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2016年6月8日 (水) 03:46時点における版
皇太子徳仁親王妃 雅子 | |
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続柄 | 小和田恆第一女子 |
全名 | 雅子 |
身位 | 皇太子妃・親王妃(皇太親王妃) |
敬称 | 殿下 |
お印 | ハマナス |
出生 |
1963年12月9日(61歳) 日本 東京都港区・虎の門病院 |
配偶者 | 皇太子徳仁親王 |
子女 | 敬宮愛子内親王 |
父親 | 小和田恆 |
母親 | 小和田優美子 |
役職 | 日本赤十字社名誉副総裁 |
皇室 |
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皇太子徳仁親王妃雅子(こうたいしなるひとしんのうひ まさこ、1963年(昭和38年)12月9日 - )は、日本の皇族。皇太子徳仁親王の妃。旧名・小和田 雅子(おわだ まさこ)。身位は皇太子妃、親王妃。皇室典範に定める敬称は殿下。お印はハマナス。勲等(称号)は宝冠大綬章。学位は経済学士(Bachelor of Arts in Economics magna cum laude)(米国ハーバード大学・1985年)。
略歴
生い立ち
1963年(昭和38年)12月9日、小和田恆・優美子夫妻の第1子(長女)として東京都港区の虎の門病院にて誕生。父の恆は外務省官僚で、母の優美子は結婚前、航空会社のエールフランス極東支配人の秘書を務めていた。出生時は一家で世田谷区桜上水の外務省官舎に住んでいた。[1]
父の仕事の関係で1歳数か月からソビエト連邦・スイス連邦で過ごす。2歳の終わりごろからソビエトのモスクワ市立ジェツキサートNo.1127保育園に通園した。当初は慣れない言語や集団生活で泣きだすこともあったが、ロシア語もすぐに上達し、妹たちにロシア語で話し掛けたり、寝言もロシア語で言うほどだった[2]。1968年5月から米国のニューヨーク市リバーデイルのヘンリーハドソン・パークウェイで過ごし、1968年9月から1年間、ニューヨーク市立第81キンダガーデンに通園する。英語を話さない日々が4か月続いたが、“May I go to the bathroom ? ”「お手洗いに行ってもよろしいですか。」と初めて話したという[2]。1969年9月、市立第81パブリックスクールに入学。この頃からピアノを習い始めた。
1971年(昭和46年)3月、一家は日本に帰国。目黒区立原町小学校第1学年に編入し、5月に新宿区立富久小学校第2学年に編入する。[3]1972年(昭和47年)4月、田園調布雙葉小学校に編入し卒業する。その後、同中学校に進学し、ソフトボール部を結成し活動した。[4]同高校に進学後、父の仕事の関係で、1979年7月から1985年6月までの6年間、米国のボストン市へ移住する。1979年(昭和54年)よりマサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールへ2年間通学し、ソフトボール部と数学クラブに所属した。High Honor student (最優等学生)と認められ、アメリカ政府が優秀な学生に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」National Honor Society(NHS)を受賞。在学中、地元紙が年に数回掲載する「成績優秀者」の欄に常に登場していた。また、ドイツ語科において、ドイツ政府運営のドイツ総領事賞及びゲーテ・インスティトゥート賞(Goethe-Institut)を受賞するなど、語学活動にも熱心だった[5]。1981年(昭和56年)、同ハイスクールを卒業する。
ハーバード大学経済学部に入学[6]。国際経済学専攻。在学中は、心身障害児の運動指導[7]やフランス語のサークル、日本文化クラブ(ジャパニーズ・カルチャー・ソサイティー)で活動する。学生評議会の広報担当もした。雅子が日本で教育を受けた期間は計9年4か月であり、海外で教育を受けた期間は計9年と、若干多く日本の教育を受けたこととなる。[8]
独身時代
1985年(昭和60年)6月、ハーバード大学を卒業する[8]。専攻は数理経済学。卒業論文『External Adjsutment to Inport Price Shocks : Oil in Japanese Trade』(『輸入価格ショックに対する外的調節:日本の貿易における石油』)。成績優秀な学生に贈られる「Magna Cum Laude(マグナ・クム・ラウデ、優等賞)」を受賞した[8]。1985年の卒業生は大学全体で1681人であり、「マグナ・クム・ラウデ」を受賞した学生は全学年を合わせて55人、雅子が在籍した経済学部では3名だった。卒業論文の指導教官だったジェフリー・サックス(理論経済学者)の評価は、「卒論のテーマは、70年代と80年代のオイルショック後の日本の貿易政策で、輸出を増やし石油を輸入した日本のやり方を分析した。彼女のコンピューター分析は、特に学部生としては高度なものだった。夜遅くまでコンピューターにかかりきりだった姿は忘れません」。また、指導したエズラ・ファイヴェル・ヴォーゲル教授(『ジャパン・アズ・ナンバーワン』著者)は、「彼女は非常にプロフェッショナルな意識が強い女性で、よく勉強しました」と評している[9]。
1986年(昭和61年)、帰国後の4月に東京大学法学部3年生に外部学士入学する[8]。
同年10月に外務公務員採用I種試験(外交官試験)に合格し、外務省入省が決まる[8]。この際、女性初のキャリア官僚 スーパールーキーと話題になる。[10][11]
1987年(昭和62年)に東京大学を中退し外務省に入省。経済局国際機関第二課に配属された[8]。
1988年(昭和63年)から外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学[8]。お妃候補と報道され、大学にまで日本からのマスコミが押しかける騒ぎとなった。同年7月9日から11日に第16回先進国首脳会議(ヒューストンサミット)の半導体の市場開放問題担当海部俊樹の通訳の一人として小和田恆とともに米国に出張。
1990年(平成2年)6月に研修留学から帰国、7月1日付で北米二課に配属された[8]。経済局国際機関第二課配属・経済協力開発機構OECDの担当をしたのは1年4か月、北米局北米第2課勤務は2年8か月。総計して、外務省での職歴は5年10か月(留学期間を省くと4年)である。
1991年(平成3年)3月、スウェーデン首相イングヴァール・カールソンの歓迎夕食会に通訳で出席。同月11日に港区外務省飯倉公館で行われた米国国務長官ジェイムズ・ベイカーと当時の外務大臣渡辺美智雄、竹下登、中曽根康弘の会談の通訳など、語学力を生かした活躍を幅広くした。
皇太子との婚約・結婚の儀
1986年(昭和61年)に来日したスペインのエレナ王女の歓迎レセプションに出席した時に徳仁親王と知り合う[12]。同年12月に、東宮御所で催された内輪の茶会(年越し会)に一家で招かれる。出席者は外務省関係者やハーバード大学教授・広中平祐同夫人など学者家族と、皇太子明仁親王と同妃美智子、徳仁親王を囲み約2時間歓談した。
1987年(昭和62年)4月上旬、日英協会のパーティーで徳仁親王と再会する。4月下旬、高円宮家の宮務官から電話で招待され[13]、赤坂御用地高円宮邸の茶会に雅子ほか数名のお妃候補が招かれた。高円宮同妃と徳仁親王と歓談、夕食を共にした。同年10月24日、東宮御所で夜の茶会が催され、徳仁親王、徳仁親王の学友で旧皇族賀陽宮家の賀陽正憲と、3時間ほど歓談した。
1992年8月16日、皇太子徳仁親王と柳谷謙介宅にて5年ぶりに再会する。平成5年の誕生日記者会見で、「警備なしという極めて無防備な状態ではあったわけですけれども、それをする価値は十分にあったという、このことに関してはそういうふうに思っています」と述べている[14][15]。「鴨場でのデート」も話題になった。柳谷が再説得に乗り出すとともに、皇太子徳仁親王から電話での説得が行われており、11月中旬、悩みから外務省を体調不良で10日ほど欠勤する[16]。同年12月12日に、皇太子徳仁親王からの求婚を受諾している[12]。
1993年(平成5年)1月19日、皇室会議にて徳仁親王妃に内定し、記者会見を行なう。ハーバード大卒のキャリアウーマンであること等が世間の注目を受けた。同年2月をもって外務省を退職。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が行なわれた。「結婚の儀」のテレビ中継の最高視聴率は77.9%(午前10時12分(JST)に記録。ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合と民放を合わせた総世帯視聴率)[17]を記録した。成婚パレードには沿道に19万人の市民が集まり、テレビ中継の最高視聴率は79.2%(パレード終了直後の午後5時21分(JST)に記録。ビデオリサーチ・関東地区調べ、NHK総合と民放を合わせた総世帯視聴率)[17](資料によっては79.9%[18])を記録した。6月17日に皇太子妃雅子の名が皇統譜に登録された。
1990年代(1993年(平成5年)頃)に皇太子妃になる小和田雅子の愛車がトヨタ・カローラIIであると報道され、販売台数が爆発的に増えた。
皇太子妃時代
1994年(平成6年)11月にサウジアラビア、オマーン、カタール、バーレーン、そして1995年(平成7年)1月にクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンにおける皇太子徳仁親王の公式訪問に同行した[19]。
1996年(平成8年)5月、米国のニューズウィーク誌が伝統の中で能力を発揮できないという主旨の記事を掲載する[20]。同年12月の誕生日記者会見には単独で応じ、以後2002年(平成14年)まで6回、単独会見を開いている。
1999年(平成11年)12月10日、朝日新聞が朝刊一面で雅子妃の懐妊の兆候をスクープ報道する[21]。宮内庁および同東宮職は複数回に渡り、過熱報道の自粛を要請した。皇太子妃雅子は12月23日の天皇誕生日一般参賀には出席したが、その後12月30日に稽留流産の手術を受けたと発表された。古川清東宮大夫・川口政行東宮侍医長・医師の岡井崇が記者会見を開き、懐妊が早期から大々的に報道され雅子妃に心労を与えたことを批判する一方、海外訪問[22]との因果関係については否定した[23]。また、過度の報道に対して徳仁親王は遺憾の意を表明した[24]。2000年(平成12年)2月から、公務に復帰する。
2001年(平成13年)4月16日に懐妊の可能性が発表された。同年5月15日に懐妊が正式に発表された。同年12月1日に第一女子・敬宮愛子内親王が誕生。世継ぎ問題のプレッシャーがかかる中、結婚から8年余りでの第一子誕生だった[25]。
2002年(平成14年)12月、皇太子徳仁親王とともに、ニュージーランドとオーストラリア両国を公式に親善訪問した[26][27]。
2003年(平成15年)12月3日に帯状疱疹を発症し、公務を休み療養した[28]。
2004年(平成16年)5月、徳仁親王が訪欧を前にした記者会見で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言[29]。海外育ちで国際派と見られていた雅子妃と、伝統と慣習に厳格な宮内庁との間で不和があることをうかがわせた。この発言は人格否定発言と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。同年6月、適応障害の診断を受け病気療養に入る[30]。
2006年(平成18年)8月17日から31日まで、オランダ王室のベアトリクス女王の好意で、病気療養のためオランダ王国へ皇太子徳仁親王と敬宮愛子内親王(当時4歳)と共に旅行し静養した[31]。オランダをはじめベルギーやルクセンブルクの王族と交流した。
2010年(平成22年)3月以降、学校内に問題を抱えた敬宮愛子内親王を気遣って登下校に付き添うようになり[32]、外出の機会が一時期増加した。
2013年(平成25年)4月28日、皇太子夫妻はオランダ王国からの招待を受け同国の公式訪問が実現し、30日アムステルダムにある新教会で国王ウィレム=アレクサンダーの即位式に出席した [33]。海外公式訪問は、夫妻で平成14年にニュージーランドとオーストラリアを訪問して以来約11年ぶり。 同年10月12日、全国障害者スポーツ大会の開会式に10年ぶりに出席した[34]。
2014年(平成26年)7月15日、武蔵陵墓地に12年ぶりに参拝、7月29日に伊勢神宮に20年ぶりに参拝した[35]。8月3日には全国高等学校総合体育大会に12年ぶりに出席、皇太子一家で競技を観戦した[36]。同年10月29日オランダ国王夫妻歓迎行事に出席(5年ぶり)[37]。宮中晩餐会には11年ぶりに出席した[38][39]。
2015年(平成27年)7月2日-6日、トンガを公式訪問し、4日に国王トゥポウ6世の戴冠式に参列した[40]。続く昼食会では、ウルカララ皇太子夫妻らトンガ王族と交流を持った。5日には在留邦人らとの懇談の場に参加した[41]。同年11月12日、赤坂御苑で開かれた秋の園遊会に出席した。(12年ぶり)[42]。
公務と体調
2000年(平成12年)7月の香淳皇后の斂葬の儀の欠席や同年8月の佐賀県行啓中止を皮切りに、徐々に体調不良による公務の欠席が目立つようになる。2003年(平成15年)には帯状疱疹のため静養し、翌2004年(平成16年)7月30日に適応障害で長期間静養している事実が公表された。以後、東宮御所における接見を除けば出席する公務はほとんど無くなり、宮中祭祀も参加できない状態になる[43]。唯一、2009年(平成21年)1月2日、「昭和天皇二十年式年祭の儀」中の「皇霊殿の儀」に皇后の名代として、夫の徳仁親王とともに拝礼した。これは2003年(平成15年)9月23日以来5年3か月ぶりに、潔斎を経て平安装束を着用しての祭祀出席となった[44]。
なお、公務の出欠の判断は病気の性質上宮内庁東宮職医師団が行い、皇太子妃雅子の当日の体調により最終決定される[45]。
産経ニュースの報道によれば、2014年以降は体調が回復傾向にあり、皇太子とともに伊勢神宮参拝やオランダ国王夫妻を迎えての宮中晩餐会などの重要な行事に出席、2015年には天皇・皇后から引き継いだ「こどもの日」関連の児童施設訪問などをこなしており、同年7月にはトンガの国王・トゥポウ6世の戴冠式への皇太子夫妻公式招待に応え、2年ぶりに国外訪問公務を果たした[46]。
地方公務においても回復傾向で、2014年11月の愛知県行啓[47][48]、2015年10月の鹿児島県行啓[49][50]のように、1泊の日程で皇太子徳仁親王に同行している。
2016年(平成28年)4月3日、皇居での、「神武天皇二千六百年式年祭」の「皇霊殿の儀」において、皇后の名代として、夫の徳仁親王とともに宮中祭祀を務めた[51][52]。
慰問
1995年(平成7年)、2月と3月に阪神淡路大震災の被災者の慰問のため、兵庫県を訪問した[53]。
阪神淡路大震災翌年の1996年(平成8年)と、15年後の2010年(平成22年)、1月17日の追悼式典に出席し、会場で遺族と懇談した[54][55]。
2011年(平成23年)東日本大震災の被災者の慰問のため、4月6日に東京・味の素スタジアムを[56]、6月4日に宮城県岩沼市と山元町の山下小学校を[57]、7月26日に福島県郡山市の避難所(県産業交流館)と仮設住宅の福島第一原子力発電所事故による避難者を[58]、8月6日に岩手県大船渡市の仮設住宅を[59][60]訪問した。
2013年(平成25年)、復興の過程にある東日本大震災の被災者を励ますために東北三県の慰問を行った。8月20日には宮城県七ヶ浜町の仮設住宅を慰問した[61][62]。9月22日には福島県郡山市の仮設住宅と放射能対策の大型室内遊び場の親子たちを慰問した[63][64]。11月1日と2日は岩手県釜石市の仮設住宅と津波被害から復旧した水産加工会社を慰問した[65][66]。
2015年(平成27年)10月8日、日帰りで福島県を慰問した。震災復興のための人材育成を目的に開校した広野町の福島県立ふたば未来学園高等学校を訪れ、家族と離れて寮生活を送る生徒らを励ました。津波被害を受けた浜通り地域の訪問は初めて。その後いわき市のトマトを温室で栽培する最新施設も訪問した[67][68]。
年譜
- 1963年(昭和38年)12月9日、東京都港区に生まれる。本籍地は新潟県村上市本町[69]
- 1966年(昭和41年)9月(2歳)ソビエト連邦モスクワ市立ジェツキサート№1127保育園入園
- 1968年(昭和43年)9月(4歳)米国ニューヨーク市立第81キンダガーデン入園
- 1969年(昭和44年)9月(5歳)米国ニューヨーク市立第81パブリックスクール入学
- 1971年(昭和46年)3月(7歳)東京都目黒区立原町小学校1年に編入、同年4月、東京都新宿区立富久小学校2年に編入
- 1972年4月(8歳)田園調布雙葉小学校3年に編入
- 1976年4月(12歳)田園調布雙葉中学校入学
- 1979年4月(15歳)田園調布雙葉高等学校入学
- 1979年9月(15歳)米国マサチューセッツ州立ベルモント・ハイスクールに編入
- 1981年(昭和56年)5月(17歳)、ハーバード大学経済学部入学[6]
- 1985年(昭和60年)6月(21歳)、ハーバード大学経済学部卒業
- 1986年(昭和61年)4月(22歳)、東京大学法学部に学士入学。3年に編入学
- 1987年(昭和62年)4月(23歳)、外務省入省 経済局国際機関第二課に配属されOECD担当となる
- 1988年(昭和63年)(24歳)、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに外務省の研修で留学
- 1990年(平成2年)(26歳)、北米局北米二課に配属され市場開放・規制緩和を担当となる
- 1993年(平成5年)1月19日(29歳)、皇室会議で皇太子徳仁親王の妃に内定
- 同年4月12日、納采の儀
- 同年6月9日、結婚の儀 - 皇太子徳仁親王との結婚に伴い、皇太子妃となる
- 2001年(平成13年)12月1日(37歳)、敬宮愛子内親王を出産
家系
作家の神一行によれば、「雅子妃の実家の小和田家であるが、そのルーツは現在の新潟県村上市を治めていた村上藩内藤家五万石の下級武士とされる[70]。代々下横目(目付)、奥方付きお庭番などの役職につき柔術“制剛流”の達人の家柄だったというが、成婚当時(1993年)の時点でははっきりした系譜は曽祖父にあたる金吉からしかわかっていない[70]」という。小和田家を含め村上藩史は戊辰戦争以来の3度にわたる火災で重要資料が焼失しているため調査が困難であったが[71]、山本茂の調査によれば、同心・新六匡安(しんろくただやす)の子で郡方懸りの道助匡春(1858年〈安政5年〉11月11日64歳没)という人物がおり[72]、その兄弟・兵五郎が分家し[72]、兵五郎の嫡男・道蔵匡利(1874年〈明治7年〉7月28日没)の三男が金吉である[73]。毎日新聞の取材によると小和田家は下級武士であったためか、金吉氏の父も含めて、金吉氏以前の系譜は、はっきりしない。村上市の西真寺の過去帳には小和田兵五郎の名もあるが、これらの人物と金吉氏の関係は定かではないという[74]。金吉の長男である毅夫の代までは、旧村上藩士が権利を持っていたサケの漁業権収入を相続している[75]。
- 曽祖父・金吉(1900年〈明治33年〉没、税務署員・道蔵匡利の三男)
- 曽祖母・竹野(助産師・熊倉喜八郎令嬢)
- 祖父・毅夫(たけお、教育者・県立小千谷女子高校校長、県立高田高等学校校長[76]、高田市教育委員長)
- 祖母・静(しずか、教師・旧制中学国語教諭、田村又四郎令嬢)
- 父・恆(ひさし、国際司法裁判所判事・第22代同所長、外交官・国連大使、外務事務次官、財団法人日本国際問題研究所元理事長)
- 母・優美子(ゆみこ、日本ユニセフ協会評議員、エールフランス極東局秘書官、父は日本興業銀行役員・チッソ元会長江頭豊、父方祖父に海軍中将江頭安太郎、母方祖父に海軍大将山屋他人[76])
- 妹・礼子(れいこ、国際機関職員・国際連合難民高等弁務官事務所職員、ユニセフ駐日事務所所員、米国弁護士池田祐久夫人)
- 妹・節子(せつこ、翻訳家・文化人類学者、医師・東京大学医学部教授渋谷健司夫人)礼子・節子は双生児
- 伯父・顯(あきら、恆の兄、漢文学者)恆は五男三女のきょうだいのうち第4子次男にあたる[76]。
- 従伯父・江藤淳(本名・江頭淳夫〈えがしら あつお〉、優美子の兄の子、文芸評論家)[76]
雅子 | 父: 小和田恆 (国際司法裁判所判事・元同所長) |
祖父: 小和田毅夫 (高田市教育委員長) |
祖母: 小和田静 | ||
母: 小和田優美子 |
祖父: 江頭豊 (チッソ元会長) | |
祖母: 江頭寿々子 |
栄典
日本
- 宝冠大綬章(勲一等宝冠章) -
外国
- オーストリア: オーストリア共和国勲章 -
- ギリシャ: 救い主勲章 -
- ハンガリー: ハンガリー共和国功労勲章 -
- オランダ: クラウン勲章 -
- ノルウェー: 聖オラヴ勲章 -
- ポルトガル: エンリケ航海王子勲章 -
- スペイン: イザベラ・カトリック勲章 -
- トンガ: サローテ・トゥポウ3世勲章 -
発言
- 「私に対して『皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから』というふうに仰ってくださいました。」 - 1993年(平成5年)1月19日、婚約内定の記者会見にて - 皇室入りを決意させたものについて
- 「本当に生まれてきてありがとうという気持ちで一杯になりました」 - 2002年(平成14年)4月2日、愛子内親王誕生の際の記者会見にて[77] - 愛子内親王出産の際の気持ちについて
脚注
- ^ 『歴代皇后人物系統総覧』292頁
- ^ a b 上野緑子(幼児教育ガイダー) (2001年12月25日). “雅子さまが受けられた小和田家の教育方針”. All About. 2015年12月16日閲覧。
- ^ 『歴代皇后人物系統総覧』293頁中段
- ^ 歴代皇后人物系統総覧293頁下段
- ^ 『諸君!』2006年10月号、文藝春秋。
- ^ a b (ラドクリフ大学の項にDuring World War II, Harvard and Radcliffe signed an agreement that allowed women to attend classes at Harvard for the first time, officially beginning joint instruction in 1943. From 1963, Radcliffe students received Harvard diplomas signed by the presidents of Radcliffe and Harvard, and joint commencement exercises began in 1970. The same year, several Harvard and Radcliffe dormitories began swapping students experimentally, and in 1972 full co-residence was instituted. The schools' departments of athletics merged shortly thereafter. In 1977, Harvard and Radcliffe signed an agreement that put undergraduate women entirely in Harvard College, maintaining for them only a nominal enrollment in Radcliffe College. In practice most of the energies of Radcliffe (which remained an autonomous institution) were devoted to its other initiatives, such as the Bunting fellowship program, rather than to female undergraduates. During this time, the Harvard undergraduate community and class was officially known as "Harvard and Radcliffe" or "Harvard-Radcliffe", and female students continued to be awarded degrees signed by both presidents, even though Radcliffe usually had little to no impact on the average undergraduate's experience at the university.とあることから、小和田雅子が大学に入学した1981年当時、すでにラドクリフ大は大学独自の入学生を募集していなかった事実があげられる
- ^ 『素顔の雅子さま』主婦と生活社
- ^ a b c d e f g h 学歴・職歴の出典。京都新聞社 編『皇太子さま雅子さまご成婚記念写真集 平成の華燭』京都新聞社、1993年。ISBN 4-7638-0323-9。 ※書籍デザイン上ノンブルなしのためページ数指定できず。
- ^ 『女性セブン別冊 皇太子さま・雅子様〜華麗平成絵巻〜』(1993年6)、小学館。
- ^ 1986年10月17日号「外交官に「清原級」ルーキー ハーバード出身小和田雅子さんの完全無欠」1986年12月6日 毎日新聞(夕刊)
- ^ 「麗しき外交官の卵」1986年10月6日 日本経済新聞(夕刊)
- ^ a b 1993年1月19日 毎日新聞「昨年5月に申し入れ 宮内庁長官、新事実明かす」
- ^ 『週刊文春』2012年10月25日号「ザ・プリンセス雅子妃物語」、文藝春秋。
- ^ “皇太子殿下お誕生日に際し(平成5年)”. 宮内庁. 2015年12月18日閲覧。
- ^ 光文社『FLASH』1993年1月26日号
- ^ 『美智子さまから雅子さまへ-プリンセスへの道』(河原敏明・1993年)
- ^ a b 皇太子ご成婚テレビ番組 結婚の儀・パレードの視聴率、瞬間最高80%、読売新聞、1993年6月10日付東京夕刊、社会面。(インターネット・アーカイブのキャッシュ)
- ^ “【皇室ウイークリー特別編】お写真で振り返る皇太子ご夫妻の15年”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2008年6月8日). オリジナルの2010年6月24日時点におけるアーカイブ。 2013年10月19日閲覧。
- ^ 宮内庁 皇太子同妃両殿下のご活動
- ^ 1996年5月27日 読売新聞「「雅子妃は伝統の壁の中にこもってしまった」 米誌が特集記事」
- ^ 1999年12月10日 朝日新聞「雅子さま、懐妊の兆候 近く詳細な検査」
- ^ 12月3日 - 12月7日、ベルギー訪問(フィリップ王太子の結婚式に出席のため)なお、滞在中ヒール靴を履いたり等、妊娠を予感させる素振りは見せなかった(『週刊朝日』1999年12月24日号)
- ^ 『読売新聞』1999年12月31日「雅子さま流産 医師らの祈り届かず」
- ^ “皇太子殿下お誕生日に際し(平成12年)”. 宮内庁. 2013年10月19日閲覧。
- ^ 愛子内親王殿下御誕生につき(平成14年)
- ^ 宮内庁 ニュージーランド・オーストラリアご訪問に際し(平成14年)
- ^ 宮内庁 皇太子殿下お誕生日に際し(平成15年)
- ^ 宮内庁 皇太子殿下お誕生日に際し(平成16年)
- ^ “デンマーク・ポルトガル・スペインご訪問に際し(平成16年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
- ^ 宮内庁>広報・報道>公表事項>皇太子妃殿下のご病状に関する東宮職医師団の見解(平成22年2月5日)
- ^ 東京新聞 2006年8月18日朝刊
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参考文献
- 神, 一行『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』角川書店〈角川文庫〉、2002年、394-401頁。ISBN 978-4-04-353306-0。
- 山本, 茂『遥かなる村上藩 雅子妃のふるさと』恒文社、1993年。ISBN 4-7704-0782-3。
関連項目
外部リンク
- 皇太子同妃両殿下 - 宮内庁 - 皇太子夫妻の略歴と子女の紹介
- とっておき!雅子さまの写真(写真家・浅岡敬史による)
- 皇太子妃殿下 雅子様ゆかりの地(新潟県村上市郷土資料館)
- NHKアーカイブス 皇太子さま・雅子さまご結婚(1993年) - 日本放送協会(NHK)
- ご結婚20年 皇太子さま 雅子さま - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス