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{{ポルトガル語圏の姓名|マデイラ|カエイロ・フィーゴ}}
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{{存命人物の出典明記|date=2008年11月}}
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|名前=ルイス・フィーゴ
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|画像=Predsednik vlade na dobrodelni nogometni tekmi v ljubljanskih Stožicah (53196291425) (cropped).jpg
|画像=Luis Figo flickr.jpg
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|画像の説明=2023年のフィーゴ
|本名=ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ
|本名=ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ<br />Luís Filipe Madeira Caeiro Figo
|愛称=フィーゴ、白豹、
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|原語名=[[ポルトガル語]]
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|国={{POR}}
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|誕生日={{生年月日と年齢|1972|11|4}}
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|出身地=[[リスボン県]][[リスボン]]
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|身長=180cm<ref name="fbdb">{{cite web|title=Figo Stats|url=http://www.footballdatabase.com/index.php?page=player&Id=715&b=true&pn=Lu%C3%ADs_Filipe_Madeira_Caeiro|publisher=FootballDatabase.com|accessdate=23 December 2006}}</ref>
|身長=180cm
|体重=75kg
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|ポジション=[[ミッドフィールダー|MF]]([[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|AMF]]、[[ミッドフィールダー#サイド・ミッドフィールダー|RSMF]])<ref name="Real Figo">{{Cite news|title=ルイス・フィーゴ|newspaper=レアル・マドリード|url=https://www.realmadrid.com/ja/about-real-madrid/history/football-legends/luis-filipe-madeira-caeiro|accessdate=2023-11-07}}</ref><ref name="AERA(No. 968〜981)">『[[AERA]] 第968〜981号』2005年2月〜2006年3月発行、6頁</ref>
|ポジション=[[ウイング (サッカー)|FW]]/[[ミッドフィールダー|MF]]
|利き足=右足
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|ユース年1=1984-1989|ユースクラブ1={{Flagicon|POR}} [[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]
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|年3=2000-2005|クラブ3={{Flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]|出場3=164|得点3=38
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|年4=2005-2009|クラブ4={{Flagicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]|出場4=105|得点4=9
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|通算出場=570|通算得点=93
|代表1={{Flagicon|POR}} [[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]|代表年1=1991-2006<ref>{{Cite news|title=Luis Filipe Madeira Caeiro Figo - Century of International Appearances|publisher=The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/figo-intl.html|language=英語}}</ref>|代表出場1=127|代表得点1=34
|代表年1=1988-1989|代表1={{fbu|16|POR|name=ポルトガル U-16}}|代表出場1=15|代表得点1=8
|代表年2=1989|代表2={{fbu|17|POR|name=ポルトガル U-17}}|代表出場2=6|代表得点2=2
|代表年3=1988-1990|代表3={{fbu|18|POR|name=ポルトガル U-18}}|代表出場3=21|代表得点3=8
|代表年4=1990-1991|代表4={{fbu|20|POR|name=ポルトガル U-20}}|代表出場4=12|代表得点4=0
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|代表成績更新日=
}}
}}
'''ルイス・フィーゴ'''こと'''ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ'''(Luís Filipe Madeira Caeiro Figo {{IPA|luˈiʃ fɨˈlipɨ mɐˈðɐjrɐ kɐˈɐjru figu}} 、[[1972年]][[11月4日]] - )は[[ポルトガル]]・[[リスボン]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]。元[[サッカーポルトガル代表|同国代表]]。ポジションは[[イン (サッ)|ング]]に右サイド)
'''ルイス・フィーゴ'''こと'''ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ'''({{Pt|Luís Filipe Madeira Caeiro Figo}}、{{IPA|luˈiʃ fɨˈlipɨ mɐˈðɐjrɐ kɐˈɐjru figu}}、[[1972年]][[11月4日]] - )は[[ポルトガル]]・[[リスボン]]出身の元[[サッカー選手]]。元[[サッカーポルトガル代表|同国代表]]。現役時代のポジションは[[ミッドフィールダー|MF]]<ref name="Real Figo"/><ref name="Jiji Port">{{Cite news|title=歴代最強レブポルトガル 特集|newspaper=[[時事通信社|時事ドットコム]]|url=https://www.jiji.com/sp/d4?p=por214&d=d4_ftbnn|accessdate=2023-11-07}}</ref>。[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|攻撃的MF]]や[[ミッドフィールダー#イド・ミドフィールダー|右サドMF]]戦場としていた<ref name="マルチ">{{Cite book|和書|author=週刊ッカーマガジン 編|title=サッカーマルチ大事典 改訂版|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|year=2006|isbn=4-583-03880-1|page=380-381}}</ref><ref name="AERA(No. 968〜981)"/>。原語の発音により忠実な発音は「ルーシュ・フィリーぺ・マデイラ・カエイロ・フィーグ」


フィーゴは[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]として127試合に出場するなど、[[黄金世代]]の中心選手として長らく代表を支えた<ref name="マルチ"/>。その創造性と[[ドリブル]]技術の高さから、[[1990年代]]で最も偉大な選手の一人とも評されている<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/euro2000/teams/portugal/squad/744857.stm|title=EURO 2000 Profile: Luis Figo|publisher=BBC Sport|date=14 May 2000|accessdate=29 July 2012}}</ref><ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/1715960.stm|work=BBC News|title=Figo best in world|date=17 December 2001|accessdate=30 july 2018}}</ref>。[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]では通算106アシストを記録しており、これは[[リオネル・メッシ]]に次ぐ歴代二位の記録である<ref name="assists">{{cite news|url=http://www.goal.com/en-gb/news/3277/la-liga/2015/02/08/8743632/crisis-what-crisis-harmony-restored-as-barcelona-close-gap|title=Crisis? What crisis? Harmony restored as Barcelona close gap on Madrid|publisher=Goals.com|date=9 February 2015}}</ref>。2000年には[[バロンドール]]を受賞し、翌年の2001年には[[FIFA最優秀選手賞]]を受賞した。2004年には[[ペレ]]が作成した偉大な100人のサッカー選手のリスト、[[FIFA 100]]にも選出されている<ref>{{cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/3533891.stm |title=Pele's list of the greatest|publisher=BBC Sport|date=4 March 2004|accessdate=19 June 2014}}</ref>。フィーゴは、スペインにおけるライバルチームとして知られる[[FCバルセロナ]]と[[レアル・マドリード]]の双方でプレーした選手の一人でもある。2000年に6000万ユーロでバルセロナからレアル・マドリードに移籍した際は、大きな物議となった<ref>[http://www.bbc.co.uk/sport/0/football/23903470 "The history of the world transfer record"]. BBC News. Retrieved 1 May 2014</ref>。
言語の発音により近いのは、ルイシュ・フィリープィ・マザイラ・カアイル・フィーグ。


== 人物 ==
== 来歴 ==
=== 幼少期 ===
ポルトガルでは年間最優秀選手賞を5年連続で受賞するなど、[[黄金世代]]の中心選手として長らく代表を支えてきた選手。キャップ数は歴代最多出場記録となる127試合。その[[ドリブル]]技術の高さから[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]の[[ライアン・ギグス]]とともに[[1990年代]]最高のウイングと評される。
1972年11月4日、父アントニオ・カエイロ・フィーゴと母マリア・ジョアナ・ペスターナ・マデイラの一人息子として生まれる。幼少期は、[[アルマダ (ポルトガル)|アルマダ]]の労働者階級の地区{{仮リンク|コヴァ・ダ・ピエダーデ|en|Cova da Piedade}}で育った。


=== スポルティングCP ===
語学にも堪能で、[[ポルトガル語]]、[[英語]]、[[スペイン語]]、[[スウェーデン語]]、[[イタリア語]]などが扱える。少年時代から学業の成績が良く、将来の夢は[[医者]]だと言っても誰も反発しなかったという。学力のあまりの良さに、[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]に入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」というような内容が書かれていたようである。
[[ファイル:Football against poverty 2014 - Luís Figo.jpg|thumb|200px|チャリティマッチでプレイするフィーゴ(2014年)]]
フィーゴはストリートでサッカーを始め、11歳の時、ポルトガルの[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]の下部組織に入団した。あまりの学業の優秀さから、入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」という内容が含まれていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://expertfootball.com/players/figo/|title=Expert Footballによる情報|date=23 June 2012|work=AFP|accessdate=2012-06-23}}</ref>。1989年からトップチームに昇格し、1994年にはプリメイラ・リーガ最優秀選手、1995年にはポルトガル最優秀選手に選出された。


=== バルセロナ ===
一人っ子である。家族は、1996年に[[バルセロナ]]にて[[ホアキン・コルテス]]のショーを観劇中に知り合った[[スウェーデン人]]元[[モデル (職業)|モデル]]のヘレン夫人との間に3女。フィーゴという登録名はポルトガル語で[[イチジク]]という意味。またフィーゴの名は父親のあだ名を貰ったものである。
1995年に[[ユヴェントスFC]]、[[パルマ・カルチョ1913|パルマFC]]が獲得に興味を示した。ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマと契約し二重契約の状態となった<ref>[http://soccer-soku.com/1793/ ルイス・フィーゴの過去の移籍問題] - サカソク 2015年11月25日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.fo/DKVP4 アーカイブ])</ref>。そのためユヴェントスはイタリアサッカー連盟に契約の不服を訴え、協議裁定の結果、フィーゴはその後2年間の間イタリアのクラブと契約を締結する事を禁止された。この出来事がきっかけでリスボンで居場所がなくなり、同年に移籍金225万ポンドで[[スペイン]]の[[FCバルセロナ]]へ移籍。契約的にはパルマの選手でありながら、バルセロナの選手でもある形になっていたが、1996年夏にパルマはフィーゴの所有権をバルセロナに売却した。[[パトリック・クライファート]]、[[リバウド]]と共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、[[エル・ドリーム・チーム|ドリーム・チーム]]以降のバルセロナのシンボルとして支持を得た<ref name="マルチ"/>。[[2000年]]には、[[バロンドール|欧州年間最優秀選手]]を受賞した<ref name="マルチ"/>。


== 経歴 ==
=== 禁断の移籍 ===
2000年7月、フィーゴはバルセロナのライバルチームであるレアル・マドリードに、6000万ユーロの金額で電撃移籍を果たした<ref>{{cite news|url=http://www.independent.co.uk/sport/football/internationals/figo-defects-to-real-madrid-for-record-pound372m-709465.html|work=The Independent|location=London|title=Figo defects to Real Madrid for record £36.2m|first=Elizabeth|last=Nash|date=25 July 2000|accessdate=11 May 2010}}</ref>。この「[[エル・クラシコ#移籍市場|禁断の移籍]]」は、激怒したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営する[[バルセロナ]]市内の[[日本料理]]店を破壊するという騒動にまで発展した<ref>過去にも[[ミカエル・ラウドルップ]]や[[ベルント・シュスター]]などバルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手はいたが、フィーゴの場合は移籍の2日前に会見でファンに向けて「移籍は無い」と発言し、また、移籍の理由が「年俸が多い」という理由だったと報じられたため、ファンの怒りを買った。</ref>。そのため引退した現在もなお、'''ペセテーロ'''(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタも多い。しかし、後にフィーゴは「バルサを去ったのは、お金のためではなく、クラブから評価を受けられなかったからだ。」と、金のための移籍ではなかったことを明かした<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/6043308/ フィーゴがレアル移籍の真相を明かす「お金のためではない」] - livedoor News 2011年11月19日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.fo/q4wUi アーカイブ])</ref><ref>[http://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=157671 フィーゴ「クラブに軽視されたからバルサを出た」] - 超ワールドサッカー 2014年2月14日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.fo/CQw6h アーカイブ])</ref>。
=== クラブ ===
[[ファイル:Football against poverty 2014 - Luís Figo.jpg|thumb|200px|チャリティマッチでプレイするフィーゴ(2014年)]]
ポルトガルの強豪[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]でキャリアをスタート。リスボンでの活躍により、1995年に[[ユヴェントスFC]]、[[SSDパルマ・カルチョ1913|パルマFC]]が獲得に興味を示した。ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマと契約し二重契約の状態となった。 ユヴェントスはイタリアサッカー連盟に契約の不服を訴え、協議裁定によりその後、フィーゴは2年間、イタリアクラブでプレーすることを禁じられた。 この出来事がきっかけでリスボンで居場所がなくなり、同年に移籍金225万ポンドで[[スペイン]]の[[FCバルセロナ]]へ移籍。契約的にはパルマの選手でありながら、バルセロナの選手でもある形になっていたが、1996年夏にパルマはフィーゴの所有権をバルセロナに売却した。その破壊力抜群の突破力とチャンスメイクで右サイドを支配、FWの[[パトリック・クライファート|クライファート]]、左サイドの[[リバウド]]と共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、[[エル・ドリーム・チーム|ドリーム・チーム]]以降のバルセロナのシンボルとして絶大な支持を得た。


2000年10月に行われたレアル・マドリードへの移籍後初の[[カンプ・ノウ]]でのバルセロナとの試合では、フィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億[[ペセタ]](移籍金)のニセ札が投げ込まれた。また、2002年11月の同スタジアムにおける試合では、フィーゴが[[コーナーキック]]を蹴ろうとした際はスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには子豚の頭まで投げ入れられた<ref>[http://www.football-zone.net/archives/18706 サッカー界における禁断の移籍] - zone.web 2015年10月27日閲覧 2018年7月30日閲覧([https://archive.fo/LymAB アーカイブ])</ref><ref>{{Cite news|title=フィーゴが禁断の移籍に言及「あれほど敵視された選手はいない」|date=2013-10-26|newspaper=サッカーキング|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20131026/143987.html|accessdate=2021-7-7}}</ref>。また、[[UEFA EURO 2004|EURO2004]]の[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]との決勝戦でも、試合中に[[ジミー・ジャンプ|FCバルセロナの旗を持ったバルセロナ・サポーターの男性]]がピッチに乱入する場面があった<ref>{{Cite web|和書|last1=Glendenning|first1=Barry|title=ポルトガル 0 - 1 ギリシャ|url=http://www.theguardian.com/football/2004/jul/04/minutebyminute.sport|publisher=[[ガーディアン]]|date=2004年7月4日|accessdate=2016年7月26日}}{{en icon}}</ref>。
[[2000年]]には[[バロンドール|欧州年間最優秀選手]]を受賞したフィーゴであったが、2000-01シーズンに[[レアル・マドリード]]の[[銀河系軍団|銀河系]]政策第1号として、バルセロナからライバルのレアル・マドリードへ電撃移籍。これに反発したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営する[[バルセロナ]]市内の[[日本料理]]店を破壊するという大変な騒動にまで発展した<ref>過去にも[[ミカエル・ラウドルップ]]や[[ベルント・シュスター]]などバルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手はいた。しかしフィーゴは移籍の2日前に会見でファンに向けて「移籍は無い」と嘘の発言をし、また、移籍の理由が年俸が多いという理由のみであり、バルセロナのソシオの信頼を踏みにじった裏切り行為といえる移籍であった。</ref>。そのため引退した現在もなお、'''ペセテーロ'''(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタが多い。


この移籍によるバルセロナとの遺恨は引退後も残っており、2015年には[[UEFAチャンピオンズリーグ 2014-15|チャンピオンズリーグ]][[UEFAチャンピオンズリーグ 2014-15 決勝|決勝]]の前日に決勝を戦う両クラブ(バルセロナと[[ユヴェントスFC]])の元所属選手が世界選抜と試合をするフレンドリーマッチにおいて、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]はバルセロナのレジェンドとしてフィーゴを招待したものの、バルセロナがこれを拒否しフィーゴは試合に参加しなかった<ref>[https://www.footballchannel.jp/2015/06/04/post91177/ “裏切り者”フィーゴ氏がバルサに帰ってくる? クラブの拒否で白紙に] - フットボールチャンネル([https://archive.is/vawPS アーカイブ])</ref><ref>[http://www.football-zone.net/archives/10285 バルセロナ、フィーゴ氏のレジェンドマッチ出場を拒否 2000年に宿敵へ移籍] - zone.web 2015年6月4日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.is/4n8qF アーカイブ])</ref>。
また、バルセロナのホームスタジアム、[[カンプ・ノウ]]に乗り込んだ試合ではフィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起きたり、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億[[ペセタ]](移籍金)のニセ札が作られ投げられ、フィーゴが[[コーナーキック]]を蹴ろうとすればスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには豚の顔の皮まで投げ入れられるなどして、約10分間試合が中断されたりした<ref>無観客試合などの制裁は科されなかった。</ref>。また[[UEFA EURO 2004|EURO2004]]、ポルトガルと[[サッカーギリシャ代表|ギリシャ]]の決勝戦でも、試合途中にFCバルセロナの旗を持ったバルサ・サポーターの男がピッチに走りこみ抗議を行い取り押さえられる場面もあり、うな垂れるフィーゴの映像も印象深く、いまだに過去の確執を根にもたれている様子である。


このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、「僕の経験上、(バルセロナでの)2年目(1996-97シーズン)本当に素晴らしいシーズンだった<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/3372256/ フィーゴ思い出を語る「バルサでの2年目は最高に素晴らしかった」]</ref>とインタビュで語っている。その一方で、バルセロナからレアル・マドリードへの移籍という判断に間違いなかったとも語って<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/eusoccer/1112/headlines/20111119-00000008-spnavi-socc.html フィーゴ「バルセロナを出たの正しい判断だた」]</ref>。
このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、インタビューでは「バルセロナで過ごした時間、最高に素晴らしい日々だった<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/3372256/ フィーゴ「バルサでの日々は最高に素晴らしかった」] - Livedoor News 2007年11月2日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.is/dgIY アーカイブ])</ref><ref name="worldA">[http://www.theworldmagazine.jp/20160601/01world/spain/65056 フィゴ氏が禁断の移籍を振り返る] - theWORLD 2016年6月1日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.is/lwrh2 アーカイブ])</ref>」と振り返っている。その一方で、レアル・マドリードへの移籍という判断に後悔い<ref>[http://www.theworldmagazine.jp/20160914/01world/spain/87112 “銀河系の10番”フィーゴが当時を回想] - theWORLD 2016年9月14日配信([https://archive.is/Y05UL アーカイブ])</ref>」、「バルセロナ自分が悪役であても構わない<ref name="worldA"/>」とも語っている


=== レアル・マドリード ===
伝統的なライバル間の移籍という大きなプレッシャーの中、[[ラウル・ゴンサレス]]、[[ロベルト・カルロス・ダ・シウバ|ロベルト・カルロス]]、翌2001年に加入した[[ジネディーヌ・ジダン]]らと共に豪華な攻撃陣を形成し、銀河系軍団と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年には[[FIFA最優秀選手賞]]を受賞した<ref>フィーゴ以降のレアル・マドリードは、スター獲得でのクラブ強化に重点を置いている。</ref>。また、同クラブ在籍中には[[リーガ・エスパニョーラ|リーガ]]通算100アシストという記録も成し遂げている。
レアル・マドリードでは、伝統的なライバル間の移籍というプレッシャーの中、[[ラウル・ゴンサレス]]、[[ロベルト・カルロス]]、翌2001年に加入した[[ジネディーヌ・ジダン]]らと共に攻撃陣を形成し、[[銀河系軍団]]と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年には[[FIFA最優秀選手賞]]を受賞した。また、同クラブ在籍中には[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ]]通算100アシストという記録も達成した。


2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとして[[トーマス・グラセン]]が加入してからは[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォマンスを見せていたフィーゴだったが、終盤に突如[[ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ|ルシェンブルゴ]]監督との確執<ref>それまでレギュラーとしてスタメン出場していたフィーゴは、ルシェンブルゴから何の忠告もなくエル・クラシコでスタメンを外され、その後右サイドでプレーしていた[[デビッド・ベッカム]]の欠場時にもスタメン起用されることはなくなった。プライベートでは「おはよう」や「さようなら」という挨拶すら交わさなかった。</ref>が生じ、それ以後、先発出場がなくなり全て後半途中出場となった。半ば喧嘩別れに近い形で[[セリエA (サッカー) 2005-2006|2005-06]]シーズンからは[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]へ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した。レアル・マドリード時代は限界説が囁かれたがその能力は健在で、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]でも[[UEFAチャンピオンズリーグ]]でも中盤の右サイドで活躍した。
2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとして[[トーマス・グラヴェセン]]が加入してからは[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォマンスを見せていたが、終盤に[[ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ|ルシェンブルゴ]]監督との確執が生じ、それ以降は先発出場が激減した。


=== インテル・ミラノ ===
[[2006年]]12月に[[サウジ・プレミアリーグ]]の強豪[[アル・イテハド]]への[[レンタル移籍]]が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は立ち消え。プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、[[セリエA (サッカー) 2007-2008|2007-08]]シーズンもインテルで戦うこと決定した。しかし、起用法などから徐々に[[ロベルト・マンチーニ]]監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。その後、[[セリエA (サッカー) 2008-2009|2008-09]]シーズンからは同胞の[[ジョゼ・モウリーニョ]]がインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。
2005-06シーズンからは[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]へ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した<ref>[https://www.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=324049.html フィーゴはインテルで再出発] - UEFA.com 2005年8月7日配信 2018年8月12日閲覧([https://archive.fo/NBj2p アーカイブ])</ref>。[[セリエA (サッカー)|セリエA]]でも[[UEFAチャンピオンズリーグ]]でも中盤の右サイドで活躍した。
[[2009年]]5月30日に、31日開催の[[アタランタBC|アタランタ]]戦を最後に現役引退を自身の公式サイトで表明した。
そして、[[5月31日]]のアタランタ戦、フィーゴは前半45分だけ出場。これが現役最後の試合でもあった。
引退後はインテルの幹部に就任することになった。


[[2006年]]12月に[[サウジ・プレミアリーグ]]の強豪[[アル・イテハド]]への[[レンタル移籍]]が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は消滅した<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/2162781 インテル、フィーゴ移籍の報道を否定] - AFPBB News 2007年1月5日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.is/x8X4K アーカイブ])</ref><ref>[http://web.gekisaka.jp/news/detail/?25730-6341-fl インテル残留に合意] - ゲキサカ 2007年6月11日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.is/lkiR4 アーカイブ])</ref>。プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、[[セリエA (サッカー) 2007-2008|2007-08]]シーズンもインテルで戦うことを決定した<ref>[http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/3194430/ フィーゴ一大決心!!インテル残留、そして幹部に] - Livedoor News 2007年6月11日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.is/Q3Msn アーカイブ])</ref>。しかし、起用法などから徐々に[[ロベルト・マンチーニ]]監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。その後、[[セリエA (サッカー) 2008-2009|2008-09]]シーズンからは同胞の[[ジョゼ・モウリーニョ]]がインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。
=== 代表 ===

同シーズン、[[2009年]][[5月30日]]に、現役引退をインテルの公式サイトで発表した<ref>[http://web.gekisaka.jp/news/detail/?54550-36025-fl フィーゴ、インテル公式サイトで引退を表明] - ゲキサカ 2009年5月31日配信 ([https://archive.is/21m0F アーカイブ])</ref>。そして、[[5月31日]]の[[アタランタBC|アタランタ]]戦を最後に現役を引退した<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/2607539 インテル、フィーゴの最後の試合を勝利で飾る] - AFPBB News 2009年6月1日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.is/QcHNZ アーカイブ])</ref>。

=== ポルトガル代表 ===
[[ファイル:Luis Figo.jpg|thumb|200px|ポルトガル代表時代のフィーゴ]]
[[ファイル:Luis Figo.jpg|thumb|200px|ポルトガル代表時代のフィーゴ]]
[[1991年]]にはポルトガルU-20代表として[[FIFAワールドユース選手権]]優勝に貢献。[[マヌエル・ルイ・コスタ|ルイ・コスタ]]、[[パウロ・ソウザ]]、[[フェルナンド・コウト]]、[[ジョアン・ヴィエイラ・ピント|ジョアン・ピント]]と共にポルトガルの将来を担う「'''ゴールデン・ジェネレーション'''([[黄金世代|黄金の世代]])」と呼ばれた。
[[1991年]]にはポルトガルU-20代表として[[FIFAワールドユース選手権]]優勝に貢献<ref name="マルチ"/>。[[マヌエル・ルイ・コスタ|ルイ・コスタ]]、[[パウロ・ソウザ]]、[[フェルナンド・コウト]]、[[ジョアン・ヴィエイラ・ピント|ジョアン・ピント]]と共にポルトガルの将来を担う「'''ゴールデン・ジェネレーション'''([[黄金世代|黄金の世代]])」と呼ばれた<ref name="マルチ"/>


[[1991年]][[10月16日]]に[[サッカールクセンブルク代表|ルクセンブルク]]との親善試合で代表デビューを飾。当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ([[2002 FIFAワールドカップ]]、[[2006 FIFAワールドカップ]])、3度の欧州選手権([[UEFA EURO '96|EURO1996]]・[[UEFA EURO 2000|EURO2000]]・[[UEFA EURO 2004|EURO2004]])に出場した。
[[1991年]][[10月16日]]に[[サッカールクセンブルク代表|ルクセンブルク]]との親善試合で代表デビューを飾った<ref name="rsssf"/>。当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ([[2002 FIFAワールドカップ]]、[[2006 FIFAワールドカップ]])、3度の欧州選手権([[UEFA EURO '96|EURO1996]]・[[UEFA EURO 2000|EURO2000]]・[[UEFA EURO 2004|EURO2004]])に出場した<ref name="マルチ"/>


[[2000年]]のEURO2000では初戦の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝の[[サッカートルコ代表|トルコ]]戦では[[ヌーノ・ゴメス]]へ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。
[[2000年]]のEURO2000では初戦の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝の[[サッカートルコ代表|トルコ]]戦では[[ヌーノ・ゴメス]]へ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。


[[2006 FIFAワールドカップ]]予選で一時引退していたポルトガル代表に復帰ポルトガル代表は快進撃を続け、無敗で予選通過。本大会ではグループリーグ初戦の[[サッカーアンゴラ代表|アンゴラ]]戦では得意のドリブルから絶妙なアシストを見せる、40年ぶりのベスト4進出に貢献。[[サッカードイツ代表|ドイツ]]との3位決定戦を最後に代表から引退した。
その後、一度は代表引退を表明していたが、[[2006 FIFAワールドカップ]]予選で復帰し、ポルトガル代表は無敗で予選通過した。本大会ではグループリーグ初戦の[[サッカーアンゴラ代表|アンゴラ]]戦では得意のドリブルからアシストを見せるなどポルトガルの40年ぶりのベスト4進出に貢献。[[サッカードイツ代表|ドイツ]]との3位決定戦を最後に代表から引退した<ref name="rsssf"/>


代表での通算出場試合数は127試合、通算得点数は32得点であり、通算出場試合数の記録は2016年に[[クリスティアーノ・ロナウド]]に更新されるまでポルトガル代表の歴代最多記録だった<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/1665990.html Cロナ「少し残念」PK外し代表128戦飾れず] 日刊スポーツ 2016年6月20日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.is/DlSj4 アーカイブ])</ref><ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/euro/20160619/457821.html C・ロナウドがフィーゴ超え…ポルトガル代表の最多出場記録を更新] SOCCER KING 2016年6月19日配信2018年7月30日閲覧([https://archive.is/1WxIJ アーカイブ])</ref>。
== 所属クラブ ==

* 1989年 - 1995年 {{Flagicon|POR}} [[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル]]
=== 引退後 ===
* 1995年 - 2000年 {{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ]]
引退後はインテルの幹部に就任した<ref>{{cite web|url=http://www.tuttomercatoweb.com/altre-notizie/inter-figo-quando-ero-dirigente-nerazzurro-provai-a-prendere-sanchez-654095|title=Inter, Figo: "Quando ero dirigente nerazzurro provai a prendere Sanchez"|author=Antonio Gaito|date=2015-03-05|accessdate=2018-07-30}}([https://archive.is/shBTP アーカイブ])</ref>。2015年の[[国際サッカー連盟]]FIFA会長選へ向けて、立候補を表明していた<ref>[http://www.footballista.jp/news/23575 フィーゴ氏がFIFA会長選に立候補] - footballista 2015年1月29日配信 2018年7月30日閲覧([https://archive.is/981Zg アーカイブ])</ref> が、選挙期間中に討論や演説の機会を十分に与えられなかったとして立候補を取り下げた<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/1480223.html フィーゴ氏、FIFA会長選への出馬を断念] - 日刊スポーツ 2015年5月22日配信 2018年7月30日閲覧 ([https://archive.is/yJHnV アーカイブ])</ref>。
* 2000年 - 2005年 {{Flagicon|ESP}} [[レアル・マドリード]]

* 2005年 - 2009年 {{Flagicon|ITA}} [[インテルナツィオナーレ・ミラノ]]
== 選手としての特徴 ==
スピードに乗った切れ味鋭いドリブルを武器とする。攻撃的ミッドフィルダーで特に右サイドを得意としている<ref>田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、113ページ、{{ISBN2| 4-591-09115-5}}</ref>。


== 個人成績 ==
== 個人成績 ==
76行目: 90行目:
{{サッカー選手国内成績表 th|ポルトガル|all}}
{{サッカー選手国内成績表 th|ポルトガル|all}}
|-
|-
|1990-91||[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]||24||[[プリメイラ・リーガ|プリメイラ]]||3||0||||||||||||
|1990-91||rowspan="5"|[[スポルティング・クルーベ・デ・ポルトゥガル|スポルティングCP]]||24||rowspan="5"|[[プリメイラ・リーガ|プリメイラ]]||3||0||||||||||||
|-
|-
|1991-92||スポルティングCP||7||プリメイラ||34||1||7||0||||||||
|1991-92||rowspan="4"|7||34||1||7||0||||||||
|-
|-
|1992-93||スポルティングCP||7||プリメイラ||32||0||8||1||||||||
|1992-93||32||0||8||1||||||||
|-
|-
|1993-94||スポルティングCP||7||プリメイラ||31||8||1||0||||||||
|1993-94||31||8||1||0||||||||
|-
|-
|1994-95||スポルティングCP||7||プリメイラ||34||7||7||3||||||||
|1994-95||34||7||7||3||||||||
{{サッカー選手国内成績表 th|スペイン|all}}
{{サッカー選手国内成績表 th|スペイン|all}}
|-
|-
|1995-96||[[FCバルセロナ|バルセロナ]]||7||[[プリメーラ・ディビシオン|プリメーラ]]||35||5||8||1||||||||
|1995-96||rowspan="5"|[[FCバルセロナ]]||rowspan="5"|7||rowspan="10"|[[プリメーラ・ディビシオン|プリメーラ]]||35||5||8||1||||||||
|-
|-
|1996-97||バルセロナ||7||プリメーラ||36||4||9||2||||||||
|1996-97||36||4||9||2||||||||
|-
|-
|1997-98||バルセロナ||7||プリメーラ||35||5||4||0||||||||
|1997-98||35||5||4||0||||||||
|-
|-
|1998-99||バルセロナ||7||プリメーラ||34||7||10||1||||||||
|1998-99||34||7||10||1||||||||
|-
|-
|1999-00||バルセロナ||7||プリメーラ||32||9||2||0||||||||
|1999-00||32||9||2||0||||||||
|-
|-
|2000-01||[[レアル・マドリード|R・マドリード]]||10||プリメーラ||34||9||1||0||||||||
|2000-01||rowspan="5"|[[レアル・マドリード]]||rowspan="5"|10||34||9||1||0||||||||
|-
|-
|2001-02||R・マドリード||10||プリメーラ||28||7||6||1||||||||
|2001-02||28||7||6||1||||||||
|-
|-
|2002-03||R・マドリード||10||プリメーラ||33||10||1||0||||||||
|2002-03||33||10||1||0||||||||
|-
|-
|2003-04||R・マドリード||10||プリメーラ||36||8||8||3||||||||
|2003-04||36||8||8||3||||||||
|-
|-
|2004-05||R・マドリード||10||プリメーラ||33||3||0||0||||||||
|2004-05||33||3||0||0||||||||
{{サッカー選手国内成績表 th|イタリア|all}}
{{サッカー選手国内成績表 th|イタリア|all}}
|-
|-
|[[セリエA (サッカー) 2005-2006|2005-06]]||[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]||7||[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||34||5||3||0||||||||
|[[セリエA (サッカー) 2005-2006|2005-06]]||rowspan="4"|[[インテル・ミラノ]]||rowspan="4"|7||rowspan="4"|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||34||5||3||0||||||||
|-
|-
|[[セリエA (サッカー) 2006-2007|2006-07]]||インテル||7||セリエA||32||2||7||0||||||||
|[[セリエA (サッカー) 2006-2007|2006-07]]||32||2||7||0||||||||
|-
|-
|[[セリエA (サッカー) 2007-2008|2007-08]]||インテル||7||セリエA||17||1||1||0||||||||
|[[セリエA (サッカー) 2007-2008|2007-08]]||17||1||1||0||||||||
|-
|-
|[[セリエA (サッカー) 2008-2009|2008-09]]||インテル||7||セリエA||22||1||-||-||||||||
|[[セリエA (サッカー) 2008-2009|2008-09]]||22||1||-||-||||||||
{{サッカー選手国内成績表 通算始|3|ポルトガル|プリメイラ}}134||16||23||4||||||||
{{サッカー選手国内成績表 通算始|3|ポルトガル|プリメイラ}}134||16||23||4||||||||
{{サッカー選手国内成績表 通算行|スペイン|プリメーラ}}336||67||49||8||||||||
{{サッカー選手国内成績表 通算行|スペイン|プリメーラ}}336||67||49||8||||||||
121行目: 135行目:
|}
|}


=== 代表 ===
==代表==
===出場大会===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small"
*[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]
|-
**[[2002 FIFAワールドカップ]]
!年!!代表国!!出場!!|得点
**[[2006 FIFAワールドカップ]]

===試合数===
*国際Aマッチ 127試合 32得点(1991年-2006年)<ref>{{Nfteams}}</ref><ref name="rsssf">{{Cite news|title=Luis Filipe Madeira Caeiro Figo - Century of International Appearances|publisher=The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/figo-intl.html|language=英語}}</ref>
{{サッカー代表個人成績|ポルトガル|1}}
|-
|-
|1991||align="left" rowspan="16"|{{fb|POR}}||3||0
|1991||3||0
|-
|-
|1992||7||1
|1992||7||1
158行目: 177行目:
|2006||10||1
|2006||10||1
|-
|-
!colspan="2"|通算!!127!!34
!通算||127||32
|}

=== 得点 ===
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" style="font-size:small;"
! # !! 開催年月日 !! 開催地 !! 対戦国 !! スコア !! 結果 !! 試合概要
|-
|align="center"| 1. || 1992年11月11日 || {{flagicon|FRA}} [[パリ]]、[[スタッド・ド・パリ]] || {{fb|BUL}} ||align="center"| '''1'''-1 ||align="center"| 2-1 || [[エキシビション|親善試合]]
|-
|align="center"| 2. || 1994年10月9日 || {{flagicon|LAT}} [[リガ]]、[[ダウガヴァ・スタジアム]] || {{fb|LAT}} ||align="center"| 0-'''3''' ||align="center"| 1-3 || rowspan="3"|[[UEFA EURO '96予選]]
|-
|align="center"| 3. || 1994年11月13日 || {{flagicon|POR}} [[リスボン]]、旧[[エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ]] || {{fb|AUT}} ||align="center"| '''1'''-0 ||align="center"| 1-0
|-
|align="center"| 4. || 1995年6月3日 || {{flagicon|POR}} [[ポルト]]、[[エスタディオ・ダス・アンタス]] || {{fb|LAT}} ||align="center"| '''1'''-0 ||align="center"| 3-2
|-
|align="center"| 5. || 1996年6月19日 || {{flagicon|ENG}} [[ノッティンガム]]、[[シティ・グラウンド]] || {{fb|CRO}} ||align="center"| '''1'''-0 ||align="center"| 3-0 || [[UEFA EURO '96]]
|-
|align="center"| 6. || 1996年9月7日 || {{flagicon|ALB}} [[ティラナ]]、[[ケマル・スタファ・スタジアム]] || rowspan="2" | {{fb|ALB}} ||align="center"| 0-'''1''' || align="center"|0-3 || rowspan="3"|[[1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選]]
|-
|align="center"| 7. || 1997年6月7日 || {{flagicon|POR}} ポルト、エスタディオ・ダス・アンタス || align="center" |'''2'''-0 || align="center"| 2-0
|-
|align="center"| 8. || 1997年8月20日 || {{flagicon|POR}} [[セトゥーバル]]、[[エスタディオ・ド・ボンフィム]] || {{fb|ARM}} ||align="center"| '''2'''-0 || align="center"| 3-1
|-
|align="center"| 9. || 1999年3月31日 || {{flagicon|LIE}} [[ファドゥーツ]]、[[ラインパーク・シュタディオン]] || {{fb|LIE}} ||align="center"| 0-'''2''' ||align="center"| 0-5 || [[UEFA EURO 2000予選]]
|-
|align="center"| 10. || 1999年8月18日 || {{flagicon|POR}} リスボン、[[エスタディオ・ナシオナル (リスボン)]] || {{fb|AND}} ||align="center"| '''3'''-0 ||align="center"| 4-0 || 親善試合
|-
|align="center"| 11. || 1999年9月4日 || {{flagicon|AZE}} [[バクー]]、[[トフィク・バフラモフ・スタジアム]] || {{fb|AZE}} ||align="center"| 1-'''1''' ||align="center"| 1-1 || rowspan="2"|UEFA EURO 2000予選
|-
|align="center"| 12. || 1999年9月8日 || {{flagicon|ROM}} [[ブカレスト]]、[[スタディオヌル・ステアウア]] || {{fb|IRL}} ||align="center"| 1-'''1''' || align="center"| 1-1
|-
|align="center"| 13. || 2000年3月29日 || {{flagicon|POR}} [[レイリア]]、[[エスタディオ・Drマガリャエス・ペッソア]] || {{fb|DEN}} ||align="center"| '''2'''-1 || align="center"| 2-1 || rowspan="2" | 親善試合
|-
|align="center"| 14. || 2000年6月2日 || {{flagicon|POR}} [[シャヴェス]]、[[エスタディオ・ムニシパル・デ・シャヴェス]] || {{fb|WAL}} ||align="center"| '''1'''-0 ||align="center"| 3-0
|-
|align="center"| 15. || 2000年6月12日 || {{flagicon|NED}} [[アイントホーフェン]]、[[フィリップス・スタディオン]] || {{fb|ENG}} ||align="center"| '''1'''-2 ||align="center"| 3-2 || [[UEFA EURO 2000]]
|-
|align="center"| 16. || 2000年8月16日 || {{flagicon|POR}} [[ヴィゼウ]]、[[エスタディオ・ド・フォンテロ]] || {{fb|LTU}} ||align="center"| '''1'''-0 ||align="center"| 5-1 || 親善試合
|-
|align="center"| 17. || 2000年9月3日 || {{flagicon|EST}} [[タリン]]、[[カドリオルグ・スタジアム]] || {{fb|EST}} ||align="center"| 0-'''2''' || align="center"| 1-3 || [[2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選]]
|-
|align="center"| 18. || 2000年11月15日 || {{flagicon|POR}} [[ブラガ]]、[[5月1日スタジアム]] || {{fb|ISR}} ||align="center"| '''1'''-0 ||align="center"| 2-1 || 親善試合
|-
|align="center"| 19. || rowspan="2"|2001年2月28日 || rowspan="2"|{{flagicon|POR}} [[フンシャル]]、[[エスタディオ・ドス・バレイロス]] || rowspan="2"|{{fb|AND}} ||align="center"| '''2'''-0 || align="center" rowspan="2"|3-0 || rowspan="4"|2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
|-
|align="center"| 20. ||align="center"| '''3'''-0
|-
|align="center"| 21. || 2001年3月28日 || {{flagicon|POR}} ポルト、エスタディオ・ダス・アンタス || {{fb|NED}} ||align="center"| '''2'''-2 || align="center"| 2-2
|-
|align="center"| 22. || 2001年6月2日 || {{flagicon|IRL}} [[ダブリン]]、[[ランズダウン・ロード]] || {{fb|IRL}} ||align="center"| 1-'''1''' || align="center"| 1-1
|-
|align="center"| 23. || rowspan="3"|2001年8月15日 || rowspan="3"|{{flagicon|POR}} [[ファロ]]、[[エスタディオ・デ・サン・ルイス]] || rowspan="3"|{{fb|MDA}} ||align="center"| '''1'''-0 || align="center" rowspan="3"|3-0 || rowspan="3"|親善試合
|-
|align="center"| 24. ||align="center"| '''2'''-0
|-
|align="center"| 25. ||align="center"| '''3'''-0
|-
|align="center"| 26. || 2001年10月6日 || {{flagicon|POR}} リスボン、[[エスタディオ・ダ・ルス]] || {{fb|BUL}} ||align="center"| '''5'''-0 ||align="center"| 5-0 || 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
|-
|align="center"| 27. || 2001年11月14日 || {{flagicon|POR}} リスボン、旧エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ || {{fb|ANG}} ||align="center"| '''1'''-1 || align="center"|5-1 || rowspan="6" | 親善試合
|-
|align="center"| 28. || 2003年4月2日 || {{flagicon|SUI}} [[ローザンヌ]]、[[スタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ]] || {{fb|MKD}} ||align="center"| '''1'''-0 || align="center"|1-0
|-
|align="center"| 29. || 2003年10月11日 || {{flagicon|POR}} リスボン、[[エスタディオ・デ・レステロ]] || {{fb|ALB}} ||align="center"| '''1'''-0 ||align="center"| 5-3
|-
|align="center"| 30. || 2003年11月19日 || {{flagicon|POR}} レイリア、エスタディオ・Drマガリャエス・ペッソア || {{fb|KUW}} ||align="center"| '''3'''-0 ||align="center"| 8-0
|-
|align="center"| 31. || 2004年5月29日 || {{flagicon|POR}} [[アゲダ]]、[[エスタディオ・ムニシパル・デ・アゲダ]] || rowspan="2" | {{fb|LUX}} ||align="center"| '''1'''-0 ||align="center"| 3-0
|-
|align="center"| 32. || 2006年6月3日 || {{flagicon|FRA}} [[メス (都市)|メス]]、[[スタッド・ムニシパル・サン=サンフォリアン]] || align="center" |'''3'''-0 ||align="center"| 3-0
|}
|}


== タイトル ==
== タイトル ==
{{col-begin}}
[[File:FigoBallond'Or2000.jpg|thumb|right|200px|[[バロンドール]] 2000年]]
{{col-2}}

=== クラブ ===
=== クラブ ===
; {{Flagicon|POR}} スポルティングCP
;スポルティングCP
* [[タッサ・デ・ポルトガル|ポルトガルカップ]]:1回 (1994-95)
*[[タッサ・デ・ポルトガル|ポルトガルカップ]]:1回 (1994-95)


; {{Flagicon|ESP}} FCバルセロナ
;FCバルセロナ
* [[UEFAカップウィナーズカップ]]:1回 ([[UEFAカップウィナーズカップ 1996-97|1996-97]])
*[[UEFAカップウィナーズカップ]]:1回 ([[UEFAカップウィナーズカップ 1996-97|1996-97]])
* [[UEFAスーパーカップ]]:1回 (1997)
*[[UEFAスーパーカップ]]:1回 (1997)
* [[プリメーラ・ディビシオン|スペインリーグ1部]]:2回 ([[リーガ・エスパニョーラ1997-1998|1997-98]], [[リーガ・エスパニョーラ1998-1999|1998-99]])
*[[プリメーラ・ディビシオン|スペインリーグ1部]]:2回 ([[リーガ・エスパニョーラ1997-1998|1997-98]], [[リーガ・エスパニョーラ1998-1999|1998-99]])
* [[コパ・デル・レイ]] : 2回 (1996-97, 1997-98)
*[[コパ・デル・レイ]] : 2回 (1996-97, 1997-98)
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ|スペインスーパーカップ]]:1回 (1996)
*[[スーペルコパ・デ・エスパーニャ|スペインスーパーカップ]]:1回 (1996)


; {{Flagicon|ESP}} レアル・マドリード
;レアル・マドリード
* [[プリメーラ・ディビシオン|スペインリーグ1部]]:2回 ([[リーガ・エスパニョーラ2000-2001|2000-01]], [[リーガ・エスパニョーラ2002-2003|2002-03]])
*[[プリメーラ・ディビシオン|スペインリーグ1部]]:2回 ([[リーガ・エスパニョーラ2000-2001|2000-01]], [[リーガ・エスパニョーラ2002-2003|2002-03]])
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ|スペインスーパーカップ]]:2回 (2001, 2003)
*[[スーペルコパ・デ・エスパーニャ|スペインスーパーカップ]]:2回 (2001, 2003)
* [[UEFAチャンピオンズリーグ]]:1回 ([[UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02|2001-02]])
*[[UEFAチャンピオンズリーグ]]:1回 ([[UEFAチャンピオンズリーグ 2001-02|2001-02]])
* [[UEFAスーパーカップ]]:1回 (2002)
*[[UEFAスーパーカップ]]:1回 (2002)
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]:1回 (2002)
*[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]:1回 (2002)


; {{Flagicon|ITA}} インテル・ミラノ
;インテル・ミラノ
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* [[コッパ・イタリア]]:1回 (2005-06)
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* [[スーペルコッパ・イタリアーナ]]:3回(2005, 2006, 2008)
*[[スーペルコッパ・イタリアーナ]]:3回(2005, 2006, 2008)


=== 代表 ===
;U-20ポルトガル代表
*[[FIFAワールドユース選手権]]:1回(1991)

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=== 個人 ===
=== 個人 ===
*[[バロンドール|欧州年間最優秀選手]]:1回 (2000)
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* [[バロンドール|欧州年間最優秀選手]]:1回 (2000)
*[[ールドサッカー (雑誌)#世界最優秀選手賞|英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手]]:1回 (2000)
* [[ワールドサッカー (雑誌)#世界最優秀選手賞|英誌ワールドサッカー選出世界年間最優秀選手]]:1回 (2000)
*[[FIFA最優秀選手賞]]:1回 (2001)
*[[ドン・バロン・アワード|リーガ・エスパニョーラ最優秀外国人選手]]:3回 (1998-99, 1999-2000, 2000-01)
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*ポルト最優秀選手:6回 (1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000)
* ポルト最優秀選手:6回 (1995, 1996, 1997, 1998, 1999, 2000)
*[[プリメイラ・リー]]最優秀選手:1回 (1994)
* [[プリメラ・リーガ]]最優秀選手:1回 (1994)
*[[UEFAベストレブン]]:1回 (2003)
*[[FIFA 100]]
* [[UEFAベストイレブン]]:1回 (2003)

* [[FIFA 100]]
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== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 外部リンク ==
==外部リンク==
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2024年12月28日 (土) 13:15時点における最新版

ルイス・フィーゴ
2023年のフィーゴ
名前
本名 ルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴ
Luís Filipe Madeira Caeiro Figo
愛称 フィーゴ、白豹
ラテン文字 Luís Figo
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1972-11-04) 1972年11月4日(52歳)
出身地 リスボン
身長 180cm[1]
体重 75kg
選手情報
ポジション MFAMFRSMF[2][3]
利き足 右足
ユース
1984-1989 ポルトガルの旗 スポルティングCP
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1989-1995 ポルトガルの旗 スポルティングCP 137 (16)
1995-2000 スペインの旗 FCバルセロナ 172 (30)
2000-2005 スペインの旗 レアル・マドリード 164 (38)
2005-2009 イタリアの旗 インテル・ミラノ 105 (9)
通算 570 (93)
代表歴
1988-1989  ポルトガル U-16 15 (8)
1989  ポルトガル U-17 6 (2)
1988-1990  ポルトガル U-18 21 (8)
1990-1991  ポルトガル U-20 12 (0)
1991-1994  ポルトガル U-21 7 (0)
1991-2006 ポルトガルの旗 ポルトガル 127 (32)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ルイス・フィーゴことルイス・フィリペ・マデイラ・カエイロ・フィーゴLuís Filipe Madeira Caeiro Figo[luˈiʃ fɨˈlipɨ mɐˈðɐjrɐ kɐˈɐjru figu]1972年11月4日 - )は、ポルトガルリスボン出身の元サッカー選手。元同国代表。現役時代のポジションはMF[2][4]攻撃的MF右サイドMFを主戦場としていた[5][3]。原語の発音により忠実な発音は「ルイーシュ・フィリーぺ・マデイラ・カエイロ・フィーグ」。

フィーゴはポルトガル代表として127試合に出場するなど、黄金世代の中心選手として長らく代表を支えた[5]。その創造性とドリブル技術の高さから、1990年代で最も偉大な選手の一人とも評されている[6][7]リーガ・エスパニョーラでは通算106アシストを記録しており、これはリオネル・メッシに次ぐ歴代二位の記録である[8]。2000年にはバロンドールを受賞し、翌年の2001年にはFIFA最優秀選手賞を受賞した。2004年にはペレが作成した偉大な100人のサッカー選手のリスト、FIFA 100にも選出されている[9]。フィーゴは、スペインにおけるライバルチームとして知られるFCバルセロナレアル・マドリードの双方でプレーした選手の一人でもある。2000年に6000万ユーロでバルセロナからレアル・マドリードに移籍した際は、大きな物議となった[10]

来歴

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幼少期

[編集]

1972年11月4日、父アントニオ・カエイロ・フィーゴと母マリア・ジョアナ・ペスターナ・マデイラの一人息子として生まれる。幼少期は、アルマダの労働者階級の地区コヴァ・ダ・ピエダーデ英語版で育った。

スポルティングCP

[編集]
チャリティマッチでプレイするフィーゴ(2014年)

フィーゴはストリートでサッカーを始め、11歳の時、ポルトガルのスポルティングCPの下部組織に入団した。あまりの学業の優秀さから、入団する際の同意書には「サッカーに専念すること」という内容が含まれていた[11]。1989年からトップチームに昇格し、1994年にはプリメイラ・リーガ最優秀選手、1995年にはポルトガル最優秀選手に選出された。

バルセロナ

[編集]

1995年にユヴェントスFCパルマFCが獲得に興味を示した。ユヴェントスとの仮契約を結んだ後に、より好条件を提示したパルマと契約し二重契約の状態となった[12]。そのためユヴェントスはイタリアサッカー連盟に契約の不服を訴え、協議裁定の結果、フィーゴはその後2年間の間イタリアのクラブと契約を締結する事を禁止された。この出来事がきっかけでリスボンで居場所がなくなり、同年に移籍金225万ポンドでスペインFCバルセロナへ移籍。契約的にはパルマの選手でありながら、バルセロナの選手でもある形になっていたが、1996年夏にパルマはフィーゴの所有権をバルセロナに売却した。パトリック・クライファートリバウドと共に3トップを形成し、国内外の数々のタイトルを獲得する原動力となり、ドリーム・チーム以降のバルセロナのシンボルとして支持を得た[5]2000年には、欧州年間最優秀選手を受賞した[5]

禁断の移籍

[編集]

2000年7月、フィーゴはバルセロナのライバルチームであるレアル・マドリードに、6000万ユーロの金額で電撃移籍を果たした[13]。この「禁断の移籍」は、激怒したバルセロナ・サポーターが、フィーゴ自身が経営するバルセロナ市内の日本料理店を破壊するという騒動にまで発展した[14]。そのため引退した現在もなお、ペセテーロ(守銭奴)と呼び彼を許さないバルセロニスタも多い。しかし、後にフィーゴは「バルサを去ったのは、お金のためではなく、クラブから評価を受けられなかったからだ。」と、金のための移籍ではなかったことを明かした[15][16]

2000年10月に行われたレアル・マドリードへの移籍後初のカンプ・ノウでのバルセロナとの試合では、フィーゴがボールに触れれば即ブーイングが起き、「守銭奴」フィーゴの顔を印刷した100億ペセタ(移籍金)のニセ札が投げ込まれた。また、2002年11月の同スタジアムにおける試合では、フィーゴがコーナーキックを蹴ろうとした際はスタンドからビンやゴミやペットボトル、さらには子豚の頭まで投げ入れられた[17][18]。また、EURO2004ギリシャとの決勝戦でも、試合中にFCバルセロナの旗を持ったバルセロナ・サポーターの男性がピッチに乱入する場面があった[19]

この移籍によるバルセロナとの遺恨は引退後も残っており、2015年にはチャンピオンズリーグ決勝の前日に決勝を戦う両クラブ(バルセロナとユヴェントスFC)の元所属選手が世界選抜と試合をするフレンドリーマッチにおいて、UEFAはバルセロナのレジェンドとしてフィーゴを招待したものの、バルセロナがこれを拒否しフィーゴは試合に参加しなかった[20][21]

このような騒動があったにもかかわらず、フィーゴにとってバルセロナ時代は思い出深いものらしく、インタビューでは「バルセロナで過ごした時間は、最高に素晴らしい日々だった[22][23]」と振り返っている。その一方で、「レアル・マドリードへの移籍という判断に後悔は無い[24]」、「バルセロナでは自分が悪役であっても構わない[23]」とも語っている。

レアル・マドリード

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レアル・マドリードでは、伝統的なライバル間の移籍というプレッシャーの中、ラウル・ゴンサレスロベルト・カルロス、翌2001年に加入したジネディーヌ・ジダンらと共に攻撃陣を形成し、銀河系軍団と称されるレアル・マドリードの黄金期の中心選手となり、自身も2001年にはFIFA最優秀選手賞を受賞した。また、同クラブ在籍中にはリーガ通算100アシストという記録も達成した。

2004-05シーズンは、レギュラーとして序盤は右サイドで、2005年1月にバランサーとしてトーマス・グラヴェセンが加入してからはスポルティングCP在籍時以来のトップ下でプレーし、まずまずのパフォーマンスを見せていたが、終盤にルシェンブルゴ監督との確執が生じ、それ以降は先発出場が激減した。

インテル・ミラノ

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2005-06シーズンからはインテルへ移籍し、活躍の場をイタリアへ移した[25]セリエAでもUEFAチャンピオンズリーグでも中盤の右サイドで活躍した。

2006年12月にサウジ・プレミアリーグの強豪アル・イテハドへのレンタル移籍が取り沙汰され、シーズン終了後の移籍が正式に発表されたが、クラブ側の契約内容不履行(具体的にどのようなことであったかは不明)を理由に移籍は消滅した[26][27]。プレー続行を希望するインテル側の要望に応え、2007-08シーズンもインテルで戦うことを決定した[28]。しかし、起用法などから徐々にロベルト・マンチーニ監督との確執が表面化し、「来シーズンもマンチーニが残るなら移籍する」という旨の発言をした。その後、2008-09シーズンからは同胞のジョゼ・モウリーニョがインテルの監督に就任、「経験を生かし、若手の指南役になってほしい」との意見を聞き、フィーゴはインテルに残ることとなった。

同シーズン、2009年5月30日に、現役引退をインテルの公式サイトで発表した[29]。そして、5月31日アタランタ戦を最後に現役を引退した[30]

ポルトガル代表

[編集]
ポルトガル代表時代のフィーゴ

1991年にはポルトガルU-20代表としてFIFAワールドユース選手権優勝に貢献[5]ルイ・コスタパウロ・ソウザフェルナンド・コウトジョアン・ピントらと共にポルトガルの将来を担う「ゴールデン・ジェネレーション黄金の世代)」と呼ばれた[5]

1991年10月16日ルクセンブルクとの親善試合で代表デビューを飾った[31]。当時18歳でプロデビューして間もない若手選手であったが、ゴールデン・ジェネレーションと呼ばれた仲間達と共に代表に定着し2度のワールドカップ(2002 FIFAワールドカップ2006 FIFAワールドカップ)、3度の欧州選手権(EURO1996EURO2000EURO2004)に出場した[5]

2000年のEURO2000では初戦のイングランド戦で0-2のビハインドから見事なミドルシュートを決め逆転勝利の口火を切り、準々決勝のトルコ戦ではヌーノ・ゴメスへ2アシストの活躍でベスト4へ導いた。

その後、一度は代表引退を表明していたが、2006 FIFAワールドカップ予選で復帰し、ポルトガル代表は無敗で予選を通過した。本大会では、グループリーグ初戦のアンゴラ戦では得意のドリブルからアシストを見せるなど、ポルトガルの40年ぶりのベスト4進出に貢献。ドイツとの3位決定戦を最後に、代表から引退した[31]

代表での通算出場試合数は127試合、通算得点数は32得点であり、通算出場試合数の記録は2016年にクリスティアーノ・ロナウドに更新されるまでポルトガル代表の歴代最多記録だった[32][33]

引退後

[編集]

引退後はインテルの幹部に就任した[34]。2015年の国際サッカー連盟FIFA会長選へ向けて、立候補を表明していた[35] が、選挙期間中に討論や演説の機会を十分に与えられなかったとして立候補を取り下げた[36]

選手としての特徴

[編集]

スピードに乗った切れ味鋭いドリブルを武器とする。攻撃的ミッドフィルダーで特に右サイドを得意としている[37]

個人成績

[編集]
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ポルトガル リーグ戦 リーグ杯ポルトガル杯 期間通算
1990-91 スポルティングCP 24 プリメイラ 3 0
1991-92 7 34 1 7 0
1992-93 32 0 8 1
1993-94 31 8 1 0
1994-95 34 7 7 3
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
1995-96 FCバルセロナ 7 プリメーラ 35 5 8 1
1996-97 36 4 9 2
1997-98 35 5 4 0
1998-99 34 7 10 1
1999-00 32 9 2 0
2000-01 レアル・マドリード 10 34 9 1 0
2001-02 28 7 6 1
2002-03 33 10 1 0
2003-04 36 8 8 3
2004-05 33 3 0 0
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2005-06 インテル・ミラノ 7 セリエA 34 5 3 0
2006-07 32 2 7 0
2007-08 17 1 1 0
2008-09 22 1 - -
通算 ポルトガル プリメイラ 134 16 23 4
スペイン プリメーラ 336 67 49 8
イタリア セリエA 105 9 11 0
総通算 575 92 84 12

代表歴

[編集]

出場大会

[編集]

試合数

[編集]
  • 国際Aマッチ 127試合 32得点(1991年-2006年)[38][31]


ポルトガル代表国際Aマッチ
出場得点
1991 3 0
1992 7 1
1993 5 0
1994 5 2
1995 6 1
1996 9 2
1997 7 2
1998 6 0
1999 9 4
2000 13 6
2001 9 9
2002 10 0
2003 10 3
2004 11 1
2005 7 0
2006 10 1
通算 127 32

得点

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# 開催年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1. 1992年11月11日 フランスの旗 パリスタッド・ド・パリ  ブルガリア 1-1 2-1 親善試合
2. 1994年10月9日 ラトビアの旗 リガダウガヴァ・スタジアム  ラトビア 0-3 1-3 UEFA EURO '96予選
3. 1994年11月13日 ポルトガルの旗 リスボン、旧エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ  オーストリア 1-0 1-0
4. 1995年6月3日 ポルトガルの旗 ポルトエスタディオ・ダス・アンタス  ラトビア 1-0 3-2
5. 1996年6月19日 イングランドの旗 ノッティンガムシティ・グラウンド  クロアチア 1-0 3-0 UEFA EURO '96
6. 1996年9月7日 アルバニアの旗 ティラナケマル・スタファ・スタジアム  アルバニア 0-1 0-3 1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
7. 1997年6月7日 ポルトガルの旗 ポルト、エスタディオ・ダス・アンタス 2-0 2-0
8. 1997年8月20日 ポルトガルの旗 セトゥーバルエスタディオ・ド・ボンフィム  アルメニア 2-0 3-1
9. 1999年3月31日 リヒテンシュタインの旗 ファドゥーツラインパーク・シュタディオン  リヒテンシュタイン 0-2 0-5 UEFA EURO 2000予選
10. 1999年8月18日 ポルトガルの旗 リスボン、エスタディオ・ナシオナル (リスボン)  アンドラ 3-0 4-0 親善試合
11. 1999年9月4日 アゼルバイジャンの旗 バクートフィク・バフラモフ・スタジアム  アゼルバイジャン 1-1 1-1 UEFA EURO 2000予選
12. 1999年9月8日 ルーマニアの旗 ブカレストスタディオヌル・ステアウア  アイルランド 1-1 1-1
13. 2000年3月29日 ポルトガルの旗 レイリアエスタディオ・Drマガリャエス・ペッソア  デンマーク 2-1 2-1 親善試合
14. 2000年6月2日 ポルトガルの旗 シャヴェスエスタディオ・ムニシパル・デ・シャヴェス  ウェールズ 1-0 3-0
15. 2000年6月12日 オランダの旗 アイントホーフェンフィリップス・スタディオン  イングランド 1-2 3-2 UEFA EURO 2000
16. 2000年8月16日 ポルトガルの旗 ヴィゼウエスタディオ・ド・フォンテロ  リトアニア 1-0 5-1 親善試合
17. 2000年9月3日 エストニアの旗 タリンカドリオルグ・スタジアム  エストニア 0-2 1-3 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
18. 2000年11月15日 ポルトガルの旗 ブラガ5月1日スタジアム  イスラエル 1-0 2-1 親善試合
19. 2001年2月28日 ポルトガルの旗 フンシャルエスタディオ・ドス・バレイロス  アンドラ 2-0 3-0 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
20. 3-0
21. 2001年3月28日 ポルトガルの旗 ポルト、エスタディオ・ダス・アンタス  オランダ 2-2 2-2
22. 2001年6月2日 アイルランドの旗 ダブリンランズダウン・ロード  アイルランド 1-1 1-1
23. 2001年8月15日 ポルトガルの旗 ファロエスタディオ・デ・サン・ルイス  モルドバ 1-0 3-0 親善試合
24. 2-0
25. 3-0
26. 2001年10月6日 ポルトガルの旗 リスボン、エスタディオ・ダ・ルス  ブルガリア 5-0 5-0 2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選
27. 2001年11月14日 ポルトガルの旗 リスボン、旧エスタディオ・ジョゼ・アルヴァラーデ  アンゴラ 1-1 5-1 親善試合
28. 2003年4月2日 スイスの旗 ローザンヌスタッド・オランピック・ドゥ・ラ・ポンテーズ  北マケドニア 1-0 1-0
29. 2003年10月11日 ポルトガルの旗 リスボン、エスタディオ・デ・レステロ  アルバニア 1-0 5-3
30. 2003年11月19日 ポルトガルの旗 レイリア、エスタディオ・Drマガリャエス・ペッソア  クウェート 3-0 8-0
31. 2004年5月29日 ポルトガルの旗 アゲダエスタディオ・ムニシパル・デ・アゲダ  ルクセンブルク 1-0 3-0
32. 2006年6月3日 フランスの旗 メススタッド・ムニシパル・サン=サンフォリアン 3-0 3-0

タイトル

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ Figo Stats”. FootballDatabase.com. 23 December 2006閲覧。
  2. ^ a b “ルイス・フィーゴ”. レアル・マドリード. https://www.realmadrid.com/ja/about-real-madrid/history/football-legends/luis-filipe-madeira-caeiro 2023年11月7日閲覧。 
  3. ^ a b AERA 第968〜981号』2005年2月〜2006年3月発行、6頁
  4. ^ “歴代最強イレブン ポルトガル 特集”. 時事ドットコム. https://www.jiji.com/sp/d4?p=por214&d=d4_ftbnn 2023年11月7日閲覧。 
  5. ^ a b c d e f g 週刊サッカーマガジン 編『サッカーマルチ大事典 改訂版』ベースボール・マガジン社、2006年、380-381頁。ISBN 4-583-03880-1 
  6. ^ “EURO 2000 Profile: Luis Figo”. BBC Sport. (14 May 2000). http://news.bbc.co.uk/2/hi/euro2000/teams/portugal/squad/744857.stm 29 July 2012閲覧。 
  7. ^ “Figo best in world”. BBC News. (17 December 2001). http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/1715960.stm 30 july 2018閲覧。 
  8. ^ “Crisis? What crisis? Harmony restored as Barcelona close gap on Madrid”. Goals.com. (9 February 2015). http://www.goal.com/en-gb/news/3277/la-liga/2015/02/08/8743632/crisis-what-crisis-harmony-restored-as-barcelona-close-gap 
  9. ^ Pele's list of the greatest”. BBC Sport (4 March 2004). 19 June 2014閲覧。
  10. ^ "The history of the world transfer record". BBC News. Retrieved 1 May 2014
  11. ^ Expert Footballによる情報”. AFP (23 June 2012). 2012年6月23日閲覧。
  12. ^ ルイス・フィーゴの過去の移籍問題 - サカソク 2015年11月25日配信 2018年7月30日閲覧(アーカイブ
  13. ^ Nash, Elizabeth (25 July 2000). “Figo defects to Real Madrid for record £36.2m”. The Independent (London). http://www.independent.co.uk/sport/football/internationals/figo-defects-to-real-madrid-for-record-pound372m-709465.html 11 May 2010閲覧。 
  14. ^ 過去にもミカエル・ラウドルップベルント・シュスターなどバルセロナからレアル・マドリードに移籍した選手はいたが、フィーゴの場合は移籍の2日前に会見でファンに向けて「移籍は無い」と発言し、また、移籍の理由が「年俸が多い」という理由だったと報じられたため、ファンの怒りを買った。
  15. ^ フィーゴがレアル移籍の真相を明かす「お金のためではない」 - livedoor News 2011年11月19日配信 2018年7月30日閲覧(アーカイブ
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外部リンク

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