日本映画では珍しい女性映画を大ヒットさせた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=304-305}}。また東映本社近くの喫茶店に入ったとき、若いカップルの行動を観察していたら、主導権が女性が持っていることに気づいた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。女性が観たい映画を男性も付き合っている、それなら、自分の大好きな[[木下惠介]]監督の『[[野菊の如き君なりき]]』を[[リメイク]]して、女性が泣ける『野菊の墓』をやってみたい、主演は人気が急上昇していた[[松田聖子]]で作ってみたい、と思いついた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。吉田は東映が全社的に荒々しいタッチの映画に傾斜していく中、女性路線は諦め、会社の意向に沿う企画を心がけていたが<ref name="kinejun8662"/>、先輩女優もおらず、男優オールスターに囲まれながら自力で育った[[佐久間良子]]と[[三田佳子]]に対する思いがあり<ref name="kinejun8662"/>、いつかまた女性映画を手掛けてみたいという気持ちを持ち続けていた<ref name="kinejun8662"/>。 |
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問題は[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[東映]]社長の説得{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。岡田は1971年の社長就任以降、1978年まで[[役員 (会社)#専務、常務、執行役、執行役員|副社長、専務どころか、常務]]すら一人も置かず{{sfn |活動屋人生|2012| p=124}}<ref>{{Cite journal | 和書 |author = | journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] | volume = 1977年7月号| title = 東映株式会社製作関係人事一覧 | publisher = [[日本シナリオ作家協会]] | pages = 24-25 }}{{Cite journal | 和書 |author = | journal = 商事法務 No.33 | volume = 1986年12月号 | title = 取締役選任議案ー東映等3社が特別利害関係を記載 | publisher = [[商事法務研究会]] | pages = 134-135 }}</ref>{{refnest|group=注|[[大川博]]への恩から、大川の長男・大川毅を[[代表取締役]]として処してはいたが<ref name="kinejun86121">{{Cite journal|和書 |author=脇田巧彦・川端靖男・斎藤明・[[黒井和男]]|year=1986|title=洋画配給部の不振がひびき、増収減益となった東映の第59期決算と役員人事|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1986年]]([[昭和]]61年)[[12月]]上旬号|pages=172-173|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>、実際は傍系会社の取締役会の[[議長]]のような[[閑職]]に追いやっていた<ref>{{Cite journal | 和書 |author = | journal = [[週刊新潮]] | volume = 1980年1月31号| title = 寂しい『東映の御曹司』 | publisher = [[新潮社]] | page = 13 }}</ref>。1986年10月23日付けで大川毅は東映を退職<ref name="kinejun86121"/>。東映は完全に岡田茂の会社になった<ref name="kinejun86121"/>。大川退社に伴い、東映では初めての[[役員 (会社)#相談役・顧問|取締役相談役]]に[[五島昇]]と[[瀬島龍三]]を迎えた<ref name="kinejun86121"/>。}}、1986年にようやく専務を置いたが、長く自分以外に[[役員 (会社)|役員]]を置かない<ref name="kinejun82121">{{Cite journal|和書 |author=高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男|year=1982|title=洋画配給部の不振がひびき、増収減益となった東映の第59期決算と役員人事|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1982年]]([[昭和]]57年)[[12月]]上旬号|pages=168-169|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>完全なワンマン体制を敷いていて{{sfn |活動屋人生|2012| p=124}}<ref>[http://eiga.com/movie/86671/critic/ 孤狼の血 : 映画評論・批評 - 映画.com]、{{cite book|和書 |author=西川昭幸|title=日本映画一〇〇年史 {{small|そうだったのか!あの時、あの映画 明治・大正・昭和編}}|date=2012-9|publisher=[[ごま書房新社]]|isbn=978-4-341-13250-7|page=403}}{{Cite book | 和書 | author = [[品川隆二]]・円尾敏郎 | title = 品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二 | publisher = [[ワイズ出版]] | year = 2007 | id = ISBN 978-4-89830-206-4 | page= 150 }}</ref><ref name="keizaikai85212" >{{Cite journal |和書 |author = |title =最高値は映画界のドン・岡田茂 にっかつ・根本悌二は額面割れ 期待株の東宝・松岡功、角川春樹は功罪半ばー |journal =[[経済界 (出版社)|経済界]] | volume = 1985年2月12日号 |publisher =経済界 | pages=96-97 }}</ref><ref name="cine-front81_87" >{{Cite journal|和書|author=岡本明久・星野行彦・富田泰和|date=1987年4月号|title=日本映画の現状をどう打開するか(5) 東映の労働運動は岡田社長ワンマン体制を打破し企画と経営の民主化をかちとることが目標です|journal=シネ・フロント|publisher=シネ・フロント社|pages=52-57}}{{Cite journal|和書|author=|date=1983年3月号|title=一九八〇年の日本映画を考える(上) 企画が行き詰ったとき、いつでも帰っていける安全な世界だった『二百三高地』 植田泰治・東映テレビ局プロデューサー|journal=シネ・フロント|publisher=シネ・フロント社|page=20}}{{Cite journal|和書|author=堀江毅|date=1984年3月号|title=1983年の日本映画を考える=2 1億円かけて1人の作家を育てる力はないと会社はいうけれど...|journal=シネ・フロント|publisher=シネ・フロント社|page=29}}</ref>、[[代表取締役|代表権者]]を盾に<ref name="cine-front81_87" /><ref name="映画撮影93_95_97" >{{Cite journal |和書 |date = 1993-8 |author =香西靖仁 |title =日活の会社更生法申請の事実に迫る |journal =映画撮影 |issue =No.202 |publisher =[[日本映画撮影監督協会]] | pages = 30 }}{{Cite journal |和書 |date = 1995-4 |author = |title =全東映労連映研集会『どうしたら東映映画は再生できるか』 |journal =映画撮影 |issue =No.223 |publisher =日本映画撮影監督協会 | pages = 40 }}{{Cite journal |和書 |author=杉崎光俊・高橋邦夫・緒形承武・木崎敬一郎|date = 1997-1 |title =1997年を迎えた日本映画の現状を語る 全東映労連映研集会 『空前の危機に見舞われて日本映画大手はやっと思い腰を上げるか』 |journal =映画撮影 |issue =No.243 |publisher =日本映画撮影監督協会 | pages = 28 }}</ref>、岡田好みの企画しか絶対に通さず<ref name="keizaikai85212" /><ref name="映画撮影93_95_97" /><ref name="cine-front81_87" />、岡田が了解しなければ東映で映画は製作されなかった<ref name="keizaikai85212" /><ref name="cine-front81_87" /><ref name="映画撮影93_95_97" />{{Sfn|活動屋人生|2012|p=45}}<ref>{{Cite journal|和書|author=|date=1984年10月下旬号|title=映画・トピック・ジャーナル東映がプロパーの半期配収で9年ぶりに新記録を樹立。その成功の要因を探ってみるとー|journal=[[キネマ旬報]]|publisher=[[キネマ旬報社]]|page=164}}{{Cite journal|和書|author=|date=1998年10月号|title=〔財界) 今月の人脈・人事研究 『岡田東映会長Jr.人事異動で松竹連想の不謹慎 映画営業担当就任で吉凶どちらかはなべて実績 後継への一里塚』|journal=月刊 財界人|publisher=政経通信社|page=37}}</ref>。 |
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⚫ | [[1981年]][[2月10日]]、[[東映|東映本社]]8階会議室で、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映社長、[[高岩淡]]東映常務、吉田達東映[[映画プロデューサー|プロデューサー]]、[[相澤秀禎]][[サンミュージックグループ|サンミュージック]]社長、[[澤井信一郎]]監督、[[松田聖子]]の6名が列席し、企画発表が行われた<ref name="kinejun81_3_2">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=製作発表|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[3月]]下旬号 p.179|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。岡田東映社長は「相澤氏の全面協力を受け、松田聖子の主演でお盆作品として期待している。この作品を東映の新たな進路としてヤングを総動員してみたい」と話した<ref name="kinejun81_3_2" />。相澤サンミュージック社長は「松田聖子を東映に全面的にあずけた。最初は原作ものを考えていたので、この『野菊の墓』はぴったり。主題歌になるようなものも考えている」と話した<ref name="kinejun81_3_2" />。松田 |
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ある日、企画会議で岡田が「[[ヤクザ映画]]は男性が女性を連れてくる」と言ったため、吉田はすかさず手を挙げ「『[[クレイマー、クレイマー]]』を観ているカップルは、男性は眠っていて女性が涙しています。今は女性が男性を連れてくる時代なんです」と意見したら、「そんなことわかっとる!!」と30分間説教された{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。岡田は撮影所長時代は企画者たちを週に一度集めて話し合いをしていたが、社長になってからは「プロデューサーはアイデア勝負だから、いつでも社長室に来い」とプロデューサーに伝えていた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。吉田が「女性が泣ける『野菊の墓』をやりたいんです!」と岡田に訴えたら、案の定、「[[松竹]]に持って行け!」と言われて終わり。検討すらされなかった{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。 |
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企画が通る前の1980年[[10月25日]]、吉田は[[新宿コマ劇場]]横の[[アマンド]]で、松田聖子の[[芸能事務所|所属事務所]]・[[サンミュージックグループ|サンミュージック]]・森口健専務と交渉<ref name="kinejun8662"/>。「[[東宝]]から既に松田聖子主演企画が持ち込まれている」といきなり言われ、目の前真っ暗に。[[ハードボイルド|ハードタッチ]]の東映からの話に「それで..東映さんはどんな企画で?」と不安そうに言われた<ref name="kinejun8662"/>。ところが「『野菊の墓』を」と伝えると森口の顔が途端にほころんだ。サンミュージック企画部の第一位案が『野菊の墓』だった<ref name="kinejun8662"/>。こんなことは滅多になく、単なるアイドル映画ではなく、きちんとした[[文芸作品]]に松田聖子を主演させるという基本線も全く森口と意見が一致した<ref name="kinejun8662"/>。サンミュージック・[[相澤秀禎]]社長の了解も得て、撮影に充てる10ヶ月先の松田のスケジュールを押さえてもらった{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。しかし岡田社長がなかなか企画を通してくれない{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。人気絶頂になりつつあった松田聖子をせっかく押さえたのにその価値が分かってもらえない。困り果て営業のトップである鈴木常承営業部長に岡田の説得を頼み、何とか企画が通った{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。 |
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⚫ | サンミュージックサイドとしては、松田が[[郷ひろみ]]との噂が立ち始めたため{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| p=155}}、その対応策としてサンミュージックと所属[[レコード会社]]・[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS・ソニー]]とで話し合いがもたれ、[[コマーシャルメッセージ|CM]]を持っていた[[資生堂]]から「噂が立てば、レコードの売り上げが落ちることは否定できません」と示唆され{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| p=155}}、松田を郷のイメージに固定させないために企画されたとされる{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| p=155}}。[[山口百恵]]と[[三浦友和]]のように、映画や[[テレビドラマ]]の共演を切っ掛けに、恋人関係に発展したケースも多く、またファンもそのように見ることも多いことから<ref>{{Cite journal|和書|author=|year=|title=私の次回作 野菊の墓 澤井信一郎|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1988年]]([[昭和]]63年)[[1月]]上旬号 p.91|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>、それを期待したものと考えられる{{sfn |アイドル映画|2003| pp=35-39}}。 |
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1980年暮れにかけての松田の人気爆発で<ref name="roadshow8102" >{{cite journal | 和書 |author = 河原一邦 | journal = [[ロードショー (雑誌)|ロードショー]] | volume = 1981年2月号| title = 邦画マンスリー | publisher = [[集英社]] | pages = 236 }}</ref>、東宝、松竹も松田の映画主演企画を連日、サンミュージックに売り込む事態となったが東映が選ばれた<ref name="roadshow8102" />。松田に『野菊の墓』出演が伝えられたのは1981年の[[正月]]で<ref name="kindai8104" />、松田は内容は忘れていたが、中学の時に原作を読んだことがあり引き受けたという<ref name="kindai8104" />。撮影が始まる5月までに髪を伸ばしてカツラでなく、自分の髪で民子の髪型に結いたいと最初は話していた<ref name="kindai8104" />。 |
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=== 監督 === |
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吉田が岡田社長にサンミュージックの意向を伝えると、岡田は監督に[[市川崑]]を構想<ref name="kinejun8662"/>{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。1980年[[11月27日]]、吉田に交渉に行かせた<ref name="kinejun8662"/>{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。自身は東映本社で待機<ref name="kinejun8662"/>。しかし市川には「"派"が違う」と断られた<ref name="kinejun8662"/>{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。[[青山 (東京都港区)|青山]]から[[銀座]]の本社まで帰路に着く10分間のタクシーの車内で、吉田は算段を巡らせた。「予算が多くない中、大監督に断られた以上、若い意欲とフレッシュな感性を起用して、[[ギャランティー|ギャラ]]の差を製作費に投入できないか、そうだ、社員のチーフ[[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]の[[澤井信一郎]]が純粋な作品をやりたいと言ってたな」と考えていたら<ref name="kinejun8662"/>{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}、あっという間に本社に到着し、社長室に直行。市川に断られたと報告すると岡田は"派"の話に感心した{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。続いて先の発想を上申すると岡田に「誰かいるか?」と言われたので、「澤井チーフ助監督が、二、三週間、日曜になると我が家に来て『野菊の墓』の監督は私以外にない、是非、監督させてくれ、と強烈に迫っています。彼の情熱に応えて、監督に起用させて下さい」と真剣に頼むと、「よし、じゃあ澤井を呼べ」と言われ、翌日、吉田と澤井で岡田に会い、澤井の監督起用が決まった<ref name="kinejun8662"/>{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=130-134}}。澤井も木下監督の『野菊の如き君なりき』が好きだったこともあり引き受けた{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=130-134}}。何も知らない澤井には、咄嗟に作り話をした事情を説明し、岡田の前では話を合わせてくれと頼んでいた<ref name="kinejun8662"/>。吉田は「岡田社長は自分の嘘は見抜いていながら、社長のプロデューサー的感覚が、澤井の才能を認めて起用に賛成してくれた。才能は、才能を認めて伸ばしてくれる上司がいなければ育たない見本だと思う」と話している<ref name="kinejun8662"/>。 |
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⚫ | 澤井は助監督歴20年、42歳にして初監督作<ref name="kinejun81_6_2">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=私の次回作 野菊の墓 澤井信一郎|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[6月]]下旬号 p.185|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。30歳を過ぎた頃から、本作のプロデューサー・吉田達らに何度も監督昇進を打診されていたが<ref name="kinejun8662"/>、企画が気に入らないと何度も見送って「断り魔」のようになり、さらに[[1970年代]]後半から大作主義が来て、東映も自社製作が減り、監督をするチャンスは減った<ref name="kinejun8662"/><ref name="kinejun81_6_2" />。監督デビュー作は[[1974年]]の『[[任侠花一輪]]』の予定だったが、脚本の[[村尾昭]]と揉め辞退した{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=173-175、204}}。東映社員の新人監督抜擢は[[1976年]]『[[横浜暗黒街 マシンガンの竜]]』の[[岡本明久]]以来で{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=130-134}}、しばらく新人監督登用がなかったため<ref name="kinejun8662"/>、撮影所の熱気が上がり、全員で澤井新監督をバックアップした<ref name="kinejun8662"/>。澤井は「全編に渡り、木下さんの物真似にならないよう、どこまで木下さんから離れるか苦労した」と述べている{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=130-134}}。 |
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⚫ | [[1981年]][[2月10日]]、[[東映|東映本社]]8階会議室で、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]東映社長、[[高岩淡]]東映常務、吉田達東映[[映画プロデューサー|プロデューサー]]、[[相澤秀禎]][[サンミュージックグループ|サンミュージック]]社長、[[澤井信一郎]]監督、[[松田聖子]]の6名が列席し、企画発表が行われた<ref name="kinejun81_3_2">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=製作発表|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[3月]]下旬号 p.179|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。岡田東映社長は「相澤氏の全面協力を受け、松田聖子の主演でお盆作品として期待している。この作品を東映の新たな進路としてヤングを総動員してみたい」と話した<ref name="kinejun81_3_2" />。相澤サンミュージック社長は「松田聖子を東映に全面的にあずけた。最初は原作ものを考えていたので、この『野菊の墓』はぴったり。主題歌になるようなものも考えている」と話した<ref name="kinejun81_3_2" />。松田は[[サンレモ音楽祭]]から帰国した翌日に出席<ref name="kindai8105" />。「デビューして1年になるが、素晴らしい役が出来てうれしい。前作は見ていないが、原作を読んで民子に感激した。映画は初めてなので、一生の思い出になるように、頑張っていい作品にしたい」と話した<ref name="kinejun81_3_2" />。この日の会見で松田は映画で演じる民子の衣装で出席したが<ref name="kindai8105" >{{cite journal | 和書 |author = | journal = 近代映画 | volume = 1981年5月号| title = 松田聖子三つの扉!19歳は最高にステキな年齢だって気がするの | publisher = [[近代映画社]] | pages = 60-63 }}</ref><ref name="kindai8107" >{{cite journal | 和書 |author = | journal = 近代映画 | volume = 1981年7月号| title = 松田聖子に急迫アタック 私が民子だったら絶対嫌いなひととはケッコンしません | publisher = 近代映画社 | pages = 68-71 }}</ref><ref name="kindai8109" >{{cite journal | 和書 |author = | journal = 近代映画 | volume = 1981年9月号| title = 松田聖子初主演映画『野菊の墓』〔総集編〕 楚々とした一輪差しの花に似て | publisher = 近代映画社 | pages = 72-77 }}</ref>、別の日に同じ衣装でマスコミ披露もあった<ref>{{cite journal | 和書 |author = | journal = [[SCREEN (雑誌)|SCREEN]] | volume = 1981年5月号| title = 洋画ファンのための邦画コーナー ヒットをねらうアイドル歌手の主演映画と話題を呼ぶ大作 | publisher = 近代映画社 | page = 234 }}</ref>。サンミュージックは『野菊の墓』1本だけではなく、今後も積極的に協力したいと岡田東映社長に申し入れ、両者は松田聖子を東映の盆暮(夏休みと正月興行)の看板にしたいと構想した<ref name="kinejun81_3_2_166">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=映画・トピック・ジャーナル "たのきん""松田聖子"等のアイドル・タレントを起用しての映画作りへ走る邦画各社 邦画3社がヤング指向路線確立|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[3月]]下旬号 pp.166-167|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。百恵・友和映画がなくなったため、松田聖子の人気をもってすれば、東映は大きなチャンスではないかという見方もあり<ref name="kinejun81_3_2_166"/>、関係者は「『野菊の墓』の成否により、今後の聖子の動向が決まる」と見ていた{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| p=155}}。 |
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=== ヤング指向路線 === |
=== ヤング指向路線 === |
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"アイドル映画"は[[東映]]は得意と言えず{{sfn |アイドル映画|2003| pp=68-73}}、[[東宝]]や[[松竹]]の方が実績があった<ref name="kinejun82_2_2">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=1981年度決算映画・トピック・ジャーナルワイド座談会 82年邦画界の展望を語る 黒井和男他|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1982年]]([[昭和]]57年)[[2月]]下旬号 pp.204-210|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。松田の所属事務所である[[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]の先輩タレント、[[森田健作]]や[[桜田淳子]]は、松竹が製作するケースが多かった<ref name="kinejun82_2_2" />。「東映が{{要追加記述範囲|最も東映らしからぬ映画|date=2017年8月}}を製作すること自体が驚き」と言われた<ref name="kinejun82_2_2" /> |
"アイドル映画"は[[東映]]は得意と言えず{{sfn |アイドル映画|2003| pp=68-73}}、[[東宝]]や[[松竹]]の方が実績があった<ref name="kinejun82_2_2">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=1981年度決算映画・トピック・ジャーナルワイド座談会 82年邦画界の展望を語る 黒井和男他|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1982年]]([[昭和]]57年)[[2月]]下旬号 pp.204-210|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。松田の所属事務所である[[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]の先輩タレント、[[森田健作]]や[[桜田淳子]]は、松竹が製作するケースが多かった<ref name="kinejun82_2_2" />。松竹は、盆と正月に「[[男はつらいよ]]」を[[ロングラン]]上映していたため、盆と正月に松田聖子の映画を看板にすることは出来なかった。「東映が{{要追加記述範囲|最も東映らしからぬ映画|date=2017年8月}}を製作すること自体が驚き」と言われた<ref name="kinejun82_2_2" />。 |
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=== ポスト百恵 === |
=== ポスト百恵 === |
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松田聖子の相手役を一般公募するパターンは、東宝の百恵・友和コンビが歩んだ道を踏襲したものであった<ref name="kinejun81_3_2_166" />。製作発表が行われた1981年2月の時点で松田は"ポスト百恵"と目される人気ナンバー1歌手と評されており<ref name="kinejun81_3_2" />、「山口百恵引退後、アイドル歌手ナンバー1の座についた松田聖子が、映画の世界でも"ポスト百恵"をめざした主演第一作」と宣伝された<ref name="kinejun81_8_2">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=グラビア 野菊の墓|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[8月]]下旬号 pp.36-37|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。デビュー直後の松田聖子は、歌手と女優の両面で語られる山口百恵のような存在になることを{{sfn |アイドル映画|2003| pp=28-47}}、当初は目指していたものと考えられる<ref name="kinejun81_3_2_166" />{{sfn |聖子と明菜|2007| pp=162-166}}。松田自身もそれを意識していたといわれる{{sfn |聖子と明菜|2007| pp=162-166}}。山口百恵は、[[1975年]]の正月映画『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』から、[[1981年]]の正月映画として引退記念映画『[[古都 (1980年の映画)|古都]]』が公開されるまで、5年の間、[[ホリプロ]]と東宝で年2本、主演映画がコンスタントに製作され、興行の重要期間である正月と[[ゴールデンウイーク]]か、[[夏休み]]に公開された。岡田東映社長は、「東宝が山口百恵で売っていた8月を今度は東映で頂く。人気絶大となった松田聖子を夏の勝負どころに出す」などと話した{{sfn |活動屋人生|2012| p=150、154-156頁}}。 |
松田聖子の相手役を一般公募するパターンは、東宝の百恵・友和コンビが歩んだ道を踏襲したものであった<ref name="kinejun81_3_2_166" />。製作発表が行われた1981年2月の時点で松田は"ポスト百恵"{{refnest|group=注|山口百恵は、1980年3月7日に三浦友和との婚約発表と芸能界引退を同時に発表したが、婚約はまだしも、まだ21歳で人気絶頂でもあり、芸能界引退に関しては当時のマスメディアは懐疑的だった<ref name="w-asahi80829" >{{Cite journal | 和書 |author = | journal = [[週刊朝日]] | volume = 1980年8月29号| title = 〈真相の真相〉 郁恵vs.淳子の新ライバル関係が誕生 | publisher = [[朝日新聞社]] | page = 37 }}</ref>。山口百恵は[[ホリプロ]]の売上げの半分近くを稼ぎ出す[[ドル箱]]で<ref name="w-asahi80829" /><ref>{{Cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊サンケイ | volume = 1980年10月16日号 | title = ポスト百恵候補 石野真子の結婚 | publisher = 産業経済新聞社 | page = 32 }}</ref>、必死の説得を続けたが、山口の意思が固く、[[堀威夫]]社長の説得も不調に終わり、ホリプロが同年10月15日の山口の引退に向けてサヨナラ商法に切り替えたとき<ref name="w-asahi80829" />、"山口百恵は本当に芸能界を引退する"とマスメディアが認識した。同年の夏頃から、山口百恵の持っていたポジションを誰が奪うかという意味で"ポスト百恵"という言葉を使い始めた<ref name="w-sankei80724" >{{Cite journal | 和書 |author = 塩沢茂・[[梨元勝]]・[[野添和子]]・[[小池聰行]]・[[武敬子]]・桑原稲敏・藤原いさむ | journal = [[SPA!|週刊サンケイ]] | volume = 1980年7月24日号 | title = 芸能界の後継者争い『ポスト百恵』候補10人の品定め | publisher = [[産業経済新聞社]] | pages = 170-172 }}</ref><ref name="w-yomiuri801019" >{{Cite journal | 和書 |author = | journal = [[週刊読売]] | volume = 1980年10月19号| title = 中高生のアイドル彗星! 松田聖子前データ アイドル不在のいま、山口百恵二世になり得るか | publisher = [[読売新聞社]] | pages = 169-169 }}</ref>。}}と目される人気ナンバー1歌手と評されており<ref name="kinejun81_3_2" />、「山口百恵引退後、アイドル歌手ナンバー1の座についた松田聖子が、映画の世界でも"ポスト百恵"をめざした主演第一作」と宣伝された<ref name="kinejun81_8_2">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=グラビア 野菊の墓|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[8月]]下旬号 pp.36-37|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。[[マスメディア]]でも「松田聖子が"ポスト百恵"の座を獲得するかどうか、最初の映画『野菊の墓』にかかっている」と書かれた<ref name="kindai8104" >{{cite journal | 和書 |author = | journal = 近代映画 | volume = 1981年4月号 | title = 松田聖子・最新情報完全レポート!キミが相手役になるチャンスもあるゾ! | publisher = [[近代映画社]] | pages = 60-63 }}</ref>。当時の芸能界は、山口百恵のように映画、テレビドラマに積極的に進出しなければ、歌だけのアイドルの人気は長持ちしないと見られていた<ref name="w-yomiuri801019" />。デビュー直後の松田聖子は、歌手と女優の両面で語られる山口百恵のような存在になることを{{sfn |アイドル映画|2003| pp=28-47}}、当初は目指していたものと考えられる<ref name="kinejun81_3_2_166" />{{sfn |聖子と明菜|2007| pp=162-166}}。松田自身もそれを意識していたといわれる{{sfn |聖子と明菜|2007| pp=162-166}}。山口百恵は、[[1975年]]の正月映画『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』から、[[1981年]]の正月映画として引退記念映画『[[古都 (1980年の映画)|古都]]』が公開されるまで、5年の間、[[ホリプロ]]と東宝で年2本、主演映画がコンスタントに製作され、興行の重要期間である正月と[[ゴールデンウイーク]]か、[[夏休み]]に公開された。岡田東映社長は、「東宝が山口百恵で売っていた8月を今度は東映で頂く。人気絶大となった松田聖子を夏の勝負どころに出す」などと話した{{sfn |活動屋人生|2012| p=150、154-156頁}}。 |
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松田聖子の売り出しは、サンミュージック社長・[[相澤秀禎]]がテレビ[[コマーシャルメッセージ|CM]]の活用を第一戦略に据え<ref name="現代892" >{{Cite journal | 和書 | author = [[相澤秀禎]] | date = 1989年2月号 | title = 所属プロ社長が明かす怪女『松田聖子』の虚実| journal = 現代 | publisher = 清流社 | pages = 178-187 }}</ref>、当時"スターへの[[登龍門]]"といわれた[[資生堂]]と[[江崎グリコ]]のCM出演のうち<ref name="w-sankei82422" >{{Cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊サンケイ | volume = 1982年4月22日号 | title = '82新人タレントたちの"生き残り合戦" | publisher = 産業経済新聞社 | page = 167 }}</ref>、まず1980年4月に資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMソングに起用された<ref name="w-yomiuri801019" />{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=115}}<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20130619_194639.html デビュー前の松田聖子 芸能事務所5社から断られていた過去][https://dot.asahi.com/wa/2016080500068.html?page=2 デビュー当時、実は2番手だった松田聖子、大逆転したワケ]</ref>。同月、これも"若手アイドルの登龍門"といわれた{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| p=139}}『[[レッツゴーヤング]]』([[NHK総合テレビジョン|NHK]])に他の歌手に決まっていた[[レッツゴーヤング#サンデーズ|サンデーズ]]の代役メンバーとしてレギュラー出演<ref name="kindai8105" /><ref name="w-yomiuri801019" />。山口百恵と同じレコード会社である[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS・ソニー]]が、松田聖子を"第二の百恵"にしようと巨額な資金を用意して売り出しにかかり<ref name="現代892" />{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=128-131}}、サンミュージックが異例中の異例の大バクチといわれた3000万円<ref name="現代892" />、CBS・ソニー4000万円の総額7000万円を用意した<ref name="現代892" />{{refnest|group=注|デビュー後、9年間の売上げは746億円<ref name="現代892" />。}}。1980年夏あたりから、マスメディアが言い始めた"ポスト百恵"の候補の一人になり<ref name="w-asahi80829" />{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=128-131}}、二曲目の『[[青い珊瑚礁 (曲)|青い珊瑚礁]]』が、江崎グリコの[[アイスクリーム]]・ヨーレルの[[コマーシャルソング|CMソング]]となり<ref name="w-yomiuri801019" />、[[日本高等学校野球連盟|高野連]]から[[第62回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]入場行進のテーマソングに推薦され{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=128-131}}、甲子園出場チーム全選手アンケートで人気ナンバーワンアイドルにも選ばれ関係者を驚かせた<ref name="w-yomiuri801019" />。各プロダクションがラインナップした新人も強力であったが<ref name="現代892" />、[[田原俊彦]]と共演するグリコチョコレート/セシルチョコレートのCM出演が決まった1980年9月以降は<ref name="w-yomiuri801019" /><ref name="w-sankei82422" /><ref>{{Cite journal|和書|author=|date=1980年10月号|title=理想の男性は『前に出ると可愛くなれるひとがいいナ』 松田聖子|journal=映画情報|publisher=[[国際情報社]]|pages=3}}</ref>、"二重丸の本命"<ref name="w-yomiuri801019" />、"ポスト百恵"の最有力<ref name="w-asahi80829" /><ref>{{Cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊サンケイ | volume = 1980年10月16日号 | title = ポスト百恵候補 石野真子の結婚 | publisher = 産業経済新聞社 | page = 32 }}</ref>、"ポスト百恵"の第一候補<ref>{{Cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊読売 | volume = 1980年11月16号| title = '80年NHK紅白歌合戦 出る人 落ちる人 全予想 | publisher = 読売新聞社 | pages = 43 }}</ref>などと呼ばれ始めていた。 |
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政夫役は一般公募オーディションで16歳から22歳までの男性と規定され<ref name="kinejun81_3_2" />、2万人の中から選ばれた当時16歳の高校生・桑原正(くわはら まさし)。当時の『[[キネマ旬報]]』にも2万1000人の中から選ばれたと書かれているが<ref name="kinejun81_8_2" />、監督の[[澤井信一郎]]は、何故か「"2000人"くらいの応募で{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}、書類選考で100人くらいを選び、自身が桑原を選んだ」と話している{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。松田聖子の大ファンだった[[クリス松村]]も同じオーディションを受けたが落ちたという。 |
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=== 野菊の墓 === |
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『野菊の墓』は、山口百恵が主演映画デビューする際、『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』『[[絶唱 (1975年の映画)|絶唱]]』とともに、候補に挙がっていた作品で<ref name="kinejun74102">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=日本映画紹介|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1974年]]([[昭和]]49年)[[10月]]上旬号 pp.171-172|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>、山口のデビュー作が『伊豆の踊子』と決まった時点で『絶唱』『野菊の墓』など、山口主演の名作路線も検討され<ref name="kinejun74102"/>、山口百恵の文芸シリーズは路線化された。第二弾は『[[潮騒 (1975年の映画)|潮騒]]』になったが、第三弾の選定の際に『野菊の墓』は『絶唱』『[[たけくらべ]]』と共に最終候補に残り<ref>{{cite journal | 和書 |author = | journal = [[週刊平凡]] | volume = 1975年11月13日号| title = 次回作『絶唱』が決定した山口百恵 | publisher = [[マガジンハウス|平凡出版]] | pages = 55-56 }}</ref>、『野菊の墓』が第三弾に決定したと報道されたこともあった<ref name="kinejun7582"> {{Cite journal|和書 |author=|year=1975|title=我映画界の動き|journal=キネマ旬報|issue=[[1975年]]([[昭和]]50年)[[8月]]下旬号|pages=166|publisher=キネマ旬報社]}}</ref>。結果的に『野菊の墓』にならなかったのは、百恵・友和のコンビでは、お兄ちゃんイメージのある三浦では『野菊の墓』の政夫イメージにそぐわなかったものと見られ、『野菊の墓』が山口百恵主演でテレビドラマ化され<ref name="kindai8104" />、[[土曜ワイド劇場]]枠([[テレビ朝日]]、1977年7月9日放送、[[西河克己]]監督)で製作された際の相手役は、三浦ではなく[[佐久田修]]だった<ref name="kindai8104" />。 |
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⚫ | 澤井は |
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政夫役は一般公募オーディションで16歳から22歳までの男性と規定され<ref name="kinejun81_3_2" />、2万人の応募の中から、1981年3月19日に最終オーディションが行われ、選ばれた当時16歳の高校生・桑原正(くわはら まさし)<ref name="kindai8104" />。当時の『[[キネマ旬報]]』にも2万1000人の中から選ばれたと書かれているが<ref name="kinejun81_8_2" />、監督の[[澤井信一郎]]は、何故か「"2000人"くらいの応募で{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}、書類選考で100人くらいを選び、自身が桑原を選んだ」と話している{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。松田聖子の大ファンだった[[クリス松村]]も同じオーディションを受けたが落ちたという。脇を固める役者はスタッフで討議して決められたが、澤井は助監督時代が長かったため、過去に仕事をした人がほとんどだった{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=180-183}}。初めてだったのは、[[村井國夫|村井国夫]]、[[加藤治子]]、[[白川和子]]の三人。特別出演の[[丹波哲郎]]は、澤井と親しいことから監督デビュー作のお祝いにとノーギャラ出演{{sfn |映画の呼吸|2006| p=149}}。お増役の[[樹木希林]]は、澤井が樹木さんしかいないと、樹木と知り合いの高村賢治プロデューサーに必死に口説いてもらった{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=180-183}}。当時樹木は離婚問題などで忙しく、松田聖子のスケジュールの他、樹木のスケジュールに合わせて撮影が行われた{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=180-183}}。樹木、加藤治子、[[赤座美代子]]の三人が演出に対してうるさかったという{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=186-188}}。 |
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=== 脚本 === |
=== 脚本 === |
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脚本の[[宮内婦貴子]]は、山口百恵主演の『[[風立ちぬ (1976年の映画)|風立ちぬ]]』(1976年)の脚本を書いていることからの起用であるが、澤井とはかなり揉めた{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=130-134}}<ref>{{Cite journal|和書|author=宮内婦貴子|year=|title=野菊の墓 創作ノート|journal= |
脚本の[[宮内婦貴子]]は、山口百恵主演の『[[風立ちぬ (1976年の映画)|風立ちぬ]]』(1976年)の脚本を書いていることからの起用であるが、澤井とはかなり揉めた{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=130-134}}<ref>{{Cite journal|和書|author=宮内婦貴子|year=|title=野菊の墓 創作ノート|journal=[[シナリオ (雑誌)|シナリオ]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[10月]]号 p.94|publisher=[[日本シナリオ作家協会]]}}</ref>{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=188-191}}。澤井は助監督というより、脚本家として[[東映東京撮影所|大泉]]では通っており、一家言を持つため、脚本家と大抵揉める{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=183-186}}。『[[シナリオ (雑誌)|シナリオ]]』に掲載された宮内名義のシナリオ決定稿について澤井は、「プロデューサーに許可を取って90%、自分が書き直したもの。宮内さんが書いた第一稿は15分のテレビドラマを4~5本分、団子の串刺しにしたもので、とても映画化に耐えられないシロモノだった。宮内さんはプライドの高い人なので、お互いの意見を出し合って、脚本の内容をたたき直すという作業が出来なかった」などと話している{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=188-191}}。 |
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=== 衣装 === |
=== 衣装 === |
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本作で松田聖子を演出するにあたり、大きな問題となったのが[[カツラ]]{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。『野菊の墓』は[[明治時代]]の設定で、しかも農家の娘では断髪もままならない。澤井は、すっぽりと被る全カツラでなく、[[おでこ]]の生え際の毛を生かし、自然に見えるカツラにしたいと考えたため、おでこは全て見えることになる。しかし松田は当時、日の出の勢いで「[[聖子ちゃんカット]]」と呼ばれるヘアスタイルが大人気。常に前髪をたらし、決しておでこを見せないという神話の中にいた{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。松田も広いおでこは自身の欠点と分かっていて、おでこをさらけ出すのは屈辱的に感じ、おでこの出るカツラを嫌がった{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-169}}。プロデューサーの吉田は、松田の所属事務所に遠慮し、おでこを見せてくれとは言い辛く、前髪をたらしたカツラでもいいんじゃないかと提案したが、澤井が「毅然とした態度で緒戦に望まないと、後で雪崩現象を起こす」と、松田との初顔合わせのとき、はっきり「おでこを見せますよ」と伝えた{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。松田も所属事務所も理解してくれ、松田聖子が初めておでこを見せた、などと新聞に取り上げられるほどのニュースになった{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。 |
本作で松田聖子を演出するにあたり、大きな問題となったのが[[カツラ]]{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。『野菊の墓』は[[明治時代]]の設定で、しかも農家の娘では断髪もままならない。澤井は、すっぽりと被る全カツラでなく、[[おでこ]]の生え際の毛を生かし、自然に見えるカツラにしたいと考えたため、おでこは全て見えることになる。しかし松田は当時、日の出の勢いで「[[聖子ちゃんカット]]」と呼ばれるヘアスタイルが大人気。常に前髪をたらし、決しておでこを見せないという神話の中にいた{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。松田も広いおでこは自身の欠点と分かっていて、おでこをさらけ出すのは屈辱的に感じ、おでこの出るカツラを嫌がった{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-169}}。プロデューサーの吉田は、松田の所属事務所に遠慮し、おでこを見せてくれとは言い辛く、前髪をたらしたカツラでもいいんじゃないかと提案したが、澤井が「毅然とした態度で緒戦に望まないと、後で雪崩現象を起こす」と、松田との初顔合わせのとき、はっきり「おでこを見せますよ」と伝えた{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。松田も所属事務所も理解してくれ、松田聖子が初めておでこを見せた、などと新聞に取り上げられるほどのニュースになった{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。澤井は「たとえアイドルであっても一切気を遣わないで撮影する」と宣言した{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。 |
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[[コントラスト]]を上手く出すため、[[絣]]の[[着物]]を派手なものから「地味なものまで20着を用意した<ref name="kindai8109" />。 |
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=== カメラ === |
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⚫ | 東映東京撮影所にも多くのカメラマンがおり、新人監督の作品に他社からカメラマンが来ることは本来有り得ないが{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=130-134}}、[[森田富士郎]]は、東映で[[西崎義展]]プロデュース、吉田達プロデュース補佐、[[吉田喜重]]監督で企画されていた『望郷の時』という作品が流れ{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=175-178}}、吉田から「時代を心得た丁寧な画質が是非とも必要」と口説かれ{{Sfn|映画撮影|2010| pp=75-79}}、本作に参加した{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=130-134}}。初めての東京撮影所での撮影で、撮影照明スタッフに全く面識がないため、不安がる森田に吉田は「全員、メジャー東映組織の社員です。吟味しています。問題ありません」と説得した{{Sfn|映画撮影|2010| pp=75-79}}。澤井は「自分の知らない光と影の使い方に驚いた」{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=130-134}}、「ポジション、アングル、光線...どれ一つとっても非常に落ち着いて、まったく僕の思い通りに仕上げていただいた。すごく感謝しています」などと話している{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=175-178}}。1971年の[[大映]]倒産後フリーだった森田は、本作以降、翌年の『[[鬼龍院花子の生涯#映画|鬼龍院花子の生涯]]』など、東映の文芸大作を多数手がけた。 |
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=== ロケハン === |
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"[[ロケハン]]の虫"澤井は{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=199-208}}、監督を引き受けてすぐ、1980年11月末から美術と製作スタッフ3人と6ヶ月ロケハン{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=178-180}}。原作は[[千葉県]][[松戸市]][[矢切|矢切村]]の[[江戸川]]べりだが、近辺に[[畑]]がないなど、イメージする場所がなく当地で撮影はされなかった<ref name="m-myojo8108" >{{Cite journal | 和書 | author = | date = 1981年8月号 | title = 陽焼けと食欲プリンッ健康少女! 松田聖子『野菊の墓』ロケ日記| journal = [[Myojo|月刊明星]] | publisher = [[集英社]] | pages = 99-101 }}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=|date=1981年9月号|title=グラビア『野菊の墓』 皆さんを泣かせます|journal=映画情報|publisher=[[国際情報社]]|pages=39}}</ref>。映画で政夫の実家設定にした[[醤油]]醸造の工場は、森田が参加したロケハンで埼玉県[[狭山市]]の外れに小規模ながら営業を続けていた醤油工場の[[旧家]]を見つけた{{Sfn|映画撮影|2010| pp=75-79}}。この旧家の構造・材質などを参考に東京撮影所に民家や土蔵、路地、内部のセットが作られた{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=178-180}}{{Sfn|映画撮影|2010| pp=75-79}}。醤油工場は表側が埼玉で、裏側は[[群馬県]][[藤岡市]]の酒屋{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=178-180}}。この酒屋で松田ら俳優参加のロケが行われた{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=165-166}}。小舟が擦れ違う川は、群馬県の[[利根川]]上流{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=178-180}}。景色は色々な箇所を合わせたもの{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=178-180}}。 |
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=== 撮影 === |
=== 撮影 === |
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松田のスケジュールも[[長野県]]などに泊りがけで行けるように理解を示し、一週間のうち、3日、4日続けて時間を取り、これを二か月の間、数週に分けて計19日間{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}、22日間{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-169}}を確保してくれた。山口百恵の主演デビュー映画『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』で山口の撮影にあてられた期間は僅か一週間だった<ref>{{Cite journal|和書|author=[[西河克己]]|year=|title=『伊豆の踊子』のころの山口百恵|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1977年]]([[昭和]]52年)[[8月]]上旬号 pp.60-61|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。 |
最初は20日間の撮影スケジュールを約束してもらっていたが{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}、松田が1981年に入ってさらに人気を拡大させたため、サンミュージックから「10日間で撮影して欲しい」と申し出があった{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。交渉の末、何とか粘り20日間のスケジュールを確保{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。スケジュールも[[長野県]]などに泊りがけで行けるように理解を示し、一週間のうち、他のレギュラー番組の関係で<ref name="kindai8107" />、火、水、木曜の3日、4日続けて時間を取り{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=180-183}}、これを二か月の間、数週に分けて計19日間{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}、22日間{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-169}}を確保してくれた。澤井は『野菊の墓』のためにサンミュージックは数億円損をしたのでないかと話している{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=180-183}}。山口百恵の主演デビュー映画『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』で山口の撮影にあてられた期間は僅か一週間だった<ref>{{Cite journal|和書|author=[[西河克己]]|year=|title=『伊豆の踊子』のころの山口百恵|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1977年]]([[昭和]]52年)[[8月]]上旬号 pp.60-61|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>。木曜日の『[[ザ・ベストテン|ザ・ベストテン]]』([[TBSテレビ|TBS]])で、撮影所とロケ先が計4回あり{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=180-183}}、4回とも撮影地で生中継された{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=180-183}}。澤井も4回ともテレビに映っている{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=180-183}}。 |
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松田聖子の映画初出演にサンミュージックも大ノリで<ref name="m-myojo8108" />、シャワー、トイレ、冷蔵庫付きのロケ用[[キャンピングカー]]を1000万円で購入した<ref name="m-myojo8108" />。畑の真ん中のロケで、ファンに取り囲まれてはトイレもままならないという配慮であった{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| p=170}}。しかしこの目立つキャンピングカーのおかげで、松田が乗っていることがバレ、ロケ移動に[[ボディーガード|護衛隊]]と称する若者のオートバイが何10台も続いた{{Sfn|映画撮影|2010| pp=75-79}}。 |
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1981年[[5月3日]]、[[東映東京撮影所]]で[[クランクイン]]{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。初日は松田の雑巾がけのシーンの収録が行われたが、雑巾がけは縁のない世代で苦労した。しかし松田は何度も[[NG (放送用語)|NG]]を出しながら根性でやりきり、スタッフにも好感を持たれた。ロケシーンは肉体的にもハードな撮影が続いたが、松田は歌手の仕事では味わえないファミリー的な雰囲気を喜んでいたという{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。1981年[[5月24日]]の[[報知新聞]]朝刊一面に「聖子、郷、結婚へ」という見出しの記事が掲載された{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。その日松田はクライマックスの綿畑の収録のため、長野県[[松本市]]にいた。 |
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=== 撮影記録 === |
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松田聖子自身による撮影日記を含む<ref name="kindai8108" >{{cite journal | 和書 |author = | journal = 近代映画 | volume = 1981年8月号| title = 松田聖子『野菊の墓』ロケ日記 『映画らしいワ』ラッシュを観てひと安心 | publisher = 近代映画社 | pages = 66-69 }}</ref>。 |
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1981年[[5月12日]]、[[東映東京撮影所]]で[[撮影#動画撮影について|クランクイン]]<ref name="kindai8108" /><!---松田聖子自身による撮影日記の記載 [[5月3日]]{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}--->。東京撮影所の[[化粧|メイク]]は控え室で行うが、松田に割り当てられた3号室の向かい側が[[高倉健]]、隣が[[菅原文太]]の部屋でビックリする<ref name="kindai8108" />。初日は松田の雑巾がけのシーンの収録が行われたが、雑巾がけは縁のない世代で苦労した。しかし松田は何度も[[NG (放送用語)|NG]]を出しながら根性でやりきり、スタッフにも好感を持たれた。松田に好印象を持った澤井を筆頭にスタッフ50人全員で、松田の[[ファンクラブ]]に加入し<ref name="kindai8107" /><ref name="m-myojo8108" />、吉田プロデューサーが[[四谷]]の後援会事務所に手続きにいったら、担当者から「急に平均年齢が上がってしまう」と笑われた<ref name="kinejun8662"/>。夜8時に撮影が終わり、キャンピングカーで翌日のロケ地、[[群馬県]][[甘楽町]]に向かう<ref name="kindai8108" />。ホテルに到着するとファンが集まっていてスケジュールは公表してないのに驚く<ref name="kindai8108" />。 |
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[[5月13日]]、早朝から甘楽町ロケ、綿畑、峠などで走るシーン。地元の小学生が何百人も押しかける<ref name="kindai8108" />。「アイドルであっても一切気を遣わないで撮影する」と澤井が宣言した通り、ロケ初日に「[[聖子ちゃんカット]]」の魅力を完全に封印し、[[おでこ]]全開で走ってくる松田を[[スローモーション]]で捉えたオープニングショットなど<ref name="1980年映画">{{Cite book|和書|author=|year=2016|month=9|title=キネ旬ムック 1980年代の映画には僕たちの青春がある|chapter=時代に新風を吹き込んだ映画作家 澤井信一郎 女優の新たな魅力を引き出す確かな演出力|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4-83736-838-0|pages=124-125}}</ref>、当時の[[家政婦]]の恰好である[[桃割れ]]に[[絣]]の[[着物]]、[[もんぺ]]に[[草鞋]]履きの松田に朝から晩まで走らせ{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=168-169}}、同行したサンミュージックスタッフに泡を喰わせた{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=304-305}}。松田は持ち前の負けん気で足の皮が剥げるまで走った<ref name="m-myojo8108" />{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。また美しい夕陽が沈むシーンもこの日撮影された。 |
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[[5月14日]]、同じ場所でロケ。籠に野菊を差して民子と政夫が歩くシーンなど<ref name="kindai8108" />。午後3時にロケ終了し、東京撮影所に戻りスタジオ撮影。撮影中のセットから『ザ・ベストテン』の生中継があり、松田が『夏の扉』を歌唱<ref name="kindai8108" />。 |
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[[5月20日]]、[[利根川]]ロケを予定してたが、天気が良すぎて悲しい場面に合わないと急遽、スタジオ撮影に変更<ref name="kindai8108" />。初めてのスタジオセットでの撮影?<ref name="m-myojo8108" /><ref name="kindai8108" />。政夫が民子に手紙を渡すシーンなど。他にラッシュ試写<ref name="kindai8108" />。[[5月21日]]もスタジオ撮影。いなくなった政夫を想い出して民子が政夫の部屋で泣くシーンなど。感情の表現が難しくやっぱり涙が出ず、撮影が難航する<ref name="kindai8108" /><ref name="m-myojo8108" />。 |
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[[5月24日]]の[[報知新聞]]朝刊一面に「聖子、郷、結婚へ」という見出しの記事が掲載された{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。郷が松田に[[指輪]]を贈ったという内容で<ref name="kinejun84112">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=人人人スクランブル ひろみと聖子の結婚問題と出演映画の気になる部分|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1984年]]([[昭和]]59年)[[11月]]上旬号 p.98|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>、その日松田はクライマックスの綿畑の収録のため、[[長野県]][[松本市]]にいた、と書かれた文献があるが{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}、別の文献では松本に移動したのは5月25日の夜中と記述がある<ref name="m-myojo8108" /><ref name="kindai8108" />。 |
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[[5月26日]]、前日夜中に長野県松本市に移動<ref name="kindai8108" />。キャンピングカーは揺れてあまり眠れなかった<ref name="kindai8108" />。長野県[[北安曇郡]][[池田町 (長野県)|池田町]]の大峰牧場でロケ<ref name="kindai8108" />。残雪を頂く[[飛騨山脈|北アルプス]]を望む大木の下で民子と政夫が弁当を食べるシーンなど{{Sfn|映画撮影|2010| pp=75-79}}<ref name="kindai8108" />。撮影は午後4時に終わり、松本市内の高砂殿で記者会見<ref name="kindai8108" />。夜、当時火曜日21時30分からの放送だった松田自身も出演した『[[ミュージックフェア]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])を観て寝る<ref name="kindai8108" />。 |
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[[5月27日]]、映画最大の見せ場である花嫁行列のシーン<ref name="kindai8108" /><ref name="m-myojo8108" />。頭を[[高島田]]に結い、[[おしろい|白塗り]][[メイク]]と、[[白無垢]]の[[着付け]]を1時間半かけ、朝6時から、夜の7時まで衣装のまま。[[快晴|カンカン照り]]の暑さに苦しむ<ref name="kindai8109" />。 |
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[[5月28日]]、民子と政夫が抱き合いながら坂をころがるシーンなど<ref name="kindai8108" />。夕方雨が降り撮影中止<ref name="kindai8108" />。夜、『ザ・ベストテン』の生中継が当地であり{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}、松田が[[松本城]]埋橋の上で『夏の扉』を歌った{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。ロケスケジュールは公表していないにも関わらず<ref>{{Cite web|url=http://www.oshiro-rc.jp/2017.05.24No.42-1035.pdf|format=PDF|title=会報42|work=松本城(まつもとおしろ)ロータリークラブ|publisher=松本商工会議所|page=2|accessdate=2018-05-07}}</ref>、多くのファンが集まった。 |
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ロケシーンは肉体的にもハードな撮影が続いたが、松田は歌手の仕事では味わえないファミリー的な雰囲気を喜んでいたという{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。ただ、松田は主演三作目の[[1984年]]『[[夏服のイヴ]]』撮影中のインタビューで『野菊の墓』の撮影を振り返り「『野菊の墓』の時は慣れないせいかとても怖くて、映画の仕事が嫌だった」と話している<ref>{{Cite journal|和書|author=|date=1984年6月号|title=夏のアイドル映画第一報|journal=映画情報|publisher=[[国際情報社]]|pages=39}}</ref>。 |
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=== ロケ地 === |
=== ロケ地 === |
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*[[群馬県]][[甘楽町]]…メインロケ(綿畑、峠、茄子畑、政夫の家の裏の畑、ラストの夕陽ほか){{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。 |
*[[群馬県]][[甘楽町]]…メインロケ(綿畑、桑畑、峠、茄子畑、政夫の家の裏の畑、ラストの夕陽ほか){{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。 |
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** 群馬県[[藤岡市]]…醤油工場の蔵(実際は酒屋で撮影){{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=178-180}}。 |
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* [[埼玉県]][[秩父地方|秩父]]…トップシーン{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。 |
* [[埼玉県]][[秩父地方|秩父]]…トップシーン{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。 |
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** 埼玉県[[狭山丘陵|狭山]]…政夫の家の表、とうもろこし畑{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。 |
** 埼玉県[[狭山丘陵|狭山]]…政夫の家の表、とうもろこし畑{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。 |
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** 埼玉県[[大里町 (埼玉県)|大里町]](現・[[熊谷市]])…川下り<ref name="kindai8109" />。 |
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* [[長野県]][[松本市]]…綿畑{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}。 |
* [[長野県]][[松本市]]…綿畑{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-172}}、花嫁行列{{Sfn|東映の軌跡|2016|pp=298-299}}。 |
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** 長野県[[安曇野]]…大木の下で民子と政夫が弁当を食べるシーンなど{{Sfn|映画撮影|2010| pp=75-79}}。 |
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※何処でロケをしても見学者が多く、桑畑に隠れたりし、何度も[[NG (放送用語)|NG]]になった{{Sfn|映画撮影|2010| pp=75-79}}。 |
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※茄子畑は甘楽の山地に新たに開墾し茄子畑を作った。政夫の家も実物の角材などで製作。テレビドラマでは味わえない凝り方に松田も感心していたという{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-169}}。 |
※茄子畑は甘楽の山地に新たに開墾し茄子畑を作った。政夫の家も実物の角材などで製作。テレビドラマでは味わえない凝り方に松田も感心していたという{{sfn |魔性のシンデレラ|1989| pp=163-169}}。 |
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=== 編集 === |
=== 編集 === |
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[[主題歌]]をどこかで入れないといけないという事情から、澤井が劇中で流すのが嫌で最初に入れることにした{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。当時の日本映画は超大作以外は、最後に[[タイトル・ロール]]が流れるものはほとんど無く、劇中で流さなければ最初に入れるしかなかった{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。 |
[[主題歌]]をどこかで入れないといけないという事情から、澤井が劇中で流すのが嫌で最初に入れることにした{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。当時の日本映画は超大作以外は、最後に[[タイトル・ロール]]が流れるものはほとんど無く、劇中で流さなければ最初に入れるしかなかった{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。[[ホリプロ]]の[[堀威夫]]社長は、山口百恵の映画デビュー作『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』製作の際、監督の[[西河克己]]に「この子は一応歌手であるが、映画の中で主題歌を歌うような場面を考えないで欲しい。きちんとした文芸作品を作って下さい」と伝えたといわれる<ref>{{cite journal|和書|author=[[西河克己]]|title=日本の娯楽映画ー現在・過去・未来 アイドル映画を作るための二、三の事柄|journal=「[[映画芸術]]」1989年秋号 No358 編集プロダクション映芸 pp.92–93}}</ref>。 |
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=== プロモーション === |
=== プロモーション === |
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1981年[[8月3日]]放送の『[[夜のヒットスタジオ]]』では、松田聖子が桑原正を横に座らせて映画の主題歌「花一色〜野菊のささやき〜」を歌った。 |
1981年[[8月3日]]放送の『[[夜のヒットスタジオ]]』では、松田聖子が桑原正を横に座らせて映画の主題歌「[[白いパラソル#収録曲|花一色〜野菊のささやき〜]]」を歌った。同曲は「[[白いパラソル]]」の[[A面/B面|B面]]。澤井が[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]の宣伝担当に「[[A面/B面|A面]]で出してくれ」と頼んだら、「あのレコードは[[A面/B面#両A面シングル・両B面シングル|両A面]]です」とうまく逃げられたという{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=180-183}}。 |
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== 興行 == |
== 興行 == |
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作品や澤井演出に関しては評価された『野菊の墓』に続いて{{sfn|監督全集|1988|pp=185-186}}、1982年の東映の正月映画に松田聖子と[[沖田浩之]]の二枚看板で映画離れ著しいヤングを呼び戻す青春路線の構想が存在したが<ref name="kinejun81_7_2">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=邦画新作情報|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[7月]]下旬号 p.184|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>、[[角川映画]]/[[キティ・フィルム]]提携作品『[[セーラー服と機関銃 (映画)|セーラー服と機関銃]] 』の配給が[[東宝]]から東映に変更された影響を受ける<ref name="kinejun81_8_2_172" /><ref name="kinejun81_8_2_184">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=製作発表 セーラー服と機関銃|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[8月]]下旬号 pp.184-185|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>{{sfn|中川|2014|pp=147-148}}。結局、松田の正月映画は立ち消えになり<ref name="kinejun81_12_1_176" /><ref name="kinejun81_8_2_172">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=映画・トピック・ジャーナル 東西2館で実施された『ブルージーンズメモリー』の変則興行により、東宝と角川映画が決裂!! 角川事務所、東宝に対して怒る|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[8月]]下旬号 pp.172-173|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>、松田の2作目『[[プルメリアの伝説 天国のキッス]]』は2年後に東宝で製作された{{sfn |中川|2014| pp=147-148}}。 |
作品や澤井演出に関しては評価された『野菊の墓』に続いて{{sfn|監督全集|1988|pp=185-186}}、1982年の東映の正月映画に松田聖子と[[沖田浩之]]の二枚看板で映画離れ著しいヤングを呼び戻す青春路線の構想が存在したが<ref name="kinejun81_7_2">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=邦画新作情報|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[7月]]下旬号 p.184|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>、[[角川映画]]/[[キティ・フィルム]]提携作品『[[セーラー服と機関銃 (映画)|セーラー服と機関銃]] 』の配給が[[東宝]]から東映に変更された影響を受ける<ref name="kinejun81_8_2_172" /><ref name="kinejun81_8_2_184">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=製作発表 セーラー服と機関銃|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[8月]]下旬号 pp.184-185|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>{{sfn|中川|2014|pp=147-148}}。結局、松田の正月映画は立ち消えになり<ref name="kinejun81_12_1_176" /><ref name="kinejun81_8_2_172">{{Cite journal|和書|author=|year=|title=映画・トピック・ジャーナル 東西2館で実施された『ブルージーンズメモリー』の変則興行により、東宝と角川映画が決裂!! 角川事務所、東宝に対して怒る|journal=[[キネマ旬報]]|issue=[[1981年]]([[昭和]]56年)[[8月]]下旬号 pp.172-173|publisher=[[キネマ旬報社]]}}</ref>、松田の2作目『[[プルメリアの伝説 天国のキッス]]』は2年後に東宝で製作された{{sfn |中川|2014| pp=147-148}}。 |
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1981年11月号の『[[話の特集]]』で[[蓮實重彦]]が「『野菊の墓』のフィルム的繊細さを融知するにはそれが映画だとつぶやくだけで充分である」という本作の映画評を載せると評価が高まった{{sfn |シネアルバム|1982| pp=162-165}}{{refnest|group=注|『シネマの記憶装置』(1985年)、『映画狂人シネマの煽動装置』(200年)に収録。}}。澤井は「蓮實さんには生涯足を向けて寝られない、心底そう思った」「この批評がなければ、次作[[薬師丸ひろ子]]の『[[Wの悲劇 (映画)|Wの悲劇]]』のオファーは来なかったのではないか」などと述べている{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=151-191}}。 |
1981年11月号の『[[話の特集]]』で[[蓮實重彦]]が「『野菊の墓』のフィルム的繊細さを融知するにはそれが映画だとつぶやくだけで充分である」という本作の映画評を載せると評価が高まった{{sfn |シネアルバム|1982| pp=162-165}}{{refnest|group=注|『シネマの記憶装置』(1985年)、『映画狂人シネマの煽動装置』(200年)に収録。}}。澤井は「蓮實さんには生涯足を向けて寝られない、心底そう思った」「この批評がなければ、次作[[薬師丸ひろ子]]の『[[Wの悲劇 (映画)|Wの悲劇]]』のオファーは来なかったのではないか」などと述べている{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=151-191}}{{Sfn|狂おしい夢|2003| pp=208-212}}。 |
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政夫役を演じた桑原正は本作出演の後、[[早稲田大学高等学院・中学部|早稲田学院]]から[[早稲田大学]]に進み、卒業後俳優になりたいと澤井に相談に来たが、やめた方がいいと忠告され[[サラリーマン]]になったという{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。 |
政夫役を演じた桑原正は本作出演の後、[[早稲田大学高等学院・中学部|早稲田学院]]から[[早稲田大学]]に進み、卒業後俳優になりたいと澤井に相談に来たが、やめた方がいいと忠告され[[サラリーマン]]になったという{{sfn |映画の呼吸|2006| pp=134-147}}。 |
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本作の企画者・吉田達は<ref name="不良番長" >{{Cite book | 和書 | author = [[杉作J太郎]]・植地毅(編著) | title = 不良番長 浪漫アルバム | chapter =吉田達インタビュー | publisher = [[徳間書店]] | year = 2017 | id = ISBN 978-4-19-864354-6 | pages = 246 }}</ref>、東映に"女性映画路線"を定着させようと<ref name="kinejun8662"/><ref>{{Cite book | 和書 | author = 緑川亨 | title = 日本映画の現在 | series = 講座日本映画7 | publisher = [[岩波書店]] | year = 1988 | id = ISBN 4-00-010257-5 | page = 347 }}</ref>、1982年に[[田中裕子]]主演『[[ザ・レイプ (1982年の映画)|ザ・レイプ]]』、[[田中美佐子]]主演『[[ダイアモンドは傷つかない#映画|ダイアモンドは傷つかない]]』を"女性OL路線"と名付けて二本立て公開したが成績は普通に終わり<ref name="kinejun8662"/>、1983年の[[大原麗子]]主演『[[セカンド・ラブ (映画)|セカンド・ラブ]]』の興行が振るわず<ref name="kinejun8662"/>。『[[ひとひらの雪#映画|ひとひらの雪]]』を企画した直後の1983年に[[東映ビデオ]]に移籍となり<ref name="不良番長" /><ref>{{Cite book | 和書 | author = [[森功]] | title = 高倉健 七つの顔を隠し続けた男 | publisher = [[講談社]] | year = 2017 | id = ISBN 978-4-06-220551-1 | pages = 207 }}</ref>、取締役企画部長として間もなく[[東映Vシネマ|Vシネマ]]を発案する<ref>{{Cite journal|和書|author=吉田達|year=|title=東映VS特集 ビデオシネマの可能性と現在東映ヘッドプロデューサー吉田達氏に聞く 映画ともTVともちがうものを...|journal=[[シナリオ (雑誌)|シナリオ]]|issue=[[1990年]]([[平成]]2年)[[10月]]号 pp.5-8|publisher=[[日本シナリオ作家協会]]}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20150215090916/http://www.dgj.or.jp/essay/article/000950.html 高瀬将嗣 「祝!東映Ⅴシネ25周年」 - 日本映画監督協会 ](Internet Archive)。</ref>。 |
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== 同時上映 == |
== 同時上映 == |
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* {{cite book|和書|author=[[大下英治]]|title=魔性のシンデレラ 松田聖子ストーリー|date=1989-7|publisher=[[角川書店]]|isbn=4–04–157114–6|ref={{SfnRef|魔性のシンデレラ|1989}}}} |
* {{cite book|和書|author=[[大下英治]]|title=魔性のシンデレラ 松田聖子ストーリー|date=1989-7|publisher=[[角川書店]]|isbn=4–04–157114–6|ref={{SfnRef|魔性のシンデレラ|1989}}}} |
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* {{cite book|和書|author=|title=ぴあシネマクラブ 邦画編 <small>1998-1999</small>|date=1998-4|publisher=[[ぴあ]]|isbn=4-89215-904-2|ref={{SfnRef|ぴあシネマ|1998}}}} |
* {{cite book|和書|author=|title=ぴあシネマクラブ 邦画編 <small>1998-1999</small>|date=1998-4|publisher=[[ぴあ]]|isbn=4-89215-904-2|ref={{SfnRef|ぴあシネマ|1998}}}} |
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* {{cite book|和書|author=川崎宏|title=狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!? |date=2003-5|publisher=[[青心社]]|isbn= 978-4-87892-266-4|ref={{SfnRef|狂おしい夢|2003}}}} |
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* {{cite book|和書|author=|title=アイドル映画30年史|date=2003-11|publisher=[[洋泉社]]|series=[[映画秘宝|別冊映画秘宝]]VOL.2|isbn=978-4-89691-764-2 |
* {{cite book|和書|author=|title=アイドル映画30年史|date=2003-11|publisher=[[洋泉社]]|series=[[映画秘宝|別冊映画秘宝]]VOL.2|isbn=978-4-89691-764-2 |
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* {{cite book|和書|author1=[[澤井信一郎]]|author2=[[鈴木一誌]]|title=映画の呼吸: 澤井信一郎の監督作法|date=2006-10|publisher=[[ワイズ出版]]|isbn=978-4-89830-202-6|ref={{SfnRef|映画の呼吸|2006}}}} |
* {{cite book|和書|author1=[[澤井信一郎]]|author2=[[鈴木一誌]]|title=映画の呼吸: 澤井信一郎の監督作法|date=2006-10|publisher=[[ワイズ出版]]|isbn=978-4-89830-202-6|ref={{SfnRef|映画の呼吸|2006}}}} |
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* {{cite book|和書 |author=[[中川右介]]|title=松田聖子と中森明菜|date=2007-11|publisher=[[幻冬舎]]|series=[[幻冬舎新書]]064|isbn=978-4-344-98063-1|ref={{SfnRef|聖子と明菜|2007}}}} |
* {{cite book|和書 |author=[[中川右介]]|title=松田聖子と中森明菜|date=2007-11|publisher=[[幻冬舎]]|series=[[幻冬舎新書]]064|isbn=978-4-344-98063-1|ref={{SfnRef|聖子と明菜|2007}}}} |
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* {{cite journal|和書 |author=[[森田富士郎]]|title= 日本映画の時代劇作法 第15回|journal=映画撮影|issue=No.184|date=2010-2-15|publisher=[[日本映画撮影監督協会]]|isbn=|ref={{SfnRef|映画撮影|2010}}}} |
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* {{cite book|和書|author=[[新文化通信社|文化通信社]]編著|title=映画界のドン 岡田茂の活動屋人生|date=2012-6|publisher=[[新文化通信社|文化通信社]]|isbn=4-636-88519-4|ref={{SfnRef|活動屋人生|2012}}}} |
* {{cite book|和書|author=[[新文化通信社|文化通信社]]編著|title=映画界のドン 岡田茂の活動屋人生|date=2012-6|publisher=[[新文化通信社|文化通信社]]|isbn=4-636-88519-4|ref={{SfnRef|活動屋人生|2012}}}} |
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* {{cite book|和書 |author=[[小倉千加子]]|title=増補版 松田聖子論|date=2012-9|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=[[朝日文庫]]|isbn=978-4-02-264678-1|ref={{SfnRef|松田聖子論|2012}}}} |
* {{cite book|和書 |author=[[小倉千加子]]|title=増補版 松田聖子論|date=2012-9|publisher=[[朝日新聞出版]]|series=[[朝日文庫]]|isbn=978-4-02-264678-1|ref={{SfnRef|松田聖子論|2012}}}} |
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2018年5月10日 (木) 11:17時点における版
野菊の墓 | |
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監督 | 澤井信一郎 |
脚本 | 宮内婦貴子 |
原作 | 伊藤左千夫 |
製作 |
高岩淡 相澤秀禎 |
出演者 |
松田聖子 桑原正 |
音楽 | 菊池俊輔 |
主題歌 |
松田聖子 「花一色〜野菊のささやき〜」 |
撮影 | 森田富士郎 |
編集 | 西東清明 |
製作会社 | 東映東京、サンミュージック |
配給 | 東映 |
公開 | 1981年8月8日 |
上映時間 | 91分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 8億円[1][注 1] |
『野菊の墓』(のぎくのはか)は、伊藤左千夫の同名小説を原作とし、1981年8月8日に公開された東映東京撮影所、サンミュージック製作、東映配給の日本映画である。松田聖子の初主演作、及び澤井信一郎の初監督作品。
概要
1955年の『野菊の如き君なりき』(監督:木下惠介)、1966年の『野菊のごとき君なりき』(監督:富本壮吉)に続く3度目の映画化。初めて原作と同名タイトルで映画化された。
スタッフ
- 製作:高岩淡、相澤秀禎
- 企画:吉田達、高村賢治
- 原作:伊藤左千夫
- 脚本:宮内婦貴子
- 監督:澤井信一郎
- 撮影:森田富士郎
- 照明:梅谷茂
- 録音:林鑛一
- 美術:桑名忠之
- 音楽:菊池俊輔
- 編集:西東清明
- 助監督:森光正
- 進行主任:小島吉弘、高井義典
キャスト
- 民子:松田聖子
- 政夫:桑原正
- 斎藤喜一郎:村井国夫
- 斎藤初子:赤座美代子
- お増:樹木希林
- 常吉:湯原昌幸
- とめ:岩城徳栄
- お浜:大井小町
- お仙:酒井愛美
- 嘉吉:相馬剛三
- 文伍:高月忠
- 清二:泉福之助
- 幸助:奈辺悟
- 軍治:団巌
- 芳春:坂本良春
- 平六:藤木武司
- 忠吉:大栗清史
- 渡しの乗客:沢竜二、常田富士男、田倉しの
- 渡しの船頭:佐川二郎
- 瞽女:叶和貴子
- 農夫:沢田浩二
- 人力車夫:村添豊徳、大島博樹、森田正雄
- 巡礼の老人:島田正吾
- 斎藤豪三郎:丹波哲郎(特別出演)
- 斎藤きく:加藤治子
- 戸村新吉:愛川欽也
- 戸村せい:白川和子
主題歌
- 松田聖子「花一色〜野菊のささやき〜」
製作
企画
企画は東映プロデューサー・吉田達[3][4]。吉田は東陽一監督が1979年に『もう頬づえはつかない』を低予算で製作しながら大ヒットさせた手腕に感心し[5]、劇場に女性客が多いことに驚いた[5]。女性客は画面の軽快なナウい会話に、一々反応して楽しんでいる[3]、東映調とは全く違った洋画テイストと、さりげないエンディングに興奮した[3]。さっそく東と組み、烏丸せつこ主演で『四季・奈津子』(1980年)を製作し[5][6]、当時の日本映画では珍しい女性映画を大ヒットさせた[5]。また東映本社近くの喫茶店に入ったとき、若いカップルの行動を観察していたら、主導権が女性が持っていることに気づいた[4]。女性が観たい映画を男性も付き合っている、それなら、自分の大好きな木下惠介監督の『野菊の如き君なりき』をリメイクして、女性が泣ける『野菊の墓』をやってみたい、主演は人気が急上昇していた松田聖子で作ってみたい、と思いついた[4]。吉田は東映が全社的に荒々しいタッチの映画に傾斜していく中、女性路線は諦め、会社の意向に沿う企画を心がけていたが[3]、先輩女優もおらず、男優オールスターに囲まれながら自力で育った佐久間良子と三田佳子に対する思いがあり[3]、いつかまた女性映画を手掛けてみたいという気持ちを持ち続けていた[3]。
問題は岡田茂東映社長の説得[4]。岡田は1971年の社長就任以降、1978年まで副社長、専務どころか、常務すら一人も置かず[7][8][注 2]、1986年にようやく専務を置いたが、長く自分以外に役員を置かない[11]完全なワンマン体制を敷いていて[7][12][13][14]、代表権者を盾に[14][15]、岡田好みの企画しか絶対に通さず[13][15][14]、岡田が了解しなければ東映で映画は製作されなかった[13][14][15][16][17]。
ある日、企画会議で岡田が「ヤクザ映画は男性が女性を連れてくる」と言ったため、吉田はすかさず手を挙げ「『クレイマー、クレイマー』を観ているカップルは、男性は眠っていて女性が涙しています。今は女性が男性を連れてくる時代なんです」と意見したら、「そんなことわかっとる!!」と30分間説教された[4]。岡田は撮影所長時代は企画者たちを週に一度集めて話し合いをしていたが、社長になってからは「プロデューサーはアイデア勝負だから、いつでも社長室に来い」とプロデューサーに伝えていた[4]。吉田が「女性が泣ける『野菊の墓』をやりたいんです!」と岡田に訴えたら、案の定、「松竹に持って行け!」と言われて終わり。検討すらされなかった[4]。
企画が通る前の1980年10月25日、吉田は新宿コマ劇場横のアマンドで、松田聖子の所属事務所・サンミュージック・森口健専務と交渉[3]。「東宝から既に松田聖子主演企画が持ち込まれている」といきなり言われ、目の前真っ暗に。ハードタッチの東映からの話に「それで..東映さんはどんな企画で?」と不安そうに言われた[3]。ところが「『野菊の墓』を」と伝えると森口の顔が途端にほころんだ。サンミュージック企画部の第一位案が『野菊の墓』だった[3]。こんなことは滅多になく、単なるアイドル映画ではなく、きちんとした文芸作品に松田聖子を主演させるという基本線も全く森口と意見が一致した[3]。サンミュージック・相澤秀禎社長の了解も得て、撮影に充てる10ヶ月先の松田のスケジュールを押さえてもらった[4]。しかし岡田社長がなかなか企画を通してくれない[4]。人気絶頂になりつつあった松田聖子をせっかく押さえたのにその価値が分かってもらえない。困り果て営業のトップである鈴木常承営業部長に岡田の説得を頼み、何とか企画が通った[4]。
サンミュージックサイドとしては、松田が郷ひろみとの噂が立ち始めたため[18]、その対応策としてサンミュージックと所属レコード会社・CBS・ソニーとで話し合いがもたれ、CMを持っていた資生堂から「噂が立てば、レコードの売り上げが落ちることは否定できません」と示唆され[18]、松田を郷のイメージに固定させないために企画されたとされる[18]。山口百恵と三浦友和のように、映画やテレビドラマの共演を切っ掛けに、恋人関係に発展したケースも多く、またファンもそのように見ることも多いことから[19]、それを期待したものと考えられる[20]。
1980年暮れにかけての松田の人気爆発で[21]、東宝、松竹も松田の映画主演企画を連日、サンミュージックに売り込む事態となったが東映が選ばれた[21]。松田に『野菊の墓』出演が伝えられたのは1981年の正月で[22]、松田は内容は忘れていたが、中学の時に原作を読んだことがあり引き受けたという[22]。撮影が始まる5月までに髪を伸ばしてカツラでなく、自分の髪で民子の髪型に結いたいと最初は話していた[22]。
監督
吉田が岡田社長にサンミュージックの意向を伝えると、岡田は監督に市川崑を構想[3][4]。1980年11月27日、吉田に交渉に行かせた[3][4]。自身は東映本社で待機[3]。しかし市川には「"派"が違う」と断られた[3][4]。青山から銀座の本社まで帰路に着く10分間のタクシーの車内で、吉田は算段を巡らせた。「予算が多くない中、大監督に断られた以上、若い意欲とフレッシュな感性を起用して、ギャラの差を製作費に投入できないか、そうだ、社員のチーフ助監督の澤井信一郎が純粋な作品をやりたいと言ってたな」と考えていたら[3][4]、あっという間に本社に到着し、社長室に直行。市川に断られたと報告すると岡田は"派"の話に感心した[4]。続いて先の発想を上申すると岡田に「誰かいるか?」と言われたので、「澤井チーフ助監督が、二、三週間、日曜になると我が家に来て『野菊の墓』の監督は私以外にない、是非、監督させてくれ、と強烈に迫っています。彼の情熱に応えて、監督に起用させて下さい」と真剣に頼むと、「よし、じゃあ澤井を呼べ」と言われ、翌日、吉田と澤井で岡田に会い、澤井の監督起用が決まった[3][4][23]。澤井も木下監督の『野菊の如き君なりき』が好きだったこともあり引き受けた[23]。何も知らない澤井には、咄嗟に作り話をした事情を説明し、岡田の前では話を合わせてくれと頼んでいた[3]。吉田は「岡田社長は自分の嘘は見抜いていながら、社長のプロデューサー的感覚が、澤井の才能を認めて起用に賛成してくれた。才能は、才能を認めて伸ばしてくれる上司がいなければ育たない見本だと思う」と話している[3]。
澤井は助監督歴20年、42歳にして初監督作[24]。30歳を過ぎた頃から、本作のプロデューサー・吉田達らに何度も監督昇進を打診されていたが[3]、企画が気に入らないと何度も見送って「断り魔」のようになり、さらに1970年代後半から大作主義が来て、東映も自社製作が減り、監督をするチャンスは減った[3][24]。監督デビュー作は1974年の『任侠花一輪』の予定だったが、脚本の村尾昭と揉め辞退した[25]。東映社員の新人監督抜擢は1976年『横浜暗黒街 マシンガンの竜』の岡本明久以来で[23]、しばらく新人監督登用がなかったため[3]、撮影所の熱気が上がり、全員で澤井新監督をバックアップした[3]。澤井は「全編に渡り、木下さんの物真似にならないよう、どこまで木下さんから離れるか苦労した」と述べている[23]。
製作発表
1981年2月10日、東映本社8階会議室で、岡田茂東映社長、高岩淡東映常務、吉田達東映プロデューサー、相澤秀禎サンミュージック社長、澤井信一郎監督、松田聖子の6名が列席し、企画発表が行われた[26]。岡田東映社長は「相澤氏の全面協力を受け、松田聖子の主演でお盆作品として期待している。この作品を東映の新たな進路としてヤングを総動員してみたい」と話した[26]。相澤サンミュージック社長は「松田聖子を東映に全面的にあずけた。最初は原作ものを考えていたので、この『野菊の墓』はぴったり。主題歌になるようなものも考えている」と話した[26]。松田はサンレモ音楽祭から帰国した翌日に出席[27]。「デビューして1年になるが、素晴らしい役が出来てうれしい。前作は見ていないが、原作を読んで民子に感激した。映画は初めてなので、一生の思い出になるように、頑張っていい作品にしたい」と話した[26]。この日の会見で松田は映画で演じる民子の衣装で出席したが[27][28][29]、別の日に同じ衣装でマスコミ披露もあった[30]。サンミュージックは『野菊の墓』1本だけではなく、今後も積極的に協力したいと岡田東映社長に申し入れ、両者は松田聖子を東映の盆暮(夏休みと正月興行)の看板にしたいと構想した[31]。百恵・友和映画がなくなったため、松田聖子の人気をもってすれば、東映は大きなチャンスではないかという見方もあり[31]、関係者は「『野菊の墓』の成否により、今後の聖子の動向が決まる」と見ていた[18]。
ヤング指向路線
"アイドル映画"は東映は得意と言えず[32]、東宝や松竹の方が実績があった[33]。松田の所属事務所であるサンミュージックの先輩タレント、森田健作や桜田淳子は、松竹が製作するケースが多かった[33]。松竹は、盆と正月に「男はつらいよ」をロングラン上映していたため、盆と正月に松田聖子の映画を看板にすることは出来なかった。「東映が最も東映らしからぬ映画[要追加記述]を製作すること自体が驚き」と言われた[33]。
ポスト百恵
松田聖子の相手役を一般公募するパターンは、東宝の百恵・友和コンビが歩んだ道を踏襲したものであった[31]。製作発表が行われた1981年2月の時点で松田は"ポスト百恵"[注 3]と目される人気ナンバー1歌手と評されており[26]、「山口百恵引退後、アイドル歌手ナンバー1の座についた松田聖子が、映画の世界でも"ポスト百恵"をめざした主演第一作」と宣伝された[38]。マスメディアでも「松田聖子が"ポスト百恵"の座を獲得するかどうか、最初の映画『野菊の墓』にかかっている」と書かれた[22]。当時の芸能界は、山口百恵のように映画、テレビドラマに積極的に進出しなければ、歌だけのアイドルの人気は長持ちしないと見られていた[37]。デビュー直後の松田聖子は、歌手と女優の両面で語られる山口百恵のような存在になることを[39]、当初は目指していたものと考えられる[31][40]。松田自身もそれを意識していたといわれる[40]。山口百恵は、1975年の正月映画『伊豆の踊子』から、1981年の正月映画として引退記念映画『古都』が公開されるまで、5年の間、ホリプロと東宝で年2本、主演映画がコンスタントに製作され、興行の重要期間である正月とゴールデンウイークか、夏休みに公開された。岡田東映社長は、「東宝が山口百恵で売っていた8月を今度は東映で頂く。人気絶大となった松田聖子を夏の勝負どころに出す」などと話した[41]。
松田聖子の売り出しは、サンミュージック社長・相澤秀禎がテレビCMの活用を第一戦略に据え[42]、当時"スターへの登龍門"といわれた資生堂と江崎グリコのCM出演のうち[43]、まず1980年4月に資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMソングに起用された[37][44][45]。同月、これも"若手アイドルの登龍門"といわれた[46]『レッツゴーヤング』(NHK)に他の歌手に決まっていたサンデーズの代役メンバーとしてレギュラー出演[27][37]。山口百恵と同じレコード会社であるCBS・ソニーが、松田聖子を"第二の百恵"にしようと巨額な資金を用意して売り出しにかかり[42][47]、サンミュージックが異例中の異例の大バクチといわれた3000万円[42]、CBS・ソニー4000万円の総額7000万円を用意した[42][注 4]。1980年夏あたりから、マスメディアが言い始めた"ポスト百恵"の候補の一人になり[34][47]、二曲目の『青い珊瑚礁』が、江崎グリコのアイスクリーム・ヨーレルのCMソングとなり[37]、高野連から夏の甲子園入場行進のテーマソングに推薦され[47]、甲子園出場チーム全選手アンケートで人気ナンバーワンアイドルにも選ばれ関係者を驚かせた[37]。各プロダクションがラインナップした新人も強力であったが[42]、田原俊彦と共演するグリコチョコレート/セシルチョコレートのCM出演が決まった1980年9月以降は[37][43][48]、"二重丸の本命"[37]、"ポスト百恵"の最有力[34][49]、"ポスト百恵"の第一候補[50]などと呼ばれ始めていた。
野菊の墓
『野菊の墓』は、山口百恵が主演映画デビューする際、『伊豆の踊子』『絶唱』とともに、候補に挙がっていた作品で[51]、山口のデビュー作が『伊豆の踊子』と決まった時点で『絶唱』『野菊の墓』など、山口主演の名作路線も検討され[51]、山口百恵の文芸シリーズは路線化された。第二弾は『潮騒』になったが、第三弾の選定の際に『野菊の墓』は『絶唱』『たけくらべ』と共に最終候補に残り[52]、『野菊の墓』が第三弾に決定したと報道されたこともあった[53]。結果的に『野菊の墓』にならなかったのは、百恵・友和のコンビでは、お兄ちゃんイメージのある三浦では『野菊の墓』の政夫イメージにそぐわなかったものと見られ、『野菊の墓』が山口百恵主演でテレビドラマ化され[22]、土曜ワイド劇場枠(テレビ朝日、1977年7月9日放送、西河克己監督)で製作された際の相手役は、三浦ではなく佐久田修だった[22]。
キャスティング
政夫役は一般公募オーディションで16歳から22歳までの男性と規定され[26]、2万人の応募の中から、1981年3月19日に最終オーディションが行われ、選ばれた当時16歳の高校生・桑原正(くわはら まさし)[22]。当時の『キネマ旬報』にも2万1000人の中から選ばれたと書かれているが[38]、監督の澤井信一郎は、何故か「"2000人"くらいの応募で[54]、書類選考で100人くらいを選び、自身が桑原を選んだ」と話している[54]。松田聖子の大ファンだったクリス松村も同じオーディションを受けたが落ちたという。脇を固める役者はスタッフで討議して決められたが、澤井は助監督時代が長かったため、過去に仕事をした人がほとんどだった[55]。初めてだったのは、村井国夫、加藤治子、白川和子の三人。特別出演の丹波哲郎は、澤井と親しいことから監督デビュー作のお祝いにとノーギャラ出演[56]。お増役の樹木希林は、澤井が樹木さんしかいないと、樹木と知り合いの高村賢治プロデューサーに必死に口説いてもらった[55]。当時樹木は離婚問題などで忙しく、松田聖子のスケジュールの他、樹木のスケジュールに合わせて撮影が行われた[55]。樹木、加藤治子、赤座美代子の三人が演出に対してうるさかったという[57]。
脚本
脚本の宮内婦貴子は、山口百恵主演の『風立ちぬ』(1976年)の脚本を書いていることからの起用であるが、澤井とはかなり揉めた[23][58][59]。澤井は助監督というより、脚本家として大泉では通っており、一家言を持つため、脚本家と大抵揉める[60]。『シナリオ』に掲載された宮内名義のシナリオ決定稿について澤井は、「プロデューサーに許可を取って90%、自分が書き直したもの。宮内さんが書いた第一稿は15分のテレビドラマを4~5本分、団子の串刺しにしたもので、とても映画化に耐えられないシロモノだった。宮内さんはプライドの高い人なので、お互いの意見を出し合って、脚本の内容をたたき直すという作業が出来なかった」などと話している[59]。
衣装
本作で松田聖子を演出するにあたり、大きな問題となったのがカツラ[54]。『野菊の墓』は明治時代の設定で、しかも農家の娘では断髪もままならない。澤井は、すっぽりと被る全カツラでなく、おでこの生え際の毛を生かし、自然に見えるカツラにしたいと考えたため、おでこは全て見えることになる。しかし松田は当時、日の出の勢いで「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルが大人気。常に前髪をたらし、決しておでこを見せないという神話の中にいた[54]。松田も広いおでこは自身の欠点と分かっていて、おでこをさらけ出すのは屈辱的に感じ、おでこの出るカツラを嫌がった[61]。プロデューサーの吉田は、松田の所属事務所に遠慮し、おでこを見せてくれとは言い辛く、前髪をたらしたカツラでもいいんじゃないかと提案したが、澤井が「毅然とした態度で緒戦に望まないと、後で雪崩現象を起こす」と、松田との初顔合わせのとき、はっきり「おでこを見せますよ」と伝えた[54]。松田も所属事務所も理解してくれ、松田聖子が初めておでこを見せた、などと新聞に取り上げられるほどのニュースになった[54]。澤井は「たとえアイドルであっても一切気を遣わないで撮影する」と宣言した[4]。
コントラストを上手く出すため、絣の着物を派手なものから「地味なものまで20着を用意した[29]。
カメラ
東映東京撮影所にも多くのカメラマンがおり、新人監督の作品に他社からカメラマンが来ることは本来有り得ないが[23]、森田富士郎は、東映で西崎義展プロデュース、吉田達プロデュース補佐、吉田喜重監督で企画されていた『望郷の時』という作品が流れ[62]、吉田から「時代を心得た丁寧な画質が是非とも必要」と口説かれ[63]、本作に参加した[23]。初めての東京撮影所での撮影で、撮影照明スタッフに全く面識がないため、不安がる森田に吉田は「全員、メジャー東映組織の社員です。吟味しています。問題ありません」と説得した[63]。澤井は「自分の知らない光と影の使い方に驚いた」[23]、「ポジション、アングル、光線...どれ一つとっても非常に落ち着いて、まったく僕の思い通りに仕上げていただいた。すごく感謝しています」などと話している[62]。1971年の大映倒産後フリーだった森田は、本作以降、翌年の『鬼龍院花子の生涯』など、東映の文芸大作を多数手がけた。
ロケハン
"ロケハンの虫"澤井は[64]、監督を引き受けてすぐ、1980年11月末から美術と製作スタッフ3人と6ヶ月ロケハン[65]。原作は千葉県松戸市矢切村の江戸川べりだが、近辺に畑がないなど、イメージする場所がなく当地で撮影はされなかった[66][67]。映画で政夫の実家設定にした醤油醸造の工場は、森田が参加したロケハンで埼玉県狭山市の外れに小規模ながら営業を続けていた醤油工場の旧家を見つけた[63]。この旧家の構造・材質などを参考に東京撮影所に民家や土蔵、路地、内部のセットが作られた[65][63]。醤油工場は表側が埼玉で、裏側は群馬県藤岡市の酒屋[65]。この酒屋で松田ら俳優参加のロケが行われた[68]。小舟が擦れ違う川は、群馬県の利根川上流[65]。景色は色々な箇所を合わせたもの[65]。
撮影
最初は20日間の撮影スケジュールを約束してもらっていたが[4]、松田が1981年に入ってさらに人気を拡大させたため、サンミュージックから「10日間で撮影して欲しい」と申し出があった[4]。交渉の末、何とか粘り20日間のスケジュールを確保[4]。スケジュールも長野県などに泊りがけで行けるように理解を示し、一週間のうち、他のレギュラー番組の関係で[28]、火、水、木曜の3日、4日続けて時間を取り[55]、これを二か月の間、数週に分けて計19日間[54]、22日間[61]を確保してくれた。澤井は『野菊の墓』のためにサンミュージックは数億円損をしたのでないかと話している[55]。山口百恵の主演デビュー映画『伊豆の踊子』で山口の撮影にあてられた期間は僅か一週間だった[69]。木曜日の『ザ・ベストテン』(TBS)で、撮影所とロケ先が計4回あり[55]、4回とも撮影地で生中継された[55]。澤井も4回ともテレビに映っている[55]。
松田聖子の映画初出演にサンミュージックも大ノリで[66]、シャワー、トイレ、冷蔵庫付きのロケ用キャンピングカーを1000万円で購入した[66]。畑の真ん中のロケで、ファンに取り囲まれてはトイレもままならないという配慮であった[70]。しかしこの目立つキャンピングカーのおかげで、松田が乗っていることがバレ、ロケ移動に護衛隊と称する若者のオートバイが何10台も続いた[63]。
撮影記録
松田聖子自身による撮影日記を含む[71]。
1981年5月12日、東映東京撮影所でクランクイン[71]。東京撮影所のメイクは控え室で行うが、松田に割り当てられた3号室の向かい側が高倉健、隣が菅原文太の部屋でビックリする[71]。初日は松田の雑巾がけのシーンの収録が行われたが、雑巾がけは縁のない世代で苦労した。しかし松田は何度もNGを出しながら根性でやりきり、スタッフにも好感を持たれた。松田に好印象を持った澤井を筆頭にスタッフ50人全員で、松田のファンクラブに加入し[28][66]、吉田プロデューサーが四谷の後援会事務所に手続きにいったら、担当者から「急に平均年齢が上がってしまう」と笑われた[3]。夜8時に撮影が終わり、キャンピングカーで翌日のロケ地、群馬県甘楽町に向かう[71]。ホテルに到着するとファンが集まっていてスケジュールは公表してないのに驚く[71]。
5月13日、早朝から甘楽町ロケ、綿畑、峠などで走るシーン。地元の小学生が何百人も押しかける[71]。「アイドルであっても一切気を遣わないで撮影する」と澤井が宣言した通り、ロケ初日に「聖子ちゃんカット」の魅力を完全に封印し、おでこ全開で走ってくる松田をスローモーションで捉えたオープニングショットなど[72]、当時の家政婦の恰好である桃割れに絣の着物、もんぺに草鞋履きの松田に朝から晩まで走らせ[73]、同行したサンミュージックスタッフに泡を喰わせた[5]。松田は持ち前の負けん気で足の皮が剥げるまで走った[66][74]。また美しい夕陽が沈むシーンもこの日撮影された。
5月14日、同じ場所でロケ。籠に野菊を差して民子と政夫が歩くシーンなど[71]。午後3時にロケ終了し、東京撮影所に戻りスタジオ撮影。撮影中のセットから『ザ・ベストテン』の生中継があり、松田が『夏の扉』を歌唱[71]。
5月20日、利根川ロケを予定してたが、天気が良すぎて悲しい場面に合わないと急遽、スタジオ撮影に変更[71]。初めてのスタジオセットでの撮影?[66][71]。政夫が民子に手紙を渡すシーンなど。他にラッシュ試写[71]。5月21日もスタジオ撮影。いなくなった政夫を想い出して民子が政夫の部屋で泣くシーンなど。感情の表現が難しくやっぱり涙が出ず、撮影が難航する[71][66]。
5月24日の報知新聞朝刊一面に「聖子、郷、結婚へ」という見出しの記事が掲載された[74]。郷が松田に指輪を贈ったという内容で[75]、その日松田はクライマックスの綿畑の収録のため、長野県松本市にいた、と書かれた文献があるが[74]、別の文献では松本に移動したのは5月25日の夜中と記述がある[66][71]。
5月26日、前日夜中に長野県松本市に移動[71]。キャンピングカーは揺れてあまり眠れなかった[71]。長野県北安曇郡池田町の大峰牧場でロケ[71]。残雪を頂く北アルプスを望む大木の下で民子と政夫が弁当を食べるシーンなど[63][71]。撮影は午後4時に終わり、松本市内の高砂殿で記者会見[71]。夜、当時火曜日21時30分からの放送だった松田自身も出演した『ミュージックフェア』(フジテレビ)を観て寝る[71]。
5月27日、映画最大の見せ場である花嫁行列のシーン[71][66]。頭を高島田に結い、白塗りメイクと、白無垢の着付けを1時間半かけ、朝6時から、夜の7時まで衣装のまま。カンカン照りの暑さに苦しむ[29]。
5月28日、民子と政夫が抱き合いながら坂をころがるシーンなど[71]。夕方雨が降り撮影中止[71]。夜、『ザ・ベストテン』の生中継が当地であり[4]、松田が松本城埋橋の上で『夏の扉』を歌った[4]。ロケスケジュールは公表していないにも関わらず[76]、多くのファンが集まった。
ロケシーンは肉体的にもハードな撮影が続いたが、松田は歌手の仕事では味わえないファミリー的な雰囲気を喜んでいたという[74]。ただ、松田は主演三作目の1984年『夏服のイヴ』撮影中のインタビューで『野菊の墓』の撮影を振り返り「『野菊の墓』の時は慣れないせいかとても怖くて、映画の仕事が嫌だった」と話している[77]。
ロケ地
※何処でロケをしても見学者が多く、桑畑に隠れたりし、何度もNGになった[63]。
※茄子畑は甘楽の山地に新たに開墾し茄子畑を作った。政夫の家も実物の角材などで製作。テレビドラマでは味わえない凝り方に松田も感心していたという[61]。
編集
主題歌をどこかで入れないといけないという事情から、澤井が劇中で流すのが嫌で最初に入れることにした[54]。当時の日本映画は超大作以外は、最後にタイトル・ロールが流れるものはほとんど無く、劇中で流さなければ最初に入れるしかなかった[54]。ホリプロの堀威夫社長は、山口百恵の映画デビュー作『伊豆の踊子』製作の際、監督の西河克己に「この子は一応歌手であるが、映画の中で主題歌を歌うような場面を考えないで欲しい。きちんとした文芸作品を作って下さい」と伝えたといわれる[78]。
プロモーション
1981年8月3日放送の『夜のヒットスタジオ』では、松田聖子が桑原正を横に座らせて映画の主題歌「花一色〜野菊のささやき〜」を歌った。同曲は「白いパラソル」のB面。澤井がCBS・ソニーの宣伝担当に「A面で出してくれ」と頼んだら、「あのレコードは両A面です」とうまく逃げられたという[55]。
興行
午後3時以降の夜の入りが極端に悪かったが[79]、東宝の超大作『連合艦隊』(配給収入19億円)、松竹『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』(配給収入13.1億円)を向こうに回しての配給収入8億円は[1]、年間を通じ不振だった東映にあってはまずまずのヒット[80][注 5]。東宝に比べて投資効率がよく成功といえた[79]。
評価
- 山根貞男は「胡散臭さを百も二百も承知の上で、古典的な共通感覚の共通性をとことん信じ切っているふりをして、古典的な画面を作り上げた」と評した[82]。同時上映は真田広之主演の『吼えろ鉄拳』であったが、映画館へつめかけたファンのほとんどは、自分のお目当てのアイドルが出る映画だけ観て、もう1本の方は観ないで帰ったといわれた[82]。山根は「これは二つの映画が比較され選択されているわけではなく、あくまで松田聖子と真田広之が、比較・選択の対象になっているだけだからである。スター目当てに映画を観るという現象は、石原裕次郎の映画や寅さん映画などと現象はそっくりだとはいえ、それらの視線が同時に映画そのものにも向けられていた現象とは似て非なるもの」などと評した[82]。
- 寺脇研は「描写の細やかさで感嘆させられる。古典的な少年と少女の悲恋ものでありながら、主役の二人は、ヒーロー然、ヒロイン然として輝くことがない。役柄相応に持つべきスター性が、まるで欠けている。『政夫さんはりんどうのような人だわ』という科白が失笑しか呼ばないのは、それゆえだ。スターだったらどんな気障な科白だって似合うものだ。代わりに描写の細やかさが映画を支えている。映像、演出、傍役や小道具の使い方。スター性を欠く両主演者も、"小道具"として、上手く使われている」と評価[83]。
- 立川健二郎は「山口百恵が男性、女性に人気があったオールマイティとすれば、松田聖子の場合は女性に人気が無い。百恵との比較論であるが、企画よりも前に、人気歌手を引っ張り出し明らかにタレント優先の映画であるだけに、この差はかなり大きい。だから"ポスト百恵"というのは、おこがましい」などと評した[84]。
- 浜野優は「どう見ても、これが監督昇進第一回の作品とは思えない。まるでベテラン監督がソツなく作り上げた手慣れた巧さを感じる。悪く言えば、若々しい熱気と実験性に乏しく、新人監督に期待する挑戦の意気込みに欠ける。松田聖子というスター歌手を"ポスト百恵"の商魂で売り出す一番手の重責を、澤井信一郎は、まずは如才なく切り抜けたといってよい。しかし『民さんは野菊のような人だ』のような科白が、今日の独善的なヤング世代にどのように受け入れられるのだろうか。気の効いた恋愛パロディとして哄笑される予感さえする。思えば『伊豆の踊子』にしても『絶唱』にしても古典的ともいい得る純愛のメロドラマが、日本の可憐な新人女優を売り出す登龍門的意味を持つのはなぜだろうか。犯すべからず的精神愛の悲劇も、もうそろそろ世代交代がなされてもいいのではなかろうか。青春物の一環としての恋愛劇が、このように古色蒼然とした内容に下降していく部分と、新しい女優を生み出す上昇作業のイメージとが、どうもしっくりこないのだ。この作品においても、松田聖子のキャラクターの魅力は完全に形骸化され、生き生きとした"なま"な女優の若い息づかいはどこを押しても感じられない。定型の中で定型通り演じる、いわば人形芝居といえよう。一層のこと、伊藤左千夫の原作を完全に解体し、"澤井の『野菊の墓』"に再構築する意気込みが欲しかった。それだけの力を持っているだけに惜しい」などと評した[85]。
- その他、白井佳夫や松田政男らも澤井の職人的演出を高く評価したが[86]、大勢としては黙殺されかけていた[86]。
影響
作品や澤井演出に関しては評価された『野菊の墓』に続いて[87]、1982年の東映の正月映画に松田聖子と沖田浩之の二枚看板で映画離れ著しいヤングを呼び戻す青春路線の構想が存在したが[88]、角川映画/キティ・フィルム提携作品『セーラー服と機関銃 』の配給が東宝から東映に変更された影響を受ける[89][90][91]。結局、松田の正月映画は立ち消えになり[81][89]、松田の2作目『プルメリアの伝説 天国のキッス』は2年後に東宝で製作された[91]。
1981年11月号の『話の特集』で蓮實重彦が「『野菊の墓』のフィルム的繊細さを融知するにはそれが映画だとつぶやくだけで充分である」という本作の映画評を載せると評価が高まった[92][注 6]。澤井は「蓮實さんには生涯足を向けて寝られない、心底そう思った」「この批評がなければ、次作薬師丸ひろ子の『Wの悲劇』のオファーは来なかったのではないか」などと述べている[86][93]。
政夫役を演じた桑原正は本作出演の後、早稲田学院から早稲田大学に進み、卒業後俳優になりたいと澤井に相談に来たが、やめた方がいいと忠告されサラリーマンになったという[54]。
本作の企画者・吉田達は[94]、東映に"女性映画路線"を定着させようと[3][95]、1982年に田中裕子主演『ザ・レイプ』、田中美佐子主演『ダイアモンドは傷つかない』を"女性OL路線"と名付けて二本立て公開したが成績は普通に終わり[3]、1983年の大原麗子主演『セカンド・ラブ』の興行が振るわず[3]。『ひとひらの雪』を企画した直後の1983年に東映ビデオに移籍となり[94][96]、取締役企画部長として間もなくVシネマを発案する[97][98]。
同時上映
『吼えろ鉄拳』
脚注
注釈
- ^ 〔引用者註〕キネマ旬報1982年2月下旬号では『野菊の墓』の配給収入は8.1億円[2]、同じキネマ旬報1983年8月下旬号では8億円と異なった金額になっているが、より新しい資料である後者を採用した。
- ^ 大川博への恩から、大川の長男・大川毅を代表取締役として処してはいたが[9]、実際は傍系会社の取締役会の議長のような閑職に追いやっていた[10]。1986年10月23日付けで大川毅は東映を退職[9]。東映は完全に岡田茂の会社になった[9]。大川退社に伴い、東映では初めての取締役相談役に五島昇と瀬島龍三を迎えた[9]。
- ^ 山口百恵は、1980年3月7日に三浦友和との婚約発表と芸能界引退を同時に発表したが、婚約はまだしも、まだ21歳で人気絶頂でもあり、芸能界引退に関しては当時のマスメディアは懐疑的だった[34]。山口百恵はホリプロの売上げの半分近くを稼ぎ出すドル箱で[34][35]、必死の説得を続けたが、山口の意思が固く、堀威夫社長の説得も不調に終わり、ホリプロが同年10月15日の山口の引退に向けてサヨナラ商法に切り替えたとき[34]、"山口百恵は本当に芸能界を引退する"とマスメディアが認識した。同年の夏頃から、山口百恵の持っていたポジションを誰が奪うかという意味で"ポスト百恵"という言葉を使い始めた[36][37]。
- ^ デビュー後、9年間の売上げは746億円[42]。
- ^ 東映58期(1980年9月 - 1981年8月)に公開された番組の中では第3位[81]。
- ^ 『シネマの記憶装置』(1985年)、『映画狂人シネマの煽動装置』(200年)に収録。
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