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天皇と外国王族との対面は扶余豊璋の例もあり初ではない
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== 栄典 ==
== 栄典 ==

2017年1月22日 (日) 08:38時点における版

明治天皇
明治天皇

在位期間
1867年1月30日 - 1912年7月30日
慶応2年12月25日 - 明治45年7月30日
即位礼 1868年10月12日(慶応4年8月27日)於京都御所
大嘗祭 1871年12月28日(明治4年11月17日
元号 慶応 : 1867年 - 1868年
明治 : 1868年 - 1912年
摂政 二条斉敬
将軍 徳川慶喜
総裁 有栖川宮熾仁親王
輔相 岩倉具視三条実美
左大臣 有栖川宮熾仁親王
右大臣 三条実美
太政大臣 三条実美
首相
先代 孝明天皇
次代 大正天皇

誕生 1852年11月3日(嘉永5年9月22日)13時頃
日本の旗 日本 山城国京都中山忠能邸
崩御 1912年(明治45年)7月30日午前0時43分
日本の旗 日本 東京府東京市明治宮殿
大喪儀 1912年(大正元年)9月13日 於帝国陸軍青山練兵場
陵所 伏見桃山陵
追号 明治
睦仁
万延元年9月28日命名
別称 日本領台湾天皇(1895年 - 1912年)
称号 祐宮
元服 1868年2月8日(慶応4年1月15日
父親 孝明天皇
母親 中山慶子
皇后 一条美子(昭憲皇太后
1869年2月9日(明治元年12月28日)大婚
子女
皇居 京都御所
青山御所
東京城・皇城・宮城
栄典 大勲位
親署 明治天皇の親署
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明治元年(1868年)武州六郷船渡図月岡芳年
束帯姿の明治天皇(明治5年(1872年)4月、内田九一撮影)
西洋式御服を着用した明治天皇(明治5年(1872年))
1890年頃の明治天皇

明治天皇(めいじてんのう、1852年11月3日嘉永5年9月22日)- 1912年明治45年)7月30日)は、日本の第122代天皇睦仁(むつひと)。御称号祐宮(さちのみや)。お印は、永(えい)。倒幕攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。その盛名により明治大帝 (Meiji the Great) 、明治聖帝睦仁大帝 (Mutsuhito the Great) とも呼ばれる。

略歴

生誕から即位まで

孝明天皇の第二皇子。生母は権大納言中山忠能の娘・中山慶子。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃、京都石薬師の中山邸にて生誕。9月29日、父・孝明天皇から祐宮(さちのみや)という幼名を賜る。安政3年(1856年9月29日)に宮中に移るまで中山邸で育つ。

万延元年(1860年)閏3月16日、予定より2年遅れて深曽木の儀を行う。7月10日、儲君と定められ、准后九条夙子の実子とされる。9月28日、親王宣下を受け睦仁という諱名を賜る。

元治元年(1864年)7月19日、長州藩兵が御所を攻撃して敗退する(禁門の変)。その翌日の夜、宮中に不審者が三百人以上侵入するという騒ぎが起こり、パニックの中で睦仁親王が一時卒倒する。長州藩と呼応したとの嫌疑で外祖父・中山忠能に蟄居処分が下る。

慶応2年12月25日1867年1月30日)、孝明天皇が崩御。慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚の儀を行い皇位に即く。元服前の践祚であったので立太子礼を経ずに天皇になっている。父・孝明天皇と同じく中沼了三を信頼し初の侍講とした。

慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服。同年8月21日(10月6日)からの一連の儀式を経て、8月27日(10月12日)、京都御所にて即位の礼を執り行い、即位したことを内外に宣下する(詳細は明治天皇の即位の礼・大嘗祭を参照。大嘗祭は明治4年11月17日<1871年12月28日>に東京で挙行)。12月28日、一条美子皇后に冊立する。

幕末の動乱

践祚から間もなくして、薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。薩長両藩に討幕の密勅が下されそうになったので討幕の大義名分を消滅させるために征夷大将軍徳川慶喜が慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還の奏上を行い翌15日に明治天皇は奏上を勅許した。政権は形式的に天皇に戻ったが引き続き江戸幕府は存在したので対抗策として討幕派は12月9日1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言。反発した旧幕府勢力と慶応4年(1868年)正月に京都南郊で軍事衝突する(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利した新政府軍は旧幕府勢力を「朝敵」とし、翌明治2年(1869年)にかけての内戦(戊辰戦争)において鎮圧した。

新時代・明治

この間、慶応4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元の詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用するとした)。

江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改めた(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年(1869年)に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住した。

明治2年6月17日(1869年7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美岩倉具視木戸孝允大久保利通らの発言権が大きくなっていった。明治4年7月14日1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。

他方、明治3年正月3日1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔[1]を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の涵養に尽くした。

※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた(明治5年太政官布告第337号)。

征韓論を勅旨で収める

明治6年(1873年)に征韓論を巡って政府部内が紛糾した明治六年政変では、勅旨をもって西郷隆盛朝鮮派遣を中止させてこれを収め、明治7年(1874年)から同8年(1875年)にかけて続いた自由民権運動では、立憲政体の詔(漸次立憲政体樹立の詔)を発して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の政治的対立を調停する役割を果たした。この自由民権運動への対応として、明治14年(1881年)には、国会開設の勅諭を発して議会創設の時期を明示し、運動の沈静化を図った。

近代国家の確立

宇多天皇による寛平御遺誡以降、在位中の天皇が外国人と直に対面することはなかったが[注釈 1]、明治天皇は即位以後、外国の要人とも頻繁に会談した。まず明治2年(1869年)には、英国女王ヴィクトリアの子であるアルフレートが、英国王族として初めて来日し、会談した。明治12年(1879年)には、ユリシーズ・グラントが、米国の大統領経験者として初めて来日し、会談した。明治14年(1881年)には、史上初の外国の国家元首の来日として、ハワイ国王のカラカウアが来日し、会談した。

明治15年(1882年)、軍隊を「天皇の軍隊」と規定した軍人勅諭を発し、大元帥として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。

明治17年(1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設した。内閣制度市町村制府県制郡制の制定など、津々浦々に至る官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行った。

明治22年(1889年2月11日大日本帝国憲法公布した。この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、立憲君主制国家確立の基礎となった。翌明治23年(1890年10月30日には教育ニ関スル勅語を発し、近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努めた。帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したが、天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、天皇は宥和に努めた。共和演説事件では、文部大臣尾崎行雄に辞表を提出させた。

列強への道

栃木県那須村演習統監時の写真(1909年〔明治42年〕11月、参謀本部陸地測量部写真班撮影)

日本が初めて直面した近代戦争である日清戦争日露戦争では、天皇は大本営で直接戦争指導に当たった。また、外交上は日英同盟を締結し、列強の一員たるべく、軍事的・経済的な国力の増強を図った。日露戦争後は、韓国併合満州経営を進め、日本をイギリスやフランスドイツなど他の列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用した。

明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。

崩御

明治天皇が崩御した公式の日時は、1912年(明治45年)7月30日午前0時43分であり。同月の30日に刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあり、『明治天皇記』でも、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。7月、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御。天皇は明治45年7月11日の東京大学卒業式に出席しているが、気分が悪かった。侍医では、対応できなくなって、20日青山胤通三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まった。病や死などの「穢れ」を日常生活に持ち込まないという古い宮中の慣習により、また、天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典待)だけであり、仕事柄上、特別に侍医は入れるものの、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、天皇は自分の寝室である御内儀で休むことができなくなった。そして、明治天皇の居間であった常の御座所が臨時の病室となった[2]。看護婦も勲5等以上でなくてはいけないので、5位以上の女官が看護した[3]宮内省崩御日時を7月30日午前0時43分と公表したが、当時宮内書記官であった栗原広太によると、実際の崩御日時は前日の7月29日22時43分である。これは登極令の規定上、皇太子嘉仁親王が新帝になる践祚の儀式を崩御当日に行わなければならないが、その日が終わるまで1時間程度しか残されていなかったため、様々に評議した上で、崩御時刻を2時間遅らせ、翌日午前0時43分と定めたという[4]

天皇崩御に際してその側にいた皇族の梨本宮妃伊都子は、この間の様子を日記に克明に記している。伊都子の日記によれば、伊都子ら皇族は二十八日に危篤の報を聞き、宮中に参内し待機した。二十九日午後十時半頃、奥(後宮)より、「一同御そばに参れ」と召され伊都子らが部屋に入ると、皇后皇太子同妃、各内親王が病床を囲み、侍医らが手当てをしていた。天皇は漸次、呼吸弱まり、のどに痰が罹ったらしく咳払いをしたが、時計が10時半を打つ頃には、天皇の声も途絶え、周囲の涙のむせぶ音だけとなった。2,3分すると、にわかに天皇が低い声で「オホンオホン」と呼び、皇后が「何にてあらせらるるやら。」と返事をしたが、そのまま音もなく眠るように亡くなった。この伊都子の記録からすると天皇の崩御時刻は10時半を数分過ぎた頃となる。そして、「表向き、十時四十三分の時、御危篤にあらせられるとの号外を出したり」という。実際の崩御時刻はこの危篤時刻より数分前と考えられる。これにより、二時間数分の差が生まれるのだが、その理由はいくつかあると考えられる。まず、万が一、天皇が蘇生した場合の用心のため、次に、皇太子践祚などの準備を整えて皇位継承に時間の空白を作らないため(天皇在位中に準備をするわけにはいかないため)、そして、一時間でも長く在位させることで天皇への敬意を表する、などが挙げられよう。明治天皇の場合は、二時間数分の差をつけることで、在位期間は一日増えたのだ。当然ながらも、寿命は一日長くなった[5]。同年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われた。崩御からこの日までの約1ヶ月半もの間、宮中では様々な儀式が執り行われていた。澵大葬終了後、明治天皇のは遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。なお、明治天皇大喪のためにしつらえた葬場殿の跡地には『聖徳記念絵画館』が建てられた。

世界における天皇崩御

明治天皇の崩御は世界各国で報道された。これは、維新によって世界に窓を開いた日本が、わずか四十五年の間に世界列強としての地位を確立し始めたことを意味する。天皇崩御の代表的論調は、望月小太郎が、明治天皇の一年祭に際して編纂刊行された『世界に於ける明治天皇』にまとめられた。各国別全二十八章二十余国からなり、そこには、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカはもとより、中国、インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国、在中国外国人の論調まで掲載されている。イギリスは「王朝の臣民として能く日本の君民関係は理解」、フランスは「血を以って革命を贖いたる国民なるを以って、神聖なる君主政体と立憲政体の一致とは不可能なる如し想像し、民主主義に重きを措くの先入観あり」、ドイツ、オーストリア、ハンガリーは「深奥なる哲理思想なる国民として多くは、大帝陛下の御治績を科学的分析的に研究」とした。ロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」、アメリカは「其建国の事情を異にし、自ら我が君臣の関係を知らず」さらに、フィリピンに対して、共和国でありながら明治天皇のために挽歌をつくり、「祖宗神霊の御加護を失ふ国民は滅亡すべしと謳える如きは最も味ふべき点」と述べ、また南米諸国も共和国であるが、「我が国体の崇高さ」や「先帝陛下の叡聖」などを「憧憬仰慕」として感心していると述べた。そして、トルコ、インド、ペルシャ、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の間では、「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛し、「侵略に対してきことして之を防遏」、「土民に事由制度を許した」と明治天皇を高く評価したことを特記した。日露戦争がその背景にはあったのだが、当時日本に併合されていた朝鮮などの論調は敢えて掲載されていない。またこれは、1926年(大正15年)12月の大正時代の終わりにあたっても再刊されており、明治という時代がいかに誇りであり、明治天皇の影響がいかに甚大であったかが分かる。

人柄と影響

最も有名な御真影。エドアルド・キヨッソーネによって描かれたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの(明治21年(1888年1月
  • 明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、どんなに寒い日でも暖房は火鉢1つだけ、暑中も軍服(御服)を脱がずに執務するなど、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。
    • 赤坂の東宮御所(現在の迎賓館)の完成を報告しに来た片山東熊に「華美過ぎる」と言い、片山はそのショックで病気がちになったという。
  • 皇女の東久邇聡子の証言では、「記憶力が抜群で、書類には必ず目を通したあと朱筆で疑問点を書きいれ、内容をすべて暗記して次の書類と違いがあると必ず注意し、よく前言との違いで叱責された伊藤博文はごまかしが効かないと困っていた」とある。
  • 乗馬和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。
  • 蹴鞠も好み、自身でも蹴鞠をし、教えもした。蹴鞠の作法を知る人が少なくなったのを憂い「蹴鞠を保存せよ」との勅命と下賜金でもって明治40年(1907年)5月7日に飛鳥井家の蹴鞠を伝える蹴球保存会を梅渓道善(うめたにみちとう)を初代会長に発足させた。
  • 一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達は自分が考えたあだ名で呼んでいたという。
  • 私生活では、日本酒を好み、夜は女官たちと楽しそうに宴会をすることが多かった。晩年は糖尿病を患い酒量は減退したが、健康のためにワインなどを飲んでいた。また当時の最新の技術であったレコードをよくかけ、唱歌詩吟琵琶歌などを好んでいた。機嫌のいい時は琵琶歌を歌っていたが、周囲の証言ではあまり上手ではなかったとある。
  • 兵たちと苦楽を共にするという信念を持っていた。例えば日清戦争で広島大本営に移った際、暖炉も使わず殺風景な部屋で立って執務を続ける、といった具合であった。こうした態度は、晩年に自身の体調が悪化した後も崩れることがなかった。
  • 若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補親政論者である漢学者元田永孚佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。
    • 元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。
    • 教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿森有礼のような西洋的な教育論者が任命されたことには不快感を抱いていた。特に明治17年(1884年)4月下旬に森が文部省の顧問として御用掛に任命されることを知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2か月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。
      • こうした事態を憂慮した伊藤は、初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて、天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。その結果、明治19年(1886年6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして、天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである[6]
  • 奈良時代聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を自ら進んでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。
  • 散髪脱刀令が出された後の明治6年(1873年)3月、明治天皇が西洋風に断髪したことで、国民も同様にする者が増えたという。
  • 一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。
  • 無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14年(1881年)の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になる余り、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞である)。以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に携えていた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として、名刀の散逸が防がれることとなった反面、数多くの名刀を試し斬りにて損傷させている。
  • 明治天皇が写真嫌いであったことは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネお雇い外国人の一人)による肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。しかしながら明治29年(1896年)に、当時の東京府南葛飾郡(現在の東京都墨田区)に存在した水戸徳川家の私邸を訪問した際に、邸内を散策する明治天皇が隠し撮りされた写真が平成29年(2017年)に発見された[7]。また最晩年の明治44年(1911年)、福岡県八女郡下広川村において陸軍軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、この写真が生前の明治天皇が最後に撮影された姿といわれている。
  • 最晩年は体調も悪く歩行に困難をきたすようになった。天皇自身、身体の衰えに不安を持っていて、「わしが死んだら世の中はどうなるのか。もう死にたい」「わしが死んだら御内儀(昭憲皇太后)がめちゃめちゃになる」と弱音を吐いたり、糖尿病の進行に伴う強い眠気から枢密院会議の最中に寝てしまい「坐睡三度に及べり」と侍従に愚痴るなど、これまでの壮健な天皇に見られなかったことが起こり、周囲を心配させた[8]
  • 大喪の日には、陸軍大将乃木希典夫妻をはじめ、多くの人が殉死した。
  • 貧困層に対する医療政策として明治44年(1911年)2月11日、『済生勅語』によって、皇室からの下付金150万円を済生会創設に下付された。
  • 諸外国では切手貨幣に国家元首の肖像が数多く用いられていることから、エドアルド・キヨッソーネが明治天皇の肖像図案を提案したが拒絶された。そのため明治天皇の肖像切手は一度も発行されていなかったが、セルビア2007年に発行された「セルビア・日本相互関係125年」記念切手の図柄に、関係樹立当時のセルビア国王ミラン1世と、若き明治天皇の肖像が描かれている[9]

著名な御製

明治天皇は和歌を好み、多くの御製(天皇の自作和歌)を遺している。その数は、 九万三千首余り[10] [11]といわれる。

よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな
よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ
しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける
わが國は神のすゑなり神まつる昔の手ぶり忘るなよゆめ
目に見えぬ神にむかひてはぢざるは人の心のまことなりけり

系譜

父は孝明天皇、母は中山慶子。父・孝明天皇の女御・九条夙子(英照皇太后)を「実母」と公称した。その姪で、息子・大正天皇の后でもある九条節子(貞明皇后)は義理の従兄妹でもある。乳母は当初「伏屋みの」だったが「乳の質が良くない」として1年余りで「木村らい」に変わり乳児期を過ごす。

明治天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16.典仁親王
 
 
 
 
 
 
 
8.119代天皇
光格天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17.大江磐代岩室宗賢娘)
 
 
 
 
 
 
 
4.120代天皇
仁孝天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18.勧修寺経逸
 
 
 
 
 
 
 
9.勧修寺婧子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19.池田数計子あるいは家女房
 
 
 
 
 
 
 
2.121代天皇
孝明天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20.正親町公明
 
 
 
 
 
 
 
10.正親町実光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21.家女房
 
 
 
 
 
 
 
5.正親町雅子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 四辻公亨
 
 
 
 
 
 
 
11.四辻千栄子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1.122代天皇
明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 中山忠尹
 
 
 
 
 
 
 
12.中山忠頼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 三条実顕
 
 
 
 
 
 
 
6.中山忠能
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 正親町三条実同
 
 
 
 
 
 
 
13.正親町三条綱子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3.中山慶子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28.松浦政信
 
 
 
 
 
 
 
14.松浦清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29.母袋友子
 
 
 
 
 
 
 
7.中山愛子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15.側室 森氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
114 中御門天皇
 
 
 
 
 
閑院宮直仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
115 桜町天皇
 
 
 
 
 
典仁親王 (慶光天皇)
 
倫子女王
 
鷹司輔平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
117 後桜町天皇
 
116 桃園天皇
 
美仁親王
 
119 光格天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
118 後桃園天皇
 
 
 
 
 
120 仁孝天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
桂宮淑子内親王
 
121 孝明天皇
 
和宮親子内親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
122 明治天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
122 明治天皇
 
 
 
 
123 大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和天皇
 
秩父宮雍仁親王
 
高松宮宣仁親王
 
三笠宮崇仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 上皇
 
常陸宮正仁親王
 
寬仁親王
 
桂宮宜仁親王
 
高円宮憲仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
126 今上天皇
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王


皇子女

男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。また成人した皇子女も、房子内親王(北白川宮妃)と聡子内親王(東久邇妃)を除き、皆40~50代の若さで亡くなっている。

皇后は一条美子(昭憲皇太后)だが、子女はいない。側室との間の子女は以下の通り。

昭憲皇太后 (一条美子) (1849-1914)
 
 
 
 
 
子女無し
 
 
 
 
 
 
葉室光子 (1853-1873)
 
 
 
 
 
 
 
稚瑞照彦尊 (1873・第一皇男子/第一子・死産 )
 
 
 
 
 
 
 
 
橋本夏子 (1856-1873)
 
 
 
 
 
 
 
 
稚高依姫尊 (1873・第一皇女子/第二子・死産 )
 
 
 
明治天皇(第122代天皇)
 
 
 
 
 
 
 
 
梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女子/第三子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
建宮敬仁親王 (1877-1878・第二皇男子/第四子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明宮嘉仁親王 (1879-1926・第三皇男子/第五子・大正天皇:第123代天皇)
 
 
 
 
 
柳原愛子 (1855-1943)
 
 
 
 
 
 
滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女子/第六子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
増宮章子内親王 (1883・第四皇女子/第七子・夭折 )
 
 
 
 
千種任子 (1856-1944)
 
 
 
 
 
 
久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女子/第八子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭宮猷仁親王 (1887-1888・第四皇男子/第九子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
常宮昌子内親王 (1888-1940・第六皇女子/第十子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
竹田宮恒久王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
周宮房子内親王 (1890-1974・第七皇女子/第十一子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
北白川宮成久王
 
 
 
 
 
 
 
富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女子/第十二子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
朝香宮鳩彦王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
満宮輝仁親王 (1893-1894・第五皇男子/第十三子・夭折 )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
泰宮聡子内親王 (1896-1978・第九皇女子/第十四子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
東久邇宮稔彦王
 
 
 
 
 
 
 
貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女子/第十五子・夭折)
 
 
 
園祥子 (1867-1947)


栄典

日本

外国

元号・追号

在位中の元号は、慶応明治である。在位期間の元号から採って、明治天皇と追号された。明治天皇の代から、一人の天皇在位中に元号を変えず、またその元号を追号とする一世一元の制を採用したので、以後、(おくりな)を持つ天皇はいない(追号も諡号の一種とする説もあるが[要出典]、厳密には異なる)。

陵・霊廟

伏見桃山陵

(みささぎ)は、京都府京都市伏見区桃山町にある伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)に治定されている。公式形式は上円下方。京都(畿内)に葬られた、最後の天皇である。

皇居では、皇霊殿宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族と共にその御霊は祀られている。大正9年(1920年)に明治神宮に造営祀られた。その後、関東神宮(在関東州・廃社)、また朝鮮神宮(在ソウル・廃社)などの海外神社に多く祀られた。戦後、北海道神宮(在札幌)にも合祀された。

著書

  • 「明治天皇・昭憲皇太后御全集」全157冊中110冊が明治天皇御製[10]

明治天皇を主題とした作品

小説

映画

テレビドラマ

参考文献

脚注

注釈

  1. ^ 宇多はかつて人と面会したことを悔いており、醍醐天皇に対し、外国人と「 直に対ふべかあらざらくのみ」とし、どうしても対面しなければならない場合は御簾ごしに行うべきであるとしている。後白河法皇人と御簾無しで対面したのは譲位以降であるが、九条兼実によって「天魔の所為」と評されている(高橋昌明平清盛の対中国外交と大輪田泊」)
  2. ^ 著者は、『ドラマ 坂の上の雲』で宮中の時代考証を担当している。続編に『明治宮殿のさんざめき』(文藝春秋、2011年/文春文庫、2013年)がある。

出典

  1. ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
  2. ^ 米窪明美『明治宮殿のさんざめき』216項(文藝春秋、2011年)
  3. ^ 林栄子『近代医学の先駆者 三浦謹之助 明治天皇・大正天皇のお医者さん』166-176頁、(叢文社、2011年)
  4. ^ 栗原広太『人間明治天皇』1953年、p102-103。
  5. ^ 小田部雄次 『天皇・皇室を知る辞典』183-184項(東京堂出版・2007年)
  6. ^ 坂本一登『伊藤博文と明治国家形成-「宮中」の制度化と立憲制の導入-』(吉川弘文館、1991年) ISBN 464203630X
  7. ^ “隠し撮り?44歳の明治天皇を撮影した貴重な一枚”. 産経ニュース. 産業経済新聞社. (2017年1月21日). http://www.sankei.com/life/news/170121/lif1701210028-n1.html 2017年1月21日閲覧。 
  8. ^ 保坂正康『崩御と即位』(新潮文庫、2011年)
  9. ^ 両者の肖像が描かれた記念切手
  10. ^ a b 『類纂新輯明治天皇御集』 明治神宮、1990年。九万三千三十二首と記載している。うち八千九百三十六首謹撰.
  11. ^ 宮内庁、明治神宮とも九万三千首余りと記しているのは、異動があった際に記述を変更しないようにとの配慮か。


関連項目

外部リンク