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{{Infobox baseball player
{{Infobox baseball player
|選手名 = ハンク・グリーンバーグ
| 選手名 = ハンク・グリーンバーグ
|英語表記 = Hank Greenberg
| 本名 = <!-- Henry Benjamin Greenberg -->
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| 初出場 = {{by|1930年}}[[9月14日]]<br/>デトロイト・タイガース<br/>(対[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦)
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* [[デトロイト・タイガース]](1930年、1933年 - 1941年 1945年 - 1946年)
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* ジェームズ・モンロー高校
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* [[ニューヨーク大学]]
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* デトロイト・タイガース (1930、1933 - 1941、1945 - 1946)
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* ピッツバーグ・パイレーツ (1947)
|選出方法 = BBWAA[http://en-two.iwiki.icu/wiki/Baseball_Writers_Association_of_America]選出
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'''ハンク・グリーンバーグ'''('''Henry Benjamin 'Hank' Greenberg''', [[1911年]][[1月1日]] - [[1986年]][[9月4日]]は[[ユダヤ人|ユダヤ系]]の元[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]選手。主なポジションは[[一塁手]][[ニュ]]市生まれ
'''ハンク・グリーンバーグ''' (''Henry Benjamin "Hank" Greenberg'' :ヘンリー・ベンジャミン・"ハンク"・グリーンバーグ、[[1911年]][[1月1日]] - [[1986年]][[9月4日]]) [[アメリカ合衆国]]・[[ニューヨーク州]]出身の元[[プロ野球選手]] ([[メジャーリーグベースボール|MLB]]) である。[[ユダヤ人|ユダヤ系]]の選手として[[サンディー・コーファックス|サンディ・コーファックス]] ([[ロサンゼルス・ドジャス|ドジャ]]) と並び、MLBで大きな成功を収めた選手の1人である。ニックネームは「'''ハマーリング・ハンク''' ('''Hammerin' Hank''') 」

{{by|1947年}}、[[ジャッキー・ロビンソン]]が[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]初のメジャーリーガーとなり、多くの人種差別や嫌がらせを受けたが、グリーンバーグも多くの軋轢を経験した<ref name="web1">{{cite web|url=http://m.mlb.com/news/article/3028505/|title=Greenberg's rookie season honored|work=MLB.com|author=Bruce Markusen|date=2008-6-30|accessdate=2014-12-8}}</ref>。

[[骨折]]や[[第二次世界大戦]]による従軍により、シーズン通じてプレイした (100試合以上に出場) のは9シーズンだけであるが、通算331本塁打・1276打点を記録している。そのため、現役離脱がなければ、500本塁打・1800打点以上は記録出来たとされる<ref name="book1">{{cite book|洋書|author=Steven R. Bullock|year=2004|title=Playing for Their Nation: Baseball and the American Military During World War II|publisher=University of Nebraska Press|pages=127頁|id=ISBN 978-0-803-21337-1}}</ref>。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生誕 - メジャーデビューまで (1911年 - 1930年) ===
ユダヤ系選手で[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]において彼に比肩する成功を収めたのは[[ロサンゼルス・ドジャース]]の[[サンディー・コーファックス]]くらいである。1947年に[[ジャッキー・ロビンソン]]が黒人初のメジャーリーガーとなり、数々の人種差別・嫌がらせを経験するが、グリーンバーグもまた多くの軋轢を経験する。
[[1911年]][[1月1日]]、ニューヨーク州・[[ニューヨーク]]の[[グリニッジ・ヴィレッジ|グリーンウィッチ・ビレッジ]]にて、ユダヤ系の移民である父・デービッド (David) と母・サラ (Sarah) の間に誕生した。


兄弟が多い家庭で育ち、4歳年上の兄・ベン (Ben) 、5歳年下の弟・ジョー (Joe) 、2歳年上の姉・リリアン (Lillian) がいた。兄のベンと弟のジョーはハンクと同じく、野球をしていた<ref name="book2">{{cite book|洋書|author=Peter S. Horvitz、Joachim Horvitz|year=2001|title=The Big Book of Jewish Baseball: An Illustrated Encyclopedia & Anecdotal History|publisher=S.p.i. Books|pages=80頁|id=ISBN 978-1-561-71973-0}}</ref>。
現役時代は[[デトロイト・タイガース]]([[1930年]]、[[1933年]] - [[1946年]])と[[ピッツバーグ・パイレーツ]]([[1947年]])に所属、一塁手または外野手として活躍。そのうちシーズンを通して活躍したのは9年のみで、[[第二次世界大戦]]に従軍したため合計5シーズン近くの空白がある。また、手首の[[骨折]]のためほぼ一シーズンを棒に振ったこともある。メジャー2年目の[[1934年]]に最初のMVPを獲得、チームの25年ぶりの[[ワールドシリーズ]]進出に大きく貢献する。


[[ブロンクス区|ブロンクス]]に移住後、ジェームズ・モンロー高校と[[ニューヨーク大学]]を経て<ref name="web2">[http://www.baseball-reference.com/players/g/greenha01.shtml Hank Greenberg Statistics and History] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>、{{by|1929年}}[[9月]]に[[フリーエージェント (プロスポーツ) #メジャーリーグベースボール|フリーエージェント]]選手として[[デトロイト・タイガース]]と契約を結んだ<ref name="web3">[http://www.baseball-reference.com/players/g/greenha01.shtml#trans Hank Greenberg Statistics and History - Transactions] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>。
[[1938年]]にシーズン58本塁打を放ち、[[ベーブ・ルース]]のシーズン60本塁打にあと一歩まで迫った。シーズン終盤に[[敬遠]]攻めに遭ったため記録更新には至らなかったが、[[1998年]]に[[マーク・マグワイア]]と[[サミー・ソーサ]]に破られるまで右打者のシーズン最多本塁打として残った。


{{by|1930年}}、[[マイナーリーグ]]のラレー・キャピタルズ (英語:[[:en:Raleigh Capitals|Raleigh Capitals]]) とハートフォード・セネターズ (英語:[[:en:Hartford Senators|Hartford Senators]]) で計139試合に出場し、[[打率]].303・27[[二塁打]]・16[[三塁打]]・21[[本塁打]]という打撃成績を記録、高い打力を発揮した。守備面では2チームで計138試合の[[一塁手|ファースト]]守備に就き、25[[失策]]・[[守備率]].981という成績に終わり、拙守だった。当時、グリーンバーグは19歳であった<ref name="web4">[http://www.baseball-reference.com/minors/player.cgi?id=greenb001hen Hank Greenberg Minor League Statistics & History] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>。
しかし本人は本塁打よりも打点量産に重きを置いていた。しばしばチームメイトに「塁に出ろ」「走者を三塁に進めろ」と口にし、実際に打点を稼いだ。[[1935年]]に170打点を記録、[[1937年]]には183打点を記録する。シーズン183打点以上を記録したのは1930年の[[ハック・ウィルソン]]と1931年の[[ルー・ゲーリッグ]]のみである。


=== メジャーデビュー後 (1930年 - 1947年) ===
[[1940年]]から外野手に転向し、タイガースのリーグ優勝と自身2度目のMVP受賞を達成する。その後、[[第二次世界大戦]]の開戦に伴い[[1941年]]より従軍し、1945年の終戦とともに退役、球界に復帰する。同年のシーズンには最終戦に満塁本塁打を放ち、チームのアメリカンリーグ及びワールドシリーズ制覇に貢献し、1946年に現役最高の状態を迎える。
; 1930年
: [[9月14日]]、地元での対[[ニューヨーク・ヤンキース]]戦にてメジャーデビューを果たした。同試合には途中出場して1[[打席]]に入ったが、[[安打|ヒット]]は放てなかった<ref name="web5">[http://www.baseball-reference.com/boxes/DET/DET193009140.shtml September 14, 1930 NYY vs DET] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>。同年メジャーで試合に出場したのは、この試合だけであった。


; {{by|1931年}} - {{by|1932年}}
[[1947年]]に年俸減を提示したタイガースとの契約交渉が決裂し、引退を決意するが、タイガースは彼を[[ピッツバーグ・パイレーツ]]にトレードする。グリーンバーグを思いとどまらせるため、パイレーツは史上初の年俸10万ドルを提示し、当時としては異例の遠征時の個室提供を約束する。チームの共同オーナーの一人である[[ビング・クロスビー]]は彼を歓迎するために曲を録音し、左翼側には「グリーンバーグ・ガーデン」と称する特別席も作り、彼の引退を思いとどまらせた。同年に彼は主に一塁を守り、初の黒人選手であるジャッキー・ロビンソンを歓迎する数少ない選手となる。また、この頃頭角を現してきたチームメイトの[[ラルフ・カイナー]]にも影響を与えている。
: 1931年はマイナーでプレーし、メジャーでの試合出場はなかった。マイナーではエバンスビル・ハブズ (Evansville Hubs) とビューモント・エクスポーターズ (英語:[[:en:Beaumont Exporters|Beaumont Exporters]]) で計129試合に出場し、打率.318・41二塁打・10三塁打・15本塁打という打撃成績を残した。なお、ビューモントでは3試合に出場しただけであり、安打は全てエバンスビルで放ったものである。守備では、126試合のファースト守備で25失策・守備率.982という成績を残し、前年からほぼ横這いの数字となった<ref name="web4"/>。


: 1932年はフルシーズン、ビューモントでプレーした。この年は154試合に出場し、マイナーでは初めて打率.300未満 (.290) に終わったが、自己記録を大きく更新する39本塁打を放った。守備も改善され、154試合でファーストを守って17失策・守備率.989という数字だった<ref name="web4"/>。
[[1948年]]に現役引退し、[[クリーブランド・インディアンス]]のファーム・ディレクターとなる。2年後に同ファームシステムの[[ゼネラルマネージャー]]に就任し、1950年代のインディアンスの躍進に貢献する。その後[[シカゴ・ホワイトソックス]]の共同オーナーの一人となり、1963年に完全に野球界から身を引いた。


; {{by|1933年}}
通算成績は1394試合出場、打率.313、331本塁打、1276打点だが、戦争などによる現役時代の中断がなければ、500 - 600本塁打、1800 - 2000打点を記録できたとされている。
: 3年ぶりにメジャー復帰を果たした。この年からファーストのレギュラーに定着し、117試合に出場して打率.301・12本塁打・87打点・6[[盗塁]]という好成績をマークした。守備面では15失策を犯し、守備率.988だった。


; {{by|1934年}}
[[1956年]]には[[アメリカ野球殿堂|野球殿堂]]入りを果たし、晩年の[[1983年]]には、古巣デトロイト・タイガースで在籍時の[[野球の背番号|背番号]]'''5'''を[[野球界の永久欠番|永久欠番]]に指定される。そして3年後の[[1986年]]にビバリーヒルズでその生涯を閉じた。カリフォルニア州の[[ヒルサイド・メモリアル・パーク]]に彼の墓がある。
[[File:HankGreenbergGoudeycard.jpg|thumb|right|200px|ゴーデー社 (Goudey) の<br/>グリーンバーグのカード]]
: この年は153試合に出場し、大きく躍進するシーズンとなった。打率.339 (リーグ6位) ・26本塁打 (同7位) ・139打点 (同3位) という数字を記録し、打撃三部門でリーグベスト10に入る活躍ぶりだった。また、リーグ1位となる63本もの二塁打を放ち、これは1シーズンでの本数としてはメジャー歴代4位となる記録である<ref name="web6">[http://www.baseball-reference.com/leaders/2B_season.shtml Single-Season Leaders & Records for Doubles] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>。グリーンバーグの活躍は、タイガースの25年ぶりの[[1934年のワールドシリーズ|ワールド・シリーズ]]進出に大きく貢献したが、[[セントルイス・カージナルス|セントルイス・カーディナルス]]に敗れてシリーズ制覇はならなかった。[[最優秀選手 (MLB)|MVP]]投票では6位にランクインした<ref name="web7">[http://www.baseball-reference.com/awards/awards_1934.shtml#ALmvp 1934 Awards Voting - AL MVP Voting] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref> (同年の受賞者はチームメイトの[[ミッキー・カクレーン|ミッキー・コクレーン]]) 。


: 同年は[[9月10日]]が[[ローシュ・ハッシャーナー|ローシュ・ハシャナ]] ([[ユダヤ暦]]の[[正月|新年]]) 、[[9月18日]]が[[ヨム・キプル]] (ユダヤ暦の贖罪の日) であり、グリーンバーグは両日で試合を欠場する旨を発表した。しかし、この発表に対してファンの間からは「ローシュ・ハシャナは毎年やってくるが、タイガースは1909年以来ペナント・レースを制していないのだ」との不平が出た。このファンからの意見についてグリーンバーグは悩み、[[ラビ]] ([[ユダヤ教]]の指導者) とも相談の上で、ローシュ・ハシャナに行われる試合には出場することを決めた(ヨム・キプルは欠場した)<ref name="web8">[http://www.thebaseballpage.com/players/greenha01/bio Hank Greenberg Baseball Stats, facts, biography, images and video. - Biography] - The Baseball Page.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>。同試合に「6番・ファースト」で出場したグリーンバーグはソロ・ホームランを2本放ち、チームはこの2点により[[ボストン・レッドソックス]]に勝利した<ref name="web9">[http://www.baseball-reference.com/boxes/DET/DET193409100.shtml September 10, 1934 BOS vs DET] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>。
また、[[1970年]]に勃発した[[カート・フラッド事件]]では、[[ジャッキー・ロビンソン]]らと共に選手側の証人として法廷に立ち、[[カート・フラッド|フラッド]]を擁護している。


; {{by|1935年}}
== 年度別打撃成績 ==
: この年は[[MLBオールスターゲーム|オール・スター]]までに25本塁打・103打点を記録していたが、カクレーン監督はグリーンバーグをオール・スターのメンバーに加えなかった。これは、反ユダヤ運動に対する懸念があったためであるとされる<ref name="web10">{{cite web|url=http://espn.go.com/classic/biography/s/greenberg_hank.html|title=The first "Hammerin' Hank"|work=ESPN Classic (ESPN.go.com)|author=Nick Acocella|date=|accessdate=2014-12-8}}</ref>。このような不遇にも直面したグリーンバーグだったが、最終的には152試合に出場し、打率.328・36本塁打・170打点・4盗塁・[[OPS (野球)|OPS]]1.039という好成績を記録し、[[最多本塁打 (MLB)|本塁打王]]と[[最多打点 (MLB)|打点王]]のタイトルを獲得した。また、MVPにも選出された。チームは2年連続で[[1935年のワールドシリーズ|ワールド・シリーズ]]に進出し、[[シカゴ・カブス]]を破って初の世界一に輝いた。同シリーズでは第2戦でホームランを放ったが、同試合で手首を骨折した。
{| class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small"

: 多くのタイトル獲得、ワールド・シリーズ制覇があった一方で、オール・スター不選出、手首の骨折など起伏に富んだシーズンを送った。

; {{by|1936年}}
: [[4月]]で12試合に出場し、打率.348・出場試合数を上回る16打点を記録ていたが、再び手首を骨折して残りのシーズンを棒に振ってしまった。

; {{by|1937年}}
[[File:1937 all stars crop FINAL2.jpg|thumb|right|400px|1937年のオール・スター・ゲームにて<br/>(左から順に[[ルー・ゲーリッグ]]、[[ジョー・クローニン]]、[[ビル・ディッキー]]<br/>[[ジョー・ディマジオ]]、[[チャーリー・ゲーリンジャー]]、[[ジミー・フォックス]]<br/>ハンク・グリーンバーグ)]]
: 手首の骨折から復活し、初めて[[1937年のMLBオールスターゲーム|オール・スター]]の一員に選出された(試合出場はなし) 。この年は183打点を記録し、自身2度目となる打点王のタイトルを獲得したほか、打率と本塁打でもリーグベスト10入りした。守備面では154試合のファースト守備で13失策・守備率.992という成績を残した。シーズン180打点以上を達成しているのは1930年の[[ハック・ウィルソン]] (191打点) と1931年の[[ルー・ゲーリッグ]] (185打点) だけである<ref name="web11">[http://www.baseball-reference.com/leaders/RBI_season.shtml Single-Season Leaders & Records For Runs Batted In] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref> ({{by|2014年}}シーズン終了時点) 。打撃三部門の数字は、自身初のMVPに輝いた1935年より上だったが、この年は[[チャーリー・ゲーリンジャー]](チームメイト) 、[[ジョー・ディマジオ]]に次ぐ3位に終わった<ref name="web12">[http://www.baseball-reference.com/awards/awards_1937.shtml#ALmvp1937 Awards Voting - AL MVP Voting] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>。

; {{by|1938年}}
: この年は58本塁打を放ち、[[ベーブ・ルース]]が保持する60本塁打のシーズン記録(当時)にあと一歩のところまで迫った。また、この年は11試合でマルチ本塁打を記録しているが、これはメジャー記録 ({{by|1998年}}に[[サミー・ソーサ]]も達成) である<ref name="web13">[http://www.baseballlibrary.com/ballplayers/player.php?name=Hank_Greenberg_1911 The Ballplayers - Hank Greenberg - Biography] - BaseballLibrary.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref> (2014年シーズン終了時点) 。58本塁打という記録は、1998年に[[マーク・マグワイア]]とソーサが破られるまで右打者のシーズン最多本塁打記録だった。MVP投票では、2年連続で3位に終わった<ref name="web14">[http://www.baseball-reference.com/awards/awards_1938.shtml#ALmvp 1938 Awards Voting - AL MVP Voting] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>。

: なお、この年にグリーンバーグがルースの本塁打記録を超えられなかったのは、反ユダヤの感情を持つ[[投手]]が意図的に[[四球]]を与え、グリーンバーグに本塁打を打たせなかった(いわゆる[[故意四球|敬遠]])とする意見もある。事実、この年はリーグ最多の119四球を記録しており、グリーンバーグのキャリアを通じて最も四球率が高かったとするデータもある<ref name="web8"/><ref name="web15">{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2010/03/21/sports/baseball/21score.html?scp=2&sq=Hank%20Greenberg&st=cse&_r=0|title=Religion Aided a Home Run Chase, and May Have Led to Its Failure|work=The New York Times|author=Howard Megdal|date=2010-3-20|accessdate=2014-12-8}}</ref>。

; {{by|1939年}}
: 出場試合数が3年ぶりに150試合を下回り、それに伴って打撃成績も若干低下した。しかし、3年連続で[[1939年のMLBオールスターゲーム|オール・スター]]に選出され、初めて試合にも出場した。「5番・ファースト」で起用されたグリーンバーグは3[[打数]]1安打を記録し、四球を1つ選んだ<ref name="web16">[http://www.baseball-reference.com/boxes/ALS/ALS193907110.shtml July 11, 1939 All-Star Game Play-By-Play and Box Score] - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。</ref>。守備面では、100試合以上でファーストを守ったシーズンとしては自身初となる1ケタ台の9失策に留め、守備率.993を記録した。

; {{by|1940年}}
: この年は[[ルディ・ヨーク]]に一塁のポジションを譲り、グリーンバーグは[[左翼手|レフト]]にコンバートされた。4年連続で[[1940年のMLBオールスターゲーム|オール・スター]]の一員に選出され、試合には途中出場した。また、いずれも自身3度目となる本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、1935年以来5年ぶりとなる打撃二冠に輝いた。さらに自身2度目となるMVPにも選出されたが、前回選出された際は一塁手だったため、MLB史上初めて異なるポジションでMVPに選ばれた選手となった<ref name="web8"/>。チームは[[1940年のワールドシリーズ|ワールド・シリーズ]]まで駒を進めたが、[[シンシナティ・レッズ]]に敗れ、世界一はならなかった。

; {{by|1941年}} - {{by|1945年}}
[[File:Greenberg being sworn in.jpg|thumb|left|200px|従軍時のグリーンバーグ]]
: この年は4月半ばから5月上旬にかけて19試合に出場したが、[[ナチス・ドイツ]]に対する強い反感がグリーンバーグを駆り立て、メジャーリーガーとしては初めて第二次世界大戦に従軍することになった<ref name="web8"/>。その後、28歳以上の人物を採用しない国の方針により一時軍を外れたが、[[真珠湾攻撃]]が発生したことにより再度従軍した<ref name="web8"/>。以後、1945年に終戦するまで[[アメリカ陸軍航空軍]] (US Army Air Forces、現在の[[アメリカ空軍]]) の一員として戦争に参加した。

: 終戦後、タイガースに復帰したグリーンバーグは78試合に出場し、打率.311・OPS0.948を記録、従軍前と変わらぬ打棒を発揮した。シーズン最終戦ではグランドスラムを放ち、チームのリーグ優勝に貢献。また守備面でも72試合でレフトを守り、ファーストを守っていた時代も含め、初めて無失策と安定した守備を発揮した。[[1945年のワールドシリーズ|ワールド・シリーズ]]では2本塁打を放ち、チーム史上2度目のシリーズ制覇の原動力となった。

; {{by|1946年}}
: この年、ファーストに再コンバートされると本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、自身3度目となる打撃二冠(いずれも本塁打と打点)を達成した。しかし、打率は.300に届かなかった。また守備面でも、失策が15まで激増して守備率.989という成績だった。

; {{by|1947年}}
: タイガースは年俸の減額を提示するが、グリーンバーグはこれを受け入れなかったため、交渉が決裂した。これを機にグリーンバーグは引退を考えるようになり、他方でタイガースは[[1月18日]]に彼を[[ピッツバーグ・パイレーツ]]に[[トレード #メジャーリーグ|トレード]]した<ref name="web3"/>。パイレーツは、グリーンバーグに引退を思い止まらせるべく[[ナショナルリーグ|ナ・リーグ]]史上初となる10万ドルの年俸を提示し、[[フォーブス・フィールド]] (当時のパイレーツの本拠地) のレフトスタンド側に[[ブルペン]]を建設して、レフトスタンドまでの距離を短縮する改修を行った。このレフトスタンドは「'''グリーンバーグ・ガーデン''' ('''Greenberg Garden''') 」と名付けられた<ref name="web13"/>。また、当時パイレーツの共同オーナーであった[[歌手]]の[[ビング・クロスビー]]は、[[コメディアン]]の[[グルーチョ・マルクス|グローチョ・マルクス]]と共にグリーンバーグを歓迎する「'''Goodbye, Mr. Ball, Goodbye'''」という曲を製作した。

: 同年パイレーツでは125試合に出場して25本塁打を放ち、リーグ最多の四球を記録したが、一方で打率.249に終わり往年の強打は発揮されなかった。しかし、グリーンバーグの存在は当時メジャー2年目のシーズンを迎えた[[ラルフ・カイナー]]に多大な影響を与え、カイナーにとっての良き指導者となった<ref name="web8"/><ref name="web13"/>。カイナーについて、グリーンバーグは以下のようなコメントを残している<ref name="web8"/>。

:: ''"Ralph had a natural home run swing. All he needed was somebody to teach him of the value of hard work and self-discipline. Early in the morning on off-days, every chance we got, we worked on hitting."''
:: ''「ラルフは、天性のホームラン・ヒッターだ。彼が必要としていたのは、懸命にプレーすることと自己鍛錬の重要性を説ける誰かである。オフの日は朝早くから、チャンスさえあれば、我々は打撃練習に取り組んだ。」'' (和訳)

: [[9月29日]]、パイレーツは契約を解除し<ref name="web3"/>、この年限りでユニフォームを脱いだ。

=== 現役引退 - 死去まで (1948年 - 1986年) ===
{{by|1948年}}、当時[[クリーブランド・インディアンス|クリーブランド・インディアンズ]]のオーナーであった[[ビル・ベック|ビル・ベーク]]から、チームのファーム・ディレクターとして雇われた。<ref name="web13"/>。その後、1950年にはファーム組織の[[ゼネラルマネージャー #プロ野球|ゼネラル・マネージャー]]に就任し、チームの再建及び{{by|1954年}}のリーグ制覇に大きく貢献した<ref name="web8"/>。

その後、[[シカゴ・ホワイトソックス]]の共同オーナー及び[[ヴァイスプレジデント|バイス・プレジデント]]に就任した<ref name="web8"/>。ホワイトソックスのフロント在籍中の{{by|1956年}}、[[全米野球記者協会|BBWAA]]の殿堂入り投票にて193票中164票の賛成票を獲得し<ref name="web2"/>、得票率約85 %で[[アメリカ野球殿堂]]に選出された。9年目の挑戦での選出であった。{{by|1959年}}、ホワイトソックスはリーグ制覇を果たし、インディアンズ時代に続いてチームの躍進に貢献した。

[[1963年]]、インベストメント・バンカー (Investment banker:証券引受業者) に転身し<ref name="web8"/>、野球界から完全に身を引いた。

[[1970年]]に勃発した[[カート・フラッド事件]]では、ジャッキー・ロビンソンやビル・ベークらと共に選手側の証人として法廷に立ち、[[カート・フラッド|フラッド]]を擁護する立場を取った<ref name="book3">{{cite book|和書|author=マービン・ミラー (Marvin Miller) 、武田薫訳|year=1993|title=FAへの死闘 大リーガーたちの権利獲得闘争記|publisher=ベースボール・マガジン社|pages=100 - 125頁|id=ISBN 978-4-583-03094-4}}</ref>。

引退後も健康体で過ごしていたグリーンバーグだったが、[[1980年代]]に入って[[悪性腫瘍|癌]]が進行した<ref name="web8"/>。[[1983年]]には、現役時代の大半を過ごしたタイガースで付けていた[[野球の背番号 #メジャーリーグベースボール|背番号]]「'''5'''」が、[[野球界の永久欠番 #アメリカ・メジャーリーグベースボールの永久欠番|永久欠番]]に指定された。その3年後の[[1986年]][[9月4日]]、満75歳の時に[[カリフォルニア州]]の都市・[[ビバリーヒルズ]]で生涯を終えた<ref name="web8"/>。グリーンバーグの亡骸は、カリフォルニア州の[[ロサンゼルス]]にあるヒルサイド・メモリアル・パーク (Hillside Memorial Park) に埋葬された。

ジョー・ディマジオは、グリーンバーグについて以下のコメントを残し、彼の打棒を高く評価していた<ref name="web8"/>。

: ''"He was one of the truly great hitters, and when I first saw him bat, he made my eyes pop out."''
: ''「彼は間違いなく、真に偉大な打者の1人だった。私が彼の打撃を初めて見た時、目玉が飛び出すような思いだったよ。」'' (和訳)

== 詳細情報 ==
=== 背番号 ===
; デトロイト・タイガース
* '''7''' (1933)
* '''5''' (1934 - 1946) - タイガースの永久欠番
; ピッツバーグ・パイレーツ
* '''5''' (1947)

※ 1930年は背番号なし。

=== 年度別打撃成績 (メジャー) ===
{| {{年度別打撃成績|リーグ=メジャーリーグベースボール}}
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1930}}
![[年度|年<br /><br />度]]!![[球団|球<br /><br />団]]!![[試合|試<br /><br />合]]!![[打数|打<br /><br />数]]!![[得点|得<br /><br />点]]!![[安打|安<br /><br />打]]!![[二塁打|二<br />塁<br />打]]!![[三塁打|三<br />塁<br />打]]!![[本塁打|本<br />塁<br />打]]!![[打点|打<br /><br />点]]!![[盗塁|盗<br /><br />塁]]!![[四球|四<br /><br />球]]!![[三振|三<br /><br />振]]!![[打率|打<br /><br />率]]!![[出塁率|出<br />塁<br />率]]!![[長打率|長<br />打<br />率]]!![[OPS (野球)|O<br />P<br />S]]
|rowspan="12" style="text-align: center;"|[[デトロイト・タイガース|DET]]
|1||1||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||-||0||-||0||0||-||.000||.000||.000||.000
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1933}}
|[[1930年|1930]]
|117||499||449||59||135||33||3||12||210||87||6||2||2||-||46||-||1||78||-||.301||.367||.468||.835
|rowspan="12" style="text-align:center;"|[[デトロイト・タイガース|DET]]
||1||1||0||0||0||0||0||0||0||0||0||.000||.000||.000||.000
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1934}}
|[[1933年|1933]]
||117||449||59||135||33||3||12||87||6||46||78||.301||.367||.468||.835
|153||667||593||118||201||'''63'''||7||26||356||139||9||5||9||-||63||-||2||93||-||.339||.404||.600||1.005
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1935}}
|[[1934年|1934]]
||153||593||118||201||63||7||26||139||9||63||93||.339||.404||.600||1.004
|152||710||619||121||203||46||16||'''36'''||'''389'''||'''170'''||4||3||4||-||87||-||0||91||-||.328||.411||.628||1.039
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1936}}
|[[1935年|1935]]
||152||619||121||203||46||16||'''36'''||'''170'''||4||87||91||.328||.411||.628||1.039
|12||55||46||10||16||6||2||1||29||16||1||0||0||-||9||-||0||6||-||.348||.455||.630||1.085
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1937}}
|[[1936年|1936]]
||12||46||10||16||6||2||1||16||1||9||6||.348||.455||.630||1.085
|154||701||594||137||200||49||14||40||397||'''183'''||8||3||2||-||102||-||3||101||-||.337||.436||.668||1.105
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1938}}
|[[1937年|1937]]
||154||594||137||200||49||14||40||'''183'''||8||102||101||.337||.436||.668||1.104
|155||681||556||'''143'''||175||23||4||'''58'''||380||146||7||5||3||-||'''119'''||-||3||92||-||.315||.438||.683||1.122
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1939}}
|[[1938年|1938]]
||155||556||144||175||23||4||'''58'''||146||7||119||92||.315||.438||.683||1.121
|138||604||500||112||156||42||7||33||311||112||8||3||11||-||91||-||2||'''95'''||8||.312||.420||.622||1.042
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1940}}
|[[1939年|1939]]
||138||500||112||156||42||7||33||112||8||91||95||.312||.420||.622||1.042
|148||670||573||129||195||'''50'''||8||'''41'''||'''384'''||'''150'''||6||3||3||-||93||-||1||75||15||.340||.433||'''.670'''||'''1.103'''
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1941}}
|[[1940年|1940]]
||148||573||129||195||50||8||'''41'''||'''150'''||6||93||75||.340||.433||.670||1.103
|19||83||67||12||18||5||1||2||31||12||1||0||0||-||16||-||0||12||1||.269||.410||.463||.872
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1945}}
|[[1941年|1941]]
||19||67||12||18||5||1||2||12||1||16||12||.269||.410||.463||.873
|78||312||270||47||84||20||2||13||147||60||3||1||0||-||42||-||0||40||9||.311||.404||.544||.948
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1946}}
|[[1945年|1945]]
||78||270||47||84||20||2||13||60||3||42||40||.311||.404||.544||.948
|142||604||523||91||145||29||5||'''44'''||316||'''127'''||5||1||1||-||80||-||0||88||17||.277||.373||.604||.977
|-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1947}}
|[[1946年|1946]]
|rowspan="1" style="text-align: center;"|[[ピッツバーグ・パイレーツ|PIT]]
||142||523||91||145||29||5||'''44'''||'''127'''||5||80||88||.277||.373||.604||.977
|125||510||402||71||100||13||2||25||192||74||0||-||0||-||'''104'''||-||4||73||16||.249||.408||.478||.885
|-
|-
!colspan="2"|通算:13年
|[[1947年|1947]]
||[[ピッツバーグ・パイレーツ|PIT]]||125||402||71||100||13||2||25||74||0||104||73||.249||.408||.478||.886
|1394||6097||5193||1050||1628||379||71||331||3142||1276||58||*26||35||-||852||-||16||844||*66||.313||.412||.605||1.017
|}
* 「-」は公式記録なし。
* 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
* '''太字'''はリーグ1位。
* 1931 - 1932年、1942 - 1944年は試合出場なし。

=== 年度別打撃成績 (マイナー) <ref name="web4"/> ===
{| {{年度別打撃成績|リーグ=メジャーリーグベースボール}}
|-
|-
|rowspan="2" style="text-align: center;"|{{by2|1930}}
!colspan="2"|通算成績||1394||5193||1051||1628||379||71||331||1276||58||852||844||.313||.412||.605||1.017
|rowspan="1" style="text-align: center;"|[[ラレー・キャピタルズ|Raleigh]]
|122||-||452||-||142||26||14||19||253||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||.314||-||.560||-
|-
|rowspan="2" style="text-align: center;"|[[ハートフォード・セネターズ|Hartford]]
|17||-||56||-||12||1||2||2||23||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||.214||-||.411||-
|-style="background-color:#f2f2f2"
!style="text-align:center;"|'30計
|139||-||508||-||154||27||16||21||276||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||.303||-||.543||-
|-
|rowspan="2" style="text-align: center;"|{{by2|1931}}
|rowspan="1" style="text-align: center;"|[[エバンスビル・ハブズ|Evansville]]
|126||-||487||-||155||41||10||15||261||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||.318||-||.536||-
|-
|rowspan="3" style="text-align: center;"|[[ビューモント・エクスポーターズ|Beaumont]]
|3||-||2||-||0||0||0||0||0||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||.000||-||.000||-
|-style="background-color:#f2f2f2"
!style="text-align:center;"|'31計
|129||-||489||-||155||41||10||15||261||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||.317||-||.534||-
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1932}}
|154||-||600||-||174||31||11||39||344||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||.290||-||.573||-
|-
!colspan="2"|通算:3年
|422||*1597||1597||-||483||99||37||75||881||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||.302||*.302||.552||*.854
|}
|}
* 「-」は公式記録なし。
* 通算成績の「*数字」は、参考記録。

=== 獲得タイトル・表彰・記録 ===
* MVP: 2 回 (1935年、1940年)
* 本塁打王: 4 回 (1935年、1938年、1940年、1946年)
* 打点王: 4 回 (1935年、1937年、1940年、1946年)
* オール・スター・ゲーム選出: 4 回 (1937 - 1940年)
* ワールド・チャンピオン: 2 回 (1935年、1945年)
* 1シーズンでのマルチ本塁打記録: 11 試合 (1938年)
※ 以上、いずれも[[アメリカンリーグ|ア・リーグ]]で記録。

* アメリカ野球殿堂入り (1956年)

== 出典 ==
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== 出典・外部リンク ==
== 外部リンク ==
*{{bbhof|greenberg-hank}}
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2015年2月26日 (木) 12:41時点における版

ハンク・グリーンバーグ
Hank Greenberg
1937年のグリーンバーグ
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗ニューヨーク州ニューヨーク
生年月日 (1911-01-01) 1911年1月1日
没年月日 (1986-09-04) 1986年9月4日(75歳没)
身長
体重
6' 3" =約190.5 cm
210 lb =約95.3 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手左翼手
プロ入り 1929年 フリーエージェント
(デトロイト・タイガースと契約)
初出場 1930年9月14日
デトロイト・タイガース
(対ニューヨーク・ヤンキース戦)
最終出場 1947年9月18日
ピッツバーグ・パイレーツ
(対ブルックリン・ドジャース戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
  • ジェームズ・モンロー高校
  • ニューヨーク大学
  • デトロイト・タイガース (1930、1933 - 1941、1945 - 1946)
  • ピッツバーグ・パイレーツ (1947)
殿堂表彰者
選出年 1956年
得票率 84.97 %
選出方法 BBWAA選出

ハンク・グリーンバーグ (Henry Benjamin "Hank" Greenberg :ヘンリー・ベンジャミン・"ハンク"・グリーンバーグ、1911年1月1日 - 1986年9月4日) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州出身の元プロ野球選手 (MLB) である。ユダヤ系の選手としては、サンディ・コーファックス (ドジャース) と並び、MLBで大きな成功を収めた選手の1人である。ニックネームは「ハマーリング・ハンク (Hammerin' Hank) 」。

1947年ジャッキー・ロビンソン黒人初のメジャーリーガーとなり、多くの人種差別や嫌がらせを受けたが、グリーンバーグも多くの軋轢を経験した[1]

骨折第二次世界大戦による従軍により、シーズン通じてプレイした (100試合以上に出場) のは9シーズンだけであるが、通算331本塁打・1276打点を記録している。そのため、現役離脱がなければ、500本塁打・1800打点以上は記録出来たとされる[2]

経歴

生誕 - メジャーデビューまで (1911年 - 1930年)

1911年1月1日、ニューヨーク州・ニューヨークグリーンウィッチ・ビレッジにて、ユダヤ系の移民である父・デービッド (David) と母・サラ (Sarah) の間に誕生した。

兄弟が多い家庭で育ち、4歳年上の兄・ベン (Ben) 、5歳年下の弟・ジョー (Joe) 、2歳年上の姉・リリアン (Lillian) がいた。兄のベンと弟のジョーはハンクと同じく、野球をしていた[3]

ブロンクスに移住後、ジェームズ・モンロー高校とニューヨーク大学を経て[4]1929年9月フリーエージェント選手としてデトロイト・タイガースと契約を結んだ[5]

1930年マイナーリーグのラレー・キャピタルズ (英語:Raleigh Capitals) とハートフォード・セネターズ (英語:Hartford Senators) で計139試合に出場し、打率.303・27二塁打・16三塁打・21本塁打という打撃成績を記録、高い打力を発揮した。守備面では2チームで計138試合のファースト守備に就き、25失策守備率.981という成績に終わり、拙守だった。当時、グリーンバーグは19歳であった[6]

メジャーデビュー後 (1930年 - 1947年)

1930年
9月14日、地元での対ニューヨーク・ヤンキース戦にてメジャーデビューを果たした。同試合には途中出場して1打席に入ったが、ヒットは放てなかった[7]。同年メジャーで試合に出場したのは、この試合だけであった。
1931年 - 1932年
1931年はマイナーでプレーし、メジャーでの試合出場はなかった。マイナーではエバンスビル・ハブズ (Evansville Hubs) とビューモント・エクスポーターズ (英語:Beaumont Exporters) で計129試合に出場し、打率.318・41二塁打・10三塁打・15本塁打という打撃成績を残した。なお、ビューモントでは3試合に出場しただけであり、安打は全てエバンスビルで放ったものである。守備では、126試合のファースト守備で25失策・守備率.982という成績を残し、前年からほぼ横這いの数字となった[6]
1932年はフルシーズン、ビューモントでプレーした。この年は154試合に出場し、マイナーでは初めて打率.300未満 (.290) に終わったが、自己記録を大きく更新する39本塁打を放った。守備も改善され、154試合でファーストを守って17失策・守備率.989という数字だった[6]
1933年
3年ぶりにメジャー復帰を果たした。この年からファーストのレギュラーに定着し、117試合に出場して打率.301・12本塁打・87打点・6盗塁という好成績をマークした。守備面では15失策を犯し、守備率.988だった。
1934年
ゴーデー社 (Goudey) の
グリーンバーグのカード
この年は153試合に出場し、大きく躍進するシーズンとなった。打率.339 (リーグ6位) ・26本塁打 (同7位) ・139打点 (同3位) という数字を記録し、打撃三部門でリーグベスト10に入る活躍ぶりだった。また、リーグ1位となる63本もの二塁打を放ち、これは1シーズンでの本数としてはメジャー歴代4位となる記録である[8]。グリーンバーグの活躍は、タイガースの25年ぶりのワールド・シリーズ進出に大きく貢献したが、セントルイス・カーディナルスに敗れてシリーズ制覇はならなかった。MVP投票では6位にランクインした[9] (同年の受賞者はチームメイトのミッキー・コクレーン) 。
同年は9月10日ローシュ・ハシャナ (ユダヤ暦新年) 、9月18日ヨム・キプル (ユダヤ暦の贖罪の日) であり、グリーンバーグは両日で試合を欠場する旨を発表した。しかし、この発表に対してファンの間からは「ローシュ・ハシャナは毎年やってくるが、タイガースは1909年以来ペナント・レースを制していないのだ」との不平が出た。このファンからの意見についてグリーンバーグは悩み、ラビ (ユダヤ教の指導者) とも相談の上で、ローシュ・ハシャナに行われる試合には出場することを決めた(ヨム・キプルは欠場した)[10]。同試合に「6番・ファースト」で出場したグリーンバーグはソロ・ホームランを2本放ち、チームはこの2点によりボストン・レッドソックスに勝利した[11]
1935年
この年はオール・スターまでに25本塁打・103打点を記録していたが、カクレーン監督はグリーンバーグをオール・スターのメンバーに加えなかった。これは、反ユダヤ運動に対する懸念があったためであるとされる[12]。このような不遇にも直面したグリーンバーグだったが、最終的には152試合に出場し、打率.328・36本塁打・170打点・4盗塁・OPS1.039という好成績を記録し、本塁打王打点王のタイトルを獲得した。また、MVPにも選出された。チームは2年連続でワールド・シリーズに進出し、シカゴ・カブスを破って初の世界一に輝いた。同シリーズでは第2戦でホームランを放ったが、同試合で手首を骨折した。
多くのタイトル獲得、ワールド・シリーズ制覇があった一方で、オール・スター不選出、手首の骨折など起伏に富んだシーズンを送った。
1936年
4月で12試合に出場し、打率.348・出場試合数を上回る16打点を記録ていたが、再び手首を骨折して残りのシーズンを棒に振ってしまった。
1937年
1937年のオール・スター・ゲームにて
(左から順にルー・ゲーリッグジョー・クローニンビル・ディッキー
ジョー・ディマジオチャーリー・ゲーリンジャージミー・フォックス
ハンク・グリーンバーグ)
手首の骨折から復活し、初めてオール・スターの一員に選出された(試合出場はなし) 。この年は183打点を記録し、自身2度目となる打点王のタイトルを獲得したほか、打率と本塁打でもリーグベスト10入りした。守備面では154試合のファースト守備で13失策・守備率.992という成績を残した。シーズン180打点以上を達成しているのは1930年のハック・ウィルソン (191打点) と1931年のルー・ゲーリッグ (185打点) だけである[13] (2014年シーズン終了時点) 。打撃三部門の数字は、自身初のMVPに輝いた1935年より上だったが、この年はチャーリー・ゲーリンジャー(チームメイト) 、ジョー・ディマジオに次ぐ3位に終わった[14]
1938年
この年は58本塁打を放ち、ベーブ・ルースが保持する60本塁打のシーズン記録(当時)にあと一歩のところまで迫った。また、この年は11試合でマルチ本塁打を記録しているが、これはメジャー記録 (1998年サミー・ソーサも達成) である[15] (2014年シーズン終了時点) 。58本塁打という記録は、1998年にマーク・マグワイアとソーサが破られるまで右打者のシーズン最多本塁打記録だった。MVP投票では、2年連続で3位に終わった[16]
なお、この年にグリーンバーグがルースの本塁打記録を超えられなかったのは、反ユダヤの感情を持つ投手が意図的に四球を与え、グリーンバーグに本塁打を打たせなかった(いわゆる敬遠)とする意見もある。事実、この年はリーグ最多の119四球を記録しており、グリーンバーグのキャリアを通じて最も四球率が高かったとするデータもある[10][17]
1939年
出場試合数が3年ぶりに150試合を下回り、それに伴って打撃成績も若干低下した。しかし、3年連続でオール・スターに選出され、初めて試合にも出場した。「5番・ファースト」で起用されたグリーンバーグは3打数1安打を記録し、四球を1つ選んだ[18]。守備面では、100試合以上でファーストを守ったシーズンとしては自身初となる1ケタ台の9失策に留め、守備率.993を記録した。
1940年
この年はルディ・ヨークに一塁のポジションを譲り、グリーンバーグはレフトにコンバートされた。4年連続でオール・スターの一員に選出され、試合には途中出場した。また、いずれも自身3度目となる本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、1935年以来5年ぶりとなる打撃二冠に輝いた。さらに自身2度目となるMVPにも選出されたが、前回選出された際は一塁手だったため、MLB史上初めて異なるポジションでMVPに選ばれた選手となった[10]。チームはワールド・シリーズまで駒を進めたが、シンシナティ・レッズに敗れ、世界一はならなかった。
1941年 - 1945年
従軍時のグリーンバーグ
この年は4月半ばから5月上旬にかけて19試合に出場したが、ナチス・ドイツに対する強い反感がグリーンバーグを駆り立て、メジャーリーガーとしては初めて第二次世界大戦に従軍することになった[10]。その後、28歳以上の人物を採用しない国の方針により一時軍を外れたが、真珠湾攻撃が発生したことにより再度従軍した[10]。以後、1945年に終戦するまでアメリカ陸軍航空軍 (US Army Air Forces、現在のアメリカ空軍) の一員として戦争に参加した。
終戦後、タイガースに復帰したグリーンバーグは78試合に出場し、打率.311・OPS0.948を記録、従軍前と変わらぬ打棒を発揮した。シーズン最終戦ではグランドスラムを放ち、チームのリーグ優勝に貢献。また守備面でも72試合でレフトを守り、ファーストを守っていた時代も含め、初めて無失策と安定した守備を発揮した。ワールド・シリーズでは2本塁打を放ち、チーム史上2度目のシリーズ制覇の原動力となった。
1946年
この年、ファーストに再コンバートされると本塁打王と打点王のタイトルを獲得し、自身3度目となる打撃二冠(いずれも本塁打と打点)を達成した。しかし、打率は.300に届かなかった。また守備面でも、失策が15まで激増して守備率.989という成績だった。
1947年
タイガースは年俸の減額を提示するが、グリーンバーグはこれを受け入れなかったため、交渉が決裂した。これを機にグリーンバーグは引退を考えるようになり、他方でタイガースは1月18日に彼をピッツバーグ・パイレーツトレードした[5]。パイレーツは、グリーンバーグに引退を思い止まらせるべくナ・リーグ史上初となる10万ドルの年俸を提示し、フォーブス・フィールド (当時のパイレーツの本拠地) のレフトスタンド側にブルペンを建設して、レフトスタンドまでの距離を短縮する改修を行った。このレフトスタンドは「グリーンバーグ・ガーデン (Greenberg Garden) 」と名付けられた[15]。また、当時パイレーツの共同オーナーであった歌手ビング・クロスビーは、コメディアングローチョ・マルクスと共にグリーンバーグを歓迎する「Goodbye, Mr. Ball, Goodbye」という曲を製作した。
同年パイレーツでは125試合に出場して25本塁打を放ち、リーグ最多の四球を記録したが、一方で打率.249に終わり往年の強打は発揮されなかった。しかし、グリーンバーグの存在は当時メジャー2年目のシーズンを迎えたラルフ・カイナーに多大な影響を与え、カイナーにとっての良き指導者となった[10][15]。カイナーについて、グリーンバーグは以下のようなコメントを残している[10]
"Ralph had a natural home run swing. All he needed was somebody to teach him of the value of hard work and self-discipline. Early in the morning on off-days, every chance we got, we worked on hitting."
「ラルフは、天性のホームラン・ヒッターだ。彼が必要としていたのは、懸命にプレーすることと自己鍛錬の重要性を説ける誰かである。オフの日は朝早くから、チャンスさえあれば、我々は打撃練習に取り組んだ。」 (和訳)
9月29日、パイレーツは契約を解除し[5]、この年限りでユニフォームを脱いだ。

現役引退 - 死去まで (1948年 - 1986年)

1948年、当時クリーブランド・インディアンズのオーナーであったビル・ベークから、チームのファーム・ディレクターとして雇われた。[15]。その後、1950年にはファーム組織のゼネラル・マネージャーに就任し、チームの再建及び1954年のリーグ制覇に大きく貢献した[10]

その後、シカゴ・ホワイトソックスの共同オーナー及びバイス・プレジデントに就任した[10]。ホワイトソックスのフロント在籍中の1956年BBWAAの殿堂入り投票にて193票中164票の賛成票を獲得し[4]、得票率約85 %でアメリカ野球殿堂に選出された。9年目の挑戦での選出であった。1959年、ホワイトソックスはリーグ制覇を果たし、インディアンズ時代に続いてチームの躍進に貢献した。

1963年、インベストメント・バンカー (Investment banker:証券引受業者) に転身し[10]、野球界から完全に身を引いた。

1970年に勃発したカート・フラッド事件では、ジャッキー・ロビンソンやビル・ベークらと共に選手側の証人として法廷に立ち、フラッドを擁護する立場を取った[19]

引退後も健康体で過ごしていたグリーンバーグだったが、1980年代に入ってが進行した[10]1983年には、現役時代の大半を過ごしたタイガースで付けていた背番号5」が、永久欠番に指定された。その3年後の1986年9月4日、満75歳の時にカリフォルニア州の都市・ビバリーヒルズで生涯を終えた[10]。グリーンバーグの亡骸は、カリフォルニア州のロサンゼルスにあるヒルサイド・メモリアル・パーク (Hillside Memorial Park) に埋葬された。

ジョー・ディマジオは、グリーンバーグについて以下のコメントを残し、彼の打棒を高く評価していた[10]

"He was one of the truly great hitters, and when I first saw him bat, he made my eyes pop out."
「彼は間違いなく、真に偉大な打者の1人だった。私が彼の打撃を初めて見た時、目玉が飛び出すような思いだったよ。」 (和訳)

詳細情報

背番号

デトロイト・タイガース
  • 7 (1933)
  • 5 (1934 - 1946) - タイガースの永久欠番
ピッツバーグ・パイレーツ
  • 5 (1947)

※ 1930年は背番号なし。

年度別打撃成績 (メジャー)

















































O
P
S
1930 DET 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 - 0 - 0 0 - .000 .000 .000 .000
1933 117 499 449 59 135 33 3 12 210 87 6 2 2 - 46 - 1 78 - .301 .367 .468 .835
1934 153 667 593 118 201 63 7 26 356 139 9 5 9 - 63 - 2 93 - .339 .404 .600 1.005
1935 152 710 619 121 203 46 16 36 389 170 4 3 4 - 87 - 0 91 - .328 .411 .628 1.039
1936 12 55 46 10 16 6 2 1 29 16 1 0 0 - 9 - 0 6 - .348 .455 .630 1.085
1937 154 701 594 137 200 49 14 40 397 183 8 3 2 - 102 - 3 101 - .337 .436 .668 1.105
1938 155 681 556 143 175 23 4 58 380 146 7 5 3 - 119 - 3 92 - .315 .438 .683 1.122
1939 138 604 500 112 156 42 7 33 311 112 8 3 11 - 91 - 2 95 8 .312 .420 .622 1.042
1940 148 670 573 129 195 50 8 41 384 150 6 3 3 - 93 - 1 75 15 .340 .433 .670 1.103
1941 19 83 67 12 18 5 1 2 31 12 1 0 0 - 16 - 0 12 1 .269 .410 .463 .872
1945 78 312 270 47 84 20 2 13 147 60 3 1 0 - 42 - 0 40 9 .311 .404 .544 .948
1946 142 604 523 91 145 29 5 44 316 127 5 1 1 - 80 - 0 88 17 .277 .373 .604 .977
1947 PIT 125 510 402 71 100 13 2 25 192 74 0 - 0 - 104 - 4 73 16 .249 .408 .478 .885
通算:13年 1394 6097 5193 1050 1628 379 71 331 3142 1276 58 *26 35 - 852 - 16 844 *66 .313 .412 .605 1.017
  • 「-」は公式記録なし。
  • 通算成績の「*数字」は、不明年度がある事を示す。
  • 太字はリーグ1位。
  • 1931 - 1932年、1942 - 1944年は試合出場なし。

年度別打撃成績 (マイナー) [6]

















































O
P
S
1930 Raleigh 122 - 452 - 142 26 14 19 253 - - - - - - - - - - .314 - .560 -
Hartford 17 - 56 - 12 1 2 2 23 - - - - - - - - - - .214 - .411 -
'30計 139 - 508 - 154 27 16 21 276 - - - - - - - - - - .303 - .543 -
1931 Evansville 126 - 487 - 155 41 10 15 261 - - - - - - - - - - .318 - .536 -
Beaumont 3 - 2 - 0 0 0 0 0 - - - - - - - - - - .000 - .000 -
'31計 129 - 489 - 155 41 10 15 261 - - - - - - - - - - .317 - .534 -
1932 154 - 600 - 174 31 11 39 344 - - - - - - - - - - .290 - .573 -
通算:3年 422 *1597 1597 - 483 99 37 75 881 - - - - - - - - - - .302 *.302 .552 *.854
  • 「-」は公式記録なし。
  • 通算成績の「*数字」は、参考記録。

獲得タイトル・表彰・記録

  • MVP: 2 回 (1935年、1940年)
  • 本塁打王: 4 回 (1935年、1938年、1940年、1946年)
  • 打点王: 4 回 (1935年、1937年、1940年、1946年)
  • オール・スター・ゲーム選出: 4 回 (1937 - 1940年)
  • ワールド・チャンピオン: 2 回 (1935年、1945年)
  • 1シーズンでのマルチ本塁打記録: 11 試合 (1938年)

※ 以上、いずれもア・リーグで記録。

  • アメリカ野球殿堂入り (1956年)

出典

  1. ^ Bruce Markusen (2008年6月30日). “Greenberg's rookie season honored”. MLB.com. 2014年12月8日閲覧。
  2. ^ Steven R. Bullock (2004). Playing for Their Nation: Baseball and the American Military During World War II. University of Nebraska Press. pp. 127頁. ISBN 978-0-803-21337-1 
  3. ^ Peter S. Horvitz、Joachim Horvitz (2001). The Big Book of Jewish Baseball: An Illustrated Encyclopedia & Anecdotal History. S.p.i. Books. pp. 80頁. ISBN 978-1-561-71973-0 
  4. ^ a b Hank Greenberg Statistics and History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  5. ^ a b c Hank Greenberg Statistics and History - Transactions - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  6. ^ a b c d Hank Greenberg Minor League Statistics & History - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  7. ^ September 14, 1930 NYY vs DET - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  8. ^ Single-Season Leaders & Records for Doubles - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  9. ^ 1934 Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m Hank Greenberg Baseball Stats, facts, biography, images and video. - Biography - The Baseball Page.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  11. ^ September 10, 1934 BOS vs DET - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  12. ^ Nick Acocella. “The first "Hammerin' Hank"”. ESPN Classic (ESPN.go.com). 2014年12月8日閲覧。
  13. ^ Single-Season Leaders & Records For Runs Batted In - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  14. ^ Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  15. ^ a b c d The Ballplayers - Hank Greenberg - Biography - BaseballLibrary.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  16. ^ 1938 Awards Voting - AL MVP Voting - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  17. ^ Howard Megdal (2010年3月20日). “Religion Aided a Home Run Chase, and May Have Led to Its Failure”. The New York Times. 2014年12月8日閲覧。
  18. ^ July 11, 1939 All-Star Game Play-By-Play and Box Score - Baseball-Reference.com (英語) . 2014年12月8日閲覧。
  19. ^ マービン・ミラー (Marvin Miller) 、武田薫訳『FAへの死闘 大リーガーたちの権利獲得闘争記』ベースボール・マガジン社、1993年、100 - 125頁頁。ISBN 978-4-583-03094-4 

外部リンク