「スティーブ・ジョブズ」の版間の差分
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導師を求めて[[インド]]まで旅をしたいと考えたジョブズは、旅費を捻出するため働くことを決める。[[1974年]][[2月]]にジョブズは実家に戻り、その日のうちに[[アタリ (企業)|アタリ]]を訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言してアタリのトップである[[ノーラン・ブッシュネル]]を引っ張り出した。ブッシュネルに気に入られたジョブズは、40人目の社員として採用され、時給5ドルの[[テクニシャン]](下級エンジニア)として働くこととなった。入社後のジョブズは長髪で風呂に入らず、[[ビルケンシュトック]]サンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿に加え、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、夜勤でひとり勤務していたにもかかわらず、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ同僚の大半から「失礼な奴」と認識された。 |
導師を求めて[[インド]]まで旅をしたいと考えたジョブズは、旅費を捻出するため働くことを決める。[[1974年]][[2月]]にジョブズは実家に戻り、その日のうちに[[アタリ (企業)|アタリ]]を訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言してアタリのトップである[[ノーラン・ブッシュネル]]を引っ張り出した。ブッシュネルに気に入られたジョブズは、40人目の社員として採用され、時給5ドルの[[テクニシャン]](下級エンジニア)として働くこととなった。入社後のジョブズは長髪で風呂に入らず、[[ビルケンシュトック]]サンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿に加え、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、夜勤でひとり勤務していたにもかかわらず、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ同僚の大半から「失礼な奴」と認識された。 |
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ジョブズはアルコーンにインドまでの旅費の援助を頼み、[[ミュンヘン]]でのゲームの修理を旅費込みで命じられて、[[ドイツ]]経由でインドへ渡ることで旅費を安く済ませる目処を立てた。ジョブズは仕事を済ませた後一度退社し、友人のダン・コトケと共にインドにたどり着いたが、すぐに[[赤痢]]にかかって苦しむことになった上、放浪の末に想像とあまりにもかけ離れたインドの実態に失望した<ref>[http://news.indochannel.jp/news/nws0003784.html 【インド社会】スティーブ・ジョブズとインド]</ref>。結局その年の秋にはロスアルトスに帰り、[[曹洞宗]]の禅僧である[[鈴木俊隆]]を導師としてサンフランシスコで[[禅]]を学び<ref>[https://web.archive.org/web/20111025043526/http://mainichi.jp/select/biz/it/news/20111024mog00m020009000c.html スティーブ・ジョブズ氏:伝記翻訳者が明かす日本とのエピソード 「アップル製品に禅の影響」] 毎日新聞 2011年10月24日 [[インターネット |
ジョブズはアルコーンにインドまでの旅費の援助を頼み、[[ミュンヘン]]でのゲームの修理を旅費込みで命じられて、[[ドイツ]]経由でインドへ渡ることで旅費を安く済ませる目処を立てた。ジョブズは仕事を済ませた後一度退社し、友人のダン・コトケと共にインドにたどり着いたが、すぐに[[赤痢]]にかかって苦しむことになった上、放浪の末に想像とあまりにもかけ離れたインドの実態に失望した<ref>[http://news.indochannel.jp/news/nws0003784.html 【インド社会】スティーブ・ジョブズとインド]</ref>。結局その年の秋にはロスアルトスに帰り、[[曹洞宗]]の禅僧である[[鈴木俊隆]]を導師としてサンフランシスコで[[禅]]を学び<ref>[https://web.archive.org/web/20111025043526/http://mainichi.jp/select/biz/it/news/20111024mog00m020009000c.html スティーブ・ジョブズ氏:伝記翻訳者が明かす日本とのエピソード 「アップル製品に禅の影響」] 毎日新聞 2011年10月24日 [[インターネットアーカイブ|Wayback machine]]</ref>、[[瞑想]]やスタンフォード大学の授業聴講などをして自分探しを行った後、[[1975年]]初頭にアタリに復職する。 |
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復職後の夏、ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」([[ブロックくずし#ブレイクアウト]])の回路の部品減らしを命じられた。「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身ではできないことをすぐ認識した。ジョブズは、部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ(ブッシュネルはこれを予測していた)、ゲームをしたり勝手に基板を改造していたウォズニアックに対してその片手間に作業を頼んだ。ウォズニアックは、4日間徹夜して部品を20〜30個も減らしたが、あまりに窮屈で難解な設計は、ウォズニアック自身にしか理解できなかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられ、その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局またしてもウォズニアックに泣きつくことになった。そしてウォズニアックは、多少部品は増えたものの、誰もがわかる程度に設計の変更を行った。 |
復職後の夏、ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」([[ブロックくずし#ブレイクアウト]])の回路の部品減らしを命じられた。「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身ではできないことをすぐ認識した。ジョブズは、部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ(ブッシュネルはこれを予測していた)、ゲームをしたり勝手に基板を改造していたウォズニアックに対してその片手間に作業を頼んだ。ウォズニアックは、4日間徹夜して部品を20〜30個も減らしたが、あまりに窮屈で難解な設計は、ウォズニアック自身にしか理解できなかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられ、その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局またしてもウォズニアックに泣きつくことになった。そしてウォズニアックは、多少部品は増えたものの、誰もがわかる程度に設計の変更を行った。 |
2017年9月4日 (月) 14:32時点における版
スティーブ・ジョブズ | |
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生誕 |
スティーブン・ポール・ジョブズ 1955年2月24日 アメリカ合衆国 カリフォルニア州サンフランシスコ |
死没 |
2011年10月5日(56歳没) アメリカ合衆国 カリフォルニア州パロアルト |
国籍 | アメリカ合衆国 |
職業 |
アップル社 元会長(創業者、元CEO) ピクサー 元社長(元CEO) |
著名な実績 | スティーブ・ウォズニアックとのパーソナルコンピュータやインターネット、メディア革命のパイオニア |
身長 | 183 cm (6 ft 0 in) |
取締役会 |
ウォルト・ディズニー・カンパニー アップル |
配偶者 |
ローレン・パウエル・ジョブズ (結婚 1991年; 彼の死没 2011年) |
子供 | 4人 |
親 |
ポール・ジョブズ(養父) クララ・ジョブズ(養母) |
親戚 | モナ・シンプソン(妹) |
署名 | |
スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(Steven Paul "Steve" Jobs、1955年2月24日 - 2011年10月5日)は、アメリカ合衆国の実業家、資産家、作家、教育者。
アップル社の共同設立者の一人。アメリカ国家技術賞を受賞している。
略歴
1976年、スティーブ・ウォズニアックと共に初期のホームコンピュータ「Apple I」、その後「Apple II」を開発した。Apple IIは大成功を収め、自宅からスタートしたアップル社は、シリコンバレーを代表する企業としてサクセスストーリーを築いた。1980年の株式公開時に2億ドルもの巨額を手中にし、25歳でフォーブスの長者番付、27歳でタイムの表紙を飾った。
1984年に発売した「Macintosh」が搭載したグラフィカルユーザインターフェースは当時のあらゆるパソコンを凌駕する洗練されたもので、新たなコンピュータ像を創造した。しかし、本人の立ち居振舞いが社内を混乱させたとして役職を解任され閑職へ追いやられた為、1985年にアップルを辞めた[1]。
アップル退職後、ルーカスフィルムのコンピュータ・アニメーション部門を買収して、ピクサー・アニメーション・スタジオを設立。また、自ら創立したNeXT Computerで、NeXTワークステーション (NeXTcube, NeXTstation) とオペレーティングシステム (OS) NEXTSTEPを開発した。
1996年、業績不振に陥っていたアップル社にNeXTを売却すると同時に復帰、1997年には、iCEO(暫定CEO、Interim CEOの略)となる。同年には、不倶戴天のライバルとさえされていたマイクロソフトとの提携と、同社からの支援を得ることに成功し、また社内ではリストラを進めてアップル社の業績を回復させた。
2000年、正式にCEOに就任。2001年から2003年にかけてMacintoshのOSをNeXTの技術を基盤としたMac OS Xへと切り替える。その後はiPod・iPhone・iPadといった一連の製品群を軸に、アップル社の業務範囲を従来のパソコンからデジタル家電とメディア配信事業へと拡大させた。
CEOに就任して以来、基本給与として、年1米ドルしか受け取っていなかったことで有名であり[2](実質的には無給与であるが、この1ドルという額は、居住地のカルフォルニア州法により、社会保障番号を受けるために給与証明が必要なことによる)、このため「世界で最も給与の安い最高経営責任者」とも呼ばれた。しかし、無報酬ではなくアップルから莫大なストックオプションやビジネスジェット機などを得ている[3]。2006年に、ピクサーをディズニーが買収したことにより、ディズニーの個人筆頭株主となり、同社の役員に就任したが、ディズニーからの役員報酬は辞退していた。
2011年10月5日、アップルはジョブズが死去したと発表した[4]。別の報道では死因は膵癌に伴う呼吸停止[5]と報道している[6]。56歳没。
2012年2月11日、第54回グラミー賞で、特別功労賞の一つ「トラスティーズ賞」が授与された[7]。
経歴
生い立ち
1955年2月24日、シリアからの留学生で政治学を専攻する大学院生アブドゥルファター・ジャンダリ[8]とアメリカ人の大学院生ジョアン・シーブルとの間に生まれる。ジョアンの父が、ムスリムのシリア人であるアブドゥルファターとジョアンとの結婚を認めなかったため[9]、誕生以前から、養子に出すことに決められていた。結果、スティーブはポール・ジョブズ、クララ・ジョブズ夫妻に引き取られることになった。
ジョブズが2005年6月12日のスタンフォード大学の卒業講演で語ったところによると[10]、母であるジョアンはジョブズ夫妻が大学卒でないことを知り養子縁組を躊躇していたが、ジョブズ夫妻がスティーブを大学に進学させることを約束したために養子縁組が成立したという。余談であるが、実の両親は後に正式に結婚して女の子をもうけ、それから離婚している。スティーブが生母と再会するのは、スティーブが30歳を過ぎて、養母であるクララが亡くなった1986年である。ジョブズはその時に初めて自分に血を分けた妹モナ・シンプソン (en:Mona Simpson) がいることを知り、モナとも初対面を果たした。
一方、なぜか実の父とは死ぬまで一度も会おうとはしなかった。父親のアブドゥルファターも、息子の成功に便乗していると思われるのを恐れ、親しい友人にも、ジョブズの事について語ることはほとんど無かったという[11]。
幼少時代
1958年、ジョブズが3歳の頃、ジョブズ夫妻がパティーを養子にもらい妹ができる。同じころ、実父母の間に実妹モナが生まれる。1960年になり、カリフォルニア州バロアルトに転居する。
1961年、6歳になったジョブズは、モンタ・ロマ小学校に入学。幼少時代のジョブズは、とても手のかかる子供だったという。ヘアピンが電気を通すのか確かめるために、ヘアピンをコンセントに差し込んで感電したり、小学校では授業中に花火をしたりするなど、エピソードに事欠かない少年だったという。
1965年、快活で機転の利く女性教師と出会い、勉強が好きになる。翌年の1966年、11歳ながらジョブズは知能検査で「高校2年生レベル」の結果を出し、1年飛び級でクリッテンデン中学に入学する。しかし、柄の悪い校風に嫌気がさしたジョブズは、登校拒否になり、仕方なく一家はロスアルトスのクリストドライブ2066番地のガレージ付の一軒家に転居し、クバティーノ中学校に転校したという。
少年時代
1968年、ジョブズが13歳のとき、あこがれのヒューレット・パッカード社のビル・ヒューレットの自宅に電話をかける。ビル・ヒューレットがパロアルトに住んでいることを知っており、電話帳で調べてみたところ、パロアルトで、彼の名前で掲載されている電話番号はひとつしかなかった。ジョブズが周波数カウンタの部品をくださいと言うと、ビル・ヒューレットは部品をくれたばかりか、夏休みにアルバイトをしないかと持ちかけた。アルバイト先はヒューレット・パッカードの支社で、周波数カウンタを作っているところだったという[12]。
1971年、高校生になったジョブズは、ヒューレット・パッカードの夏季インターンシップで働いていた時に、スティーブ・ウォズニアックと出会う。容姿も性格も正反対だったが、すぐに意気投合した。ある時、ウォズニアックの母親からもらった「エスクァイア」誌1971年10月号に掲載されていたブルー・ボックスと呼ばれる装置を使って、無料で長距離電話をかけるというフリーキング(不正行為)の記事を読んだ2人は、スタンフォード大学の図書館に入り込み、AT&T(ベル社)の技術資料を見つけ出して、自分たちでオリジナルのブルー・ボックスを作り上げた。2人は、この装置で長距離電話をかけまくったという。ウォズニアックは装置を作ったことで満足したが、ジョブズは、当時ウォズニアックの通っていたカリフォルニア大学バークレー校の寮で、この装置を1台100ドルから150ドルで売りさばいた。装置自体は1台40ドル程度で、大いにもうかったようだが、そのうち銃で脅されるようになり、身の危険を感じたジョブズは販売を止めた。
青年時代
1972年の春、高校も卒業というとき、ジョブスはLSDを試し、麦畑がバッハの曲を奏でるという幻覚体験をし、それを素晴らしい体験であると感じた[13]。2013年の伝記映画『スティーブ・ジョブズ』にも、LSDを服用し麦畑で指揮者になるという場面が登場する[14]。後には、人生でトップクラスというほど重要な体験であると述べ、お金儲けではなく、歴史という流れ、人の意識という流れに、いろいろなものを戻すことを気づかせたとしている[13]。
1972年、オレゴン州のリード大学へ進学。大学時代のジョブズはユダヤ・キリスト教・イスラム教・アニミズム・太陽神・思想・坐禅・食事・ヒッピー文化に心酔し、裸足で校内を歩き、一時は風呂に入らない時期もあったという。また、かなりの音楽ファンであり、ビートルズやグレイトフル・デッドなどを聴きまくっていた。
ジョブズは大学に半年間通ったが、興味のない必修科目を履修することを嫌がり、「両親が一生をかけて貯めた学費を、意味のない教育に使うのに罪悪感を抱いた」ために中退した。しかし中退後もリード大学のキャンパスを放浪し、コカ・コーラの空き瓶拾いや心理学科の電子装置修理で日銭を稼ぎながら、哲学やカリグラフィー(西洋書道)など、興味のあるクラスだけを聴講するもぐりの学生として過ごし、合計18ヶ月をリード大学に費やした。
アタリとのかかわり
導師を求めてインドまで旅をしたいと考えたジョブズは、旅費を捻出するため働くことを決める。1974年2月にジョブズは実家に戻り、その日のうちにアタリを訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言してアタリのトップであるノーラン・ブッシュネルを引っ張り出した。ブッシュネルに気に入られたジョブズは、40人目の社員として採用され、時給5ドルのテクニシャン(下級エンジニア)として働くこととなった。入社後のジョブズは長髪で風呂に入らず、ビルケンシュトックサンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿に加え、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、夜勤でひとり勤務していたにもかかわらず、技術部長のアラン・アルコーンをはじめ同僚の大半から「失礼な奴」と認識された。
ジョブズはアルコーンにインドまでの旅費の援助を頼み、ミュンヘンでのゲームの修理を旅費込みで命じられて、ドイツ経由でインドへ渡ることで旅費を安く済ませる目処を立てた。ジョブズは仕事を済ませた後一度退社し、友人のダン・コトケと共にインドにたどり着いたが、すぐに赤痢にかかって苦しむことになった上、放浪の末に想像とあまりにもかけ離れたインドの実態に失望した[15]。結局その年の秋にはロスアルトスに帰り、曹洞宗の禅僧である鈴木俊隆を導師としてサンフランシスコで禅を学び[16]、瞑想やスタンフォード大学の授業聴講などをして自分探しを行った後、1975年初頭にアタリに復職する。
復職後の夏、ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロックくずし#ブレイクアウト)の回路の部品減らしを命じられた。「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身ではできないことをすぐ認識した。ジョブズは、部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ(ブッシュネルはこれを予測していた)、ゲームをしたり勝手に基板を改造していたウォズニアックに対してその片手間に作業を頼んだ。ウォズニアックは、4日間徹夜して部品を20〜30個も減らしたが、あまりに窮屈で難解な設計は、ウォズニアック自身にしか理解できなかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられ、その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局またしてもウォズニアックに泣きつくことになった。そしてウォズニアックは、多少部品は増えたものの、誰もがわかる程度に設計の変更を行った。
ジョブズは報酬の山分けをウォズニアックに提案し、アタリから受け取った「700ドル」のうち350ドルを小切手でウォズニアックに渡したが、実際には5000ドルを受け取っており、差額をオレゴン州の共同農場につぎ込んでいた。1984年頃、ウォズニアックはアルコーンに偶然出会った際、ジョブズによる報酬搾取の事実を知り、ジョブズとウォズニアックとの間にしばらく確執が生じた。ともあれウォズニアックは、後述のApple IやIIを設計する際に「ブレイクアウト」の部品減らしが、大変役に立ったと語っている。なおアルコーンはアタリを退職後、アップルコンピュータにも勤めていた時期がある。
Apple I
1975年、Altair 8800というコンピュータ・キットが発売され、人気を博していた。ウォズニアックは、モステクノロジー社の6502ならより安く、しかも、簡易な回路のコンピュータを作ることができると考え、10月から半年かけて設計し、ホームブリュー・コンピュータ・クラブでデモを行って称賛された。
ウォズニアックは、ヒューレット・パッカードで働いていたことから、「自身の開発した物は上司に見せなければいけない」としてジョブズの反対を押し切り、ヒューレット・パッカードに商品化を持ち掛けた。しかし、当時のヒューレット・パッカードは、個人でコンピュータを所有する意味が理解できず、ウォズニアックは軽くあしらわれてしまった。
アタリのアルコーンもほぼ同様の反応であったため、2人は資金を集め自分達でこのコンピュータを売り出すことを決意する。ジョブズはワーゲンバスを、ウォズニアックはHPのプログラミング電卓を250ドルで売り払い資金を集めた。そして、製造したコンピュータをアップル(正確にはApple Computer I)と名付け、1976年6月にApple Iを666.66ドルで販売開始した。
ちなみに、ウォズニアックが「アメリカン・ドリーム」(マイケル・モリッツ著)で語っているところによれば、社名選考でジョブズが「アップルというのはどうか?」と、突然言い出したとされる。それに対してウォズニアックは「2人(ウォズニアック、ジョブズ)とも音楽好きであったので、ビートルズのレコード会社として有名なアップルから思いついたのかもしれない」とのコメントを残している。
アップルコンピュータ設立
ジョブズは約8,000ドルの利益を手に、多忙で商談ができなかったブッシュネルの紹介でマイク・マークラに起業の話を持ちかける。マークラは、インテルの中級社員だったが、目先の現金が欲しい同僚や友人からストックオプションの株を買い集め、インテルの株式公開時には、巨額の富を手に入れていた。紹介されたジョブズらの話に興味を持ったマークラは、1976年11月にアップルに加わり、自身の個人資産の92,000ドルを投資し、1977年1月3日、3人でアップルコンピュータを法人化した。株式はジョブズ、ウォズニアック、マークラで3割ずつ持ち合うこととなった。
1977年5月、マークラがナショナル・セミコンダクターから引き抜いたマイク・スコット[17]が、5番目の社員(社員番号は007)かつ社長となった。ジョブズの当時の肩書きは、事業統括担当副社長(Vide President, Operations[18])であった。ウォズニアックはアップルに注力するために、ヒューレット・パッカードを退社し、Apple Iの再設計を開始する。
処理能力向上とディスプレー表示のカラー化、拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをほとんど独力で開発した。1977年6月5日、1,298ドルで発売されたApple IIは爆発的人気を呼び、1980年には10万台、1984年には200万台を超える売り上げで、莫大な利益をアップルにもたらした。1980年、アップルはIPO(株式公開)を果たし、750万株を持っていたジョブズは、2億ドルを超える資産を手にした。
なお、ジョブズの実家のガレージで創業したと広く信じられ、2013年の伝記映画『スティーブ・ジョブズ』などでもそのように描写されたり[19]、死後バラク・オバマ大統領によって言及されたりしている[20]が、ガレージという部分については2014年12月にウォズニアックが「ちょっとした作り話」「誇張されたもの」と否定している[21]。
LisaとMacintosh
1981年、IBMはIBM PCを発売し、パーソナルコンピュータ市場へ参入した。次第にApple IIはシェアを奪われてゆき、新しい製品が待望されるようになった。1978年、Apple IIを打ち破る次世代パーソナルコンピュータとして、Lisa(リサ)・プロジェクトが立ち上げられた。
1979年、ゼロックスからの出資を受け入れる交換条件として、ジョブズの要請により当時ゼロックス管轄の研究所であったパロアルト研究所見学が行われた。その際、ビットマップディスプレイとマウスを前提とする「Alto」で、GUIを実現した「暫定Dynabook環境」(開発者のアラン・ケイらは、SmalltalkをOSとして動作するAltoをこう呼称した)のデモに大きな衝撃を受けたジョブズは、開発中のLisaに、これと同じ機能を持たせることを考え、自らプロジェクトを率いて行くこととなった。Lisaの為の最初のAppleマウスは、ジョブズとデビッド・ケリー、ジム・ユルチェンコ[22]によりデザインされた。
1979年、アップルに入社したジェフ・ラスキンは、Apple IIが一般向けには複雑すぎると考えていた1人だった。ラスキンはカリフォルニア大学サンディエゴ校での教え子であったビル・アトキンソンを雇い、Apple IIのメンテナンス担当だったビュレル・スミスなど数人で、1979年、Macintoshプロジェクトを開始する。このMacintoshは、誰にでも簡単に扱える、ノート代わりのコンピュータを目指していた。
一方ジョブズは、会社内での独断専行の立ち居振舞いから、社長のスコットによって、Lisaプロジェクトのメンバーから外されてしまう。行き場を失ったジョブズは、1981年、突如としてMacintoshプロジェクトに参画を宣言する。殴り込みを掛けるかのような展開ではあったが、数人で動いていたMacintoshプロジェクトはジョブズを迎え入れた。そして、ハード担当がジョブズ、ソフト担当がラスキンとなり、取締役だったジョブズの働きで、予算も開発メンバーも増え、同時にLisaプロジェクトからもスタッフの引き抜きを行った。
しかし、Lisaを上回るものにしようとするジョブズは、ソフト(オペレーティングシステム)に関しても口を出し始めたために、ラスキンと激しく対立し、ラスキンは役員に対して「ジョブズの首を取るか、自分を新たな場に移すか」と直談判した。最終的に役員サイドは、Macintoshプロジェクトにジョブズを押し込めておく方が、会社にとって悪影響が少ないと考え、ジョブズの考えを優先し、1982年3月、ラスキンはアップルを去った。
ジョブズは、Macintoshにはシンプルな美しさが必要だと考え、基板パターンが美しくないという理由で、設計案を幾度となく却下した。また、同じく美しくないという理由で、拡張スロットの採用を拒否したり、みすぼらしいフロッピードライブのイジェクトボタンを無くし、オートイジェクトを導入させた。筐体は、机上の電話の横に置かれる電話帳程の大きさが理想として、30cm四方のサイズに収まるように提案。初代Macintoshの筐体デザインは、Apple IIcやMacintosh SEのデザインを行なったフロッグデザイン(ジョブズとエスリンガーが意気投合し、1982年からパートナーシップを組む)によるものではなく、ジェリー・マノック(Apple社員)によってデザインされたものである。
以上のように、手間を惜しまなかったがゆえに開発は難航し、Macintoshがデビューしたのは1984年1月のことだった。
アップルコンピュータ解任
ジョブズと対立し、関係が悪化していたスコットが、1981年マークラに解雇された。ジョブズはスコットの後任として、マーケティングに優れた人物を連れてくる必要に迫られ、ペプシコーラの事業担当社長をしていたジョン・スカリーに白羽の矢を立て、引き抜き工作を行った。この時、スカリーを口説くために「このまま一生砂糖水を売りつづけたいか? それとも世界を変えたいか?」(英: Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world?)と言った。熱烈なジョブズのラブコールもあり、1983年、ジョン・スカリーがアップルの社長の座に就いた。当時は、ジョブズとスカリーは、強力なパートナーシップのために『ダイナミック・デュオ』と呼ばれ、アップルの経営を押し進めた。
1984年後半、ジョブズはMacintoshの需要予測を大幅に誤り、アップルは過剰在庫に悩まされ、初めての赤字を計上してしまった。アップルは、従業員の1/5にあたる人数のレイオフ(人員削減)を余儀なくされた。スカリーはアップルの経営を混乱させているのはジョブズだと考えるようになり、Macintosh部門からジョブズを解任することを取締役会に要求する。それを察知したジョブズは、スカリーの中国出張中にスカリーの追放を画策するが、アップル・フランスで功績を上げていたジャン=ルイ・ガセーの密告により、スカリーはジョブズが自分をアップルから追い出そうとしていることを知る。その後、スカリーは、1985年5月24日の取締役会で、ジョブズに自分の追放を画策した事について問いただし、この結果ジョブズは会長職以外、アップルでのすべての仕事を剥奪される。(注)スカリーは自分がジョブズを追い出したのではないと主張している。
NeXT社設立
アップルでの仕事がなくなったジョブズは、新たなプロジェクトすら立ち上げられない状況にとどまることに絶望した。ジョブズは、理想のコンピュータ像を求めて大学を歩いて回った際に、スタンフォード大学でノーベル賞受賞者の生物学者ポール・バーグと一緒に昼食を取った。その時に、DNA組み替え実験の難しさの話題が上がり、ジョブズは、バーグにコンピュータでのシミュレーションを提案し、同時に、高等教育のためのコンピュータという構想をふくらませた。同年9月12日、その構想を実現すべく、ジョブズは、新しい会社NeXTを立ち上げるために、正式にスカリー宛てに辞表を送付した。また、決算報告を受け取るため1株だけを除いて、当時所有していたアップルの株、約650万株をすべて売却した。
当初、ジョブズは700万ドルをNeXTに投資し、1987年までには新しい製品が投入できるともくろんでいたが、実際に、NeXTの製品 (NeXTcube) を発表できたのは1988年秋で、最終版の出荷は、1989年になってのことだった。ジョブズはそれでも「5年は先取りしている」と語ったが(結果的にはMac OS Xの12年の先取り)、NeXTのロゴデザイン(ポール・ランドに依頼)に10万ドルを投じたり、OS (NEXTSTEP) の凝った仕様を開発するべく膨大な時間をかけたり、NeXTcubeの筐体デザインをフロッグデザインに依頼するなどして、過剰に資金を浪費した。1987年にはゼネラルモーターズで成功していたロス・ペローから2000万ドルの出資を、1989年には、キヤノンから1億ドルの出資を引き出した。
発表当初からNeXTの評価は高かったものの、ジョブズの強硬な主張によって、フロッピードライブの代わりにキヤノン製の光磁気ドライブ(5インチMOドライブ)を採用したことや、加工の難しいマグネシウム合金の筐体を使うことなどによって生産コストが高くついた。また、モトローラからのマイクロプロセッサ (MC68030) 供給が遅れるなどにより、思うように販売が伸びなかった。ワークステーションとして実績がないNeXTがサン・マイクロシステムズのSun-3x等と同様に高価な価格だったことなどの理由で、1992年にIBM互換機で動作するNEXTSTEPのPCバージョンが発表された。しかし、1993年2月10日には全社員530人のうち280人をレイオフし、ハードウェア部門をキヤノンに売却(FirePowerSystemsを設立)し、NeXTはソフトウェア会社へと転じることとなる(社名も、NeXTソフトウェアへと変更される)。
しかし、NeXTcubeは開発と運用のしやすさから、世界初のWebサーバとして用いられたという大きな功績も残している。また、世界初のWebアプリケーションサーバ開発運用環境WebObjectsが開発・発売された。NEXTSTEPとその開発機能は、Webサーバなどを比較的簡単に開発構築・運用できる利便さを兼ね備えたものであり、今日のmacOSにも受け継がれている。
ジョブズはアップルの解任後、シャープ東京支社を訪れて、東京支社長だった佐々木正元副社長に電卓についての相談をしており、『これからはネットワークの時代になるから、携帯IT機器が求められる様になる』との助言を受けていた[23]。
結婚
1990年、スタンフォード大学にて講演を行った際、聴衆の一人であったロレーヌ・パウェルと出会った。公演の後、ジョブズにはミーティングがあったにもかかわらず、彼女と夕飯を食べに出かけた。1991年、二人はヨセミテ国立公園で結婚式を挙げ、9月には長男のリード・ポール・ジョブズが生まれた。
ピクサー
NeXT社の仕事の一方で、ジョブズは1986年2月7日にルーカスフィルムのコンピュータ関連部門を1000万ドルで買収し、ピクサーと名付け、そのCEOの座に就いた。ピクサーの主要商品は、レンダーマンというシリコングラフィックスのIRIX上で動くレンダリングソフトであり、約10万本のセールスを記録し『ジュラシックパーク』のコンピュータグラフィックス制作でも使われた。ジョブズは、ピクサーに対してあまり口出ししなかったが、手っ取り早く利益があげられるコンテンツ作成を、ピクサー社のメンバーに提案した。
1991年、ピクサーは、ディズニーにCGアニメーション映画作成の売り込みを行い、同年3月3日に3本の劇場用作品の契約を結んだ。この結果、4年の歳月と、70台のSGIワークステーション、117台のSUNワークステーションを使った、全編コンピュータ・グラフィックスのアニメ映画『トイ・ストーリー』が、1995年11月22日に封切られた。公開までの4年間、ジョブズはピクサーに5000万ドルを投資しており、「こんなに金がかかるとは思っていなかった」と告白している。しかし、トイ・ストーリー公開直後に、ピクサーは株式を上場、またもジョブズは多額の資産を手に入れることになった。
2006年5月5日、ディズニーはピクサーを買収し、同社はディズニーの完全子会社となった。また、ジョブズ自身も、ディズニーの個人筆頭株主(持株率約7%)になると同時に、ディズニーの役員に就任した。
アップルによるNeXT買収
NeXTは、ソフト事業に特化した後、世界初のウェブアプリケーション開発・運用環境であるWebObjectsを出荷、NEXTSTEPも自社内開発を行う金融機関などに受け入れられ、まずまず安定した経営をしていた。しかし、ゴールドマン・サックスを頼って株式公開を目指すなどをしていたが、失敗に終わっている。
1995年末、ジョブズは、友人でオラクル創業者のラリー・エリソンと、共同で経営の傾いたアップルの買収を画策する。エリソンは、Windowsを打倒すべく、シンクライアントのネットワークコンピューティングを提唱しており、ジョブズと共に、これをアップルによって実現しようと考えていた。しかし、この考えはジョブズと合わず、最終的には、買収提案がなされる前に、話自体が流れてしまった。
ジョブズは、1996年の11月頃、アップルが自社内でのOS開発が暗礁に乗り上げ、次期OSの基本技術を外部に求めているという話を聞く。アップルにNEXTSTEPを売り込むべく、当時アップルのCEOだったギル・アメリオに電話をかけた。12月上旬に入ってから、1985年の退社以来、久しぶりにアップルを訪れ、アメリオやマークラ達と話し合いを持ち、簡単なプレゼンテーションを行った。アメリオは後に、この時のジョブズの対応を愛想の非常に良い、好感の持てるものだったと言っている。
アメリオとアップルCTOのエレン・ハンコックは、次世代Mac OSの候補として、Be社のBeOS、サン・マイクロシステムズ社のSolaris(ソラリス)、マイクロソフト社のWindows NT、そして、NEXTSTEPの4つを挙げていた。元々アメリオは、ワークステーションやサーバで用いられ、堅実に動作するUNIXの中でも、特に、カーネギーメロン大学で開発されたMachに目を奪われていた。そして、そのMachについて調べて行くうちに行き着いたのが、NEXTSTEPであった。NEXTSTEPの高い信頼性、先進的な機能もさることながら、特に、WebObjectsの出来に感動し、ジョブズからの売り込みがなくても、交渉は行うつもりでいたのだった。
ジョブズ同様に、話を聞きつけてやって来たBeのジャン=ルイ・ガセーも、アメリオに対してBeOSの簡単なデモを行った。アメリオは、BeOSの良さ(軽く動作し、扱い易い)を認識していたが、Be設立から数年経ってもBeOSには未完成部分が多く、製品版OSが発表される見込みが一向に立たない状態であった。BeOSを出荷できるようになるまで、膨大な作業が予想されることが明らかであったにもかかわらず、ガセーが法外とも言える金額を吹っかけて来たことも、懸念材料となり、その時点で、アメリオは決心していた。
同年12月のある日、ガセー率いるBeOSと、ジョブズのNEXTSTEPを比較するプレゼンテーションが行われた。ジョブズは、NEXTSTEPの良い面も悪い面もすべてさらけ出し、自分の不得意な分野は同行させたエンジニアと2人で進行し、完璧なプレゼンテーションを終えた。いっぽうBe(ガセー)のプレゼンテーションは、時間をずらし午後から行われた。ガセーは、1人でアップルにやって来た。ガセーは既に「Beに決まった」と確信しており、「(プレゼンテーションは既に行っているので)BeOSは以前にご覧頂いた通りです」と述べたのみであった。
アップルコンピュータ復帰
同年12月20日、アップルがNeXT社を4億ドルで買収することに合意、次期OSの基盤技術としてNEXTSTEPを採用すると発表した。ジョブズはアップルに非常勤顧問という形で復帰した。この際、アメリオからプレゼントされた20周年記念Macintosh(Spartacus。当初の販売価格7,499ドルという代物)を窓から投げ捨てたという噂があったが、真偽は定かではない。
1997年2月、正式にNeXT買収が完了した。アップルに復帰する際、買収代金の一部として、6か月先まで売却できないとの条件で150万株の株式を譲渡されていたが、アップルの復活を半ば諦めていたこともあり、期日が来るなり、またしても1株を残して即座に売却した。
ジョブズは経営の実権を奪取すべく、社内で隠密に行動を開始し、アメリオを追い出すための画策を講じる。そして「アメリオはいまだにアップルの業績を向上させられない」として、すべての役員を味方につけアメリオをCEOから引きずり下ろすことに成功した。7月にアメリオが退社すると経営陣は、ジョブズにCEO就任を要請したが、ジョブズは多忙を理由に断った。
ジョブズはアップルの士気をあげるため、従業員のストックオプションの引き下げを役員に株主提案をしたが、役員のほぼ全員がこれを否定すると、当時筆頭株主であった立場を利用して役員たちに辞任を迫る。結局、マイク・マークラを含む経営陣はほとんどが辞任し、その後任としてエリソンや、ジョブズと縁のある人物が就任した。
8月に、ボストンで開催されたMacworld Conference & Expoでは、議決権のない株式譲渡と技術提携(特許裁判をしないための条件)という名目を条件に、マイクロソフトから1億5000万ドルの資金提供と、Mac版のMicrosoft OfficeとInternet Explorer for Macの提供を受けることを柱とした、業務提携を発表する[24]。最大のライバルとされたビル・ゲイツが、エキスポのゲストとしてスクリーンに登場すると、何も知らなかった観客にはブーイングする者も多かった。
しかし、この提携が一定の役割を果たしたのは事実で、その後も、PDAのニュートン事業の清算をはじめ、いくつかプロジェクトを中止、アップル社内のレイオフを進め、大規模なリストラを行った。前後して、パワー・コンピューティングを買収してインターネット直売事業への参入 (Apple Online Store)を行い、Macintosh互換機メーカーへのMac OSライセンスを停止、利益率の高いPowerPC G3搭載機種を市場に独占投入。こうした矢継ぎ早の改革により、アップルの再建を軌道に乗せた。
1998年には、iMacを市場に投入、それまでの「アイボリーの箱」というMacの印象から大きく離れた同シリーズは大ヒットとなり、トランスルーセント(日本では和製英語のスケルトン)、のスタイリングは当時あらゆる分野に影響を及ぼした。このヒットはアップルの復活を人々に強く印象づけた。
CEO就任 ~ iPodとiPhoneの発売
2000年には、それまで拒否していたCEO就任を、正式に受諾。2001年3月、NeXTとアップルの技術を融合させ、オープンソース由来の技術を積極的に取り込んだMac OS Xを発売。Classic Mac OSの後継とした。
同年、iTunesとiPodによって音楽事業に参入、音楽事業をパソコンと並ぶアップルの事業の柱にした。数千曲の音楽データを気軽に持ち歩き、スクロールホイールで手軽に楽曲を選び視聴することができるiPodは、世界中に驚きを与えると同時に、多くの人々を魅了した。
2007年1月9日、Macworld 初日の基調講演にてジョブズがiPhoneを発表し、アップルはNewton撤退以来9年ぶりに携帯コンピュータ事業に復帰する。iPhoneはスマートフォンを再定義する製品となり、ジョブズがCEOを退任する2011年までに、携帯電話事業はアップルの総売上高の5割を占めるまでに成長した[25]。
病気との闘い
2003年、膵臓癌と診断されたが、幸いにも治療可能な症例(進行が穏やかである神経内分泌腫瘍と明かしている[26])であった。家族を始め、周囲はジョブズにすぐに手術をうけるように忠告したが、東洋文化を尊重していたジョブズは、西洋的な医術を頑なに拒否し絶対菜食、ハリ治療、ハーブ療法、光療法などを、インターネットで探し、民間療法などを用いて完治を図ろうとしていたといわれる[27]。医学的治療は遅れ、そのことから9か月後の検査で癌が大きくなっていることがわかり(この判断を当人は後に相当後悔したという)、ついに観念してごく親しい人以外には秘密にして、同年の8月に摘出手術を受け療養後復帰した。
2005年6月12日、スタンフォード大学[28]の卒業式に招かれ、「Stay hungry, stay foolish」という『全地球カタログ』最終号からの引用[29]で締めくくられたそのスピーチは、多くの共感を持って迎えられた。
2008年6月9日、第二世代iPhone(3G)発表時に痩せた姿で登場し、ジョブズの健康問題がマスメディアで取りざたされたが[30]、同年9月10日の第四世代iPod nano発表時に健康面に触れ、「自分の死亡説を流すのはやりすぎだ」と、健康不安についての臆測を一掃した[31]。しかし実際には2008年に肝臓への癌の転移が判明していて容態は深刻な状況であった。
同年12月16日に、アップルがMacworldでの基調講演を行わないとの発表を行ったことで不安は再燃し、2009年1月6日に、あらためて「体重減少はホルモン異常のため」との書簡を発表し、重病説や辞任説を否定し「アップルのCEOとしての義務遂行が継続できなくなったら、最初に取締役会に話す」と宣言したが、1月14日に「6月末まで治療に専念」するためのCEO休職を発表した。
6月23日の公式発表[32]によると、Methodist Le Bonheur Healthcareにて、重度の肝疾患のために移植待機リストで最高ランクの位置づけを受け、肝移植されていたこと、良好に回復しているということであった。しかし実際には2009年3月に肝臓の移植手術を受けていて、医師からはジョブズの肝臓は4月までもたないと宣告されていたという。なお、内分泌腫瘍の治療の一環で肝移植が行われること自体は選択肢の一つである(インスリノーマの項参照)が、有効性は議論の余地がある状況という[26]。
iPad発売 ~ CEO退任
2010年1月に発表されたiPadは、iPhoneの機能をベースに、画面を雑誌サイズにしたことで、更なる大きな可能性を世界に与えた。これにより電子書籍ビジネスが活性化することになり、Kindleなどの競合を生み出した。またiPadは、ビジネス用途としても利用が拡大された。その後、2012年にはiPad miniがリリースされている。
肝臓移植後一旦体調は回復し、2010年5月にはお忍びで京都に家族旅行に出かけるなどしていたが、2010年11月以降再び体調が悪化、2011年に入り癌が再発した。2011年1月18日、公式発表で病気を理由に休職することが発表された。
日常業務は前回同様ティム・クックCOO(最高執行責任者)に任せるが、CEOにはとどまり、大きな戦略的決定には関与するとした。癌細胞と正常な細胞の遺伝子配列を調べたり、分子標的治療などの最新の治療をうけるなどしたものの癌の進行を食い止めることはできず、癌は骨などの全身に転移し、手の施しようのない状況であった。
2011年8月24日、2009年の宣言のとおり「CEOとしての職務が継続できなくなったら話すと言っていたが、残念ながらその日が来てしまった」として、取締役会に辞表を提出してCEOを辞任、後任にティム・クックを推挙し、ジョブズの意向通りにクックが後継に就任した。同時に取締役会の承認を受けて会長職へ就いた[33]。
ジョブズがCEOを退任する8月には、アップルは時価総額でエクソンモービルを抜き、世界最大の企業となっていた。すでにこの時ジョブズは自力では歩くことができず、車椅子で取締役会に駆けつけた。そしてティム・クックら幹部社員を部屋から退出させた上で、社外取締役に対し上記の内容のメッセージを読み上げた。この時社外取締役の一人は涙を流していたという。
死去
2011年10月5日、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により妻や親族に看取られながらパロアルトの自宅で死去した[34][35]。56歳没。最期の言葉は"Oh,wow"だったという。正確な死亡時刻はアップルからは公表されなかった(クックが当日に従業員宛てで送ったメールによると、「earlier today(今日早くに)」であったという[36])が、当局の死亡証明書を取得したロイターやCNN等により現地時間(PDT)5日15時頃(日本時間の6日7時頃)と判明した[34]。遺体は7日にパロアルトの無宗派墓地に埋葬された[34]。
死去前日(10月4日)の午前中にiPhone 4Sの正式発表が行われていて、かろうじてその発表を見届けてからの死去となった。長年ライバル関係であったが30年来の良き友人でもあったビル・ゲイツを始めとする世界中の業界関係者からその死を惜しむ声が相次ぎ、バラク・オバマアメリカ合衆国大統領も弔意を表明した[37]。
ArchiCADなどの建築CADソフトウェアを手がけるグラフィソフトでは、同年12月21日、ハンガリーの彫刻家であるErno Tothによって彫られたジョブズの銅像をブダペストのグラフィソフトパークに建立した[38]。同社は創業期以来、商品の開発および販売面でジョブズ率いるアップルから支援を受けており、同社の本社があるグラフィソフトパークはジョブズの魂を追悼するのに最もふさわしい場所であるという[39]。なお、ジョブズの銅像が建てられたのは世界初である[38]。
家族
- ポール・ジョブズ
- 育ての父親。1993年に死去。
- クララ・ジョブズ
- 育ての母親。1986年に死去。
- 義妹 パティ・ジョブズ
- ジョブズ夫妻の娘で、彼女も養子であり、ジョブズの2歳年下の妹。
- 実妹 モナ・シンプソン
- 育て親のクララの死後、ジョブズを生んだ母親と実妹モナと初対面している。
- カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (UCLA) の英語教授であり、またバード大学の言語、文学におけるサディー・サミュエルソン・レイビーの教授でもある。
- 小説家としても活躍しており、小説第1作の『地上より何処かで』(Anywhere but Here, 1986年)でホワイト賞を受賞した。これが人気を博して成功し、1999年に同名の映画『地上より何処かで』として公開された。1992年にはその続編として『失われた父』を出版した。2000年に出版した小説 "Off Keck Road" でシカゴ・トリビューン・ハートランド賞を受賞し、国際ペンクラブ/フォークナー賞の最終選考にも残った。
- 実母 ジョアン・キャロル・シーブル
- 夫であるジャンダリの生徒であったが、ジャンダリはPh.D.を非常に若くして取得していて、彼らは同年齢であった。後にシーブルは言語聴覚療法士になった。2人は1962年に離婚して、ジャンダリと疎遠になった。ジョアンはその後モナをつれて再婚する。
- 実父 アブドゥルファタハ・ジョン・ジャンダリ
- ウィスコンシン大学で教えた経験があり、後年は飲食業で成功した。DNA的に見て、実の両親ともにかなり優秀な人物であったと言える。
- 父親とはジョブズが亡くなるまで会わなかったという。金目当てなどと噂されたくなかったため、父親本人もジョブズが息子であることは、周囲にはほとんど話さなかったという。
- 元恋人 クリスアン・ブレナン
- ジョブズの1学年下の後輩で、初めてのガールフレンド。1972年の春、高校の最上級生のとき、アニメーション映画を一緒に制作したことがきっかけとなり、付き合い始める。同年の夏、両親の反対を押し切って、ロスアルトス山の小屋で二人で暮らし始める。その後、クリスアンは他の男性と付き合うこともあったが、ジョブズとは離れては寄りを戻すことを繰り返していた。
- 1977年、クリスアン・ブレナンは妊娠したことをジョブズに告白するが、自分の子供だと認めないジョブズは中絶を薦める。
- 娘 リサ・ブレナン
- クリスアン・ブレナンとの間にできた娘で、1978年にリサ・ブレナンが誕生する。出産後ジョブズは、クリスアンの元に駆けつけて「リサ」と命名するものの、娘を認知せず、生活費・養育費などを数ヶ月だけしか支払わなかった。そのため、クリスアンは裁判で認知するよう訴えるものの、ジョブズは「誰とでも寝る女」と証言を行った。しかし娘の名である「リサ」を、後述する新型パソコン(Lisa)に命名するなど、ジョブズの複雑な心境が垣間見れる。
- また、自身が娘を認知しなかったのと同じ年齢に、実父がジョブズを捨てて養子に出していたことを、当時のジョブズは知らなかったという。
- その後も紆余曲折を重ねながら、DNA鑑定で「父親である確率94%」という結果が出たため認知するが、「全米の28%の男性がリサの父親である可能性がある」と周囲に触れ回っていた。当時の振る舞いについては、のちに後悔するようになったという。認知後は、リサと母クリスアンとの折り合いが悪くなった際には、ジョブズ家にリサを住まわせ、家族ぐるみでの付き合いをするなど、父娘として交流を重ねているが、ジョブズとも険悪になった際には1年以上もほとんど話をしないこともあった。
- 妻 ローレン・パウエル・ジョブズ
- 1989年10月、スタンフォード大学経営大学院でジョブズが講演をした際に、講演を聞きに来ていたローレン・パウエルと出会う。8歳年下のパウエルを気に入ったジョブズは、その晩にあった営業チームとの会食を断って、パウエルを食事に誘い、すぐに二人は意気投合することになった。
- 1990年、パウエルはジョブズのプロポーズを受けた。翌年の1991年3月、27歳のパウエルは36歳のジョブズと婚礼を挙げ、その6ヶ月後、彼らの初めての息子であるリードが誕生、その後も続けてエリンとイブの2人の娘を出産する。
- 自己中心的なジョブズと20年連れ添い、友達同士のように仲が良かったという。また、ローレン自身も食品会社を起業し、慈善事業なども行うなど、多彩な才能を見せている。
- 長男 リード・ポール・ジョブズ
- 1991年誕生。ミドルネームの「ポール」はジョブズの養父を記念しており、スティーブ自身のミドルネームもポールである。ファーストネームの「リード」は、俗説では「ジョブズの母校のリード大学」であるが、実際にはジョブズとパウエルが耳ざわりが良い発音なのが理由。
- 中学校は私立の名門クリスタルスプリングアップランドスクールに入学。高校生になったリードは、高校の代表としてクイズ大会のテレビ番組に出場し、高校生らしかぬ豊富な知識と非常に精巧な答えを出していたという。2010年には「医学者」を目指しており、父と同じ業界は目指さないことを明言している。高校卒業後は、スタンフォード大学に進学している。
- 長女 エリン・シエナ・ジョブズ
- 1995年誕生。
- 次女 イブ・ジョブズ
- 1998年誕生。
ジョブズに対する評価
- ビル・ゲイツ
スティーブのように深い影響力を与えられる人間は、めったにいない。その影響はこれからの多くの世代にも受け継がれるだろう。
- バラク・オバマ
スティーブはアメリカのイノベーターの中で最も偉大な一人でした。違う考えを持つことに勇敢で、世界を変えられるという信念に大胆で、そしてそれを成し遂げるための充分な能力がありました。この星で最も成功した会社の1つをガレージから作り上げることで、彼はアメリカの独創性の精神を実証しました。スティーブは毎日が最後の日であるかのように生き、私たちの生活を変え、全産業を再定義し、私たち一人一人が世界を見る方法を変えました。
- ラリー・ペイジ
スティーブは驚異的な達成力と素晴らしい才能の持ち主だった。人が考える前に何を考えるべきなのかを数少ない言葉で伝えることができる、そんな男だった。彼のユーザーエクスペリエンスへの考え方等、私はいつも影響をうけていた。私がGoogleのCEOになってから、彼からアドバイスや知識をもらい一緒に時を過ごして来た。
- ボブ・アイガー
スティーブ・ジョブズは素晴らしい友人であり、実に信頼できるアドバイザーでもありました。彼が残したものは、彼が作ったプロダクトや彼がおこしたビジネス以上のものがあります。彼が影響を与えた何百万人という人々、彼が変えた生活、そして彼が形づくった文化。彼は、クリエイティブで創造力に溢れた1時代を築いた実にオリジナルな人でした。彼が達成した多くのことを考えつつも、彼はまるで何かを始めたばかりのように私は感じることがあります。
- ハワード・ストリンガー
スティーブのイノベーションや独創性は、幾世代にも渡って、夢や理想を抱く人々の刺激となり続けるだろう。—ハワード・ストリンガー(ソニー元会長兼元CEO)
- ジェイ・エリオット
ジョブズには、1000マイル先の水平線が見えていた。しかし、彼にはそこに到達するまでに、通らなければならない道の詳細は見えていなかった。それが彼の天才性であり落ち度でもあった。—ジェイ・エリオット
- ジェフ・ラスキン
他人の脳みそを盗むのはジョブズにとって普通のやり方さ。まず人のアイデアを鼻であしらっておいて、その1週間後には、素晴らしいアイデアを思いついたなんていいながら戻ってくる。そのアイデアというのは、もちろん1週間前に誰かがジョブズに話したアイデアなんだ。我々はジョブズのことを現実歪曲空間と呼んでいたのさ。
- ジョン・スカリー
スティーブ・ジョブズ氏は、強烈な情熱をもち、生きている間は彼を追う人達の生活に重大な違いを作り出した。お金や、どんな物を持っているかといったことに執着してなかった。世界はスティーブ・ジョブズ氏が輝かしい天才でありテクノロジーを魔法に変えた人物であることを知っている。スティーブ氏の一部は、その美しくデザインされた製品と妥協の無いメディア体験を通じて、今も我々全ての中に生き続けている。スティーブ・ジョブズ氏は、その創造性で我々のイマジネーションを虜にした。彼の遺産は、史上最高のCEOとしてより、遥かに大きなものだ。世界のリーダーが亡くなったが、彼が我々に教えてくれたリーダーシップは、今なお生き続けている。
- ロバート・サットン
私がイヤな奴についての本[44]を書いていることが知れたとたん、誰もが進んでやって来てはスティーブ・ジョブズの話を聞かせてくれるようになった。シリコンバレーでいかにジョブズが恐れられているか、そのレベルには驚嘆するものがある。彼は人を震え上がらせ、悲嘆にくれさせる。だが、彼はほとんどいつも正しく、たとえ間違えている時でも、その創造性の豊かさには目を見張るものがある。—ロバート・サットン(スタンフォード大教授)
- ジャン=ルイ・ガセー
民主主義に沿ってたんじゃ、素晴らしい商品なんて創れっこない。闘争本能の固まりのような独裁者が必要なんだよ。—ジャン=ルイ・ガセー(Be創業者、元アップル副社長)
- 孫正義
スティーブ・ジョブズは、芸術とテクノロジーを両立させた正に現代の天才だった。数百年後の人々は、彼とレオナルド・ダ・ヴィンチを並び称する事であろう。彼の偉業は、永遠に輝き続ける。
- ルパート・マードック
スティーブ・ジョブズは実にこの時代の最も優れたCEOでした。彼の人々のメディアやエンターテイメントの受け方に彼がいかに革命的なインパクトを与えたかが思い出されます。—ルパート・マードック(ニューズ・コーポレーション創業者)
人物像
- 魔法の言葉
- 人を引き抜く際にはその人を強く揺り動かす「魔法」を唱えることで知られ、先述のスカリーをペプシから引き抜く際の文句の他に、1982年当時ゼロックスで働いていたエンジニア、ボブ・ベルヴィールには「君は優秀だと聞いたけど、やってきた仕事は全部ガラクタだな。俺ん所で働けよ (英語: I hear you're great, but everything you've done so far is crap. Come work for me.)」と語りかけて引き抜いている[46]。
- 価値観の変更
- しばしば何の予告もなしに、突然価値観を180度変えることもあり「3か月前に白が最高だと言っていたのに、今では黒が最高だと言い始め、理由はそれが今正しいからいいんだと、自身以外は納得のいくものは何も口にしない」と元社員は語っている[46]。ソニー製品について「ソニーのHDVカメラは優秀で、高価だが一家に一台必要だ」と言う一方で、「iPodに劣る」としてウォークマンを批判するといった評価をしている。1999年10月5日のメディアイベントのスピーチ冒頭で、ソニー共同創業者盛田昭夫の死に追悼の意を表し、トランジスタラジオやトリニトロン、ウォークマンなど革新的な商品開発を、アップルに大きな影響を与えたものとして称賛している。
- 部下への態度
- 部下に対して高い目標を提示し、精力的に優れた仕事へと導くため、理想の上司として評価されることも多いが、一方でジョブズの要求する水準を満たさない者に対しては放送禁止用語だらけの罵声を浴びせたり、その場で即クビにすることでも知られる。前アップルPR担当チーフのローレンス・クレィヴィアはジョブズとのミーティングの前には必ず闘牛士と同じように「自分は既に死んだ」と暗示をかけてから挑むと同僚に語っていた[46]。また、ジョブズのアップル復帰後に次々と社員がリストラされた際には「スティーブされる」(=解雇になる) という隠語が生まれた。
- リーアンダー・ケイニーのINSIDE STEVE'S BRAINによれば、これらは部下にプライドと職を懸けさせなければ最高の仕事をしないからというのが理由であり、部下の意見を何度か却下した後に採用するのも同じ理由である。発案者が信念を持っていない意見やアイデアは無視すると決めている。例えば"iPod"という名称も採用する前に2度却下している。
- 1ドルの報酬
- また、アップルコンピュータ社の暫定CEOに就任して以来、当時赤字続きだったアップルのために自分はピクサー社の収入があるとし、一貫して給与は毎年1米ドルしか受け取っていないことは有名である(しかし、慢性的赤字から経営を回復させた功績により、高額の成功報酬及びストックオプションがアップル社から与えられている)。実際、2004年にはストックオプションのほかの成功報酬はなく、本当に1米ドルしか受け取っていない。
- 禅と日本文化
- 若い頃から禅に傾倒した仏教徒であり、しばしばスピーチなどで禅の教えを引用した。曹洞宗の禅僧、乙川弘文を精神的指導者と慕っており、結婚式を取り仕切ってもらっている[47]。禅だけではなく日本の文化に深い関心を持ち、晩年まで家族旅行でしばしば京都を訪れていた[48]。また、新版画の密かなコレクターでもあり、1983年から蒐集を開始している。翌年のMacintoshの発表セレモニーでは、自身が持っていた橋口五葉の「髪梳ける女」をスクリーンに映し出すことで、その優れた映像技術を示した。ジョブスは新版画の中で、特に川瀬巴水の風景画を好んだという[49]。
- 一方で、日本のビジネス界に対しては、日本のPCメーカーのことを「海岸を埋めつくす死んだ魚」[50]と表現する(ただし、これは日本のメーカーに対してではなく、日本のメーカーが大量の商品攻勢をかけられる可能性を作ったPC/AT互換機に対する揶揄であるとも言われている)など、辛辣な一面を見せることもある。
- ベジタリアン
- 食生活には強いこだわりを持ち(大学時代から菜食主義を貫いており、魚介類以外の動物性の食品は一切摂らなかった)、日本食、とりわけ蕎麦や寿司を好んだことが知られている。アップル本社の食堂Cafe Macsには、ジョブズが考案したという「刺身ソバ」なるメニューがある。Cafe Macsで働く日本人スタッフの女性は、ジョブズのために築地で本格的な蕎麦打ちの修行をしたという。アップルに復帰後、社員食堂を自社運営に切り替えて、ジョブズ自身がスカウトした料理人が腕を振るっている。
- シャワーを浴びない
- 「ベジタリアンだから臭わない」という独自の思想により、若い頃はシャワーを滅多に浴びなかった。そのため、ただでさえコミュニケーションが取れず評判の悪かったジョブズは、アタリ社やアップルの社員から「臭い」とクレームが多かったという。洋式便器で足を洗うという奇行もしていたという。また、若い頃は、素足やサンダルのままで仕事をすることも多く、出資者や取引相手と話をする際にも、素足やサンダルのまま、机に足を投げ出して対応するなどの非常識な言動があったという。
- トレードマークの服装
- ジョブズのトレードマークである黒のタートルネックは、三宅一生デザインのもの。ジョブズが1980年代に盛田昭夫に案内されてソニーの工場見学をしたことがきっかけになっている。三宅デザインのソニーの制服[51]に感心したジョブズは、三宅にユニフォームを発注して、アップル社の制服にすることを提案したが、これは受け入れられなかった。しかしこれを機にジョブズは三宅デザインの黒のタートルネックとリーバイスのジーンズ、ニューバランスのスニーカーを自分のユニフォームと位置づけ、毎日それだけを着続けるようになったという[52][53]。また余計な選択肢で頭を使わないために服は同じものを何着も持っていた[54]。
- ビル・ゲイツ
- 業界でジョブズにまつわる人物は数多いが、中でもマイクロソフト創業者のビル・ゲイツは、同じ1955年生まれということもあって、独特のライバル関係にある。世間では確執が語られることも多いが、自他ともに認める友人でもあり、ビジネスのみならずプライベートでも関係が深かったことが知られている。互いにビジネスの才覚については高く評価している。
- 現実歪曲空間
- 腹心の部下である、バド・トリブルが使い始めたという『現実歪曲空間』は、たとえ彼をよく知る人間がそれに備えていたとしても、抵抗できないといわれている。現実歪曲空間とは、ジョブズの魅力、カリスマ性、虚勢、誇張、マーケティング、宥和政策、持続性をもって、ジョブズ自身と他人に、ほとんどどんな考えでも吹き込む能力であるという。現実歪曲空間により、実現困難性についての規模感や距離感を歪ませ、今手元にある作業が容易に実行可能な気になると言われている。
- 趣味嗜好
- ボブ・ディランとビートルズ(特にジョン・レノン)の大ファンでもあった。アップルのプレゼンテーションで、ボブ・ディランの詩を朗読したりビートルズのジャケット写真を使ったことがある。
- 愛読書はパラマハンサ・ヨガナンダ著「あるヨギの自叙伝」で、自分のiPad2にダウンロードした唯一の本。ティーンエイジャー時代に初めて読み、インド旅行中にまた読み、以来年一度は読み返していた。
- 型破りな性格は経営だけでなく、愛車のメルセデスにはナンバープレートを付けていないことにも表れている。これについては、2001年のフォーチュン誌に「ちょっとしたゲームなんだよ」と語っている[46]。
- 慈善活動
- 慈善活動について、公に語ったことはなかったが、妻のローレン・パウエル・ジョブズに関する記事で、生前に数百万ドル以上を、教育活動に寄付していたことが、死後明るみになっている[55]。
発言
この節に雑多な内容が羅列されています。 |
- ビジネスについて
- 発明について
- デザインについて
- 人生について
-
- 「17の時に、こんな名言に出会ったよ。“毎日を人生最後の日のように生きれば、間違いなく最高の人生を送れる”ってね。それ以来33年間、私は毎朝鏡を覗き込んで、こう自問し続けた。“もし今日死ぬなら、今日やろうとしていることを本当にやるか?”そして、その答えがNoである日が続いたときは、何かを変えなきゃいけないんだってわかったよ。」[56]
- 「いつか死ぬということを思い出すのは、受け身な考えにとらわれないためには最高だ。守るもんなんてないんだ。(だから)やりたいことをやらないなんて理由はどこにもない。」[56]
- 「未来を見据えて何が起きるかなんて予測は不可能だ。いつも過去を振り返ってみて、あれとこれは繋がっていた、としか言えないんだ。だから自分自身が信じれるものを信じるしかない。それが勘であれ、運命であれ、人生であれ、因果であれ、なんであれ、だ。このやり方で私は後悔したことはないし、私の人生で非常に大きな役割を果たしてきた。」[56]
- 「君の仕事というのは、人生の多くを支配する。だから、(人生を)本当に満足するには自分の信じる最高の仕事に就くしかない。そしてその最高の仕事というのは、その仕事が大好きでたまらないというものでなくてはダメだ。まだそれが何であるかわからないというなら、探し続けなさい。止まってはダメだ。それが見つかった時は、絶対にそうだと心の底から分かる。そして時間が経つにつれ、やればやるほどどんどん良くなる。まるで最高の人と出会ったように。だから、見つけるまで探し続けなさい。諦めてはダメだ。」[56]
- 「墓場で一番の金持ちになるなんて、何の意味がある?夜、今日は最高だったと言って眠りにつく。私にはこっちの方が重要だ。」[56]
- 「何か一つのことを成し遂げた、と思うなら、次に進め。安穏としていてはダメだ。次は何かを見つけるんだ。」[56]
ジョブズを描いた作品
- 書籍
- スティーブ・ジョブズ (ウォルター・アイザックソン著)
- ブレント・シュレンダー, リック・テッツェリ 著、井口 耕二 訳『スティーブ・ジョブズ 無謀な男が真のリーダーになるまで』日本経済新聞出版社、2016年。ISBN 978-4532321000 (上), ISBN 978-4532321017 (下)。
- 漫画
- 映画
- バトル・オブ・シリコンバレー Pirates of Silicon Valley(1999年、米映画、ワーナーホームビデオ)
- スティーブ・ジョブズ (2013年、米映画)
- スティーブ・ジョブズ (2015年、米映画)
脚注
- ^ スティーブ・ジョブズ 無謀な男が真のリーダーになるまで参照
- ^ ITmedia News (2008年1月24日). “AppleのジョブズCEO、2007年度も給与は1ドル”. ロイター. オリジナルの2008年1月27日時点におけるアーカイブ。 2011年10月6日閲覧。
- ^ アップル取締役会、CEOへの報酬を発表
- ^ Apple - 追悼 Steve Jobs apple日本サイト 2011年10月5日 同日参照
- ^ http://sankei.jp.msn.com/economy/news/111011/biz11101110530000-n1.htm[リンク切れ]
- ^ “Apple Co-Founder Steve Jobs Dies at 56”. Chicago Tribune. (2011年10月5日) 2011年10月6日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 故S・ジョブズ氏にグラミー賞を授与--iTunes責任者が代理で受け取り - CNET Japan
- ^ ウィキペディアに長らく「政治学者」と記載されていたが、当時はまだ学生である。母国シリアで外交官となる夢を抱いていたが政治的な混乱が深かったために果たせず、アメリカに戻り、いくつかの大学で教鞭をとった。学者として大成はせず、実業家として身をたてている。
- ^ ジョブズ氏追悼の輪、実父の祖国シリアでも広がる - 2011年10月7日 ロイター
- ^ 'You've got to find what you love,' Jobs says
- ^ “ジョブズ氏の実父、再会果たせず”. ウォール・ストリート・ジャーナル. (2011年10月11日) 2013年10月5日閲覧。
- ^ “Steve Jobs Presents to Cupertino City Council”. CUPERTINO (2011年6月7日). 2011年10月6日閲覧。
- ^ a b ウォルター・アイザックソン 2011, p. I.68-83.
- ^ 2013年の伝記映画『スティーブ・ジョブズ』6分40秒-9分30秒。
- ^ 【インド社会】スティーブ・ジョブズとインド
- ^ スティーブ・ジョブズ氏:伝記翻訳者が明かす日本とのエピソード 「アップル製品に禅の影響」 毎日新聞 2011年10月24日 Wayback machine
- ^ EXCLUSIVE: Interview With Apple's First CEO Michael Scott Jay Yarow, May 24, 2011, 12:57 PM - BUSINESS INSIDER
- ^ スティーブ・ジョブズに初めて出会った日本人 -- サンフランシスコ1977年4月
- ^ “スティーブ・ジョブズ氏の伝記映画、創業のガレージで6月にクランクイン”. ITMedia. (2012年5月21日) 2015年1月28日閲覧。
- ^ a b 三柳 英樹 (2011年10月6日). “ジョブズ氏死去に、ビル・ゲイツ氏やオバマ大統領が追悼の声明を発表”. INTERNET Watch. 2011年10月7日閲覧。
- ^ “ガレージで創業というのは誇張--アップル共同創設者のウォズニアック氏、真相を語る”. CNET Japan. (2014年12月5日) 2015年1月20日閲覧。
- ^ THE ENGINEER OF THE ORIGINAL APPLE MOUSE TALKS ABOUT HIS REMARKABLE CAREER - WIRED (2014年8月18日)
- ^ 【話の肖像画】ジョブズ氏や孫氏との出会い 元シャープ副社長・佐々木正(98)(2)+(1/2ページ) - MSN産経ニュース シャープの東京支社長時代、受付から「アメリカの若者から面会の希望です」と連絡がありました。昭和60年ごろです。ジーンズにTシャツ姿、風貌は髪の毛やひげが伸び放題のヒッピーそのもの。スティーブ・ジョブズさんでした。彼の関心は「その後の電卓はどうなっているの?」にあり、私は「これからはネットワークの時代になるからポータブル性のあるIT機器が求められるようになる」と話しました。
- ^ “Microsoft、Appleに1億5千万ドルを投資、共同開発も”. PC Watch (1997年8月7日). 2012年8月30日閲覧。
- ^ “Appleの全売上に占めるiPhoneの比率がついに50%を突破”. TechCrunch Japan. (2011年4月21日) 2011年10月6日閲覧。
- ^ a b スティーブ・ジョブズ氏の闘病は「見事」--癌専門家、CNET.com
- ^ スティーブ・ジョブズ --ジョブズがカルト療法にハマった「ワケ」
- ^ “ジョブズの卒業式スピーチを、字幕で”. トブiPhone (2008年1月12日). 2011年10月6日閲覧。
- ^ ウォルター・アイザックソン(井口訳)I, p.107
- ^ “S・ジョブズ氏の健康問題--アップルは詳細を公表すべきか:スペシャルレポート”. CNET Japan. (2008年7月25日) 2011年10月6日閲覧。
- ^ “「「私は健康」と強調 アップルのジョブズCEO」”. IT‐インターネットニュース:イザ!. (2008年9月11日). オリジナルの2008年9月21日時点におけるアーカイブ。 2011年10月6日閲覧。[リンク切れ]
- ^ Methodist Le Bonheur Healthcare (2009年6月23日). “Steve Jobs Receives Liver Transplant”. 2010年2月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月6日閲覧。
- ^ 2011年8月24日 スティーブ・ジョブズからの手紙
- ^ a b c ジョブズ氏の死因は膵臓腫瘍による呼吸停止、妻が看取る|テクノロジーニュース|Reuters
- ^ Apple Press Info - Apple取締役会による声明
- ^ Apple Press Info - 報道発表
- ^ オバマ大統領、ゲイツ氏、ペイジ氏、スパイク・リー監督──ジョブズ氏追悼コメント (1/2) - ITmedia ニュース[リンク切れ]
- ^ a b "スティーブ・ジョブズ氏の銅像がブダペストで発表" (Press release). グラフィソフトジャパン. 21 December 2011. 2012年3月22日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “スティーブ・ジョブズの銅像はなぜアメリカではなくブダペストにあるのか?” (日本語). GIGAZINE (大阪: OSA). (2011年12月22日) 2012年3月22日閲覧。
- ^ “Steve Jobs” (英語). The Gates Notes (2011年10月5日). 2011年10月7日閲覧。
- ^ “ビル・ゲイツ氏、“盟友”ジョブズ氏に哀悼メッセージ”. オリコンライフ (2011年10月6日). 2011年10月7日閲覧。
- ^ “President Obama on the Passing of Steve Jobs:"He changed the way each of us sees the world."” (英語). The White House Blog (2011年10月5日). 2011年10月7日閲覧。
- ^ “Former Apple CEO John Sculley Praises Jobs”. The Wall Street Journal. 2009年11月7日閲覧。
- ^ 著書『あなたの職場のイヤな奴』原題The No Asshole Ruleのこと。
- ^ “アップルのジョブズ氏選出 米誌選出の最優秀CEO”. 共同通信 (2009年11月6日). 2009年11月7日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c d “The Trouble with Steve”. フォーチュン. (2008年3月16日)
- ^ ジョブズ氏の革新に影響を与えた思想とは―― 日本の禅僧と長年の交流
- ^ スティーブ・ジョブズ氏:伝記翻訳者が明かす日本とのエピソード 「アップル製品に禅の影響」
- ^ 高木凛 『最後の版元 浮世絵再興を夢みた男・渡邊庄三郎』 講談社、2013年、pp.16-17,241-243。
- ^ プレイボーイ1985年2月号
- ^ “タイムカプセル vol.4 衣紋掛けのつぶやき”. Sony Japan (2008年1月7日). 2014年12月7日閲覧。
- ^ ジョブズが黒タートルを着た理由が今明らかに。きっかけは日本
- ^ ジョブズがタートルネックを着た理由は? 「日本ソニーで…」
- ^ ジョブズは服、タモリは食事…成功者に学ぶ「ルールと習慣」
- ^ Jobs's Wife Backs Education Causes
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “Steve Jobs would have turned 60 today. Here are 15 of his most inspiring quotes”. Yahoo.com (2015年2月24日). 2015年2月26日閲覧。
参考文献
- ブレント・シュレンダー, リック・テッツェリ 著、井口 耕二 訳『スティーブ・ジョブズ 無謀な男が真のリーダーになるまで』日本経済新聞出版社、2016年。ISBN 978-4532321000 (上), ISBN 978-4532321017 (下)。
- 『現代外国人名録2004 ~「スティーブ・ジョブズ」項目』日外アソシエーツ(2004)
- 『The History of Jobs & Apple 1976〜20XX』晋遊舎、2011年8月19日。ISBN 978-4863913141。
- オーウェン・W・リンツメイヤー、林 信行『アップル・コンフィデンシャル2.5J(上)・(下)』武舎広幸・武舎 るみ、アスペクト、2006年。ISBN 978-4757212541・ISBN 978-4757212558。
- ポール・クンケル『アップルデザイン』大谷 和利(訳)、アクシスパブリッシング、1998年。ISBN 9784900450677。
- ギル・アメリオ『アップル薄氷の500日』中山 宥(訳)、ソフトバンククリエイティブ、1998年。ISBN 4797306157。
- ウォルター・アイザックソン『スティーブ・ジョブズ』井口 耕二(訳)、講談社、2011年。I:ISBN 978-4-062171267 II:ISBN 978-4-062171274。
- ジェフリー・S・ヤング『スティーブ・ジョブズ パーソナルコンピュータを創った男』(JICC出版局、1989年)上:ISBN 4880636002、下:ISBN 4880636010
- ランドール・ストルス『スティーブ・ジョブズの道 SteveJobs & TheNeXT BigThings』(エーアイ出版、1995年)ISBN 4871933342
関連項目
外部リンク
ビジネス | ||
---|---|---|
先代 ギル・アメリオ |
Apple CEO 1997年 - 2000年は暫定 第6代:1997年 - 2011年 |
次代 ティム・クック |