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=== 南京攻略戦 === |
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1937年[[ |
1937年7月に始まった[[日中戦争]]は、8月には華北から上海に日中両軍の戦場が移った([[第二次上海事変]])。8月から日本海軍は、[[渡洋爆撃]]とよばれる海軍機による空爆を南京などの有力都市に行い、軍事的な成果を上げる。一方、日本陸軍の[[上海派遣軍]]は、[[国民革命軍|中国軍]]の抵抗もあって、大きな被害を出しつつも膠着状態であった。しかし、その後陸軍も、増派によって形勢は日本に有利となる。11月5日には、[[杭州湾]]に上陸した日本陸軍[[第10軍 (日本軍)|第10軍]]に背後を襲われた中国軍は、上海方面より潰走する。<ref> 「南京事件」、[[笠原十九司]]、岩波新書、1997、17-72頁</ref>。中国軍は撤退のときに日本軍の侵攻を不利にするため、逃げる行きずりに「堅壁清野作戦」と称して、民家に押し入りめぼしいものを略奪したうえで火を放ったとされる<ref name="Takayama64">[[高山正之]]「日本を潰せ 上海・南京・武漢 支那の背後にちらつく露・独・米の影」『白い人が仕掛けた黒い罠 アジアを解放した日本兵は偉かった』、ワック、2011年8月4日、ISBN 978-4-89831-163-9、64頁。</ref>。 |
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11月7日に[[松井石根]]司令官率いる[[上海派遣軍]]は、[[第10軍 (日本軍)|第10軍]]とともに、両軍の上位に編成した[[中支那方面軍]]に改編された。[[中支那方面軍]]は[[松井石根]]が司令官となり、軍中央の方針を無視して、撤退する[[国民革命軍|中国軍]]の追撃を始め、首都南京への侵攻をも目指した。12月1日]には軍中央が、現地軍の方針を追認する形で[[中支那方面軍]]に対し南京攻略命令を下達する。しかし、日本軍の進撃は、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であったこともあり、南京行政区内での日本軍の略奪につながる。<ref> 「南京事件」、[[笠原十九司]]、岩波新書、1997、45-106頁</ref>。 |
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=== 南京入城までの両軍の動向 === |
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;日本側 |
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中国(中華民国)側は、11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議を行い、南京から[[重慶]]に遷都するものの、ドイツを仲介にした日本との和平工作([[トラウトマン工作|トラウトマン和平調停工作]])に期待し、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日、[[蒋介石]]は、南京防衛司令官に[[唐生智]]を任命し、[[重慶]]遷都を宣言し、暫定首都となる[[漢口]]に中央諸機関の移動を始めた。11月下旬、南京防衛軍の動員兵力は約7万人から緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、中には十分な訓練のない兵士を含めて大幅に増員される。日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本留学生などを「[[漢奸]]狩り」と称して殺害する事件も相次いだ。<ref name="tsuji193712">辻英二「スパイ嫌疑で二千名銃殺 敗戦支那の苦悶する姿」『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1937年12月1日)</ref><ref> 「南京事件」、[[笠原十九司]]、岩波新書、1997、109-140頁頁</ref>。 |
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;中国(中華民国)側 |
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1937年[[11月5日]]、中国軍は、[[杭州湾]]に上陸した日本陸軍[[第10軍 (日本軍)|第10軍]]に背後を襲われる形となり、{{要出典範囲|date=2015-06-08|指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却した}}。{{要出典範囲|date=2015-06-08|[[11月15日]]から[[11月18日]]にかけて、南京において高級幕僚会議が行われ、[[トラウトマン工作|トラウトマン和平調停工作]]の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まった}}。[[11月20日]][[蒋介石]]は南京防衛司令官に[[唐生智]]を任命し、同時に[[重慶]]に遷都することを宣言し、暫定首都となる[[漢口]]に中央諸機関の移動を始めた。 |
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日本軍入城以前の南京では、日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本留学生などを「[[漢奸]]狩り」と称して殺害する事件が相次いでいた。<ref name="tsuji193712">辻英二「スパイ嫌疑で二千名銃殺 敗戦支那の苦悶する姿」『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1937年12月1日)</ref> |
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12月7日には南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を脱出した。後を任された南京防衛司令官の[[唐生智]]も12月12日に逃亡した。その際に、撤退命令の不徹底により中国軍側は混乱し、[[挹江門事件]]による同士討ちまでも始まる。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は、12月9日には南京城を包囲し、同軍司令官の松井石根は、中国軍に対し翌日正午を期限とする投降勧告を行った。しかし、[[国民革命軍|中国軍]]がこの投降勧告に応じなかったため、日本軍は、12月10日より総攻撃を開始。12月13日に南京は陥落し、日本軍は入城した。<ref> 「南京事件」、[[笠原十九司]]、岩波新書、1997、109-140頁</ref>。 |
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⚫ | 12月29日、[[上海派遣軍]]は「南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である」と発表した<ref>社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年)、156頁</ref><ref>『朝日新聞』昭和12年12月30日掲載</ref>。しかし、翌年1月、敵の損害は約八万、うち遺棄死体は約五万三、八七四」と算定した<ref name="ShinajihenRikugun436">[[#支那事変陸軍作戦 1|支那事変陸軍作戦 1]]、436頁。</ref>。これにつき、[[防衛庁]][[防衛研修所]]戦史室の『[[戦史叢書]]』は「日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい」<ref name="ShinajihenRikugun436"/>とし、[[偕行社]]の『[[南京戦史]]』は「上海派遣軍発表の遺棄死体数は、中国防衛軍の総兵力判断6~7万と比べ著しく過大である」<ref>[[#南京戦史 (1993)|南京戦史 (1993)]]、300頁。</ref> |
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=== 一般市民への被害 === |
=== 一般市民への被害 === |
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中 |
日中戦争での日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初である。南京占領まで50回以上の空爆が南京に対して行われ、中国側の記録では二か月で400人近くの市民が死亡した<ref> 「南京事件」、[[笠原十九司]]、岩波新書、1997、17-42頁</ref>。空襲の後、多くの南京市民が市街から避難したため100万人を越えると言われた南京城市の人口はその後大きく減少していく。その後、11月に日本陸軍の[[中支那方面軍]]が南京の周辺の農村地域である行政区(日本の東京・神奈川・埼玉を含めた広さ)に侵入するが、日本軍による農村部などでの非人道的行為(後述)により、行政区域からの被災者が数多く南京城市に流れ込む現象も起きた<ref> 「南京事件」、[[笠原十九司]]、岩波新書、1997、75-106頁 115頁</ref>。そして、12月13日の日本軍による南京城市陥落の前後に城外に出ようとした市民を中心に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が数多く存在した<ref>例として、兵士とともに市民(婦女子も含む)が銃撃を受けて殺されたり(「最後の殿様 徳川義親自伝」徳川義親、講談社、1973年、170-173頁)、[[夏淑琴]]のようになどが殺害されたと証言した例もある([[夏淑琴#新路口事件の概要|新路口事件]])</ref>。一方、南京城内に残ることに決めたほとんどの市民は、城市内の{{仮リンク|南京安全区|en|Nanking Safety Zone}}(以下に「南京安全区」の説明)に避難したが、その後の占領時の一定期間(6週間程度など諸説あり)に安全区の内外でも被害にあった市民が存在した。南京事件の一般市民の被害とは通常、「南京陥落の前後」とその後の「占領時の被害」を指す。 |
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⚫ | {{仮リンク|南京安全区|en|Nanking Safety Zone}}とは、南京城市在住の欧米人が戦火中を残って活動した[[南京安全区国際委員会]]によって設置され、委員会が指定した区域である。南京攻略戦を前にした11月、近い将来に南京城市が戦争に巻き込まれたときのためにアメリカ人宣教師([[ジョン・マギー]]、[[マイナー・シール・ベイツ]]や女性宣教師[[ミニー・ヴォートリン]]など)を中心とする15名ほどによって組織された[[南京安全区国際委員会]](なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone 別称:南京難民区国際委員会)は、戦災に巻き込まれて南京城市から避難できない市民などを救済するために、南京城市内に安全区(難民区)を設定することを試み、アメリカ大使館に協力を依頼した。南京安全区は南京城市内の北西部に指定され、面積は約4平行キロで城市内全域の1割程度の広さであり、外国人の施設や邸宅が多くある地区が選ばれた。ドイツのジーメンス南京支社の支配人である[[ジョン・ラーベ]]が安全区国際委員会の委員長となり、南京陥落前の12月8日に安全区への南京市民の避難を呼びかけた。安全区は被災民によって南京陥落直後は約20万人(諸説あり)であり、南京城市内の安全区外には非常に住民が少ない状況となった。<ref>「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 [[笠原十九司]] [[岩波現代文庫]] [[岩波書店]]78-82頁</ref>。 |
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南京占領後の中国人市民への救援が、南京在住の欧米人が戦火の南京に残って活動した[[南京安全区国際委員会]]によって設置され、委員会が指定した{{仮リンク|南京安全区|en|Nanking Safety Zone}}(難民区)に多くの被災民が逃げ込み、安全区域に避難できた(以下に説明)。 |
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⚫ | 日本側は、安全区には砲撃もせず(いわゆるラーベ感謝状に記載)、組織的な殺戮も起こしていない。しかし、安全区国際委員会の関係者の記録、つまり、[[ジョン・ラーベ]]の日記(日本語訳「南京の真実」)、(日本大使館への抗議交渉を行った)[[マイナー・シール・ベイツ]]の証言、[[ジョン・マギー]]の証言や残したフィルム(マギー・フィルム)、多くの中国人女性を保護した[[ミニー・ヴォートリン]]の日記(日本語訳「南京事件の日々」)、アメリカ人大学教員[[ルイス・S・C・スマイス]]の調査した「南京地区における戦争被害」(スマイス報告)などには、日本軍の市民への暴行・殺傷行為(安全区へ逃亡した中国兵掃討に関する誤認逮捕・処刑も含む)の情報が含まれている。<ref>「南京の真実」ジョン・ラーベ 講談社文庫2000年、「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」 ミニー・ヴォートリン 大月書店 1999年、「ドイツ外交官の見た南京事件」 大月書店 2001年、「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 [[笠原十九司]] [[岩波現代文庫]] [[岩波書店]]</ref> |
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⚫ | 南京攻略戦を前にした11月、近い将来に南京が戦争に巻き込まれたときのためにアメリカ人宣教師([[ジョン・マギー]]、[[マイナー・シール・ベイツ]]や女性宣教師[[ミニー・ヴォートリン]]など)を中心とする15名ほどによって組織された[[南京安全区国際委員会]](なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone 別称:南京難民区国際委員会)は、戦災に巻き込まれ |
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⚫ | 日本側は、安全区には砲撃もせず(いわゆるラーベ感謝状に記載)、組織的な殺戮も起こしていない。しかし、安全区国際委員会 |
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以上に述べた日本側の殺害、暴行、略奪等の内容や規模やその真偽についての論争があり、以下にその議論が詳しく記載されている。 |
以上に述べた日本側の殺害、暴行、略奪等の内容や規模やその真偽についての論争があり、以下にその議論が詳しく記載されている。 |
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{{Main2|議論|南京事件論争#一般市民に関して }} |
{{Main2|議論|南京事件論争#一般市民に関して }} |
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なお、南京城市とその周辺ではなく、南京行政区という広大な農村部を中心とした地域において、日本軍は住民の殺害・強姦・強奪をそれも安全区の住民よりもより非道かつ過酷な例も含めて行ったとされる<ref> 「南京事件」、[[笠原十九司]]、岩波新書、1997、75-106頁</ref>が、これも一部の研究者の意見は南京事件の被害に含めている。 |
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===投降兵の処遇=== |
===投降兵の処遇=== |
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=== 外国メディアによる報道 === |
=== 外国メディアによる報道 === |
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[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、『{{仮リンク|シカゴ・デイリーニューズ|en|Chicago Daily News}}』や『[[ニューヨーク・タイムズ]]』、中華民国内では『[[大公報]]』などのマスコミによって “Nanking Massacre Story”, “The Rape of Nanking”, “Nanking Atrocities” として報道された。南京に在留していた[[ジャーナリスト]]は日本軍の南京占領後しばらくした12月15日には脱出したものの、事件初期の3日間において見聞きした日本軍の捕虜の殺害、民間人への強姦や略奪などの行為を脱出後に報道した<ref>『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会編訳 青木書店 1992 556-561頁</ref>。 |
[[アメリカ合衆国|アメリカ]]では、『{{仮リンク|シカゴ・デイリーニューズ|en|Chicago Daily News}}』や『[[ニューヨーク・タイムズ]]』、中華民国内では『[[大公報]]』などのマスコミによって “Nanking Massacre Story”, “The Rape of Nanking”, “Nanking Atrocities” として報道された。南京に在留していた[[ジャーナリスト]]は日本軍の南京占領後しばらくした12月15日・16日には脱出したものの、事件初期の3日間において見聞きした日本軍の捕虜の殺害、民間人への強姦や略奪などの行為を脱出後に報道した<ref>『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会編訳 青木書店 1992 556-561頁</ref>。 |
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ただし、これ等の外国人記者の報道についての信頼性については、以下のとおりに論議がある。 |
ただし、これ等の外国人記者の報道についての信頼性については、以下のとおりに論議がある。 |
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南京攻略戦のとき、中国政府や中国軍の上層部は、多くの兵士を南京から脱出させずに置き去りにしたまま(しかも逃げる際は長江を渡るという困難があるなど完全置き去り)であり、中国軍上層部は(兵士の保護に必要な)戦時国際上の正式な降伏を行わないで逃走した。また、南京市内の一般民衆への人道的な民衆への配慮は中国政府側に非常に少なく、一方で欧米人牧師の尽力による人道的な対応が被災民になされたために、多くの民衆が保護されたこと<ref>波多野澄雄・庄司潤一郎 「<近現代史> 第1期「日中歴史共同研究」報告書」より 第2部 第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 第 1 節 盧溝橋事件の発生と全面戦争への拡大 4)南京攻略と南京虐殺事件. (2010年1月31日). 外務省とりまとめ 。戦時国際法の部分は、佐藤和男「南京事件と戦時国際法」、『正論』2001年3月号、産業経済新聞社、 317頁を参照。</ref>、などから中国政府や中国軍の対応が理解できる。 |
南京攻略戦のとき、中国政府や中国軍の上層部は、多くの兵士を南京から脱出させずに置き去りにしたまま(しかも逃げる際は長江を渡るという困難があるなど完全置き去り)であり、中国軍上層部は(兵士の保護に必要な)戦時国際上の正式な降伏を行わないで逃走した。また、南京市内の一般民衆への人道的な民衆への配慮は中国政府側に非常に少なく、一方で欧米人牧師の尽力による人道的な対応が被災民になされたために、多くの民衆が保護されたこと<ref>波多野澄雄・庄司潤一郎 「<近現代史> 第1期「日中歴史共同研究」報告書」より 第2部 第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 第 1 節 盧溝橋事件の発生と全面戦争への拡大 4)南京攻略と南京虐殺事件. (2010年1月31日). 外務省とりまとめ 。戦時国際法の部分は、佐藤和男「南京事件と戦時国際法」、『正論』2001年3月号、産業経済新聞社、 317頁を参照。</ref>、などから中国政府や中国軍の対応が理解できる。 |
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しかし、日本側の事件についての軍や兵士の問題はなかったか、については当時の資料や証言から考察できるが、以下にその論議が記載されている。 |
しかし、日本側の事件についての軍や兵士の問題はなかったか、については当時の資料や証言から考察できるが、以下にその論議が記載されている。 |
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このような起訴方針についてオランダとフィリピン(戦後アメリカの[[植民地]]から独立)、中華民国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中華民国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた{{Citation needed|date=2015-03}}。 |
このような起訴方針についてオランダとフィリピン(戦後アメリカの[[植民地]]から独立)、中華民国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中華民国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた{{Citation needed|date=2015-03}}。 |
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東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(訴因53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた<ref>[[#日暮 (2008)|日暮 (2008)]]、116頁</ref><ref>[[#日暮 (2002)|日暮 (2002)]]{{要ページ番号|date=2012年7月}}</ref>。 |
東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(訴因53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた<ref>[[#日暮 (2008)|日暮 (2008)]]、116頁</ref><ref>[[#日暮 (2002)|日暮 (2002)]]{{要ページ番号|date=2012年7月}}</ref>。ただし、南京事件への対応が不十分であるために死刑の判決を受けたとされる南京事件時の元外相の広田弘毅の訴因は、第一類と第三類であった<ref>『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』服部龍二、中央公論新社〈中公新書〉2008年、260-263頁</ref>。 |
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{{Main|人道に対する罪|極東国際軍事裁判}} |
{{Main|人道に対する罪|極東国際軍事裁判}} |
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2015年10月29日 (木) 15:32時点における版
南京事件(なんきんじけん)は、日中戦争(支那事変)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際(南京攻略戦)、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の便衣兵、敗残兵、捕虜、一般市民などを殺したとされる事件。この事件については、事件の規模、虐殺の存否を含めさまざまな論争が存在している(南京事件論争)。南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件、The rape of Nankingなど多様な呼称がある(後述)。2015年10月9日、ユネスコは「南京事件」を巡る資料を記憶遺産に登録することを決めた[1][2][3][注釈 1]。
事件の概要と経緯
南京攻略戦
1937年7月に始まった日中戦争は、8月には華北から上海に日中両軍の戦場が移った(第二次上海事変)。8月から日本海軍は、渡洋爆撃とよばれる海軍機による空爆を南京などの有力都市に行い、軍事的な成果を上げる。一方、日本陸軍の上海派遣軍は、中国軍の抵抗もあって、大きな被害を出しつつも膠着状態であった。しかし、その後陸軍も、増派によって形勢は日本に有利となる。11月5日には、杭州湾に上陸した日本陸軍第10軍に背後を襲われた中国軍は、上海方面より潰走する。[4]。中国軍は撤退のときに日本軍の侵攻を不利にするため、逃げる行きずりに「堅壁清野作戦」と称して、民家に押し入りめぼしいものを略奪したうえで火を放ったとされる[5]。
11月7日に松井石根司令官率いる上海派遣軍は、第10軍とともに、両軍の上位に編成した中支那方面軍に改編された。中支那方面軍は松井石根が司令官となり、軍中央の方針を無視して、撤退する中国軍の追撃を始め、首都南京への侵攻をも目指した。12月1日]には軍中央が、現地軍の方針を追認する形で中支那方面軍に対し南京攻略命令を下達する。しかし、日本軍の進撃は、兵站が整わない、多分に無理のある進撃であったこともあり、南京行政区内での日本軍の略奪につながる。[6]。
中国(中華民国)側は、11月15日から11月18日にかけて、南京において高級幕僚会議を行い、南京から重慶に遷都するものの、ドイツを仲介にした日本との和平工作(トラウトマン和平調停工作)に期待し、南京固守作戦の方針が決まった。11月20日、蒋介石は、南京防衛司令官に唐生智を任命し、重慶遷都を宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始めた。11月下旬、南京防衛軍の動員兵力は約7万人から緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、中には十分な訓練のない兵士を含めて大幅に増員される。日本軍の接近にともなって南京市民が恐慌状態となり、中国人が親日派の中国人、日本留学生などを「漢奸狩り」と称して殺害する事件も相次いだ。[7][8]。
12月7日には南京郊外の外囲陣地が突破され、南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を脱出した。後を任された南京防衛司令官の唐生智も12月12日に逃亡した。その際に、撤退命令の不徹底により中国軍側は混乱し、挹江門事件による同士討ちまでも始まる。中国軍の複郭陣地を次々と突破した日本軍は、12月9日には南京城を包囲し、同軍司令官の松井石根は、中国軍に対し翌日正午を期限とする投降勧告を行った。しかし、中国軍がこの投降勧告に応じなかったため、日本軍は、12月10日より総攻撃を開始。12月13日に南京は陥落し、日本軍は入城した。[9]。
12月29日、上海派遣軍は「南京本防御線攻撃より南京城完全攻略にいたる間、我が方戦死八百、戦傷四千、敵方遺棄死体八万四千、捕虜一万五百、鹵獲品・小銃十二万九百・・・である」と発表した[10][11]。しかし、翌年1月、敵の損害は約八万、うち遺棄死体は約五万三、八七四」と算定した[12]。これにつき、防衛庁防衛研修所戦史室の『戦史叢書』は「日本軍の戦果発表が過大であるのは常例であったことを思えば、この数字も疑わしい」[12]とし、偕行社の『南京戦史』は「上海派遣軍発表の遺棄死体数は、中国防衛軍の総兵力判断6~7万と比べ著しく過大である」[13]
一般市民への被害
日中戦争での日本軍による南京市民に対する被害は、第二次上海事変の開始直後に起こった8月15日開始の日本海軍機による南京空襲での死傷・戦災が最初である。南京占領まで50回以上の空爆が南京に対して行われ、中国側の記録では二か月で400人近くの市民が死亡した[14]。空襲の後、多くの南京市民が市街から避難したため100万人を越えると言われた南京城市の人口はその後大きく減少していく。その後、11月に日本陸軍の中支那方面軍が南京の周辺の農村地域である行政区(日本の東京・神奈川・埼玉を含めた広さ)に侵入するが、日本軍による農村部などでの非人道的行為(後述)により、行政区域からの被災者が数多く南京城市に流れ込む現象も起きた[15]。そして、12月13日の日本軍による南京城市陥落の前後に城外に出ようとした市民を中心に、日本軍の攻撃や掃討や暴力行為に巻き込まれた市民が数多く存在した[16]。一方、南京城内に残ることに決めたほとんどの市民は、城市内の南京安全区(以下に「南京安全区」の説明)に避難したが、その後の占領時の一定期間(6週間程度など諸説あり)に安全区の内外でも被害にあった市民が存在した。南京事件の一般市民の被害とは通常、「南京陥落の前後」とその後の「占領時の被害」を指す。
南京安全区とは、南京城市在住の欧米人が戦火中を残って活動した南京安全区国際委員会によって設置され、委員会が指定した区域である。南京攻略戦を前にした11月、近い将来に南京城市が戦争に巻き込まれたときのためにアメリカ人宣教師(ジョン・マギー、マイナー・シール・ベイツや女性宣教師ミニー・ヴォートリンなど)を中心とする15名ほどによって組織された南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone 別称:南京難民区国際委員会)は、戦災に巻き込まれて南京城市から避難できない市民などを救済するために、南京城市内に安全区(難民区)を設定することを試み、アメリカ大使館に協力を依頼した。南京安全区は南京城市内の北西部に指定され、面積は約4平行キロで城市内全域の1割程度の広さであり、外国人の施設や邸宅が多くある地区が選ばれた。ドイツのジーメンス南京支社の支配人であるジョン・ラーベが安全区国際委員会の委員長となり、南京陥落前の12月8日に安全区への南京市民の避難を呼びかけた。安全区は被災民によって南京陥落直後は約20万人(諸説あり)であり、南京城市内の安全区外には非常に住民が少ない状況となった。[17]。
日本側は、安全区には砲撃もせず(いわゆるラーベ感謝状に記載)、組織的な殺戮も起こしていない。しかし、安全区国際委員会の関係者の記録、つまり、ジョン・ラーベの日記(日本語訳「南京の真実」)、(日本大使館への抗議交渉を行った)マイナー・シール・ベイツの証言、ジョン・マギーの証言や残したフィルム(マギー・フィルム)、多くの中国人女性を保護したミニー・ヴォートリンの日記(日本語訳「南京事件の日々」)、アメリカ人大学教員ルイス・S・C・スマイスの調査した「南京地区における戦争被害」(スマイス報告)などには、日本軍の市民への暴行・殺傷行為(安全区へ逃亡した中国兵掃討に関する誤認逮捕・処刑も含む)の情報が含まれている。[18]
以上に述べた日本側の殺害、暴行、略奪等の内容や規模やその真偽についての論争があり、以下にその議論が詳しく記載されている。
なお、南京城市とその周辺ではなく、南京行政区という広大な農村部を中心とした地域において、日本軍は住民の殺害・強姦・強奪をそれも安全区の住民よりもより非道かつ過酷な例も含めて行ったとされる[19]が、これも一部の研究者の意見は南京事件の被害に含めている。
投降兵の処遇
『南京戦史』によると、公式文書等に記載された捕虜・摘出逮捕した敗残兵・便衣兵への対応は以下のとおりである。[20][注釈 2]
部隊 | 総数 | 対応 | 出典 | 適用 |
---|---|---|---|---|
第114師団歩兵第66連隊第1大隊 | 1,657 12、13日に雨花門外で収容 |
処断 1,657 13日午後 |
第114師団歩兵第66連隊第1大隊戦闘詳報 | 雨花台事件 |
第6師団歩兵第45連隊第2大隊 | 約5,500 14日午前、下関で収容 |
釈放 14日午後 |
第6師団戦時旬報 | |
第16師団歩兵第33連隊 | 3,096 10日~14日、紫金山北方~下関附近、太平山、獅子山附近の戦闘間 |
処断 3,096 | 歩兵第33聯隊戦闘詳報 | |
第16師団歩兵第38連隊第10中隊 | 7,200 14日、堯化門附近 |
収容 7,200 17日、18日頃、南京へ護送 |
歩兵第38聯隊戦闘詳報 | |
国崎支隊 (歩兵第41連隊基幹) | 120 3日~15日 |
不明 120 | 第9旅団戦闘詳報 | |
歩兵第41連隊第12中隊 | 2,350 14日夕、江興洲 |
釈放 2,350 | 第12中隊戦闘詳報 | |
第16師団歩兵第20連隊第4中隊 | 328 14日、安全区東方 |
処断 328 | 第4中隊陣中日誌 | 「銃殺ニシテ埋葬ス」 |
第9師団 | 約7,000 13日~14日 |
処断 約7,000 | 第9師団作戦記録概要 | |
第9師団歩兵第7連隊 | (6,670) 安全区掃蕩間 |
処断 (6,670) | 歩兵第7聯隊戦闘詳報 | |
戦車第1大隊第1中隊 | (320) 14日、掃蕩間 |
処断 (70) | 第1中隊戦闘詳報 | 戦争処置 |
第3師団歩兵第68連隊第1大隊 | 8 | 不明 8 | 第1大隊戦闘詳報 | |
第3師団歩兵第68連隊第3大隊 | 25 | 不明 25 | 第3大隊戦闘詳報 | |
第16師団歩兵第9連隊第2大隊 | 19 | 不明 19 | 第2大隊戦闘詳報 | |
集計 (公式文書) | 約27,000 | 収容 7450、釈放 7850、不明 172、処断 約12,000 | 『南京戦史』は「大雑把な目安にすぎない」としている。 |
部隊 | 総数 | 対応 | 出典 | 適用 |
---|---|---|---|---|
山田支隊 (歩兵第65連隊基幹) | 8,000 14日 幕府山附近で収容された14,000のうち非戦闘員6,000は釈放 |
逃亡 7,000、処断1,000 14日夜、4,000が逃亡、残余は観音門へ連行 |
『戦史叢書』 | 幕府山事件 |
第16師団第30旅団 | 約2,000 24日~翌年1月5日、安全区内の兵民分離 |
収容 約2,000 | 『佐々木少将私記』 | その他入院中の500は収容 |
第16師団第19旅団歩兵第20連隊第12中隊及第3機関銃中隊 | 200~300 | 処断 200~300 | 『小戦例集』、『牧原日記』 | |
第16師団第30旅団歩兵第33連隊 | 数百 16日、17日、紫金山北方 |
処断 数百 | 『佐々木少将私記』 | |
第16師団第30旅団歩兵第38連隊 | 数百 16日、17日、紫金山北方 |
処断 数百 | 『佐々木少将私記』 | 掃蕩戦間の処分 |
第16師団第30旅団 | 数千 24日~翌年1月5日、南京近郊、不逞の徒 |
処断 数千 | 『佐々木少将私記』 | 下関にて処分 |
中支那方面軍の編成
ここで、日本陸軍の中支那方面軍は上海派遣軍と第10軍から構成される。南京攻略時の主な部隊を示した。攻略に参加していない部隊、通信隊や鉄道隊、航空隊、工兵隊、兵站部隊などは略している。
外国メディアによる報道
アメリカでは、『シカゴ・デイリーニューズ』や『ニューヨーク・タイムズ』、中華民国内では『大公報』などのマスコミによって “Nanking Massacre Story”, “The Rape of Nanking”, “Nanking Atrocities” として報道された。南京に在留していたジャーナリストは日本軍の南京占領後しばらくした12月15日・16日には脱出したものの、事件初期の3日間において見聞きした日本軍の捕虜の殺害、民間人への強姦や略奪などの行為を脱出後に報道した[21]。
ただし、これ等の外国人記者の報道についての信頼性については、以下のとおりに論議がある。
日本政府の反応
日本政府には、外務省の福井南京総領事代理の報告や岡本上海総領事の詳細な報告により、南京事件が深刻な事件として外務本省に伝えられた。南京安全(難民)区国際委員会の抗議も届き、「東亜局第一課の部屋には、報告書や写真が山積みとなった」。石射猪太郎東亜局長が事態を重くみて、陸軍軍務局に伝達したが、その結果、現地の南京総領事が陸軍によって突き上げられる始末であった。広田弘毅外務大臣より陸軍大臣の杉山元への軍紀粛正の申し入れがあった。その結果、1月に陸軍参謀本部の本間雅晴が現地に派遣され、その報告を受けて現地の中支那派遣軍司令官の松井石根が日本に召還された。ただし、広田は閣議では事件を明らかにしなかったため、広田の東京裁判での処刑判決につながった[22]。
事件の背景について
南京攻略戦のとき、中国政府や中国軍の上層部は、多くの兵士を南京から脱出させずに置き去りにしたまま(しかも逃げる際は長江を渡るという困難があるなど完全置き去り)であり、中国軍上層部は(兵士の保護に必要な)戦時国際上の正式な降伏を行わないで逃走した。また、南京市内の一般民衆への人道的な民衆への配慮は中国政府側に非常に少なく、一方で欧米人牧師の尽力による人道的な対応が被災民になされたために、多くの民衆が保護されたこと[23]、などから中国政府や中国軍の対応が理解できる。
しかし、日本側の事件についての軍や兵士の問題はなかったか、については当時の資料や証言から考察できるが、以下にその論議が記載されている。
戦後の軍事裁判における扱い
この事件は第二次世界大戦後、戦争犯罪として極東国際軍事裁判と南京軍事法廷で審判された。
極東国際軍事裁判では、直接の訴因(第四十五)については時期や事象が広範すぎるとして直接の判断は回避し、他の訴因において事件当時に中支那方面軍司令官であった松井石根が、不法行為の防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして死刑となった。
南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫が起訴され死刑となった。谷は申弁書の中で事件は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。その他、百人斬り競争として報道された野田毅と向井敏明、非戦闘員の三百人斬りを行ったとして田中軍吉(当時、陸軍大尉)が死刑となった。上海派遣軍の司令官であった朝香宮鳩彦王は訴追されなかったが、これは朝香宮が皇族であり、天皇をはじめ皇族の戦争犯罪を問わないというアメリカの方針に基づいている。
「人道に対する罪」と訴因
ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定された「人道に対する罪」が南京事件について適用されたと誤解されていることもあるが、南京事件について連合国は交戦法違反として問責したのであって、「人道に関する罪」が適用されたわけではなかった[24]。
東京裁判独自の訴因に「殺人」がある。ニュルンベルク・極東憲章には記載がないが、これはマッカーサーが「殺人に等しい」真珠湾攻撃を追求するための独立訴因として検察に要望し、追加されたものである[25]。これによって「人道に対する罪」は同裁判における訴因としては単独の意味がなくなったともいわれる[25]。しかも、1946年4月26日の憲章改正においては「一般住民に対する」という文言が削除された。最終的に「人道に対する罪」が起訴方針に残された理由は、連合国側がニュルンベルク裁判と東京裁判との間に統一性を求めたためであり、また法的根拠のない訴因「殺人」の補強根拠として使うためだったといわれる[25]。
このような起訴方針についてオランダとフィリピン(戦後アメリカの植民地から独立)、中華民国側からアングロサクソン色が強すぎるとして批判し、中華民国側検事の向哲濬(浚)は、南京事件の殺人訴因だけでなく、広東・漢口での残虐行為を追加させた[要出典]。
東京裁判において訴因は55項目であった(ニュルンベルクでは4項目)が、大きくは第一類「平和に対する罪」(訴因1-36)、第二類「殺人」(訴因37-52)、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(訴因53-55)の三種類にわかれ、南京事件はこのうち第二類「殺人」(訴因45-50)で扱われた[26][27]。ただし、南京事件への対応が不十分であるために死刑の判決を受けたとされる南京事件時の元外相の広田弘毅の訴因は、第一類と第三類であった[28]。
論争
この問題は事実存否や規模、殺害人数などを巡って現在でも議論が続けられている。近代史における日中関係を考える上でデリケートな問題であり、2010年の日中歴史共同研究公表[29]に際し、中国側主席委員・歩平が「単に被害者数の問題だけでなく、最も重要なのは大規模な残虐行為(が行われた)という認識を持つことである」との発言からも伺えるように、論点とすべき歴史的資料が十分に得られない研究実態を前提として特に中国側から見て単なる事実(史実)調査にとどまらない政治的要素が含まれる[30]。
また検証において、事実存否や規模、行為者、戦闘行動と戦争犯罪(不法殺害)の区別、作戦指導の妥当性、死傷者数、方法に諸説あり、これらを巡って今なお議論が続けられている。
被害者数と事実在否について
極東国際軍事裁判における判決では 20 万人以上 (松井司令官に対する判決文では 10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷軍事法廷では 30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠しており、日本側の研究では 20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている[31]。日本政府は、日本軍の南京入城後に非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないとしつつ、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であるとの立場をとっている[32]。
名称の種類と変遷
南京事件については、「南京大虐殺事件」「南京虐殺事件」「南京残虐事件」「南京暴虐事件」「南京大虐殺」「南京暴行事件」「南京アトロシティー(家永三郎、洞富雄ら)[33]」「南京大残虐事件(洞富雄)[34]」など、多様な表記と呼称がある。呼称の種類および変遷について、以下概説する。
歴史学の研究書では「南京事件」と表記されるもの(秦郁彦[35]、笠原十九司[36]ら)、「南京大虐殺」と表記するもの、「南京虐殺事件」など使用状況は同様に多様である。なお笠原十九司は「南京事件は南京大虐殺事件の略称」としたことがあるが[37]、笠原は著書名としては「南京事件」を多用している[38]。
- 東京裁判
- 1946年(昭和21年)4月29日に起訴され、5月3日に開廷した東京裁判での呼称は「訴因第四十五」であり、ここでは鏖殺(おうさつ)[注釈 3]・殺戮と記述されている[39]。英文ではslaughter the inhabitantsないしunlawfully killed and murderedとされている[40]。開廷後の一週間後の同年5月10日の朝日新聞記事では「南京大虐殺事件」という呼称がみられ[注釈 4]、同年10月9日の貴族院第90回帝国議会において星島二郎が「南京事件」という呼称を使用している[41]。
- 1948年(昭和23年)2月19日の検察側最終論告では「南京残虐事件」、2月25日の検察側最終論告では「南京における残虐行為」「南京事件」「南京強姦」、4月9日の弁護側最終弁論では「南京略奪暴行事件」、不提出書類のタイトルでは「南京ニ於ケル虐殺」「南京大虐殺死難者埋葬処ノ撮影」、1948年(昭和23年)11月4日の判決では和文「南京暴虐事件」[42]英文「THE RAPE OF NANKING」[43]などと表記されている[44]。
- 戦後の教科書における表記
- 敗戦直後、教科書はいわゆる「墨塗り教科書」であったが、1946年に文部省著作による小学校用教科書「くにのあゆみ下」と中学校用教科書「日本の歴史」が刊行され、事件について記述がなされた(事件名は表記なし)[45]。1947年に学校教育法で教科書検定制度が導入されてからは1949年から検定教科書が使用される。
- 55年体制から1960年代まで
- 1955年(昭和30年)、日本民主党が「うれうべき教科書の問題」というパンフレットを刊行し、「(社会科)教科書は偏向している」と主張する第一次教科書批判が起こる[48]。同年の保守合同による自由民主党成立後、55年体制下で教科書への検定強化が進んだ。1955年の大阪書籍、1964年の東京書籍などの教科書には南京攻略について記述されるにとどまり、残虐行為については記述されなかった[45][46][48]。なお1962年に家永三郎が編集した『新日本史』(三省堂)では「南京大虐殺(アトローシティー)」と表記されており[49]、1965年から家永教科書裁判が開始されている。
- 1966年には毎日新聞記者五島広作と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社)が、1967年には洞富雄が『近代戦史の謎』(人物往来社)が、1968年には家永三郎が『太平洋戦争』(岩波書店)では、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら「南京大虐殺」について記述した[53]。
- 1971年8月末から朝日新聞で連載を開始した本多勝一「中国の旅」(1972年刊行)が反響を呼び、南京事件について多数の記事が執筆される[注釈 5]。なお当時記事タイトルにおいて「南京大虐殺」を使用したものには「潮」1971年8月号「隠されつづけた南京大虐殺」がある[55]。
- 1972年4月に鈴木明が「諸君!」に「『南京大虐殺』のまぼろし」を発表し、広範囲にわたる南京事件論争が開始されるともに、「南京大虐殺」についてマスコミで報道されるようになる。例えば、同年11月には三留理男「中国レポート(最終回) 冷酷な皆殺し作戦 南京大虐殺」『サンデー毎日』(72年11月19日号)などがある[56]。鈴木は1973年に文芸春秋社から同題で単行本を刊行する。
- 歴史学者の洞富雄は1972年に『南京事件』[注釈 6]を刊行した後、鈴木明への反駁として1975年に『南京大虐殺--「まぼろし」化工作批判』[57]を刊行し、以降、著書名でも「南京大虐殺」を使用する[58]。また洞が編集した『日中戦争史資料 8 南京事件』[59]は、1973年の版では「南京事件」という呼称を著書名において使用していたが、1985年に同書が青木書店より再刊された際には『日中戦争 南京大残虐事件資料集』と改題された[60]。一方で藤原彰や本多勝一との共著では1987年の著書名に「南京事件」を使用している[61]。
- 1978年の東京書籍の教科書では「南京虐殺」として記載されるなど、事件についての記述がなされるようになる[62]。
- 第一次教科書問題と1980〜1990年代
- 1980年には自民党が機関紙『自由新報』で「いま教科書は」を連載、国語・社会科教科書を批判するという第二次教科書批判が起きる[45]。1982年には「侵略」を「進出」に書き換えたと誤報道され、中国の干渉を招き外交問題に発展した第一次教科書問題が起きた。その結果、近隣諸国条項が検定規準として定められた。その後1984年の東京書籍教科書では「ナンキン大虐殺」と表記される。1987年の大阪書籍と教育出版の教科書では「南京虐殺事件」と表記され、1995年の実教出版の高校教科書「日本史B」では「南京大虐殺」というコラムが記載された[要出典]。
- アイリス・チャンが1997年に著したThe Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War IIが話題をあつめ、「ザ・レイプ・オブ・南京」という日本語呼称が注目された。
- 近年の動向
- 近年の教科書表記では、山川出版社(『詳説日本史』)と東京書籍が「南京事件」[63][64]、帝国書院が「南京大虐殺」[65]、清水書院が「南京大虐殺事件」[66]、山川出版社(『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」[67][68]と各教科書が多様な表記を行っている。なお、大阪書籍の2005年の教科書では「被害者数については、さまざまな調査や研究が行われていて確定されていません」と脚注に表記されている[要出典]。
- 2010年に報告書が公開された外務省日中歴史共同研究日本語論文において「南京虐殺事件」の表現が使用された。
日本国外における表記
中国または中華民国[69]ではほぼ一定して「南京大屠殺」と呼称される。欧米では「Nanking Atrocities」あるいは「The rape of Nanking」「Nanking (Nanjing) Massacre」などと呼ばれるが論者により一定しない。
- Nanking Incident表記に関する日本国外での議論
- アメリカのジャーナリストポール・グリーンバーグは、『アーカンソー・デモクラット=ガゼット』2007年3月7日付「否認の魅力」記事において、"the Nanking Incident"(南京事件)という言い方はありふれた婉曲表現であり、ドイツの教科書においてホロコーストをthe Auschwitz Incident(アウシュビッツ事件)と称するようなものだとして批判した[70]。
南京事件を扱った作品
- 小説
- 映画
- 『戦争と人間 第三部 完結編』(日本、1973年)
- 『ラストエンペラー』(イタリア・イギリス・中国、1987年)
- 『南京1937』(中国・台湾・香港・日本、1995年)
- 『黒い太陽・南京』(香港、2005年)
- 『南京』(米国、2007年)
- 『南京 引き裂かれた記憶』(日本、2007年)
- 『チルドレン・オブ・ホァンシー 遥かなる希望の道』(オーストラリア・中国・ドイツ、2008年)
- 『南京の真実』(日本、2008年)
- 『南京!南京!』(中国、2009年)
- 『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』(ドイツ・フランス・中国、2009年)
- 『金陵十三釵』(中国、2011年)※日本未公開
- 漫画
- 『国が燃える』(本宮ひろ志、集英社、2002 - 2005年)
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(小林よしのり、幻冬舎、1998年)
- 『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2』(小林よしのり、幻冬舎、2001年)
- 『マンガで読む昭和史「南京大虐殺」の真実』(畠奈津子 + 大舘亞津子、ワック、2007年)
脚注
注釈
- ^ 記憶遺産登録対象は、中国が提出した資料であり、以下の3つの部分から構成される。(1)1937年-1938年の、大量虐殺に関する資料(2)1945年-1947年の、中国の軍事法廷による戦後の調査や戦争犯罪裁判の資料(3)1952年-1956年の、中華人民共和国司法当局の資料。--UNESCO » Communication and Information » Memory of the World » Register » Full list of Registered Heritage » Documents of Nanjing Massacre
- ^ 『南京戦史』編集委員会が平成元年四月までに収集した公式文書等に記載された数字を何等考察を加えることなく転載したものである。
- ^ みなごろしにすること
- ^ 「磯谷、谷両氏南京へ」南京大虐殺事件の責任を問われた谷寿夫元中将と磯谷廉介元中将は、近く上海から南京へ護送され、国防部軍事法廷で裁判に付される(以下略)。
- ^ 本多は南京事件、南京大虐殺、南京大暴虐事件と様々な呼称を使用している。「南京への道」他
- ^ 新人物往来社。1967年の洞富雄『近代戦史の謎』を増補したもの。
出典
- ^ 「日本の制止実らず=中国申請の「南京」認定-ユネスコ記憶遺産」『時事通信』2015年10月10日。2015年10月14日閲覧。
- ^ 「記憶遺産に中国申請の「南京事件」」『NHK』2015年10月10日。2015年10月14日閲覧。
- ^ “New inscriptions on the International Memory of the World Register (2014-2015)” (英語). Memory of the World (official website). Memory of the World. 2015年10月14日閲覧。
- ^ 「南京事件」、笠原十九司、岩波新書、1997、17-72頁
- ^ 高山正之「日本を潰せ 上海・南京・武漢 支那の背後にちらつく露・独・米の影」『白い人が仕掛けた黒い罠 アジアを解放した日本兵は偉かった』、ワック、2011年8月4日、ISBN 978-4-89831-163-9、64頁。
- ^ 「南京事件」、笠原十九司、岩波新書、1997、45-106頁
- ^ 辻英二「スパイ嫌疑で二千名銃殺 敗戦支那の苦悶する姿」『画報躍進之日本』(東京東洋文化協会、1937年12月1日)
- ^ 「南京事件」、笠原十九司、岩波新書、1997、109-140頁頁
- ^ 「南京事件」、笠原十九司、岩波新書、1997、109-140頁
- ^ 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年)、156頁
- ^ 『朝日新聞』昭和12年12月30日掲載
- ^ a b 支那事変陸軍作戦 1、436頁。
- ^ 南京戦史 (1993)、300頁。
- ^ 「南京事件」、笠原十九司、岩波新書、1997、17-42頁
- ^ 「南京事件」、笠原十九司、岩波新書、1997、75-106頁 115頁
- ^ 例として、兵士とともに市民(婦女子も含む)が銃撃を受けて殺されたり(「最後の殿様 徳川義親自伝」徳川義親、講談社、1973年、170-173頁)、夏淑琴のようになどが殺害されたと証言した例もある(新路口事件)
- ^ 「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 笠原十九司 岩波現代文庫 岩波書店78-82頁
- ^ 「南京の真実」ジョン・ラーベ 講談社文庫2000年、「南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記」 ミニー・ヴォートリン 大月書店 1999年、「ドイツ外交官の見た南京事件」 大月書店 2001年、「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 笠原十九司 岩波現代文庫 岩波書店
- ^ 「南京事件」、笠原十九司、岩波新書、1997、75-106頁
- ^ 表資料 南京戦史 (1993)、342~343頁。
- ^ 『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』南京事件調査研究会編訳 青木書店 1992 556-561頁
- ^ 『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』服部龍二、中央公論新社〈中公新書〉2008年、p.184-185。「破滅への道―私の昭和史、上村伸一、鹿島研究所出版会、1966年 81頁。「外交官の一生」、石射猪太郎、中公文庫 332‐333頁
- ^ 波多野澄雄・庄司潤一郎 「<近現代史> 第1期「日中歴史共同研究」報告書」より 第2部 第2章 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 第 1 節 盧溝橋事件の発生と全面戦争への拡大 4)南京攻略と南京虐殺事件. (2010年1月31日). 外務省とりまとめ 。戦時国際法の部分は、佐藤和男「南京事件と戦時国際法」、『正論』2001年3月号、産業経済新聞社、 317頁を参照。
- ^ 日暮 (2008)、26頁・118頁
- ^ a b c 日暮 (2008)、113頁
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- ^ 日暮 (2002)[要ページ番号]
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- ^ "日中歴史共同研究(概要)" (Press release). 外務省. 2010-01. 2010-07-28閲覧。
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の日付が不正です。 (説明) - ^ “日中歴史研究「中間~右」の学者と認識一致は大成果―中国メディア”. サーチナ. (2010年2月1日) 2010年7月28日閲覧。
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- ^ 『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店、1985年[要ページ番号]
- ^ a b 秦 (1986)
- ^ 笠原 (1997)
- ^ 笠原 (2007)、12頁・208頁。また「歴史学事典 7 戦争と外交」(弘文堂、2009年)笠原執筆記事においても同様の見解が記載[要ページ番号]
- ^ 笠原十九司参照
- ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 日本語 レファレンスコード A08071274100 で閲覧可能
- ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 英文 A08071243700 で閲覧可能
- ^ 帝国議会議事録1946年10月9日[1]
- ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 A08071307600 P.170
- ^ A級極東国際軍事裁判記録 アジ歴 A08071272300 P.174
- ^ 『日中戦争史資料 8 南京事件1』日中戦争史資料集編集委員会・洞富雄編、河出書房新社 昭和48年11月25日初版発行[要ページ番号]
- ^ a b c d 俵義文「南京大虐殺事件と歴史教科書問題」藤原彰『南京事件をどうみるか 日・中・米研究者による検証』(青木書店、1998年)所収、118頁
- ^ a b 戦争加害の観点から見た歴史教育のあり方 ―「南京大虐殺」問題の考察を通して― (PDF)
- ^ 開隆堂の教科書「歴史的内容を主としたもの 下」1954年[要ページ番号]では「(日本)軍が(南京)市民にひどい暴行を加えた」と記述。
- ^ a b 笠原 (2007)、101-103頁
- ^ 『家永教科書裁判』日本評論社、1998年、167頁
- ^ 全10巻、平凡社、1956年[要ページ番号]
- ^ 全10巻、平凡社、1961年[要ページ番号]
- ^ 笠原 (2007)、102-103頁も参照
- ^ 笠原 (2007)、103頁
- ^ 第066回国会 外務委員会 第1号 昭和四十六年七月二十三日(金曜日)午後三時十五分開会 「南京虐殺事件」(2回)、「南京大虐殺事件」(1回)
- ^ 笠原 (2007)、109頁
- ^ 笠原 (2007)、109頁
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- ^ 台北市にある国軍歴史文物館の展示による
- ^ The charms of denial。同記事は[2]でも閲覧可能。2011年10月22日閲覧。
参考文献
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 支那事変陸軍作戦 <1>』朝雲新聞社、1975年7月25日。
- 南京戦史編集委員会『南京戦史 増補改訂版』偕行社、1993年12月8日。
- 秦郁彦『南京事件―「虐殺」の構造』中央公論社〈中公新書〉、1986年。ISBN 4121007956。
- 笠原十九司『南京事件』岩波書店〈岩波新書〉、1997年。ISBN 4004305306。
- 笠原十九司『南京事件論争史―日本人は史実をどう認識してきたか』平凡社〈平凡社新書〉、2007年。ISBN 4582854036。
- 日暮吉延『東京裁判の国際関係―国際政治における権力と規範』木鐸社、2002年。ISBN 4833223287。
- 日暮吉延『東京裁判』講談社〈講談社現代新書〉、2008年。ISBN 4062879247。
- 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』展転社、1998年。ISBN 4886561535。
- 東中野修道・小林進・福永慎次郎『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社、2005年。ISBN 4794213816。
- 早坂隆『松井石根と南京事件の真実』文藝春秋〈文春新書〉、2011年。ISBN 4166608177。
- New York Times :serch "Nanking 1937" 南京事件 (1937年) の新聞
- New York Times :serch "Nanking 1927" 南京事件 (1927年) の新聞(比較検討用に参照)
- 南京事件調査研究会・編『南京大虐殺否定論13のウソ』柏書房、1999年。ISBN 4978-4760-11784-0{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。。
- (レジュメ)「いわゆる「南京事件」」原剛(大阪教育大学 社会教育学研究第15号2009.1)本文 (PDF) 、紹介(山田正行) (PDF)
- 波多野澄雄; 庄司潤一郎. “日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦” (PDF). 第1期「日中歴史共同研究」報告書 <近現代史>第2部 戦争の時代. 外務省. p. 7. 2012年6月25日閲覧。
関連項目
- 南京安全区国際委員会 - 世界紅卍字会
- ヴォートリン - 夏 - スノー - ティンパーリ - フィッチ - ベイツ - マギー - ラーベ
- 南京大虐殺紀念館 - 国軍歴史文物館
- 歴史修正主義 - 自虐史観 - 否認主義
- 日本の戦争犯罪 - 日本の戦争謝罪発言一覧
- 南京 (戦線後方記録映画) - ザ・バトル・オブ・チャイナ - 中国之怒吼
- 通州事件 - 尼港事件 - 済南事件 - 通化事件
- 黄河決壊事件 - 中国国民党による、中国国民の大虐殺事件。
- イリナ・ボコヴァ