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「我等の生涯の最良の年」の版間の差分

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| 作品名 = 我等の生涯の最良の年
| 作品名 = 我等の生涯の最良の年
| 原題 = The Best Years of Our Lives
| 原題 = The Best Years of Our Lives
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| 画像 = Best Years of Our Lives.jpg
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| 画像解説 = ピアノを弾いているのが[[ホーギー・カーマイケル]]。(左から右へ)[[フレドリック・マーチ]]、[[マーナ・ロイ]]、[[ダナ・アンドリュース]]、[[テレサ・ライト]]
| 画像解説 =
| 監督 = [[ウィリアム・ワイラー]]
| 監督 = [[ウィリアム・ワイラー]]
| 製作総指揮 =
| 製作総指揮 =
| 製作 = [[サミュエル・ゴールドウィン]]
| 製作 = [[サミュエル・ゴールドウィン]]
| 脚本 = ロバート・E・シャーウッド
| 脚本 = {{仮リンク|ロバート・E・シャーウッド|en|Robert E. Sherwood}}
| 原作 = [[マッキンレー・カンター]]
| 原作 = ''『Glory for Me』''<br />[[マッキンレー・カンター]]
| 出演者 = [[フレデリック・マーチ]]<br />[[マーナ・ロイ]]<br />[[ライト]]<br />[[ダナ・アンドリュース]]
| 出演者 = [[マーナ・ロイ]]<br />[[ドリックマーチ]]<br />[[ダナ・アンドリュース]]<br />[[テレサ・ライト]]
| 音楽 = [[ヒューゴー・フリードホーファー]]
| 音楽 = [[ヒューゴー・フリードホーファー]]
| 撮影 = [[グレッグ・トーランド]]
| 撮影 = [[グレッグ・トーランド]]
| 編集 = ダニエル・マンデル
| 編集 = [[ダニエル・マンデル]]
| 製作会社 = {{仮リンク|サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズ|en|Samuel Goldwyn Productions}}
| 製作会社 =
| 配給 = {{flagicon|USA}} [[RKO]]<br />{{flagicon|JPN}} セント
| 配給 = [[RKO|RKOジオピクチャーズ]]
| 公開 = {{flagicon|USA}} 1946年11月21日([[ニューヨーク|NY]])<br />{{flagicon|JPN}} 1948年6月15日
| 公開 = {{flagicon|USA}} 1946年11月21日<br />{{flagicon|JPN}} 1948年6月15日<ref>{{cite web|url=http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=26238|title=我等の生涯の最良の年(1946)|publisher=[[allcinema|Allcinema.net]]|accessdate=2015年1月27日}}</ref>
| 上映時間 = 172分
| 上映時間 = 172分
| 製作国 = {{USA}}
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| 言語 = [[英語]]
| 言語 = [[英語]]
| 製作費 = 210万ドル
| 製作費 = 210万ドル<ref>[[#Thomson(1993年)|Thomson(1993年)]] pp.490-491</ref>
| 興行収入 = {{flagicon|USA}}{{flagicon|CAN}} 3365万ドル<ref>{{Cite web|url=http://www.boxofficemojo.com/movies/?id=bestyearsofourlives.htm|title=The Best Years of Our Lives|publisher=[[Box Office Mojo|BoxOfficeMojo.com]]|language=英語|accessdate=2015年1月27日}}</ref>
| 興行収入 = 3365万ドル {{flagicon|USA}}
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『'''我等の生涯の最良の年'''』(われらのしょうがいのさいりょうのとし、{{lang-en-short|''The Best Years of Our Lives''}})は、[[1946年]]の[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]。[[アカデミー賞]]では[[アカデミー作品賞]]をはじめ、8部門で受賞した。また[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に1989年登録された作品でもある。
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|video1=[http://www.tcm.com/mediaroom/video/314753/Best-Years-of-Our-Lives-The-Movie-Clip-Nervous-Out-Of-The-Service.html 軍用輸送機で同じ故郷に帰る3人<br />(TCMのムービークリップ)]
|video2=[https://www.youtube.com/watch?v=cLDBiSPKgKI ホーマーとその家族・恋人の再会<br />(WBOnlineのムービークリップ)]
|video3=[http://www.tcm.com/mediaroom/video/314754/Best-Years-Of-Our-Lives-The-Movie-Clip-Among-My-Souvenirs.html ブッチのバーで再会を祝う3人<br />(TCMのムービークリップ)]
|video4=[https://www.youtube.com/watch?v=nCE6BeYJEtE 悪夢にうなされるフレッドを慰めるペギー<br />(WBOnlineのムービークリップ)]
|video5=[http://www.tcm.com/mediaroom/video/715161/Best-Years-Of-Our-Lives-The-Movie-Clip-Looking-For-My-Wife.html 妻マリーとの再会を果たすフレッド<br />(TCMのムービークリップ)]
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|video7=[http://www.tcm.com/mediaroom/video/715164/Best-Years-Of-Our-Lives-The-Movie-Clip-Wanna-See-The-Freak-.html ウィルマに冷たく当たるホーマー<br />(TCMのムービークリップ)]
|video8=[https://www.youtube.com/watch?v=t-VB9JnppAU 互いの愛を確認するホーマーとウィルマ<br />(WBOnlineのムービークリップ)]
|video9=[https://www.youtube.com/watch?v=_74CqyujsMU B-17内で過去の激戦を思い出すフレッド<br />(WBOnlineのムービークリップ)]
|video10=[http://www.tcm.com/mediaroom/video/154432/Best-Years-Of-Our-Lives-The-Re-issueTrailer-.html 復刻版予告編<br />(TCMの予告編)]
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[[File:Harold Russell and Cathy O'Donnell.jpg|right|275px|thumb|[[ハロルド・ラッセル]]と[[キャシー・オドネル]]]]
[[File:Hoagy Carmichael in Best Years of Our Lives trailer3.png|right|300px|thumb|物語の主要な舞台となる「ブッチのバー」]]
『'''我等の生涯の最良の年'''』(われらのしょうがいのさいりょうのとし、{{lang-en-short|''The Best Years of Our Lives''}})は、[[1946年]]に製作かつ公開された[[アメリカ合衆国の映画]]。[[第二次世界大戦]]後に市民生活に復帰した復員兵が直面する様々な社会問題を描いた数少ない作品の一つである。アル・スティーブンソンは家族の温かみを再確認し、フレッド・デリーは就職活動をするが上手くいかず、ホーマー・パリッシュは自身の障害に引け目を感じて家族や恋人からも心を閉ざしてしまう。

[[アービング・G・タルバーグ賞]]を含めた場合では[[アカデミー作品賞]]をはじめ、当時の[[アカデミー賞]]最多記録となる9部門を受賞した<ref name="バーグ281">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.281</ref>。[[トーキー]]になってからの映画の[[興行成績]]としても『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』以来の第2位を記録している。

また、1989年に[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に登録された作品でもある。


== ストーリー ==
== ストーリー ==
[[第二次世界大戦]]が終わり、出征した3人の男が同じブーンの町って。中年の銀行員アルフレデリチ)を出迎えたのは妻ミリマーロイ)、すっか成長した娘ペギー(テレサ・ライト)息子ロブだった。
[[第二次世界大戦]]が終した同じブーンシティ([[オハイオ州]][[シンシナティ]]って作られ[[架空]]の都市<ref>[[#Orriss(1985)|Orriss(1985年)]] p.119</ref>)出身のアル・スティーブンソン、フレッデリー、ーマー・パリッシュいう名の3人の帰還兵が同じ[[輸送機|軍用輸送機]]に乗合わせることで初めて知り合い故郷に帰てき<ref>映画『我等の生涯の最良の年』2-12分</ref>


元[[海兵隊|海兵]]のホーマーは[[航空母艦]]を撃沈された時に負った火傷が原因で、[[鉄]]製の[[義肢#義手|義手]]を装着している<ref>映画『我等の生涯の最良の年』7-8分</ref>。帰宅した彼は両親と妹ルエラ、恋人ウィルマの歓迎を受けるが、母親は彼の義手を見て泣き出してしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』14-15分</ref>。
かつてソーダ水の売り子をしていたフレッド(ダナ・アンドリュース)を待っていたのは、息子の安否を常に気遣っていた父と母。だが、出征する20日前に結婚した妻マリー(ヴァージニア・メイヨ)の姿はなかった。夫の帰還を待ちきれずに家を出た彼女は、ナイト・クラブで働いているらしい。


元[[歩兵連隊#アメリカ陸軍|陸軍歩兵連隊]][[軍曹]]のアルはフレッド曰く「豪華なアパート住まい」で快適な生活を送っていた<ref>映画『我等の生涯の最良の年』35分</ref>。帰宅した彼は妻ミリーとすっかり成長した娘ペギー、息子ロブの歓迎を受ける<ref>映画『我等の生涯の最良の年』18-21分</ref>。「[[ジャップ]]」という[[差別用語]]を口にする父親から[[日本刀]]をプレゼントされたロブは「[[日本人]]は家族の絆を大切にすると聞いたよ」と言い、[[放射能]]が[[広島市|広島]]の人々に与えた影響について何か見たんじゃないかと尋ね、学校で[[原子力]]について勉強した時に「[[レーダー]]や[[ミサイル]]に原子力が結びついたら」[[悲劇]]になるから[[人類]]は共存すべきだと[[物理学|物理]]の先生が言っていたと話す<ref>映画『我等の生涯の最良の年』24-25分</ref>。成長した2人の子供の様子に一抹の不安を感じたアルは発散のためにミリーとペギーを連れて[[ナイトクラブ]]に繰り出す<ref>映画『我等の生涯の最良の年』29-30分</ref>。
若い水兵ホーマー(ハロルド・ラッセル)は戦火の中で両肘から先を失っていた。鉄カギ付きの[[義肢|義手]]という痛ましい姿に、彼の両親と恋人ウィルマ(キャシー・オドネル)は激しいショックを受ける。


いくつもの[[勲章]]を胸に下げるフレッドは戦時中は[[アメリカ陸軍航空軍|陸軍航空軍]][[大尉]]を務め、3人の中でも最も[[軍隊の階級|軍階級]]が高かった<ref>映画『我等の生涯の最良の年』2-5分</ref>。出征前は[[ドラッグストア]]で{{仮リンク|ソーダ・ジャーク|en|Soda jerk|label=ソーダ水の販売員}}として働き<ref>映画『我等の生涯の最良の年』61-62分</ref>、飛行訓練中に出会った女性と出征する20日前に結婚していた<ref>映画『我等の生涯の最良の年』9分</ref>。帰宅した彼を息子の安否を気遣っていた父親と母親が出迎えたが、妻マリーの姿は無かった<ref>映画『我等の生涯の最良の年』22分</ref>。両親によると、夫の帰還を待ち切れずに家を出たマリーはナイトクラブで深夜まで働いているらしい<ref>映画『我等の生涯の最良の年』22-23分</ref>。
3人は社会や家庭で復帰するが、その姿は三者三様であった。やがてフレッドはアルの娘と、ホーマーは恋人と結ばれるのだった。


妻と娘を伴って二次会のためにブッチ(ホーマーの叔父)が経営するバーを初めて訪れたアルはそこでホーマー、フレッドを見つけ、再会を祝う<ref>映画『我等の生涯の最良の年』35分</ref>。アルとフレッドは酔い潰れてしまい、ミリーとペギーが2人をスティーブンソン家に連れ帰る<ref>映画『我等の生涯の最良の年』45-48分</ref>。夜が明けてペギーにマリーが住むアパートまで送ってもらったフレッドはその別れ際、夜遅くに戦争の悪夢にうなされていたのを寝かしつけてくれ、何も言わずに黙っていてくれた彼女の親切心に対して感謝の気持ちを伝える<ref>映画『我等の生涯の最良の年』64-65分</ref>。アパートの一室に入ったフレッドは歓声を上げて迎えるマリーと抱き合う<ref>映画『我等の生涯の最良の年』67分</ref>。
== キャスト ==
* アル - [[フレデリック・マーチ]]
* ミリー - [[マーナ・ロイ]]
* フレッド - [[ダナ・アンドリュース]]
* ペギー - [[テレサ・ライト]]
* マリー - [[ヴァージニア・メイヨ]]
* ホーマー - [[ハロルド・ラッセル]]


アルは銀行に復職すると同時に、小口融資担当の副頭取に昇進する<ref>映画『我等の生涯の最良の年』76-77分</ref>。ホーマーは障害に引け目を感じて両親を避け、ウィルマが示す以前と変わらぬ愛情も哀れみと受け取り、心を閉ざしてしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』82-87分</ref>。フレッドが胸に下げる勲章を見たドラッグストアの従業員は「復員兵に仕事を取られる」と危機感を募らせる<ref>映画『我等の生涯の最良の年』73分</ref>。輝かしい戦績を残した彼は向上心からより良い待遇の仕事を探していたが、思うようにはいかない。就職の口が見つかる前に貯金を使い果たしてしまい、結局は妻をなだめるためにドラッグストアに復職することを決める<ref>映画『我等の生涯の最良の年』91-92分</ref>。
=== ギャラリー ===

ドラッグストアの[[香水]]売り場の販売員となったフレッドは買い物に来たペギーを昼食に誘い、その別れ際に彼女に強引にキスをする<ref>映画『我等の生涯の最良の年』101-103分</ref>。フレッドを愛するペギーはフレッド夫妻を夜食会に誘ってマリーの顔を見ることで気持ちを切り替えようとするが<ref>映画『我等の生涯の最良の年』109-110分</ref>、マリーと話をした時に彼女が収入が少なく、戦地から帰還してすっかり陰気になってしまったフレッドとの結婚を後悔していることを知る<ref>映画『我等の生涯の最良の年』118分</ref>。マリーを嫌い、愛し合っていない二人を別れさせると両親の前で宣言したペギーに、ミリーは娘から「完璧な夫婦」と見られている自分達も結婚生活の中でこれまでに同様の問題を抱えながら、克服してきたことを打ち明ける<ref>映画『我等の生涯の最良の年』121-123分</ref>。ブッチのバーでアルに呼び出され、娘と別れてほしいと迫られたフレッドは彼の頼みを聞き入れて店内の[[公衆電話|電話ボックス]]に行き、ペギーに絶交を申し入れる[[電話]]を掛けるものの、二人の関係はこの一件でギクシャクしてしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』125-129分</ref>。

ドラッグストアに来店したホーマーに「[[大日本帝国|日本]]や[[ナチス・ドイツ|ナチス]]は[[共産主義]]を絶滅出来た」のに我々は利用されてしまい、(ホーマーの義手や彼の戦友の死も含めて)「無駄な犠牲を払ってしまった」と言い放つ客に憤慨したフレッドはその客をガラスカウンターに殴り倒したことで解雇されてしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』133-135分</ref>。謝るホーマーに、フレッドはウィルマにすぐにでも会って結婚を申し込めと勧め、二人の恋仲を進展させようとする<ref>映画『我等の生涯の最良の年』136-137分</ref>。

ある晩にホーマーに会いに来たウィルマは避けられているのであれば、忘れるために明日の朝にもブーンシティを離れた方がいいと両親から迫られていることを伝えるものの、彼女の幸せを願うホーマーは町を離れるのを止めようとしない<ref>映画『我等の生涯の最良の年』140-141分</ref>。自分の全てをさらけ出し、一緒に生活することの大変さについて具体的に話すホーマーに、彼女はそれを愛の力で乗り越えようと訴えかける。ここに来てホーマーもこれまで抑えていたウィルマに対する思いを正直に告白する<ref>映画『我等の生涯の最良の年』143-146分</ref>。

職探しから帰宅したフレッドはマリーが復員兵のクリフと一緒にいるのを目撃した後、彼女から離婚を言い渡されてしまう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』148-150分</ref>。フレッドの父親は町から離れようとする息子に考えを改めるよう説得を試みるものの、失敗に終わる<ref>映画『我等の生涯の最良の年』151-152分</ref>。息子が去った後に父親は妻(フレッドの母親)を呼び、残していった[[ジミー・ドーリットル]]より送られた[[殊勲飛行十字章]]の授与について記された「最も困難な状況において示した任務への忠誠心と高度な技術と冷静さ」を称える賞状の文章を読み上げる<ref>映画『我等の生涯の最良の年』153-154分</ref>。目的地を決めぬまま[[飛行場]]に到着したフレッドは待機する間、「{{仮リンク|航空機の墓場|en|Aircraft boneyard}}」をさまよう<ref>映画『我等の生涯の最良の年』153-156分</ref>。[[B-17 (航空機)|B-17]]の先端部分に入った後に過去の激戦を思い出して[[フラッシュバック (心理現象)|フラッシュバック]]状態に陥るが、作業員の男が彼に声を掛けて現実に引き戻す<ref>映画『我等の生涯の最良の年』156-157分</ref>。作業員の男から解体された後に[[プレハブ工法|プレハブ建築]]の材料になると聞いたフレッドは未経験だが、自分を解体作業員として雇ってくれと頼み込む<ref>映画『我等の生涯の最良の年』158-159分</ref>。

最後の[[シーン]]では人々がホーマーとウィルマの結婚式のためにパリッシュ家に集まっている<ref>映画『我等の生涯の最良の年』160分</ref>。新郎新婦が誓いの言葉を交わす間、離れて立つフレッドとペギーは互いに見つめ合う<ref>映画『我等の生涯の最良の年』164-166分</ref>。終了した後、フレッドは人々が新郎新婦の周りに集まっている横を通ってペギーのもとに行き、彼女にキスをする。キスの後にフレッドは一人前の稼ぎになるまで何年掛かるか分からないし、最初は厳しい生活を送ることになるかもしれないが、それでもいいのかと尋ねる。ペギーは無言で微笑み、フレッドにキスをするのだった<ref>映画『我等の生涯の最良の年』167-168分</ref>。

== キャスト ==
<gallery>
<gallery>
File:Myrna Loy in Best Years of Our Lives trailer closeup.jpg|マーナ・ロイ
image:Fredric_March_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer.jpg|フレデリック・マーチ
File:Fredric_March_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer2.jpg|フレドリック・マーチ
image:Myrna_Loy_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer.jpg‎|マーナ・ロイ
image:Dana_Andrews_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer.jpg|ダナ・アンドリュース
File:Dana Andrews in Best Years of Our Lives trailer2.jpg|ダナ・アンドリュース
image:Teresa_Wright_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer.jpg‎|テレサ・ライト
File:Teresa Wright in Best Years of Our Lives trailer3.png|テレサ・ライト
image:Virginia_Mayo_in_Best_Years_of_Our_Lives_trailer.jpg‎|ヴァージニア・メイヨ
File:Virginia Mayo in Best Years of Our Lives trailer2.jpg|ヴァージニア・メイヨ
</gallery>
</gallery>
[[クレジットタイトル|クレジット]]に記載された[[キャスト]]と、その役を演じた[[俳優]]は以下の通り<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0036868/fullcredits?ref_=tt_cl_sm#cast|title=The Best Years of Our Lives (1946) - Full Cast & Crew|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。


* ミリー・スティーブンソン - [[マーナ・ロイ]]
== スタッフ ==
* アル・スティーブンソン - [[フレドリック・マーチ]]
* 監督:[[ウィリアム・ワイラー]]
* フレッド・デリー - [[ダナ・アンドリュース]]
* 製作指揮:[[サミュエル・ゴールドウィン]]
* ペギー・スティーブンソン - [[テレサ・ライト]]
* マリー・デリー - [[ヴァージニア・メイヨ]]
* ウィルマ・キャメロン - [[キャシー・オドネル]]
* ブッチ・エングル - [[ホーギー・カーマイケル]]
* ホーマー・パリッシュ - [[ハロルド・ラッセル]]
* ホーテンス・デリー(フレッドの母親) - {{仮リンク|グラディス・ジョージ|en|Gladys George}}
* パット・デリー(フレッドの父親) - {{仮リンク|ローマン・ボーネン|en|Roman Bohnen}}
* ミルトン氏(アルが勤める銀行の[[頭取]]) - {{仮リンク|レイ・コリンズ (俳優)|en|Ray Collins (actor)|label=レイ・コリンズ}}
* パリッシュ夫人(ホーマーの母親) - {{仮リンク|ミナ・ゴンベル|en|Minna Gombell}}
* パリッシュ氏(ホーマーの父親) - {{仮リンク|ウォルター・ボールドウィン|en|Walter Baldwin}}
* クリフ - {{仮リンク|スティーヴ・コクラン|en|Steve Cochran}}
* キャメロン夫人(ウィルマの母親) - {{仮リンク|ドロシー・アダムズ|en|Dorothy Adams}}
* キャメロン氏(ウィルマの父親) - {{仮リンク|ドン・ベドー|en|Don Beddoe}}
* ルエラ・パリッシュ(ホーマーの妹) - マレーネ・アエームズ
* プリュー(ノバックへの融資に反対する、アルが勤める銀行の幹部) - {{仮リンク|チャールズ・ハルトン|en|Charles Halton}}
* モレット氏(ドラッグストアでホーマーと言い争う男) - {{仮リンク|レイ・ティール|en|Ray Teal}}
* ソープ(フレッドが勤めるドラッグストアの新経営者) - {{仮リンク|ハウランド・チェンバレン|en|Howland Chamberlain}}
* ノバック(アルに融資を懇願する復員兵) - ディーン・ホワイト
* ブラード(フレッドが勤めるドラッグストアの旧経営者) - {{仮リンク|アースキン・サンフォード|en|Erskine Sanford}}
* ロブ・スティーブンソン(ペギーの弟) - マイケル・ホール
* ウッディ・メリル(ペギーのボーイフレンド) - ヴィクター・カトラー


[[映画プロデューサー|プロデューサー]]の[[サミュエル・ゴールドウィン]]は[[スクリーン]]の「理想的な妻」の地位を確立したマーナ・ロイが[[端役]]を引き受けてくれるか心配したが、事前に[[脚本]]を読んでいた彼女は役を演じるのを即座に了承した。クレジットでは俳優として最も名の売れている彼女の名前が一番最初に表示されることになった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.250-251</ref>。
== 配給 ==
*[[RKO]]
*:現在は[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]が版権を保有、米国では正規版DVD発売中、日本では正規版は未発売。


[[映画監督|監督]]の[[ウィリアム・ワイラー]]は[[心的外傷後ストレス障害]](PTSD)を発症したホーマー・パリッシュの役に、それ以前に演技経験が無かった素人のハロルド・ラッセルが適役だと見込み、起用することに決めた<ref name="Orriss121" />。ワイラーが以前に観た[[ドキュメンタリー|ドキュメンタリー映画]]に両手を失った若い軍曹として登場した彼は「[[トリニトロトルエン|TNT]]の[[火薬]]を扱っている時に事故が起こり、両手を手首から6[[インチ]]のところまで失ってしまったために」鉄の義手を付け、肩に付けた器具とゴムバンドでそれを動かしていた<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.251</ref>。キャストに加わった後にホーマーの障害はPTSDから身体障害に変更された<ref name="Trivia" />。
== 主な受賞歴 ==
=== アカデミー賞 ===
;受賞
:[[アカデミー作品賞]]
:[[アカデミー監督賞]]:[[ウィリアム・ワイラー]]
:[[アカデミー主演男優賞]]:[[フレデリック・マーチ]]
:[[アカデミー助演男優賞]]:[[ハロルド・ラッセル]]
:[[アカデミー脚色賞]]:[[ロバート・E・シャーウッド]]
:[[アカデミー作曲賞|アカデミードラマ・コメディ音楽賞]]:[[ヒューゴー・フリードホーファー]]
:[[アカデミー編集賞]]:[[ダニエル・マンデル]]
:[[アカデミー名誉賞]]:ハロルド・ラッセル


ノンクレジットでは、[[カントリー・ミュージック]]の歌い手として有名になる{{仮リンク|テネシー・アーニー・フォード|en|Tennessee Ernie Ford}}が「田舎者の[[歌手|シンガー]]」で出演している<ref>{{Cite web|author=Bruce Eder|url=http://www.allmusic.com/artist/tennessee-ernie-ford-mn0000020403/biography|title=Tennessee Ernie Ford|publisher=[[オールミュージック|AllMusic.com]]|language=英語|accessdate=2015年2月5日}}</ref>。のちに映画監督・プロデューサー・[[脚本家]]となる[[ブレイク・エドワーズ]]も「[[伍長]]」で一瞬登場する<ref>{{Cite web|author=Tom Vallance|url=http://www.independent.co.uk/news/obituaries/blake-edwards-film-director-screenwriter-and-producer-best-known-for-breakfast-at-tiffanys-and-the-pink-panther-series-2163653.html|title=Blake Edwards: Film director, screenwriter and producer best known for 'Breakfast at Tiffany's' and the Pink Panther series|publisher=[[インデペンデント|Independent.co.uk]]|language=英語|date=2010年12月18日|accessdate=2015年2月5日}}</ref>。3人がブーンシティに帰る前の序盤のシーンでフレッドは[[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]]行きの飛行を予約する彼に「クリーブランドは素敵な町だ」と話し掛けるが、「ああ、だけど住んでるのは[[デトロイト]]なんだ」と返答している<ref>[[#McLaughlin, Parry(2006年)|McLaughlin, Parry(2006年)]]</ref>。
;ノミネート
:[[アカデミー録音賞]]:[[ゴードン・ソーヤー]]([[サミュエル・ゴールドウィン・スタジオ|サミュエル・ゴールドウィン・スタジオ・サウンド部]])


== 製作 ==
=== ゴールデングローブ賞 ===
=== 脚本執筆 ===
:最優秀劇作品賞
{{仮リンク|フランシス・ハワード (女優)|en|Frances Howard (actress)|label=フランシス・ゴールドウィン}}は[[タイム (雑誌)|タイム]]誌が[[1944年]]8月7日号で除隊兵士について取り上げた「国内ニュース」の中の「帰還」と題された記事に何度も目を通し、注目した。彼女は夫のサミュエル・ゴールドウィンに帰郷した兵士達をテーマにした[[ドラマ]]を製作すべきだと言い続け、しまいには彼も「絶対にそんなもんは作らないぞ」と宣言してしまった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.219-220</ref>。ところが、実際にはサミュエル・ゴールドウィンはその後に[[マッキンレー・カンター]]に兵士が帰還した第二次世界大戦後の映画の構想を話している。ゴールドウィンはカンターにタイムの記事を見せ、「あなた自身の経験から語るべきだと思う」物語を自由に展開させてほしいと依頼した<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.220-221</ref>。報酬として20000[[アメリカ合衆国ドル|ドル]]が提示され、1944年9月8日にカンターは契約書にサインした<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.221</ref>。カンターが執筆した物語''『Glory for Me』''の脚本用の梗概は[[1945年]]1月に作成された<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.226</ref>。物語は[[ブランクヴァース|無韻詩]]で書かれていた<ref name="Trivia">{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0036868/trivia?ref_=tt_trv_trv|title=The Best Years of Our Lives (1946) - Trivia|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>。
:ノンプロフェショナル演技特別賞(ハロルド・ラッセル)


しかし、1945年8月14日にこの''『Glory for Me』''の脚色をするという契約に署名した{{仮リンク|ロバート・E・シャーウッド|en|Robert E. Sherwood}}は来年の春か秋には時代遅れのテーマになっているかもしれないし、神経症をすべての帰還兵につきもののように描けば「かなりの不満」さえ起こるかもしれないとしてあまり乗り気では無く、すぐに企画の中止を進言した<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.243-244</ref>。9月4日にゴールドウィンから送られた彼の強い決意を示す次の内容の[[電報]](一部抜粋)がこのシャーウッドの考えを改めさせることになった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.244-245</ref>。
=== 英国アカデミー賞 ===
:最優秀作品賞


{{cquote|''・・・私が6か月前よりももっと自信を強くしているのは、あのテーマは今よりも一年後の方が更に時節に合うと思うからだ。・・・市民の側から物語を見るというあなたのやり方は正しいし、言われるようにアメリカらしいユーモアを全体にちりばめれば、この作品はあなたの仕事の中でも特に優れたものとなることは間違いない。私が作りたいのは心を打つ感動的な物語だ。こちらであなたがおっしゃったことを聞いて、皆が適切な情熱を持ち続ければ、この映画は年間のベスト作品になると確信した。''}}
=== ナショナル・ボード・オブ・レビュー ===
ゴールドウィンから「[[ハリウッド]]的な映画にしなくてはいけないと思わないでくれ。それよりも、もっとシンプルで真実味のあるものを作りたい」と言われたシャーウッドは数ヶ月かけて物語を練り上げ、[[1946年]]4月9日に脚本を完成させた<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.251-252</ref>。
:最優秀監督賞


=== ニューヨーク映画批評家協会賞 ===
=== 映画撮影 ===
撮影は1946年4月15日に開始され、[[オンタリオ国際空港]]や{{仮リンク|ロサンゼルス郡樹木園・植物園|en|Los Angeles County Arboretum and Botanic Garden}}を含めた様々な場所で[[ロケーション撮影|ロケ]]が実施された<ref name="Orriss121">[[#Orriss(1985年)|Orriss(1985年)]] p.121</ref>。撮影には100日以上が費やされたが、ゴールドウィンはシャーウッドの脚本通りにどんな[[台詞]]でも一切変更せずに撮るように要求し、監督のウィリアム・ワイラーも渋々ながらこれに従った<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.253</ref>。
:作品賞
:[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]


ゴールドウィンはハロルド・ラッセルを演技教室に入学させたが、「実に自然な演技をこなす」彼の持ち味を失わせたくなかったワイラーは辞めるように言った<ref name="バーグ255">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.255</ref>。
== 備考 ==

*ホーマー役を演じたハロルド・ラッセルは実際に戦争で両手を失った負傷兵である。関係者が、本職の俳優でない彼に気を使って演技を教えようとしたところ、それを知ったワイラーが激怒したという。彼の自然なままの姿を求めたためである。
いつものように今回も音楽を担当するようにゴールドウィンから頼まれた[[アルフレッド・ニューマン]]だったが、既に[[20世紀フォックス]]の音楽部門責任者に就任していた彼は自分の代わりに[[ヒューゴー・フリードホーファー]]を推薦したため、フリードホーファーが起用されることになった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.256</ref>。

本作の中に妻のある身のフレッドがブッチのバーで出会ったアルからペギーと付き合うのを止めてくれと言われ、そう言うと約束してペギーに電話を掛けに電話ボックスへ向かうシーンがある。フレッドが出て行った後、バーに入って来たホーマーとブッチが『{{仮リンク|チョップスティックス (曲)|en|Chopsticks (music)|label=チョップスティックス}}』を連弾する。ここで[[グレッグ・トーランド]]は[[パンフォーカス|ディープフォーカス]]を使用して画面の左上にフレッドを、右下にピアノを囲む3人を見せた。これによってアルに[[焦点 (光学)|焦点]]を合わせながらも、画面のアルと同じように遠くの姿を見ているだけでフレッドがペギーに電話を掛けているのだと観客にも分かるようにした<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.258</ref>。{{仮リンク|シカゴ・リーダー|en|Chicago Reader}}紙の{{仮リンク|デイヴ・ケール|en|Dave Kehr}}はこのディープフォーカスの使用のシーンが現代の観客にも強く関心を持たれているとしている<ref>{{Cite web|author=Jonathan Rosenbaum|url=http://www.chicagoreader.com/chicago/the-best-years-of-our-lives/Film?oid=1149878|title=The Best Years of Our Lives|publisher=Chicagoreader.com|language=英語|accessdate=2015年2月1日}}</ref>。

フレッド・デリーが残骸となった爆撃機に座っているシーンでは、戦闘任務を思い出す彼の主観的状態を[[シミュレーション|シミュレート]]する「[[写真レンズ#ズームレンズ|ズームレンズ]]」効果が使用された<ref>[[#Orriss(1985年)|Orriss(1985年)]] pp.121-122</ref>。この[[カリフォルニア州]][[オンタリオ (カリフォルニア州)|オンタリオ]]にある「航空機の墓場」はワイラーが撮影準備の段階で見つけてシャーウッドに話し、シャーウッドが素晴らしいシーンが出来ると気付いてロケ地に選ばれたものであり、大戦末期に作られて実戦に間に合わなかった戦闘機の残骸が並んでいた<ref name="バーグ255" />。

また、第二次世界大戦に従軍して戦地から帰還したワイラーは[[プラザホテル]]で妻と再会した際に、長い廊下の向こうとこちらから自分と妻が近付いていった時の感動を覚えており、その光景をアルがミリーと2人の子供が待つアパートに帰って来るシーンで再現した<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.258-259</ref>。テレサ・ライトはマーナ・ロイに「あの場面には真実の愛があった」からこそあれほど感動的なシーンになったと思うと話しているが、ロイ自身も後年に「二人はベッドに入るのが待ち切れないくらいだったのよ」と迫真の演技の秘訣を語っている<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.259</ref>。

== 公開 ==
「[[ヘイズ・コード]]」に基づき審査を行う[[アメリカ映画協会 (業界団体)|アメリカ映画製作配給業者協会]](MPPDA)はアルが[[げっぷ|ゲップ]]をするシーンやペギーの「結婚を壊してやる」という発言、ミリーとアルの情熱的なキスのシーンなどはけしからんから削れとの要求を続けたが、ゴールドウィンが一切変更しないと譲らなかったために最終的にこの異議を引っ込めてしまった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.260-261</ref>。また、通常の映画の2倍の長さになってしまったため、[[試写会]]のたびに誰かしらから犠牲に出来そうな[[カット#映像作品における「カット」|カット]]が指摘された。上演回数が普通の半分に減ってしまうというデメリットがありながら、ゴールドウィンは長いまま本作を公開することを決断した<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.261-262</ref>。

前評判を盛り上げるために40万ドルもの費用を掛けた宣伝が行われた。ヴァージニア・メイヨとテレサ・ライトは[[ライフ (雑誌)|ライフ]]誌の表紙を飾り、ホーギー・カーマイケルは自分の[[ラジオ番組]]で本作を紹介し、マーナ・ロイとフレドリック・マーチとダナ・アンドリュースのもとには各ラジオ番組からの出演依頼が殺到した<ref name="バーグ263">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.263</ref>。

1946年11月20日、入場料の40%を獲得するというゴールドウィンにとってこれまでに無い好条件で[[映画配給|配給契約]]を結ぶことの出来た[[ニューヨーク]]の{{仮リンク|アスター劇場|en|Astor Theatre}}でまず封切られ<ref name="バーグ263" />、[[ロサンゼルス]]では[[クリスマス]]の週に公開された<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.264</ref>。

公開後1年で[[北アメリカ]]では1000万ドル近くの[[収益]]を上げた。[[トーキー]]になってからの映画の[[興行成績]]としては『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』に次ぐ第2位を記録している<ref name="バーグ265">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.265</ref>。[[ロンドン]]では1947年春に公開され、一年間満員の状態が続き、22週目に突入しても2週目の客の動員数を維持していたほどの勢いだった。この状況は[[シドニー]]から[[リオデジャネイロ]]の世界各地においても共通していた<ref name="バーグ266">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.266</ref>。

== 評価 ==
=== 批評 ===
公開時のみならず、後世の多くの[[映画評論|映画評論家]]からも肯定的な評価を獲得している。
* [[ニューヨーク・タイムズ]]紙の{{仮リンク|ボズリー・クラウザー|en|Bosley Crowther}}:「最上級の[[エンターテインメント]]のみならず、心の安らぎと人間らしい考え方の礎として全面的かつ積極的に認めることの出来る」数少ない映画であり、人々が映画に設定した「最も美しく感動的な人間の不屈の精神の実証」の基準を見事にクリアし、「[[グランドホテル方式|アンサンブル・キャスト]]はこの今年一番のハリウッド映画に最高の演技をもたらした」と書いている<ref>{{Cite web|author=Bosley Crowther|url=http://movies2.nytimes.com/mem/movies/review.html?res=EE05E7DF1739E561BC4A51DFB767838D659EDE|title=THE BEST YEARS OF OUR LIVES|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ|NYTimes.com]]|language=英語|date=1946年11月22日|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
* [[ジェームズ・エイジー]]:「ここ何年かにアメリカの撮影所で製作された映画としては、数少ない感動的で勇気付けられる好ましい作品の一つ」であると認め、それから2週間後には「嬉しいことにこれだけは声を大にして言える。この映画は才能ある人々が集まって機会を与えられたら、あるいはチャンスを切り開いたらどんな成果が生まれるかを如実に示している」と書いている<ref name="バーグ265" />。
* [[淀川長治]]:「本当は最悪の年なんですね。この3家庭を通して、アメリカを見事に見せたんです。うまいんですねぇ。ことに、ハロルド・ラッセルがいいんです。ラッセルは、これで[[アカデミー賞]]の[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]と[[アカデミー名誉賞|特別賞]]を獲ったんですけど、素人なんですね。本当に両手が無いんです。本当に傷痍軍人なんです」と書いている<ref>[[#淀川(1998年)|淀川(1998年)]] p.22</ref>。
* [[シカゴ・サンタイムズ]]紙の[[ロジャー・イーバート|ロジャー・エバート]]:2007年に彼の「素晴らしい映画リスト」に加えた。60年以上後から見ても現代的に感じられ、ハリウッドがその後に意図的に避けた問題を単刀直入に取り上げていると評している<ref>{{Cite web|author=[[ロジャー・イーバート|Roger Ebert]]|url=http://www.rogerebert.com/reviews/the-best-years-of-our-lives-1946|title=The Best Years of Our Lives (1946)|publisher=[[シカゴ・サンタイムズ|Rogerebert.com]]|language=英語|date=2007年12月29日|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
* シカゴ・リーダー紙の{{仮リンク|ジョナサン・ローゼンバウム|en|Jonathan Rosenbaum}}:「最も感動的かつ最も心に深く刻み込まれた」—「今までに観たことのある、帰還兵を取り上げたアメリカ映画の中でも最高の出来だ」と書いている<ref>{{Cite web|author=Jonathan Rosenbaum|url=http://www.chicagoreader.com/chicago/the-best-years-of-our-lives/Film?oid=1051339|title=The Best Years of Our Lives|publisher=Chicagoreader.com|language=英語|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
* {{仮リンク|タイム・アウト (雑誌)|en|Time Out (magazine)|label=タイム・アウト}}誌の{{仮リンク|ジェフ・アンドリュー|en|Geoff Andrew}}:「ワイラーの最高の映画の一つ」と評し、「おそらく長過ぎるのだが、帰国した復員兵の窮状を優しく、ときに厳しく見つめる映画だ」と書いている<ref>{{Cite web|author=Geoff Andrew|url=http://www.timeout.com/london/film/the-best-years-of-our-lives|title=The Best Years of Our Lives|publisher=TimeOut.com|language=英語|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。
* [[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]誌の{{仮リンク|エイベル・グリーン|en|Abel Green}}:「我等の生涯の最良の映画の一つ」<ref>{{Cite web|author=Abel Green|url=http://variety.com/1946/film/reviews/best-years-of-our-lives-1200414825/|title=Review: ‘Best Years of Our Lives’|publisher=[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|Variety.com]]|language=英語|date=1946年11月26日|accessdate=2015年1月27日}}</ref>。

公開後何か月かはゴールドウィンのデスクに称賛やお祝いの手紙が溢れた。その中でも彼をとりわけ感激させたのが一時は言葉の行き違いで関係が悪化していた長女ルースから送られた「生涯で最良の涙を流してきました。お父様を愛し、この上無く誇りに思っている娘ルースより」という手紙だった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.265-266</ref>。

2015年2月4日時点で[[インターネット・ムービー・データベース]]の33674人のユーザーの評価では10点満点のうち平均8.2点で採点されている<ref>{{cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0036868/?ref_=ttfc_fc_tt|title=The Best Years of Our Lives (1946)|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年2月4日}}</ref>。また、[[Rotten Tomatoes|ロッテン・トマト]]の10171人のユーザーの評価では5点満点のうち平均4.2点で採点され、本作が好きと回答しているのが92%に達している<ref>{{cite web|url=http://www.rottentomatoes.com/m/best_years_of_our_lives/|title=THE BEST YEARS OF OUR LIVES (1946)|publisher=[[Rotten Tomatoes|RottenTomatoes.com]]|language=英語|accessdate=2015年2月4日}}</ref>。

=== 映画賞の受賞・ノミネート ===
[[第9回アカデミー賞]]の10部門に[[ノミネート]]され、うち9部門を受賞した<ref name="Academy">{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000003/1947?ref_=ttawd_ev_1|title=Academy Awards, USA Awards for 1947 Oscar|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>。フレドリック・マーチは授与式会場から離れたニューヨークにいたため、まだデビューしたばかりのキャシー・オドネルが彼の代理として[[オスカー像]]を受け取った<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.280-281</ref>。[[アービング・G・タルバーグ賞]]の受賞者が発表された後、ゴールドウィンは感極まって目に涙を浮かべていた<ref name="バーグ280">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.280</ref>。式の後に[[RKO]]社長邸で開催された祝賀会ではことあるごとに衝突していたゴールドウィンとワイラーは互いに挨拶もせずに一晩中それぞれの隅に引っ込んでいたが、フランシス夫人はゴールドウィンが「まるでクリスマスに欲しい物を全部貰った子供のように」はしゃいでいたのを記憶している。夫妻が帰宅した後、フランシス夫人はゴールドウィンがいつまでも2階に上がってくる気配が無いので何処に居るのか家中を探し回ったところ、暗いリビングルームで[[アカデミー作品賞]]とアービング・G・タルバーグ賞を片手ずつ持ち、腰を下ろし、うつむいて声も無く泣いていた彼を発見したという<ref name="バーグ281" />。

ハロルド・ラッセルは素人俳優で本物の復員兵であったにも関わらず、1つの役で2つのオスカー像を獲得した最初の俳優となった<ref name="バーグ280" />。アカデミー特別賞の受賞理由として挙げられたのが「出演を通して仲間の復員兵に希望と勇気を与えた」というものだった<ref name="Academy" /><ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.279</ref>。彼は後年に妻の医療費を工面するために、アカデミー助演男優賞のオスカー像を[[競売]]にかけ、60500ドルで売却した<ref>{{Cite web|author=Ronald Bergan|url=http://www.theguardian.com/news/2002/feb/06/guardianobituaries|title=Harold Russell|publisher=[[ガーディアン|TheGuardian.com]]|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>。

他の主な賞として[[第12回ニューヨーク映画批評家協会賞]]の3部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000484/1946-2|title=New York Film Critics Circle Awards Awards for 1946 NYFCC Award|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年2月5日}}</ref>、{{仮リンク|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (1946年)|en|National Board of Review Awards 1946|label=第18回ナショナル・ボード・オブ・レビュー}}の2部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000464/1946?ref_=ttawd_ev_7|title=National Board of Review, USA Awards for 1946 NBR Award|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、[[第4回ゴールデングローブ賞]]の2部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000292/1947?ref_=ttawd_ev_2|title=Golden Globes, USA Awards for 1947|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、1947年のブリュッセル世界映画祭の1部門<ref>[[#Leider(2011年)|Leider(2011年)]] p.255</ref>、{{仮リンク|第1回ボディル賞|en|1st Bodil Awards}}の1部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000107/1948?ref_=ttawd_ev_4|title=Bodil Awards for 1948 Bodil|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、第1回[[カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭]]の1部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000384/1948?ref_=ttawd_ev_6|title=Karlovy Vary International Film Festival Awards for 1948 Crystal Globe|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年2月5日}}</ref>、第3回スペイン映画脚本家協会賞の1部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000179/1948?ref_=ttawd_ev_5|title=Cinema Writers Circle Awards, Spain Awards for 1948 CEC Award|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、{{仮リンク|第1回英国アカデミー賞|en|1st British Academy Film Awards}}の1部門<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000123/1948?ref_=ttawd_ev_3|title=BAFTA Awards for 1948 BAFTA Film Award|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>を獲得している。

また、作品は1989年に[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に登録され<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0000468/1989?ref_=ttawd_ev_8|title=National Film Preservation Board, USA Awards for 1989 National Film Registry|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、2007年にオンライン映画・テレビジョン協会賞の殿堂入りを果たしている<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/event/ev0002704/2007?ref_=ttawd_ev_10|title=Online Film & Television Association Awards for 2007 OFTA Film Award|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年2月5日}}</ref>。

{| class="wikitable"
|-
! 選考年
! 映画賞
! 部門
! 対象
! 結果
|-
| rowspan="5" | 1946年
| rowspan="2" | 第18回ナショナル・ボード・オブ・レビュー
| {{仮リンク|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 トップ10作品|en|National Board of Review: Top Ten Films|label=トップ10作品}}
| ''『The Best Years of Our Lives』''
| rowspan="4" {{Won}}
|-
| [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 監督賞|監督賞]]
| [[ウィリアム・ワイラー]]
|-
| rowspan="3" | 第12回ニューヨーク映画批評家協会賞
| [[ニューヨーク映画批評家協会賞|作品賞]]
| ''『The Best Years of Our Lives』''
|-
| [[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]
| ウィリアム・ワイラー
|-
| [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]
| [[フレドリック・マーチ]]
| {{Nom}}
|-
| rowspan="13" | 1947年
| rowspan="2" | 第4回ゴールデングローブ賞
| ドラマ映画作品賞
| ''『The Best Years of Our Lives』''
| rowspan="9" {{Won}}
|-
| ノンプロフェショナル演技特別賞
| [[ハロルド・ラッセル]]
|-
| rowspan="10" | 第19回アカデミー賞
| [[アカデミー作品賞|作品賞]]
| {{仮リンク|サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズ|en|Samuel Goldwyn Productions}}
|-
| [[アカデミー監督賞|監督賞]]
| ウィリアム・ワイラー
|-
| [[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]
| フレドリック・マーチ
|-
| [[アカデミー脚色賞|脚色賞]]
| {{仮リンク|ロバート・E・シャーウッド|en|Robert E. Sherwood}}
|-
| [[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]
| ハロルド・ラッセル
|-
| [[アカデミー編集賞|編集賞]]
| [[ダニエル・マンデル]]
|-
| [[アカデミー作曲賞|ドラマ・コメディ音楽賞]]
| [[ヒューゴー・フリードホーファー]]
|-
| [[アカデミー録音賞|録音賞]]
| [[ゴードン・E・ソーヤー]]
| {{Nom}}
|-
| [[アカデミー名誉賞|特別賞]]
| ハロルド・ラッセル
| rowspan="9" {{Won}}
|-
| [[アービング・G・タルバーグ賞|記念賞]]
| [[サミュエル・ゴールドウィン]]
|-
| ブリュッセル世界映画祭
| 主演女優賞
| [[マーナ・ロイ]]
|-
| rowspan="4" | 1948年
| 第1回ボディル賞
| {{仮リンク|ボディル賞 アメリカ作品賞|en|Bodil Award for Best American Film|label=アメリカ作品賞}}
| ウィリアム・ワイラー
|-
| 第1回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭
| 監督賞
| ウィリアム・ワイラー
|-
| 第3回スペイン映画脚本家協会賞
| 外国語作品賞
| ''『Los mejores años de nuestra vida』''
|-
| 第1回英国アカデミー賞
| [[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]
| ウィリアム・ワイラー
|-
| 1989年
| {{仮リンク|合衆国国立フィルム保存委員会|en|National Film Preservation Board}}
| アメリカ国立フィルム登録簿
| ''『The Best Years of Our Lives』''
|-
| 2007年
| オンライン映画・テレビジョン協会賞
| オンライン映画・テレビジョン協会賞の殿堂
| ''『The Best Years of Our Lives』''
|}

上記の他にも、[[フランス]]の「ヴィクトワール」や[[オランダ]]の「フィルムプリズン」のような国際的な賞もいくつか受賞している<ref name="バーグ266" />。

=== ランキング入り ===
[[日本]]の映画雑誌、[[キネマ旬報]]の選考委員20人が選定した[[1948年の日本公開映画|1948年国内公開映画]]の外国映画ベスト10(1位票10点・10位票1点)では、170ポイントの『[[ヘンリィ五世]]』に次ぐ152ポイントを獲得して2位にランクインしている<ref>[[#キネマ旬報(2007年)|キネマ旬報(2007年)]] p.41</ref>。

[[イギリス]]では歴代6位(1位『風と共に去りぬ』、2位『[[サウンド・オブ・ミュージック (映画)|サウンド・オブ・ミュージック]]』、3位『[[白雪姫 (アニメ映画)|白雪姫]]』、4位『[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]』、5位『{{仮リンク|スプリング・イン・パーク・レイン|en|Spring in Park Lane}}』)の推定観客動員数2040万人を記録している<ref>{{Cite web|author=Nick James|url=http://www.reelclassics.com/Articles/General/bfi100ultimate-article.htm|title=Everything you knew about cinema is probably wrong;BFI releases definitive list of of the top 100 most-seen films|publisher=Reelclassics.com|language=英語|date=2004年11月27日|accessdate=2015年1月31日}}</ref>。

「[[AFIアメリカ映画100年シリーズ]]」の[[アメリカ映画ベスト100]]では37位に<ref>{{cite web|url=http://www.afi.com/100years/movies.aspx|title=AFI's 100 GREATEST AMERICAN MOVIES OF ALL TIME|publisher=[[アメリカン・フィルム・インスティチュート|AFI.com]]|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、[[感動の映画ベスト100|感動のアメリカ映画ベスト100]]では11位に<ref>{{cite web|url=http://www.afi.com/100years/cheers.aspx|title=AFI'S 100 YEARS...100 CHEERS|publisher=AFI.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>、[[アメリカ映画ベスト100(10周年エディション)|10周年版アメリカ映画ベスト100]]では37位に<ref>{{cite web|url=http://www.afi.com/100years/movies10.aspx|title=AFI'S 100 YEARS...100 MOVIES — 10TH ANNIVERSARY EDITION|publisher=AFI.com|language=英語|accessdate=2015年1月29日}}</ref>それぞれランクインしている。

{| class="wikitable"
|-
! 選考年
! 団体
! 部門
! 対象
! 順位
|-
| 1949年
| [[キネマ旬報社]]
| 1948年の外国映画ベスト10
| 『我等の生涯の最良の年』
| 2位
|-
| 1998年
| rowspan="4" | [[アメリカン・フィルム・インスティチュート|アメリカ映画協会]]
| アメリカ映画ベスト100
| ''『The Best Years of Our Lives』''
| 37位
|-
| 2006年
| 感動のアメリカ映画ベスト100
| ''『The Best Years of Our Lives』''
| 11位
|-
| 2007年
| 10周年版アメリカ映画ベスト100
| ''『The Best Years of Our Lives』''
| 37位
|}

== 余波 ==
授与式の後に [[ロサンゼルス・タイムズ]]紙は「ハリウッドは賞を受賞した映画を誇りに思っていい。''『The Best Years of Our Lives』''はアメリカ魂の素晴らしさを示した。この映画を混沌とした現代世界のすべての人々に見せてあげたい」と論説に書いた<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] pp.282-283</ref>。アメリカ全土の雑誌が本作を様々な角度から取り上げた。特にライフ誌の1947年10月27日号は10ページにわたる特集を組み、ゴールドウィンの経歴と映画界での活動について詳しく紹介している<ref name="バーグ283">[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.283</ref>。しかし、ゴールドウィンはアカデミー賞受賞から2、3か月後にはライフ誌記者に「高く上がれば上がるほど、落ちた時のショックも大きい」と将来に対する不安を吐露している<ref name="バーグ283" />。

[[1950年]]に息子の{{仮リンク|サミュエル・ゴールドウィン・ジュニア|en|Samuel Goldwyn, Jr.}}が[[朝鮮戦争]]に従軍することが決まり<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.324</ref>、ゴールドウィンは「アメリカが再び戦争を始めたことが現代の家庭にどのような影響を及ぼすか」を描く新しい映画の企画を思い付いた<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.325</ref>。この『{{仮リンク|我が心の呼ぶ声|en|I Want You (1951 film)}}』は本作と同様に従軍経験のある3人の男(同じ家族の父・兄・弟)が主人公の物語である。その上、アメリカの小さな町を空から紹介する冒頭のシーンから結婚式が行われる[[エンディング]]まで、起こった問題をすべて本作と同様の方法で解決した<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.326</ref>。彼はこの新作映画の宣伝活動に励み、「単なる映画というのみならず、国家的な課題を明らかにしたメッセージなのだ」と強調したが、多くの映画評論家から酷評された<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.327</ref>。さらに上回る映画を製作したいと強く願いながらも報われず、本作の後の7作品はすべて興行的に失敗に終わった<ref>[[#バーグ(1990年)|バーグ(1990年)]] p.328</ref>。

== 脚色とリメイク ==
1947年3月15日の『ザ・ヘッド・ホッパーショー - ディス・イズ・ハリウッド』(ダナ・アンドリュース、ハロルド・ラッセルが再演)、1947年5月19日の『{{仮リンク|スクリーン・ギルド・シアター|en|The Screen Guild Theater}}』(ダナ・アンドリュース、ヴァージニア・メイヨ、キャシー・オドネルが再演)、1947年11月24日の『スクリーン・ギルド・シアター』(フレドリック・マーチ、マーナ・ロイ、テレサ・ライトが再演)、1949年4月17日の『{{仮リンク|スクリーン・ディレクターズ・プレイハウス|en|Screen Directors Playhouse}}』(ダナ・アンドリュースが再演)で本作を脚色した30分の[[ラジオドラマ]]が放送されている<ref name="Trivia" />。

本作を[[リメイク]]した1975年放送の[[テレビ映画]]''『Returning Home』''では[[ベトナム戦争]]で実際に両手を失ったジェームズ・R・ミラーがホーマー・パリッシュを演じた<ref>[[#McKenna(2013年)|McKenna(2013年)]] p.171</ref>。

== 脚注 ==
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|author=David Thomson|date=1993年|title=Showman: Life of David O. Selznick|publisher=Abacus|language=英語|isbn=978-0349105239|ref=Thomson(1993年)}}
* {{Cite book|和書|author=A.スコット・バーグ (著), 吉田利子 (翻訳)|date=1990年|title=虹を掴んだ男―サミュエル・ゴールドウィン〈下〉|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163445205|ref=バーグ(1990年)}}
* {{Cite book|author=Bruce W. Orriss|date=1985年|title=When Hollywood Ruled the Skies (The Aviation film classics of World War II)|publisher=Aero Assoc; 1st edition|language=英語|isbn=978-0961308803|ref=Orriss(1985年)}}
* {{Cite book|author=Robert L. McLaughlin, Sally E. Parry|date=2006年|title=We'll Always Have the Movies: American Cinema during World War II|url= https://books.google.co.jp/books?id=wmDFvvEN8p0C&pg=PT323&dq=Blake+Edwards%E3%80%80The+Best+Years+of+Our+Lives%E3%80%80Corporal&hl=ja&sa=X&ei=FnfTVN_kHIHlmAWCjoHADg&ved=0CCYQ6AEwAQ#v=onepage&q=Blake%20Edwards%E3%80%80The%20Best%20Years%20of%20Our%20Lives%E3%80%80Corporal&f=false|publisher=University Press of Kentucky|language=英語|isbn=978-0813137643|ref=McLaughlin, Parry(2006年)}}
* {{Cite book|author=Emily W. Leider|date=2011年|title=Myrna Loy: The Only Good Girl in Hollywood|publisher=University of California Press|language=英語|isbn=978-0520949638|ref=Leider(2011年)}}
* {{Cite book|和書|author=[[淀川長治]]|date=1998年|title=ぼくが天国でもみたいアメリカ映画100―好きで好きでたまらない名作名優|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062563154|ref=淀川(1998年)}}
* {{Cite book|和書|date=2007年|title=キネマ旬報ベスト・テン80回全史―1924ー2006 (キネ旬ムック)|publisher=[[キネマ旬報社]]|isbn=978-4873766560|ref=キネマ旬報(2007年)}}
* {{Cite book|author=Michael McKenna|date=2013年|title=The ABC Movie of the Week: Big Movies for the Small Screen|publisher=Scarecrow Press|language=英語|isbn=978-0810891579|ref=McKenna(2013年)}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* {{Movielink|allcinema|26238|我等の生涯の最良の年}}
* {{Movielink|allcinema|26238|我等の生涯の最良の年}}
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* {{Rotten-tomatoes|best_years_of_our_lives|The Best Years of Our Lives}}
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2015年2月19日 (木) 18:59時点における版

我等の生涯の最良の年
The Best Years of Our Lives
監督 ウィリアム・ワイラー
脚本 ロバート・E・シャーウッド英語版
原作 『Glory for Me』
マッキンレー・カンター
製作 サミュエル・ゴールドウィン
出演者 マーナ・ロイ
フレドリック・マーチ
ダナ・アンドリュース
テレサ・ライト
音楽 ヒューゴー・フリードホーファー
撮影 グレッグ・トーランド
編集 ダニエル・マンデル
製作会社 サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズ英語版
配給 RKOラジオピクチャーズ
公開 アメリカ合衆国の旗 1946年11月21日
日本の旗 1948年6月15日[1]
上映時間 172分
製作国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
言語 英語
製作費 210万ドル[2]
興行収入 アメリカ合衆国の旗カナダの旗 3365万ドル[3]
テンプレートを表示
映像外部リンク
軍用輸送機で同じ故郷に帰る3人
(TCMのムービークリップ)
ホーマーとその家族・恋人の再会
(WBOnlineのムービークリップ)
ブッチのバーで再会を祝う3人
(TCMのムービークリップ)
悪夢にうなされるフレッドを慰めるペギー
(WBOnlineのムービークリップ)
妻マリーとの再会を果たすフレッド
(TCMのムービークリップ)
以前働いていた職場を訪問するフレッド
(TCMのムービークリップ)
ウィルマに冷たく当たるホーマー
(TCMのムービークリップ)
互いの愛を確認するホーマーとウィルマ
(WBOnlineのムービークリップ)
B-17内で過去の激戦を思い出すフレッド
(WBOnlineのムービークリップ)
復刻版予告編
(TCMの予告編)
ハロルド・ラッセルキャシー・オドネル
物語の主要な舞台となる「ブッチのバー」

我等の生涯の最良の年』(われらのしょうがいのさいりょうのとし、: The Best Years of Our Lives)は、1946年に製作かつ公開されたアメリカ合衆国の映画第二次世界大戦後に市民生活に復帰した復員兵が直面する様々な社会問題を描いた数少ない作品の一つである。アル・スティーブンソンは家族の温かみを再確認し、フレッド・デリーは就職活動をするが上手くいかず、ホーマー・パリッシュは自身の障害に引け目を感じて家族や恋人からも心を閉ざしてしまう。

アービング・G・タルバーグ賞を含めた場合ではアカデミー作品賞をはじめ、当時のアカデミー賞最多記録となる9部門を受賞した[4]トーキーになってからの映画の興行成績としても『風と共に去りぬ』以来の第2位を記録している。

また、1989年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された作品でもある。

ストーリー

第二次世界大戦が終結した。同じブーンシティ(オハイオ州シンシナティに倣って作られた架空の都市[5])出身のアル・スティーブンソン、フレッド・デリー、ホーマー・パリッシュという名の3人の帰還兵が同じ軍用輸送機に乗り合わせることで初めて知り合い、故郷に帰ってきた[6]

海兵のホーマーは航空母艦を撃沈された時に負った火傷が原因で、製の義手を装着している[7]。帰宅した彼は両親と妹ルエラ、恋人ウィルマの歓迎を受けるが、母親は彼の義手を見て泣き出してしまう[8]

陸軍歩兵連隊軍曹のアルはフレッド曰く「豪華なアパート住まい」で快適な生活を送っていた[9]。帰宅した彼は妻ミリーとすっかり成長した娘ペギー、息子ロブの歓迎を受ける[10]。「ジャップ」という差別用語を口にする父親から日本刀をプレゼントされたロブは「日本人は家族の絆を大切にすると聞いたよ」と言い、放射能広島の人々に与えた影響について何か見たんじゃないかと尋ね、学校で原子力について勉強した時に「レーダーミサイルに原子力が結びついたら」悲劇になるから人類は共存すべきだと物理の先生が言っていたと話す[11]。成長した2人の子供の様子に一抹の不安を感じたアルは発散のためにミリーとペギーを連れてナイトクラブに繰り出す[12]

いくつもの勲章を胸に下げるフレッドは戦時中は陸軍航空軍大尉を務め、3人の中でも最も軍階級が高かった[13]。出征前はドラッグストアソーダ水の販売員として働き[14]、飛行訓練中に出会った女性と出征する20日前に結婚していた[15]。帰宅した彼を息子の安否を気遣っていた父親と母親が出迎えたが、妻マリーの姿は無かった[16]。両親によると、夫の帰還を待ち切れずに家を出たマリーはナイトクラブで深夜まで働いているらしい[17]

妻と娘を伴って二次会のためにブッチ(ホーマーの叔父)が経営するバーを初めて訪れたアルはそこでホーマー、フレッドを見つけ、再会を祝う[18]。アルとフレッドは酔い潰れてしまい、ミリーとペギーが2人をスティーブンソン家に連れ帰る[19]。夜が明けてペギーにマリーが住むアパートまで送ってもらったフレッドはその別れ際、夜遅くに戦争の悪夢にうなされていたのを寝かしつけてくれ、何も言わずに黙っていてくれた彼女の親切心に対して感謝の気持ちを伝える[20]。アパートの一室に入ったフレッドは歓声を上げて迎えるマリーと抱き合う[21]

アルは銀行に復職すると同時に、小口融資担当の副頭取に昇進する[22]。ホーマーは障害に引け目を感じて両親を避け、ウィルマが示す以前と変わらぬ愛情も哀れみと受け取り、心を閉ざしてしまう[23]。フレッドが胸に下げる勲章を見たドラッグストアの従業員は「復員兵に仕事を取られる」と危機感を募らせる[24]。輝かしい戦績を残した彼は向上心からより良い待遇の仕事を探していたが、思うようにはいかない。就職の口が見つかる前に貯金を使い果たしてしまい、結局は妻をなだめるためにドラッグストアに復職することを決める[25]

ドラッグストアの香水売り場の販売員となったフレッドは買い物に来たペギーを昼食に誘い、その別れ際に彼女に強引にキスをする[26]。フレッドを愛するペギーはフレッド夫妻を夜食会に誘ってマリーの顔を見ることで気持ちを切り替えようとするが[27]、マリーと話をした時に彼女が収入が少なく、戦地から帰還してすっかり陰気になってしまったフレッドとの結婚を後悔していることを知る[28]。マリーを嫌い、愛し合っていない二人を別れさせると両親の前で宣言したペギーに、ミリーは娘から「完璧な夫婦」と見られている自分達も結婚生活の中でこれまでに同様の問題を抱えながら、克服してきたことを打ち明ける[29]。ブッチのバーでアルに呼び出され、娘と別れてほしいと迫られたフレッドは彼の頼みを聞き入れて店内の電話ボックスに行き、ペギーに絶交を申し入れる電話を掛けるものの、二人の関係はこの一件でギクシャクしてしまう[30]

ドラッグストアに来店したホーマーに「日本ナチス共産主義を絶滅出来た」のに我々は利用されてしまい、(ホーマーの義手や彼の戦友の死も含めて)「無駄な犠牲を払ってしまった」と言い放つ客に憤慨したフレッドはその客をガラスカウンターに殴り倒したことで解雇されてしまう[31]。謝るホーマーに、フレッドはウィルマにすぐにでも会って結婚を申し込めと勧め、二人の恋仲を進展させようとする[32]

ある晩にホーマーに会いに来たウィルマは避けられているのであれば、忘れるために明日の朝にもブーンシティを離れた方がいいと両親から迫られていることを伝えるものの、彼女の幸せを願うホーマーは町を離れるのを止めようとしない[33]。自分の全てをさらけ出し、一緒に生活することの大変さについて具体的に話すホーマーに、彼女はそれを愛の力で乗り越えようと訴えかける。ここに来てホーマーもこれまで抑えていたウィルマに対する思いを正直に告白する[34]

職探しから帰宅したフレッドはマリーが復員兵のクリフと一緒にいるのを目撃した後、彼女から離婚を言い渡されてしまう[35]。フレッドの父親は町から離れようとする息子に考えを改めるよう説得を試みるものの、失敗に終わる[36]。息子が去った後に父親は妻(フレッドの母親)を呼び、残していったジミー・ドーリットルより送られた殊勲飛行十字章の授与について記された「最も困難な状況において示した任務への忠誠心と高度な技術と冷静さ」を称える賞状の文章を読み上げる[37]。目的地を決めぬまま飛行場に到着したフレッドは待機する間、「航空機の墓場」をさまよう[38]B-17の先端部分に入った後に過去の激戦を思い出してフラッシュバック状態に陥るが、作業員の男が彼に声を掛けて現実に引き戻す[39]。作業員の男から解体された後にプレハブ建築の材料になると聞いたフレッドは未経験だが、自分を解体作業員として雇ってくれと頼み込む[40]

最後のシーンでは人々がホーマーとウィルマの結婚式のためにパリッシュ家に集まっている[41]。新郎新婦が誓いの言葉を交わす間、離れて立つフレッドとペギーは互いに見つめ合う[42]。終了した後、フレッドは人々が新郎新婦の周りに集まっている横を通ってペギーのもとに行き、彼女にキスをする。キスの後にフレッドは一人前の稼ぎになるまで何年掛かるか分からないし、最初は厳しい生活を送ることになるかもしれないが、それでもいいのかと尋ねる。ペギーは無言で微笑み、フレッドにキスをするのだった[43]

キャスト

クレジットに記載されたキャストと、その役を演じた俳優は以下の通り[44]

プロデューサーサミュエル・ゴールドウィンスクリーンの「理想的な妻」の地位を確立したマーナ・ロイが端役を引き受けてくれるか心配したが、事前に脚本を読んでいた彼女は役を演じるのを即座に了承した。クレジットでは俳優として最も名の売れている彼女の名前が一番最初に表示されることになった[45]

監督ウィリアム・ワイラー心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したホーマー・パリッシュの役に、それ以前に演技経験が無かった素人のハロルド・ラッセルが適役だと見込み、起用することに決めた[46]。ワイラーが以前に観たドキュメンタリー映画に両手を失った若い軍曹として登場した彼は「TNT火薬を扱っている時に事故が起こり、両手を手首から6インチのところまで失ってしまったために」鉄の義手を付け、肩に付けた器具とゴムバンドでそれを動かしていた[47]。キャストに加わった後にホーマーの障害はPTSDから身体障害に変更された[48]

ノンクレジットでは、カントリー・ミュージックの歌い手として有名になるテネシー・アーニー・フォード英語版が「田舎者のシンガー」で出演している[49]。のちに映画監督・プロデューサー・脚本家となるブレイク・エドワーズも「伍長」で一瞬登場する[50]。3人がブーンシティに帰る前の序盤のシーンでフレッドはクリーブランド行きの飛行を予約する彼に「クリーブランドは素敵な町だ」と話し掛けるが、「ああ、だけど住んでるのはデトロイトなんだ」と返答している[51]

製作

脚本執筆

フランシス・ゴールドウィン英語版タイム誌が1944年8月7日号で除隊兵士について取り上げた「国内ニュース」の中の「帰還」と題された記事に何度も目を通し、注目した。彼女は夫のサミュエル・ゴールドウィンに帰郷した兵士達をテーマにしたドラマを製作すべきだと言い続け、しまいには彼も「絶対にそんなもんは作らないぞ」と宣言してしまった[52]。ところが、実際にはサミュエル・ゴールドウィンはその後にマッキンレー・カンターに兵士が帰還した第二次世界大戦後の映画の構想を話している。ゴールドウィンはカンターにタイムの記事を見せ、「あなた自身の経験から語るべきだと思う」物語を自由に展開させてほしいと依頼した[53]。報酬として20000ドルが提示され、1944年9月8日にカンターは契約書にサインした[54]。カンターが執筆した物語『Glory for Me』の脚本用の梗概は1945年1月に作成された[55]。物語は無韻詩で書かれていた[48]

しかし、1945年8月14日にこの『Glory for Me』の脚色をするという契約に署名したロバート・E・シャーウッド英語版は来年の春か秋には時代遅れのテーマになっているかもしれないし、神経症をすべての帰還兵につきもののように描けば「かなりの不満」さえ起こるかもしれないとしてあまり乗り気では無く、すぐに企画の中止を進言した[56]。9月4日にゴールドウィンから送られた彼の強い決意を示す次の内容の電報(一部抜粋)がこのシャーウッドの考えを改めさせることになった[57]

・・・私が6か月前よりももっと自信を強くしているのは、あのテーマは今よりも一年後の方が更に時節に合うと思うからだ。・・・市民の側から物語を見るというあなたのやり方は正しいし、言われるようにアメリカらしいユーモアを全体にちりばめれば、この作品はあなたの仕事の中でも特に優れたものとなることは間違いない。私が作りたいのは心を打つ感動的な物語だ。こちらであなたがおっしゃったことを聞いて、皆が適切な情熱を持ち続ければ、この映画は年間のベスト作品になると確信した。

ゴールドウィンから「ハリウッド的な映画にしなくてはいけないと思わないでくれ。それよりも、もっとシンプルで真実味のあるものを作りたい」と言われたシャーウッドは数ヶ月かけて物語を練り上げ、1946年4月9日に脚本を完成させた[58]

映画撮影

撮影は1946年4月15日に開始され、オンタリオ国際空港ロサンゼルス郡樹木園・植物園英語版を含めた様々な場所でロケが実施された[46]。撮影には100日以上が費やされたが、ゴールドウィンはシャーウッドの脚本通りにどんな台詞でも一切変更せずに撮るように要求し、監督のウィリアム・ワイラーも渋々ながらこれに従った[59]

ゴールドウィンはハロルド・ラッセルを演技教室に入学させたが、「実に自然な演技をこなす」彼の持ち味を失わせたくなかったワイラーは辞めるように言った[60]

いつものように今回も音楽を担当するようにゴールドウィンから頼まれたアルフレッド・ニューマンだったが、既に20世紀フォックスの音楽部門責任者に就任していた彼は自分の代わりにヒューゴー・フリードホーファーを推薦したため、フリードホーファーが起用されることになった[61]

本作の中に妻のある身のフレッドがブッチのバーで出会ったアルからペギーと付き合うのを止めてくれと言われ、そう言うと約束してペギーに電話を掛けに電話ボックスへ向かうシーンがある。フレッドが出て行った後、バーに入って来たホーマーとブッチが『チョップスティックス』を連弾する。ここでグレッグ・トーランドディープフォーカスを使用して画面の左上にフレッドを、右下にピアノを囲む3人を見せた。これによってアルに焦点を合わせながらも、画面のアルと同じように遠くの姿を見ているだけでフレッドがペギーに電話を掛けているのだと観客にも分かるようにした[62]シカゴ・リーダー英語版紙のデイヴ・ケール英語版はこのディープフォーカスの使用のシーンが現代の観客にも強く関心を持たれているとしている[63]

フレッド・デリーが残骸となった爆撃機に座っているシーンでは、戦闘任務を思い出す彼の主観的状態をシミュレートする「ズームレンズ」効果が使用された[64]。このカリフォルニア州オンタリオにある「航空機の墓場」はワイラーが撮影準備の段階で見つけてシャーウッドに話し、シャーウッドが素晴らしいシーンが出来ると気付いてロケ地に選ばれたものであり、大戦末期に作られて実戦に間に合わなかった戦闘機の残骸が並んでいた[60]

また、第二次世界大戦に従軍して戦地から帰還したワイラーはプラザホテルで妻と再会した際に、長い廊下の向こうとこちらから自分と妻が近付いていった時の感動を覚えており、その光景をアルがミリーと2人の子供が待つアパートに帰って来るシーンで再現した[65]。テレサ・ライトはマーナ・ロイに「あの場面には真実の愛があった」からこそあれほど感動的なシーンになったと思うと話しているが、ロイ自身も後年に「二人はベッドに入るのが待ち切れないくらいだったのよ」と迫真の演技の秘訣を語っている[66]

公開

ヘイズ・コード」に基づき審査を行うアメリカ映画製作配給業者協会(MPPDA)はアルがゲップをするシーンやペギーの「結婚を壊してやる」という発言、ミリーとアルの情熱的なキスのシーンなどはけしからんから削れとの要求を続けたが、ゴールドウィンが一切変更しないと譲らなかったために最終的にこの異議を引っ込めてしまった[67]。また、通常の映画の2倍の長さになってしまったため、試写会のたびに誰かしらから犠牲に出来そうなカットが指摘された。上演回数が普通の半分に減ってしまうというデメリットがありながら、ゴールドウィンは長いまま本作を公開することを決断した[68]

前評判を盛り上げるために40万ドルもの費用を掛けた宣伝が行われた。ヴァージニア・メイヨとテレサ・ライトはライフ誌の表紙を飾り、ホーギー・カーマイケルは自分のラジオ番組で本作を紹介し、マーナ・ロイとフレドリック・マーチとダナ・アンドリュースのもとには各ラジオ番組からの出演依頼が殺到した[69]

1946年11月20日、入場料の40%を獲得するというゴールドウィンにとってこれまでに無い好条件で配給契約を結ぶことの出来たニューヨークアスター劇場英語版でまず封切られ[69]ロサンゼルスではクリスマスの週に公開された[70]

公開後1年で北アメリカでは1000万ドル近くの収益を上げた。トーキーになってからの映画の興行成績としては『風と共に去りぬ』に次ぐ第2位を記録している[71]ロンドンでは1947年春に公開され、一年間満員の状態が続き、22週目に突入しても2週目の客の動員数を維持していたほどの勢いだった。この状況はシドニーからリオデジャネイロの世界各地においても共通していた[72]

評価

批評

公開時のみならず、後世の多くの映画評論家からも肯定的な評価を獲得している。

  • ニューヨーク・タイムズ紙のボズリー・クラウザー:「最上級のエンターテインメントのみならず、心の安らぎと人間らしい考え方の礎として全面的かつ積極的に認めることの出来る」数少ない映画であり、人々が映画に設定した「最も美しく感動的な人間の不屈の精神の実証」の基準を見事にクリアし、「アンサンブル・キャストはこの今年一番のハリウッド映画に最高の演技をもたらした」と書いている[73]
  • ジェームズ・エイジー:「ここ何年かにアメリカの撮影所で製作された映画としては、数少ない感動的で勇気付けられる好ましい作品の一つ」であると認め、それから2週間後には「嬉しいことにこれだけは声を大にして言える。この映画は才能ある人々が集まって機会を与えられたら、あるいはチャンスを切り開いたらどんな成果が生まれるかを如実に示している」と書いている[71]
  • 淀川長治:「本当は最悪の年なんですね。この3家庭を通して、アメリカを見事に見せたんです。うまいんですねぇ。ことに、ハロルド・ラッセルがいいんです。ラッセルは、これでアカデミー賞助演男優賞特別賞を獲ったんですけど、素人なんですね。本当に両手が無いんです。本当に傷痍軍人なんです」と書いている[74]
  • シカゴ・サンタイムズ紙のロジャー・エバート:2007年に彼の「素晴らしい映画リスト」に加えた。60年以上後から見ても現代的に感じられ、ハリウッドがその後に意図的に避けた問題を単刀直入に取り上げていると評している[75]
  • シカゴ・リーダー紙のジョナサン・ローゼンバウム英語版:「最も感動的かつ最も心に深く刻み込まれた」—「今までに観たことのある、帰還兵を取り上げたアメリカ映画の中でも最高の出来だ」と書いている[76]
  • タイム・アウト誌のジェフ・アンドリュー英語版:「ワイラーの最高の映画の一つ」と評し、「おそらく長過ぎるのだが、帰国した復員兵の窮状を優しく、ときに厳しく見つめる映画だ」と書いている[77]
  • バラエティ誌のエイベル・グリーン英語版:「我等の生涯の最良の映画の一つ」[78]

公開後何か月かはゴールドウィンのデスクに称賛やお祝いの手紙が溢れた。その中でも彼をとりわけ感激させたのが一時は言葉の行き違いで関係が悪化していた長女ルースから送られた「生涯で最良の涙を流してきました。お父様を愛し、この上無く誇りに思っている娘ルースより」という手紙だった[79]

2015年2月4日時点でインターネット・ムービー・データベースの33674人のユーザーの評価では10点満点のうち平均8.2点で採点されている[80]。また、ロッテン・トマトの10171人のユーザーの評価では5点満点のうち平均4.2点で採点され、本作が好きと回答しているのが92%に達している[81]

映画賞の受賞・ノミネート

第9回アカデミー賞の10部門にノミネートされ、うち9部門を受賞した[82]。フレドリック・マーチは授与式会場から離れたニューヨークにいたため、まだデビューしたばかりのキャシー・オドネルが彼の代理としてオスカー像を受け取った[83]アービング・G・タルバーグ賞の受賞者が発表された後、ゴールドウィンは感極まって目に涙を浮かべていた[84]。式の後にRKO社長邸で開催された祝賀会ではことあるごとに衝突していたゴールドウィンとワイラーは互いに挨拶もせずに一晩中それぞれの隅に引っ込んでいたが、フランシス夫人はゴールドウィンが「まるでクリスマスに欲しい物を全部貰った子供のように」はしゃいでいたのを記憶している。夫妻が帰宅した後、フランシス夫人はゴールドウィンがいつまでも2階に上がってくる気配が無いので何処に居るのか家中を探し回ったところ、暗いリビングルームでアカデミー作品賞とアービング・G・タルバーグ賞を片手ずつ持ち、腰を下ろし、うつむいて声も無く泣いていた彼を発見したという[4]

ハロルド・ラッセルは素人俳優で本物の復員兵であったにも関わらず、1つの役で2つのオスカー像を獲得した最初の俳優となった[84]。アカデミー特別賞の受賞理由として挙げられたのが「出演を通して仲間の復員兵に希望と勇気を与えた」というものだった[82][85]。彼は後年に妻の医療費を工面するために、アカデミー助演男優賞のオスカー像を競売にかけ、60500ドルで売却した[86]

他の主な賞として第12回ニューヨーク映画批評家協会賞の3部門[87]第18回ナショナル・ボード・オブ・レビュー英語版の2部門[88]第4回ゴールデングローブ賞の2部門[89]、1947年のブリュッセル世界映画祭の1部門[90]第1回ボディル賞英語版の1部門[91]、第1回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭の1部門[92]、第3回スペイン映画脚本家協会賞の1部門[93]第1回英国アカデミー賞英語版の1部門[94]を獲得している。

また、作品は1989年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録され[95]、2007年にオンライン映画・テレビジョン協会賞の殿堂入りを果たしている[96]

選考年 映画賞 部門 対象 結果
1946年 第18回ナショナル・ボード・オブ・レビュー トップ10作品英語版 『The Best Years of Our Lives』 受賞
監督賞 ウィリアム・ワイラー
第12回ニューヨーク映画批評家協会賞 作品賞 『The Best Years of Our Lives』
監督賞 ウィリアム・ワイラー
主演男優賞 フレドリック・マーチ ノミネート
1947年 第4回ゴールデングローブ賞 ドラマ映画作品賞 『The Best Years of Our Lives』 受賞
ノンプロフェショナル演技特別賞 ハロルド・ラッセル
第19回アカデミー賞 作品賞 サミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズ英語版
監督賞 ウィリアム・ワイラー
主演男優賞 フレドリック・マーチ
脚色賞 ロバート・E・シャーウッド英語版
助演男優賞 ハロルド・ラッセル
編集賞 ダニエル・マンデル
ドラマ・コメディ音楽賞 ヒューゴー・フリードホーファー
録音賞 ゴードン・E・ソーヤー ノミネート
特別賞 ハロルド・ラッセル 受賞
記念賞 サミュエル・ゴールドウィン
ブリュッセル世界映画祭 主演女優賞 マーナ・ロイ
1948年 第1回ボディル賞 アメリカ作品賞英語版 ウィリアム・ワイラー
第1回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭 監督賞 ウィリアム・ワイラー
第3回スペイン映画脚本家協会賞 外国語作品賞 『Los mejores años de nuestra vida』
第1回英国アカデミー賞 総合作品賞 ウィリアム・ワイラー
1989年 合衆国国立フィルム保存委員会英語版 アメリカ国立フィルム登録簿 『The Best Years of Our Lives』
2007年 オンライン映画・テレビジョン協会賞 オンライン映画・テレビジョン協会賞の殿堂 『The Best Years of Our Lives』

上記の他にも、フランスの「ヴィクトワール」やオランダの「フィルムプリズン」のような国際的な賞もいくつか受賞している[72]

ランキング入り

日本の映画雑誌、キネマ旬報の選考委員20人が選定した1948年国内公開映画の外国映画ベスト10(1位票10点・10位票1点)では、170ポイントの『ヘンリィ五世』に次ぐ152ポイントを獲得して2位にランクインしている[97]

イギリスでは歴代6位(1位『風と共に去りぬ』、2位『サウンド・オブ・ミュージック』、3位『白雪姫』、4位『スター・ウォーズ』、5位『スプリング・イン・パーク・レイン英語版』)の推定観客動員数2040万人を記録している[98]

AFIアメリカ映画100年シリーズ」のアメリカ映画ベスト100では37位に[99]感動のアメリカ映画ベスト100では11位に[100]10周年版アメリカ映画ベスト100では37位に[101]それぞれランクインしている。

選考年 団体 部門 対象 順位
1949年 キネマ旬報社 1948年の外国映画ベスト10 『我等の生涯の最良の年』 2位
1998年 アメリカ映画協会 アメリカ映画ベスト100 『The Best Years of Our Lives』 37位
2006年 感動のアメリカ映画ベスト100 『The Best Years of Our Lives』 11位
2007年 10周年版アメリカ映画ベスト100 『The Best Years of Our Lives』 37位

余波

授与式の後に ロサンゼルス・タイムズ紙は「ハリウッドは賞を受賞した映画を誇りに思っていい。『The Best Years of Our Lives』はアメリカ魂の素晴らしさを示した。この映画を混沌とした現代世界のすべての人々に見せてあげたい」と論説に書いた[102]。アメリカ全土の雑誌が本作を様々な角度から取り上げた。特にライフ誌の1947年10月27日号は10ページにわたる特集を組み、ゴールドウィンの経歴と映画界での活動について詳しく紹介している[103]。しかし、ゴールドウィンはアカデミー賞受賞から2、3か月後にはライフ誌記者に「高く上がれば上がるほど、落ちた時のショックも大きい」と将来に対する不安を吐露している[103]

1950年に息子のサミュエル・ゴールドウィン・ジュニア朝鮮戦争に従軍することが決まり[104]、ゴールドウィンは「アメリカが再び戦争を始めたことが現代の家庭にどのような影響を及ぼすか」を描く新しい映画の企画を思い付いた[105]。この『我が心の呼ぶ声英語版』は本作と同様に従軍経験のある3人の男(同じ家族の父・兄・弟)が主人公の物語である。その上、アメリカの小さな町を空から紹介する冒頭のシーンから結婚式が行われるエンディングまで、起こった問題をすべて本作と同様の方法で解決した[106]。彼はこの新作映画の宣伝活動に励み、「単なる映画というのみならず、国家的な課題を明らかにしたメッセージなのだ」と強調したが、多くの映画評論家から酷評された[107]。さらに上回る映画を製作したいと強く願いながらも報われず、本作の後の7作品はすべて興行的に失敗に終わった[108]

脚色とリメイク

1947年3月15日の『ザ・ヘッド・ホッパーショー - ディス・イズ・ハリウッド』(ダナ・アンドリュース、ハロルド・ラッセルが再演)、1947年5月19日の『スクリーン・ギルド・シアター英語版』(ダナ・アンドリュース、ヴァージニア・メイヨ、キャシー・オドネルが再演)、1947年11月24日の『スクリーン・ギルド・シアター』(フレドリック・マーチ、マーナ・ロイ、テレサ・ライトが再演)、1949年4月17日の『スクリーン・ディレクターズ・プレイハウス英語版』(ダナ・アンドリュースが再演)で本作を脚色した30分のラジオドラマが放送されている[48]

本作をリメイクした1975年放送のテレビ映画『Returning Home』ではベトナム戦争で実際に両手を失ったジェームズ・R・ミラーがホーマー・パリッシュを演じた[109]

脚注

  1. ^ 我等の生涯の最良の年(1946)”. Allcinema.net. 2015年1月27日閲覧。
  2. ^ Thomson(1993年) pp.490-491
  3. ^ The Best Years of Our Lives” (英語). BoxOfficeMojo.com. 2015年1月27日閲覧。
  4. ^ a b バーグ(1990年) p.281
  5. ^ Orriss(1985年) p.119
  6. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』2-12分
  7. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』7-8分
  8. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』14-15分
  9. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』35分
  10. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』18-21分
  11. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』24-25分
  12. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』29-30分
  13. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』2-5分
  14. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』61-62分
  15. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』9分
  16. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』22分
  17. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』22-23分
  18. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』35分
  19. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』45-48分
  20. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』64-65分
  21. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』67分
  22. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』76-77分
  23. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』82-87分
  24. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』73分
  25. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』91-92分
  26. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』101-103分
  27. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』109-110分
  28. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』118分
  29. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』121-123分
  30. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』125-129分
  31. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』133-135分
  32. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』136-137分
  33. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』140-141分
  34. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』143-146分
  35. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』148-150分
  36. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』151-152分
  37. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』153-154分
  38. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』153-156分
  39. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』156-157分
  40. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』158-159分
  41. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』160分
  42. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』164-166分
  43. ^ 映画『我等の生涯の最良の年』167-168分
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参考文献

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外部リンク