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| 本名 = 松山 秀子<small>(まつやま ひでこ)</small> |
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| 身長 = 158cm<ref>[[川本三郎]]『君美わしく 戦後日本映画女優讃』、[[文藝春秋]]、2000年、p.30</ref> |
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| 活動内容 = [[1929年]]:[[松竹蒲田撮影所]]で映画デビュー<br/>[[1937年]]:[[東宝]]に移籍<br/>[[1946年]]:[[新東宝]]に移籍<br/>[[1950年]]:フリーとなる<br/>[[1955年]]:[[松山善三]]と結婚<br/>[[1979年]]:引退<br/> |
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| 主な作品 = 『[[カルメン故郷に帰る]]』<br/>『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』 |
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| アカデミー賞 = |
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| ブルーリボン賞 = '''主演女優賞'''<br />[[1954年]]『二十四の瞳』 |
| ブルーリボン賞 = '''主演女優賞'''<br />[[1954年]]『二十四の瞳』『[[女の園]]』『[[この広い空のどこかに]]』 |
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| ローレンス・オリヴィエ賞 = |
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| 全米映画俳優組合賞 = |
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| トニー賞 = |
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| 日本アカデミー賞 = '''優秀助演女優賞'''<br/>[[1979年]]『衝動殺人 息子よ』<br/>'''会長功労賞'''<br/>[[1996年]]<br/>'''会長特別賞'''<br/>[[2011年]] |
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| その他の賞 ='''[[キネマ旬報ベスト・テン]]'''<br/>'''女優賞'''<br />[[1955年]]『浮雲』<hr />'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''女優主演賞'''<br />1954年『二十四の瞳』『女の園』『この広い空のどこかに』『悪の愉しさ』<br />1955年『浮雲』<br />[[1957年]]『喜びも悲しみも幾歳月』『[[あらくれ (小説)|あらくれ]]』<br />[[1961年]]『永遠の人』『[[名もなく貧しく美しく]]』<br/>'''特別賞'''<br/>[[2010年]] |
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| その他の賞 ='''[[キネマ旬報賞]] 女優賞'''<br />[[1955年]]『浮雲』<hr /> |
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'''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''女優主演賞'''<br />1954年『二十四の瞳』、『女の園』、『この広い空のどこかに』、『[[悪の愉しさ]]』<br />1955年『浮雲』<br />1957年『喜びも悲しみも幾歳月』、『[[あらくれ (小説)|あらくれ]]』<br />1961年『永遠の人』、『[[名もなく貧しく美しく]]』<hr /> |
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'''[[芸術選奨]]'''<br />1962年 |
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'''高峰 秀子'''(たかみね ひでこ、[[1924年]][[3月27日]] - [[2010年]][[12月28日]])は、[[日本]]の[[俳優|女優]] |
'''高峰 秀子'''(たかみね ひでこ、[[1924年]][[3月27日]] - [[2010年]][[12月28日]])は、[[日本]]の[[俳優|女優]]、[[歌手]]、[[エッセイスト]]。本名は'''松山 秀子'''(まつやま ひでこ)、旧姓は'''平山'''(ひらやま)。愛称は'''デコちゃん'''。 |
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[[1929年]]に[[ |
戦前・戦後を通じて日本映画界で活躍した女優の一人。[[1929年]](昭和4年)に[[松竹蒲田撮影所]]で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。[[ハリウッド]]の名子役[[シャーリー・テンプル]]とも比較された。その後[[東宝]]、[[新東宝]]を経てフリーとなる。[[木下惠介]]、[[成瀬巳喜男]]監督作品に常連出演したほか、[[小津安二郎]]、[[豊田四郎]]、[[稲垣浩]]、[[五所平之助]]など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。[[1979年]](昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。主な出演作品に『[[カルメン故郷に帰る]]』『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』など。著書に[[自伝]]『わたしの渡世日記』など。夫は映画監督の[[松山善三]]。 |
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[[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]」で読者選出の日本女優部門の第1位に輝いた。 |
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==経歴== |
==経歴== |
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[[1924年]](大正13年)[[3月27日]]、[[北海道]][[函館市]]に父・平山錦司、母・イソの長女として生まれる<ref name="キネ旬">[[#キネマ旬報1980|キネマ旬報1980]]、p.401</ref>。生家は祖父の力松が経営していた「マルヒラ砂場」という蕎麦屋料亭で、力松は他にも「マルヒラ劇場」「マルヒラカフェ」などを経営する土地の実力者だった<ref name="キネ旬"/><ref>[[#高峰1980 上|高峰1980 上]]、p.21</ref>。兄に實、政二、隆三、弟に孝市郎がいる<ref>[[#高峰1980 上|高峰1980 上]]、p.23</ref><ref name="ノート">[http://www.kinenote.com/main/public/cinema/person.aspx?person_id=100709&key_search=%E9%AB%98%E5%B3%B0%E7%A7%80%E5%AD%90 高峰秀子]、[[キネマ旬報映画データベース|KINENOTE]]、2015年4月29日閲覧</ref>。 |
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=== 子役時代 === |
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[[1924年]][[3月27日]]、[[北海道]][[函館市]]に父・平山錦司、母・イソの長女として生まれる。 |
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4歳の時に母が[[結核]]で亡くなり、かねてから秀子を養女にと望み、名付け親にもなった父の妹・志げの養女となって[[東京]]に移り住む<ref name="キネ旬"/>。志げは17歳の時に函館に来た[[活動弁士]]・荻野市治と駆け落ちして結婚し、高峰秀子の名で女活弁士になったが、後に二人とも活弁を廃業、市治は旅回りの一座の興行ブローカーとなってほとんど家庭を留守にし、志げは内職の針仕事で生計を立てていた<ref name="キネ旬"/>。 |
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[[1929年]]、当時5歳の時に実母を結核で亡くし、父の妹の志げの養女となり[[東京]]で暮らす。半年後、養父に手をひかれて[[松竹蒲田撮影所]]に連れていかれ、[[野村芳亭]]監督の『母』の子役オーディションに応募、採用される。そこで芸名を志げが[[活動弁士]]として活躍していたころに名乗っていた'''高峰秀子'''とした。同年9月1日に[[松竹蒲田撮影所]]に入社。12月に封切られたデビュー作の『母』は大ヒットし、以降デコちゃんの愛称で親しまれる天才子役スターとして活躍する。また、日本の[[シャーリー・テンプル]]と言われた。 |
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===名子役に=== |
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[[1931年]]、[[蒲田]]の小学校に入学するが、徹夜の撮影も多かったためほとんど学校には通えなかった。同年[[小津安二郎]]監督の『[[東京の合唱]]』に出演。また[[島津保次郎]]監督『愛よ人類と共にあれ』(1931年)では男の子役を演じた。 |
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[[File:Tokyo Chorus-1 1932.png|thumb|『[[東京の合唱]]』(1931年)左から[[岡田時彦]]、[[菅原秀雄 (俳優)|菅原秀雄]]、'''高峰'''。]] |
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[[1929年]](昭和4年)9月、家主である階下の住人の友達で、[[松竹蒲田撮影所]]の俳優だった[[野寺正一]]の案内で養父に連れられて蒲田撮影所を見学に行くことになった<ref name="キネ旬"/><ref>[[#高峰 上1980|高峰1980 上]]、p.28</ref>。その日は、[[野村芳亭]]監督の『母』の子役オーディションの日で、秀子は養父におされてオーディションの列の最後尾に並ばされて飛び入り参加することになったが、野村監督に思いがけなくも選び出され、ヒロインの[[川田芳子]]演じる母親の娘役で出演することとなった<ref name="キネ旬"/><ref name="ノート"/>。[[10月1日]]付で松竹蒲田撮影所に入社し、志げの活弁時代の芸名をそのままつけて高峰秀子と名乗った<ref name="キネ旬"/>。[[12月1日]]に封切られた『母』は、[[鶴見祐輔]]原作の母もの映画で、浅草では45日間のロングランヒットを記録し、翌年にはアンコール上映されるほどの大ヒット作となった<ref name="キネ旬"/>。初任給は35円で、まもなく住居を[[鶯谷]]から撮影所近くの[[荏原郡]][[蒲田町]]北蒲田に移した<ref name="キネ旬"/>。 |
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たちまち重宝がられた秀子は、[[五所平之助]]監督の『大東京の一角』、[[島津保次郎]]監督の『[[愛よ人類と共にあれ]]』、[[小津安二郎]]監督の『[[東京の合唱]]』などに出演し人気子役となる。時には男の子の役もやらされ、スタッフから「秀坊」のニックネームで呼ばれた<ref name="キネ旬"/>。また、五所監督は秀子を養子にと考えていたが、志げの反対で諦めたという<ref name="年譜">本地陽彦「高峰秀子・年譜」(『別冊太陽 女優 高峰秀子』)、[[平凡社]]、1999年</ref>。[[1931年]](昭和6年)、蒲田の尋常小学校に入学するが、徹夜の撮影も多かったためほとんど学校には通えなかった。[[1932年]](昭和7年)4月、[[明治座]]の[[新派]]公演『松風村雨』に借りられ、[[花柳章太郎]]・[[岡田嘉子]]と共演。この公演の『満州国』にも[[溥儀]]の幼年時代を演じ、すでにうたわれていた天才子役の名を一層高めた<ref name="キネ旬"/>。 |
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=== 東宝時代 === |
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[[松竹]]では学校にも通えないほど売れっ子であったが、狭いアパートで貧しく暮らしていた。[[1937年]]、当時急成長しつつあった[[P.C.L.映画製作所]](後の[[東宝]])へ高いギャラと世田谷の一軒家と[[高等女学校]]へ通えるという条件付きで移籍する。高峰は[[文化学院]]へ入学するが撮影でほとんど出席できなかった。出席できてもスケッチのモデルをするなどして勉強も疎かになり、結局1年で[[退学]]した。これについては「学校へ通わせるとは言ったが卒業させるとは言っていないわけで、世間は甘くないと感じた」と述懐している。 |
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[[Image:Hideko Takamine and Taro Shoji cropped.jpg|thumb|left|[[東海林太郎]]と (1936年)]] |
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東宝では『[[綴方教室]]』、『[[馬 (映画)|馬]]』(共に[[山本嘉次郎]]監督)、[[成瀬巳喜男]]監督と始めてコンビを組んだ『[[秀子の車掌さん]]』などの映画に出演し、天才子役から女優へと成長していった。 |
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[[1934年]](昭和9年)、作詞家の[[藤田まさと]]に可愛がられた秀子は、[[東海林太郎]]が『[[赤城の子守唄]]』の大ヒットを記念して[[日比谷公会堂]]で行った実演ステージに勘太郎役で出演。これで秀子を気に入った東海林は養女にすることを熱望し、「歌とピアノをみっちり仕込む」と説得、志げと東海林家に移る<ref name="キネ旬"/>。東海林の秀子に対する溺愛ぶりは尋常ではなく、秀子を片時も離さず、地方の公演先にまで連れていくほどで、東海林家へ入る時の条件だったピアノと歌のレッスンはお預けになり、撮影所にも通わないようになった<ref name="キネ旬2">[[#キネマ旬報1980|キネマ旬報1980]]、p.402</ref>。一方、志げは無給で女中がわりに働かされるという扱いを受け、それに耐えかねた秀子は志げを促し東海林家を出て、[[大森]]のアパートに引っ越した<ref name="キネ旬2"/>。これに激怒した藤田は東海林のために書いた「[[妻恋道中]]」「[[鴛鴦道中]]」を新人の[[上原敏]]に歌わせ、以降はほとんど東海林に曲を書かなくなった。 |
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[[1936年]](昭和11年)、松竹は撮影所を蒲田から[[松竹大船撮影所|大船]]に移す。12歳の秀子は子役から娘役への転換期にあっていたが、同年に五所監督のメロドラマ『新道』に[[田中絹代]]演じるヒロインの妹役という大役に抜擢される。田中からは実の妹のように可愛がられ、[[鎌倉山]]にあった「絹代御殿」と呼ばれる豪邸に泊まり込んで撮影所通いをするようになった<ref name="キネ旬2"/><ref>[[#高峰1980 上|高峰1980 上]]、p.108</ref>。実生活では、[[函館大火]]で破産した祖父の力松一家が秀子を頼って上京し、[[千駄ヶ谷]]に家を借りて住まわせ、秀子の肩に9人の生活がかかることになった<ref name="キネ旬2"/>。 |
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また、オペラの[[奥田良三 (歌手)|奥田良三]]、[[長門美保]]に師事して発声を学び、戦中は音響設備のない戦地での慰問公演や歌手活動などを行った。 |
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===東宝時代=== |
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[[1940年]]、[[豊田四郎]]監督の『小島の春』に出演した[[杉村春子]]の演技にショックを受ける。今まで仕方なしにやっていた役者の仕事に本気で取り組もうと決意した。 |
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この頃、映画界から逃げ出したいという思いから[[宝塚歌劇団]]入りを考え、花柳章太郎と[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]に相談したところ、水谷が[[宝塚音楽学校]]校長の[[小林一三]]に相談を持ちかけてくれ、無試験で入学を許可するという返事を貰った<ref name="キネ旬2"/><ref>[[#高峰1980 上|高峰1980 上]]、p.125</ref>。しかし、翌[[1937年]](昭和12年)早々には[[ピー・シー・エル映画製作所|P.C.L.]]企画課に務めていた[[藤本真澄]]から引き抜き交渉を受ける。引き抜きの条件は月給100円と撮影所近くの家の提供、女学校へ進学させるというもので、それに承諾した秀子は同年1月に松竹を退社してP.C.L.に移籍した<ref name="キネ旬2"/>。4月には約束通り[[御茶ノ水]]の[[文化学院]]に入学した<ref name="キネ旬2"/>。 |
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P.C.L.移籍第1作は、[[吉屋信子]]原作・[[山本嘉次郎]]監督の『[[良人の貞操]]』で、[[千葉早智子]]演じる邦子の妹・睦子を演じた。続いて[[横山隆一]]の連載漫画を原作とした『江戸っ子健ちゃん』で[[榎本健一]]と共演。同年9月にP.C.L.は[[東宝映画]]となり、以後も数々の作品に出演、[[岸井明]]が命名した'''デコ'''の愛称で撮影所のペット的存在となった<ref name="キネ旬2"/><ref name="写真館">[http://kinema-shashinkan.jp/special/-/54/ 高峰秀子 第一部4ページ]、キネマ写真館、2015年5月2日閲覧</ref>。[[1938年]](昭和13年)には山本監督の『[[綴方教室#1938年|綴方教室]]』で主演する。これは当時のベストセラーとなった[[豊田正子]]の綴方集の映画化で、貧乏の中でもも明るく強く生きる少女を演じて最初期の代表作とした。その一方、仕事の忙しさから文化学院への登校は月に2、3日程度となり、担任教師の[[河崎なつ]]から「このさい、学校をとるか、仕事をとるかはっきり決めてほしい」と言われ、入学1年半にして退学を余儀なくされた<ref name="キネ旬2"/><ref>[[#高峰1980 上|高峰1980 上]]、p.186</ref>。 |
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戦争中においても彼女の人気は高く、多くの映画に出演した。また出征兵の中には高峰のブロマイドを胸に戦地へと旅立った者もおり、戦後の彼女の反戦思想に大きな影響を与えた。本人は「戦前派・戦後派という区分をするなら自分は夫とともに戦中派」と述べている。 |
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[[File:Kita no 3nin1.jpg|thumb|『[[北の三人]]』(1945年)左から[[原節子]]、[[山根寿子]]、'''高峰'''。]] |
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=== 新東宝時代 === |
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東宝ではますます売れっ子となり、[[1939年]](昭和14年)は9本の作品に出演。アイドルとしての人気も高まり、秀子の名前を冠した映画も作られた。『[[秀子の応援団長]]』では主題歌「青春グラウンド」を歌いレコードも発売されたが、B面の[[灰田勝彦]]が歌う挿入歌「[[燦めく星座]]」の方が人気となり、40万枚の大ヒットを記録した。『[[秀子の車掌さん]]』は後にコンビを組む[[成瀬巳喜男]]監督との初顔合わせ作品である。[[1940年]](昭和15年)、[[豊田四郎]]監督の『[[小島の春]]』で[[ハンセン病]]患者を演じた[[杉村春子]]の演技にショックを受け、今まで仕方なしにやっていた役者の仕事に本気で取り組もうと決意した。また、声楽家の[[奥田良三 (歌手)|奥田良三]]と[[長門美保]]に師事して発声を学び<ref name="キネ旬2"/>、戦中は音響設備のない戦地での慰問公演や歌手活動などを行った。 |
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[[1946年]]、[[東宝争議]]が発生、経営者側にも労働組合側にもつかないと立ちあがった大河内伝次郎につき、それに賛同する[[長谷川一夫]]、[[黒川弥太郎]]、[[藤田進]]、[[原節子]]、[[山田五十鈴]]、入江たか子、[[山根寿子]]、[[花井蘭子]]と共に「十人の旗の会」を結成、政治的イデオロギーの強い東宝労働組合を脱退し新東宝へ移籍することになる。このとき「高峰秀子後援会」が発足し、銀座カネボウビル内に事務所が開設されて機関誌「DEKO」が発行された。 |
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[[1941年]](昭和16年)、山本監督の『[[馬 (映画)|馬]]』に主演。東北の四季折々の風景の中で、農家の少女と彼女の育てる仔馬の触れ合いをセミドキュメンタリーに描いた作品で、撮影には足かけ3年を費やしたが、撮影中に製作主任でB班監督の[[黒澤明]]と恋に落ちる。志げの反対で恋は不実となったが、自伝『わたしの渡世日記』にこのエピソードが記されている。[[1945年]](昭和20年)7月、山本監督の『アメリカようそろ』の撮影のため[[千葉県]]の[[館山]]に滞在し、洲崎航空隊での慰問公演終了後に終戦を迎えた<ref>[[#高峰1980 上|高峰1980 上]]、p.279</ref>。特攻隊員を扱った『アメリカようそろ』の製作は中止となっている<ref name="キネ旬3">[[#キネマ旬報1980|キネマ旬報1980]]、p.403</ref>。 |
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新東宝では[[太宰治]]の遺作『[[グッド・バイ (小説)|グッド・バイ]]』や[[谷崎潤一郎]]の傑作『[[細雪]]』の映画化に出演した。谷崎とは彼の家族を交えた形で、以後も交流が続いた。そのほか[[小津安二郎]]監督唯一の新東宝作品である『[[宗方姉妹]]』に主演している。 |
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===新東宝時代=== |
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当時結婚を想定して交際していた会社の重役が後援会費を使い込み、他の女性と交際していた事が発覚したことから1950年11月に新東宝を退社する。 |
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[[1946年]](昭和21年)、占領軍に接収されたアーニー・パイル劇場(元[[東京宝塚劇場]])で、占領軍相手の慰問公演に出演するが、衣装がなくて困っていたところ、[[入江たか子]]が手持ちのコートをほどいて衣装に仕立ててくれたという<ref name="年譜"/>。同年、[[佐伯清]]監督の『[[陽気な女]]』が戦後第1作となる。8月、[[日本劇場]]の『ハワイの夜』に灰田と共演して[[フラダンス]]を踊り大ヒットさせるが、東宝では10月に第2次[[東宝争議]]が発生<ref name="キネ旬3"/>。ストに反対する[[大河内傳次郎]]に同調し、[[長谷川一夫]]、[[入江たか子]]、[[山田五十鈴]]、[[藤田進]]、[[黒川弥太郎]]、[[原節子]]、[[山根寿子]]、[[花井蘭子]]とともに[[十人の旗の会]]を結成して[[日本映画演劇労働組合]](略称:日映演)傘下の東宝従業員組合を脱退<ref name="キネ旬3"/>。翌[[1947年]](昭和22年)3月に他の脱退者らと[[新東宝|新東宝映画製作所]]が発足し、秀子は同社専属となった。新東宝での第1作は、[[萩原遼]]監督の『大江戸の鬼』で、続いて[[阿部豊]]監督の『愛よ星と共に』で16歳から35歳までの女の半生を演じ、次の[[千葉泰樹]]監督の『幸福への招待』でも薄幸の女を演じて、おとなの女優としてのイメージを印象づけた。 |
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[[Image:Ginza KanKan Musume.jpg|thumb|『[[銀座カンカン娘]]』(1949年)[[笠置シズ子]](左)と。]] |
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=== フリー時代 === |
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この頃に「高峰秀子後援会」が発足し、銀座カネボウビル内に事務所が開設されて機関誌『DEKO』が発行された。新東宝が創立1周年を経たぬうちに、十人の旗の会のメンバーである原節子、山田五十鈴、入江たか子らが次々と脱退。それにより秀子は新東宝女優陣の中心となり、[[1949年]](昭和24年)公開の『[[銀座カンカン娘]]』では主題歌も歌い、公開前に発売されたレコードは42万枚([[1952年]](昭和27年)時点)<ref>[[丘灯至夫|丘十四夫]]『歌暦五十年』、全音楽譜出版社、1954年</ref>もの売上げを記録して大ヒットした。[[1950年]](昭和25年)には阿部監督の『[[細雪#1950年版|細雪]]』で花井蘭子、[[轟夕起子]]、山根寿子に続く末娘役を演じ、原作者の[[谷崎潤一郎]]とは家族を交えた形で、谷崎が亡くなるまで交流を続けた。同年には小津監督の『[[宗方姉妹]]』に田中絹代の妹役で出演している。同年11月、当時結婚を想定して交際していた会社の重役が後援会費を使い込み、他の女性と交際していた事が発覚したことから新東宝を退社した。 |
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[[Image:24 Eyes 1.jpg|thumb|250px|『二十四の瞳』(1954)]] |
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[[1951年]]、日本初のフルカラー作品となった『[[カルメン故郷に帰る]]』に主演。この作品で始めて[[木下惠介]]監督とコンビを組み、以降『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』、『[[喜びも悲しみも幾歳月]]』など計12作の木下映画に出演した。同年6月、家を売り払いパリで一人暮らしをする。そのこぼれ話は「つづりかた巴里」に詳しい。[[1952年]]([[昭和]]27年)1月に帰国、すぐにどの社にも属さず数少ないフリー俳優として活動を開始した<ref>『わたしの渡世日記 下』p.291</ref>。当時、映画俳優が映画会社に所属しない例は稀有であったが、翌[[1953年]]に映画会社が締結した[[五社協定]]に拘束されず、いくつもの映画会社の作品に出演することができた。 |
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===フリー俳優時代=== |
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木下作品のほか[[成瀬巳喜男]]監督作品にも多く出演し、日本映画の名作と呼ばれ、高峰と成瀬の代表作となった『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』 |
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[[1951年]](昭和26年)、日本初の[[カラー映画|総天然色映画]]『[[カルメン故郷に帰る]]』に主演。この作品で初めて[[木下惠介]]監督とコンビを組んだ。同年6月、[[カンヌ国際映画祭]]への出席の話から転じて留学生として[[フランス]]に渡り、6ヶ月間[[パリ]]に滞在する。悪化していた志げとの関係や、フリーになってからの不安などから逃避でき、映画のことを忘れて自由を満喫できる好機であった<ref name="ノート"/><ref name="写真館"/>。パリ滞在中は、[[渡辺一夫]]が学生時代に下宿していたアパートの一室を住まいとした<ref name="年譜"/>。その時のこぼれ話は『つづりかた巴里』に詳しい。[[1952年]](昭和27年)1月に帰国した。 |
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をはじめ自身が衣装を担当した『[[女が階段を上る時]]』など計17作に出演した。また、『[[名もなく貧しく美しく]]』を始めとする一連の夫・松山善三監督作品、[[豊田四郎]]監督の『雁』『[[恍惚の人]]』、作品が[[ヴェネツィア国際映画祭]]金獅子賞を受賞した[[稲垣浩]]監督の『無法松の一生』、[[増村保造]]監督の『[[華岡青洲の妻]]』など映画史に名を残す作品に出演した。 |
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当時、映画俳優が映画会社に所属しない例は稀有であったが、どの社にも属さずフリー俳優として活動を開始した<ref>[[#高峰1980 下|高峰1980 下]]、p.291</ref>秀子は、[[1953年]](昭和28年)に映画会社が締結した[[五社協定]]に拘束されず、各社の作品に出演した。それにより名匠の作品にも数多く出演することが出来た。特に[[成瀬巳喜男]]と[[木下惠介]]の両監督のほとんどの作品に出演。成瀬作品には計17本出演しており、『[[稲妻 (映画)|稲妻]]』では、母親は同じだが父親が異なる4人兄妹の末娘を好演し、演技派女優としての力量を高めた。成瀬の代表作でもあり、秀子の代表作でもある『[[浮雲 (映画)|浮雲]]』では[[森雅之 (俳優)|森雅之]]演じる不実な男に振り回されながらも離れられない女、『[[女が階段を上る時]]』では生活のために銀座のバーで雇われマダムをする女、『[[放浪記#1962年版|放浪記]]』では若き日の[[林芙美子]]を演じ、成瀬作品で次々と主役を飾った。 |
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『二十四の瞳』の撮影で当時木下の助監督をしていた[[松山善三]]と出会い、[[1955年]]に結婚する。仲人は[[川口松太郎]]、[[三益愛子]]夫妻に[[木下惠介]]の3名だった。めでたい話が漏れてゴシップ扱いにされるのを嫌った木下が自ら報道各社に「松竹の木下ですが、うちの松山君と高峰秀子を結婚させますので取材に来てください」と電話をして関係者一同による記者会見を行ったのが芸能人の結婚記者会見のさきがけといわれている。 |
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[[Image:24 Eyes 1.jpg|thumb|『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』(1954年)]] |
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[[1959年]][[4月10日]]、[[明仁|皇太子]]と[[皇后美智子|正田美智子]]との成婚パレードの生中継にてゲスト解説を務めた。以来美智子妃との親交がある。文藝春秋で日本一の美人を決める対談企画があった際、高峰は「『美女』である以前に人柄や教養も含めた『美人』でないといけないという観点」から美智子妃を推し、企画で選出している。 |
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木下作品には計12本出演。『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』は『浮雲』と並ぶ秀子の代表作で、[[小豆島]]の分教場に赴任する新人教師を演じ、当時の女優賞を独占。『[[喜びも悲しみも幾歳月]]』では[[佐田啓二]]と灯台守夫婦を演じ、主題歌とともに大ヒット。『[[風前の灯]]』ではこれまでのイメージとは正反対のダメ夫婦を佐田と演じた。戦乱に巻き込まれて過酷な運命に見舞われる農婦を演じた『[[笛吹川 (映画)|笛吹川]]』では、18歳から85歳の老け役までを演じ、『[[永遠の人]]』でも20歳から49歳までを演じ分けた。『[[二人で歩いた幾春秋]]』でも佐田と道路工夫夫婦の半生を演じ、木下作品のヒロインとして活躍を続けた<ref name="キネ旬4">[[#キネマ旬報1980|キネマ旬報1980]]、p.406</ref>。 |
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[[File:Hideko Takamine and Zenzo Matsuyama Scan10001.JPG|thumb|left|松山善三との結婚式(1956年)]] |
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[[1963年]]からは映画の出演本数は減るが、1968年以降はテレビドラマでも活躍する。特に夫・松山善三が脚本を書いた東芝日曜劇場『春の別れ』は、視聴者の感動を呼び、1974年の年末にアンコール放送された。そのほか、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]「[[小川宏ショー]]」内の「高峰秀子対談」コーナーの聞き手を務めた。 |
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成瀬、木下監督以外の作品では、[[五所平之助]]監督の『[[煙突の見える場所]]』、[[豊田四郎]]監督の『[[雁 (小説)|雁]]』、[[野村芳太郎]]監督の『[[張込み#映画|張込み]]』、[[稲垣浩]]監督の『[[無法松の一生 (1958年の映画)|無法松の一生]]』、[[小林正樹]]監督の『[[人間の條件 (映画)|人間の條件 第5・6部]]』などに出演した。 |
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[[1955年]](昭和30年)[[2月25日]]、当時木下の助監督をしており『二十四の瞳』の撮影で出会った[[松山善三]]との婚約を発表<ref name="スポニチ">[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2011/01/01/kiji/K20110101Z00001690.html 映画「二十四の瞳」主演の高峰秀子さん逝く]、[[スポーツニッポン]]、2015年5月2日閲覧</ref>。仲人は[[川口松太郎]]・[[三益愛子]]夫妻と木下惠介の3名だった。めでたい話が漏れてゴシップ扱いにされるのを嫌った木下が自ら報道各社に「松竹の木下ですが、うちの松山君と高峰秀子を結婚させますので取材に来てください」と電話をして関係者一同による記者会見を行い、これが芸能人の結婚記者会見のさきがけ<ref name="スポニチ"/>といわれている。[[3月26日]]に結婚式が行われた<ref>[[#高峰1980 下|高峰1980 下]]、p.292</ref>。[[1961年]](昭和36年)、松山の監督デビュー作『[[名もなく貧しく美しく]]』に主演。[[小林桂樹]]と[[ろう者|聾唖者]]の夫婦を演じ、全篇を手話で通すという難役を抜群の演技力で演じのけた<ref name="キネ旬4"/>。その後も松山が監督した『われ一粒の麦なれど』『六條ゆきやま紬』などに主演した。 |
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[[1971年]]2月に高峰は[[国会]]の席においてテレビの[[クイズ番組]]を低俗だと非難。そもそもの発端はフジテレビで放送されていた「[[クイズ・キングにまかせろ!]]」の賞品(1,000万円のマンションの所有権)が[[独占禁止法]]に違反しているという告発によるものだった。この騒動で高峰は「俳優を毒するクイズは最低のいやしさだ。」と弁明。[[公正取引委員会]]は、全てのクイズ番組に対し賞金額の見直しを求め、同年9月に全てのクイズ番組の賞金(賞品)の上限を100万円までに定めた。 |
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[[1965年]](昭和40年)以降は映画出演が減少するも、[[増村保造]]監督の『[[華岡青洲の妻#映画|華岡青洲の妻]]』では[[市川雷蔵 (8代目)|市川雷蔵]]演じる[[華岡青洲]]の母役、豊田監督の『[[恍惚の人#映画(1973年)|恍惚の人]]』では[[森繁久彌]]演じるボケ老人を献身的に世話する嫁役で出演し、貫録ある姿を見せている<ref name="ノート"/><ref name="キネ旬4"/>。[[テレビドラマ]]にも、[[1968年]](昭和43年)から出演するようになり、夫の松山脚本による『[[落日燃ゆ#テレビドラマ(1976年版)|落日燃ゆ]]』や[[東芝日曜劇場]]で放送された『一筆啓上致します』『春の別れ』などに出演。ほか、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の「[[小川宏ショー]]」内の「高峰秀子対談」コーナーの司会を務めた<ref name="キネ旬4"/>。舞台では、[[1972年]](昭和47年)10月の[[紀伊国屋ホール]]での反戦劇『[[ケイトンズヴィル事件の九人#戯曲|ケイトンズヴィル事件の九人]]』に出演した。 |
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[[1972年]]10月には東京[[紀伊国屋ホール]]で反戦劇「[[ケイトンズヴィル事件の九人#戯曲|ケイトンズヴィル事件の九人]]」に出演。 |
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===女優引退後=== |
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[[1979年]]、 |
[[1979年]](昭和54年)、木下監督の『[[衝動殺人 息子よ]]』に出演予定であった[[八千草薫]]が降板し、代役を依頼され<!--NOR : る。この時、木下の監督としての地位がすでに降下していて出てくれる女優がおらず困っていることを察し、持ち前の義理堅さから-->出演する。久々の映画出演に製作発表記者会見ではこれで引退かと質問され、「とっくに引退したつもりだったんですけどねえ」と答えている。製作中の後日、女優引退を発表、これが最後の映画出演となった。 |
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引退後はエッセイストとして活動 |
引退後は主にエッセイストとして活動したが、松山監督の映画『[[典子は、今]]』に助監督として参加したり、[[1994年]](平成6年)放送のテレビドラマ『忍ばずの女』で脚本を書いたりもしている。[[2003年]](平成15年)には映画『[[葉っぱのフレディ]]』で朗読を担当した。 |
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[[2010年]][[12月28日]]、[[肺がん]]により東京都渋谷区の病院で死去 |
[[2010年]](平成22年)[[12月28日]]午前5時28分、[[肺がん]]により[[東京都]][[渋谷区]]の病院で死去<ref name="スポニチ"/><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20101231-OYT1T00367.htm 高峰秀子さん死去、数々の名作に主演] 読売新聞 2010年12月31日閲覧{{リンク切れ|date=2012年6月}}</ref>。{{没年齢|1924|3|27|2010|12|28}}。 |
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===没後=== |
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「子役出身に大女優・名優なし」とのジンクス(このジンクスは、日本のみならず、外国でも同じ類例は多い)を破り、5歳から子役(現存するフィルムでは「七つの海」で、その子役像を観ることができる)となり、その後、娘役へと成長、さらに「女」を演じる大女優へと伸びていった。役柄も非常に幅広く、娘時代には可憐な役柄が多かったが([[婦系図]]、[[その前夜]]ほか)、戦後は、時代の先端を生きる職業婦人([[朝の波紋]])、国民的人気を博した女教師([[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]])、男との破滅的恋愛関係に溺れる女([[浮雲 (映画)|浮雲]])、恋人がいながらも強姦された相手と復讐のために結婚する妻([[永遠の人]])、聾唖者として社会の底辺に居ながらも強く生きる女性([[名もなく貧しく美しく]])、生活のためやむを得ず銀座のバーに勤めるママ([[女が階段を上る時]])、お妾さん([[妻として女として]])など、とても、一人の女優が演じたとは思えないほど、様々な役を演じ、そのあらゆる役において見事な演技であった。役者によっては個人の個性が前面に出てしまい、「何を演じても、誰それ自身」というタイプの俳優も少なくないが(たとえば、[[笠智衆]]は、演技というよりは自身の個性そのものが魅力となっていた俳優であると、[[山田洋次]]もNHKの「山田洋次監督が選ぶ日本の名作100本」のなかで指摘している)、高峰秀子の場合、その対極であり、まさに百変化とも言うべき、多様な役を、その役の性根をつかんで演じきった日本映画史上、稀有の名女優であった。晩年にいたっても、舞台出演は極めて少なく、「映画でデビューし映画で引退した」、日本映画史上、最高の大女優・名女優として評価される存在である。 |
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[[2012年]](平成24年)[[3月27日]]、[[東宝スタジオ]]で高峰秀子を偲ぶ会が開かれ、[[八千草薫]]、[[香川京子]]、[[宝田明]]、[[司葉子]]、[[中村メイ子]]、[[戸田菜穂]]、[[篠田正浩]]、[[野上照代]]、[[長山藍子]]ら約400人の関係者が参列した<ref name="偲ぶ会">[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/03/28/kiji/K20120328002918700.html?feature=related 高峰秀子さん偲ぶ会400人…遺志継ぎ、裏方表彰を開始]、スポーツニッポン、2015年5月3日閲覧</ref><ref>[http://www.cinematoday.jp/page/N0040610 高峰秀子さんを偲ぶ会に約400人が出席 昭和を代表する大女優の人柄が語られる]、シネマトゥデイ、2015年5月3日閲覧</ref>。また、生前の秀子の遺志を継いで、映画界に貢献した裏方スタッフへの表彰を行う「一本のクギを讃える会」の発足も発表された<ref name="偲ぶ会"/>。 |
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[[2014年]](平成26年)、『[[キネマ旬報]]』発表の「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」女優部門で第1位となった(男優第1位は[[三船敏郎]])<ref>[http://mainichi.jp/enta/news/20141212k0000m040035000c.html 俳優ベスト10:男優1位は三船さん、女優が高峰秀子さん]、[[毎日新聞]]、2015年5月3日閲覧</ref>。ちなみに、[[2000年]](平成12年)に同誌が発表した「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]」読者選出の日本女優部門でも第1位となっている。 |
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==人物・エピソード== |
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===子役時代=== |
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[[Image:Hideko Takamine and Taro Shoji cropped.jpg|thumb|left|180px|東海林太郎と (1936)]] |
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家庭内では志げ(以下母と記述)が[[ステージママ]]的な存在で、その愛情への戸惑いや、高峰の収入で親族全体が生活していることへの精神的な負担など、一概に幸福とは言えなかった。母親との葛藤は長く高峰を苦しめるとともに、親族をはじめとする関係者との金銭関係は人間への不信感にもなった。 |
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==エッセイストとして== |
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映画人の多くに可愛がられ、高峰に同情した[[東海林太郎]]は養女に引き取ろうとした。東海林夫妻は高峰に英才教育を行ったが、高峰の母への態度に耐えかね母子で出奔、このことをめぐって作詞家の[[藤田まさと]]と東海林との間に軋轢が生じ、、藤田が「[[妻恋道中]]」の曲を[[上原敏]]に回し以降ほとんど東海林に曲を書かなくなる。 |
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秀子は、女優全盛期の時代から多くの本を出版し続けている。初の著書は[[1953年]](昭和28年)に刊行された、パリ滞在のエッセイ『巴里ひとりある記』(映画世界社)で、以降『まいまいつぶろ』(同)、『私のインタヴュー』(中央公論社)、『瓶の中』(文化出版局)、『いっぴきの虫』(潮出版社)などのエッセイを上梓した。また、松山との共著による『旅は道連れガンダーラ』(同)、『旅は道連れツタンカーメン』(同)などの旅行記、『台所のオーケストラ』(同)などの料理本も書いている。 |
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[[1975年]](昭和50年)、『[[週刊朝日]]』誌上で『わたしの渡世日記』を連載。この本では関係者が実名で登場し、「本当に本人が書いているのか」という問い合わせが殺到しが、当時の週刊朝日の編集部では、「ゴーストライターを使っているなら、あんな個性的な文章にはなりません」と答えたという。翌年に[[朝日新聞社]]より上下巻で刊行され、当時のベストセラーになった。このエッセイで第24回[[日本エッセイスト・クラブ賞]]を受賞している。 |
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===東宝時代=== |
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街を歩いていてもファンに追いかけられるという人気であったが、ある日逃げ込んだ銀座の骨董品屋で骨董品の魅力に取り付かれる。以後骨董品集めが趣味となり、造詣が深い。「いい仕事してますね」のセリフで有名な[[中島誠之助]]も「姐さん」と呼ぶ長年の知己であり、一緒に骨董屋を開いていたこともある。この経緯は「にんげん蚤の市」に詳しい。 |
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[[2013年]](平成25年)、未発表だったエッセイが発見され、3月に[[新潮社]]から『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』のタイトルで刊行された。この本は[[1958年]](昭和33年)に夫と欧州を旅した際の旅行記で、自宅の書棚に保管されていたという<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG18009_Y3A310C1CR0000/ 高峰秀子さんの未発表随筆発見 夫との欧州旅行記]、[[日本経済新聞]]、2015年5月3日閲覧</ref>。 |
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[[原節子]]が東宝へ移籍して知り合ってからは原を「お姉ちゃん」と呼ぶ間柄であった。 |
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==梅原龍三郎との交流== |
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[[1941年]]の『馬』で助監督を務めた[[黒澤明]]と撮影中に恋に落ちたが、母親の反対で別れさせられた。この『馬』の長期ロケで[[山形県]][[最上町]]に滞在した際に、高峰に一目惚れした少年がのちの[[ケーシー高峰]]で、芸名も初恋の人たる彼女に由来する。 |
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新東宝時代の[[1949年]](昭和24年)、銀座で開かれた絵の愛好会・[[チャーチル会]]に参加し、翌[[1950年]](昭和25年)の[[三越|日本橋三越]]での名士余技絵画展に十号の『緑衣』を出品、4700円の売値がつけられ、会の顧問をしていた画壇の巨匠[[梅原龍三郎]]の知遇を受けた<ref name="キネ旬4"/>。それ以来40年にわたる親交が続き、梅原により高峰がモデルとなった多くの肖像画が描かれることとなった。初めて秀子を描いた肖像画は『カルメン故郷に帰る』のロケ中に描かれ、目が大きくなりすぎて似ずに何度も描き直した。試行錯誤の後、目が大きいのではなく眼光が強いことに気付いたという。 |
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[[1974年]](昭和49年)3月、秀子は夫の発案で、最初の肖像画を[[東京国立近代美術館]]の梅原龍三郎コーナーに寄贈し、翌[[1975年]](昭和50年)に[[褒章#紺綬褒章|紺綬褒章]]と木杯を受けた<ref name="キネ旬4"/><ref>[[#高峰1980 下|高峰1980 下]]、p.186</ref>。[[1987年]](昭和62年)に梅原との思い出を綴ったエッセイ『私の梅原龍三郎』(潮出版社)を刊行した。 |
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[[大河内傳次郎|大河内伝次郎]]の当たり役『[[丹下左膳]]』にも出演しており(『新編 丹下左膳 隻眼の巻』『同 恋車の巻』。ただし『恋車の巻』の映像は現存せず)、それが縁で当時建設中であった女人禁制の[[大河内山荘]]に招かれたことがある。 |
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[[2005年]](平成17年)11月、梅原の絵画作品7点、[[宮本三郎]]作の1点、[[森田元子]]作の1点、[[堂本印象]]作の2点、計11点の肖像画を秀子本人が[[世田谷区]]に寄贈し、[[世田谷美術館]]に所蔵されている。 |
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[[1946年]]、占領軍に接収されたアーニー・パイル劇場(元[[東京宝塚劇場]])で、占領軍相手の慰問公演を依頼されたが、衣装がなく困っていたところ、[[入江たか子]]が手持ちのコートをほどいて衣装に仕立ててくれたと言う。 |
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==高峰と東京オリンピック== |
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===新東宝時代=== |
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[[1965年]](昭和40年)、[[市川崑]]に撮影が依頼された映画『[[前東京オリンピック#記録映画|東京オリンピック]]』が、完成前の試写会で[[河野一郎]](オリンピック担当国務大臣)が内容に疑問を投げるコメントを発したことをきっかけに大論争が巻き起こった際、「とってもキレイで楽しい映画だった。(文句をつけた河野は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか」「市川作品はオリンピックの汚点だなとと乱暴なことばをはくなんて、少なくとも国務相と名の付く人物のすることではない」と擁護コメントを雑誌や新聞に寄せた。 |
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新東宝時代、銀座で開かれた絵の愛好会に出席するようになり、顧問を務めた画壇の巨匠[[梅原龍三郎]]と知り合う。40年にわたる親交が続き、梅原により高峰がモデルとなった多くの肖像画が描かれることとなった。初めて高峰を描いた際には目が大きくなりすぎて似ずに何度も描き直した。試行錯誤の後、目が大きいのではなく眼光が強いことに気付いたという。梅原による高峰を描いた作品は高峰著の「私の梅原龍三郎」に詳しい。 |
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高峰は直接河野に面会を求め、その席で高峰は市川と映画のすばらしさを訴えるとともに、河野が市川と面談するように依頼した<ref name="nojip249">[[#野地2001|野地2001]]、p.249</ref>。河野は談笑を交えて、「実は映画のことは少しもわからんのだ」と高峰に答えた<ref name="nojip249"/>。その後河野は高峰のとりもちで市川と面談を重ねた結果、制作スタッフの努力を認め、最終的に「できあがりに百パーセント満足したわけではないが、自由にやらせてやれ」と映画のプロデューサーに電話して矛を収めた<ref>[[#野地2001|野地2001]]、p.250</ref>。海外版の編集権などは市川に戻った。市川は後年の対談でもこの件を深く感謝している。 |
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[[市川崑]]は助監督時代に高峰の家に下宿していた仲(それ以前に高峰が京都に短期滞在した際、京都で隣室同士に下宿して食事などを共にしており、その縁で東京転勤となった市川が高峰家に1年あまり住んでいた)であり、デビュー作から2本に主演。その後市川が大監督となってからの出演はないものの、エッセイでは「戦友」「崑ちゃんと呼ばせて欲しい」と記し、後述の東京オリンピック映画騒動の際には率先して擁護に当たるなど、変わらぬ友情を示した。 |
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高峰は雑誌での河野との直接対談でも「[[永田雅一]]が友人だからあまり悪くは言えないが」と当時の映画の斜陽化と監督の力量を嘆く河野に対し「それは永田さん(経営者)の問題です。監督は所詮勤め人なんですから『これこれこういうものを作れ』と言われたらそういう物しか作れません」と直言するなど、河野に「高峰秀子と言う女は只者ではない。男に生まれていたら天下を取ったに違いない。」と言われた{{要出典|date=2013年5月}}。 |
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===その他=== |
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大の愛煙家であった。著書「おいしい人間」によれば、初めて煙草を吸ったのは22歳の時、映画『愛よ星と共に』のために煙草を吸う練習をしたとあり、 「それ以来、相当な[[ヘビースモーカー]]になり果てて今日に及んでいる」と書かれている。著書「コットンが好き」に、お気に入りの[[灰皿]]と[[ライター]]の写真があり、高峰の文章と共に紹介されている。86歳での死因は肺がんであった。 |
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==私生活== |
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映画では[[佐田啓二]]をはじめ、[[田村高廣]]、[[仲代達矢]]、[[若山富三郎]]、[[天本英世]]、[[宝田明]]らなど年少の男優と夫婦役を演じることが多かった。この傾向は[[木下惠介]]作品に著しい。すべてが円満な夫婦像ではないが、包容力と強さ優しさを備えた日本の妻の姿を提示し続けたといえる<ref>「永遠の人」で高峰扮するヒロインを陵辱して夫となり憎みあう夫婦を演じた仲代は、多数の名監督と映画史をともにしてきた俳優だが、瀬戸内寂聴との対談で、監督以外では唯一高峰の名を挙げ「厳しい人で、たくさんのことを教えられた」と述懐している。(AERA2010年6月14日号)</ref> |
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1955年(昭和30年)に[[松山善三]]とに結婚し、[[麻布十番]]近くの瀟洒だが、大女優と呼ばれる人物の邸宅としては質素な家に住んでいた。当初は、西洋の教会建築を模した建物であったようだが、老後に備えて建物を小じんまりしたものに改装し、晩年は殆ど外部との接触を絶ち、早寝早起きの生活で余生を楽しんでいたと言われる。最晩年には、自らの死期を悟ったのか、[[文藝春秋]]の編集者・ライター、斎藤明美を養女とし、自らの死後、夫・松山善三の世話を任せている。 |
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==人物・エピソード== |
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当時国交のなかった中国大陸からの映画使節団が訪日した際には外務省からの依頼により夫妻でホスト役を担っていた。戦前の中国の大スターだった[[趙丹]]が[[江青]]の俳優時代を知っているという理由だけで江青に投獄された際には、ことある都度に知己を通じ「趙丹は元気にしているか」と呼び掛け続けて[[文化大革命]]による処刑を阻んだ。この経緯は「わたしの渡世日記」「いっぴきの虫」に詳しい。 |
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*大の愛煙家であった。著書『おいしい人間』によれば、初めて煙草を吸ったのは22歳の時、映画『愛よ星と共に』のために煙草を吸う練習をしたとあり、「それ以来、相当な[[ヘビースモーカー]]になり果てて今日に及んでいる」と書かれている。著書『コットンが好き』に、お気に入りの[[灰皿]]と[[ライター]]の写真があり、高峰の文章と共に紹介されている。86歳での死因は肺がんであった。 |
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*[[1959年]](昭和34年)[[4月10日]]、[[明仁|皇太子]]と[[皇后美智子|正田美智子]]との成婚パレードの生中継にてゲスト解説を務めた。以来美智子妃との親交がある。『[[文藝春秋]]』で日本一の美人を決める対談企画があった際、高峰は「『美女』である以前に人柄や教養も含めた『美人』でないといけないという観点」から美智子妃を推し、企画で選出している。 |
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===高峰と東京オリンピック=== |
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*[[1971年]](昭和46年)2月に[[国会]]の席においてテレビの[[クイズ番組]]を低俗だと非難。そもそもの発端はフジテレビで放送されていた『[[クイズ・キングにまかせろ!]]』の賞品(1,000万円のマンションの所有権)が[[独占禁止法]]に違反しているという告発によるものだった。この騒動で高峰は「俳優を毒するクイズは最低のいやしさだ」と弁明。[[公正取引委員会]]は、全てのクイズ番組に対し賞金額の見直しを求め、同年9月に全てのクイズ番組の賞金(賞品)の上限を100万円までに定めた。 |
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[[1965年]](昭和40年)、市川崑に撮影が依頼された映画『[[前東京オリンピック#記録映画|東京オリンピック]]』が、完成前の試写会で[[河野一郎]](オリンピック担当国務大臣)が内容に疑問を投げるコメントを発したことをきっかけに大論争が巻き起こった際、「とってもキレイで楽しい映画だった。(文句をつけた河野は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか」「市川作品はオリンピックの汚点だなとと乱暴なことばをはくなんて、少なくとも国務相と名の付く人物のすることではない」と擁護コメントを雑誌や新聞に寄せた。 |
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*映画では[[佐田啓二]]をはじめ、[[田村高廣]]、[[仲代達矢]]、[[若山富三郎]]、[[天本英世]]、[[宝田明]]らなど年少の男優と夫婦役を演じることが多かった。この傾向は[[木下惠介]]作品に著しい。『永遠の人』で高峰扮するヒロインを陵辱して夫となり憎みあう夫婦を演じた仲代は、多数の名監督と映画史をともにしてきた俳優だが、[[瀬戸内寂聴]]との対談で、監督以外では唯一高峰の名を挙げ「厳しい人で、たくさんのことを教えられた」と述懐している<ref>『[[AERA]]』2010年6月14日号</ref>。 |
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*[[市川崑]]は助監督時代に高峰の家に下宿していた仲(それ以前に高峰が京都に短期滞在した際、京都で隣室同士に下宿して食事などを共にしており、その縁で東京転勤となった市川が高峰家に1年あまり住んでいた)であり、デビュー作から2本に主演。その後市川が監督として大成してからの出演はないものの、エッセイでは「戦友」「崑ちゃんと呼ばせて欲しい」と記し、後述の東京オリンピック映画騒動の際には率先して擁護に当たるなど、変わらぬ友情を示した。 |
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高峰は直接河野に面会を求め、その席で高峰は市川と映画のすばらしさを訴えるとともに、河野が市川と面談するように依頼した<ref name="nojip249">野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』小学館、2011年、p.249</ref>。河野は談笑を交えて、「実は映画のことは少しもわからんのだ」と高峰に答えた<ref name="nojip249"/>。その後河野は高峰のとりもちで市川と面談を重ねた結果、制作スタッフの努力を認め、最終的に「できあがりに百パーセント満足したわけではないが、自由にやらせてやれ」と映画のプロデューサーに電話して矛を収めた<ref>野地、2011年、p.250</ref>。海外版の編集権などは市川に戻った。市川は後年の対談でもこの件を深く感謝している。 |
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*街を歩いていてもファンに追いかけられるという人気であったが、ある日逃げ込んだ銀座の骨董品屋で骨董品の魅力に取り付かれる。以後骨董品集めが趣味となり、造詣が深い。「いい仕事してますね」のセリフで有名な[[中島誠之助]]も「姐さん」と呼ぶ長年の知己であり、一緒に骨董屋を開いていたこともある。この経緯は自伝『にんげん蚤の市』に詳しい。 |
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*『馬』の長期ロケで[[山形県]][[最上町]]に滞在した際に、高峰に一目惚れした少年がのちの[[ケーシー高峰]]で、芸名も初恋の人たる彼女に由来する。 |
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高峰は雑誌での河野との直接対談でも「[[永田雅一]]が友人だからあまり悪くは言えないが」と当時の映画の斜陽化と監督の力量を嘆く河野に対し「それは永田さん(経営者)の問題です。監督は所詮勤め人なんですから『これこれこういうものを作れ』と言われたらそういう物しか作れません」と直言するなど、河野に「高峰秀子と言う女は只者ではない。男に生まれていたら天下を取ったに違いない」と言われた{{要出典|date=2013年5月}}。 |
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*[[原節子]]が東宝へ移籍して知り合ってからは原を「お姉ちゃん」と呼ぶ間柄であった。 |
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*[[大河内傳次郎]]主演の『新編 丹下左膳 隻眼の巻』『同 恋車の巻』にも出演しており、それが縁で当時建設中であった女人禁制の[[大河内山荘]]に招かれたことがある。 |
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===私生活=== |
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*当時国交のなかった[[中国]]からの映画使節団が訪日した際、[[外務省]]からの依頼により夫妻でホスト役を担っていた。戦前の中国の大スターだった[[趙丹]]が[[江青]]の俳優時代を知っているという理由だけで江青に投獄された際には、ことある都度に知己を通じ「趙丹は元気にしているか」と呼び掛け続けて[[文化大革命]]による処刑を阻んだ。この経緯は『わたしの渡世日記』『いっぴきの虫』に詳しい。 |
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映画『[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]』の撮影で知り合った[[映画監督]]、[[脚本家]]の[[松山善三]]と[[1955年]]([[昭和]]30年)に結婚。麻布十番近くの瀟洒だが、大女優の邸宅としては質素な家に住んでいた。当初は、西洋の教会建築を模した建物であったようだが、老後に備えて、建物を小じんまりしたものに改装し、晩年は殆ど外部との接触を絶ち、早寝早起きの生活で余生を楽しんでいたと言われる。最晩年には、自らの死期を悟ったのか、[[文藝春秋]]の編集者・ライター、斎藤明美を養女とし、自らの死後、夫・松山善三の世話を任せている。 |
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*自著のエッセイの装丁は長年の知己の[[安野光雅]]によるものだが、あるとき、安野のサイン会が開催された際、高峰がサインを待つ行列に並んでいた。それを見つけた安野から、「周りの人が見ていますよ」と声をかけられたところ、高峰は「別に構わないじゃない」と応じたという。 |
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== 受賞・受章歴 == |
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*[[毎日映画コンクール]] |
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[[Image:Ginza KanKan Musume.jpg|thumb|200px|『銀座カンカン娘』(1949)<br />[[笠置シズ子]](左)と]] |
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**1954年:女優主演賞『二十四の瞳』『女の園』『この広い空のどこかに』『悪の愉しさ』 |
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;歌手活動 |
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**1955年:女優主演賞『浮雲』 |
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:戦前からレコードを出していた。1942年の『森の水車』は発売禁止となる。1949年の主演映画『[[銀座カンカン娘]]』の同名主題歌([[服部良一]]作曲)、1951年の主演映画『[[カルメン故郷に帰る]]』の同名主題歌([[黛敏郎]]作曲)を歌う。 |
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**1957年:女優主演賞『喜びも悲しみも幾歳月』『あらくれ』 |
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; 作家活動 |
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**1961年:女優主演賞『永遠の人』『名もなく貧しく美しく』 |
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:週刊朝日連載の『[[わたしの渡世日記]]』は関係者が実名で出てくる。<!--NOR : ことに加えその文才の高さから-->「本当に本人が書いているのか」という問い合わせが殺到した<ref>5歳から子役を務めて以後縋り付く家族十数人をずっと養っていて、高峰は小学校もロクに(たった20日足らず)行けなかったし、本来なら教師代わりを務める養母がカタカナしか読めぬ文盲だったから、彼女が漢字も書けず引き算や掛け算もできなかった。30歳での結婚後、字が読めずにいつも他の本をめくって同じ形の文字を捜しているのを夫松山善三が気づき、中学時代に使った国語辞典を与え、高峰はこんなに便利なものがあったのかと感動した。</ref>が、当時の週刊朝日の編集部では、「ゴーストライターを使っているなら、あんな個性的な文章にはなりません」と答えたといわれる。この自伝は当時のベストセラーになり、後に、文庫化されている。このエッセイで第24回[[日本エッセイスト・クラブ賞]]を受賞した。料理の本ほか、エッセイ本も多数ある。 |
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**2010年:特別賞(没後) |
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: 梅原龍三郎の逝去に際し、『私の梅原龍三郎』を出版した。最初の高峰秀子像が東京国立近代美術館にある他、世田谷美術館にもクレパスや油彩画、デッサンなど7点が高峰から寄贈されている。 |
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*1954年:[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]] 主演女優賞『二十四の瞳』『女の園』『この広い空のどこかに』 |
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*1955年:[[キネマ旬報ベスト・テン]] 女優賞『浮雲』 |
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*1956年:第3回[[アジア太平洋映画祭|東南アジア映画祭]] 最優秀女優賞『浮雲』 |
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*1961年:第5回[[サンフランシスコ国際映画祭]] 主演女優賞『名もなく貧しく美しく』 |
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*1962年:第12回[[芸術選奨]]『名もなく貧しく美しく』『永遠の人』 |
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*1965年:第17回[[ロカルノ国際映画祭]] 最優秀女優賞『乱れる』 |
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*1975年:第21回映団連永年勤続功労賞 |
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*1975年:[[褒章#紺綬褒章|紺綬褒章]] |
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*1976年:第24回[[日本エッセイスト・クラブ賞]]『わたしの渡世日記』 |
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*[[日本アカデミー賞]] |
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**1979年:優秀主演女優賞『衝動殺人 息子よ』 |
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**1996年:会長功労賞 |
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**2011年:会長特別賞(没後) |
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*1994年:第4回[[日本映画批評家大賞]] ゴールデン・グローリー賞 |
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*2011年:第56回「[[映画の日]]」特別功労章<ref>[http://www.eidanren.com/activity01_02.html 映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧]、映画産業団体連合会、2015年4月29日閲覧</ref>(没後) |
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*2011年:[[おおさか映画祭|おおさかシネマフェスティバル2011]] 特別賞(没後) |
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*2011年:第29回[[ゴールデングロス賞]] 特別功労賞(没後) |
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== 出演 == |
== 出演作品 == |
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<!-- 高峰秀子の記事ですので、各作品の情報はそれぞれの記事の方にてお願いします --> |
<!-- 高峰秀子の記事ですので、各作品の情報はそれぞれの記事の方にてお願いします --> |
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=== 映画 === |
=== 映画 === |
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[[ |
[[File:Hideko Takamine in Uma1.jpg|thumb|『[[馬 (映画)|馬]]』(1941年)]] |
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[[Image:Hideko Takamine as Carmen.jpg|thumb|250px|『[[カルメン故郷に帰る]]』(1951年)]] |
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太字の題名は[[キネマ旬報]]ベストテンにランクインした作品(戦後のみ)。 |
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'''太字の題名は[[キネマ旬報ベスト・テン]]にランクインした作品''' |
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*[[母 (鶴見祐輔)|母]](1929年)フィルム現存(DVD化) |
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*[[母 (鶴見祐輔)|母]](1929年、[[松竹キネマ]]) - 春子 |
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*[[愛よ人類と共にあれ]] 前編 日本編 / 後編 米国編(1931年)フィルム現存(CS衛星劇場放送) |
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* |
*レヴューの姉妹(1930年、松竹キネマ) - 肇 |
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* |
*大東京の一角(1930年、松竹キネマ) - 一郎 |
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*[[麗人 (映画)|麗人]](1930年、松竹キネマ) - 少年岩夫 |
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*[[お嬢さん (吉屋信子)|お嬢さん]](1937年) |
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*父(1930年、松竹キネマ) - お綱 |
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*[[良人の貞操]](1937年)フィルム現存 |
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*姉妹篇 母(1930年、松竹キネマ) - ゆき子 |
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*[[綴方教室]](1938年)フィルム現存 |
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*私のパパさんママが好き(1931年、松竹キネマ) - みつ子 |
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*[[われ等が教官]](1939年) |
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* |
*美わしき愛(1931年、松竹キネマ) - お糸の実の娘 |
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*[[愛よ人類と共にあれ]](1931年、松竹キネマ) - 息子泰夫 |
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*[[その前夜]](1939年)フィルム現存 |
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*暴風雨の薔薇(1931年、松竹キネマ) - 晃一 |
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*[[花つみ日記]](1939年)フィルム現存 |
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*女はいつの世にも(1931年、松竹キネマ) - 太郎 |
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*[[われ等が教官]](1939年) |
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*姉妹 前後篇(1931年、松竹キネマ) - 類子 |
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*[[秀子の應援團長]](1940年)フィルム現存 |
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*一太郎やあい(1931年、松竹キネマ) - きぬ |
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*[[そよ風父と共に]](1940年) |
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*'''[[東京の合唱]]'''(1931年、松竹キネマ) - 長女 |
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*[[釣鐘草]](1940年) |
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*麗人の微笑(1931年、松竹キネマ) - 洋一 |
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*[[女学生記]](1941年) |
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*情熱(1932年、松竹キネマ) - 光子の娘 |
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*[[昨日消えた男]](1941年)フィルム現存 |
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*[[七つの海]] 前後編(1932年、松竹キネマ) - 曽根百代 |
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*[[阿波の踊子]](1941年)フィルム現存 |
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*陽気なお嬢さん(1932年、松竹キネマ) - 道子 |
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*[[馬 (映画)|馬]](1941年)フィルム現存 |
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*[[天国に結ぶ恋]](1932年、松竹キネマ) |
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*[[秀子の車掌さん]](1941年)フィルム現存 |
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*[[ |
*[[不如帰 (小説)#映画|不如帰]](1932年、松竹キネマ) - 道子 |
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*[[鼠小僧次郎吉 (大佛次郎)#1932年版|鼠小僧次郎吉 解決篇]](1932年、松竹キネマ) - 太郎吉 |
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*[[愛の世界 山猫とみの話]](1943年)フィルム現存 |
|||
*頬を寄すれば(1933年、松竹キネマ) - 美也子 |
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*[[北の三人]](1945年) |
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*与太者と海水浴(1933年、松竹キネマ) - 敏行 |
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*[[浦島太郎の後裔]](1946年) |
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*東洋の母(1934年、松竹キネマ) - 静子の子供時代 |
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*'''或る夜の殿様'''(1946年) |
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*ぬき足さし足(1934年、松竹キネマ) - とし坊 |
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*'''幸福への招待'''(1947年) |
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*'''その夜の妻'''(1934年、松竹キネマ) - 重子 |
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*[[花ひらく]](1948年) |
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*母の愛(1935年、松竹キネマ) - 春江 |
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*[[三百六十五夜]] 東京篇 / 大阪篇(1948年) |
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*永久の愛(1935年、松竹キネマ) - 秀子 |
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*[[春の戯れ]](1949年) |
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*新道 前後篇(1936年、松竹キネマ) - 京子 |
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*[[銀座カンカン娘]](1949年) |
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*花嫁かるた(1937年、松竹キネマ) - 菊江 |
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*'''[[細雪]]'''(1950年) |
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*花籠の歌(1937年、松竹キネマ) - 浜子 |
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*'''[[宗方姉妹]]'''(1950年) |
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*[[良人の貞操]](1937年、[[ピー・シー・エル映画製作所|P.C.L.]]) - 睦子 |
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*'''[[カルメン故郷に帰る]]'''(1951年) |
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*江戸っ子健ちゃん(1937年、P.C.L.) - ミーちゃん |
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*[[我が家は楽し]](1951年) |
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*見世物王国(1937年、P.C.L.) - 秀ちゃん |
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*'''[[稲妻 (映画)|稲妻]]'''(1952年) |
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*白薔薇は咲けど(1937年、P.C.L.) - 花屋の娘 |
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*'''[[カルメン純情す]]'''(1952年) |
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*[[お嬢さん (吉屋信子)|お嬢さん]](1937年、P.C.L.) - 失業した先生の娘 |
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*'''煙突の見える場所'''(1953年) |
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*'''[[ |
*'''[[綴方教室#1938年|綴方教室]]'''(1938年、[[東宝映画]]) - 正子 |
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*藤十郎の恋(1938年、東宝映画) - 上村竹之亟 |
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*[[この広い空のどこかに]](1954年) |
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*虹立つ丘(1938年、東宝映画) - 逸子 |
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*'''[[女の園]]''' (1954年) |
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*チョコレートと兵隊(1938年、東宝映画) - 茂子 |
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*'''[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]''' (1954年) |
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*美はしき出発(1939年、東宝映画) - 奈津子 |
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*'''[[浮雲 (映画)|浮雲]]'''(1955年) |
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*娘の願ひは唯一つ(1939年、東宝映画) - ひで子 |
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*'''[[流れる]]'''(1956年) |
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*ロッパの頬白先生(1939年、東宝映画) - 秀代 |
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*[[子供の眼]](1956年) |
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*[[忠臣蔵 (1939年の映画)|忠臣蔵]](1939年、東宝映画) - 一力仲居あぐり |
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*'''[[喜びも悲しみも幾歳月]]'''(1957年) |
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*樋口一葉(1939年、東宝映画) - 大黒屋みどり |
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*[[あらくれ (小説)|あらくれ]](1957年) |
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*われ等が教官(1939年、東宝映画) - 秀子 |
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*'''[[張込み]]'''(1958年) |
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*その前夜(1939年、東宝映画) - おつう |
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*'''[[無法松の一生 (1958年の映画)|無法松の一生]]'''(1958年) |
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*[[花つみ日記]](1939年、東宝映画) - 篠原栄子 |
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*'''[[笛吹川 (映画)|笛吹川]]'''(1960年) |
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*新篇丹下左膳 隻眼の巻(1939年、東宝映画) - お春 |
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*[[女が階段を上る時]](1960年) |
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*[[秀子の應援團長]](1940年、[[南旺映画]]) |
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*[[娘・妻・母]](1960年) |
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*そよ風父と共に(1940年、東宝映画) - 秀子 |
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*'''[[人間の條件 (映画)|人間の條件]] 完結篇'''(1961年) |
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*釣鐘草(1940年、東宝映画) - 弓子 |
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*'''[[名もなく貧しく美しく]]'''(1961年) |
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*エノケンの孫悟空(1940年、東宝映画) - お姫様 |
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*'''[[永遠の人]]'''(1961年) |
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*[[昨日消えた男]](1941年、東宝映画) - お京 |
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*[[妻として女として]](1961年) |
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*'''[[馬 (映画)|馬]]'''(1941年、東宝映画) - 小野田いね |
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*[[女の座]](1962年) |
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*[[阿波の踊子]](1941年、東宝映画) - お光 |
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*[[放浪記]](1962年) |
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*女学生記(1941年、[[東京発声]]) - 鎌田佐智子 |
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*[[女の歴史]](1963年) |
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*[[秀子の車掌さん]](1941年、南旺映画) - おこまさん |
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*[[乱れる]](1964年) |
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*武蔵坊弁慶(1942年、東宝映画) - 牛若丸 |
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*'''われ一粒の麦なれど'''(1964年) |
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*希望の青空(1942年、東宝映画) - 秀子 |
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*[[ひき逃げ (映画)|ひき逃げ]](1966年) |
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*待って居た男(1942年、東宝映画) - お雪 |
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*'''[[華岡青洲の妻]]'''(1967年) |
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*[[婦系図#1942年版|婦系図]](1942年、東宝映画) - 妙子 |
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*[[鬼の棲む館]](1969年) |
|||
*[[阿片戦争 (1943年の映画)|阿片戦争]](1943年、東宝映画) - 麗蘭 |
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*'''[[恍惚の人]]'''(1973年) |
|||
*愛の世界 山猫とみの話(1943年、東宝映画) - 小田切とみ |
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*[[スリランカの愛と別れ]](1976年) |
|||
*[[ハナ子さん]](1943年、東宝映画) - チヨコさん |
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*[[ふたりのイーダ]](1976年) |
|||
*兵六夢物語(1943年、東宝映画) - 怪童女 |
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*[[泣きながら笑う日]](1976年) |
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*若き日の歓び(1943年、東宝映画) - 高村裕子 |
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*'''[[衝動殺人 息子よ]]'''(1979年) |
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*おばあさん(1944年、[[松竹]]) - 丸子 |
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*三尺左吾平(1944年、[[東宝]]) - お妙 |
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*[[勝利の日まで#映画|勝利の日まで]](1945年、東宝) |
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*[[北の三人]](1945年、東宝) - 松本よしえ |
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*[[陽気な女]](1946年、東宝) - 新井陽子 |
|||
*[[浦島太郎の後裔]](1946年、東宝) - 龍田阿加子 |
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*[[明日を創る人々]](1946年、東宝) - 高峰 |
|||
*'''[[或る夜の殿様]]'''(1946年、東宝) - 妙子 |
|||
*東宝ショウボート(1946年、東宝) - 靴磨きの少年 |
|||
*[[東宝千一夜]](1947年、[[新東宝]]) - 高山秀子 |
|||
*大江戸の鬼(1947年、新東宝) - おなつ |
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*愛よ星と共に(1947年、新東宝) - 白河はるえ |
|||
*'''幸福への招待'''(1947年、新東宝) - 椎名ヒサ |
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*愛情診断書(1958年、新東宝) - 秋枝 |
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*花ひらく 真知子より(1948年、新東宝) - 曽根真知子 |
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*[[三百六十五夜]](1948年、新東宝) - 小牧蘭子 |
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*虹を抱く処女(1948年、新東宝) - 北条あき子 |
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*[[春の戯れ]](1949年、映画芸術協会) - お花 |
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*グッドバイ(1949年、新東宝) - 永井きぬ子 |
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*[[銀座カンカン娘]](1949年、新東宝) - お秋 |
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*処女宝(1950年、新東宝) - 真金 |
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*'''[[細雪#1950年版|細雪]]'''(1950年、新東宝) - 妙子 |
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*'''[[宗方姉妹]]'''(1950年、新東宝) - 満里子 |
|||
*戦火を越えて(1950年、[[太泉映画]]) - 朱燕 |
|||
*[[佐々木小次郎 (1950年の映画)|佐々木小次郎]](1950年、東宝) - 琉球娘奈美 |
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*女の水鏡(1951年、松竹) - 苗子 |
|||
*'''[[カルメン故郷に帰る]]'''(1951年、[[松竹]]) - おきん |
|||
*[[我が家は楽し]](1951年、松竹) - 長女朋子 |
|||
*朝の波紋(1952年、新東宝) - 瀧本篤子 |
|||
*東京のえくぼ(1952年、新東宝) - 峯京子 |
|||
*'''[[稲妻 (映画)|稲妻]]'''(1952年、[[大映]]) - 小森清子 |
|||
*'''[[カルメン純情す]]'''(1952年、松竹) - カルメン |
|||
*女といふ城 マリの巻・夕子の巻(1953年、新東宝) - 築地マリ |
|||
*'''[[煙突の見える場所]]'''(1953年、新東宝) - 東仙子 |
|||
*明日はどっちだ(1953年、新東宝) - 光奴 |
|||
*'''[[雁 (小説)|雁]]'''(1953年、大映) - お玉 |
|||
*第二の接吻(1954年、滝村プロ) - 山内倭文子 |
|||
*'''[[女の園]]''' (1954年、松竹) - 出石芳江 |
|||
*'''[[二十四の瞳 (映画)|二十四の瞳]]''' (1954年、松竹) - 大石久子 |
|||
*[[この広い空のどこかに]](1954年、松竹) - 泰子 |
|||
*'''[[浮雲 (映画)|浮雲]]'''(1955年、東宝) - 幸田ゆき子 |
|||
*渡り鳥いつ帰る(1955年、[[東京映画]]) - 街子 |
|||
*[[遠い雲]](1955年、松竹) - 寺田冬子 |
|||
*[[くちづけ (1955年の映画)|くちづけ 第4話「女同士」]](1955年、東宝) - 金田朋子 |
|||
*[[新・平家物語 義仲をめぐる三人の女]](1956年、大映) - 冬姫 |
|||
*子供の眼(1956年、松竹) - 喜世子 |
|||
*[[妻の心]](1956年、東宝) - 富田喜代子 |
|||
*'''[[流れる]]'''(1956年、東宝) - 勝代 |
|||
*雲の墓標より 空ゆかば(1957年、松竹) - さち |
|||
*[[あらくれ (小説)#映画|あらくれ]](1957年、東宝) - お島 |
|||
*'''[[喜びも悲しみも幾歳月]]'''(1957年、松竹) - 有沢きよ子 |
|||
*[[風前の灯]](1957年、松竹) - 佐藤百合子 |
|||
*'''[[張込み#映画|張込み]]'''(1958年、松竹) - 横川さだ子 |
|||
*'''[[無法松の一生 (1958年の映画)|無法松の一生]]'''(1958年、東宝) - 吉岡良子 |
|||
*[[女が階段を上る時]](1960年、東宝) - 矢代圭子 |
|||
*[[娘・妻・母]](1960年、東宝) - 坂西和子 |
|||
*'''[[笛吹川 (映画)|笛吹川]]'''(1960年、松竹) - おけい |
|||
*'''[[名もなく貧しく美しく]]'''(1961年、東京映画) - 片山秋子 |
|||
*'''[[人間の條件 (映画)|人間の條件 第5・6部]]'''(1961年、[[文芸プロダクションにんじんくらぶ|にんじんくらぶ]]) - 避難民の女 |
|||
*[[妻として女として]](1961年、東宝) - 西垣三保 |
|||
*'''[[永遠の人]]'''(1961年、松竹) - さだ子 |
|||
*[[女の座]](1962年、東宝) - 石川芳子 |
|||
*山河あり(1962年、松竹) - 井上きしの |
|||
*[[二人で歩いた幾春秋]](1962年、松竹) - 野中とら江 |
|||
*[[放浪記#1962年版|放浪記]](1962年、東宝) - 林ふみ子 |
|||
*ぶらりぶらり物語り(1962年、東京映画) - 桑田駒子 |
|||
*[[女の歴史]](1963年、東宝) - 清水信子 |
|||
*[[乱れる]](1964年、東宝) - 森田礼子 |
|||
*'''われ一粒の麦なれど'''(1964年、東京映画) - 根本倫子 |
|||
*六條ゆきやま紬(1965年、東京映画) - 六條いね |
|||
*[[ひき逃げ (映画)|ひき逃げ]](1966年、東宝) - 伴内国子 |
|||
*[[名もなく貧しく美しく#続編|続・名もなく貧しく美しく 父と子]](1967年、東京映画) - 片山秋子 |
|||
*'''[[華岡青洲の妻#映画|華岡青洲の妻]]'''(1967年、大映) - 於継 |
|||
*鬼の棲む館(1969年、大映) - 楓 |
|||
*'''[[恍惚の人#映画(1973年)|恍惚の人]]'''(1973年、[[芸苑社]]) - 立花昭子 |
|||
*[[スリランカの愛と別れ]](1976年、東宝) - ジャカランタ夫人 |
|||
*ふたりのイーダ(1976年、同製作プロ) - 須川菊枝 |
|||
*泣きながら笑う日(1976年、同製作プロ) - 中井雪子 |
|||
*'''[[衝動殺人 息子よ]]'''(1979年、松竹) - 川瀬雪枝 |
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=== テレビドラマ === |
=== テレビドラマ === |
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*[[東芝日曜劇場]] ([[TBSテレビ|TBS]]) |
*[[東芝日曜劇場]] ([[TBSテレビ|TBS]]) |
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**「浮かれ猫」(1968年) |
**第578回「浮かれ猫」(1968年) |
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**「簪マチ子」(1968年) |
**第583回「簪マチ子」(1968年) |
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**「君は今どこにいるの」(1968年) |
**第605回「君は今どこにいるの」(1968年) |
||
**「あさきゆめみし」(1969年) |
**第632回「あさきゆめみし」(1969年) |
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**「 |
**第674回「父と母の子」(1969年) |
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**「 |
**第686回「海はあおいか」(1970年) |
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**「 |
**第735回「一筆啓上致します」(1971年) |
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**「 |
**第786回「ささやくなら愛を」(1972年) |
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**第863回「雨の日の恋」(1973年) |
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*[[ポーラ名作劇場]]「霰」(1969年、[[テレビ朝日|NET]]) |
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**第891回「春の別れ」(1974年) |
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*[[火曜劇場]]「[[微笑 (近藤啓太郎の小説)|微笑]]」(1975年、[[日本テレビ放送網|NTV]]) |
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**第948回「台所のおと」(1975年) |
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*[[落日燃ゆ]](1976年、NET) |
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**第999回「母の待人」(1976年) |
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*[[木曜ゴールデンドラマ]]「生きるなり」(1980年、NTV) |
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**第1099回「流れゆく日々」(1978年) |
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*[[ポーラ名作劇場]] / 霰(1969年、[[テレビ朝日|NET]]) |
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*[[火曜劇場]] / [[微笑 (近藤啓太郎の小説)#1975年版|微笑]](1975年、[[日本テレビ放送網|NTV]]) - 近野由美 |
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*[[落日燃ゆ#テレビドラマ(1976年版)|落日燃ゆ]](1976年、NET) - 広田静子 |
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*[[木曜ゴールデンドラマ]] / 生きるなり(1980年、NTV) |
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=== テレビCM === |
=== テレビCM === |
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*[[キッコーマン]]「さしみしょうゆ」 |
*[[キッコーマン]]「さしみしょうゆ」 |
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== そのほか == |
=== そのほかの番組 === |
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<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> |
<!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> |
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*[[ |
*[[小川宏ショー]]([[フジテレビ|CX]]) - 「高峰秀子対談」の司会 |
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*[[ビッグショー (テレビ番組)|ビッグショー]]「[[灰田勝彦]]([[日本放送協会|NHK]]) |
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ほか多数 |
ほか多数 |
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== 著書 == |
== 著書 == |
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*『巴里ひとりある記』、映画世界社、1953年 / [[新潮社]]、2011年11月 ISBN 9784103316114 |
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*わたしの渡世日記 上下 [[文春文庫]] [[1998年]]3月ISBN 4167587025, ISBN 4167587033 |
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*つ |
*『まいまいつぶろ』、映画世界社、1955年 / 新潮社、2011年11月 ISBN 9784103316121 |
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*『私のインタヴュー』、[[中央公論社]]、1958年 / 新潮社、2012年6月 ISBN 9784103316138 |
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*私の梅原龍三郎 文春文庫 [[1997年]]10月 ISBN 4167587017 |
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*『瓶の中』、文化出版局、1972年 / [[河出書房新社]]、2014年4月 ISBN 9784309022680 |
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*にんげん蚤の市 文春文庫 [[2000年]]1月 ISBN 4167587041 |
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*『わたしの渡世日記 上下』、[[朝日新聞社]]、1976年 / 新潮社、2012年年1月 ISBN 9784101369815, ISBN 9784101369822 |
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*台所のオーケストラ 文春文庫 [[2000年]]11月 ISBN 4167587055 |
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* |
*『いっぴきの虫』、[[潮出版社]]、1978年10月 / 文春文庫、2011年10月 ISBN 9784167587116 |
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*『つづりかた巴里』、潮出版社、1979年7月 / [[中公文庫]] 2014年10月 ISBN 9784122060302 |
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*[[コットンが好き]] 文春文庫 [[2003年]]1月 ISBN 4167587076 |
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*『いいもの見つけた』、潮出版社、1980年10月 / [[集英社文庫]]、1986年2月 ISBN 4087490866 |
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*人情話松太郎 文春文庫 [[2004年]]1月 ISBN 4167587084 |
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*『台所のオーケストラ』、潮出版社、1982年6月 / 新潮社、2012年7月 ISBN 9784101369846 |
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*おいしい人間 文春文庫 [[2004年]]7月 ISBN 4167587092 |
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* |
*『コットンが好き』、潮出版社、1983年10月 / 文春文庫、2003年1月 ISBN 4167587076 |
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*『人情話松太郎』、潮出版社、1985年2月 / 文春文庫、2004年1月 ISBN 4167587084 |
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*にんげん蚤の市 清流出版 [[2009年]]7月 ISBN 4860292863 |
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*『私の梅原龍三郎』、潮出版社、1987年2月 / 文春文庫、1997年10月 ISBN 4167587017 |
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エッセイの装丁は長年の知己の[[安野光雅]]によるものである。あるとき、[[安野光雅]]のサイン会が開催された際、サインを待つ行列に並んでいた。それを見つけた[[安野光雅]]から、「周りの人が見ていますよ」と声をかけたところ、高峰は、「別に構わないじゃない」と応じたといわれる。 |
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*『おいしい人間』、潮出版社、1992年5月 / 文春文庫、2004年7月 ISBN 4167587092 |
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他にも松山善三との共著エッセイなどがある。 |
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*『忍ばずの女』、潮出版社、1994年10月 ISBN 4267013624 / 中公文庫、2012年5月 ISBN 9784122056381 |
|||
*『にんげん蚤の市』、[[文藝春秋]]、1997年1月 ISBN 4163525807 / 新潮社、2013年1月 ISBN 9784101369587 |
|||
*『にんげんのおへそ』、文藝春秋、1998年5月 ISBN 4163540504 / 新潮社、2012年1月 ISBN 9784101369839 |
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*『にんげん住所録』、文藝春秋、2002年7月 ISBN 4163573305 / 文春文庫、2005年7月 ISBN 4167587106 |
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*『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』、新潮社、2013年3月 ISBN 9784103316145 |
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以下は松山善三との共著エッセイ |
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*『旅は道連れガンダーラ』、潮出版社、1979年5月 / 中公文庫、2012年1月 ISBN 9784122055919 |
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*『旅は道連れツタンカーメン』、潮出版社、1980年6月 / 中公文庫、2012年3月 ISBN 9784122056213 |
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*『旅は道連れアロハ・オエ』、潮出版社、1982年12月 / 中公文庫(改題『旅は道連れアロハ・ハワイ』)、2011年11月 ISBN 9784122055674 |
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*『旅は道づれ雪月花』、文化出版局、1986年6月 / ハースト婦人画報社、2012年3月 ISBN 9784573022034 |
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==脚注== |
==脚注== |
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{{Reflist}} |
{{Reflist|2}} |
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==参考文献== |
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* {{Cite book|和書 |
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|author = |
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|year = 1980 |
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|title = 日本映画俳優全集 女優編 |
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|publisher = 、[[キネマ旬報社]] |
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|ref = キネマ旬報1980 |
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}} |
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* {{Cite book|和書 |
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|author = 高峰秀子 |
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|year = 1980 |
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|title = わたしの渡世日記 上 |
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|publisher = 、[[朝日新聞社]] |
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|isbn = |
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|ref = 高峰1980 上 |
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}} |
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* {{Cite book|和書 |
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|author = 高峰秀子 |
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|year = 1980 |
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|title = わたしの渡世日記 下 |
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|publisher = 、[[朝日新聞社]] |
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|isbn = |
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|ref = 高峰1980 下 |
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}} |
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* {{Cite book|和書 |
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|author = 野地秩嘉 |
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|year = 2001 |
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|title = TOKYOオリンピック物語 |
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|publisher = 、[[小学館]] |
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|isbn = 9784093881043 |
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|ref = 野地2001 |
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== 関連項目 == |
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== 外部リンク == |
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*[http://www.momat.go.jp/FC/Takamine/ 東京国立近代美術館フィルムセンター] - 高峰秀子展[http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2004-09/kaisetsu.html][http://www.momat.go.jp/FC/NFC_Calendar/2004-10-11/kaisetsu.html] |
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2015年5月3日 (日) 10:18時点における版
たかみね ひでこ 高峰 秀子 | |||||||||||||||
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本名 | 松山 秀子(まつやま ひでこ) | ||||||||||||||
生年月日 | 1924年3月27日 | ||||||||||||||
没年月日 | 2010年12月28日(86歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 日本・北海道函館市 | ||||||||||||||
死没地 | 日本・東京都渋谷区 | ||||||||||||||
身長 | 158cm[1] | ||||||||||||||
職業 | 女優、歌手、エッセイスト | ||||||||||||||
ジャンル | 映画、テレビドラマ | ||||||||||||||
活動期間 | 1929年 - 1979年 | ||||||||||||||
活動内容 |
1929年:松竹蒲田撮影所で映画デビュー 1937年:東宝に移籍 1946年:新東宝に移籍 1950年:フリーとなる 1955年:松山善三と結婚 1979年:引退 | ||||||||||||||
配偶者 | 松山善三(映画監督) | ||||||||||||||
著名な家族 | 養女:斎藤明美(ライター) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
『綴方教室』 / 『宗方姉妹』 『カルメン故郷に帰る』 / 『稲妻』 『二十四の瞳』 / 『浮雲』 『喜びも悲しみも幾歳月』 / 『張込み』 『笛吹川』 / 『女が階段を上る時』 『名もなく貧しく美しく』 / 『乱れる』 『恍惚の人』 / 『衝動殺人 息子よ』 | |||||||||||||||
|
高峰 秀子(たかみね ひでこ、1924年3月27日 - 2010年12月28日)は、日本の女優、歌手、エッセイスト。本名は松山 秀子(まつやま ひでこ)、旧姓は平山(ひらやま)。愛称はデコちゃん。
戦前・戦後を通じて日本映画界で活躍した女優の一人。1929年(昭和4年)に松竹蒲田撮影所で子役デビューし、天才子役スターとして活躍。ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較された。その後東宝、新東宝を経てフリーとなる。木下惠介、成瀬巳喜男監督作品に常連出演したほか、小津安二郎、豊田四郎、稲垣浩、五所平之助など日本映画界を彩る巨匠監督の名作に数多く出演した。1979年(昭和54年)に女優を引退し、その後はエッセイストとして活動。主な出演作品に『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『浮雲』など。著書に自伝『わたしの渡世日記』など。夫は映画監督の松山善三。
経歴
1924年(大正13年)3月27日、北海道函館市に父・平山錦司、母・イソの長女として生まれる[2]。生家は祖父の力松が経営していた「マルヒラ砂場」という蕎麦屋料亭で、力松は他にも「マルヒラ劇場」「マルヒラカフェ」などを経営する土地の実力者だった[2][3]。兄に實、政二、隆三、弟に孝市郎がいる[4][5]。
4歳の時に母が結核で亡くなり、かねてから秀子を養女にと望み、名付け親にもなった父の妹・志げの養女となって東京に移り住む[2]。志げは17歳の時に函館に来た活動弁士・荻野市治と駆け落ちして結婚し、高峰秀子の名で女活弁士になったが、後に二人とも活弁を廃業、市治は旅回りの一座の興行ブローカーとなってほとんど家庭を留守にし、志げは内職の針仕事で生計を立てていた[2]。
名子役に
1929年(昭和4年)9月、家主である階下の住人の友達で、松竹蒲田撮影所の俳優だった野寺正一の案内で養父に連れられて蒲田撮影所を見学に行くことになった[2][6]。その日は、野村芳亭監督の『母』の子役オーディションの日で、秀子は養父におされてオーディションの列の最後尾に並ばされて飛び入り参加することになったが、野村監督に思いがけなくも選び出され、ヒロインの川田芳子演じる母親の娘役で出演することとなった[2][5]。10月1日付で松竹蒲田撮影所に入社し、志げの活弁時代の芸名をそのままつけて高峰秀子と名乗った[2]。12月1日に封切られた『母』は、鶴見祐輔原作の母もの映画で、浅草では45日間のロングランヒットを記録し、翌年にはアンコール上映されるほどの大ヒット作となった[2]。初任給は35円で、まもなく住居を鶯谷から撮影所近くの荏原郡蒲田町北蒲田に移した[2]。
たちまち重宝がられた秀子は、五所平之助監督の『大東京の一角』、島津保次郎監督の『愛よ人類と共にあれ』、小津安二郎監督の『東京の合唱』などに出演し人気子役となる。時には男の子の役もやらされ、スタッフから「秀坊」のニックネームで呼ばれた[2]。また、五所監督は秀子を養子にと考えていたが、志げの反対で諦めたという[7]。1931年(昭和6年)、蒲田の尋常小学校に入学するが、徹夜の撮影も多かったためほとんど学校には通えなかった。1932年(昭和7年)4月、明治座の新派公演『松風村雨』に借りられ、花柳章太郎・岡田嘉子と共演。この公演の『満州国』にも溥儀の幼年時代を演じ、すでにうたわれていた天才子役の名を一層高めた[2]。
1934年(昭和9年)、作詞家の藤田まさとに可愛がられた秀子は、東海林太郎が『赤城の子守唄』の大ヒットを記念して日比谷公会堂で行った実演ステージに勘太郎役で出演。これで秀子を気に入った東海林は養女にすることを熱望し、「歌とピアノをみっちり仕込む」と説得、志げと東海林家に移る[2]。東海林の秀子に対する溺愛ぶりは尋常ではなく、秀子を片時も離さず、地方の公演先にまで連れていくほどで、東海林家へ入る時の条件だったピアノと歌のレッスンはお預けになり、撮影所にも通わないようになった[8]。一方、志げは無給で女中がわりに働かされるという扱いを受け、それに耐えかねた秀子は志げを促し東海林家を出て、大森のアパートに引っ越した[8]。これに激怒した藤田は東海林のために書いた「妻恋道中」「鴛鴦道中」を新人の上原敏に歌わせ、以降はほとんど東海林に曲を書かなくなった。
1936年(昭和11年)、松竹は撮影所を蒲田から大船に移す。12歳の秀子は子役から娘役への転換期にあっていたが、同年に五所監督のメロドラマ『新道』に田中絹代演じるヒロインの妹役という大役に抜擢される。田中からは実の妹のように可愛がられ、鎌倉山にあった「絹代御殿」と呼ばれる豪邸に泊まり込んで撮影所通いをするようになった[8][9]。実生活では、函館大火で破産した祖父の力松一家が秀子を頼って上京し、千駄ヶ谷に家を借りて住まわせ、秀子の肩に9人の生活がかかることになった[8]。
東宝時代
この頃、映画界から逃げ出したいという思いから宝塚歌劇団入りを考え、花柳章太郎と水谷八重子に相談したところ、水谷が宝塚音楽学校校長の小林一三に相談を持ちかけてくれ、無試験で入学を許可するという返事を貰った[8][10]。しかし、翌1937年(昭和12年)早々にはP.C.L.企画課に務めていた藤本真澄から引き抜き交渉を受ける。引き抜きの条件は月給100円と撮影所近くの家の提供、女学校へ進学させるというもので、それに承諾した秀子は同年1月に松竹を退社してP.C.L.に移籍した[8]。4月には約束通り御茶ノ水の文化学院に入学した[8]。
P.C.L.移籍第1作は、吉屋信子原作・山本嘉次郎監督の『良人の貞操』で、千葉早智子演じる邦子の妹・睦子を演じた。続いて横山隆一の連載漫画を原作とした『江戸っ子健ちゃん』で榎本健一と共演。同年9月にP.C.L.は東宝映画となり、以後も数々の作品に出演、岸井明が命名したデコの愛称で撮影所のペット的存在となった[8][11]。1938年(昭和13年)には山本監督の『綴方教室』で主演する。これは当時のベストセラーとなった豊田正子の綴方集の映画化で、貧乏の中でもも明るく強く生きる少女を演じて最初期の代表作とした。その一方、仕事の忙しさから文化学院への登校は月に2、3日程度となり、担任教師の河崎なつから「このさい、学校をとるか、仕事をとるかはっきり決めてほしい」と言われ、入学1年半にして退学を余儀なくされた[8][12]。
東宝ではますます売れっ子となり、1939年(昭和14年)は9本の作品に出演。アイドルとしての人気も高まり、秀子の名前を冠した映画も作られた。『秀子の応援団長』では主題歌「青春グラウンド」を歌いレコードも発売されたが、B面の灰田勝彦が歌う挿入歌「燦めく星座」の方が人気となり、40万枚の大ヒットを記録した。『秀子の車掌さん』は後にコンビを組む成瀬巳喜男監督との初顔合わせ作品である。1940年(昭和15年)、豊田四郎監督の『小島の春』でハンセン病患者を演じた杉村春子の演技にショックを受け、今まで仕方なしにやっていた役者の仕事に本気で取り組もうと決意した。また、声楽家の奥田良三と長門美保に師事して発声を学び[8]、戦中は音響設備のない戦地での慰問公演や歌手活動などを行った。
1941年(昭和16年)、山本監督の『馬』に主演。東北の四季折々の風景の中で、農家の少女と彼女の育てる仔馬の触れ合いをセミドキュメンタリーに描いた作品で、撮影には足かけ3年を費やしたが、撮影中に製作主任でB班監督の黒澤明と恋に落ちる。志げの反対で恋は不実となったが、自伝『わたしの渡世日記』にこのエピソードが記されている。1945年(昭和20年)7月、山本監督の『アメリカようそろ』の撮影のため千葉県の館山に滞在し、洲崎航空隊での慰問公演終了後に終戦を迎えた[13]。特攻隊員を扱った『アメリカようそろ』の製作は中止となっている[14]。
新東宝時代
1946年(昭和21年)、占領軍に接収されたアーニー・パイル劇場(元東京宝塚劇場)で、占領軍相手の慰問公演に出演するが、衣装がなくて困っていたところ、入江たか子が手持ちのコートをほどいて衣装に仕立ててくれたという[7]。同年、佐伯清監督の『陽気な女』が戦後第1作となる。8月、日本劇場の『ハワイの夜』に灰田と共演してフラダンスを踊り大ヒットさせるが、東宝では10月に第2次東宝争議が発生[14]。ストに反対する大河内傳次郎に同調し、長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、山根寿子、花井蘭子とともに十人の旗の会を結成して日本映画演劇労働組合(略称:日映演)傘下の東宝従業員組合を脱退[14]。翌1947年(昭和22年)3月に他の脱退者らと新東宝映画製作所が発足し、秀子は同社専属となった。新東宝での第1作は、萩原遼監督の『大江戸の鬼』で、続いて阿部豊監督の『愛よ星と共に』で16歳から35歳までの女の半生を演じ、次の千葉泰樹監督の『幸福への招待』でも薄幸の女を演じて、おとなの女優としてのイメージを印象づけた。
この頃に「高峰秀子後援会」が発足し、銀座カネボウビル内に事務所が開設されて機関誌『DEKO』が発行された。新東宝が創立1周年を経たぬうちに、十人の旗の会のメンバーである原節子、山田五十鈴、入江たか子らが次々と脱退。それにより秀子は新東宝女優陣の中心となり、1949年(昭和24年)公開の『銀座カンカン娘』では主題歌も歌い、公開前に発売されたレコードは42万枚(1952年(昭和27年)時点)[15]もの売上げを記録して大ヒットした。1950年(昭和25年)には阿部監督の『細雪』で花井蘭子、轟夕起子、山根寿子に続く末娘役を演じ、原作者の谷崎潤一郎とは家族を交えた形で、谷崎が亡くなるまで交流を続けた。同年には小津監督の『宗方姉妹』に田中絹代の妹役で出演している。同年11月、当時結婚を想定して交際していた会社の重役が後援会費を使い込み、他の女性と交際していた事が発覚したことから新東宝を退社した。
フリー俳優時代
1951年(昭和26年)、日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』に主演。この作品で初めて木下惠介監督とコンビを組んだ。同年6月、カンヌ国際映画祭への出席の話から転じて留学生としてフランスに渡り、6ヶ月間パリに滞在する。悪化していた志げとの関係や、フリーになってからの不安などから逃避でき、映画のことを忘れて自由を満喫できる好機であった[5][11]。パリ滞在中は、渡辺一夫が学生時代に下宿していたアパートの一室を住まいとした[7]。その時のこぼれ話は『つづりかた巴里』に詳しい。1952年(昭和27年)1月に帰国した。
当時、映画俳優が映画会社に所属しない例は稀有であったが、どの社にも属さずフリー俳優として活動を開始した[16]秀子は、1953年(昭和28年)に映画会社が締結した五社協定に拘束されず、各社の作品に出演した。それにより名匠の作品にも数多く出演することが出来た。特に成瀬巳喜男と木下惠介の両監督のほとんどの作品に出演。成瀬作品には計17本出演しており、『稲妻』では、母親は同じだが父親が異なる4人兄妹の末娘を好演し、演技派女優としての力量を高めた。成瀬の代表作でもあり、秀子の代表作でもある『浮雲』では森雅之演じる不実な男に振り回されながらも離れられない女、『女が階段を上る時』では生活のために銀座のバーで雇われマダムをする女、『放浪記』では若き日の林芙美子を演じ、成瀬作品で次々と主役を飾った。
木下作品には計12本出演。『二十四の瞳』は『浮雲』と並ぶ秀子の代表作で、小豆島の分教場に赴任する新人教師を演じ、当時の女優賞を独占。『喜びも悲しみも幾歳月』では佐田啓二と灯台守夫婦を演じ、主題歌とともに大ヒット。『風前の灯』ではこれまでのイメージとは正反対のダメ夫婦を佐田と演じた。戦乱に巻き込まれて過酷な運命に見舞われる農婦を演じた『笛吹川』では、18歳から85歳の老け役までを演じ、『永遠の人』でも20歳から49歳までを演じ分けた。『二人で歩いた幾春秋』でも佐田と道路工夫夫婦の半生を演じ、木下作品のヒロインとして活躍を続けた[17]。
成瀬、木下監督以外の作品では、五所平之助監督の『煙突の見える場所』、豊田四郎監督の『雁』、野村芳太郎監督の『張込み』、稲垣浩監督の『無法松の一生』、小林正樹監督の『人間の條件 第5・6部』などに出演した。
1955年(昭和30年)2月25日、当時木下の助監督をしており『二十四の瞳』の撮影で出会った松山善三との婚約を発表[18]。仲人は川口松太郎・三益愛子夫妻と木下惠介の3名だった。めでたい話が漏れてゴシップ扱いにされるのを嫌った木下が自ら報道各社に「松竹の木下ですが、うちの松山君と高峰秀子を結婚させますので取材に来てください」と電話をして関係者一同による記者会見を行い、これが芸能人の結婚記者会見のさきがけ[18]といわれている。3月26日に結婚式が行われた[19]。1961年(昭和36年)、松山の監督デビュー作『名もなく貧しく美しく』に主演。小林桂樹と聾唖者の夫婦を演じ、全篇を手話で通すという難役を抜群の演技力で演じのけた[17]。その後も松山が監督した『われ一粒の麦なれど』『六條ゆきやま紬』などに主演した。
1965年(昭和40年)以降は映画出演が減少するも、増村保造監督の『華岡青洲の妻』では市川雷蔵演じる華岡青洲の母役、豊田監督の『恍惚の人』では森繁久彌演じるボケ老人を献身的に世話する嫁役で出演し、貫録ある姿を見せている[5][17]。テレビドラマにも、1968年(昭和43年)から出演するようになり、夫の松山脚本による『落日燃ゆ』や東芝日曜劇場で放送された『一筆啓上致します』『春の別れ』などに出演。ほか、フジテレビの「小川宏ショー」内の「高峰秀子対談」コーナーの司会を務めた[17]。舞台では、1972年(昭和47年)10月の紀伊国屋ホールでの反戦劇『ケイトンズヴィル事件の九人』に出演した。
女優引退後
1979年(昭和54年)、木下監督の『衝動殺人 息子よ』に出演予定であった八千草薫が降板し、代役を依頼され出演する。久々の映画出演に製作発表記者会見ではこれで引退かと質問され、「とっくに引退したつもりだったんですけどねえ」と答えている。製作中の後日、女優引退を発表、これが最後の映画出演となった。
引退後は主にエッセイストとして活動したが、松山監督の映画『典子は、今』に助監督として参加したり、1994年(平成6年)放送のテレビドラマ『忍ばずの女』で脚本を書いたりもしている。2003年(平成15年)には映画『葉っぱのフレディ』で朗読を担当した。
2010年(平成22年)12月28日午前5時28分、肺がんにより東京都渋谷区の病院で死去[18][20]。86歳没。
没後
2012年(平成24年)3月27日、東宝スタジオで高峰秀子を偲ぶ会が開かれ、八千草薫、香川京子、宝田明、司葉子、中村メイ子、戸田菜穂、篠田正浩、野上照代、長山藍子ら約400人の関係者が参列した[21][22]。また、生前の秀子の遺志を継いで、映画界に貢献した裏方スタッフへの表彰を行う「一本のクギを讃える会」の発足も発表された[21]。
2014年(平成26年)、『キネマ旬報』発表の「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」女優部門で第1位となった(男優第1位は三船敏郎)[23]。ちなみに、2000年(平成12年)に同誌が発表した「20世紀の映画スター」読者選出の日本女優部門でも第1位となっている。
エッセイストとして
秀子は、女優全盛期の時代から多くの本を出版し続けている。初の著書は1953年(昭和28年)に刊行された、パリ滞在のエッセイ『巴里ひとりある記』(映画世界社)で、以降『まいまいつぶろ』(同)、『私のインタヴュー』(中央公論社)、『瓶の中』(文化出版局)、『いっぴきの虫』(潮出版社)などのエッセイを上梓した。また、松山との共著による『旅は道連れガンダーラ』(同)、『旅は道連れツタンカーメン』(同)などの旅行記、『台所のオーケストラ』(同)などの料理本も書いている。
1975年(昭和50年)、『週刊朝日』誌上で『わたしの渡世日記』を連載。この本では関係者が実名で登場し、「本当に本人が書いているのか」という問い合わせが殺到しが、当時の週刊朝日の編集部では、「ゴーストライターを使っているなら、あんな個性的な文章にはなりません」と答えたという。翌年に朝日新聞社より上下巻で刊行され、当時のベストセラーになった。このエッセイで第24回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。
2013年(平成25年)、未発表だったエッセイが発見され、3月に新潮社から『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』のタイトルで刊行された。この本は1958年(昭和33年)に夫と欧州を旅した際の旅行記で、自宅の書棚に保管されていたという[24]。
梅原龍三郎との交流
新東宝時代の1949年(昭和24年)、銀座で開かれた絵の愛好会・チャーチル会に参加し、翌1950年(昭和25年)の日本橋三越での名士余技絵画展に十号の『緑衣』を出品、4700円の売値がつけられ、会の顧問をしていた画壇の巨匠梅原龍三郎の知遇を受けた[17]。それ以来40年にわたる親交が続き、梅原により高峰がモデルとなった多くの肖像画が描かれることとなった。初めて秀子を描いた肖像画は『カルメン故郷に帰る』のロケ中に描かれ、目が大きくなりすぎて似ずに何度も描き直した。試行錯誤の後、目が大きいのではなく眼光が強いことに気付いたという。
1974年(昭和49年)3月、秀子は夫の発案で、最初の肖像画を東京国立近代美術館の梅原龍三郎コーナーに寄贈し、翌1975年(昭和50年)に紺綬褒章と木杯を受けた[17][25]。1987年(昭和62年)に梅原との思い出を綴ったエッセイ『私の梅原龍三郎』(潮出版社)を刊行した。
2005年(平成17年)11月、梅原の絵画作品7点、宮本三郎作の1点、森田元子作の1点、堂本印象作の2点、計11点の肖像画を秀子本人が世田谷区に寄贈し、世田谷美術館に所蔵されている。
高峰と東京オリンピック
1965年(昭和40年)、市川崑に撮影が依頼された映画『東京オリンピック』が、完成前の試写会で河野一郎(オリンピック担当国務大臣)が内容に疑問を投げるコメントを発したことをきっかけに大論争が巻き起こった際、「とってもキレイで楽しい映画だった。(文句をつけた河野は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか」「市川作品はオリンピックの汚点だなとと乱暴なことばをはくなんて、少なくとも国務相と名の付く人物のすることではない」と擁護コメントを雑誌や新聞に寄せた。
高峰は直接河野に面会を求め、その席で高峰は市川と映画のすばらしさを訴えるとともに、河野が市川と面談するように依頼した[26]。河野は談笑を交えて、「実は映画のことは少しもわからんのだ」と高峰に答えた[26]。その後河野は高峰のとりもちで市川と面談を重ねた結果、制作スタッフの努力を認め、最終的に「できあがりに百パーセント満足したわけではないが、自由にやらせてやれ」と映画のプロデューサーに電話して矛を収めた[27]。海外版の編集権などは市川に戻った。市川は後年の対談でもこの件を深く感謝している。
高峰は雑誌での河野との直接対談でも「永田雅一が友人だからあまり悪くは言えないが」と当時の映画の斜陽化と監督の力量を嘆く河野に対し「それは永田さん(経営者)の問題です。監督は所詮勤め人なんですから『これこれこういうものを作れ』と言われたらそういう物しか作れません」と直言するなど、河野に「高峰秀子と言う女は只者ではない。男に生まれていたら天下を取ったに違いない。」と言われた[要出典]。
私生活
1955年(昭和30年)に松山善三とに結婚し、麻布十番近くの瀟洒だが、大女優と呼ばれる人物の邸宅としては質素な家に住んでいた。当初は、西洋の教会建築を模した建物であったようだが、老後に備えて建物を小じんまりしたものに改装し、晩年は殆ど外部との接触を絶ち、早寝早起きの生活で余生を楽しんでいたと言われる。最晩年には、自らの死期を悟ったのか、文藝春秋の編集者・ライター、斎藤明美を養女とし、自らの死後、夫・松山善三の世話を任せている。
人物・エピソード
- 大の愛煙家であった。著書『おいしい人間』によれば、初めて煙草を吸ったのは22歳の時、映画『愛よ星と共に』のために煙草を吸う練習をしたとあり、「それ以来、相当なヘビースモーカーになり果てて今日に及んでいる」と書かれている。著書『コットンが好き』に、お気に入りの灰皿とライターの写真があり、高峰の文章と共に紹介されている。86歳での死因は肺がんであった。
- 1959年(昭和34年)4月10日、皇太子と正田美智子との成婚パレードの生中継にてゲスト解説を務めた。以来美智子妃との親交がある。『文藝春秋』で日本一の美人を決める対談企画があった際、高峰は「『美女』である以前に人柄や教養も含めた『美人』でないといけないという観点」から美智子妃を推し、企画で選出している。
- 1971年(昭和46年)2月に国会の席においてテレビのクイズ番組を低俗だと非難。そもそもの発端はフジテレビで放送されていた『クイズ・キングにまかせろ!』の賞品(1,000万円のマンションの所有権)が独占禁止法に違反しているという告発によるものだった。この騒動で高峰は「俳優を毒するクイズは最低のいやしさだ」と弁明。公正取引委員会は、全てのクイズ番組に対し賞金額の見直しを求め、同年9月に全てのクイズ番組の賞金(賞品)の上限を100万円までに定めた。
- 映画では佐田啓二をはじめ、田村高廣、仲代達矢、若山富三郎、天本英世、宝田明らなど年少の男優と夫婦役を演じることが多かった。この傾向は木下惠介作品に著しい。『永遠の人』で高峰扮するヒロインを陵辱して夫となり憎みあう夫婦を演じた仲代は、多数の名監督と映画史をともにしてきた俳優だが、瀬戸内寂聴との対談で、監督以外では唯一高峰の名を挙げ「厳しい人で、たくさんのことを教えられた」と述懐している[28]。
- 市川崑は助監督時代に高峰の家に下宿していた仲(それ以前に高峰が京都に短期滞在した際、京都で隣室同士に下宿して食事などを共にしており、その縁で東京転勤となった市川が高峰家に1年あまり住んでいた)であり、デビュー作から2本に主演。その後市川が監督として大成してからの出演はないものの、エッセイでは「戦友」「崑ちゃんと呼ばせて欲しい」と記し、後述の東京オリンピック映画騒動の際には率先して擁護に当たるなど、変わらぬ友情を示した。
- 街を歩いていてもファンに追いかけられるという人気であったが、ある日逃げ込んだ銀座の骨董品屋で骨董品の魅力に取り付かれる。以後骨董品集めが趣味となり、造詣が深い。「いい仕事してますね」のセリフで有名な中島誠之助も「姐さん」と呼ぶ長年の知己であり、一緒に骨董屋を開いていたこともある。この経緯は自伝『にんげん蚤の市』に詳しい。
- 『馬』の長期ロケで山形県最上町に滞在した際に、高峰に一目惚れした少年がのちのケーシー高峰で、芸名も初恋の人たる彼女に由来する。
- 原節子が東宝へ移籍して知り合ってからは原を「お姉ちゃん」と呼ぶ間柄であった。
- 大河内傳次郎主演の『新編 丹下左膳 隻眼の巻』『同 恋車の巻』にも出演しており、それが縁で当時建設中であった女人禁制の大河内山荘に招かれたことがある。
- 当時国交のなかった中国からの映画使節団が訪日した際、外務省からの依頼により夫妻でホスト役を担っていた。戦前の中国の大スターだった趙丹が江青の俳優時代を知っているという理由だけで江青に投獄された際には、ことある都度に知己を通じ「趙丹は元気にしているか」と呼び掛け続けて文化大革命による処刑を阻んだ。この経緯は『わたしの渡世日記』『いっぴきの虫』に詳しい。
- 自著のエッセイの装丁は長年の知己の安野光雅によるものだが、あるとき、安野のサイン会が開催された際、高峰がサインを待つ行列に並んでいた。それを見つけた安野から、「周りの人が見ていますよ」と声をかけられたところ、高峰は「別に構わないじゃない」と応じたという。
受賞・受章歴
- 毎日映画コンクール
- 1954年:女優主演賞『二十四の瞳』『女の園』『この広い空のどこかに』『悪の愉しさ』
- 1955年:女優主演賞『浮雲』
- 1957年:女優主演賞『喜びも悲しみも幾歳月』『あらくれ』
- 1961年:女優主演賞『永遠の人』『名もなく貧しく美しく』
- 2010年:特別賞(没後)
- 1954年:ブルーリボン賞 主演女優賞『二十四の瞳』『女の園』『この広い空のどこかに』
- 1955年:キネマ旬報ベスト・テン 女優賞『浮雲』
- 1956年:第3回東南アジア映画祭 最優秀女優賞『浮雲』
- 1961年:第5回サンフランシスコ国際映画祭 主演女優賞『名もなく貧しく美しく』
- 1962年:第12回芸術選奨『名もなく貧しく美しく』『永遠の人』
- 1965年:第17回ロカルノ国際映画祭 最優秀女優賞『乱れる』
- 1975年:第21回映団連永年勤続功労賞
- 1975年:紺綬褒章
- 1976年:第24回日本エッセイスト・クラブ賞『わたしの渡世日記』
- 日本アカデミー賞
- 1979年:優秀主演女優賞『衝動殺人 息子よ』
- 1996年:会長功労賞
- 2011年:会長特別賞(没後)
- 1994年:第4回日本映画批評家大賞 ゴールデン・グローリー賞
- 2011年:第56回「映画の日」特別功労章[29](没後)
- 2011年:おおさかシネマフェスティバル2011 特別賞(没後)
- 2011年:第29回ゴールデングロス賞 特別功労賞(没後)
出演作品
映画
太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品
- 母(1929年、松竹キネマ) - 春子
- レヴューの姉妹(1930年、松竹キネマ) - 肇
- 大東京の一角(1930年、松竹キネマ) - 一郎
- 麗人(1930年、松竹キネマ) - 少年岩夫
- 父(1930年、松竹キネマ) - お綱
- 姉妹篇 母(1930年、松竹キネマ) - ゆき子
- 私のパパさんママが好き(1931年、松竹キネマ) - みつ子
- 美わしき愛(1931年、松竹キネマ) - お糸の実の娘
- 愛よ人類と共にあれ(1931年、松竹キネマ) - 息子泰夫
- 暴風雨の薔薇(1931年、松竹キネマ) - 晃一
- 女はいつの世にも(1931年、松竹キネマ) - 太郎
- 姉妹 前後篇(1931年、松竹キネマ) - 類子
- 一太郎やあい(1931年、松竹キネマ) - きぬ
- 東京の合唱(1931年、松竹キネマ) - 長女
- 麗人の微笑(1931年、松竹キネマ) - 洋一
- 情熱(1932年、松竹キネマ) - 光子の娘
- 七つの海 前後編(1932年、松竹キネマ) - 曽根百代
- 陽気なお嬢さん(1932年、松竹キネマ) - 道子
- 天国に結ぶ恋(1932年、松竹キネマ)
- 不如帰(1932年、松竹キネマ) - 道子
- 鼠小僧次郎吉 解決篇(1932年、松竹キネマ) - 太郎吉
- 頬を寄すれば(1933年、松竹キネマ) - 美也子
- 与太者と海水浴(1933年、松竹キネマ) - 敏行
- 東洋の母(1934年、松竹キネマ) - 静子の子供時代
- ぬき足さし足(1934年、松竹キネマ) - とし坊
- その夜の妻(1934年、松竹キネマ) - 重子
- 母の愛(1935年、松竹キネマ) - 春江
- 永久の愛(1935年、松竹キネマ) - 秀子
- 新道 前後篇(1936年、松竹キネマ) - 京子
- 花嫁かるた(1937年、松竹キネマ) - 菊江
- 花籠の歌(1937年、松竹キネマ) - 浜子
- 良人の貞操(1937年、P.C.L.) - 睦子
- 江戸っ子健ちゃん(1937年、P.C.L.) - ミーちゃん
- 見世物王国(1937年、P.C.L.) - 秀ちゃん
- 白薔薇は咲けど(1937年、P.C.L.) - 花屋の娘
- お嬢さん(1937年、P.C.L.) - 失業した先生の娘
- 綴方教室(1938年、東宝映画) - 正子
- 藤十郎の恋(1938年、東宝映画) - 上村竹之亟
- 虹立つ丘(1938年、東宝映画) - 逸子
- チョコレートと兵隊(1938年、東宝映画) - 茂子
- 美はしき出発(1939年、東宝映画) - 奈津子
- 娘の願ひは唯一つ(1939年、東宝映画) - ひで子
- ロッパの頬白先生(1939年、東宝映画) - 秀代
- 忠臣蔵(1939年、東宝映画) - 一力仲居あぐり
- 樋口一葉(1939年、東宝映画) - 大黒屋みどり
- われ等が教官(1939年、東宝映画) - 秀子
- その前夜(1939年、東宝映画) - おつう
- 花つみ日記(1939年、東宝映画) - 篠原栄子
- 新篇丹下左膳 隻眼の巻(1939年、東宝映画) - お春
- 秀子の應援團長(1940年、南旺映画)
- そよ風父と共に(1940年、東宝映画) - 秀子
- 釣鐘草(1940年、東宝映画) - 弓子
- エノケンの孫悟空(1940年、東宝映画) - お姫様
- 昨日消えた男(1941年、東宝映画) - お京
- 馬(1941年、東宝映画) - 小野田いね
- 阿波の踊子(1941年、東宝映画) - お光
- 女学生記(1941年、東京発声) - 鎌田佐智子
- 秀子の車掌さん(1941年、南旺映画) - おこまさん
- 武蔵坊弁慶(1942年、東宝映画) - 牛若丸
- 希望の青空(1942年、東宝映画) - 秀子
- 待って居た男(1942年、東宝映画) - お雪
- 婦系図(1942年、東宝映画) - 妙子
- 阿片戦争(1943年、東宝映画) - 麗蘭
- 愛の世界 山猫とみの話(1943年、東宝映画) - 小田切とみ
- ハナ子さん(1943年、東宝映画) - チヨコさん
- 兵六夢物語(1943年、東宝映画) - 怪童女
- 若き日の歓び(1943年、東宝映画) - 高村裕子
- おばあさん(1944年、松竹) - 丸子
- 三尺左吾平(1944年、東宝) - お妙
- 勝利の日まで(1945年、東宝)
- 北の三人(1945年、東宝) - 松本よしえ
- 陽気な女(1946年、東宝) - 新井陽子
- 浦島太郎の後裔(1946年、東宝) - 龍田阿加子
- 明日を創る人々(1946年、東宝) - 高峰
- 或る夜の殿様(1946年、東宝) - 妙子
- 東宝ショウボート(1946年、東宝) - 靴磨きの少年
- 東宝千一夜(1947年、新東宝) - 高山秀子
- 大江戸の鬼(1947年、新東宝) - おなつ
- 愛よ星と共に(1947年、新東宝) - 白河はるえ
- 幸福への招待(1947年、新東宝) - 椎名ヒサ
- 愛情診断書(1958年、新東宝) - 秋枝
- 花ひらく 真知子より(1948年、新東宝) - 曽根真知子
- 三百六十五夜(1948年、新東宝) - 小牧蘭子
- 虹を抱く処女(1948年、新東宝) - 北条あき子
- 春の戯れ(1949年、映画芸術協会) - お花
- グッドバイ(1949年、新東宝) - 永井きぬ子
- 銀座カンカン娘(1949年、新東宝) - お秋
- 処女宝(1950年、新東宝) - 真金
- 細雪(1950年、新東宝) - 妙子
- 宗方姉妹(1950年、新東宝) - 満里子
- 戦火を越えて(1950年、太泉映画) - 朱燕
- 佐々木小次郎(1950年、東宝) - 琉球娘奈美
- 女の水鏡(1951年、松竹) - 苗子
- カルメン故郷に帰る(1951年、松竹) - おきん
- 我が家は楽し(1951年、松竹) - 長女朋子
- 朝の波紋(1952年、新東宝) - 瀧本篤子
- 東京のえくぼ(1952年、新東宝) - 峯京子
- 稲妻(1952年、大映) - 小森清子
- カルメン純情す(1952年、松竹) - カルメン
- 女といふ城 マリの巻・夕子の巻(1953年、新東宝) - 築地マリ
- 煙突の見える場所(1953年、新東宝) - 東仙子
- 明日はどっちだ(1953年、新東宝) - 光奴
- 雁(1953年、大映) - お玉
- 第二の接吻(1954年、滝村プロ) - 山内倭文子
- 女の園 (1954年、松竹) - 出石芳江
- 二十四の瞳 (1954年、松竹) - 大石久子
- この広い空のどこかに(1954年、松竹) - 泰子
- 浮雲(1955年、東宝) - 幸田ゆき子
- 渡り鳥いつ帰る(1955年、東京映画) - 街子
- 遠い雲(1955年、松竹) - 寺田冬子
- くちづけ 第4話「女同士」(1955年、東宝) - 金田朋子
- 新・平家物語 義仲をめぐる三人の女(1956年、大映) - 冬姫
- 子供の眼(1956年、松竹) - 喜世子
- 妻の心(1956年、東宝) - 富田喜代子
- 流れる(1956年、東宝) - 勝代
- 雲の墓標より 空ゆかば(1957年、松竹) - さち
- あらくれ(1957年、東宝) - お島
- 喜びも悲しみも幾歳月(1957年、松竹) - 有沢きよ子
- 風前の灯(1957年、松竹) - 佐藤百合子
- 張込み(1958年、松竹) - 横川さだ子
- 無法松の一生(1958年、東宝) - 吉岡良子
- 女が階段を上る時(1960年、東宝) - 矢代圭子
- 娘・妻・母(1960年、東宝) - 坂西和子
- 笛吹川(1960年、松竹) - おけい
- 名もなく貧しく美しく(1961年、東京映画) - 片山秋子
- 人間の條件 第5・6部(1961年、にんじんくらぶ) - 避難民の女
- 妻として女として(1961年、東宝) - 西垣三保
- 永遠の人(1961年、松竹) - さだ子
- 女の座(1962年、東宝) - 石川芳子
- 山河あり(1962年、松竹) - 井上きしの
- 二人で歩いた幾春秋(1962年、松竹) - 野中とら江
- 放浪記(1962年、東宝) - 林ふみ子
- ぶらりぶらり物語り(1962年、東京映画) - 桑田駒子
- 女の歴史(1963年、東宝) - 清水信子
- 乱れる(1964年、東宝) - 森田礼子
- われ一粒の麦なれど(1964年、東京映画) - 根本倫子
- 六條ゆきやま紬(1965年、東京映画) - 六條いね
- ひき逃げ(1966年、東宝) - 伴内国子
- 続・名もなく貧しく美しく 父と子(1967年、東京映画) - 片山秋子
- 華岡青洲の妻(1967年、大映) - 於継
- 鬼の棲む館(1969年、大映) - 楓
- 恍惚の人(1973年、芸苑社) - 立花昭子
- スリランカの愛と別れ(1976年、東宝) - ジャカランタ夫人
- ふたりのイーダ(1976年、同製作プロ) - 須川菊枝
- 泣きながら笑う日(1976年、同製作プロ) - 中井雪子
- 衝動殺人 息子よ(1979年、松竹) - 川瀬雪枝
テレビドラマ
- 東芝日曜劇場 (TBS)
- 第578回「浮かれ猫」(1968年)
- 第583回「簪マチ子」(1968年)
- 第605回「君は今どこにいるの」(1968年)
- 第632回「あさきゆめみし」(1969年)
- 第674回「父と母の子」(1969年)
- 第686回「海はあおいか」(1970年)
- 第735回「一筆啓上致します」(1971年)
- 第786回「ささやくなら愛を」(1972年)
- 第863回「雨の日の恋」(1973年)
- 第891回「春の別れ」(1974年)
- 第948回「台所のおと」(1975年)
- 第999回「母の待人」(1976年)
- 第1099回「流れゆく日々」(1978年)
- ポーラ名作劇場 / 霰(1969年、NET)
- 火曜劇場 / 微笑(1975年、NTV) - 近野由美
- 落日燃ゆ(1976年、NET) - 広田静子
- 木曜ゴールデンドラマ / 生きるなり(1980年、NTV)
テレビCM
そのほかの番組
ほか多数
著書
- 『巴里ひとりある記』、映画世界社、1953年 / 新潮社、2011年11月 ISBN 9784103316114
- 『まいまいつぶろ』、映画世界社、1955年 / 新潮社、2011年11月 ISBN 9784103316121
- 『私のインタヴュー』、中央公論社、1958年 / 新潮社、2012年6月 ISBN 9784103316138
- 『瓶の中』、文化出版局、1972年 / 河出書房新社、2014年4月 ISBN 9784309022680
- 『わたしの渡世日記 上下』、朝日新聞社、1976年 / 新潮社、2012年年1月 ISBN 9784101369815, ISBN 9784101369822
- 『いっぴきの虫』、潮出版社、1978年10月 / 文春文庫、2011年10月 ISBN 9784167587116
- 『つづりかた巴里』、潮出版社、1979年7月 / 中公文庫 2014年10月 ISBN 9784122060302
- 『いいもの見つけた』、潮出版社、1980年10月 / 集英社文庫、1986年2月 ISBN 4087490866
- 『台所のオーケストラ』、潮出版社、1982年6月 / 新潮社、2012年7月 ISBN 9784101369846
- 『コットンが好き』、潮出版社、1983年10月 / 文春文庫、2003年1月 ISBN 4167587076
- 『人情話松太郎』、潮出版社、1985年2月 / 文春文庫、2004年1月 ISBN 4167587084
- 『私の梅原龍三郎』、潮出版社、1987年2月 / 文春文庫、1997年10月 ISBN 4167587017
- 『おいしい人間』、潮出版社、1992年5月 / 文春文庫、2004年7月 ISBN 4167587092
- 『忍ばずの女』、潮出版社、1994年10月 ISBN 4267013624 / 中公文庫、2012年5月 ISBN 9784122056381
- 『にんげん蚤の市』、文藝春秋、1997年1月 ISBN 4163525807 / 新潮社、2013年1月 ISBN 9784101369587
- 『にんげんのおへそ』、文藝春秋、1998年5月 ISBN 4163540504 / 新潮社、2012年1月 ISBN 9784101369839
- 『にんげん住所録』、文藝春秋、2002年7月 ISBN 4163573305 / 文春文庫、2005年7月 ISBN 4167587106
- 『旅日記 ヨーロッパ二人三脚』、新潮社、2013年3月 ISBN 9784103316145
以下は松山善三との共著エッセイ
- 『旅は道連れガンダーラ』、潮出版社、1979年5月 / 中公文庫、2012年1月 ISBN 9784122055919
- 『旅は道連れツタンカーメン』、潮出版社、1980年6月 / 中公文庫、2012年3月 ISBN 9784122056213
- 『旅は道連れアロハ・オエ』、潮出版社、1982年12月 / 中公文庫(改題『旅は道連れアロハ・ハワイ』)、2011年11月 ISBN 9784122055674
- 『旅は道づれ雪月花』、文化出版局、1986年6月 / ハースト婦人画報社、2012年3月 ISBN 9784573022034
脚注
- ^ 川本三郎『君美わしく 戦後日本映画女優讃』、文藝春秋、2000年、p.30
- ^ a b c d e f g h i j k l キネマ旬報1980、p.401
- ^ 高峰1980 上、p.21
- ^ 高峰1980 上、p.23
- ^ a b c d 高峰秀子、KINENOTE、2015年4月29日閲覧
- ^ 高峰1980 上、p.28
- ^ a b c 本地陽彦「高峰秀子・年譜」(『別冊太陽 女優 高峰秀子』)、平凡社、1999年
- ^ a b c d e f g h i j キネマ旬報1980、p.402
- ^ 高峰1980 上、p.108
- ^ 高峰1980 上、p.125
- ^ a b 高峰秀子 第一部4ページ、キネマ写真館、2015年5月2日閲覧
- ^ 高峰1980 上、p.186
- ^ 高峰1980 上、p.279
- ^ a b c キネマ旬報1980、p.403
- ^ 丘十四夫『歌暦五十年』、全音楽譜出版社、1954年
- ^ 高峰1980 下、p.291
- ^ a b c d e f キネマ旬報1980、p.406
- ^ a b c 映画「二十四の瞳」主演の高峰秀子さん逝く、スポーツニッポン、2015年5月2日閲覧
- ^ 高峰1980 下、p.292
- ^ 高峰秀子さん死去、数々の名作に主演 読売新聞 2010年12月31日閲覧[リンク切れ]
- ^ a b 高峰秀子さん偲ぶ会400人…遺志継ぎ、裏方表彰を開始、スポーツニッポン、2015年5月3日閲覧
- ^ 高峰秀子さんを偲ぶ会に約400人が出席 昭和を代表する大女優の人柄が語られる、シネマトゥデイ、2015年5月3日閲覧
- ^ 俳優ベスト10:男優1位は三船さん、女優が高峰秀子さん、毎日新聞、2015年5月3日閲覧
- ^ 高峰秀子さんの未発表随筆発見 夫との欧州旅行記、日本経済新聞、2015年5月3日閲覧
- ^ 高峰1980 下、p.186
- ^ a b 野地2001、p.249
- ^ 野地2001、p.250
- ^ 『AERA』2010年6月14日号
- ^ 映画の日 特別功労大章・特別功労章及び感謝状贈呈者一覧、映画産業団体連合会、2015年4月29日閲覧
参考文献
- 『日本映画俳優全集 女優編』、キネマ旬報社、1980年。
- 高峰秀子『わたしの渡世日記 上』、朝日新聞社、1980年。
- 高峰秀子『わたしの渡世日記 下』、朝日新聞社、1980年。
- 野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』、小学館、2001年。ISBN 9784093881043。
関連項目
外部リンク
- 高峰秀子 - 日本映画データベース
- 高峰秀子 - KINENOTE
- 高峰秀子 - テレビドラマデータベース