「カール=ハインツ・ルンメニゲ」の版間の差分
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'''カール・ハインツ・ルンメニゲ'''<ref>日本のメディアではルンメニゲを''ルムメニゲ''と表記する場合がある。</ref>('''Karl-Heinz Rummenigge'''、[[1955年]][[9月25日]] - )は、[[ドイツ]]・[[リップシュタット]]出身の元[[サッカードイツ代表|同国代表]][[サッカー|サッカー選手]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。現在、[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]]所属の[[バイエルン・ミュンヘン]][[代表取締役]]である。 |
'''カール・ハインツ・ルンメニゲ'''<ref>日本のメディアではルンメニゲを''ルムメニゲ''と表記する場合がある。</ref>('''Karl-Heinz Rummenigge'''、[[1955年]][[9月25日]] - )は、[[ドイツ]]・[[リップシュタット]]出身の元[[サッカードイツ代表|同国代表]][[サッカー|サッカー選手]]。ポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。現在、[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]]所属の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]][[代表取締役]]である。 |
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== 人物・プレースタイル == |
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1960年代の[[ウーヴェ・ゼーラー]]、1970年代の[[ゲルト・ミュラー]]、1990年代の[[ユルゲン・クリンスマン]]と並び称されるドイツを代表する[[ストライカー]]。スピードと決定力を武器に'''ミスターヨーロッパ'''と賞賛された。 |
1960年代の[[ウーヴェ・ゼーラー]]、1970年代の[[ゲルト・ミュラー]]、1990年代の[[ユルゲン・クリンスマン]]と並び称されるドイツを代表する[[ストライカー]]。スピードと決定力を武器に'''ミスターヨーロッパ'''と賞賛された。 |
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若い頃はスピードを生かした高速ドリブラーとして知られた。しかし1978年に[[バイエルン・ミュンヘン]]の監督に就任したハンガリー人の[[:en:Pál Csernai|パール・チェルナイ]]から特訓を受けた結果、ドリブルシュート、ボレーシュート、ヘディングシュート等は勿論、泥臭いシュートもこなすヨーロッパを代表する[[センターフォワード]]へと変貌を遂げた。 |
若い頃はスピードを生かした高速ドリブラーとして知られた。しかし1978年に[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]の監督に就任したハンガリー人の[[:en:Pál Csernai|パール・チェルナイ]]から特訓を受けた結果、ドリブルシュート、ボレーシュート、ヘディングシュート等は勿論、泥臭いシュートもこなすヨーロッパを代表する[[センターフォワード]]へと変貌を遂げた。 |
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[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]では、[[1976年]][[10月6日]][[サッカーウェールズ代表|ウェールズ]]戦でデビュー。[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]には3大会([[1978 サッカー・ワールドカップ|1978年アルゼンチン大会]]、[[1982 サッカー・ワールドカップ|1982年スペイン大会]]、[[1986 サッカー・ワールドカップ|1986年メキシコ大会]])に出場。ワールドカップの舞台では、1982年と1986年は怪我のためフル出場試合は少ないが、合計10得点を挙げている。 |
[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]では、[[1976年]][[10月6日]][[サッカーウェールズ代表|ウェールズ]]戦でデビュー。[[FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]には3大会([[1978 サッカー・ワールドカップ|1978年アルゼンチン大会]]、[[1982 サッカー・ワールドカップ|1982年スペイン大会]]、[[1986 サッカー・ワールドカップ|1986年メキシコ大会]])に出場。ワールドカップの舞台では、1982年と1986年は怪我のためフル出場試合は少ないが、合計10得点を挙げている。 |
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* 1955年: ノルトライン=ヴェストファーレン州リップシュタットに生まれる。 |
* 1955年: ノルトライン=ヴェストファーレン州リップシュタットに生まれる。 |
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* 1974年: [[デットマール・クラマー]]の勧誘により[[バイエルン・ミュンヘン]]に入団。 |
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* 1975年: [[UEFAチャンピオンズカップ]]優勝 |
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* 1976年: UEFAチャンピオンズカップ連覇。[[インターコンチネンタルカップ (サッカー) |インターコンチネンタルカップ]]優勝。10月6日[[サッカーウェールズ代表|ウェールズ]]戦で[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]デビューを飾る。 |
* 1976年: UEFAチャンピオンズカップ連覇。[[インターコンチネンタルカップ (サッカー) |インターコンチネンタルカップ]]優勝。10月6日[[サッカーウェールズ代表|ウェールズ]]戦で[[サッカードイツ代表|ドイツ代表]]デビューを飾る。 |
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==所属クラブ== |
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*1974-1984 {{flagicon|GER}} [[バイエルン・ミュンヘン]] |
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*1987-1989 {{flagicon|SUI}} [[セルヴェットFC]] |
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2017年8月29日 (火) 09:36時点における版
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2015年 | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | Kalle、Mr.ヨーロッパ | |||||
ラテン文字 | Karl-Heinz Rummenigge | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1955年9月25日(69歳) | |||||
出身地 | リップシュタット | |||||
身長 | 182cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1974-1984 | バイエルン・ミュンヘン | 310 | (162) | |||
1984-1987 | インテル・ミラノ | 64 | (24) | |||
1987-1989 | セルヴェット | 50 | (34) | |||
代表歴 | ||||||
1976-1986 | 西ドイツ | 95 | (45) | |||
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カール・ハインツ・ルンメニゲ[1](Karl-Heinz Rummenigge、1955年9月25日 - )は、ドイツ・リップシュタット出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはFW。現在、ドイツ・ブンデスリーガ所属のバイエルン・ミュンヘン代表取締役である。
人物・プレースタイル
1960年代のウーヴェ・ゼーラー、1970年代のゲルト・ミュラー、1990年代のユルゲン・クリンスマンと並び称されるドイツを代表するストライカー。スピードと決定力を武器にミスターヨーロッパと賞賛された。
若い頃はスピードを生かした高速ドリブラーとして知られた。しかし1978年にバイエルン・ミュンヘンの監督に就任したハンガリー人のパール・チェルナイから特訓を受けた結果、ドリブルシュート、ボレーシュート、ヘディングシュート等は勿論、泥臭いシュートもこなすヨーロッパを代表するセンターフォワードへと変貌を遂げた。
西ドイツ代表では、1976年10月6日ウェールズ戦でデビュー。ワールドカップには3大会(1978年アルゼンチン大会、1982年スペイン大会、1986年メキシコ大会)に出場。ワールドカップの舞台では、1982年と1986年は怪我のためフル出場試合は少ないが、合計10得点を挙げている。
特に1982年大会の準決勝・フランス戦の延長戦、および1986年大会決勝・アルゼンチン戦で、ともに2点ビハインドの場面で記録した追撃のゴールで知られる。前者はアクロバティックな体勢から決め、後者はまさに「魂で押し込んだ」とも言うべき泥臭いゴールであった。
年譜
- 1955年: ノルトライン=ヴェストファーレン州リップシュタットに生まれる。
- 1963年: 地元のボルシア・リップシュタットでサッカーを始める。
- 1974年: デットマール・クラマーの勧誘によりバイエルン・ミュンヘンに入団。
- 1975年: UEFAチャンピオンズカップ優勝
- 1976年: UEFAチャンピオンズカップ連覇。インターコンチネンタルカップ優勝。10月6日ウェールズ戦でドイツ代表デビューを飾る。
- 1978年: 1978 FIFAワールドカップ出場、ベスト8進出。
- 1980年: UEFA欧州選手権優勝。バロンドール受賞。
- 1981年: バロンドール受賞。
- 1982年: ワールドカップスペイン大会準優勝。1981-82シーズンブンデスリーガ、DFBポカール二冠。
- 1984年: UEFA欧州選手権19841次リーグ敗退。1983-84シーズンブンデスリーガ、DFBポカール二冠。8月、イタリアのインテル・ミラノへ移籍。
- 1986年: ワールドカップメキシコ大会準優勝。
- 1987年: スイスのセルヴェットFCというクラブへ移籍。
- 1989年: 現役引退。
- 1990年: ドイツ公共放送連盟(ARD)の解説者を務める。
- 1991年: バイエルン・ミュンヘンの副会長に就任。
- 2002年: フランツ・ベッケンバウアーの後任として同クラブの代表取締役に就任。
- 2004年: ペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人(FIFA100)に選出される。
エピソード
- 1993年から1995年に浦和レッドダイヤモンズに所属していたミヒャエル・ルンメニゲは実弟にあたる。
- 自身が代表取締役をつとめるバイエルン・ミュンヘンは、2006年に浦和レッズとパートナーシップを締結。同年7月31日には埼玉スタジアムで両チームの親善試合が行われた際に来日し、OBオールスターマッチにも参加して往年の技を披露、ハットトリックの活躍を見せた。
- まだ無名だった頃、1975年1月にバイエルンミュンヘンの一員として来日、1月7日の日本代表との試合では開始1分でゴールを決めている。
所属クラブ
- 1974-1984 バイエルン・ミュンヘン
- 1984-1987 インテル・ミラノ
- 1987-1989 セルヴェットFC
代表歴
- 1976-1986 西ドイツ代表 95試合45得点
- FIFAワールドカップ出場 3回(1978アルゼンチン大会、1982スペイン大会、1986メキシコ大会)
- UEFA欧州選手権出場 2回(1980イタリア大会、1984フランス大会)
主な獲得タイトル
- 欧州選手権優勝 1回(1980年)
- 欧州チャンピオンズカップ優勝 1回(1975年/1976年)
個人タイトル
- 欧州年間最優秀選手 2回(1980年、1981年)
- ドイツ年間最優秀選手賞 2回(1980,1981)
- ブンデスリーガ得点王 3回(1980,1981,1984)
- スイスリーグ得点王 1回(1989)
国際サッカー歴史統計連盟
- 20世紀世界最優秀選手 35位 (国際サッカー歴史統計連盟選出 1999)
- 20世紀の偉大なサッカー選手100人 35位(ワールドサッカー誌選出 1999)
外部リンク
脚注
- ^ 日本のメディアではルンメニゲをルムメニゲと表記する場合がある。