コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「カール・マルクス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
rv 出典なし
タグ: 取り消し
 
(100人を超える利用者による、間の522版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Infobox 哲学者
{{Infobox 哲学者
| region = [[西洋哲学]]<br />[[ドイツ]]
| region = [[西洋哲学]]
| era = [[19世紀の哲学]]
| era = [[19世紀の哲学]]
| image_name = Karl Marx.jpg
| image_name = Marx7.jpg
| image_size = 200px
| image_size = 200px
| image_alt =
| image_alt =
| image_caption = 1875年のマルクス
| image_caption = [[1875年]][[8月24日]]のマルクスの写真
| name = カール・マルクス<br />Karl Marx{{#tag:ref|さまざまな辞典で使用される「カール・ハインリヒ・マルクス」という名前は、誤りによるもの。彼の出生証明書には「カール・ハインリヒ・マルクス」と書かれているが、他の場所では「カール・マルクス」が使用されている。「K.H.マルクス」は、彼の詩集と彼の論文の書き起こしでのみ使用されている。マルクスは[[1838年]]に亡くなった父親に敬意を表したかったので、3つの文書で自分を「カール・ハインリヒ」と呼んだ。|group=注釈}}
| name = カール・ハインリヒ・マルクス<br />Karl Heinrich Marx
| other_names =
| other_names =
| birth_date = {{生年月日と年齢|1818|5|5|死去}}
| birth_date = {{生年月日と年齢|1818|5|5|死去}}
| birth_place = {{PRU}}[[トリーア]]
| birth_place = {{PRU1803}}<br>{{仮リンク|ニーダーライン大公領属州|de|Provinz Großherzogtum Niederrhein}}<br>[[トリーア]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1818|5|5|1883|3|14}}
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1818|5|5|1883|3|14}}
| death_place = {{GBR}}[[ロンドン]]
| death_place = {{GBR3}}<br>{{ENG}}<br>[[ロンドン]]
| spouse = [[イェニー・フォン・ヴェストファーレン]]
| school_tradition = [[唯物論]]<br />[[マルクス主義|科学的社会主義]]、[[共産主義]]<br />若いころは[[青年ヘーゲル派|ヘーゲル左派]]
| main_interests = [[自然哲学]]、[[歴史哲学]]、[[政治哲学]]、[[科学哲学]]、[[経済学]]、各国の近現代史、[[政治学]]、[[社会学]]
| school_tradition = [[大陸哲学]]、[[唯物論]]、[[マルクス主義|科学的社会主義]]、[[共産主義]]、若いころは[[青年ヘーゲル派]]
| main_interests = [[自然哲学]]、[[唯物論]]、[[自然科学]]、[[歴史哲学]]、[[倫理学]]、[[社会哲学]]、[[政治哲学]]、[[法哲学]]、[[経済学]]、各国の近現代史、[[政治学]]、[[社会学]]、[[資本主義]][[経済]]の分析
| notable_ideas = [[唯物史観|史的唯物論]]<br />[[剰余価値]]<br />労働者の[[搾取]]、[[階級闘争]]<br />『[[資本論]]』<br />科学的社会主義の共同創設者([[フリードリヒ・エンゲルス]]と共に)
| notable_ideas = [[唯物弁証法|弁証法的唯物論]]、[[唯物史観|史的唯物論]]、[[疎外]]、[[労働価値説]]、[[階級闘争]]、[[剰余価値]]の[[搾取]]、[[価値形態]]、[[相対的価値形態]]、[[等価形態]]、[[物神性]]、[[物象化]]など多数
| influences = [[フリードリヒ・エンゲルス]]<br />[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]<br />[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]<br />[[バールーフ・デ・スピノザ]]<br />[[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]<br />[[マックス・シュティルナー]]<br />[[アダム・スミス]]<br />[[ヴォルテール]]<br />[[デヴィッド・リカード]]<br />[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]<br />[[ジャン=ジャック・ルソー]]<br />[[ウィリアム・シェイクスピア]]<br />[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]<br />[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]<br />[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]<br />[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]<br />[[チャールズ・ダーウィン]]<br />[[シャルル・フーリエ]]<br />[[ロバート・オウエン]]<br />[[モーゼス・ヘス]]<br />[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]<br />[[アリストテレス]]<br />[[エピクロス]]<br />その他多数
| influences = [[チャールズ・バベッジ]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[バールーフ・デ・スピノザ]]、[[ジョン・ロック]]、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン]]、[[マックス・シュティルナー]]、[[アダム・スミス]]、[[ヴォルテール]]、[[デヴィッド・リカード]]、[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]、[[マクシミリアン・ロベスピエール]]、[[ジャン=ジャック・ルソー]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]、[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]]、[[クロード=アドリアン・エルヴェシウス]]、[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック]]、[[ユストゥス・フォン・リービッヒ]]、[[チャールズ・ダーウィン]]、[[シャルル・フーリエ]]、[[ロバート・オウエン]]、[[モーゼス・ヘス]]、[[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー]]、[[コンスタンタン・ペクール]]、[[アリストテレス]]、[[エピクロス]]など
| influenced = 多くの[[マルクス主義]]者<br />[[フリードリヒ・エンゲルス]]<br />[[ミハイル・バクーニン]]<br />[[ハンナ・アーレント]]<br />[[パウロ・フレイレ]]<br />[[柄谷行人]]<br />[[アントニオ・ネグリ]]<br />[[フランクフルト学派]]<br />[[フランス現代思想]]の哲学者<br />[[ポストモダン]][[哲学]]<br />その他多数
| influenced = [[大陸哲学|大陸哲学系]][[現代思想]]、[[構造主義]]、[[ポスト構造主義]]、[[ジャック・ラカン|ラカン派]]、[[フロイト=マルクス主義 |ラカニアン・レフト(ジャック・ラカン左派)]]、[[五月危機|Mai 68]]、[[スチューデント・パワー]]、[[パリ・コミューン]]、[[プロレタリア文学]]、[[フランクフルト学派]]、[[批判理論]]、多くの[[マルクス主義|マルクス主義者]]、[[正統派マルクス主義]]、[[分析的マルクス主義]]、[[マルクス経済学]]、[[数理マルクス経済学]]、[[マルクス主義と文芸批評|マルクス主義文芸批評]]、[[構造主義的マルクス主義]]、マルクス主義法学、[[フロイト=マルクス主義]]、[[マルクス・レーニン主義]]、[[レーニン主義]]、[[トロツキズム]]、[[毛沢東思想|マオイズム]]、[[左翼共産主義]]、[[ルクセンブルク主義]]、[[ルカーチ・ジェルジュ]]、[[アントニオ・グラムシ]]、[[エフゲニー・パシュカーニス]]、[[アラン・バディウ]]、[[岩井克人]]、[[柄谷行人]]など
| signature = Karl Marx Signature.svg
| signature = Karl Marx Signature.svg
| signature_alt =
| signature_alt =
| website = <!-- {{URL|example.com}} -->
| website = <!-- {{URL|example.com}} -->
}}
}}
'''カール・マルクス'''({{lang-de|'''Karl Marx'''}}、{{lang-en|'''Karl Marx''' {{Post-nominals|post-noms=[[ロイヤル・ソサエティー・オブ・アーツ・フェロー|FRSA]]}}{{Efn|1862年、[[ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ]](英国王立技芸協会)より授かる<ref>[http://www.calmview2.eu/RSA/CalmViewA/Record.aspx?src=CalmView.Catalog&id=RSA%2fSC%2fIM%2f701%2fS1000&pos=9 Ref No RSA/SC/IM/701/S1000 < Search results]</ref>。}}}}、[[1818年]][[5月5日]] - [[1883年]][[3月14日]])は、[[プロイセン王国]]時代の[[ドイツ]]の[[哲学者]]、[[経済学者]]、[[革命家]]。[[社会主義]]および[[労働運動]]に強い影響を与えた。[[1845年]]に[[プロイセン王国|プロイセン]][[国籍]]を離脱しており、以降は[[無国籍|無国籍者]]であった。[[1849年]](31歳)の渡英以降は[[イギリス]]を拠点として活動した。
{{Infobox_経済学者

<!-- 分野 -->
[[フリードリヒ・エンゲルス]]の協力のもと、包括的な[[世界観]]および[[革命]]思想として[[マルクス主義|科学的社会主義(マルクス主義)]]を打ちたて、[[資本主義]]の高度な発展により[[社会主義]]・[[共産主義]]社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた[[資本主義]]社会の研究は『[[資本論]]』に結実し、その理論に依拠した経済学体系は[[マルクス経済学]]と呼ばれ、[[20世紀]]以降の[[国際政治]]や[[思想]]に多大な影響を与えた。
|地域 = [[ドイツ]]出身の[[経済学者]]
{{TOC limit}}
|時代 =

|color = #B0C4DE
== 概要 ==
<!-- 画像 -->
カール・マルクスは[[1818年]]、当時[[プロイセン王国]]領であった[[トリーア]]に生まれた{{sfn|佐々木|2016|pp=257-259}}。現在の[[ロスチャイルド家]]の礎を築いた[[ネイサン・メイアー・ロスチャイルド]]と結婚したハンナ・コーエンとマルクスの祖母ナネッテ・コーエンは従姉妹関係にあたる。ユダヤ人であるコーエン家は当時イギリス綿製品を仕切っていた大富豪であり、そのコーエン&ロスチャイルド家の一員であったマルクス家も潤沢な資産を有していた<ref name="林(2021)94-95,102">[[#林(2021)|林(2021)]] p.94-95,102</ref>。
|image_name =

|image_caption =
1843年に[[イェニー・フォン・ヴェストファーレン]](兄の[[フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|フェルディナント]]はプロイセンの内務大臣。ヴェストファーレン家はプロイセンの貴族)と結婚。マルクスはその政治的出版物のために亡命を余儀なくされ、何十年もの間[[ロンドン]]で暮らし、1883年、同地で没した。主にロンドンで[[フリードリヒ・エンゲルス]]とともにその思想を発展させ、多くの著作を発表した。彼の最もよく知られている著作は、1848年の『[[共産党宣言]]』、および3巻から成る『[[資本論]]』である。マルクスの政治的および哲学的思想はその後の世界に多大な影響を与え、彼は様々な社会理論の学派の名前として用いられてきた。
<!-- 人物情報 -->
|名前 =
|生年月日 = [[1818年]][[5月5日]]
|没年月日 = [[1883年]][[3月14日]]
|学派 = [[マルクス経済学]]
|研究分野 = [[資本主義]][[経済]]の分析
|影響を受けた人物 = [[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]] ほか
|影響を与えた人物 = マルクス経済学者、[[ヨーゼフ・シュンペーター|シュンペーター]]、他多数
|特記すべき概念 = マルクス経済学・[[科学的社会主義]]の創始者
|
}}
'''カール・ハインリヒ・マルクス'''({{lang-de|Karl Heinrich Marx}}, [[1818年]][[5月5日]] - [[1883年]][[3月14日]])は、[[ドイツ]]の[[哲学者]]、[[思想家]]。[[政治思想|政治思想史]]、[[経済思想史]]の上では、19世紀以降の[[共産主義]]運動・[[労働運動]]の理論的指導者、[[経済学者]]として知られる。[[20世紀]]において最も影響力があった[[思想家]]の一人とされる<ref>なお、[[2005年]]のイギリス[[BBC]]のラジオ番組の視聴者投票でもっとも偉大な哲学者に選ばれたhttp://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-07-23/2005072301_02_2.html</ref>。


マルクスの社会、経済、政治に関する批判的な理論([[マルクス主義]])では、有史以来の人間社会は階級対立を通じて発展するとされる。資本主義の下にあって階級対立は、生産手段を管理する支配階級([[ブルジョワジー]])と、賃金と引き換えに労働力を売る労働者階級([[プロレタリア]])の間に現れる。マルクスは、史的唯物論([[唯物史観]])として知られる批判的方法を以て、以前のどの階級社会とも同様に、資本主義が内部崩壊を引き起こし、新しいシステム([[社会主義]])へと変革されると予測した。
親友にして同志の[[フリードリヒ・エンゲルス]]とともに、包括的な[[世界観]]および[[革命]]思想として[[マルクス主義|科学的社会主義]]を打ちたて、資本主義の高度な発展により[[共産主義]]社会が到来する必然性を説いた。


マルクスによれば、資本主義下の階級対立は、労働者階級の階級意識の発展をもたらし、労働者階級が政治的権力を獲得して最終的には階級のない自由な生産者の結社としての共産主義社会を確立する。マルクスは積極的にその実行を強く求め、労働者階級が資本主義を打倒し、社会経済的解放をもたらすために組織的な革命的行動をとるべきだと主張した。
マルクスの[[経済学]]批判による[[資本主義]]分析は主著『[[資本論]]』に結実し、『資本論』に依拠した経済学体系は[[マルクス経済学]]と呼ばれる。


マルクスは人類の歴史の中で最も影響力のある人物の一人であると説明されている。彼の著作は高く評価され、また批判されてきた。経済学における彼の研究は、労働と資本との関係、およびその後の経済思想に関する現在の理解の多くの基礎を築いた。世界中の多くの知識人、労働組合、芸術家、政党は、マルクスの仕事に影響を受けており、その多くは彼のアイデアを変更または適応している。マルクスは通常、現代社会科学の主要な創設者の一人として評価されている。
:''マルクスの思想については、[[マルクス主義]]も参照。''


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
=== と出自 ===
[[File:Karl Heinrich Marx House.JPG|250px|thumb|ブリュッケンシュトラーセ10番地(当時はブリュッカーガッセ664番地)にある[[カール・マルクスの生家|マルクスの生家]]。<br/><small>この家は[[1928年]]に[[ドイツ社会民主党|ドイツ社会民主党(SPD)]]によって買い取られ、以降マルクス博物館として保存されている。[[国家社会主義ドイツ労働者党|国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)]]政権下で社民党が解散していた時期にはナチ党機関紙の本部になっていた。戦後再興した社民党によってマルクス博物館に戻された<ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。</small>]]
[[ファイル:Engels 1856.jpg|thumb|left|200px|[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]。マルクスにとって、エンゲルスはよき友人であり、よき助言者であり、そして何よりも、彼にとって最大の理解者であった。]]
[[1818年]][[5月5日]]午前2時頃、[[プロイセン王国]]{{仮リンク|ニーダーライン大公国県|de|Provinz Großherzogtum Niederrhein}}に属する[[モーゼル川]]河畔の町[[トリーア]]のブリュッカーガッセ(Brückergasse)664番地に生まれる<ref name="ウィーン(2002)21"/><ref name="カー(1956)14">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.14</ref>。
{{マルクス主義}}
{{共産主義のサイドバー}}


父は[[ユダヤ教]][[ラビ]]だった[[弁護士]]{{仮リンク|ハインリヒ・マルクス|de|Heinrich Marx (Justizrat)}}<ref name="廣松(2008)16">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.16</ref><ref name="小牧(1966)39">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.39</ref>。母は[[オランダ]]出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスブルク(Presburg))<ref name="廣松(2008)16"/>。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィア(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref>。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている<ref name="廣松(2008)17"/>。
カール・マルクス(以下、マルクス)は、[[1818年]]5月、[[プロイセン王国]]治下のモーゼル河畔にある[[トリーア]]にて、父ハインリヒ・マルクスと母アンリエットとの間に生まれた。父ハインリヒの家系は、代々[[ユダヤ教]]の[[ラビ]](聖職者で神学者)を務める家柄であったが、父ハインリヒ自身は、自由主義的な[[啓蒙思想]]をもち、[[1812年]]から[[フリーメーソン]]の会員<ref>Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, S. 13–15.</ref>でもあった弁護士であり、マルクスが生まれる前に、ユダヤ教から[[キリスト教]]の[[プロテスタント]]に改宗した。母アンリエットもユダヤ教のラビの家系なので、マルクスの出自は[[ユダヤ系ドイツ人]]といえるが、6歳の頃に兄弟たち全員が父親と同じくプロテスタント(キリスト教)の洗礼を受けている。それまではマルクス自身もユダヤ教会に籍を入れていた<ref name="廣松(2008)17">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17</ref>。


母方の従兄に銀行家のベンジャミン・フレデリック・フィリップスがいる(欧州最大の電機メーカー、[[フィリップス]]の創業者{{仮リンク|ジェラルド・フィリップス|en|Gerard_Philips|preserve=1}}の父)。
[[1830年]]、マルクス12歳のとき、トリーアの名門[[ギムナジウム]]に入学。マルクスの入学したギムナジウムは開明的な校風で、校長が熱烈な[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]の支持者であった。マルクスの高校卒業論文(哲学)の主題は、「職業の選択にさいしての一青年の考察」であった。


マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたって[[トリーア大司教]]領の首都だったが、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]中には他の[[ライン地方]]ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地は[[ウィーン会議]]の決議に基づき[[封建主義]]的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、[[ナポレオン法典]]の存続も認めた。そのため[[自由主義]]・[[資本主義]]・[[カトリック教会|カトリック]]の気風は残された<ref name="石浜(1931)43">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.43</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.18/22</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.26-27</ref>。
=== 大学進学とヘーゲル左派思想 ===
[[1836年]]、マルクス18歳のとき、姉の友人で検事総長の娘だったイエニー・フォン・ヴェストファーレン(22歳)と婚約した。その後[[ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン|ボン大学]]に学び、後に[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]に入学し、[[ヘーゲル左派]]の影響を受ける。さらに、[[1841年]]には[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イエナ大学]]へ入学。学位請求論文は『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』であった。この学位請求論文により、マルクスは哲学博士となった。


マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、[[1723年]]以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父{{仮リンク|ザムエル・マルクス|de|Samuel Marx (Rabbiner)}}もその地位にあった<ref name="ウィーン(2002)17">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.17</ref>。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが<ref name="ウィーン(2002)18">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.18</ref>、彼は[[ヴォルテール]]や[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の影響を受けた自由主義者であり<ref name="小牧(1966)39"/><ref name="石浜(1931)44">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.44</ref><ref name="城塚(1970)25">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.25</ref>、[[1812年]]からは[[フリーメイソン]]の会員にもなっている<ref>Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, p.13–15.</ref>。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し{{#tag:ref|プロイセン政府は1815年にも[[ドイツ連邦]]規約16条に基づき、ユダヤ教徒の公職追放を開始した。この措置とユダヤ人迫害機運の盛り上がりの影響でこの時期にユダヤ教徒から改宗者が続出した。[[ハインリヒ・ハイネ]]や[[エドゥアルト・ガンス]]らもこの時期に改宗している<ref name="廣松(2008)19">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19</ref>。マルクスの父ヒルシェルは当時トリーア市の法律顧問を務めていたため、やはり公職追放の危機に晒された。彼ははじめ改宗を拒否し、ナポレオン法典を盾に公職に止まろうとした。その主張は地方高等裁判所長官フォン・ゼーテからも支持を得ていたが、プロイセン中央政府の{{仮リンク|法務大臣 (プロイセン)|label=法務大臣|de|Liste der preußischen Justizminister}}{{仮リンク|フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼン|de|Friedrich Leopold von Kircheisen}}から例外措置はありえないと通告された。結局ヒルシェルはゼーテからの勧めで最終手段として改宗したのだった<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.19-20</ref>。|group=注釈}}、[[1816年]]秋([[1817年]]春とも)にプロイセン[[国教]]である[[プロテスタント]]に改宗して「[[ハインリヒ]]」の洗礼名を受けた<ref name="ウィーン(2002)18"/><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.17-19</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.3/8</ref>。弁護士だった父ハインリヒの年収は1500[[ターラー (通貨)|ターラー]]で、これはトリーアの富裕層上位5%に入った{{Sfn|スパーバー|2015a|p=44}}。さらにハインリヒは妻の持参金、屋敷のほか、葡萄畑、商人や農民への貸付金、[[金利]]5%のロシア[[国債]]540ターラーの資産などを保有していた{{Sfn|スパーバー|2015a|p=44}}。
=== エンゲルスとの出会い ===
[[1842年]]、マルクス24歳のとき、[[ケルン]]で創刊されたブルジョワ急進主義の「[[ライン新聞]]」主筆を務める。この頃に生涯の友人にしてマルクス最大の支援者となる[[フリードリヒ・エンゲルス]]との出会いを果たしているが、この時の出会いはお互いにほとんど影響をもたらさなかった。マルクスは「ライン新聞」の編集長をしていたが、ほどなく対ロシア政府批判のために受けた同新聞社への弾圧により、1843年3月に失職した。


母方のプレスブルク家は数世紀前に[[中欧]]からオランダへ移民したユダヤ人家系であり<ref name="カー(1956)15">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.15</ref>、やはり代々ラビを務めていた<ref name="廣松(2008)17"/><ref name="メーリング(1974,1)36">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.36</ref>。母自身もオランダに生まれ育ったので、[[ドイツ語]]会話や読み書きに不慣れだったという<ref name="カー(1956)15"/>。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちも[[シナゴーグ|ユダヤ教会]]に籍を入れさせた<ref name="廣松(2008)17"/><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.4/9</ref>。叔父は[[フィリップス]]の創業者の祖父{{仮リンク|リオン・フィリップス|nl|Lion Philips}}でマルクスの財政援助者でもあった<ref>Heinz Monz: ''Der Erbteilungsvertraag Henriette Marx''</ref><ref>Manfred Schöncke: ''Karl und Heinrich Marx und ihre Geschwister'', S. 307–309</ref><ref>Jan Gielkens, S. 220–221</ref>。
=== ヨーロッパ諸国遍歴と共産主義宣言 ===
{{-}}
[[1843年]]6月、マルクス25歳のときにイエニー・フォン・ヴェストファーレンと結婚。11月にパリへ出発、マルクスは友人であるアーノルト・ルーゲ、ゲオルク・ヘルヴェークとともに、パリで『独仏年誌』を出版した。しかしながら、『独仏年誌』は2号で廃刊となり、マルクスはドイツからの亡命共産主義者が隔週発行していた「フォアヴェルツ」紙に寄稿するようになった。[[1844年]]8月、フリードリヒ・エンゲルスがパリにマルクスを訪れ、10日間滞在し、この時から本格的な二人の交友がはじまった。また、この時期マルクスは、[[ハインリッヒ・ハイネ]]との知遇を得て交友を始めることとなる。しかし「フォアヴェルツ」紙に寄稿されたプロイセン国王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]の批判記事に憤慨したプロイセン王国枢密顧問官のフランス政府への働きかけにより、[[1845年]]1月にはパリから[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]へ追放を余儀なくされた。この時のベルギー政府の受け入れには「現在の政治問題についての著作を発表しない」という条件が付いており、マルクスはこれを文書で確約した。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた<ref>「名著誕生1 マルクスの『資本論』」pp30-31 フランシス・ウイーン著 中山元訳 ポプラ社 2007年9月20日第1刷</ref>。


=== 幼年期 ===
[[1846年]]、マルクス28歳のとき、在住地のブリュッセルにてエンゲルスとともに「共産主義国際通信委員会」を設立、さらに共産主義組織の分派争いの過程で新たに「共産主義者同盟」の結成に参画することになり、『[[共産党宣言]]』を起草した。『トリーア新聞』を機関紙としていた「真正社会主義者」[[カール・グリューン]]と論戦をしたのもこの頃である。しかしながら、「共産主義者同盟」内の齟齬に起因する内部争いにより、マルクスらは組織内部の少数派に転落、さらには[[1848年]]2月の[[1848年革命|フランス二月革命]]のため[[3月3日]]にベルギー警察に夫婦とも抑留され、24時間以内の国外退去を命じられたため、翌日フランス臨時政府の招きに応じてパリにもどる。翌月にはプロイセン王国領の[[ケルン]]へと移動し『[[新ライン新聞]]』を創刊したものの、政府に弾圧されて翌1849年には廃刊となり、5月には国外追放となる。いったんはパリへと戻るもののフランス政府の実権は反動派が握っており、マルクスはエンゲルスの招きに応じて、[[1849年]]8月末、[[ロンドン]]に亡命した。以後、マルクスは亡くなるまでイギリスにとどまり続けた。
[[File:Trier BW 2011-09-22 18-02-16.JPG|180px|thumb|ジメオンガッセ(当時はジメオンシュトラーセ)にある{{仮リンク|カール・マルクスの育った家|label=マルクスの育った家|de|Karl-Marx-Wohnhaus}}]]
一家は[[1820年]]にブリュッカーガッセ664番地の家を離れて同じトリーア市内のジメオンシュトラーセ(Simeonstraße)1070番地へ引っ越した。


マルクスが6歳の時の[[1824年]]8月、第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。母もその翌年の[[1825年]]に改宗した<ref name="廣松(2008)17"/><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.9-10</ref>。この時に改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで[[反ユダヤ主義]]が強まりつつある時期だったからかもしれない<ref name="石浜(1931)46">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.46</ref><ref name="メーリング(1974,1)40">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.40</ref>。
=== 亡命先ロンドンでの滞在生活 ===
[[ファイル:YoungerMarx.JPG|thumb|upright|left|thumb|200px|1861年のマルクス]]
[[ファイル:Karl Marx Grave.jpg|left|thumb|200px|最後の亡命先[[ロンドン]]にあるマルクスの墓]]


マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる<ref name="ウィーン(2002)21"/><ref name="廣松(2008)21">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.21</ref>。マルクスの幼年時代についてもあまりよく分かっていない<ref name="ウィーン(2002)21"/>。<!--この記述は必要ですか?/ 泥団子はともかく、幼少期の親の評価はなかなか興味深いんじゃないかと思います。とりあえずこの状態のまま、もう少しマルクスに肯定的に加筆・修正しておきますね。/
マルクスの親友であり支持者であったエンゲルスは、ロンドンで実父が所有する会社に勤めており、資金面においてロンドンに滞在するマルクスを支えた。しかしロンドン亡命後数年間のマルクスは貧困にあえいでおり、二男グイドが1850年11月に、三女フランツィスカが1852年に、長男エドガーが1855年3月に、それぞれ亡くなっている<ref>「名著誕生1 マルクスの『資本論』」p37 フランシス・ウイーン著 中山元訳 ポプラ社 2007年9月20日第1刷</ref>。[[1851年]]からマルクスは「ニューヨーク・トリビューン」紙の特派員になり、[[1862年]]まで500回以上寄稿した。[[1851年]]12月にフランスにおいて大統領のルイ・ナポレオンが[[クーデター]]を起こして実権を握るが、これに対してマルクスは2か月後の1852年2月には『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』を発表し、激しく非難した。[[1864年]]にロンドンで結成された[[第一インターナショナル]]に参加、主導権を握り、[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]と激しく論争した。


学校に入る前のマルクスの幼年時代については他の兄弟姉妹によく[[泥団子]]を食わせていたなどといった逸話以外不明な点が多い<ref name="ウィーン(2002)21">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21</ref>。
ロンドン亡命以降、マルクスは1850年から亡くなる1883年までの30年間、[[大英図書館]]に朝10時から閉館となる夕刻の6時まで毎日通い続け、<!--G-8席に着座して-->経済研究と膨大な量の資料収集を行った。マルクスの『資本論』は、この長年にわたる経済研究から生まれたといっても過言ではない。[[1859年]]には『[[経済学批判]]』を出版した。


父ハインリヒは息子カールに天分の素質を見出し、「いつか人類の幸福に貢献するだろう」とその将来を嘱望し、母も息子カールをこの子の手にかかると全てうまくいく幸運児であると称したという。一方で父は息子の中に潜む「魔性」も感じ取り、不安に思っていたという<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.36-37</ref>。 -->
[[1867年]][[4月12日]]、『[[資本論]]』第一巻を刊行。資本の生産過程に関する研究成果の集大成であった<ref>第二巻以降はマルクスの死後、彼によって残された膨大な研究レポートと生前の彼の意思に基づき、エンゲルスらによって順次編纂・刊行された。</ref>。


=== トリーアのギムナジウム ===
[[1871年]][[3月26日]]、マルクス53歳のときに[[パリ・コミューン]]が発生。わずか72日間の短期間ながらも、パリにおいて民衆蜂起による世界初の労働者階級の自治による革命政権が誕生した。このときマルクスは『フランスの内乱』と題する執筆をおこない、この政権を支持した。同時に、「なぜ[[ヴェルサイユ]]に逃げた政府軍を追わないのか」とパリ・コミューンを批判もした。
[[1830年]]、12歳の時にトリーアの{{仮リンク|フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム (トリーア)|label=フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウム|de|Friedrich-Wilhelm-Gymnasium (Trier)}}に入学した<ref name="ウィーン(2002)21-22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.21-22</ref>。この[[ギムナジウム]]は父ハインリヒも所属していたトリーアの進歩派の会合『カジノクラブ』のメンバーであるフーゴ・ヴィッテンバッハが校長を務めていたため、自由主義の空気があった<ref name="廣松(2008)25">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.25</ref><ref name="小牧(1966)43">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.43</ref><ref name="ウィーン(2002)22">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.22</ref>。


1830年にフランスで[[7月革命]]があり、ドイツでも自由主義が活気づいた。トリーアに近い{{仮リンク|ハンバッハ|de|Hambach (bei Diez)}}でも[[1832年]]に自由と[[ドイツ統一]]を求める反政府派集会が開催された。これを警戒したプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。[[1833年]]にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕された<ref name="廣松(2008)25"/><ref name="ウィーン(2002)22"/>。ついで1834年1月には父ハインリヒも{{仮リンク|ライン県|de|Rheinprovinz}}県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察監視下に置かれた<ref name="ウィーン(2002)19">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.19</ref><ref name="廣松(2008)26">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.26</ref>。さらにギムナジウムの[[数学]]と[[ヘブライ語]]の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴任してきた<ref name="ウィーン(2002)22"/><ref name="廣松(2008)27">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.27</ref>。
ロンドンでのマルクス家の生活は裕福で、メイドが複数いた。ひとりのメイドはマルクスの子供を産んだが、妻の怒りを避けるために、エンゲルスが自分の子供として認知した<ref>若狭和朋『日露戦争と世界史に登場した日本 日本人に知られては困る歴史』</ref>。


マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。唯一それらしき行動は卒業の際の先生への挨拶回りで保守的なロエルス先生のところには挨拶にいかなかったことぐらいである(父の手紙によるとロエルス先生のところへ挨拶に来なかった学生はマルクス含めて二人だけで先生は大変怒っていたという)<ref name="廣松(2008)27"/>。
=== 晩年 ===
1871年のパリ・コミューンの蜂起鎮圧以降は『[[資本論]]』の執筆活動に専念し、数百にも及ぶレポートを書きつづけた。マルクスは、亡命地ロンドンにいながら、自らの理論体系の構築を行うとともに、ドイツ、フランスの共産主義運動への助言をおこない、精神的支柱であり続けた。[[1875年]]には[[ドイツ社会民主主義運動]]のアイゼナハ派にあてて文書を送り、これはのちに『[[ゴータ綱領批判]]』として出版された。[[1881年]][[12月2日]]に妻イエニーが死亡した。


このギムナジウムでのマルクスの卒業免状や卒業試験が残っている<ref name="カー(1956)15"/>。それによれば卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという<ref name="シュワルツシルト(1950)18">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.18</ref>。卒業免状の中の「才能及び熱意」の項目では「彼は良好な才能を有し、古代語、ドイツ語及び歴史においては非常に満足すべき、数学においては満足すべき、フランス語においては単に適度の熱意を示した」と書いてある<ref name="カー(1956)15"/>。この成績を見ても分かる通り、この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人[[ハインリヒ・ハイネ]]の影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという<ref name="シュワルツシルト(1950)17">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.17</ref>。
[[1883年]][[3月14日]]、亡命地ロンドンの自宅にて、肘掛け椅子に座したまま逝去した(65歳)。1883年[[3月17日]]には埋葬が行われた。マルクスの葬儀は、家族とエンゲルスらのごく親しい友人による計11人(または9人)で執り行なわれた<ref> Wheen, Francis (2001). Karl Marx. London: Fourth Estate. ISBN 978-1-85702-637-5.[http://books.google.com/books?id=3KOyuSakn80C&pg=PA382 p. 382].</ref><ref>Stephen Jay Gould; Paul McGarr; Steven Peter Russell Rose (24 April 2007). The richness of life: the essential Stephen Jay Gould. W. W. Norton & Company. pp. 167–168. ISBN 978-0-393-06498-8. Retrieved 9 March 2011</ref>。このときのエンゲルスの弔辞は「カール・マルクスの葬儀」として遺されている。彼の墓はイギリスのアーチウェイ駅の近くにある[[ハイゲイト墓地]]にあり、[[1956年]]には有志の手で新たにスウェーデン産の黒御影石の胸像が加えられた。そして現在に至るまで、彼の生前の面影を偲ぶことができる。


卒業論文は『職業選択に際しての一青年の考察』。「人間の職業は自由に決められる物ではなく、境遇が人間の思想を作り、そこから職業が決まってくる」という記述があり、ここにすでに[[唯物論]]の影響が見られるという指摘もある<ref name="廣松(2008)29">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.29</ref>。「われわれが人類のために最もよく働きうるような生活上の地位を選んだ時には、重荷は我々を押しつぶすことはできない。何故なら、それは万人のための犠牲だからである」という箇所については、[[E.H.カー]]は「マルクスの信念の中のとは言えないが、少なくとも彼の性格の中の多くのものが、彼の育ったところの、規律、自己否定、および公共奉仕という厳しい伝統を反映している」としている<ref name="カー(1956)16-17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.16-17</ref>。他方ヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、作者(マルクス)はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため、全体の作品は必要な明瞭さ、時として正確さに欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という評価を下し<ref name="シュワルツシルト(1950)18-19">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.18-19</ref>、マルクスの悪筆について「なんといやな文字だろう」と書いている{{#tag:ref|[[ヨーゼフ・シュンペーター]]はマルクスの著作の傾向を看破したものとしてこの評価に注目しており、「マルクスがこの種の文体を使った時は、いつも何らかの隠さなければならない弱点があると見てよい」と評している<ref name="シュワルツシルト(1950)18-19">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.18-19</ref>。|group=注釈}}<ref name="カー(1956)16">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.16</ref>。
マルクスは、彼が亡くなる直前まで精力的に執筆活動を行っており、彼の元には膨大な草稿が遺されていた。そして彼の没後、遺された草稿に基づき、彼の意思を受け継いだエンゲルスが[[1889年]]に『[[資本論]]』第二巻を編集・出版、さらに1894年には、第三巻の編集・出版が行われた。


{{-}}
=== ボン大学 ===
[[File:Marx1.jpg|180px|thumb|1836年ボン大学学生時代のマルクス]]
[[1835年]]10月に[[ボン大学]]に入学した{{sfn|佐々木|2016|pp=257-259}}<ref name="カー(1956)17">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.17</ref>。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった<ref name="城塚(1970)30">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.30</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.52-53</ref>。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.64-65</ref>。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという<ref name="城塚(1970)30"/>。


また1835年に18歳になったマルクスは[[プロイセン陸軍]]に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している<ref name="ウィーン(2002)24">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.24</ref>。
== マルクスの歴史観 ==
{{see also|マルクス主義}}
=== 唯物史観 ===
{{main|唯物史観}}
マルクスの歴史観によれば、その時代における物質的生活の生産様式が社会の経済的機構('''社会的存在''')を形成し、同時代の社会的、政治的、精神的生活諸過程一般('''意識''')を規定するとしている。したがって、人間の意識と社会的存在との関係は、人間の意識がその時代における社会的存在(物質的生活の生産様式)を規定するのではなく、逆にその時代における社会的存在が、政治経済や芸術・道徳・宗教といった、同時代の意識そのものを規定するという関係が成立することになる。
人間の社会的存在を土台にして、その時代における意識を規定するという関係から、人間の社会的存在を下部構造、人間の意識を上部構造とよび、つねに時代とともに変化する下部構造のありようが、その時代における上部構造の変化を必然的にもたらすものとされた。このようなマルクスの歴史観を'''唯物史観'''(唯物論的歴史観)という。マルクスの言葉では以下のとおりである。


当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で[[決闘]]ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという{{sfn|佐々木|2016|pp=21-22}}<ref name="廣松2008 p.65-66">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.65-66</ref>。しかも学生に一般的だった[[サーベル]]を使っての決闘ではなく、[[ピストル]]でもって決闘したようである{{sfn|佐々木|2016|pp=21-22}}<ref name="シュワルツシルト(1950)21">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.21</ref>。
{{Quotation|人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。|『経済学批判 序言』}}


全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)<ref name="廣松2008 p.65-66"/>。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという<ref name="メーリング(1974,1)43">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.43</ref>。
=== 人間社会の発展と疎外 ===
若いころ、マルクスは、人間の作り出したシステムや生産諸関係が人間の手を離れ、逆に人間を敵対的に抑圧する状態、すなわち[[疎外]]が発生することを指摘した。(「疎外」という言葉は[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学でよく用いられる。)疎外の形態はさまざまであり、商品や貨幣が人間を支配し労働本来のよろこびが失われる労働の疎外、生産における人間と機械の地位が逆転し、人間の主体性が否定され、まるで歯車の一部のようにされる機械技術による疎外<ref>たとえば、映画『[[モダン・タイムス]]』(1936年公開)で[[チャップリン]]演じる労働者が、ひたすらねじ回しを繰り返す作業の末に発狂の上トラブルを起こし、あげくの果てには巨大歯車に巻き込まれてしまうシーンがあり、当時の資本主義社会における閉塞感と機械技術による疎外を象徴的に描写している。</ref>などである。


[[1836年]]夏にトリーアに帰郷した際に[[イェニー・マルクス|イェニー・フォン・ヴェストファーレン]]と婚約した<ref name="城塚(1970)30"/><ref name="ウィーン(2002)27">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.27</ref><ref name="廣松(2008)66">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.66</ref>。ヴェストファーレン家は貴族の家柄であり、彼女の父[[ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン]]は参事官としてトリーアに居住していた<ref name="石浜(1931)56">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.56</ref><ref name="廣松(2008)156">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.156</ref>。ルートヴィヒは父ハインリヒの友人で、マルクスの文学好きは彼の影響によるところが大きい{{sfn|佐々木|2016|p=20}}。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが<ref name="メーリング(1974,1)43"/><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.22-23</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.26/28</ref>、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという<ref name="ウィーン(2002)28">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.28</ref>。
ただし、唯物論的な歴史観([[唯物史観]])を確立した後、マルクス、エンゲルスは「疎外」という用語をほとんど使っていない。


貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた<ref name="ウィーン(2002)27"/>{{sfn|佐々木|2016|pp=22-23}}<ref name="カー(1956)23">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.23</ref><ref name="メーリング(1974,1)45">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.45</ref>。
=== 資本主義の発展と革命 ===
マルクスは『[[資本論]]』の中で、資本主義に内在するさまざまな[[矛盾]]点や問題点を考察する一方、資本主義そのものは社会の[[生産性]]を高めるために必要な段階と捉えており、資本主義経済の発展・成熟とそれに伴う[[恐慌]]、階級闘争の激化などを契機として、革命が起こり[[共産主義]]へと移行すると考えていた。マルクスが共産主義革命の前提としていたのは、当時の[[イギリス]]、[[ドイツ]]、[[フランス]]などに代表される西欧の成熟した[[資本主義]]的生産様式であった。しかし、実際に社会主義革命が成功したのはロシア、中国、キューバなど資本主義の発展の遅れた国々であった。


一方で、ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは、1810年までに家族から得た財産の取り分を使い果たしており、その後は官僚としての俸給だけで生活し、1834年の退職後は年金で暮らしており、その額はカールの父ハインリヒの年収1500ターラーの4分の3程度であったため、イェニーは十分な[[持参金]]を持つことができず、人目をひくような結婚相手を見つけられるあてもなかったとも考証されている{{Sfn|スパーバー|2015a|p=73}}。
== マルクスの経済学 ==
[[マルクス経済学]]を参照。


{{-}}
== マルクスの宗教観 ==
マルクスは、学生時代に[[ヘーゲル]]哲学を研究するかたわら、詩作を試みた時期があった。愛をうたった詩も多い。[[1837年]](19歳)のときにノートに書いた「絶望者の祈り」<ref>[http://www.hs-augsburg.de/~harsch/germanica/Chronologie/19Jh/Marx/mar_gva1.html#11 Des Verzweifelnden Gebet]</ref>という詩は、「運命の呪いと軛だけを残して何から何まで取上げた」神への復讐という[[フレーズ]]で始まっている。


=== ベルリン大学 ===
マルクスは26歳のとき、論文『[[ヘーゲル]]法哲学批判序論』のなかで次のように述べている<ref>この文章は、ドイツの詩人でマルクスの親友でもある[[ハインリッヒ・ハイネ]]の[[1840年]]の著作『Ludwig Borne iv(ルートヴィヒ・ベルネ)』中の「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」が先行している。[http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/1997_11.html#59go 福岡大学理学部_柴田勝征研究室_言問い亭]を参照。</ref>。
[[File:Berlin Universitaet um 1850.jpg|250px|thumb|マルクス在学中から10年後の1850年の[[ベルリン大学]]を描いた絵。]]
[[1836年]]10月に[[ベルリン大学]]に転校した{{sfn|佐々木|2016|pp=257-259}}<ref name="石浜(1931)57">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.57</ref><ref name="城塚(1970)31">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.31</ref><ref name="メーリング(1974,1)51">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.51</ref>。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった<ref name="城塚(1970)31"/><ref name="石浜(1931)55">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.55</ref><ref name="メーリング(1974,1)50">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.50</ref>。しかし、マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという<ref name="メーリング(1974,1)50"/><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.57-58</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.66-67</ref>。


同大学で受講した講義は、法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.67-68</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.62-64</ref>。だが、詩や美術史への関心は持ち続け、それに[[ローマ法]]への関心が加わって、[[哲学]]に最も強い関心を持つようになった<ref name="城塚(1970)31"/>。[[1837年]]と[[1838年]]の冬に病気をしたが、その時に療養地[[シュトラロー]]で、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]哲学{{#tag:ref|[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]は、当時プロイセンで最も高名な哲学者だった。ヘーゲルは、「この世の全てのものは矛盾をもっているので、不可避で否定を持つが、絶対的なもの(彼はこれを精神と見た)の意思に従って、否定から否定へとジグザグに動いて矛盾を解消して、より理性的な状態へと近づけていく運動である」と考えた。この概念で把握することを[[弁証法]]という<ref name="小牧(1966)72">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.72</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.41-42</ref>。ヘーゲルのこの考えに従えば、理性的なものは必ず現実に現れてくるはずだし、現在の状態は、必ず理性的な部分があるということになる。ヘーゲルは「理性の最高段階は国家であり、あらゆる矛盾は国家によって解消される」と考えた。そして、プロイセン王国こそがそれを最も体現している国であるとした。プロイセン政府にとっては、フランス革命的な西欧自由主義への対抗として、都合のいい哲学であった。しかし、ヘーゲルは1831年に死去し、その思想の継承者たちは右派・中央派・左派に分裂した。自由主義・啓蒙主義思想から封建主義的なプロイセンの現状の批判する左派は、現実の中に理性を探すのではなく、理性によって現実を審査すべきとしてヘーゲル批判を行うようになった。若き日のマルクスも、このヘーゲル左派の立場に立った<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.74-76</ref>。|group=注釈}}の最初の影響を受けた{{sfn|佐々木|2016|pp=25-35}}<ref name="石浜(1931)66">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.66</ref><ref name="廣松(2008)80">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.80</ref>。
{{Quotation|宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の[[阿片]](アヘン)である。人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである}}


以降ヘーゲル中央派に分類されつつも[[ヘーゲル左派]]寄りの[[エドゥアルト・ガンス]]の授業を熱心に聴くようになった<ref name="廣松(2008)67">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.67</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)29">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.29</ref>。また、[[ブルーノ・バウアー]]や{{仮リンク|カール・フリードリヒ・ケッペン|de|Karl Friedrich Köppen}}、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ]]、[[アーノルド・ルーゲ|アーノルト・ルーゲ]]、{{仮リンク|アドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルク|de|Adolf Friedrich Rutenberg}}らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「[[ドクター|ドクトル]]・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた<ref name="ウィーン(2002)39">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39</ref><ref name="カー(1956)27">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.27</ref><ref name="城塚(1970)32">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.32</ref><ref name="メーリング(1974,1)54">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.54</ref>。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.68-69</ref><ref name="メーリング(1974,1)64">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.64</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)37">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.37</ref>。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」が[[キリスト教]]批判・[[無神論]]に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい<ref name="廣松(2008)96">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.96</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)43">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.43</ref>。
この"阿片"については『ヘーゲル法哲学批判序論』に、痛み止めである旨の記述もある。阿片は当時、[[緩和医療]]での[[疼痛]]などの痛み止めとしても使用されていた。


ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500[[ターレル]]以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている<ref name="廣松(2008)68">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.68</ref><ref name="メーリング(1974,1)56">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.56</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)33">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.33</ref>。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.39-40</ref>。1837年12月9日付けの父からの手紙には、「おまえはおまえの両親に数々の不愉快な思いをさせ、喜ばせることはほとんどないか、全然なかった」と記されている{{sfn|佐々木|2016|pp=25-35}}。
[[ブルーノ・バウアー]]がユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに対し、26歳のマルクスは、私有制のエゴイズムが金銭崇拝と商人根性をユダヤ人に教えるのであり、改宗は無意味である。必要なのは人間をエゴイズムから解放することである、と反論している(『[[ユダヤ人問題によせて]]』)<ref>大内兵衛 『マルクス・エンゲルス小伝』 岩波書店〈岩波新書〉、1964年、24頁。</ref>。


[[1838年]][[5月10日]]に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった<ref name="ウィーン(2002)43">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43</ref><ref name="廣松(2008)93-94">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.93-94</ref>。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、[[古代ギリシャ]]の哲学者[[エピクロス]]と[[デモクリトス]]の論文の執筆を開始した<ref name="カー(1956)27"/><ref name="廣松(2008)96"/><ref name="城塚(1970)42">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.42</ref>。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった<ref name="廣松(2008)93-94"/>。
マルクス自身は[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]から影響を受けて[[無神論]]的になり、社会や歴史を形成する原理は宗教的理念ではなく、究極的には経済に求めるべきと考えた。


[[1840年]]に[[キリスト教]]と[[正統主義]]思想の強い影響を受ける[[ロマン主義]]者[[フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム4世]]がプロイセン王に即位し、保守的な{{仮リンク|ヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルン|de|Johann Albrecht Friedrich von Eichhorn}}が{{仮リンク|文部大臣 (プロイセン)|label=文部大臣|de|Preußisches Ministerium der geistlichen, Unterrichts- und Medizinalangelegenheiten}}に任命されたことで言論統制が強化された{{#tag:ref|前王[[フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)|フリードリヒ・ヴィルヘルム3世]]は優柔不断な性格の王でヘーゲル派の{{仮リンク|カール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタイン|de|Karl vom Stein zum Altenstein}}を文部大臣にしていたため、これまでヘーゲル左派への弾圧も比較的緩やかであった<ref name="廣松(2008)123-125"/>。|group=注釈}}<ref name="カー(1956)27"/><ref name="ウィーン(2002)44">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.44</ref><ref name="廣松(2008)123-125">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.123-125</ref>。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派の[[フリードリヒ・シェリング]]教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた<ref name="ウィーン(2002)44"/>。
==マルクスの文学・芸術観==
[[ギリシャ悲劇]]、[[シェイクスピア]]などの[[劇文学]]を愛好した<ref>『シェイクスピアは「資本論」の中でどう描かれたか』([[川上重人]]・著) および、[[アマゾン・ドットコム]]での、[[西岡昌紀]]による本書のレビュー</ref>。


マルクスはベルリン大学で[[学士号]]、[[修士号]]を取得後、[[博士号]]を取得するべく[[博士論文]]の執筆を始めていたが、そのようなこともあって、ベルリン大学に論文を提出することを避け、[[1841年]][[4月6日]]に審査が迅速で知られる[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]に『{{仮リンク|デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異|en|The Difference Between the Democritean and Epicurean Philosophy of Nature}}(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の[[4月15日]]に同大学から[[博士|哲学博士号]]を授与された<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.43/45-46</ref>。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している{{#tag:ref|[[デモクリトス]]と[[エピクロス]]はアトム(原子)を論じた古代ギリシャの哲学者。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線的に落下して反発しあう運動で構成されていると考えた初期唯物論者だった。これに対してエピクロスはデモクリトスのアトム論を継承しつつもアトムは自発的に直線からそれる運動(偏差)をすることがあると考えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.67-68</ref>。近代まで長らくエピクロスはデモクリトスに余計なものを付け加えた改悪者とされてきたが、自由主義の風潮が高まると哲学的観点から再評価が始まった。デモクリトスのアトム論では人間の行動や心までもアトムの運動による必然ということになってしまうのに対し、エピクロスは偏差の考えを付け加えることで自由を唯物論の中に取り込もうとしたのではないかと考えられるようになったからである。ヘーゲル左派もエピクロスを[[ストア派]]や[[懐疑主義]]とともに自分たちの「自己意識」の立場の原型と看做した。マルクスもそうした立場を踏襲してエピクロスとデモクリトスを比較する論文を書いたのだった<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.54-59</ref>。|group=注釈}}<ref name="石浜(1931)72">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.72</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.59/61-62</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.105-106</ref>。
== マルクス没後の出版 ==
[[ファイル:Kapital titel bd1.png|200px|thumb|資本論の表紙(1867年発行)]]
マルクスは主著『[[資本論]]』を第1巻しか完成できなかった。第2巻と第3巻はマルクスの遺稿をもとにエンゲルスが編集したものである。それらの序文でエンゲルスは、未完成の草稿からまとまった著作を作りあげる苦労を語っている。またマルクスの原文をできるだけ忠実に再現し、追加や書き換えは最小限にとどめるという編集方針を述べている<ref>このことから資本論第2巻と第3巻は事実上マルクスの著作として読まれてきたのであるが、しかし現在アムステルダム社会史国際研究所に現存する草稿の調査から、エンゲルスによる書き換えが予想よりはるかに多いことが明らかになった。またその内容が、かならずしも形式的なものでもないとする研究者も多数いる。またエンゲルスによる章別構成や原稿の配列順序に異を唱える論者もいる。</ref>。


=== 大学教授への道が閉ざされる ===
[[ソビエト連邦]]成立後、マルクスの著作はソ連共産党のマルクス=レーニン主義研究所で編纂され出版された。
[[File:Bruno Bauer.jpg|180px|thumb|[[ブルーノ・バウアー]]。<br/><small>若い頃のマルクスのヘーゲル左派・無神論仲間だったが、後にマルクスによって批判される。晩年は無神論や共産主義から離れた。</small>]]
1841年4月に学位を取得した後、トリーアへ帰郷した<ref name="カー(1956)28">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.28</ref><ref name="廣松(2008)126">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.126</ref>。大学教授になる夢を実現すべく、同年7月に[[ボン]]へ移り、ボン大学で教授をしていたバウアーのもとを訪れる。バウアーの紹介で知り合ったボン大学教授連と煩わしがりながらも付き合うようになった<ref name="廣松(2008)126"/>。しかしプロイセン政府による言論統制は強まっており、バウアーはすでに解任寸前の首の皮一枚だったため、マルクスとしてはバウアーの伝手は大して期待しておらず、いざという時には[[岳父]]ヴェスファーレンの伝手で大学教授になろうと思っていたようである(マルクスの学位論文の印刷用原稿にヴェストファーレンへの献辞がある)<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.125-126</ref>。


ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった<ref name="廣松(2008)126"/><ref name="カー(1956)31">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.31</ref>。二人は夏の間、ボンで無頼漢のような生活を送った。飲んだくれ、教会で大声をだして笑い、[[ロバ]]でボンの街中を走りまわった。そうした無頼漢生活の極めつけが匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ(Die Posaune des jüngsten Gerichts über Hegel, den Atheisten und Antichristen)』を[[ザクセン王国]][[ライプツィヒ]]で出版したことだった<ref name="カー(1956)31"/><ref name="ウィーン(2002)46">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.46</ref>。その内容は、敬虔なキリスト教徒が批判するというかたちでヘーゲルの無神論と革命性を明らかにするというもので、これは基本的にバウアーが書いた物であるが、マルクスも関係しているといわれる<ref name="廣松(2008)126"/><ref name="カー(1956)31"/>。
マルクスの遺稿に手を加えたり、見出しをつけたり、並べ替えたりして出版されたこともあった<ref>『資本論』第4部こと『[[剰余価値学説史]]』は、エンゲルスの死後[[カール・カウツキー]]の編集で出版されたが、これは本文の改竄を含んでおり、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクス、エンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『[[ドイツ・イデオロギー]]』は原稿の並べ替えが行われ、[[廣松渉]]から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる(『経済学・哲学草稿』、岩波文庫版、p.298)。</ref>。


やがてこの本を書いたのは敬虔なキリスト教信徒ではなく無神論者バウアーと判明し、したがってその意図も明らかとなった<ref name="ウィーン(2002)46"/>。バウアーはすでに『共観福音書の歴史的批判』という反キリスト教著作のためにプロイセン政府からマークされていたが、そこへこのようなパロディー本を出版したことでいよいよ政府から危険視されるようになった。[[1842年]]3月にバウアーが大学で講義することは禁止された。これによってマルクスも厳しい立場に追い込まれた<ref name="カー(1956)31"/><ref name="ウィーン(2002)46"/><ref name="城塚(1970)67">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.67</ref><ref name="廣松(2008)128">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.128</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)48">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.48</ref>。
<!--現在、マルクスの著作物の日本語訳の多くが、この研究所で編纂されたものを使用して翻訳がされているが、マルクスが学生時代に法律学や哲学を専攻したことがあるためか、かなり[[専門用語]]を多用して書かれているため、[[向坂逸郎]]らが翻訳した際にその用語を十分理解していなかった部分があり、日本語訳の内容は原作とは離れている可能性が否定できない。「…可能性が否定できない」ということは事実を確かめていないということなのでコメント化-->
=== 新『マルクス=エンゲルス全集』の出版 ===
現存するすべてのマルクスの自筆原稿、公刊された著作の各版、および手紙類までふくめて再現する新『マルクス=エンゲルス全集』(通称『新MEGA』)<ref>かつて日本語訳され[[大月書店]]から刊行されていた『マルクス=エンゲルス全集』の底本は「全集」ではなく「著作集」(通称『MEW』)である。</ref>が、旧[[東独]]のマルクス=レーニン主義研究所により刊行されてきた。東独消滅により国家事業として支援されなくなった後は国際マルクス/エンゲルス財団により刊行が続けられている。たとえば『資本論』第1巻では[[ドイツ語]]版初版と第2版、[[フランス語]]版などが別々に収録されており、第2巻と第3巻の各草稿もすべてが収録される予定である。そこで公刊されたマルクスの資本論草稿の一部は『資本の流通過程』『資本論草稿集1~9』(大月書店)として日本語訳されている。


マルクスのもう一つの伝手であった岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった<ref name="廣松(2008)128"/>。
== 語録 ==
{{-}}
* 「哲学者は、世界をただいろいろに解釈しただけである。しかし、大事なことは、それを変革することである」(『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』)
* 「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は一度は悲劇として、二度目は茶番として、とつけくわえるのを忘れた」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
* 「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるのである」(『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
* 「職業選択における主なみちしるべは、人類の福祉と私たち自身の完成ということである。この二つは敵対して闘うもの、一方は他方を否定するはずのものと考えるのは誤りで、人間の天性は、その時代の完成と福祉とのために働く場合に、はじめて自己の完成をも達することができるようにできている」(ギムナジウム(高校)時代の卒業論文『職業の選択にさいしての一青年の考察』)
* 「これまでのすべての社会の歴史は、階級闘争の歴史である」(『[[共産党宣言]]』)
* 「万国の労働者よ団結せよ!」(『共産党宣言』)


=== 『ライン新聞』のジャーナリストとして ===
== 個人生活 ==
[[File:Rheinische-zeitung.gif|180px|thumb|マルクスが編集長を務めていた『{{仮リンク|ライン新聞|de|Rheinische Zeitung}}』]]
[[ファイル:Marx+Family and Engels.jpg|300px|サムネイル|エンゲルスや娘たちと<BR /><SUB>前列左から次女ローラ・四女エレノア・長女ジェニー。</SUB>]]
1841年夏に[[アーノルド・ルーゲ|アーノルト・ルーゲ]]は検閲が比較的緩やかな[[ザクセン王国]]の王都[[ドレスデン]]へ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン政府の検閲で掲載されなかった{{#tag:ref|ルーゲはマルクスの論文を含む掲載を認められなかった論文を1843年にスイスで『アネクドータ(Anekdote)』という雑誌にして出版している<ref name="石浜(1931)77">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.77</ref>。|group=注釈}}<ref name="廣松(2008)126"/><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.76-77</ref><ref name="城塚(1970)68">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.68</ref><ref name="ウィーン(2002)49">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.49</ref>。
妻イエニーとの間には7人の子供が生まれたが、ロンドンでの一時期の貧しい生活によって4人が夭折し、成人したのは3人の娘だけであった<ref>Peter Singer (2000). Marx a very short introduction. pp. 5. ISBN 0-19-285405-4</ref>。子供は、長女のジェニー・キャロライン(イエニー、1844年–1883年)、次女ジェニー・ローラ(1845年–1911年)、長男エドガー(1847年–1855年)、二男ヘンリー・エドワード・ガイ (グイド、1849年–1850年)、三女ジェニー・エベリーネ・フランシス(フランツィスカ、1851年–1852年)、四女ジェニー・ジュリア・エレノア(1855年–1898年)、 それに1857年7月に名づけられないまま亡くなった子供の7人である。


ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加していたライン地方の『{{仮リンク|ライン新聞|de|Rheinische Zeitung}}』に目を転じた<ref name="ウィーン(2002)49"/>。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発し、検閲を多少緩めたのを好機として[[1842年]]1月に{{仮リンク|ダーゴベルト・オッペンハイム|de|Dagobert Oppenheim}}や[[ルドルフ・カンプハウゼン]]らライン地方の急進派ブルジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった{{#tag:ref|この新聞は自由主義的だが、ライン地方がプロイセン領であること自体は受け入れており、親仏的・反プロイセン的カトリック新聞『ケルン新聞』への対抗としてプロテスタントのプロイセン政府としても必ずしも邪魔な存在ではなく、その発刊に際しては好意的でさえあったという<ref name="廣松(2008)130">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.130</ref><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.49-50</ref>。|group=注釈}}<ref name="石浜(1931)79">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.79</ref><ref name="廣松(2008)130">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.130</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.32-33</ref><ref name="太田(1930)7">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.7</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)50">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.50</ref>。
== 逸話 ==
* マルクスの浪費癖は有名である。マルクスの学生時代、父親からの手紙に「どんな金持ちの子供でも1年に500[[ターラー (通貨)]]も使う者はいないというのに、お前は700ターラーでも足りないという、ああなんということだ(当時のベルリン市の幹部の俸給は800ターラー)」と記されていたという。ロンドン亡命後の滞在にあたっては、エンゲルスからの生活費支援が不可欠であった。<ref>『エピソードで読む西洋哲学史』堀川哲著</ref>。また、ロバート・L.ハイルブローナーによると、マルクスの人となりを次のように評している。「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」。<ref>『入門経済思想史-世俗の思想家たち』ロバート・L.ハイルブローナー著</ref>
* 悪筆であり、彼の原稿を解読できるのはエンゲルスを含めごく限られた人間のみであった。
* [[南北戦争]]では北部を支持し、[[エイブラハム・リンカーン]]に祝電を送り返事をもらっている。その後任の[[アンドリュー・ジョンソン]]が南部に対して妥協的な戦後処理を行った際には、書簡の中で「現在アメリカで起こっていることに就いて私は懸念しなければならない。反動が起こっている」と批判している。
* マルクス自身、元々の出自は[[ユダヤ系]]であったが、他人に対するさまざまな偏見を持っていた。たとえば、彼の親友にしてライバルの[[フェルディナント・ラサール]]を「[[ユダヤ]]の黒んぼラサール<ref>原文:"Der jüdische Nigger Lassalle"</ref>」「頭の格好と髪の生え方からして、奴は[[モーゼ]]と一緒に[[エジプト]]から脱出した[[ニグロ]]の子孫に違いない(さもなきゃ、奴のお袋さんか、父方の祖母さんが[[ニガー]]と交わっていたということさ)。<ref>原文:"Es ist mir jetzt völlig klar, daß er, wie auch seine Kopfbildung und sein Haarwuchs beweist, von den Negern abstammt, die sich dem Zug des Moses aus Ägypten anschlossen (wenn nicht seine Mutter oder Großmutter von väterlicher Seite sich mit einem Nigger kreuzten."</ref>」(1862年のエンゲルス宛書簡)と親友宛の手紙に書いている。
* マルクスはまた、論敵手・[[バクーニン]]([[ロシア人]])との確執から、ロシア人への偏見を込めて「奴らは信用できない。奴らが動き出すと悪魔も逃げ出す」と評していたが、ヴェラ・ザスーリッチとの手紙でロシアにおける独自の可能性を認めている。これは純血ロシア人を嫌った[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]にも共通している。
* 娘イエニーの手記によると、マルクスの好きな色は[[共産主義]]のシンボルカラーである[[赤]]、好きな格言は「人間にかかわることで、私にとってどうでもよいものはなにひとつない」(ローマの詩人[[プビリウス・テレンティウス・アフェル|テレンティウス]]の言葉)、好きなモットーは「全てを疑え」であった。
* イギリス亡命時に酒場でイギリス人スピーカーがドイツ批判をしたことにマルクスが激怒し、乱闘となった。
* 『ポートレートから読むマルクス』において、マルクス家の家政婦ヘレーネ・デムートの息子フレデリックの[[1912年]][[4月10日]]の手紙で自分の父親がマルクスである旨、またエリノアがフレデリックを母違いの兄である旨、[[1929年]][[2月27日]]の[[クララ・ツェトキン]]への手紙があったことが判明した。フレデリック・デムートはほとんどマルクスと会ったことがないまま育ち、工場労働者となった。


同紙を実質的に運営していたのは社会主義者の[[モーゼス・ヘス]]だったが、彼はヘーゲル左派の新人マルクスに注目していた。当時のマルクスは社会主義者ではなかったから「私は社会主義哲学には何の関心もなく、あなたの著作も読んではいません」とヘスに伝えていたものの、それでもヘスはマルクスを高く評価し、「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]とヴォルテールと[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ホルバッハ]]と[[ゴットホルト・エフライム・レッシング|レッシング]]とハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」と絶賛していた<ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.53-54</ref>。
== 著作 ==

* 『[[デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との差異]]』(学位請求論文)
マルクスは1842年5月にも[[ボン]](後に[[ケルン]])へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿するようになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.80-81</ref><ref name="カー(1956)33">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.33</ref>。6月にプロイセン王を支持する形式をとって無神論の記事を書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事は検閲で却下された。また8月にも結婚の教会儀式に反対する記事を書いたのが検閲官に却下された。当時の新聞記事は無署名であるからマルクスが直接目を付けられる事はなかったものの、新聞に対する目は厳しくなった。最初の1年は試用期間だったが、それも終わりに近づいてきた10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた{{sfn|佐々木|2016|p=37}}<ref name="シュワルツシルト(1950)61">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.61</ref>。
* 『[[プロイセンの最新の校閲訓令に対する見解]]』

* 『[[第6回ライン州議会議事]]』
このような経緯であったから新編集長マルクスとしては新聞を存続させるために穏健路線をとるしかなかった。まず検閲当局に対して「これまでの我々の言葉は、全て[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]の御言葉を引用することで正当化できるものですが、今後は必要に迫られた場合以外は宗教問題を取り扱わないとお約束いたします」という誓約書を提出した<ref name="シュワルツシルト(1950)62">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.62</ref>。実際にマルクスはその誓約を守り、バウアー派の急進的・無神論的な主張を抑え続けた(これによりバウアー派との関係が悪くなった)<ref name="廣松(2008)147">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.147</ref><ref name="城塚(1970)85">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.85</ref>。プロイセン検閲当局も「マルクスが編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している<ref name="廣松(2008)152">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)66">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.66</ref>。
* 『[[ヘーゲル国法論批判]]』

* 『[[ユダヤ人問題によせて]]』
また7月革命後の[[1830年代]]のフランスで台頭した社会主義・共産主義思想が[[1840年代]]以降にドイツに輸出されてきていたが、当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した{{#tag:ref|ただしこの論説のなかでマルクスは「[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]の洞察力ある著作については研究の必要がある」ともしている<ref name="ウィーン(2002)58">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.58</ref><ref name="石浜(1931)82">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.82</ref><ref name="廣松(2008)143">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.143</ref>。|group=注釈}}{{sfn|佐々木|2016|pp=37-39}}<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.82-83</ref><ref name="ウィーン(2002)58">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.58</ref><ref name="城塚(1970)80">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.80</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.142-143</ref>。また「持たざる者と中産階級の衝突は平和的に解決し得ることを確信している」とも表明した<ref name="シュワルツシルト(1950)62"/>。
* 『[[ヘーゲル法哲学批判序説]]』

* 『[[経済学・哲学草稿]]』
一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。ライン県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり{{#tag:ref|農民が森林所有者の許可なく木材を採取することを盗伐として取り締まる法案。マルクスはこの法案を貧民の[[入会権|慣習上の権利]]を侵すものとして反対した。ただしこの法案は森林所有者の財産権保護だけを目的とする物ではなく、当時凄まじい勢いで進んでいた森林伐採を抑えようという自然環境保護の目的もあった。そちらの観点についてはマルクスは何も語っていない<ref name="廣松(2008)140">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.140</ref>。|group=注釈}}、{{仮リンク|ライン県|de|Rheinprovinz}}知事{{仮リンク|エドゥアルト・フォン・シャーパー|de|Eduard von Schaper}}の方針に公然と反対するなどした<ref name="廣松(2008)152"/>。
* 『[[聖家族]]』

* 『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』(フォイエルバッハ・テーゼ)
だがこの態度が災いとなった。検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった。国内のみならず隣国のザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった<ref name="廣松(2008)152"/><ref name="シュワルツシルト(1950)72">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.72</ref>。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと[[神聖同盟]]を結ぶ[[ロシア帝国]]を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、[[1843年]]3月をもって廃刊させられることとなった{{sfn|佐々木|2016|pp=37-39}}<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.62-63</ref><ref name="石浜(1931)85">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.85</ref><ref name="カー(1956)35">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.35</ref><ref name="太田(1930)9">[[#太田(1930)|太田(1930)]] p.9</ref>。
* 『[[ドイツ・イデオロギー]]』

* 『[[クリーゲに反対する回状]]』
マルクス当人は政府におもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしている<ref name="ウィーン(2002)64">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.64</ref>。また『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再勉強に集中する必要性を感じていた<ref name="石浜(1931)87">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.87</ref>。
* 『[[哲学の貧困]]』
{{-}}
* 『[[共産党宣言]]』(共産主義者宣言)

* 『[[新ライン新聞編集委員会の声明]]』
=== 結婚 ===
* 『[[フランスにおける階級闘争]]』
年俸600ターレルの『ライン新聞』編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『[[独仏年誌]]』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、年俸850ターレルでその共同編集長にならないかという誘いを受けた。次の職を探さねばならなかったマルクスはこれを承諾した{{sfn|佐々木|2016|pp=39-42}}<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.152-153</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89-90</ref>。
* 『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』

* 『[[亡命者偉人伝]]』
ルーゲ達が『独仏年誌』創刊の準備をしている間の1843年6月12日、[[バート・クロイツナハ|クロイツナハ]]において25歳のマルクスは29歳の婚約者[[イェニー・フォン・ヴェストファーレン|イェニー]]と結婚した{{sfn|佐々木|2016|pp=39-42}}<ref name="カー(1956)37">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.37</ref><ref name="石浜(1931)90">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.90</ref><ref name="廣松(2008)155">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.155</ref><ref name="ウィーン(2002)69">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.69</ref>。
* 『[[イギリスの選挙]]』

* 『[[ケルン共産主義裁判の真相]]』
前ヴェストファーレン家当主ルートヴィヒは自由主義的な人物で二人の婚約に反対しなかったが、その子で当代当主となっている[[フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|フェルディナント]](イェニーの兄)は保守的な貴族主義者だったのでマルクスのことを「ユダヤのヘボ文士」「過激派の無神論者」と疎み、「そんなロクデナシと結婚して家名を汚すな」と結婚に反対した。他の親族も反対する者が多かった。だがイェニーの意思は変わらなかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.68-69</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)78">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.78</ref>。
* 『[[経済学批判要綱]]』

* 『[[経済学批判]]』
これについてマルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―[[神|天上の主]]と[[プロイセン国王|ベルリンの主]]を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている<ref name="シュワルツシルト(1950)78"/>。
* 『[[フォークト氏]]』

* 『[[資本論]]』
=== フォイエルバッハの人間主義へ ===
* 『[[フランスの内乱]]』
[[File:Ludwig feuerbach.jpg|180px|thumb|[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]]<br/><small>マルクスは彼から人間主義的唯物論の影響を受けつつ、その人間観が経済的基礎に裏付けられていないと批判した。</small>]]
* 『[[ゴータ綱領批判]]』
マルクスの再勉強はヘーゲル批判から始まった{{sfn|佐々木|2016|pp=39-42}}<ref name="城塚(1970)87">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.87</ref>。その勉強の中で『[[キリスト教の本質]]』(1841年)を著した[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]の[[人間主義]]的唯物論から強い影響を受けるようになった。フォイエルバッハ以前の無神論者たちはまだ聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハはそれを更に進めて神学を人間学にしようとした{{sfn|佐々木|2016|pp=43-45}}<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.81-82</ref><ref name="城塚(1970)88">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.88</ref>。彼は「人間は個人としては有限で無力だが、類(彼は共同性を類的本質と考えていた<ref name="廣松(2008)190">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.190</ref>)としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」「ヘーゲル哲学の言う精神あるいは絶対的な物という概念もキリスト教の言うところの神を難しく言い換えたに過ぎない」といった主張を行うことによって「絶対者」を「人間」に置き換えようとし、さらに「歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これがその中で生きている人間に思考し行動させる」として「人間」を「物質」と解釈した<ref name="カー(1956)100">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.100</ref><ref name="バーリン(1974)84">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.84</ref><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.104-107</ref><ref name="城塚(1970)90">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.90</ref>。
ほか

マルクスはこの人間主義的唯物論に深く共鳴し、後に『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』の中で「フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の秘密を暴露し、精神の弁証法を絶滅させた。つまらん『無限の自己意識』に代わり、『人間』を据え置いたのだ」と評価した<ref name="小牧(1966)107">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.107</ref>。マルクスはこの1843年に弁証法と市民社会階級の対立などの社会科学的概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の観念的立場から離れ、フォイエルバッハの人間主義の立場に立つようになったといえる<ref name="石浜(1931)89">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.89</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.91-92</ref>。

マルクスは1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆にあたった<ref name="石浜(1931)89"/><ref name="廣松(2008)163">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.163</ref>。これはフォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。ヘーゲルは「近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度である。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合する」と説くが<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.94-96</ref>、これに対してマルクスは国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ<ref name="廣松(2008)171">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.171</ref>、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対した<ref name="城塚(1970)97">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.97</ref>。国家を主体化するヘーゲルに反対し、人間こそが具体物であり、国は抽象物に過ぎないとして「人間を体制の原理」とする「民主制」が帰結と論じ、「民主制のもとでは類(共同性)が実在としてあらわれる」と主張する。この段階では「民主制」という概念で語ったが、後にマルクスはこれを共産主義に置き換えて理解していくことになる<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.167-170</ref>。
{{-}}

=== パリ在住時代 ===
『独仏年誌』の発刊場所についてマルクスは[[7月王政|フランス王国]]領[[ストラスブール]]を希望していたが、ルーゲやヘスたちは検閲がフランスよりも緩めな[[ベルギー王国]]王都[[ブリュッセル]]を希望した。しかし最終的には印刷環境がよく、かつドイツ人亡命者が多いフランス王都[[パリ]]に定められた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.90-92</ref><ref name="カー(1956)38">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.38</ref><ref name="廣松(2008)195">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.195</ref>。

こうしてマルクスは1843年10月から新妻とともにパリへ移住し、ルーゲが用意した{{仮リンク|フォーブール・サンジェルマン|fr|Faubourg Saint-Germain}}の共同住宅でルーゲとともに暮らすようになった<ref name="石浜(1931)92">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.92</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)79">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.79</ref>。
==== 「人間解放」 ====
[[File:Deutsch Franz Jahrbücher (Ruge Marx) 071.jpg|180px|thumb|『[[独仏年誌]]』に掲載された『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』<br/><small>この著作からマルクスは「非人間」の[[プロレタリアート]]階級を中心にした「人間解放」を訴えるようになった。</small>]]
[[1844年]]2月に『独仏年誌』1号2号の合併号が出版された。マルクスとルーゲのほか、ヘスや[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]が寄稿した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.94-95</ref><ref name="小牧(1966)111">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.111</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)80">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.80</ref>。このうち著名人といえる者はハイネのみだった。ハイネはパリ在住時代にマルクスが親しく付き合っていたユダヤ人の亡命詩人であり、その縁で一篇の詩を寄せてもらったのだった{{#tag:ref|仮借ない批判で知られるマルクスだが、不思議なことにハイネだけは最後まで批判しなかった。マルクスとハイネの意見が相違しなかったからではない。ハイネはプロレタリアートが勝利した世界に芸術や美術の居場所はないと感じ取り、共産主義を好んでいなかった。また1856年に死去した際には神に許しを請う遺言書を書いている。このような「反共」や「信仰への墜落」にも関わらず、マルクスはハイネに対して何らの非難も発しなかったのである。マルクスの娘のエレナによれば「父はあの詩人をその作品と同じぐらい愛していました。だから彼の政治的弱さはどこまでも大目に見ていたのです。それを父はこう説明していました。『詩人というのは妙な人種で彼らには好きな道を歩ませてやらねばならない。彼らを常人の尺度で、いや常人ではない尺度でも図ってはならないのだ』」<ref name="ウィーン(2002)84">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.84</ref>。|group=注釈}}<ref name="小牧(1966)111"/><ref name="シュワルツシルト(1950)80"/>。エンゲルスは父が共同所有するイギリスの会社で働いていたブルジョワの息子だった。マルクスが『ライン新聞』編集長をしていた1842年11月に二人は初めて知り合い、以降エンゲルスはイギリスの社会状況についての論文を『ライン新聞』に寄稿するようになっていた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.55-56</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.127-128</ref>。エンゲルスは当時全くの無名の人物だったが、誌面を埋めるために論文を寄せてもらった<ref name="シュワルツシルト(1950)80"/>。マルクスは尊敬するフォイエルバッハにも執筆を依頼していたが、断られている<ref name="石浜(1931)95">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.95</ref>。

マルクス自身はこの創刊号にルーゲへの手紙3通と『[[ユダヤ人問題によせて]]』と『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』という2つの論文を載せている<ref name="太田(1930)9"/><ref name="石浜(1931)95"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.111-112</ref>。この中でマルクスは「ユダヤ人はもはや宗教的人種的存在ではなく、隣人から被った扱いによって貸金業その他職業を余儀なくされている純然たる経済的階級である。だから彼らは他の階級が解放されて初めて解放される。大事なことは政治的解放(国家が政治的権利や自由を与える)ではなく、市民社会からの人間的解放だ。」<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.106-107</ref><ref name="小牧(1966)113">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.113</ref>、「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という[[阿片]]に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」<ref name="小牧(1966)115">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.115</ref>、「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されている[[プロレタリアート]]階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」といった趣旨のことを訴えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.116-117</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.114-116</ref><ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.219-221</ref><ref name="石浜(1931)96">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.96</ref>。こうしていよいよプロレタリアートに注目するようになったマルクスだが、一方で既存の共産主義にはいまだ否定的な見解を示しており、この段階では人間解放を共産革命と想定していたわけではないようである。もっとも[[ローレンツ・フォン・シュタイン]]が紹介した共産主義者の特徴「プロレタリアートを担い手とする社会革命」と今やほとんど類似していた<ref name="廣松(2008)222">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.222</ref>。

しかし結局『独仏年誌』はハイネの詩が載っているということ以外、人々の関心をひかなかった<ref name="ウィーン(2002)85-86">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.85-86</ref>。当時パリには10万人のドイツ人がいたが、そのうち隅から隅まで読んでくれたのは一人だけだった。まずいことにそれは駐フランス・プロイセン大使だった。大使は直ちにこの危険分子たちのことをベルリン本国に報告した<ref name="シュワルツシルト(1950)87">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.87</ref>。この報告を受けてプロイセン政府は国境で待ち伏せて、プロイセンに送られてきた『独仏年誌』を全て没収した(したがってこれらの分は丸赤字)。さらに「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名はプロイセンに入国次第、逮捕する」という声明まで出された<ref name="ウィーン(2002)85">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.85</ref><ref name="石浜(1931)105">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.105</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)88">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.88</ref>。

スイスにあった出版社は赤字で倒産し、『独仏年誌』は創刊号だけで廃刊せざるをえなくなった<ref name="シュワルツシルト(1950)88"/><ref name="廣松(2008)206">[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.206</ref><ref name="小牧(1966)121">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.121</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.104-105</ref>。マルクスはルーゲが金の出し惜しみをしたせいで廃刊になったと考え、ルーゲを批判した<ref name="シュワルツシルト(1950)89">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.89</ref>。そのため二人の関係は急速に悪化し、ルーゲはマルクスを「恥知らずのユダヤ人」、マルクスはルーゲを「山師」と侮辱しあうようになった。二人はこれをもって絶縁した。後にマルクスもルーゲもロンドンで30年暮らすことになるが、その間も完全に没交渉だった<ref name="カー(1956)47">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.47</ref>。

<!--これは必要な記述ですか? それに初めて無心したと書いていますが、父にも無心してますし、寄生生活という言葉は穏当な表現ではないですね。/ 『独仏年誌』の仕事を失って収入を無くしたマルクスは『ライン新聞』以来の彼の崇拝者であるゲオルク・ユング(Georg Jung)、岳母ヴェストファーレン未亡人、母の甥にあたるミーンヘール・フィリップスなどから金の無心をして生計を立てるようになった。これがマルクスの金の無心の最初であり、以降こうした寄生生活が常態化していくことになる<ref name="シュワルツシルト(1950)90">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.90</ref>。-->
{{-}}

==== そして共産主義へ ====
[[File:Friedrich Engels-1840-cropped.jpg|180px|thumb|[[フリードリヒ・エンゲルス]](1840年頃)。<br/><small>1844年に『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』を共著してから親しくなり、以降生涯を通じて最も近しいパートナーとなった。</small>]]
マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた{{sfn|佐々木|2016|p=62}}<ref name="小牧(1966)122">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.127-129</ref>。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化する[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]、[[ジャン=バティスト・セイ|セイ]]などの国民経済学([[古典派経済学]])を批判した<ref name="城塚(1970)128">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.128</ref>。

これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、[[ジェームズ・ミル]]等の国民経済学者の本、また[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]、[[シャルル・フーリエ|フーリエ]]、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]等の社会主義者の本を読み漁った<ref name="小牧(1966)122"/>。この時の勉強のノートや草稿の一部を[[ソビエト連邦|ソ連]]のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『[[経済学・哲学草稿]]』である<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.123-124</ref><ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.129-130</ref>。その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する<ref name="城塚(1970)131">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.131</ref>。またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハの用法そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになった<ref>[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.136-138</ref><ref name="小牧(1966)124">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.124</ref>。「生産的労働を行って、人間の類的本質<!--括弧内はマルクスの言葉ですか?/(社会的共存)-->を達成することが人間の本来的あり方<!--(自己実現)-->」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.124-125</ref><ref name="城塚(1970)139">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.139</ref>。またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を'''[[共産主義]]'''と定義するようになった<ref name="城塚(1970)144">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.144</ref>。

1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.122-123</ref><ref name="石浜(1931)117">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.117</ref>。この著作はバウアー派を批判したもので{{sfn|佐々木|2016|pp=62-63}}<!--関係が悪くなっていたから批判したのではなく、マルクスとエンゲルスが経済学的見地で社会をとらえる見方で合意したから批判したんですよね。-->、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した[[唯物弁証法|新しい弁証法]]を確立せねばならない」と訴えた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.129-132</ref>。

また1844年7月にルーゲが『{{仮リンク|フォールヴェルツ|de|Vorwärts (Wochenblatt)}}』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した{{sfn|佐々木|2016|p=52}}<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.106-108</ref><ref name="ウィーン(2002)87">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.87</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)106">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.106</ref>。マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した<ref name="カー(1956)58-59">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.58-59</ref>。

しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけており、ついに1845年1月、[[外務大臣 (フランス)|フランス外務大臣]][[フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー|フランソワ・ギゾー]]は、[[内務省 (フランス)|内務省]]を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした<ref name="カー(1956)58-59"/><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.108-109</ref><ref name="ウィーン(2002)112">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.112</ref><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.121-122/135</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)118">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.118</ref>。

こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.93/109</ref>。
{{-}}

=== ブリュッセル在住時代 ===
マルクス一家は[[1845年]]2月にパリを離れ、ベルギー王都[[ブリュッセル]]に移住した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.135-136</ref><ref name="石浜(1931)109">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.109</ref>。ベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した<ref name="ウィーン(2002)112"/><ref name="シュワルツシルト(1950)120">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.120</ref>。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた<ref name="ウィーン(2007)">[[#ウィーン(2007)|ウィーン(2007)]]</ref>。またプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで[[無国籍]]者であった<ref name="石浜(1931)124">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.124</ref>。

ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人[[フェルディナント・フライリヒラート]]、元プロイセン軍将校のジャーナリストである{{仮リンク|ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー|de|Joseph Weydemeyer}}、学校教師の{{仮リンク|ヴィルヘルム・ヴォルフ|de|Wilhelm Wolff (Publizist)}}、マルクスの義弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|de|Edgar von Westphalen}}などがブリュッセルを往来した<ref name="石浜(1931)130">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.130</ref>。1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた<ref name="小牧(1966)136">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.136</ref>。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる<ref name="石浜(1931)122-123">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.122-123</ref>。

==== 唯物史観と剰余価値理論の確立 ====
1845年夏からエンゲルスとともに『[[ドイツ・イデオロギー]]』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった<ref name="小牧(1966)137">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.137</ref><ref name="ウィーン(2002)115-116">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.115-116</ref><ref name="石浜(1931)125">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.125</ref>。この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスや[[カール・グリューン]]ら「真正社会主義者」{{#tag:ref|ブリュッセル時代にも[[モーゼス・ヘス]]とマルクス・エンゲルスはしばしば共同で研究をしていたが、ヘスは哲学的観点が抜けきれず、階級闘争など過激な路線を嫌い、階級間を和合させようとしたため、マルクスたちから「真正社会主義者」という批判を受けた<ref name="石浜(1931)137">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.137</ref>。|group=注釈}}に批判を加えている<ref name="石浜(1931)129-130">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.129-130</ref><ref name="小牧(1966)138">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.138</ref>。マルクスは同じころに書いたメモ『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき[[唯物史観]]を萌芽させた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.138-139</ref>。

さらに1847年には『[[哲学の貧困]]』を著した。これはプルードンの著作『貧困の哲学([[フランス語|仏]]:Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère)』を階級闘争の革命を目指さず、[[漸進主義]]ですませようとしている物として批判したものである<ref name="石浜(1931)144">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.144</ref>。この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、[[剰余価値]]理論を萌芽させた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.141-142</ref>。また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する<ref name="小牧(1966)142">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.142</ref>。そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする[[小ブルジョア]]に過ぎない」と結論している<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.142-143</ref>。

1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『{{仮リンク|賃金労働と資本|de|Lohnarbeit und Kapital}}』としてまとめられるものである。その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。「賃金とは労働力という商品の価格である。本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」<ref name="小牧(1966)144">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.144</ref>、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。労働力の生産費、つまり生活費で決まる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.145-146</ref>、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.146-147</ref>。

==== 共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』 ====
[[File:Communist-manifesto.png|180px|thumb|[[共産主義者同盟]]の綱領として書かれた革命実践の小冊子『[[共産党宣言]]』]]
パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった<ref name="小牧(1966)153">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.153</ref>。

1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|de|Edgar von Westphalen}}、[[フェルディナント・フライリヒラート]]、{{仮リンク|ヨーゼフ・ヴァイデマイヤー|de|Joseph Weydemeyer}}、[[ヴィルヘルム・ヴァイトリング]]、{{仮リンク|ヘルマン・クリーゲ|de|Hermann Kriege}}、{{仮リンク|エルンスト・ドロンケ|de|Ernst Dronke (Schriftsteller)}}らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「[[正義者同盟]]」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="石浜(1931)146">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.146</ref><ref name="小牧(1966)154">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.154</ref><ref name="ウィーン(2002)127">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.127</ref>。しかしマルクスの組織運営は独裁的と批判される。創設してすぐにヴァイトリングとクリーゲを批判して除名する。そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任した。マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになる<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.127-131</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)147-158">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.147-158</ref>。その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが、「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="ウィーン(2002)132">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.132</ref>。

新たな参加者が現れず、停滞気味の中の[[1847年]]1月、ロンドン正義者同盟の{{仮リンク|マクシミリアン・ヨーゼフ・モル|de|Maximilien Joseph Moll}}がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会<!--必要な記述ですか?/(マルクスは路銀が用意できず、エンゲルスが代わりに出席)-->で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「[[共産主義者同盟 (1847年)]]」を結成することを正式に決議した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.146-150</ref><ref name="小牧(1966)155">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.155</ref>。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された<ref name="ウィーン(2002)138">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.138</ref>。

合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった<ref name="ウィーン(2002)138"/>。11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『[[共産党宣言]]』を完成させた{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.153-154</ref><ref name="小牧(1966)156">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.156</ref>。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった<ref name="ウィーン(2002)145">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.145</ref>。

この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.157-162</ref><ref name="石浜(1931)155">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.155</ref>。さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」を批判する{{#tag:ref|たとえば貴族や聖職者がブルジョワへの復讐で提唱する「封建主義的社会主義・キリスト教的社会主義」、ブルジョワの一部が自分の支配権を延命させるべく主張する「ブルジョワ社会主義」、大工業化で零落した小ブルジョワによる[[ギルド]]的な「小ブルジョワ社会主義」、哲学者が思弁的哲学の中だけで作っている「真正社会主義」、プロレタリアート革命なしで階級対立と搾取の無い世界を実現できるかのように語る「[[空想的社会主義]]」などである<ref name="石浜(1931)155"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.163-165</ref>。|group=注釈}}。そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている<ref name="小牧(1966)166">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.166</ref>。そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。

{{Quotation|共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国のプロレタリアよ、団結せよ]]<ref name="カー(1956)79">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.79</ref>。}}

=== 1848年革命をめぐって ===
[[File:Europe_1848_map_en.png|280px|thumb|[[1848年革命]]のヨーロッパ。]]{{See also|1848年革命}}
1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都[[パリ]]で[[1848年]]2月22日に暴動が発生し、24日に[[フランス王]][[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]が王位を追われて[[フランス第二共和政|共和政]]政府が樹立される事件が発生した([[1848年のフランス革命|2月革命]]){{#tag:ref|ルイ・フィリップ王は1830年の[[フランス7月革命|7月革命]]で[[復古王政]]が打倒された後、ブルジョワに支えられて王位に就き、多くの自由主義改革を行った人物である。しかしその治世中、労働者階級が台頭するようになり、労働運動が激化した。1839年に社会主義者[[ルイ・オーギュスト・ブランキ]]の一揆が発生したことがきっかけで保守化を強め、ギゾーを中心とした専制政治を行うようになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.157-158</ref>。1847年の恐慌で失業者数が増大、社会的混乱が増して革命前夜の空気が漂い始めた。そして1848年2月22日、パリで選挙法改正運動が政府に弾圧されたのがきっかけで暴動が発生<ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>。23日にはギゾーが首相を辞し、24日にはルイ・フィリップ王は国外へ逃れる事態となったのである<ref name="石浜(1931)160">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.160</ref><ref name="ウィーン(2002)151">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.151</ref>。|group=注釈}}<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.158-160</ref><ref name="小牧(1966)168">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.168</ref>。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及し、近代ヨーロッパの転換点となった<ref>{{Cite web|和書|title=1848年革命とは|url=https://kotobank.jp/word/1848%E5%B9%B4%E9%9D%A9%E5%91%BD-847643|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。

{{仮リンク|ドイツ連邦議会 (ドイツ連邦)|label=ドイツ連邦議会|de|Bundestag (Deutscher Bund)}}議長国である[[オーストリア帝国]]の帝都[[ウィーン]]では3月13日に学生や市民らの運動により宰相[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ]]が辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝[[フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)|フェルディナント1世]]も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下の[[ハンガリー]]や[[ボヘミア]]、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国の[[イタリア統一運動]]も刺激された<ref name="石浜(1931)162">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162</ref>。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、{{仮リンク|プロイセン国民議会|de|Preußische Nationalversammlung}}の創設、[[ドイツ統一]]運動に承諾を与えた<ref name="石浜(1931)163">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.163</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)257-258">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.257-258</ref>。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.162-163</ref>。そして自由都市[[フランクフルト・アム・マイン]]にドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会([[フランクフルト国民議会]])が設置されるに至った{{Efn|こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。}}<ref name="小牧(1966)169">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.169</ref>。

==== ベルギー警察に逮捕される ====
マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていた{{仮リンク|フェルディナン・フロコン|fr|Ferdinand Flocon}}から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた<ref name="石浜(1931)166">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.166</ref><ref name="カー(1956)83">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.83</ref><ref name="メーリング(1974,1)266">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.266</ref>。マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した<ref name="カー(1956)83"/><ref name="ウィーン(2002)153">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.153</ref>。

その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた<ref name="ウィーン(2002)152">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.152</ref>。いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="小牧(1966)170">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.170</ref>。町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという<ref name="ウィーン(2002)153"/>。同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された<ref name="ウィーン(2002)154">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.154</ref>。

マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察を批判する意見もあるが、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。そのため短剣やピストルをかき集めていました。カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。マルクスは逮捕されなければならなかったのです。」と証言している<ref name="ウィーン(2002)154"/>。

3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。列車はフランス北部の町[[ヴァランシエンヌ]]で停まり、マルクス一家はそこから[[乗合馬車]]でパリに向かった<ref name="ウィーン(2002)154"/>。
{{-}}

==== 共産主義者同盟をパリに移す ====
[[File:PontdArcole1848 v2.jpg|250px|thumb|1848年の[[パリ]]]]
3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、[[カール・シャッパー]]、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.170-171</ref><ref name="メーリング(1974,1)267">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.267</ref>。議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを決議して組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した<ref name="ウィーン(2002)155">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.155</ref>。

3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている{{#tag:ref|たとえば『共産党宣言』では「あらゆる相続権の廃止」「全ての土地の国有化」となっていたのを、『ドイツにおける共産党の要求』では「相続権の縮小」「封建主義的領地の国有化」としている。また国立銀行の創設の要求について「国立銀行が貨幣を硬貨と交換するようになれば、万国の両替手数料は安くなり、外国貿易に金銀が使用可能となる」とブルジョワ目線で説明を付けている<ref name="ReferenceA">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156-157</ref>。|group=注釈}}<ref name="ReferenceA">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156-157</ref>。

マルクスは革命のために必要なのは詩人や教授の部隊ではなく、プロパガンダと扇動だと考えていた<ref name="ウィーン(2002)156">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.156</ref>。しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、[[ゲオルク・ヘルヴェーク]]と{{仮リンク|アデルベルト・フォン・ボルンシュテット|de|Adelbert von Bornstedt}}の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。フランス臨時政府も物騒な外国人労働者たちをまとめて追い出すチャンスと見てこの計画を積極的に支援した。一方マルクスは「馬鹿げた計画はかえってドイツ革命を阻害する。在パリ・ドイツ人労働者をみすみす反動政府に引き渡しに行くようなものだ」としてこの計画に強く反対した<ref name="メーリング(1974,1)266"/><ref name="ウィーン(2002)156"/><ref name="石浜(1931)169">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.169</ref>。ヘルヴェークとボルンシュテットが「黒赤金同盟」を結成すると、マルクスはこれを自分の共産主義者同盟に対抗するものと看做し、ボルンシュテットを共産主義者同盟から除名した(ヘルヴェークはもともと共産主義者同盟のメンバーではなかった)<ref name="カー(1956)84">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.84</ref>。結局この二人は4月1日から数百人のドイツ人労働者軍団を率いてドイツ国境を越えて進軍するも、バーデン軍の反撃を受けてあっというまに武装解除されてしまう<ref name="ウィーン(2002)156"/><ref name="石浜(1931)169"/><ref name="カー(1956)86">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.86</ref>。

マルクスはこういう国外で労働者軍団を編成してドイツへ攻め込むというような冒険的計画には反対だったが、革命扇動工作員を個別にドイツ各地に送り込み、その地の革命を煽動させることには熱心だった<ref name="石浜(1931)171">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.171</ref>。マルクスの指示のもと、3月下旬から4月上旬にかけて共産主義者同盟のメンバーが次々とドイツ各地に工作員として送りこまれた<ref name="ウィーン(2002)157">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.157</ref>。フロコンの協力も得て最終的には300人から400人を送りこむことに成功した<ref name="石浜(1931)171"/>。エンゲルスは父や父の友人の資本家から革命資金を募ろうと[[ヴッパータール]]に向かった<ref name="ウィーン(2002)158">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.158</ref>。

==== ケルン移住と『新ライン新聞』発行 ====
[[File:Neue Rheinische Zeitung N.jpg|180px|thumb|『[[新ライン新聞]]』1848年6月19日号]]
マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方[[ケルン]]に入った<ref name="ウィーン(2002)158"/>。革命扇動を行うための新たな新聞の発行準備を開始したが、苦労したのは出資者を募ることだった。ヴッパータールへ資金集めにいったエンゲルスはほとんど成果を上げられずに戻ってきた<ref name="石浜(1931)173">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)268">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.268</ref>。結局マルクス自らが駆け回って4月中旬までには自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけることができた<ref name="カー(1956)86"/><ref name="石浜(1931)173"/>。ケルンの小規模実業家や専門職からの資金提供や、マルクスも相続金の一部を差し出し、13000ターラー集まった{{Sfn|スパーバー|2015a|p=285}}。

新たな新聞の名前は『[[新ライン新聞]]』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="カー(1956)86"/><ref name="ウィーン(2002)159">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.159</ref>。同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した<ref name="石浜(1931)173"/><ref name="ウィーン(2002)159"/>。マルクスの年俸は1500ターラーで、今までで最も恵まれた環境になった{{Sfn|スパーバー|2015a|p=287}}。

しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、{{仮リンク|ステファン・ボルン|de|Stephan Born}}からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された{{#tag:ref|マルクスの独裁ぶりを象徴するのがケルン労働者協会会長で共産主義者同盟にも所属していた{{仮リンク|アンドレアス・ゴットシャルク|de|Andreas Gottschalk}}をつまらないことで激しく糾弾したことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産主義者同盟から離脱してしまった。マルクスのゴットシャルク批判は方針の相違では説明を付け難い。フランシス・ウィーンは、「嫉妬がからんでいたということだけは言えるだろう」としている。ウィーンによれば、マルクスは自分の統括下にない組織や機関に批判的だったし、貧しい人たちへの医療活動で知られる医者のゴットシャルクは編集発行人のマルクスより多くの信奉者を得ていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.161-162</ref>。|group=注釈}}<ref name="ウィーン(2002)159"/>。

同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった{{sfn|佐々木|2016|pp=88-91}}<ref name="小牧(1966)172">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.172</ref><ref name="カー(1956)87">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.87</ref><ref name="石浜(1931)174">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.174</ref>。

プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見は退けた。またドイツ統一運動も支援し、フランクフルト国民議会にも参加していく方針を示した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.172-173</ref>。マルクスは国境・民族を越える人であり、民族主義者ではないが、ドイツの「政治的後進性」は小国家分裂状態によってもたらされていると見ていたのである<ref name="バーリン(1974)185">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.185</ref>。外交面ではポーランド人やイタリア人、ハンガリー人の民族運動を支持した。また「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った<ref name="メーリング(1974,1)275-276">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.275-276</ref>。

==== 革命の衰退 ====
[[File:Meissonier Barricade.jpg|180px|thumb|パリの[[6月蜂起]]でフランス軍に殲滅された蜂起労働者たちの死体を描いた絵画]]
しかし、革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及せず、[[4月10日]]にはイギリスで[[チャーティスト運動]]が抑え込まれた<ref name="エンゲルベルク(1996)279">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.279</ref>。[[6月23日]]にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも([[6月蜂起]])、[[ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック]]将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された<ref name="カー(1956)86"/><ref name="エンゲルベルク(1996)279"/>。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった<ref name="石浜(1931)174"/><ref name="エンゲルベルク(1996)278">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.278</ref>。[[ヨーゼフ・フォン・ラデツキー]][[元帥 (ドイツ)|元帥]]率いる[[オーストリア軍]]が[[ロンバルディア]](北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した<ref name="エンゲルベルク(1996)280">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.280</ref>。プロイセンでは革命以来[[ルドルフ・カンプハウゼン]]や{{仮リンク|ダーヴィト・ハンゼマン|de|David Hansemann}}の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.271-272</ref>。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった<ref name="カー(1956)87"/>。

革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した<ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.272-273/290</ref>。

マルクスの『新ライン新聞』に対する風当たりは強まっていき、[[7月7日]]には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入り、起訴された<ref name="ウィーン(2002)164">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.164</ref>。だがマルクスは立場を変えようとしなかったので、[[9月25日]]にケルンに戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令を受けた。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃げ出していた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.164-166</ref>。

10月12日に戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワが逃げてしまったので、マルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。

しかし革命派の戦況はまずます絶望的になりつつあった。[[10月16日]]にオーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までに[[アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツ|ヴィンディシュ=グレーツ伯爵]]率いるオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーンに滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員{{仮リンク|ローベルト・ブルム|de|Robert Blum}}が見せしめの即決裁判で処刑された<ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.299-300</ref>。プロイセンでも[[11月1日]]に保守派の[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク]]伯爵が宰相に就任し、[[11月10日]]には[[フリードリヒ・フォン・ヴランゲル]]元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会も停会させた<ref name="エンゲルベルク(1996)301">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.301</ref>。
{{-}}
==== 武装闘争とプロイセンからの追放 ====
[[File:NGR RED.jpg|180px|thumb|1849年5月18日に赤刷りで出した『新ライン新聞』最終号]]
プロイセン国民議会は停会する直前に納税拒否を決議した<ref name="エンゲルベルク(1996)303">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.303</ref><ref name="石浜(1931)179">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.179</ref>。マルクスはこの納税拒否の決議をあくまで推進しようと、11月18日に「民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず、(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」という宣言を出した<ref name="ウィーン(2002)173">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.173</ref><ref name="メーリング(1974,1)305">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.305</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.179-180</ref>。

[[フェルディナント・ラッサール]]が[[デュッセルドルフ]]でこれに呼応するも、彼は[[11月22日]]に反逆容疑で逮捕された<ref name="メーリング(1974,1)306">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.306</ref>。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、[[1849年]][[2月8日]]に[[陪審制]]の裁判にかけられた<ref name="メーリング(1974,1)306"/>。マルクスは「暴動を示唆」したことを認めていたが、陪審員には反政府派が多かったため、「国民議会の決議を守るために武装組織の編成を呼び掛けただけであり、合憲である」として全員一致でマルクスを無罪とした<ref name="ウィーン(2002)173"/>。

この無罪判決のおかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まった。[[3月2日]]には軍人がマルクスの事務所にやってきて[[サーベル]]を抜いて脅迫してきたが、マルクスは拳銃を見せて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、[[ジャコバン派]]の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている<ref name="ウィーン(2002)174-175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.174-175</ref>。

5月にフランクフルト国民議会の決議した[[パウロ教会憲法|ドイツ帝国憲法]]とドイツ帝冠をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起した。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領[[プファルツ]]地方で発生した武装蜂起は拡大した。亡命を余儀なくされたバーデン大公はプロイセン軍に鎮圧を要請し、これを受けてプロイセン[[皇太弟]][[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]](後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動した<ref name="石浜(1931)182">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.182</ref><ref name="エンゲルベルク(1996)320">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.320</ref>。

革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた<ref name="ウィーン(2002)175">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.175</ref>。これがきっかけで5月16日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされた。マルクスは5月18日の『新ライン新聞』最終号を[[赤]]刷りで出版し、「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった<ref name="ウィーン(2002)175"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.174-175</ref><ref name="メーリング(1974,1)317">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.317</ref>。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなった<ref name="ウィーン(2002)175"/><ref name="メーリング(1974,1)317"/>。

パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地である[[カイザースラウテルン]]に向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党」代表を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなく[[フランクフルト・アム・マイン]]で釈放された<ref name="メーリング(1974,1)318">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.318</ref>。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた<ref name="メーリング(1974,1)318"/><ref name="小牧(1966)176">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.176</ref><ref name="ウィーン(2002)176">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176</ref>。
{{-}}
==== フランスを経てイギリスへ ====
6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して[[偽造パスポート]]でフランスに入国。パリの{{仮リンク|リール通り|fr|Rue de Lille (Paris)}}に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した<ref name="ReferenceB">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.176-177</ref>。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた<ref name="メーリング(1974,1)319">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.319</ref>。

この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝[[ナポレオン3世]])が大統領を務めていた<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.63-68</ref>。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の[[秩序党]]の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対[[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]]戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、[[6月13日]]に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)<ref name="ReferenceB"/><ref name="鹿島(2004)79">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.79</ref>。

この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官から[[モルビアン県]]へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここは{{仮リンク|ポンティノ湿地|fr|Marais pontins}}の影響で[[マラリア]]が流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた<ref name="ウィーン(2002)177">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177</ref>。

ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国は[[イギリス]]以外にはなかった<ref name="ウィーン(2002)177"/>。

=== ロンドン在住時代 ===
==== ディーン通りで赤貧生活 ====
[[File:Commemorative plaque "Karl Marx (1818-1883) lived here 1851-56". Dean Street 28, London.jpg|180px|thumb|マルクスが暮らしていた{{仮リンク|ディーン通り|en|Dean Street}}28番地の住居。マルクスの[[ブルー・プラーク]]が入っている。]]
ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると<ref name="バーリン(1974)190">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.190</ref>、1849年8月27日に<!--シャルル・マルクスは偽名ではなく、カール・マルクスをフランス語で書いたもの/「シャルル・マルクス博士」という偽名で-->船に乗り、イギリスに入国した<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.177-179</ref>。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという<ref name="バーリン(1974)191">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.191</ref>。

イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンで{{仮リンク|キャンバーウェル|en|Camberwell}}にある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.121-122</ref>。

これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だった[[ソーホー (ロンドン)|ソーホー]]・{{仮リンク|ディーン通り|en|Dean Street}}28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた<ref name="カー(1956)123">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123</ref><ref name="石浜(1931)206">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.206</ref><ref name="ウィーン(2002)199">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.199</ref>。

プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという<ref name="バーリン(1974)205">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.205</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)265">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.265</ref>。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した{{sfn|佐々木|2016|pp=91-94}}<ref name="カー(1956)127">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.127</ref>。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった<ref name="小牧(1966)180">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.180</ref><ref name="ウィーン(2002)212">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.212</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)267">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.267</ref>。

それでもマルクスは毎日のように[[大英博物館]]図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた{{sfn|佐々木|2016|pp=91-94}}<ref name="バーリン(1974)206">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206</ref>。のみならず<!--ウィーンによればピーパーの業務は口述筆記と翻訳/勉強のための-->秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった<ref name="ウィーン(2002)215">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.215</ref>。また、[[レイ・ランケスター]]といった博物館関係者とも親交を得た。

生計は[[フリードリヒ・エンゲルス]]からの定期的な仕送り{{#tag:ref|エンゲルスはロンドンに来た後、ロンドンの新聞社に務めることを夢見ていたが、その夢は叶わず、他の自活の手段も見つけられなかったので父親と和解し、1850年12月からマンチェスターにある父の共同所有する会社で勤務するようになった<ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。とはいえこの頃エンゲルスの給料も年100ポンドを超えることはなかったと見られており、また父の代わりにマンチェスターの大世帯をやり繰りしなければならなかったのでマルクスにやれる金にも限度があった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206-207</ref>。|group=注釈}}、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)への不定期な金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカ合衆国の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親にさえ金を無心している(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.123/128</ref>。

しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった<ref name="ウィーン(2002)215"/>。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという<ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという<ref name="カー(1956)123"/><ref name="バーリン(1974)204">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.204</ref>。<!--バーリンがこうした評価を下したのは事実ですが、バーリンの評価は中立的な観点ではないし、カーやウィーンといった他のマルクス研究者の一般的な評価でもありません。/
こうした惨めな赤貧生活は、「自分は命令的地位につく資格がある」と思い込んでいたマルクスのプライドをズタズタにし、彼の憎悪と憤怒の感情を高めることにつながったという<ref name="バーリン(1974)206">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.206</ref>。-->
{{-}}

==== 自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動 ====
[[File:Nytrib1864.jpg|250px|thumb|1864年の『[[ニューヨーク・トリビューン]]』]]
エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた<ref name="ウィーン(2002)178">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.178</ref><ref name="メーリング(1974,2)7">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.7</ref>。これに応じてエンゲルスも[[11月12日]]にはロンドンへやってきた<ref name="ウィーン(2002)183">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.183</ref>。

エンゲルスや{{仮リンク|コンラート・シュラム|de|Conrad Schramm}}の協力を得て新しい雑誌の創刊準備を進め、1850年1月から[[ドイツ連邦]][[自由都市]][[ハンブルク]]で月刊誌『{{仮リンク|新ライン新聞 政治経済評論|de|Neue Rheinische Zeitung. Politisch-ökonomische Revue}}』を出版した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.187-188</ref><ref name="小牧(1966)177">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177</ref><ref name="カー(1956)122">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.122</ref><ref name="ウィーン(2002)187">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.187</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.7-8</ref>。同誌の執筆者はマルクスとエンゲルスだけだった。マルクスは『1848年6月の敗北』と題した論文を数回にわたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるものである<ref name="小牧(1966)177"/>。この中でマルクスはフランス2月革命の経緯を唯物史観に基づいて解説し、1848年革命のそもそもの背景は1847年の不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌が収まり始めたことで反動勢力の反転攻勢がはじまったことを指摘した<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.189-190</ref>。結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号と11月の5号6号合併号のみで廃刊した<ref name="カー(1956)122"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.177-178</ref>。

ついで1851年秋から[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク]]で発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『[[ニューヨーク・トリビューン]]』のロンドン通信員となった<ref name="ウィーン(2002)215"/>。マルクスはこの新聞社の編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年にケルンで知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった<ref name="バーリン(1974)209">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.209</ref>。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降に減らされるものの、借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった<ref name="ウィーン(2002)215"/><ref name="バーリン(1974)210">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.210</ref>。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである<ref name="石浜(1931)211">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.211</ref>。

マルクスが寄稿した記事はアメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判も良かったという。アメリカの[[黒人]][[奴隷]]制を批判した{{仮リンク|ハリエッタ・サザーランド=ルーソン=ゴア (サザーランド公爵夫人)|label=サザーランド公爵夫人|en|Harriet Sutherland-Leveson-Gower, Duchess of Sutherland}}に対して「[[サザーランド公爵|サザーランド公爵家]]も[[スコットランド]]の領地で住民から土地を奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判を加えたこともある<ref name="バーリン(1974)217">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.217</ref>。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年にアメリカで[[南北戦争]]が勃発したことで解雇された(マルクスに限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)<ref name="カー(1956)186">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.186</ref>。

==== 共産主義者同盟の再建と挫折 ====
[[1849年]]秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命してきていた。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりの[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だった{{仮リンク|アウグスト・ヴィリヒ|de|August Willich}}などもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となった。彼らを糾合して1850年3月に共産主義同盟を再結成した<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.22-24</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.190-191</ref><ref name="カー(1956)144">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.144</ref>。

再結成当初は、近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り、封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対するとし、ブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始した(バウアーはその後オーストリアで行方不明となる)<ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.24-25</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.191-192</ref>。

しかし[[1850年]]夏には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした[[小ドイツ主義]]統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された([[オルミュッツ協定|オルミュッツの屈辱]])<ref name="メーリング(1974,2)27">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.27</ref><ref>[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.343-344</ref>。

こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり<ref name="石浜(1931)195">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.195</ref>、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えた<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.144-145</ref>。だが共産主義者同盟のメンバーには即時行動を求める者が多かった。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.195-196</ref><ref name="カー(1956)145">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.145</ref>。

1850年[[9月15日]]の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクスは共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定した。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである<ref name="カー(1956)146">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.146</ref>。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃彼がエンゲルスに宛てて送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色になっている<ref name="カー(1956)147">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147</ref>。

共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。[[1851年]]5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.147-149</ref><ref name="小牧(1966)178">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.178</ref>。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(イェニーの兄)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝した<ref name="シュワルツシルト(1950)271">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.271</ref>。これに対抗してマルクスは11人が無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。そもそも暴動を教唆する文書を出したのは事実だったから、それを無害なものと立証するのは不可能に近かった。結局[[1852年]]10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)<ref name="カー(1956)151">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.151</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.207-209</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)273">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.273</ref>。

これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年[[11月17日]]に正式に解散を決議した<ref name="小牧(1966)178"/>。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる<ref name="カー(1956)151"/>。1853年10月にマルクスはエンゲルスに「どんな党とも関係をもたない」と宣言し、以降、マルクスは政治活動との共闘を放棄した{{Sfn|スパーバー|2015b|p=8}}。

==== ナポレオン3世との闘争 ====
[[File:Napoleon-III1.jpg|180px|thumb|マルクスが厳しく批判した[[フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]]]
一方フランスでは[[1851年]]12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対するクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる[[1852年憲法|新憲法]]を制定して独裁体制を樹立した<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.118-139</ref>。さらに同年12月には皇帝に即位し、[[ナポレオン3世]]と称するようになった<ref name="鹿島(2004)79"/>。

マルクスは彼のクーデタを考察した『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』を執筆し、これをアメリカの週刊新聞『レヴォルツィオーン』に寄稿した{{sfn|佐々木|2016|p=91}}<ref name="カー(1956)152">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.152</ref><ref name="ウィーン(2002)225">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.225</ref>。この論文は「ヘーゲルはどこかで言った。歴史上のあらゆる偉大な事実と人物は二度現れると。彼はこう付け加えるのを忘れた。最初は悲劇として、二度目は茶番として」という有名な冒頭で始まり<ref name="カー(1956)152"/>、ナポレオン3世に激しい弾劾を加えつつ、このクーデタの原因を個人の冒険的行動や抽象的な歴史的発展に求める考えを退けて、フランスの階級闘争が何故こうした凡庸な人物を権力の座に就けるに至ったかを分析する<ref name="カー(1956)152"/>。

ナポレオン3世は[[東方問題]]をめぐってロシア帝国と対立を深め、イギリス首相[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]と連携して[[1854年]]から[[クリミア戦争]]を開始した。マルクスはロシアの[[ツァーリズム]]に対するこの戦争を歓迎した<ref name="メーリング(1974,2)80-81">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.80-81</ref>。ところが、自分が特派員になっている『ニューヨーク・トリビューン』は反英・親露的立場をとり、マルクスを困惑させた。マルクスとしては家計的にここと手を切るわけにはいかないのだが、エンゲルスへの手紙の中では「同紙が汎スラブ主義反対の声明を出すことが是非とも必要だ。でなければ僕らはこの新聞と決別するしかなくなるかもしれない」とまで書いている<ref name="カー(1956)184">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.184</ref>。

一方でマルクスは英仏にも疑惑の目を向けていた。「偽ボナパルトとパーマストン卿がやっている以上この戦争は偽善であり、ロシアを本気で倒すつもりなどないことは明らか」というのがマルクスの考えだった。マルクスはナポレオン3世もパーマストン子爵も[[ツァーリ]](ロシア皇帝)と秘密協定を結んでいると思いこんでいた<!--この注釈をとりあえずコメントアウト。ウィーンの伝記には、マルクスが、アーカートと共通するのはパーマストンに関する見解だけで、そのほかの点ではすべて相反していると手紙に書いていることが記述されている。「アーカートから金を引き出した」とあるが、これはマルクス憎さのあまりバーリンがわざと誤解をまねくような書き方をしただけで、マルクスは「じつにしつこい」アーカートの信奉者の依頼に負けて新聞に記事を書き、原稿料をもらっただけである。「経済的にはありがたいことだが、しかし、彼らと政治的に深い関わりをもつべきなのかどうか、そこのところが私にはまだわからない」(ウィーン、250頁)。{{#tag:ref|[[ナポレオン3世]]はともかく、ロシアに一切容赦がない[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|パーマストン子爵]]を「ロシアの犬」とするマルクスの言説は実に奇妙なものだった。そればかりかマルクスは「[[ピョートル大帝]]の時代にロシアとイギリスは秘密協定を結んでおり、以降150年にわたって共謀関係にある。今回ロシアと戦争をしたのはその共謀関係を隠すための偽装工作なのだ」というロシア[[陰謀論]]的主張までするようになった。マルクスのこうした胡散臭い主張はロシア陰謀論者の[[庶民院]]議員{{仮リンク|デヴィッド・アーカート|en|David Urquhart}}の影響だったようである<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.248-249</ref><ref name="バーリン(1974)215">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.215</ref>。アーカートは別に社会主義者でも何でもなくただの変人だったが、マルクスと彼の奇妙な友情は彼が死ぬまで続いた。またマルクスは彼からだいぶ金を引き出したようである<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.215-216</ref>。|group=注釈}}。-->それは極端な意見だったが、実際クリミア戦争は[[クリミア半島]][[セヴァストポリ包囲戦 (1854年-1855年)|セヴァストポリ要塞]]を陥落させたところで中途半端に終わった<ref name="メーリング(1974,2)80-81"/>。

ナポレオン3世は[[1859年]]に[[サルデーニャ王国]]宰相[[カミッロ・カヴール]]と連携して[[ロンバルド=ヴェネト王国|北イタリア]]を支配するオーストリア帝国に対する戦争を開始した([[イタリア統一戦争]])。この戦争は思想の左右を問わずドイツ人を困惑させた。言ってみれば「フランス国内で自由を圧殺する専制君主ナポレオン3世がイタリア国民の自由を圧殺する専制君主国オーストリアに闘いを挑んだ」状態だからである。結局[[大ドイツ主義]]者(オーストリア中心のドイツ統一志向)がオーストリアと連携してポー川(北イタリア)を守るべしと主張し、[[小ドイツ主義]]者(オーストリアをドイツから排除してプロイセン中心のドイツ統一志向)はオーストリアの敗北を望むようになった<ref name="カー(1956)207">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.207</ref>。

この戦争をめぐってエンゲルスは小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でプロイセンのドゥンカー書店から出版した<ref name="メーリング(1974,2)126">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.224-225</ref>。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアが[[ポー川]](北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標は[[ライン川]](西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るために軍事上重要なポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した<ref name="メーリング(1974,2)126-128">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.126-128</ref>。

マルクスが警戒したのはナポレオン3世の帝政がこの戦争を利用して延命することとフランスとロシアの連携がドイツ統一に脅威を及ぼしてくることだった<ref name="メーリング(1974,2)133">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.133</ref>。そのためマルクスはプロイセンがオーストリア側で参戦しようとしないことに憤り、「中立を主張するプロイセンの政治家どもは、ライン川左岸のフランスへの割譲を許した[[バーゼルの和約]]に歓声を送り、また[[ウルムの戦い]]や[[アウステルリッツの戦い]]でオーストリアが敗れた時に両手をこすり合わせていた連中である」と批判した<ref name="メーリング(1974,2)134">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.134</ref>。また「オーストリアは全ドイツの敵であり、プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張する{{仮リンク|カール・フォークト|de|Carl Vogt}}を「ナポレオン3世から金をもらっている」と批判した<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.110-111</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.209-210</ref>。

しかしナポレオン3世を批判するあまり、イタリア統一運動を妨害し、[[ハプスブルク家]]による民族主義蹂躙を支持しているかのように見えるマルクスたちの態度にはラッサールも疑問を感じた。彼は独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』という小冊子を執筆し、プロイセンは今度の戦争に参戦すべきではなく、ナポレオン3世が民族自決に基づいて南方の地図を塗り替えるならプロイセンは北方の[[シュレースヴィヒ]]と[[ホルシュタイン]]に対して同じことをすればよいと訴えた。マルクスはこれに激怒し、ラッサールに不信感を抱くようになった<ref name="江上(1972)107-108">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.107-108</ref>。<!-- この論争について[[フランツ・メーリング]]は「ラッサールはロシアの危険性を軽視し過ぎだったし、一方マルクスとエンゲルスはロシアの侵略性を過大評価しすぎた」としている。 -->

==== グラフトン・テラスへ引っ越し ====
[[File:Marx3.jpg|180px|thumb|1861年のマルクス]]
1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去した。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった<ref name="ウィーン(2002)266">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)268">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.268</ref>。

マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部{{仮リンク|ベルサイズ・パーク|en|Belsize Park}}グラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した<ref name="ウィーン(2002)266"/>。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.266-270</ref>。

引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ<ref name="バーリン(1974)240">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.240</ref>、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである<ref name="ウィーン(2002)271">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.271</ref>。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.232-233</ref>。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.269-270</ref>。

終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している<ref name="シュワルツシルト(1950)269">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.269</ref>。

特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化、マルクスも鉄道の[[出札]]係に応募したがひどい[[悪筆]]のため断られ生活苦は続いた<ref name="バーリン(1974)240"/>。
{{-}}

==== 『経済学批判』と『資本論』 ====
[[File:Zentralbibliothek Zürich Das Kapital Marx 1867.jpg|180px|thumb|『[[資本論]]』初版のタイトルページ]]
マルクスの最初の本格的な経済学書である『[[経済学批判]]』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。[[1859年]]1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版した<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.185-187</ref>。『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが[[1866年]]11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『[[資本論]]』第1巻だった<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.188-189</ref>。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている<ref name="バーリン(1974)228">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.228</ref>。よってこの二つはまとめて解説する。マルクスは『資本論』の中で次の主旨のことを主張した。

「人間が生きていくためには生産する必要があり、それは昔から行われてきた。ある場所で生産された物が別の場所で生産された物と交換される。それが成り立つのは生産物双方の[[使用価値]](用途)が異なり、またその[[価値]](生産にかかっている人間の労働量)が同じだからだ。だが資本主義社会では生産物は商品にされ、特に貨幣によって仲介されることが多い。たとえ商品化されようと貨幣によって仲介されようと使用価値の異なる生産物が交換されている以上、人間の労働の交換が行われているという本質は変わらないが、その意識は希薄になってしまう。商品と化した生産物は物として見る人がほとんどであり、商品の取引は物と物の取引と見られるからである。人間の創造物である神が人間の外に追いやられて人間を支配したように、人間の創造物である商品や貨幣が人間の外に追いやられて人間を支配したのである。商品や貨幣が神となれば、それを生産した者ではなく、所有する者が神の力で支配するようになる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.196-199</ref>

「ブルジョワ市民社会の発展は労働者を生み出した。この労働者というのは労働力(自分の頭脳や肉体)の他には売れる物を何も所有していない人々のことである。労働者は自らの労働力を商品化し、資本家にそれを売って生活している。資本家は利益を上げるために購入した労働力という商品を、価値以上に使用して[[剰余価値]]を生み出させ、それを[[搾取]]しようとする(賃金額に相当する生産物以上の物を生産することを労働者に要求し、それを無償で手に入れようとする)。資本家が剰余価値を全部消費するなら単純再生産が行われるし、剰余価値の一部が資本に転換されれば、拡大再生産が行われる。拡大再生産が進むと機械化・オートメーション化により労働者人口が過剰になってくる。産業予備軍(失業者)が増え、産業予備軍は現役労働者に取って代わるべく現役労働者より悪い条件でも働こうとしだすので、現役労働者をも危機に陥れる。こうして労働者階級は働けば働くほど窮乏が進んでいく。」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.199-204</ref>

「商品は、[[不変資本]](機械や原料など生産手段に投下される資本)、[[可変資本]](労働力購入のために投下される資本)、剰余価値からなる。不変資本は新しい価値を生まないが、可変資本は自らの価値以上の剰余価値を生むことができる。この剰余価値が資本家の利潤を生みだす。ところが拡大再生産が進んで機械化・オートメーション化してくると不変資本がどんどん巨大化し、可変資本がどんどん下がる状態になるから、資本家にとっても剰余価値が減って[[利潤率]]が下がるという事態に直面する。投下資本を大きくすれば利潤の絶対量を上げ続けることはできる。だが利潤率の低下は生産力の更なる発展には妨げとなるため、資本主義生産様式の歴史的限界がここに生じる」<ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.203-206</ref>。

そして「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論する<ref name="小牧(1966)208">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.208</ref>。
{{-}}

==== プロイセン帰国騒動 ====
1861年1月、祖国プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が[[崩御]]し、[[皇太弟]]ヴィルヘルムが[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した<ref name="ウィーン(2002)296">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.296</ref>。これを受けてベルリン在住の友人[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]はマルクスに手紙を送り、プロイセンに帰国して市民権を回復し、『新ライン新聞』を再建してはどうかと勧めた<ref name="ウィーン(2002)296"/><ref name="江上(1972)132">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.132</ref>。マルクスは「ドイツの革命の波は我々の船を持ち上げるほど高まっていない」と思っていたものの、プロイセン市民権は回復したいと思っていたし、『ニューヨーク・トリビューン』の仕事を失ったばかりだったのでラッサールとラッサールの友人ハッツフェルト伯爵夫人{{仮リンク|ゾフィー・フォン・ハッツフェルト|label=ゾフィー|de|Sophie von Hatzfeldt}}が『新ライン新聞』再建のため資金援助をしてくれるという話には魅力を感じた<ref name="ウィーン(2002)296"/>。

マルクスはラッサールと伯爵夫人の援助で4月1日にもプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ところがラッサールと伯爵夫人は貴族の集まる社交界や国王臨席のオペラにマルクスを連れ回す貴族的歓待をしたため、贅沢や虚飾を嫌うマルクスは不快に感じた<ref name="ウィーン(2002)297">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297</ref>。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.297-298</ref>。

マルクスが帰国の準備を始めると、伯爵夫人は「仕事の都合が付き次第、ベルリンを離れるというのが私が貴方に示した友情に対するお答えなのでしょうか」とマルクスをたしなめた<ref name="ウィーン(2002)298">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.298</ref>。だがマルクスの方はラッサールやベルリンの人間の「虚栄的生活」にうんざりし、プロイセンに帰国する意思も『新ライン新聞』を再建する意思もすっかりなくしたようだった。とくにラッサールと数週間暮らしたことはマルクスとラッサールの関係に変化を与えた。マルクスはこれまでラッサールの政治的立場を支持してきたが、このプロイセン帰国でドイツの同志たちの「ラッサールは信用ならない」という評価を受け入れるようになった<ref name="ウィーン(2002)298"/>。

==== ラッサールとの亀裂 ====
[[File:Bundesarchiv Bild 183-J0827-500-002, Ferdinand Lassalle.jpg|180px|thumb|[[フェルディナント・ラッサール]]<br/><small>マルクスの友人の社会主義者だが、マルクスと違いヘーゲル左派の影響を残していたので国家に依存した。対資本家で封建主義者と共闘することも厭わなかった。</small>]]
1862年の夏、ラッサールが[[ロンドン万国博覧会 (1862年)|ロンドン万博]]で訪英するのをマルクスが歓迎することになった。先のベルリンで受けた饗応の返礼であったが、マルクス家には金銭的余裕はないから、このために色々と質に入れなければならなかった。しかしラッサールは、マルクス家の窮状に鈍感で浪費が激しかった。また彼は自慢話が多く、その中には誇大妄想的なものもあった。たとえばイタリアの[[マッツィーニ]]や[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]もプロイセン政府と同じく自分の動かしている「歩」に過ぎないと言いだして、マルクスやイェニーに笑われた。しかしラッサールの方は、マルクスは抽象的になりすぎて政治の現実が分からなくなっているのだとなおも食い下がった。イェニーはラッサールの訪問を面白がっていたようだが、マルクスの方はうんざりし、エンゲルスへの手紙の中でラッサールについて「去年あって以来、あの男は完全に狂ってしまった」「あの裏声で絶えまないおしゃべり、わざとらしく芝居がかった所作、あの教条的な口調!」と評した。帰国直前になってようやくマルクス家の窮状に気付いたラッサールはエンゲルスを保証人にして金を貸すが、数か月後、返済期限をめぐってエンゲルスから「署名入りの借用書」を求めてマルクスともめる。マルクスは謝罪の手紙をだしたが、ラッサールは返事をださず、二人の関係は絶えた<ref name="ウィーン(2002)301-303">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.301-303</ref>。

プロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党[[ドイツ進歩党]]が大議席を獲得していた<ref name="エンゲルベルク(1996)482-483">[[#エンゲルベルク(1996)|エンゲルベルク(1996)]] p.482-483</ref>。軍制改革問題をめぐって国王ヴィルヘルム1世は自由主義勢力に追い詰められ、いよいよブルジョワ革命かという情勢になった。

ところがラッサールは進歩党の「[[夜警国家]]」観や「エセ立憲主義」にしがみ付く態度を嫌い、[[1863年]]に進歩党と決別して[[全ドイツ労働者同盟]]を結成しはじめた<ref>[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.167-189</ref>。そしてヴィルヘルム1世が対自由主義者の最終兵器として宰相に登用した[[ユンカー]]の保守主義者[[オットー・フォン・ビスマルク]]と親しくするようになりはじめた。これはマルクスが『共産党宣言』以来言い続けてきた、封建制打倒まではプロレタリアはブルジョワ革命を支援しなければならないという路線への重大な逸脱だった。

不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のため[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]をベルリンに派遣した。リープクネヒトは全ドイツ労働者同盟に加入し、{{仮リンク|ユリウス・ファールタイヒ|de|Julius Vahlteich}}ら同盟内部の反ラッサール派と連絡を取り合い、彼らを「マルクス党」に取り込もうと図った<ref name="江上(1972)209">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.209</ref><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.245-246</ref>。また、マルクスはラッサールとともにビスマルクから国営新聞の編集に誘われた時もその反ビスマルク的姿勢から拒否してる<ref>[[アウグスト・ベーベル]]『ベーベル自叙伝』{{要ページ番号|date=yyyy年m月}}</ref>。

ところがラッサールは1864年8月末に恋愛問題に絡む決闘で命を落とした<ref name="江上(1972)261">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.261</ref>。ラッサールの死を聞いたエンゲルスは冷淡な反応を示したが、マルクスの方はラッサール不信にも関わらず、「古い仲間が次々と死に、新しい仲間は増えない」と語って随分と意気消沈した。そして伯爵夫人やラッサールの後継者{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}に彼の死を惜しむ弔辞を書いた{{#tag:ref|これについてマルクスの伝記を書いた[[E・H・カー]]は「マルクスはラッサールに腹を立てていた。彼を軽蔑したり、時には憎悪したこともあった。彼に対して陰謀を企みもした。しかしラッサールには常に生々しい情熱、力強い人格、自己犠牲の献身、紛う方なき天才の閃きがあり、これがために否応なくマルクスから尊敬を、ほとんど愛情さえ勝ち得たのである。マルクスはエンゲルスの冷静な批判の影響を受けたが、それに完全に納得したことは一度もなかった。恐らくマルクスが[[ゲットー]]のユダヤ人を軽蔑していたにも関わらず、目に見えぬ、自分には気づかれぬ人種的親近性があったのであろう。二人の意見と性格がどれほど違っても、マルクスがラッサールに無関心であったことは一度もなかった。ラッサールの死はマルクスの生涯においてもヨーロッパ社会主義の歴史においても、一時期を画した」と評している<ref name="カー(1956)249">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.249</ref>。|group=注釈}}<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.248-249</ref><ref name="メーリング(1974,2)194">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.194</ref>。

ラッサールの死で最も有名な社会主義者はマルクスになった<ref name="カー(1956)251">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.251</ref>。
{{-}}

==== メイトランド・パークへの引っ越し ====
[[1863年]]11月に母ヘンリエッテが死去した。マルクスは母の死には冷淡で「私自身棺桶に足を入れている。この状況下では私には母以上の物が必要だろう」と述べた。遺産は前仮分が多額だったのでそれほど多くは出なかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.319-320</ref>。しかしともかくもその遺産を使って[[1864年]]3月にメイトランドパーク・モデナ・ヴィラズ1番地(1 Modena Villas, Maitland Park)の一戸建ての住居を借りた<ref name="ウィーン(2002)320">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.320</ref>。家賃と税金はこれまでの住居の倍だったが、妻イェニーはこの家を「新しいし、日当たりもいいし、風通しも良い住み心地のいい家」と絶賛している<ref>[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.136-137</ref>。

さらに[[1864年]][[5月9日]]には同志のヴィルヘルム・ヴォルフが死去した。ヴォルフは常にマルクスとエンゲルスに忠実に行動を共にしていた人物であり、彼は遺産のほとんどをマルクスに捧げる遺言書を書き残していた。マルクスは彼の葬儀で何度も泣き崩れた。ヴォルフは単なる外国語講師に過ぎなかったが、倹約家でかなりの財産を貯めていた。これによってマルクスは一気に820ポンドも得ることができた。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった<ref name="ウィーン(2002)321">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.321</ref>。マルクスがこの数年後に出した資本論の第一巻をエンゲルスにではなくヴォルフに捧げているのはこれに感謝したからのようである<ref name="ウィーン(2002)322">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.322</ref>。

急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めた。パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.322-323</ref>。しかしこのような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまった。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金を肩代わりすることになった(この4年間にエンゲルスが出した金額は1862ポンドに及ぶという)。この借金返済以降、ようやくマルクス家の金銭事情は落ち着いた<ref name="ガンブレル(1989)139">[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.139</ref>。

[[1875年]]春には近くのメイトランド・パーク・ロード41番地に最後の引っ越しをしている。以降マルクスは死去するまでここを自宅とすることになる<ref name="メーリング(1974,3)182">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.182</ref>。

==== 第一インターナショナルの結成 ====
[[File:FRE-AIT.svg|180px|thumb|[[第一インターナショナル]](国際労働者協会)のロゴ]]
1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う[[綿花]]危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.241-242</ref>。イギリスでは1860年に{{仮リンク|ロンドン労働評議会|en|London Trades Council}}がロンドンに創設された<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.242-243</ref>。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「{{仮リンク|自由帝政|fr|Empire libéral}}」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり<ref name="鹿島(2004)178">[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.178</ref>、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais-Royal)』の結成が許可された<ref>[[#鹿島(2004)|鹿島(2004)]] p.369-370</ref>。プルードン派や[[ルイ・オーギュスト・ブランキ|ブランキ]]派の活動も盛んになった<ref name="石浜(1931)243">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.243</ref>。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した<ref name="江上(1972)210">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.210</ref>。

こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。[[1862年]][[8月5日]]にはロンドンの{{仮リンク|フリーメーソン会館 (ロンドン)|label=フリーメーソン会館|en|Freemasons' Hall, London}}でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された<ref name="カー(1956)255">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.255</ref>。労働者の国際組織を作ろうという話になり、[[1864年]][[9月28日]]にロンドンの{{仮リンク|女王劇場 (ロング・エーカー)|label=セント・マーチン会館|en|Queen's Theatre, Long Acre}}でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、{{仮リンク|ロンドン労働評議会|en|London Trades Council}}の{{仮リンク|ジョージ・オッジャー|en|George Odger}}を議長とする[[第一インターナショナル]](国際労働者協会)の発足が決議されるに至った<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.259-261</ref>。

マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人である{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・エカリウス|de|Johann Georg Eccarius}}とともに出席した<ref name="カー(1956)259">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.259</ref>。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された<ref name="カー(1956)262">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.262</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.245-249</ref>。

マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは経験のない素人の労働者だったので(労働者の中ではインテリであったが)、長年の策略家マルクスにとっては簡単な議事妨害と批評だけで左右できる相手だった<ref name="カー(1956)263">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.263</ref>。マルクスもエンゲルスへの手紙の中で「難しいことではなかった。相手は『労働者』ばかりだったから」と語っている<ref name="カー(1956)263"/>。イタリア人の委員が[[ジュゼッペ・マッツィーニ]]の主張を入れようとしたり、イギリス人の委員が[[ロバート・オウエン|オーエン主義]]を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている<ref name="石浜(1931)249">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.249</ref>。唯一マルクスが譲歩を迫られたのは、前文に「権利・義務」、協会の指導原理に「真理・道義・正義」といった表現が加えたことだったが、マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「何ら害を及ぼせない位置に配置した」と語っている<ref name="カー(1956)263"/>。

こうして作成された規約は全会一致で採択された<ref name="石浜(1931)249"/>。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある(結局ラッサール派は取り込めなかったが)<ref name="石浜(1931)256">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.256</ref>。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている<ref name="小牧(1966)211">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.211</ref>。
{{-}}
{{See also|第一インターナショナル}}

==== プルードン主義・労働組合主義・議会主義との闘争 ====
[[File:Marx1867.jpg|180px|thumb|1867年のマルクス]]
インターナショナルの日常的な指導はマルクスとインターナショナル内の他の勢力との権力闘争の上に決定されていた。他の勢力とは主に「プルードン主義」、[[労働組合主義]]、バクーニン派であった<ref name="カー(1956)266">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266</ref>([[#バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争|バクーニン]]については後述)。

フランス人メンバーは[[フランス革命]]に強く影響されていたため、マルクスがいうところの「プルードン主義」「小ブルジョワ社会主義」に走りやすかった。そのためマルクスが主張する[[私有財産制]]の廃止に賛成せず、小財産制を擁護する者が多かった。また概してフランス人は直接行動的であり、ナポレオン3世暗殺計画を立案しだすこともあった。彼らは「ドイツ人」的な小難しい科学分析も、「イギリス人」的な議会主義も嫌う傾向があった。ただフランス人はインターナショナルの中でそれほど数は多くなかったから、マルクスにとって大きな脅威というわけでもなかった<ref name="カー(1956)266-267">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266-267</ref>。

むしろマルクスにとって厄介だったのはイギリス人メンバーの方だった。インターナショナル創設の原動力はイギリス労働者団体であったし、インターナショナルの本部がロンドンにあるため彼らの影響力は大きかった<ref name="カー(1956)268">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.268</ref>。イギリス人メンバーは[[労働組合主義]]や[[議会主義]]に強く影響されているので、労働条件改善や選挙権拡大といった[[社会改良主義|社会改良]]だけで満足することが多く、また何かにつけて「ブルジョワ議会」を通じて行動する傾向があった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.266/269</ref>。インターナショナルはイギリスの男子選挙権拡大を目指す[[改革連盟]]に書記を送っていたものの、その指導者である弁護士{{仮リンク|エドモンド・ビールズ|en|Edmond Beales}}がインターナショナルの総評議会に入ってくることをマルクスは歓迎しなかった。マルクスはイギリスの「ブルジョワ政治家」たちが参加してくるのを警戒していた。ビールズが次の総選挙に出馬を決意したことを理由に「インターナショナルがイギリスの[[政党政治]]に巻き込まれることは許されない」としてビールズ加入を阻止した<ref name="カー(1956)270">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.270</ref>。
{{-}}
{{See also|改革連盟}}

==== リンカーンの奴隷解放政策を支持 ====
1861年に[[アメリカ南北戦争]]が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部([[アメリカ合衆国]])を支持するかアメリカ南部([[アメリカ連合国]])を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしても合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった<ref name="カー(1956)269">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.269</ref>。

これは様々な勢力がいるインターナショナルが一致させることができる問題だった。ちょうど1864年11月には[[1864年アメリカ合衆国大統領選挙|合衆国大統領選挙]]があり、奴隷制廃止を掲げる[[エイブラハム・リンカーン]]が再選を果たした。マルクスはインターナショナルを代表してリンカーンに再選祝賀の手紙を書き、[[在イギリスアメリカ合衆国大使|アメリカ大使]][[チャールズ・フランシス・アダムズ (1世)|アダムズ]]に提出した<ref name="カー(1956)269"/><ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.329-330</ref>。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、通俗的な民主的な言葉遣いとは明確に区別できる手紙になった」と語っている<ref name="カー(1956)269"/>。

この手紙に対してリンカーンから返事があった。マルクスは手紙の中でリンカーンにインターナショナル加入を勧誘していたが、リンカーンは返事の中で「宣伝に引き入れられたくない」と断っている。だがマルクスは「アメリカの自由の戦士」から返事をもらったとしてインターナショナル宣伝にリンカーンを大いに利用した<ref name="シュワルツシルト(1950)330">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.330</ref>。実際そのことが『[[タイムズ]]』に報道されたおかげで、インターナショナルはわずかながら宣伝効果を得られたのだった<ref name="カー(1956)269"/>。
{{-}}

==== ラッサール派の親ビスマルク路線との闘争 ====
[[ファイル:Bismarck pickelhaube.jpg|180px|thumb|プロイセン王国宰相[[オットー・フォン・ビスマルク]]]]
ラッサールの死後、全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)はラッサールから後継者に指名されたベルンハルト・ベッケルとハッツフェルト伯爵夫人を中心とするラッサールの路線に忠実な勢力と{{仮リンク|ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァー|de|Johann Baptist von Schweitzer}}を中心とする創設者ラッサールに敬意を払いつつも独自の発展が認められるべきと主張する勢力に分裂した<ref name="カー(1956)287">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.287</ref>。

そうした情勢の中でシュヴァイツァーがマルクスに接近を図るようになり、同盟の新聞『ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)』に寄稿するよう要請を受けた。マルクスとしてはこの新聞に不満がないわけでもなかったが、インターナショナルや(当時来年出ると思っていた)『資本論』の販売のためにベルリンに足場を持っておきたい時期だったので当初は協力した。しかしまもなく同紙のラッサール路線の影響の強さにマルクスは反発するようになった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.288-289</ref>。結局1865年2月23日にエンゲルスとともに同紙との絶縁の宣言を出すに至った。その中で「我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術(マルクスはこれを「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んだ)は我々との連携を不可能にするものだった」と書いている<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.288-290</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.215-216</ref>。

このマルクスとラッサール派の最終的決裂を受けて、1865年秋にプロイセンから国外追放されたリープクネヒトは、ラッサール派に対抗するため、[[アウグスト・ベーベル]]とともに「ザクセン人民党」を結成しオーストリアも加えた[[大ドイツ主義]]的統一・反プロイセン的な主張をするようになった<ref name="カー(1956)291">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.291</ref><ref name="メーリング(1974,3)79">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.79</ref>。ラッサール派の[[小ドイツ主義]]統一(オーストリアをドイツから追放し、プロイセン中心のドイツ統一を行う)路線に抵抗するものだった<ref name="カー(1956)291"/>。

もっともビスマルクにとっては労働運動勢力が何を主張し合おうが関係なかった。彼は小ドイツ主義統一を推し進め、[[1866年]]に[[普墺戦争]]でオーストリアを下し、ドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放するとともにプロイセンを盟主とする[[北ドイツ連邦]]を樹立することに成功した<ref name="シュワルツシルト(1950)340-341">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.340-341</ref>。マルクスはビスマルクが王朝的に小ドイツ主義的に統一を推し進めていくことに不満もあったものの、諸邦分立状態のドイツ連邦が続くよりはプロイセンを中心に強固に固まっている北ドイツ連邦の方がプロレタリア闘争に有利な展望が開けていると一定の評価をした<ref name="メーリング(1974,3)78"/>。リープクネヒトとベーベルも1867年に北ドイツ連邦の[[帝国議会 (ドイツ帝国)|帝国議会]]選挙に出馬して当選を果たした<ref name="カー(1956)292">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.292</ref>。

マルクスはリープクネヒトはあまり当てにしていなかったが、ベーベルの方は高く評価していた。ベーベルは[[1868年]]初頭にシュヴァイツァーの『社会民主主義』紙に対抗して『民主主義週報』紙を立ち上げ、これを起点にラッサール派に参加していない労働組合を次々と取り込むことに成功し、マルクス派をラッサール派に並ぶ勢力に育て上げることに成功したのである<ref name="カー(1956)292"/>。そしてその成功を盾にベーベルとリープクネヒトは1869年8月初めに[[アイゼナハ]]において{{仮リンク|社会民主労働党 (ドイツ)|label=社会民主労働党|de|Sozialdemokratische Arbeiterpartei (Deutschland)}}(アイゼナハ派)を結成した<ref name="カー(1956)295">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.295</ref>。

{{要出典範囲|date=2021年11月|マルクスもこの状況を満足げに眺め、フランス労働運動よりドイツ労働運動の方が先進的になってきたと評価するようになった。}}
{{-}}

==== 普仏戦争をめぐって ====
[[File:1870 bei Le Bourget.jpg|180px|thumb|普仏戦争で進軍するプロイセン軍。]]
[[ファイル:A v Werner - Kaiserproklamation am 18 Januar 1871 (3. Fassung 1885).jpg|250px|thumb|1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿で行われたプロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]のドイツ皇帝即位式。白い軍服が[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]。]]
[[1870年]]夏に勃発した[[普仏戦争]]はビスマルクの謀略で始まったものだが、ナポレオン3世を宣戦布告者に仕立てあげる工作が功を奏し、北ドイツ連邦も南ドイツ諸国もなく全ドイツ国民のナショナリズムが爆発した国民戦争となった。亡命者とはいえ、やはりドイツ人であるマルクスやエンゲルスもその熱狂からは逃れられなかった。

開戦に際してマルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある。もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している」と述べた<ref name="カー(1956)295"/><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.81-82</ref>。エンゲルスに至っては「今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ」と嬉々として語っている<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.296-297</ref>。

もっともこれは私的な意見であり、フランス人も参加しているインターナショナルの場ではマルクスももっと慎重にふるまった。開戦から10日後の7月23日、マルクスはインターナショナルとしての公式声明を発表し、その中で「ルイ・ボナパルトの戦争策略は1851年のクーデタの修正版であり、第二帝政は始まった時と同じく[[パロディー]]で終わるだろう。しかしボナパルトが18年もの間、帝政復古という凶悪な茶番を演じられたのはヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげだということを忘れてはならない」「ビスマルクは[[ケーニヒグレーツの戦い]]以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。だから今や[[ライン川]]の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか」<ref name="カー(1956)297">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.297</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.79-80</ref>、「今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう」とした<ref name="小牧(1966)214">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.214</ref><ref name="カー(1956)299">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.299</ref><ref name="メーリング(1974,3)80">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974) 3巻]] p.80</ref><ref name="ウィーン(2002)385">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.385</ref>。

戦況はプロイセン軍の優位に進み、1870年9月初旬の[[セダンの戦い]]でナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となった。第二帝政の権威は地に堕ち、パリで革命が発生して[[フランス第三共和政|第三共和政]]が樹立されるに至った<ref name="ウィーン(2002)387">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.387</ref>。共和政となったフランスとの戦いにはマルクスは消極的であり、「あのドイツの俗物(ビスマルク)が、神にへつらう[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム]]にへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる」「もしプロイセンが[[アルザス=ロレーヌ]]を併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう」「戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった」と私的にも不満を述べるようになった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.298-299</ref>。

9月9日にはインターナショナルの第二声明を出させた。その中でドイツの戦争がフランス人民に対する征服戦争に転化しつつあることを指摘した。ドイツは領土的野心で行動すべきではなく、フランス人が共和政を勝ち取れるよう行動すべきとし、ビスマルクやドイツ愛国者たちが主張するアルザス=ロレーヌ併合に反対した<ref name="小牧(1966)214"/><ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.299-300</ref>。アルザス=ロレーヌ割譲要求はドイツの安全保障を理由にしていたが、これに対してマルクスは「もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ」と反駁した<ref name="カー(1956)300">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.300</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.388-389</ref>。

一方ビスマルクはパリ包囲戦中の1871年1月にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉し、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でのドイツ統一を取り決め、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させて[[ドイツ帝国]]を樹立した。その10日後にはフランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を盛り込んだ休戦協定を結ばせることにも成功し、普仏戦争は終結した。これを聞いたマルクスは意気消沈したが、「戦争がどのように終わりを告げようとも、それはフランスのプロレタリアートに銃火器の使用方法を教えた。これは将来に対する最良の保障である」と予言した<ref name="カー(1956)301">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.301</ref>。
{{-}}

==== パリ・コミューン支持をめぐって ====
[[File:Communeprisoners.jpg|250px|thumb|ティエール政府の軍隊により逮捕される[[パリ・コミューン]]のメンバー。]]
マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日には[[アドルフ・ティエール]]政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府[[パリ・コミューン]]を樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.302-303</ref><ref name="ウィーン(2002)391">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.391</ref>。マルクスはパリは無謀な蜂起するべきではないという立場をとっていたが、いざパリ・コミューン誕生の報に接すると、「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性を[[パリジャン]]は持っていることか!」「歴史上これに類する偉大な実例はかつて存在したことはない!」とクーゲルマンへの手紙で支持を表明した<ref name="ウィーン(2002)391"/><ref name="メーリング(1974,3)97">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.97</ref>。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである<ref name="小牧(1966)214"/><ref name="ウィーン(2002)391"/><ref name="カー(1956)303">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.303</ref>。

マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した<ref name="石浜(1931)269">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.269</ref><ref name="メーリング(1974,3)103">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.103</ref>。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン戦士2万人の殺害を「蛮行」と批判し、コミューンが報復として行った聖職者人質60数名の殺害を弁護した<ref name="カー(1956)304">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.304</ref>。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことに対しては、自分が以前主張してきたように、「各国の政府はプロレタリアに対する場合には一つ穴の狢」だと弾劾した<ref name="カー(1956)304"/>。

その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている<ref name="カー(1956)307">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.307</ref>。娘婿[[ポール・ラファルグ]]や[[ジュール・ゲード]]など、コミューン派だったために弾圧された人々はこうしたネットワークを拠点にマルクスと緊密に連携するようになり、のちの[[フランス社会党(SFIO)|フランス社会党]]の一翼を形成することになる。

しかしパリ・コミューンの反乱は全ヨーロッパの保守的なマスコミや世論を震え上がらせており、さまざまな媒体から、マルクスたちが黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、[[ユダヤ陰謀論]]が出回るようになった{{#tag:ref|たとえば『{{仮リンク|フレイザーズ・マガジン|en|Fraser's Magazine}}』は「インターナショナルの影響について我々はあまり目にすることも耳にすることもないが、その隠された手は神秘的かつ恐ろしい力で革命装置を操っている」と書いた<ref name="ウィーン(2002)399">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.399</ref>。『{{仮リンク|ペルメル・ガゼット|en|Pall Mall Gazette}}』紙は「マルクスは生まれながらのユダヤ人であり、政治的共産主義を生み出すことを目的とする途方もない陰謀の長である」と書いた<ref name="ウィーン(2002)400">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.400</ref>。フランスのある新聞は「マルクスは陰謀家の最高権威であり、ロンドンの隠れ家からコミューンを指揮した。インターナショナルは700万人の会員を擁し、全員がマルクスの決起命令を待っている」などと報じている<ref name="ウィーン(2002)398">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.398</ref>。|group=注釈}}。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった<ref name="カー(1956)309">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.309</ref><ref name="ガンブレル(1989)150">[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.150</ref>。

こうした中、オッジャーらイギリス人メンバーはインターナショナルとの関係をブルジョワ新聞からも自分たちの穏健な同志たちからも糾弾され、ついにオッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した<ref name="カー(1956)310">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.310</ref>。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた<ref name="カー(1956)309"/>。

マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるように[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]との闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく<ref name="カー(1956)333">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.333</ref>。
{{-}}
{{See also|パリ・コミューン}}

==== バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争 ====
[[File:Bakunin.png|180px|thumb|[[ミハイル・バクーニン]]<br/><small>ロシア貴族出の革命家でマルクスの旧友だったが、インターナショナルでは地方団体独立を主張して中央のマルクスと敵対。更に[[ユダヤ陰謀論]]からマルクスの正体を怪しんだ。</small>]]
[[ミハイル・バクーニン]]はロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、[[シベリア]][[流刑]]となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再会し、インターナショナルに協力することを約束した。そして1867年以来[[スイス]]・[[ジュネーブ]]でインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.321-325</ref><ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.380-383</ref>。

バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクスの権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった<ref name="バーリン(1974)243">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.243</ref>。彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスや[[イタリア王国|イタリア]]、[[スペイン]]の支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.242/274</ref>。しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.242-243</ref>。

しかもバクーニンは強烈な[[反ユダヤ主義|反ユダヤ主義者]]であり、インターナショナル加盟後も「ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた<ref name="ウィーン(2002)408">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.408</ref>。だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンのマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義・[[ユダヤ陰謀論]]の色彩を帯びていった<ref name="バーリン(1974)244">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.244</ref>。たとえば「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」<ref name="外川(1973)390">[[#外川(1973)|外川(1973)]] p.390</ref>「この世界の大部分は、片やマルクス、片や[[ロスチャイルド家]]の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。他方、共産主義者であるマルクスが本能的に金の天才ロスチャイルドに抗いがたいほどの魅力を感じ、称賛の念を禁じえなくなっていることも。ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲となるだろう。[[ラテン系]]の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である<ref name="ウィーン(2002)408"/>。

ヨーロッパ中でインターナショナルの批判が高まっている時であったからバクーニンのこうした粗暴な反ユダヤ主義はインターナショナル総評議会にとっても看過するわけにはいかないものだった。総評議会は1872年6月にマルクスの書いた『インターナショナルにおける偽装的分裂』を採択し、その中でバクーニンについて人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作ったとして批判した<ref name="ウィーン(2002)409">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.409</ref>。同じころ、バクーニンの友人セルゲイ・ネチャーエフがバクーニンのために送った強請の手紙を入手したマルクスは、1872年9月に[[オランダ]]・[[ハーグ]]で開催された大会においてこれを暴露した。劇的なタイミングでの提出だったのでプルードン派もバクーニン追放に回り、大会は僅差ながらバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を可決させた<ref name="ウィーン(2002)416">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.416</ref><ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.273-274</ref>。

==== インターナショナルの終焉 ====
バクーニンを追放することには成功したマルクスだったが、[[ハーグ大会]]の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威は失われていた。イギリス人メンバーがマルクスの反対派に転じていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた<ref name="カー(1956)354-355">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.354-355</ref>。

ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・[[ニューヨーク]]に移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった<ref name="ReferenceC">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.412-413</ref><ref name="バーリン(1974)274">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.274</ref>。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった<ref name="バーリン(1974)274"/><ref name="ウィーン(2002)413">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.413</ref>。『[[スペクテイター (1828年創刊の雑誌)|ザ・スペクテイター]]』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた<ref name="ウィーン(2002)413"/>。

なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境を{{仮リンク|ルイス・クーゲルマン|en|Louis Kugelmann}}に打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる<ref name="ReferenceC"/>。しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスとエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部{{仮リンク|フリードリヒ・ゾルゲ|en|Friedrich Sorge}}らアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる<ref>[[渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館|渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館p]].309-310</ref>。

しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年の[[フィラデルフィア]]大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった{{efn|インターナショナルの再建にはその後13年を要し、マルクスは既に他界している。再建された[[第二インターナショナル]]は、[[イギリス労働党]]、[[フランス社会党 (SFIO)|フランス社会党]]、[[ドイツ社会民主党]]、[[ロシア社会民主党]]といった有力政党を抱えるヨーロッパの一大政治組織になった。第二インターナショナルはドイツの[[ベルンシュタイン]]からロシアの[[レーニン]]まで多様な政治的色彩をもつ党派の連合体だった。}}<ref name="ウィーン(2002)416"/>。
{{-}}

==== 『ゴータ綱領批判』 ====
[[File:Wilhelm Liebknecht 2.jpg|180px|thumb|[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]<br/><small>基本的にマルクスに忠実な部下だが、アイゼナハ派とラッサール派の合同はマルクスの意に沿わぬ形で行い、マルクスから『ゴータ綱領批判』で批判を受けた。</small>]]
ドイツではラッサール派の信望が高まっている時期だった。インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。ドイツの内側にいるリープクネヒトから見ればマルクスやエンゲルスは外国にあってドイツの政治状況も知らずに妥協案を拒否する者たちであり、政治的戦術にかけては自分の方が把握できているという自負心があった<ref name="バーリン(1974)276">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.276</ref>。

すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた[[1875年]]2月には[[ゴータ]]で両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである<ref name="カー(1956)394-395">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.394-395</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.275-276</ref>。

この合同に際して両党の統一綱領として作られたのが{{仮リンク|ゴータ綱領|de|Gothaer Programm}}だった。ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった<ref name="カー(1956)395">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.395</ref>。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた<ref name="バーリン(1974)276"/>。

この時の書簡を編纂してマルクスの死後にエンゲルスが出版したものが『[[ゴータ綱領批判]]』である{{efn|マルクス派が優勢になったドイツ社会主義労働者党は、1891年に[[ドイツ社会民主党]]と党名を変更し[[エルフルト綱領]]を制定した<ref>{{Cite web|和書|title=ドイツ社会民主党とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A-102966|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。この中で、エンゲルスは『ゴータ綱領批判』を出版しラサール主義の色が強いゴータ綱領を批判した<ref>{{Cite web|和書|title=ゴータ綱領とは|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%BF%E7%B6%B1%E9%A0%98-65096|website=コトバンク|accessdate=2021-11-03}}</ref>。}}。マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした<ref name="バーリン(1974)277">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.277</ref>。

マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した<ref name="バーリン(1974)277"/>。とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した<ref name="カー(1956)396">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.396</ref>。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った<ref name="カー(1956)397">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.397</ref>。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し<ref name="カー(1956)397"/>。「[[賃金の鉄則]]」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した<ref name="カー(1956)397"/>。

また綱領が「プロレタリアート独裁」にも「未来の共産主義社会の国家組織」にも触れず、「自由な国家」を目標と宣言していることもブルジョワ的理想と批判した<ref name="カー(1956)397"/>。

リープクネヒトはマルクスからの手紙をいつも通り敬意をこめて取り扱ったものの、これをつかうことはなく、マルクスやエンゲルスも党の団結を優先してこの批判を公表しなかった<ref name="バーリン(1974)277"/><ref name="カー(1956)398">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.398</ref>。ゴータ綱領は、わずかに「民族国家の中で」という表現について「国際的協力の理想へ向かう予備的段階」であることを確認する訂正がされただけだった<ref name="カー(1956)398"/>。ゴータ綱領のもとに[[ドイツ社会主義労働者党]]が結成されるに至った。これについてマルクスは口惜しがったし<ref name="カー(1956)398"/>、この政党を「プチブル集団」「民主主義集団」と批判し続けたが<ref>[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.411-412/414</ref>、マルクスの活動的な生涯はすでに終わっており、受けた打撃もそれほど大きいものではなかったという<ref name="カー(1956)398"/>。

{{-}}

=== 晩年の放浪生活 ===
[[File:Marx old.jpg|180px|thumb|1882年のカール・マルクス]]
マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、[[1873年]]には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降[[鉱泉]]での[[湯治]]を目的にあちこちを巡ることになった。1876年までは[[オーストリア=ハンガリー帝国]]領[[カールスバート]]にしばしば通った<ref>[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.401-402</ref>。1877年にはドイツ・ライン地方の[[バート・ノイェンアール=アールヴァイラー]](Bad Neuenahr-Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という<ref name="カー(1956)402">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.402</ref>。1878年からは[[イギリス王室属領|イギリス王室の私領]]である[[チャンネル諸島]]で湯治を行った<ref name="カー(1956)403">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.403</ref>。

1880年秋からイギリス人社会主義者[[ヘンリー・ハインドマン]]と親しくするようになった。ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する{{仮リンク|社会民主主義連盟|en|Social Democratic Federation}}を結成する。この組織には[[エリノア・マルクス]]や[[ウィリアム・モリス]]も参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスもマルクスの死後脱退し、[[社会主義同盟]]を結成することになる。マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した<ref name="カー(1956)405">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.405</ref>。結局、イギリス労働運動は[[ケア・ハーディ]]や[[トム・マン]]らの[[独立労働党]](のちの[[イギリス労働党]])に収斂することになる。[[イギリス労働党]]は第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。

[[1881年]]夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿{{仮リンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}が[[ジョルジュ・クレマンソー]]からマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった<ref name="カー(1956)406">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.406</ref>。

パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。マルクスの悲しみは深かった。「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」<ref name="カー(1956)407">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.407</ref> と語った。エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘[[エリノア・マルクス|エリノア]]に述べている<ref name="バーリン(1974)292">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.292</ref>。

独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために[[1882年]]も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・{{仮リンク|ヴェントナー|en|Ventnor}}を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由して[[フランス植民地帝国|フランス植民地]][[フランス領アルジェリア|アルジェリア]]の[[アルジェ]]へ移った<ref name="カー(1956)407"/><ref name="石浜(1931)280">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.280</ref><ref>[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)3巻]] p.215-216</ref>。[[北アフリカ]]の灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った<ref name="カー(1956)408">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.408</ref>。アルジェリアからの帰国途中の6月には[[モナコ公国]][[モンテカルロ]]に立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女カロリーネの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女カロリーネは病んでいた。つづいて次女ラウラとともに[[スイス]]の[[ヴェヴェイ]]を訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した<ref name="カー(1956)408"/><ref name="石浜(1931)281">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.281</ref><ref name="メーリング(1974,3)216">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.216</ref>。
{{-}}

=== 死去 ===
1883年1月12日に長女カロリーネが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されたのである。64歳だった<ref name="カー(1956)410">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.410</ref><ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.281-282</ref><ref name="メーリング(1974,3)217">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.217</ref>。

その3日後に[[ハイゲイト墓地]]の無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった<ref name="小牧(1966)221">[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.221</ref><ref name="ReferenceD">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.219-221</ref>。

葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]が有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志は[[シベリア]]の鉱山から[[カリフォルニア]]の海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた<ref name="ReferenceD"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.221-222</ref>。

マルクスの死後、イギリスでは[[労働党 (イギリス)|労働党]]が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による[[人民戦線]]内閣が誕生。ドイツでは[[ドイツ社会民主党]]がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアでは[[レーニン]]の指導する[[ロシア革命]]を経て、[[ソヴィエト連邦]]が誕生した。

マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する{{#tag:ref|『資本論』第4部こと『[[剰余価値学説史]]』は、エンゲルスの死後[[カール・カウツキー]]の編集で出版されたが、これが本文の改竄を含んでいるという理由で、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクス、エンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『[[ドイツ・イデオロギー]]』は原稿の並べ替えが行われ、[[廣松渉]]から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる<ref>『経済学・哲学草稿』、岩波文庫版、p.298</ref>。|group=注釈}}<ref name="ウィーン(2002)461">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461</ref><ref name="石浜(1931)284">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.284</ref>。[[2013年]]に『共産党宣言』とともに『資本論』初版第1部が[[国際連合教育科学文化機関]](ユネスコ)の[[世界の記憶]]に登録された<ref>[http://www.unesco.de/kommunikation/mow/mow-deutschland/kommunistisches-manifest.html Schriften von Karl Marx: "Das Manifest der Kommunistischen Partei" (1848) und "Das Kapital", ernster Band (1867)]</ref>。

マルクスの墓は[[1954年]]に墓地内の目立つ場所に移され、[[1956年]]には頭像が取り付けられている。その墓には「[[万国の労働者よ、団結せよ!|万国の労働者よ、団結せよ]]」という彼の最も有名な言葉と『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』から取った「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」という言葉が刻まれている<ref name="ガンブレル(1989)170">[[#ガンブレル(1989)|ガンブレル(1989)]] p.170</ref>。[[1970年]][[1月18日]]、何者かが墓と胸像に[[爆弾]]を仕掛けて破壊する事件が発生した<ref>マルクスの墓に爆弾『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月19日朝刊 12版 15面</ref>。胸像などは後に修復されている。

2018年4月には生誕200年を記念し、トリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0[[ユーロ紙幣]]を3ユーロで発売したところ購入者が殺到し増刷する事態となった<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASL4X1VGQL4XUHBI001.html?iref=com_rnavi_arank_nr05 生誕200年記念「マルクス紙幣」に注文殺到 額面は0] - [[朝日新聞]]</ref>。

{{Gallery
|lines=4
|File:Karl Marx First Grave.jpg|マルクスのもともとの墓(ロンドン、[[ハイゲイト墓地]])
|File:KarlMarx Tomb.JPG|1954年に移されたマルクスの新しい墓(ロンドン、ハイゲイト墓地)
|File:Karl Marx in North Korea.jpg|マルクスの肖像画([[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]・[[平壌直轄市|平壌]]・外国貿易省)
|File:Bundesarchiv Bild 183-19400-0029, Berlin, Marx-Engels-Platz, Demonstration.jpg|マルクス、エンゲルス、[[レーニン]]、[[スターリン]]の肖像画を掲げての行進(東ドイツ・ベルリンの{{仮リンク|シュロース広場|label=マルクス・エンゲルス広場|de|Schloßplatz (Berlin)}})
|File:USSR-1983-1ruble-CuNi-Marx165-b.jpg|没後100周年記念1[[ロシア・ルーブル|ルーブル]]硬貨(1983年発行)
<!--|File:USSR-1983-comm-1ruble-CuNi-a.jpg|没後100周年記念1ルーブル硬貨(1983年発行)--><!--上記硬貨の別面-->
}}
{{-}}

== 人物 ==
[[File:Karl Marx 1867 Hannover.jpg|180px|thumb|1867年のカール・マルクス]]
=== 健康状態・体格 ===
小柄で肥満体形だった<ref name="石浜(1931)272">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.272</ref>。娘婿の[[ポール・ラファルグ]]は舅マルクスの体格について「背丈は普通以上で肩幅は広く、胸はよく張り、四肢はバランスが良い。もっとも[[脊柱]]はユダヤ人種によく見られるように、脚の割に長かった」と評している。要するに短足で座高が高いので座っていると大きく見えたようである<ref name="メーリング(1974,3)175">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.175</ref>。

マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった<ref name="カー(1956)401">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.401</ref>。[[肝臓病]]や[[脳病]]、[[神経病]]など様々な病気に苦しんだ<ref name="石浜(1931)274">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.274</ref>。『資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスが手紙でからかうと、マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と返信している<ref name="ウィーン(2002)354">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.354</ref>。

また新陳代謝機能に障害があり、食欲不振・[[便秘]]・[[痔]]・[[胃腸]][[カタル]]などに苦しんだ。この食欲不振を打ち払うために塩辛い物をよく口にした<ref name="小泉(1967)29">[[#小泉(1967)|小泉(1967)]] p.29</ref>。{{仮リンク|オットー・リュウレ|de|Otto Rühle (Politiker, 1874)}}は著書『マルクス、生涯と事業』の中でここにマルクスの極端な性格の原因を求め、「マルクスは食事に関する正しい知識を持っておらず、ある時は少なく、ある時は不規則に、ある時は不愉快に食べ、その代わりに食欲を塩っ辛い物で刺激した。」「悪しき飲食者は悪しき労作者であり、悪しき僚友でもある。彼は飲食について何も食わないか、胃袋を満杯にするかの二極だった。同じく執筆について執筆を全く面倒くさがるか、執筆のために倒れるかの二極だった。同じく他者について、人間を避けるか、誰もが利益せぬ全ての人と友になるかの二極だった。彼は常に極端に動く」と述べる<ref name="小泉(1967)29"/>。

酒好きであり<ref name="石浜(1931)43"/>、また[[ヘビースモーカー]]だった。マルクスがラファルグに語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。家計の節約のために安物で質の悪い葉巻を吸い、体調を壊して医者に止められている<ref name="ウィーン(2002)353">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.353</ref><ref name="メーリング(1974,3)176">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.176</ref>。

=== 趣味・嗜好 ===
詩や[[劇文学]]を愛好した。[[古代ギリシャ]]の詩人では[[アイスキュロス]]と[[ホメーロス]]を愛した。とりわけアイスキュロスはお気に入りで、娘婿のラファルグによればマルクスは1年に1回はアイスキュロスをギリシャ語原文で読んだという<ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.176-177</ref>。[[ドイツ文学]]では[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]と[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]を愛していたが、ドイツから亡命することになった後はドイツ文学への関心は薄れていったという。亡命後のドイツ文学への唯一の反応は[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]を「ドイツ神話を歪曲した」と批判したことだけだった<ref name="メーリング(1974,3)177">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.177</ref>。[[フランス文学]]では[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]の『ラモーの甥』のような啓蒙文学と[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]の『[[人間喜劇]]』のような[[写実主義]]文学を愛した<ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.177-178</ref>。特にバルザックの作品はブルジョワ社会を良く分析したものとして高く評価し、いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった<ref name="バーリン(1974)291">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.291</ref><ref name="メーリング(1974,3)178">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.178</ref>。逆に[[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン|シャトーブリアン]]ら[[ロマン主義]]作家のことは嫌った<ref name="メーリング(1974,3)177"/>。ロンドン亡命後には[[イギリス文学]]にも関心を持った。イギリス文学ではやはりなんといっても[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]が別格だった。マルクス家は一家をあげてシェイクスピアを崇拝していたといっても過言ではない<ref name="メーリング(1974,3)178"/>。[[ヘンリー・フィールディング|フィールディング]]の『[[トム・ジョウンズ]]』も愛した<ref name="メーリング(1974,3)178"/>。またロマン主義を嫌うマルクスだが、[[ウォルター・スコット]]の作品は「ロマン類の傑作」と評していた<ref name="メーリング(1974,3)178"/>。[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]と[[パーシー・ビッシュ・シェリー|シェリー]]については、前者は長生きしていたら恐らく反動的ブルジョワになっていたので36歳で死んで良かったと評し、後者は真の革命家であるので29歳で死んだことが惜しまれると評している<ref name="メーリング(1974,3)178"/>。[[イタリア文学]]では[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]を愛した<ref name="メーリング(1974,3)176"/><ref name="バーリン(1974)290">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.290</ref>。

前述したように食欲不振に苦しみ、それを解消するために[[ハム]]、薫製の[[魚料理]]、[[キャビア]]、[[ピクルス]]など塩辛い物を好んで食べたという<ref name="メーリング(1974,3)176"/>。

[[チェス]]が好きだったが、よくその相手をした[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]に勝てた例がなかった。マルクスは彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという<ref name="カー(1956)126">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.126</ref>。気分転換は高等数学を解くことであった<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=木原武一 |authorlink=木原武一 |year=1994 |title=天才の勉強術 |publisher=[[新潮選書]] |page= |id= |isbn= |quote= }}</ref>。

「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として[[赤]]、好きな花として[[月桂樹]]、好きなヒーローとして[[スパルタクス]]、好きなヒロインとして[[ファウスト 第一部|グレートヒェン]]をあげた<ref name="ウィーン(2002)463">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.463</ref>。

他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった<ref name="バーリン(1974)290"/><ref name="カー(1956)124">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.124</ref>。エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ<ref name="ウィーン(2002)182">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.182</ref><ref name="メーリング(1974,2)75">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974) 2巻]] p.75</ref>。[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]は「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」<ref name="カー(1956)291"/>。ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤの[[ニガー]]」だった<ref name="ウィーン(2002)299">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref>。マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「[[ムーア人]]」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された<ref name="バーリン(1974)290"/><ref name="カー(1956)124"/><ref name="ウィーン(2002)51">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.51</ref>。マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである<ref name="ウィーン(2002)183"/>。
{{-}}

== 家計・金銭問題 ==
ロバート・L.ハイルブローナーは「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」と語っている<ref name="ハイルブローナー(2001)">[[#ハイルブローナー(2001)|ハイルブローナー(2001)]]</ref>。

マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった<ref name="ウィーン(2002)81">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.81</ref>。マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。

マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている<ref name="メーリング(1974,1)319"/>。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある<ref name="ウィーン(2002)315">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.315-319</ref>。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した<ref name="ウィーン(2002)357">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.357</ref>。

== 人間関係 ==
マルクスは[[亡命者]]だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。

マルクスを支えたのは、イェニー、イェニーヒェン、ラウラ、エリノアなどの家族の他、エンゲルスのような親友、リープクネヒトやベーベルのような部下、ヴォルフやエカリウスのような同志たちだった。マルクスはロンドンで学者コミュニティと接触があったようで、生物学者や化学者といった人たちと交流があった。ドイツの医師である[[クーゲルマン]]とは頻繁に手紙のやり取りをしている。マルクスは[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]の仮説を称賛していて、自分の著した『資本論』をダーウィンに送っている。ダーウィンは謝辞の返信をだしているが<ref>John Bellamy Foster, Marx's Ecology: Materialism and Nature, p. 207.</ref>、『資本論』自体はあまりに専門的すぎて最後まで読んでいなかったらしい。

マルクスは組織運営の問題や思想上の対立でしばしば論敵をつくった。マルクスの批判を免れた人には、[[ブランキ]]、[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]、{{仮リンク|ファーガス・オコナー|en|Feargus O'Connor|label=オコーナー}}、[[ジュゼッペ・ガリバルディ|ガリバルディ]]などがいるが、[[ピエール・ジョゼフ・プルードン|プルードン]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]、[[ブルーノ・バウアー|バウアー]]、[[オイゲン・デューリング|デューリング]]、[[ジュゼッペ・マッツィーニ|マッツィーニ]]、[[ミハイル・バクーニン|バクーニン]]などは厳しい批判にさらされた。

批判者からは以下のような意見が見られる。

1848年8月、当時ボン大学の学生だった[[カール・シュルツ]]はケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」<ref name="ウィーン(2002)163">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.163</ref>。

[[アーノルド・ルーゲ]]は「私はこの争いを体裁の悪い物にしたくないと思って極力努力したが、マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクスは共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語る<ref name="シュワルツシルト(1950)89"/>。

[[ミハイル・バクーニン]]は「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神[[エホバ]]の如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る<ref name="バーリン(1974)118">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.118</ref>。

マルクスの伝記を書いた[[E・H・カー]]は「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している<ref name="カー(1956)145"/>。

マルクス主義者の[[フランツ・メーリング]]さえも「(マルクスが他人を批判する時の論法は)相手の言葉を文字通りとったり、歪曲したりすることで、考え得る限りのバカバカしい意味を与えて、誇張した無軌道な表現にふけるもの」と批判している<ref name="シュワルツシルト(1950)109">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.109</ref>。メーリングはラッサールはじめマルクスが批判した他の社会主義者を弁護することが多いが、彼はその理由として「マルクスは超人ではなかったし、彼自身人間以上のものであることを欲しなかった。考えもなく口真似することこそは、まさに彼が一番閉口したことであった。彼が他人に加えた不正を正すことは、彼に加えられた不正を正すことに劣らず、彼の精神を呈して彼を尊敬することなのだ。」と述べている<ref name="メーリング(1974,2)184">[[#メーリング(1974,2)|メーリング(1974)2巻]] p.184</ref>。
{{-}}

== 思想 ==
=== エンゲルスとの関係 ===
マルクスと[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]は1844年の再会以降、無二の盟友として緊密な関係を保ち、頻繁に往復書簡を交わして思想交流をしていたために、その思想はつねに一致していたとしばしば捉えられるが、マルクスとエンゲルスの思想の差異を指摘する研究者もいる。

たとえばエンゲルスは『[[反デューリング論]]』でマルクス主義が一貫した体系という性格をもっていることを指摘したが、マルクス自身は自分の論稿を常に一貫した体系として提示したわけではなかった。またエンゲルスは『[[自然弁証法]]』で[[弁証法哲学]]が[[自然科学]]の領域にも応用できることを示したが、これについてマルクスは「ぼくは時間をとって、その問題についてじっくり考え『権威たち』の意見を聞くまでは、あえて判断をくださないようにしよう」と返信している<ref>[[テレル・カーヴァー]](1995)『マルクスとエンゲルスの知的関係』世界書院 p.153</ref>。

1869年にロンドンへ移住して以降のエンゲルスの理論活動においては、自然科学や原始社会などの新たな研究をふまえ、マルクス主義を社会のみならず自然をも包括するよう体系化しようとする志向が見受けられる<ref>{{Cite journal|和書|last=保住|first=敏彦 |year=1995 |title=エンゲルスの理論活動の意義と問題:没後100年を記念して |url=https://doi.org/10.11498/jshet1963.33.39 |journal=経済学史学会年報 |volume=33 |issue=33 |pages=39-51 |doi=10.11498/jshet1963.33.39 |naid=130004246154 |ISSN=0453-4786 |publisher=経済学史学会}}</ref>。現在の『資本論』第3巻では、エンゲルスによる大幅な改変がなされている<ref>{{Cite journal|和書|last=佐々木|first=隆治|year=2016|title=いわゆる「転形問題」についての覚え書き|journal=立教經濟學研究|volume=70|issue=1|pages=89 - 102|doi=10.14992/00012411}}</ref>。
=== 「決定論」 ===
マルクスの思想体系は「[[経済決定論]]」だという批判がしばしばある。その含意は、社会や政治や心理の発展過程はすべて経済に規定されているとマルクスは考えていた、というものである<ref>[[オフェル・フェルドマン(2006)『政治心理学』ミネルヴァ書房]] p.35</ref>。また、[[カール・ポパー]]や[[アイザイア・バーリン]]はマルクスが[[ヘーゲル主義]]的な「歴史決定論」に陥っていると批判している<ref>[[E.H.カー]](1962)『歴史とは何か』[[岩波新書]] p.134-136</ref>。

マルクスがヘーゲルの言う「[[理性の狡知]]」の論理をしばしば用いたのは事実だが、マルクス自身は人間の主体性や歴史の偶然性を度々認めている。たとえば[[イーグルトン]]はマルクスが初期の著作で人間の[[類的存在]]と歴史に対する能動的な役割を認めていたことを指摘する<ref>イーグルトン(2011)『なぜマルクスは正しかったのか』河出書房新社 p.84</ref>。またマルクスは『[[フォイエルバッハ・テーゼ]]』で「環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている」と書いているし<ref>[[マルクス(2002)『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫]] p.230</ref>、『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』では、マルクス自身がプルードンが歴史的決定論に陥っていると批判している<ref>[[マルクス(2008)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』平凡社]] p.198</ref>。

E.H.カーは、[[カール・ポパー]]や[[アイザイア・バーリン]]がマルクス主義を歴史決定論であると批判したことに触れて、マルクスの立場は決定論ではなく、因果関係の重視であると反論している<ref>[[E.H.カー]](1962)『歴史とは何か』[[岩波新書]] p.149</ref>。カーはマルクスの「もし世界史にチャンスの余地がなかったとしたら、世界史は非常に神秘的な性格のものになるであろう。もちろん、このチャンスそのものは発展の一般的傾向の一部になり、他の形態のチャンスによって埋め合わされる。しかし、発展の遅速は、初め運動の先頭に立つ人々の性格の『偶然的』性格を含む、こうした『偶然事』に依存する」という発言を引用して、マルクスが単純な歴史決定論ではないより精緻な態度をとっていることを指摘している。

=== ユダヤ人観 ===
マルクスは自分が[[ユダヤ人]]であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘[[エリノア・マルクス]]が自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった<ref name="ウィーン(2002)73">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.73</ref>。マルクスは[[自由主義]]的な[[ライン地方]]に生まれ育ち、6歳のときに親の方針で[[キリスト教]]に改宗していたので[[ハインリヒ・ハイネ|ハイネ]]や[[フェルディナント・ラッサール|ラッサール]]のようにユダヤ人の出自で苦しむということは少なかった<ref name="江上(1972)13">[[#江上(1972)|江上(1972)]] p.13</ref>。

しばしば見られる批判として、マルクスはユダヤ人を蔑視していた、というものがある。マルクスがラッサールのことを「ユダヤの[[ニガー]]」と渾名したことや{{#tag:ref|マルクス自身も色黒のユダヤ系であったが、マルクスはラッサールが色黒のユダヤ系なのを捉えて彼が[[黒人]]系ユダヤ人であると揶揄していた。エンゲルスへの手紙の中で「彼(ラッサール)の頭の髪の伸び方([[縮れ毛]])がよく示している通り、彼は[[モーセ]]がユダヤ人を連れて[[エジプト]]から脱出した際に同行した[[ニグロ]]の子孫である。彼の母親か父親がニガーと交わったのでない限り。片やドイツとユダヤの混ぜ合わせ、かたやニグロの血、この二つがこの奇妙な生き物をこの世に誕生させたのだ。この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と書いている<ref name="ウィーン(2002)299">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.299</ref><ref name="カー(1956)243">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.243</ref><ref name="シュワルツシルト(1950)311">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.311</ref>。|group=注釈}}、マルクスが若い頃に書いた『[[ユダヤ人問題によせて]]』でユダヤ人のことを悪徳な貸金業者として描写したことがその根拠となっている。

『[[ユダヤ人問題によせて]]』でマルクスは、[[ブルーノ・バウアー]]がユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに反論して、国家がユダヤ人を排除していることが職業へと向かわせていると指摘し、「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると言っている<ref name=yosete>マルクス(1844)『ユダヤ人問題によせて』</ref>。また、「他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。」ともいい、「ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。」とも言っている<ref name=yosete/>。

=== 労働者観 ===
マルクスやエンゲルスは[[労働者]]を軽蔑していたという主張がある。

{{仮リンク|レオポルト・シュワルツシルト|de|Leopold Schwarzschild}}は「マルクスとエンゲルスは公にはプロレタリアートを人類の救済者と呼び、その独特の優れた性格を賛美してやまなかった。だが私的にはプロレタリアートについての彼らの言葉はますます尊大に侮蔑的になってきた。エンゲルスはマルクスへの報告の中で、まるでプロイセン軍の軍曹が新兵に向かって用いるような言葉でプロレタリアを語っている。『あいつら』、『あの駄馬たち』、『何でも信じる愚かな労働者』」と主張する<ref name="シュワルツシルト(1950)155">[[#シュワルツシルト(1950)|シュワルツシルト(1950)]] p.155</ref>。マルクスに批判的な{{仮リンク|シュロモ・アヴィネリ|en|Shlomo Avineri}}も「プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と主張する<ref name="ウィーン(2002)333">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333</ref>。{{仮リンク|ロバート・ペイン|en|Robert Payne (author)}}も「マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と主張する<ref name="ウィーン(2002)333"/>。

一方{{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}は、アヴィネリの批判について「様々な資料」というが何のことなのか具体的に指摘していないと批判し、そこには「雑魚に対するマルクスの侮辱は世界的に知れているので実証するまでもない」という態度があると批判する<ref name="ウィーン(2002)333-334">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.333-334</ref>。マルクスが労働者を侮辱した例としてアヴィネリが上げる[[ヴィルヘルム・ヴァイトリング]]については「マルクスはヴァイトリングに対して実に寛大だった。その信念のために罰せられた哀れな仕立て職人を邪険に扱うべきではないと言ったのは他でもないマルクスであり、二人の関係にひびが入ったのはマルクスが最下層の人間を侮蔑していたからではなく、ヴァイトリングの耐えがたいほど自己中心的な政治的および宗教的な誤謬のせいであった。むしろヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」と述べている<ref name="ウィーン(2002)333-334"/>。

またウィーンは、同じくアヴィネリがマルクスから侮辱を受けた労働者の同志として例示する{{仮リンク|ヨハン・ゲオルク・エカリウス|de|Johann Georg Eccarius}}についても、マルクスは彼自身悲惨な生活を送っていた1850年代を通じてエカリウスの生活に気をかけていたことを指摘する。ワシントンにいる同志のジャーナリストに依頼してエカリウスの論文が新聞に掲載されるよう取り計らったり、またエカリウスが病気になった時には、エンゲルスに依頼してワインを送ったり、エカリウスの子供たちが死んだ時にも葬儀費用を稼ぐための募金活動を行ったことを指摘した。そして「にもかかわらず、マルクスはただの仕立職人には狭量な軽侮の念を抱いていたなどという旧態依然たる戯言を未だに繰り返す研究者がなんと多いことか」と嘆いている<ref name="ウィーン(2002)334-335">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.334-335</ref>。

=== 戦争観 ===
マルクスは戦争を資本主義社会や階級社会に特有の付随現象と見ていた<ref name="メーリング(1974,3)77">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.77</ref>。だが労働者階級が戦争に対して取るべき態度については、戦争の前提と帰結から個別に決めていく必要があると考えていた<ref name="メーリング(1974,3)77"/>。とりわけその戦争がプロレタリア革命にとって何を意味しているかを最も重視した<ref name="石浜(1931)219">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.219</ref><ref>[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.77-78</ref>。

1848年革命中の『新ライン新聞』時代には、[[諸国民の春]]に対して[[ヨーロッパの憲兵]]として振舞ったロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし<ref name="メーリング(1974,1)275-276"/>、クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した<ref name="メーリング(1974,2)80-81"/>。イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを批判した<ref name="メーリング(1974,2)126-128"/>。[[普墺戦争]]も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした<ref name="メーリング(1974,3)78">[[#メーリング(1974,3)|メーリング(1974)3巻]] p.78</ref>。

しかし弟子たちの模範になったのは、[[普仏戦争]]に対する次のようなマルクスの立場だった。普仏戦争勃発時、マルクスは戦争を仕掛けたナポレオン3世に対してドイツの防衛戦争を支持したが、戦争がフランス人民に対する侵略戦争と化せば、その勝敗にかかわらず両国に大きな不幸をもたらすだろうと警告した。「差し迫った忌まわしい戦争がどのような展開を見せようと、すべての国の労働者階級の団結が最後には戦争の息の根を止めるだろう。公のフランスと公のドイツが兄弟殺しにも似た諍いをしているあいだにも、フランスとドイツの労働者たちは互いに平和と友好のメッセージを交換し合っているという事実。歴史上、類を見ないこの偉大な事実が明るい未来を見晴らす窓を開けてくれる」<ref name="ウィーン(2002)385-386">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.385-386</ref>。

マルクスのこの立場は、職業軍人による十九世紀的な戦争から、二十世紀的な国民総動員へと戦争の性格が変わっていくにつれ、彼の弟子たちにますます重視されるようになった。

=== 各国観 ===
プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的に[[コスモポリタニズム|コスモポリタン]]で、『[[共産党宣言]]』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。しかし、その続きで「ブルジョアの意味とはまったく違うとはいえ、プロレタリア自身やはり民族的である」とも述べている<ref>共産党宣言第二章</ref>。ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドやアイルランドの民族主義については支援する一方で労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.244-245</ref>。他方、イギリスの[[チャーチスト運動]]やフランスの[[パリコミューン]]を遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった<ref name="ウィーン(2002)391"/>。またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。

十九世紀、[[ヨーロッパの憲兵]]として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた<ref name="カー(1956)183">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.183</ref>。マルクス自身はロシアの将来について、「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。1861年の[[農奴解放令]]によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、[[フロレンスキー]]の『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、「きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p.&nbsp;340-342)。更に死の2、3年前には「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家[[ヴェラ・ザスーリッチ]]に通信している<ref name="カー(1956)316">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.316</ref>。

=== 植民地観 ===
マルクスは、『[[共産党宣言]]』では、ポーランド独立運動において「農業革命こそ国民解放の条件と考える政党」を支持し<ref>マルクス・エンゲルス、大内兵衛・向坂逸郎訳(1848:1946)『共産党宣言』岩波書店p.86</ref>、1867年の[[フェニアン]]によるアイルランド反乱の際には、植民地問題をイギリスの社会革命の一環として捉えるようになる。マルクスによれば、当時イギリスに隷属していたアイルランドはイギリスの地主制度の要塞になっている。イギリスで社会革命を推し進めるためには、アイルランドで大きな打撃を与えなければならない。「他の民族を隷属させる民族は、自分自身の鉄鎖を鍛えるのである。」「現在の強制された合併(すなわちアイルランドの隷属)を、できるなら自由で平等な連邦に、必要なら完全な分離に変えることが、イギリス労働者階級の解放の前提条件である」<ref>マルクス「総評議会からラテン系スイス連合評議会へ」『マルクス・エンゲルス全集 16巻』大月書店p.383.</ref>。

他方、マルクスのインド・中国論には[[オリエンタリズム]]という批判がある(たとえば[[エドワード・サイード]]のマルクス論)。しかし一方でマルクスのインド・中国論はヘーゲル的な歴史観によるものだという解釈もある<ref>今村仁司「解説」『マルクス・コレクション6』440-444頁</ref>。マルクスによれば、イギリスのインド支配や中国侵略は低劣な欲得づくで行われ、利益追求の手段もまた愚かだった。しかしイギリスは、無意識的にインドや中国の伝統的社会を解体するという歴史的役割を果たした。マルクスによれば、この事実を甘いヒューマニズムではなく冷厳なリアリズムで確認するべきである。「ブルジョワジーがひとつの進歩をもたらすときには、個人や人民を血と涙のなかで、悲惨と堕落のなかでひきずりまわさずにはこなかったではないか」。

ヨーロッパによって植民地、半植民地状態におかれたインドと中国の将来については、マルクスは次のように予測した。

「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか、このどちらかになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョワジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を、取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待してまちがいないようである」<ref>マルクス「イギリスのインド支配の将来の結果」『マルクス・エンゲルス全集 9巻』大月書店p.210-211.</ref>。

「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」<ref>マルクス「中国とヨーロッパにおける革命」『マルクス・コレクション6』296-297頁</ref>。

== 評価・批判 ==
{{See2|マルクスの共産主義思想、哲学への評価・批判については[[マルクス主義批判]]を、マルクスの経済理論については[[マルクス経済学への批判]]を}}
マルクスのことを[[フェルディナント・ラッサール]]は「経済学者になった[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]であり、社会主義者になった[[デヴィッド・リカード|リカード]]」と表現した<ref name="ウィーン(2002)276">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.276</ref>。

マルクスの伝記作家{{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}は「20世紀の歴史はマルクスの遺産のようなものだ。[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]も[[毛沢東]]も[[チェ・ゲバラ]]も[[フィデル・カストロ|カストロ]]も ―現代の偶像も、あるいは怪物も、みな自らをマルクスの後継者と宣言して憚らなかった。マルクスが生きていたら彼らをその通りに認めたかどうか、それはまた別問題だ。実際、彼の弟子を自称する道化たちは、彼の存命中からしばしば彼を絶望の淵に追いやることが少なくなかった。たとえば、フランスの新しい政党が自分たちはマルキシストであると宣言した時、マルクスはそれを聞いて『少なくとも私はマルキシストではない』と答えたという。それでも彼の死後、百年のうちに世界の人口の半数がマルキシズムを教義と公言する政府によって統治されるようになった。さらに彼の理念は経済学、歴史学、地理学、社会学、文学を大きく変えた。微賎の貧者がこれほどまでに世界的な信仰を呼び起こしながら、悲惨なまでに今なお誤解され続けているのは、それこそ[[イエス・キリスト]]以来ではないだろうか」と評する<ref name="ウィーン(2002)467-468">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.467-468</ref>。

歴史学者[[E.H.カー]]は「マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している<ref name="カー(1956)412-413">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.412-413</ref>。

政治哲学者[[アイザイア・バーリン]]は「マルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい」として、例えば[[唯物論]]は[[バールーフ・デ・スピノザ|スピノザ]]や[[ポール=アンリ・ティリ・ドルバック|ドルバック]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]に負うところが大きいこと、「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観は{{仮リンク|シモン=ニコラ=アンリ・ランゲ|fr|Simon-Nicolas-Henri Linguet}}や[[アンリ・ド・サン=シモン|サン=シモン]]が主張していたこと、「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論は[[ジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ|シスモンディ]]の発見であること、「第四階級の勃興」は初期フランス共産主義者によって主張されたこと、「プロレタリアの疎外」は[[マックス・シュティルナー]]がマルクスより1年早く主張していること、プロレタリア独裁は[[フランソワ・ノエル・バブーフ|バブーフ]]が設計したものであること、[[労働価値説]]は[[ジョン・ロック]]や[[アダム・スミス]]、[[デヴィッド・リカード|リカード]]ら古典経済学者に依拠していること、[[搾取]]と[[剰余価値説]]も[[シャルル・フーリエ]]がすでに主張していたこと、それへの対策の国家統制策も{{仮リンク|ジョン・フランシス・ブレイ|en|John Francis Bray}}、[[ウィリアム・トンプソン]]、[[トーマス・ホジスキン]]らがすでに論じていたことなどをバーリンはあげる<ref name="バーリン(1974)19">[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.19</ref>{{#tag:ref|さらにバーリンは述べる。「マルクスは自分の思想が他の思想家に負うていることを決して否定しようとはしなかった。」「マルクスの求める指標は目新しさではなく、真理であった。彼はその思想が最終的な形を取り始めたパリ時代の初期に他人の著作の中に真理を発見すると自己の新しい総合の中にそれを組み入れようと努力した」「マルクスはこれら膨大な素材をふるいにかけて、その中から独創的で真実かつ重要と思えるものを引き出してきた。そしてそれらを参照しつつ、新しい社会分析の方法を構築したのである。」「この長所は簡明な基本的諸原理を包括的・現実的にかつ細部にわたって見事に総合したことである」「いかなる現象であれ最も重要な問題は、その現象が経済構造に対して持っている関係、すなわちこの現象をその表現とする社会構造の中での経済力の諸関係に関わるものであると主張することによって、この理論は新しい批判と研究の道具を作り出したのである。」|group=注釈}}。「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する<ref>[[#バーリン(1974)|バーリン(1974)]] p.18-20/205</ref>。

[[城塚登]]はマルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する<ref name="城塚(1970)132">[[#城塚(1970)|城塚(1970)]] p.132</ref>。

[[2005年]]のイギリス[[BBC]]のラジオ番組の視聴者投票でマルクスは偉大な哲学者第1位に選ばれた。2位は[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]、3位は[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]、4位は[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、5位は[[プラトン]]、6位は[[イマヌエル・カント|カント]]、7位は[[トマス・アクィナス|アクィナス]]、8位は[[ソクラテス]]、9位は[[アリストテレス]]、10位は[[カール・ポパー|ポパー]]だった<ref>[https://www.bbc.co.uk/pressoffice/pressreleases/stories/2005/07_july/13/radio4.shtml Press Releases Marx wins In Our Time's Greatest Philosopher vote],BBC Radio 4,Date:13.07.2005</ref>。

== 家族 ==
=== 妻 ===
[[ファイル:Karl Marx Frau.jpg|サムネイル|180px|妻のジェニー]]
1836年にトリーア在住の貴族[[ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン]]の娘である[[イェニー・マルクス|イェニー]](ジェニー、1814-1881)と婚約し、1843年に結婚した<ref name="シュワルツシルト(1950)78"/><ref>[[#小牧(1966)|小牧(1966)]] p.51/229</ref>。マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、商人や保守派相手にはしばしばそれを見せびらかした<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.218-219</ref>。また困窮の時でもドイツの男爵令嬢にみすぼらしい恰好をさせるわけにはいかないとイェニーの衣服には金を使い、債権者を怒らせた<ref name="ウィーン(2002)218">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.218</ref>。

マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父である{{仮リンク|フィリップ・フォン・ヴェストファーレン|label=フィリップ|de|Philipp von Westphalen}}の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。同家は[[スコットランド]]王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない<ref>[[#廣松(2008)|廣松(2008)]] p.155-156</ref>。

イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となった[[フェルディナント・フォン・ヴェストファーレン|フェルディナント]]は、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた<ref name="シュワルツシルト(1950)78"/><ref name="ウィーン(2002)68">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.68</ref>。また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相[[オットー・フォン・マントイフェル]]の方針に背いてまで[[ユンカー]]のための保守政治を推し進めた人物でもある<ref name="メーリング(1974,1)47">[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.47</ref>。一方イェニーの弟{{仮リンク|エドガー・フォン・ヴェストファーレン|label=エドガー|de|Edgar von Westphalen}}はマルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた<ref>[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.133-134</ref><ref>[[#メーリング(1974,1)|メーリング(1974) 1巻]] p.47-48</ref>。

=== 子供 ===
[[File:Marx+Family and Engels.jpg|180px|thumb|マルクス(左上)と娘たち(前列左より長女ジェニー・キャロライン、四女[[エリノア・マルクス|エリノア]]、次女{{仮リンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ラウラ|de|Laura Lafargue}})。右上は[[フリードリヒ・エンゲルス]]。1864年頃]]
マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた<ref name="カー(1956)124"/>。晩年にも孫たちの訪問をなによりも喜び、孫たちの方からも愛される祖父だった<ref name="カー(1956)404">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.404</ref>。

# 長女{{仮リンク|ジェニー・ロンゲ|label=ジェニー・カロリーナ|de|Jenny Longuet}}([[1844年]]-[[1883年]])は、パリ・コミューンに参加してロンドンに亡命したフランス人社会主義者{{仮リンク|シャルル・ロンゲ|fr|Charles Longuet}}と結婚した<ref name="石浜(1931)289">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.289</ref><ref name="ウィーン(2002)392">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.392</ref>。彼女は父マルクスに先立って1883年1月に死去している<ref name="石浜(1931)290">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.290</ref>。
# 次女{{仮リンク|ジェニー・ラウラ・ラファルグ|label=ジェニー・ラウラ|de|Laura Lafargue}}([[1845年]]-[[1911年]])は、インターナショナル参加のために訪英したフランス人社会主義者[[ポール・ラファルグ]]と結婚したが、子供はできなかった。ポールとラウラは、社会主義者は老年になってプロレタリアのために働けなくなったら潔く去るべきだ、という意見をもっていて、1911年にポールとともに自殺した<ref name="ウィーン(2002)462">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.462</ref>。彼らの自殺は当時ヨーロッパの社会主義者たちの間でセンセーションを巻き起こした。
# 長男エドガー(エトガル{{Sfn|スパーバー|2015b|p=9}})([[1847年]]-[[1855年]]4月6日)は義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンに因んで名づけられた<ref name="石浜(1931)134">[[#石浜(1931)|石浜(1931)]] p.134</ref>。マルクスはこの長男エドガーをとりわけ可愛がっていた。娘に冷たいわけではなかったが、息子の方により愛着を持っていた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.261-262</ref>。8歳でなくなったエドガーの死にあたってマルクスは絶望し、この3カ月後にラッサールに送った手紙の中で「真に偉大な人々は、自然の世界との多くの関係、興味の対象を数多く持っているので、どんな損失も克服できるという。その伝でいけば、私はそのような偉大な人間ではないようだ。我が子の死は私を芯まで打ち砕いた」と書いている<ref name="ウィーン(2002)264">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.264</ref>。妻の子6人のほかに、メイドとの間に男児がいたとされる。
# 次男ヘンリー・エドワード・ガイ(ハインリヒ・グイード{{Sfn|スパーバー|2015a|p=326-331}})([[1849年]]-[[1850年]]11月19日)はイギリス議会爆破未遂犯[[ガイ・フォークス]]に因んで名付けたが<ref name="ウィーン(2002)182"/>、ディーン通りに引っ越す直前に幼くして突然死した<ref name="ウィーン(2002)200">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.200</ref>。
# 三女ジェニー・エヴェリン・フランセス(フランツィスカ{{Sfn|スパーバー|2015a|p=332-337}})([[1851年]]-[[1852年]]4月14日)もディーン通りの住居で気管支炎により幼い命を落としている<ref name="ウィーン(2002)211">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.211</ref>。
# 四女[[エリノア・マルクス|ジェニー・エリノア]]([[1855年]]-[[1898年]])は、三人の娘たちの中でも一番のおてんばであり、マルクスも可愛がっていた娘だった。とりわけ晩年のマルクスは彼女が側にいないと、いつも寂しそうにしたという<ref name="カー(1956)386-387">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.386-387</ref>。<!-- 彼女はイギリス人社会主義者{{仮リンク|エドワード・エイヴリング|en|Edward Aveling}}と同棲するが、このエイヴリングは女ったらしで、{{要検証範囲|やがて女優と結婚することが決まるとエリノアが邪魔になり、彼女を自殺に追い込む意図で心中を持ちかけた。エリノアは彼の言葉を信じて彼から渡された[[青酸カリ]]を飲んで自殺したが、エイヴリングは自殺せずにそのまま彼女の家を立ち去った|date=2015年1月}}。明らかに[[殺人罪]]であるが、エイヴリングが逮捕されることはついになかった<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.461-462</ref>。 -->エレノアの生涯は『[[ミス・マルクス]]』(日本公開2021年)として映画化された<ref>[https://www.elle.com/jp/culture/movie-tv/g37452173/toxic-father-karl-marx-and-his-daughter-eleanor-marx-210904/ マルクスに才能とケア労働を搾取された”父の娘”の壮絶な最後【毒家族に生まれて】]Elle, ハースト婦人画報社、2021/09/03 </ref>。[[1898年]][[3月31日]]に[[遺書]]を残して服毒自殺<ref name="Kapp, pp. 696-697">Kapp, ''Eleanor Marx: Volume 2,'' pp. 696-697.</ref>。

=== 婚外子 ===
[[File:Helene Demuth.jpg|180px|thumb|マルクスの非嫡出子を儲けたマルクス家のメイドの{{仮リンク|ヘレーネ・デムート|de|Helena Demuth}}|左]]
[[ファイル:Frederick Demuth-1.1.jpg|サムネイル|180px|マルクスとヘレーネの子とされるフレデリック。1921年]]
ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていた{{仮リンク|ヘレーネ・デムート|de|Helena Demuth}}(1820-1870、愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた<ref name="シュワルツシルト(1950)88"/><ref name="カー(1956)121">[[#カー(1956)|カー(1956)]] p.121</ref>。彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムート(1851-1929)を儲けた<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.205-211</ref>。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、[[里子]]に出されたが、1962年に発見された[[アムステルダム]]の「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった<ref name="ウィーン(2002)205">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.205</ref>。

このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる<ref name="ウィーン(2002)209">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.209</ref>。エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという<ref name="ウィーン(2002)206">[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.206</ref>。

ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている<ref>[[#ウィーン(2002)|ウィーン(2002)]] p.205/462</ref>。ロンドンの労働者階級の家庭の養子となって英国籍となり、機械工として修業後、機械工合同組合員となり、ハックニー労働党の創設メンバーと言われる<ref>Wheen, Francis (1999). Karl Marx. Fourth Estate. pp. 170–176</ref>
{{-}}

== マルクスの著作 ==
[[File:Das Kapital.JPG|180px|thumb|1973年に[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]で出版された『[[資本論]]』]]
*『{{仮リンク|デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異|en|The Difference Between the Democritean and Epicurean Philosophy of Nature}}』([[1840年]])
*『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』([[1842年]])
*『{{仮リンク|ヘーゲル法哲学批判序説|de|Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie}}』([[1843年]])
*『[[ユダヤ人問題によせて]]』([[1843年]])
*『[[経済学・哲学草稿]]』([[1844年]])
*『[[聖家族 (政治思想書)|聖家族]]』([[1844年]]、[[フリードリヒ・エンゲルス|エンゲルス]]との共著)
*『[[フォイエルバッハに関するテーゼ]]』(1845年)
*『[[ドイツ・イデオロギー]]』([[1845年]]、エンゲルスとの共著)
*『[[哲学の貧困]]』(''La misère de la philosophie'')([[1847年]])
*『[[共産党宣言]]』([[1848年]]、エンゲルスとの共著)
*『{{仮リンク|賃労働と資本|de|Lohnarbeit und Kapital}}』([[1849年]])
*『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』([[1850年]])
*『[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]』([[1852年]])
*『[[経済学批判要綱]]』([[1858年]])
*『[[経済学批判]]』([[1859年]])
*『{{仮リンク|フォークト君よ|de|Herr Vogt}}』([[1860年]])
*『{{仮リンク|剰余価値理論|de|Theorien über den Mehrwert}}』([[1863年]])
*『[[賃金、価格、利潤]]』([[1865年]])
*『[[資本論]]』(1巻[[1867年]]、2巻[[1885年]]、3巻[[1894年]]。2巻と3巻はマルクスの遺稿をエンゲルスが編纂・出版)
*『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』([[1871年]])
*『[[ゴータ綱領批判]]』([[1875年]])
*『{{仮リンク|労働者へのアンケート|de|Fragebogen für Arbeiter}}』([[1880年]])
*『{{仮リンク|ザスーリチへの手紙|de|Sassulitsch-Brief}}』([[1881年]])
{{-}}

== マルクス像 ==
東欧諸国には共産主義政党独裁時代に建てられた複数のマルクス像が現在まで残っている。また近年の2018年にも依然として中国共産党の独裁体制下にある中華人民共和国からマルクス生誕200年を記念して生誕地であるドイツのトリーアに対して高さ5.5m、重さ2.3tの彫像が寄贈され、除幕式には[[欧州委員会]]の[[ジャン=クロード・ユンケル]]委員長や[[ドイツ社会民主党]]の[[アンドレア・ナーレス]]党首などが出席したが<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-05-11|url= https://gendai.media/articles/-/55617?page=2|title= 中国がドイツに贈った「巨大マルクス像」が大論争を起こしたワケ|publisher= [[現代ビジネス]]|accessdate=2019-03-29}}</ref>、かつて[[ドイツ共産党]]の台頭によってナチスの独裁と東西分断といった負の影響もあったドイツではマルクスに対して否定的な見方が根強くあって彫像設置には批判も出ていた<ref>{{Cite web|和書|date= 2018-05-04|url= https://www.sankei.com/article/20180504-5YDZR5FTJFMLRBSMJFJ4FMS3EM/|title= マルクス像寄贈は中国のプロパガンダか? 独で議論「独裁の土台」「毒のある贈り物」|publisher= [[産経デジタル|産経ニュース]]|accessdate=2019-10-16}}</ref>。
{{Gallery
|lines=3
|File:Ulyanovsk pamyatnik K Marxu.jpg|[[ロシア]]・[[ウリヤノフスク]]にあるマルクス像
|File:Marx Engels Denkmal Berlin.jpg|[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]時代に建てられたマルクスとエンゲルスの銅像([[ドイツ]]・[[ベルリン]]の{{仮リンク|マルクス・エンゲルス・フォーラム|de|Marx-Engels-Forum}})
|File:Karl Marx memorial.jpg|東ドイツ時代に建てられたマルクスの巨大頭像(ドイツ・[[ケムニッツ]])
|File:Marx et Engels à Shanghai.jpg|マルクスとエンゲルスの像([[中華人民共和国]]・[[上海]])
|File:Karl-Marx-Statue in Trier Juni 2020.jpg|2018年に中華人民共和国からマルクス生誕200年を記念してドイツ・トリーア市に贈呈されたマルクス像。
}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Notelist|2}}

=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}

== 参考文献 ==<!-- 実際に参考にした文献一覧(本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典〈書籍、論文、資料やウェブページなど〉のみを列挙して下さい。実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、「関連文献」などとセクション名を分けて区別して下さい。 -->
*{{Cite book|和書|title=ザ・ロスチャイルド|publisher=[[経営科学出版]]|year=|isbn=978-4905319474|author=林千勝|authorlink=林千勝|date=2021年(令和3年)|ref=林(2021)}}
*{{Cite book|和書|author=ジャック・アタリ|authorlink=ジャック・アタリ|translator=[[的場昭弘]]||date=2014年|title=世界精神マルクス|publisher=[[藤原書店]]|ref={{harvid|[[アタリ]]|2014}}}}
*{{Cite book|和書|author=石浜知行|authorlink=石浜知行|date =1931年(昭和6年)|title=マルクス伝|url={{NDLDC|1880408}}|series=偉人傳全集第6巻|publisher=[[改造社]]|ref=石浜(1931)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|フランシス・ウィーン|en|Francis Wheen}}|translator=[[田口俊樹]]|date=2002年(平成14年)|title=カール・マルクスの生涯|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=978-4022577740|ref=ウィーン(2002)}}
*{{Cite book|和書|author=フランシス・ウィーン|translator=[[中山元]]|date=2007年(平成19年)|title=マルクスの『資本論』 (名著誕生)|publisher=[[ポプラ社]]|isbn=978-4591099124|ref=ウィーン(2007)}}
*{{Cite book|和書|author=江上照彦|authorlink=江上照彦|date=1972年(昭和47年)|title=ある革命家の華麗な生涯 フェルディナント・ラッサール|publisher=[[社会思想社]]|asin=B000J9G1V4|ref=江上(1972)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|エルンスト・エンゲルベルク|de|Ernst Engelberg}}|translator=[[野村美紀子]]|date=1996年(平成8年)|title=ビスマルク <small>生粋のプロイセン人・帝国創建の父</small>|publisher=[[海鳴社]]|isbn=978-4875251705|ref=エンゲルベルク(1996)}}
*{{Cite book|和書|author=大内兵衛|authorlink=大内兵衛|date=1964年(昭和39年)|title=マルクス・エンゲルス小伝|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4004110668|ref=大内(1964)}}
*{{Cite book|和書|author=太田恭二|authorlink=太田恭二|date =1930年(昭和5年)|title=マルクスとエンゲルスその生涯と学説|url={{NDLDC|1457632}}|publisher=[[紅玉堂書店]]|ref=太田(1930)}}
*{{Cite book|和書|author=E・H・カー|authorlink=E・H・カー|translator=[[石上良平]]|date=1956年(昭和31年)|title=カール・マルクス その生涯と思想の形成|publisher=[[未来社]]|asin=B000JB1AHC|ref=カー(1956)}}
*{{Cite book|和書|author=鹿島茂|authorlink=鹿島茂|date=2004年(平成16年)|title=怪帝ナポレオンIII世 <small>第二帝政全史</small>|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062125901|ref=鹿島(2004)}}
*{{Cite book|和書|author=コーリン・ガンブレル|authorlink=コーリン・ガンブレル|translator=[[湯浅赴男]]|series=リバー・ブックス|date=1989年(平成元年)|title=カール・マルクス|publisher=[[西村書店]]|isbn=978-4890131105|ref=ガンブレル(1989)}}
*{{Cite book|和書|author=ハリンリヒ・グムコー,マルクス=レーニン主義研究所|year=1972 |translator=[[土屋保男]],[[松本洋子]]|title=フリードリヒ・エンゲルス 一伝記(上)、(下)|publisher=[[大月書店]]|ref={{harvid|グムコー|1972}}}}
*{{Cite book|和書|author=小泉信三|authorlink=小泉信三|date=1967年(昭和42年)|title=小泉信三全集〈第7巻〉|publisher=[[文藝春秋]]|asin=B000JBGBO4|ref=小泉(1967)}}
* {{Citation| last = スパーバー| first = ジョナサン|authorlink=ジョナサン・スパーバー |translator= 小原淳 | year = 2015a | title = マルクス ある十九世紀人の生涯 上| publisher = 白水社}}
* {{Citation| last = スパーバー| first = ジョナサン|authorlink=ジョナサン・スパーバー |translator=小原淳| year = 2015b | title = マルクス ある十九世紀人の生涯 下| publisher = 白水社}}
*{{Cite book|和書|editor1=外川継男|editor1-link=外川継男|editor2=左近毅|editor2-link=左近毅|date=1973年(昭和48年)|title=バクーニン著作集 第6巻|publisher=[[白水社]]|asin=B000J9MY6U|ref=外川(1973)}}
*{{Cite book|和書|author=小牧治|authorlink=小牧治|date=1966年(昭和41年)|title=マルクス|series=人と思想20|publisher=[[清水書院]]|isbn=978-4389410209|ref=小牧(1966)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|レオポルト・シュワルツシルト|de|Leopold Schwarzschild}}|translator=[[竜口直太郎]]|date =1950年(昭和25年)|title=人間マルクス|publisher=[[雄鶏社]]|asin=B000JAPR54|ref=シュワルツシルト(1950)}}
*{{Cite book|和書|author=城塚登|authorlink=城塚登|date =1970年(昭和45年)|title=若きマルクスの思想|publisher=[[勁草書房]]|asin=B000J9OBWA|ref=城塚(1970)}}
*{{Cite book|和書|author=ロバート・L.ハイルブローナー|authorlink=ロバート・L.ハイルブローナー|translator=[[八木甫]]、[[浮田聡]]、[[堀岡治男]]、[[松原隆一郎]]、[[奥井智之]]|date =2001年(平成13年)|title=入門経済思想史 世俗の思想家たち|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480086655|ref=ハイルブローナー(2001)}}
*{{Cite book|和書|author=アイザイア・バーリン|authorlink=アイザイア・バーリン|translator=[[倉塚平]]、[[小箕俊介]]|date =1974年(昭和49年)|title=カール・マルクス その生涯と環境|publisher=[[中央公論社]]|asin=B000J9G9Z2|ref=バーリン(1974)}}
*{{Cite book|和書|author=アイザイア・バーリン|authorlink=アイザイア・バーリン|translator=[[谷福丸]]|editor1=福田歓一|editor1-link=福田歓一|editor2=河合秀和監修|editor2-link=河合秀和 (政治学者)|series=バーリン選集 1|date=1983年(平成5年)|title=思想と思想家|publisher=[[岩波書店]]|isbn=978-4000010009|ref=バーリン(1983)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|トリストラム・ハント|en|Tristram Hunt}} |translator=[[東郷えりか]] |year=2016 |title=エンゲルス: マルクスに将軍と呼ばれた男 |publisher=筑摩書房|ref={{harvid|ハント|2016}}}}
*{{Cite book|和書|author=廣松渉|authorlink=廣松渉|date=2008年(平成20年)|title=青年マルクス論|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582766547|ref=廣松(2008)}}
*{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|authorlink=フランツ・メーリング|translator=[[栗原佑]]|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝1|series=[[国民文庫]]440a|publisher=[[大月書店]]|asin=B000J9D4WI|ref=メーリング(1974,1)}}
*{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|translator=栗原佑|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝2|series=国民文庫440b|publisher=大月書店|asin=B000J9D4W8|ref=メーリング(1974,2)}}
*{{Cite book|和書|author=フランツ・メーリング|translator=栗原佑|date =1974年(昭和49年)|title=マルクス伝3|series=国民文庫440c|publisher=大月書店|asin=B000J9D4VY|ref=メーリング(1974,3)}}
*{{Citation|和書|title=カール・マルクス {{small|「資本主義」と闘った社会思想家}}|year=2016|last=佐々木|first=隆治|publisher=筑摩書房|isbn=978-4480068897}}
*コーン、ノーマン 『千年王国の追求』紀伊國屋書店、1978年。千年王国論の明らかな歴史主義に就いて。


== 参考文献 ==
* [[大内兵衛]] 『マルクス・エンゲルス小伝』 岩波書店〈岩波新書〉、1964年
* ナガイ・ケイ 『喧嘩屋マルクス』 富士書房、1989年
* 大村泉ほか 『ポートレートで読むマルクス 写真帖と告白帖にみるカール・マルクスとその家族』 極東書店、2005年
*{{Cite book|和書|author=[[廣松渉]]|date=2008年(平成20年)|title=青年マルクス論|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582766547|ref=廣松(2008)}}
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
<!-- 本文記事を理解する上での補足として役立つ、関連性のある項目へのウィキ間リンク、ウィキリンク。可能なら本文内に埋め込んで下さい。 -->
{{wikisourcelang|de|Karl Marx|カール・マルクス}}
{{wikisourcelang|de|Karl Marx|カール・マルクス}}
{{Wikiquote|カール・マルクス}}
{{Wikiquote|カール・マルクス}}
* [[マルクス主義]]、[[マルクス経済学]]
{{Commons|Karl Marx}}
* [[共産党宣言]]、[[資本論]]
* [[マルクス主義]]
* [[剰余価値]]、[[搾取]]、[[唯物弁証法]]、[[唯物史観]]、[[階級闘争]]、[[プロレタリア独裁]]
* [[マルクス経済学]]
* [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[弁証法]]
* [[弁証法]]
* [[青年ヘーゲル派]]、[[ヘーゲル主義者の一覧]]、[[ブルーノ・バウアー]]、[[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|ルートヴィヒ・フォイエルバッハ]]
* [[唯物論]]
* [[フリードリヒ・エンゲルス]]
* [[唯物史観]]
* [[フェルディナント・ラッサール]]、[[オットー・フォン・ビスマルク]]
* [[空想的社会主義]]
* [[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]
* [[青年ヘーゲル派]]
* [[ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ|フォイエルバッハ]]
* [[ブルーノ・バウアー]]
* [[マックス・シュティルナー]]
* [[第一インターナショナル]]
* [[ミハイル・バクーニン]]
* [[ミハイル・バクーニン]]
* [[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]、[[アウグスト・ベーベル]]、[[ドイツ社会民主党]]、[[ゴータ綱領批判]]
* [[共産党宣言]]
* [[ナポレオン3世]]、[[ルイ・ボナパルトのブリュメール18日]]
* [[ロシア革命]]
* [[共産主義者同盟]]、[[第一インターナショナル]]、[[パリ・コミューン]]
* [[ロシア革命]]、[[ウラジーミル・レーニン]]、[[ボルシェヴィキ]]
* [[マルクス主義関係の記事一覧]]
* [[マルクス主義関係の記事一覧]]
* [[カール・マルクス・ホーフ]]、[[カール=マルクス=アレー]]
* 『[[マルクス・エンゲルス]]』(2017年の映画。若年期のマルクスとエンゲルスを描いた映画)
* 『[[アサシン クリード シンジケート]]』(2015年のゲームソフト。マルクスが登場する)


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* {{DDB|Person|118578537}}
* [[田口富久治]][http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%EF%BC%88Karl%20Heinrich%20Marx%EF%BC%89/ 「マルクス」(Yahoo!百科事典)]
* [https://www.marxists.org/archive/marx/index.htm Marx Engels Archive]
* [http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe801.html 日本人に謝りたい -ユダヤ長老が明かす戦後病理の原像-]
* {{青空文庫著作者|1138|マルクス カール・ハインリッヒ}}
* [http://www.aozora.gr.jp/cards/000311/files/3265_10920.html カール・マルクスとその夫人]
* [https://www.project-archive.org/0/005.html カール・マルクス『経済学批判』「序説:物質的生活の生産様式が社会的・政治的・知的生活過程を規定する」] - ARCHIVE
* [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1138.html マルクス カール・ハインリッヒ:作家別作品リスト]([[青空文庫]])
* [https://www.project-archive.org/0/071.html 「カール・マルクス葬送の辞」(1883年3月17日)] - ARCHIVE。エンゲルスによるマルクスの追悼演説
{{SEP|marx|Karl Marx}}
* {{Kotobank|マルクス(Karl Heinrich Marx)}}


{{社会哲学と政治哲学}}
{{社会哲学と政治哲学}}
{{共産主義}}
{{大陸哲学}}
{{経済学}}
{{Normdaten}}


{{Good article}}
{{デフォルトソート:まるくす かある}}
{{Link FA|el}}
{{Link FA|it}}


{{DEFAULTSORT:まるくす かある}}
{{Link FA|la}}
[[Category:マルクス主義|**]]

[[Category:ドイツの哲学者]]
[[Category:19世紀ドイツの哲学者]]
[[Category:19世紀の学者]]
[[Category:19世紀の社会科学者]]
[[Category:19世紀の経済学者]]
[[Category:ドイツの政治哲学者]]
[[Category:ドイツの哲学史家]]
[[Category:ドイツの無神論活動家]]
[[Category:ドイツの経済学者]]
[[Category:ドイツの歴史学者]]
[[Category:ドイツのジャーナリスト]]
[[Category:ドイツの革命家]]
[[Category:ドイツの亡命者]]
[[Category:ハイゲイト墓地に埋葬されている人物]]
[[Category:自然哲学者]]
[[Category:社会哲学者]]
[[Category:歴史哲学者]]
[[Category:法哲学者]]
[[Category:無神論の哲学者]]
[[Category:科学技術の哲学者]]
[[Category:共産主義者]]
[[Category:共産主義者]]
[[Category:ドイツ社会主義の人物]]
[[Category:ドイツ社会主義の人物]]
[[Category:イギリス社会主義の人物]]
[[Category:イギリス社会主義の人物]]
[[Category:フランス社会主義の人物]]
[[Category:フランス社会主義の人物]]
<!--[[Category:ヨーロッパ社会主義の人物]]-->
[[Category:ドイツ反資本主義]]
[[Category:マルクス主義|**]]
[[Category:マルクス=エンゲルス|*まるくす]]
[[Category:マルクス=エンゲルス|*まるくす]]
[[Category:ドイツの経済学者]]
[[Category:ドイツのジャーナリスト]]
[[Category:新聞編集者]]
[[Category:新聞編集者]]
[[Category:マルクス経済学|*まるくす かる]]
[[Category:マルクス経済学|*まるくす かる]]
[[Category:ユダヤ系ドイツ人]]
[[Category:ユダヤ系ドイツ人]]
[[Category:ユダヤ人の後裔]]
[[Category:ユダヤ人の後裔]]
[[Category:ユダヤ人の哲学者]]
[[Category:ユダヤ人の無神論者]]
[[Category:無国籍の人物]]
[[Category:無国籍の人物]]
[[Category:ロシア革命]]
[[Category:ロシア革命]]
[[Category:ドイツの革命家]]
[[Category:宗教と科学に関する著作家]]
[[Category:ロイヤル・ソサエティー・オブ・アーツ・フェロー]]
[[Category:19世紀の社会科学者]]
[[Category:無神論者]]
[[Category:ドイツの紙幣の人物]]
[[Category:ドイツの紙幣の人物]]
[[Category:経済に関する人物]]
[[Category:経済に関する人物]]
[[Category:死刑廃止論者]]
[[Category:死刑廃止論者]]
[[Category:トリア]]
[[Category:ヴィクトリア朝の人物]]
[[Category:ドイツの亡]]
[[Category:1848年革の人物]]
[[Category:フリードリヒ・シラー大学イェーナ出身の人物]]
[[Category:ベルリン大学出身の人物]]
[[Category:ボン大学出身の人物]]
[[Category:トリーア出身の人物]]
[[Category:1818年生]]
[[Category:1818年生]]
[[Category:1883年没]]
[[Category:1883年没]]

{{Link GA|de}}
{{Link GA|cs}}

{{Link GA|no}}
{{Link GA|en}}

2024年12月14日 (土) 02:06時点における最新版

カール・マルクス
Karl Marx[注釈 1]
1875年8月24日のマルクスの写真
生誕 (1818-05-05) 1818年5月5日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国
ニーダーライン大公領属州ドイツ語版
トリーア
死没 (1883-03-14) 1883年3月14日(64歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
ロンドン
時代 19世紀の哲学
地域 西洋哲学
配偶者 イェニー・フォン・ヴェストファーレン
学派 大陸哲学唯物論科学的社会主義共産主義、若いころは青年ヘーゲル派
研究分野 自然哲学唯物論自然科学歴史哲学倫理学社会哲学政治哲学法哲学経済学、各国の近現代史、政治学社会学資本主義経済の分析
主な概念 弁証法的唯物論史的唯物論疎外労働価値説階級闘争剰余価値搾取価値形態相対的価値形態等価形態物神性物象化など多数
署名
テンプレートを表示

カール・マルクスドイツ語: Karl Marx英語: Karl Marx FRSA[注釈 2]1818年5月5日 - 1883年3月14日)は、プロイセン王国時代のドイツ哲学者経済学者革命家社会主義および労働運動に強い影響を与えた。1845年プロイセン国籍を離脱しており、以降は無国籍者であった。1849年(31歳)の渡英以降はイギリスを拠点として活動した。

フリードリヒ・エンゲルスの協力のもと、包括的な世界観および革命思想として科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたて、資本主義の高度な発展により社会主義共産主義社会が到来する必然性を説いた。ライフワークとしていた資本主義社会の研究は『資本論』に結実し、その理論に依拠した経済学体系はマルクス経済学と呼ばれ、20世紀以降の国際政治思想に多大な影響を与えた。

概要

[編集]

カール・マルクスは1818年、当時プロイセン王国領であったトリーアに生まれた[2]。現在のロスチャイルド家の礎を築いたネイサン・メイアー・ロスチャイルドと結婚したハンナ・コーエンとマルクスの祖母ナネッテ・コーエンは従姉妹関係にあたる。ユダヤ人であるコーエン家は当時イギリス綿製品を仕切っていた大富豪であり、そのコーエン&ロスチャイルド家の一員であったマルクス家も潤沢な資産を有していた[3]

1843年にイェニー・フォン・ヴェストファーレン(兄のフェルディナントはプロイセンの内務大臣。ヴェストファーレン家はプロイセンの貴族)と結婚。マルクスはその政治的出版物のために亡命を余儀なくされ、何十年もの間ロンドンで暮らし、1883年、同地で没した。主にロンドンでフリードリヒ・エンゲルスとともにその思想を発展させ、多くの著作を発表した。彼の最もよく知られている著作は、1848年の『共産党宣言』、および3巻から成る『資本論』である。マルクスの政治的および哲学的思想はその後の世界に多大な影響を与え、彼は様々な社会理論の学派の名前として用いられてきた。

マルクスの社会、経済、政治に関する批判的な理論(マルクス主義)では、有史以来の人間社会は階級対立を通じて発展するとされる。資本主義の下にあって階級対立は、生産手段を管理する支配階級(ブルジョワジー)と、賃金と引き換えに労働力を売る労働者階級(プロレタリア)の間に現れる。マルクスは、史的唯物論(唯物史観)として知られる批判的方法を以て、以前のどの階級社会とも同様に、資本主義が内部崩壊を引き起こし、新しいシステム(社会主義)へと変革されると予測した。

マルクスによれば、資本主義下の階級対立は、労働者階級の階級意識の発展をもたらし、労働者階級が政治的権力を獲得して最終的には階級のない自由な生産者の結社としての共産主義社会を確立する。マルクスは積極的にその実行を強く求め、労働者階級が資本主義を打倒し、社会経済的解放をもたらすために組織的な革命的行動をとるべきだと主張した。

マルクスは人類の歴史の中で最も影響力のある人物の一人であると説明されている。彼の著作は高く評価され、また批判されてきた。経済学における彼の研究は、労働と資本との関係、およびその後の経済思想に関する現在の理解の多くの基礎を築いた。世界中の多くの知識人、労働組合、芸術家、政党は、マルクスの仕事に影響を受けており、その多くは彼のアイデアを変更または適応している。マルクスは通常、現代社会科学の主要な創設者の一人として評価されている。

生涯

[編集]

出生と出自

[編集]
ブリュッケンシュトラーセ10番地(当時はブリュッカーガッセ664番地)にあるマルクスの生家
この家は1928年ドイツ社会民主党(SPD)によって買い取られ、以降マルクス博物館として保存されている。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権下で社民党が解散していた時期にはナチ党機関紙の本部になっていた。戦後再興した社民党によってマルクス博物館に戻された[4]

1818年5月5日午前2時頃、プロイセン王国ニーダーライン大公国県ドイツ語版に属するモーゼル川河畔の町トリーアのブリュッカーガッセ(Brückergasse)664番地に生まれる[4][5]

父はユダヤ教ラビだった弁護士ハインリヒ・マルクスドイツ語版[6][7]。母はオランダ出身のユダヤ教徒ヘンリエッテ(Henriette)(旧姓プレスブルク(Presburg))[6]。マルクスは夫妻の第3子(次男)であり、兄にモーリッツ・ダーフィット(Mauritz David)、姉にゾフィア(Sophia)がいたが、兄は夭折したため、マルクスが実質的な長男だった[8]。また後に妹が4人、弟が2人生まれているが、弟2人は夭折・若死にしている[8]

母方の従兄に銀行家のベンジャミン・フレデリック・フィリップスがいる(欧州最大の電機メーカー、フィリップスの創業者ジェラルド・フィリップス英語版の父)。

マルクスが生まれたトリーアは古代から続く歴史ある都市であり、長きにわたってトリーア大司教領の首都だったが、フランス革命戦争ナポレオン戦争中には他のライン地方ともどもフランスに支配され、自由主義思想の影響下に置かれた。ナポレオン敗退後、同地はウィーン会議の決議に基づき封建主義的なプロイセン王国の領土となったが、プロイセン政府は統治が根付くまではライン地方に対して慎重に統治に臨み、ナポレオン法典の存続も認めた。そのため自由主義資本主義カトリックの気風は残された[9][10][11]

マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父ザムエル・マルクスドイツ語版もその地位にあった[12]。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが[13]、彼はヴォルテールディドロの影響を受けた自由主義者であり[7][14][15]1812年からはフリーメイソンの会員にもなっている[16]。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し[注釈 3]1816年秋(1817年春とも)にプロイセン国教であるプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」の洗礼名を受けた[13][19][20]。弁護士だった父ハインリヒの年収は1500ターラーで、これはトリーアの富裕層上位5%に入った[21]。さらにハインリヒは妻の持参金、屋敷のほか、葡萄畑、商人や農民への貸付金、金利5%のロシア国債540ターラーの資産などを保有していた[21]

母方のプレスブルク家は数世紀前に中欧からオランダへ移民したユダヤ人家系であり[22]、やはり代々ラビを務めていた[8][23]。母自身もオランダに生まれ育ったので、ドイツ語会話や読み書きに不慣れだったという[22]。彼女は夫が改宗した際には改宗せず、マルクスら生まれてきた子供たちもユダヤ教会に籍を入れさせた[8][24]。叔父はフィリップスの創業者の祖父リオン・フィリップスオランダ語版でマルクスの財政援助者でもあった[25][26][27]

幼年期

[編集]
ジメオンガッセ(当時はジメオンシュトラーセ)にあるマルクスの育った家ドイツ語版

一家は1820年にブリュッカーガッセ664番地の家を離れて同じトリーア市内のジメオンシュトラーセ(Simeonstraße)1070番地へ引っ越した。

マルクスが6歳の時の1824年8月、第8子のカロリーネが生まれたのを機にマルクス家兄弟はそろって父と同じプロテスタントに改宗している。母もその翌年の1825年に改宗した[8][28]。この時に改宗した理由は資料がないため不明だが、封建主義的なプロイセンの統治や1820年代の農業恐慌でユダヤ人の土地投機が増えたことで反ユダヤ主義が強まりつつある時期だったからかもしれない[29][30]

マルクスが小学校教育を受けたという記録は今のところ発見されていない。父や父の法律事務所で働く修司生による家庭教育が初等教育の中心であったと見られる[4][31]。マルクスの幼年時代についてもあまりよく分かっていない[4]

トリーアのギムナジウム

[編集]

1830年、12歳の時にトリーアのフリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムドイツ語版に入学した[32]。このギムナジウムは父ハインリヒも所属していたトリーアの進歩派の会合『カジノクラブ』のメンバーであるフーゴ・ヴィッテンバッハが校長を務めていたため、自由主義の空気があった[33][34][35]

1830年にフランスで7月革命があり、ドイツでも自由主義が活気づいた。トリーアに近いハンバッハドイツ語版でも1832年に自由とドイツ統一を求める反政府派集会が開催された。これを警戒したプロイセン政府は反政府勢力への監視を強化し、ヴィッテンバッハ校長やそのギムナジウムも監視対象となった。1833年にはギムナジウムに警察の強制捜査が入り、ハンバッハ集会の文書を持っていた学生が一人逮捕された[33][35]。ついで1834年1月には父ハインリヒもライン県ドイツ語版県議会議員の集まりの席上でのスピーチが原因で警察の監視対象となり、地元の新聞は彼のスピーチを掲載することを禁止され、「カジノクラブ」も警察監視下に置かれた[36][37]。さらにギムナジウムの数学ヘブライ語の教師が革命的として処分され、ヴィッテンバッハ監視のため保守的な古典教師ロエルスが副校長として赴任してきた[35][38]

マルクスは15歳から17歳という多感な時期にこうした封建主義の弾圧の猛威を間近で目撃したのだった。しかしギムナジウム在学中のマルクスが政治活動を行っていた形跡はない。唯一それらしき行動は卒業の際の先生への挨拶回りで保守的なロエルス先生のところには挨拶にいかなかったことぐらいである(父の手紙によるとロエルス先生のところへ挨拶に来なかった学生はマルクス含めて二人だけで先生は大変怒っていたという)[38]

このギムナジウムでのマルクスの卒業免状や卒業試験が残っている[22]。それによれば卒業試験の結果は、宗教、ギリシャ語、ラテン語、古典作家の解釈で優秀な成績を収め、数学、フランス語、自然科学は普通ぐらいの成績だったという[39]。卒業免状の中の「才能及び熱意」の項目では「彼は良好な才能を有し、古代語、ドイツ語及び歴史においては非常に満足すべき、数学においては満足すべき、フランス語においては単に適度の熱意を示した」と書いてある[22]。この成績を見ても分かる通り、この頃のマルクスは文学への関心が強かった。当時のドイツの若者はユダヤ人詩人ハインリヒ・ハイネの影響でみな詩を作るのに熱中しており、ユダヤ人家庭の出身者ならなおさらであった。マルクスも例外ではなく、ギムナジウム卒業前後の将来の夢は詩人だったという[40]

卒業論文は『職業選択に際しての一青年の考察』。「人間の職業は自由に決められる物ではなく、境遇が人間の思想を作り、そこから職業が決まってくる」という記述があり、ここにすでに唯物論の影響が見られるという指摘もある[41]。「われわれが人類のために最もよく働きうるような生活上の地位を選んだ時には、重荷は我々を押しつぶすことはできない。何故なら、それは万人のための犠牲だからである」という箇所については、E.H.カーは「マルクスの信念の中のとは言えないが、少なくとも彼の性格の中の多くのものが、彼の育ったところの、規律、自己否定、および公共奉仕という厳しい伝統を反映している」としている[42]。他方ヴィッテンバッハ校長は「思想の豊富さと材料の配置の巧みさは認めるが、作者(マルクス)はまた異常な隠喩的表現を誇張して無理に使用するという、いつもの誤りに陥っている。そのため、全体の作品は必要な明瞭さ、時として正確さに欠けている。これは個々の表現についても全体の構成についても言える」という評価を下し[43]、マルクスの悪筆について「なんといやな文字だろう」と書いている[注釈 4][44]

ボン大学

[編集]
1836年ボン大学学生時代のマルクス

1835年10月にボン大学に入学した[2][45]。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった[46][47]。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた[48]。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという[46]

また1835年に18歳になったマルクスはプロイセン陸軍に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している[49]

当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという[50][51]。しかも学生に一般的だったサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでもって決闘したようである[50][52]

全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)[51]。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという[53]

1836年夏にトリーアに帰郷した際にイェニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約した[46][54][55]。ヴェストファーレン家は貴族の家柄であり、彼女の父ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは参事官としてトリーアに居住していた[56][57]。ルートヴィヒは父ハインリヒの友人で、マルクスの文学好きは彼の影響によるところが大きい[58]。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが[53][59][60]、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという[61]

貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた[54][62][63][64]

一方で、ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは、1810年までに家族から得た財産の取り分を使い果たしており、その後は官僚としての俸給だけで生活し、1834年の退職後は年金で暮らしており、その額はカールの父ハインリヒの年収1500ターラーの4分の3程度であったため、イェニーは十分な持参金を持つことができず、人目をひくような結婚相手を見つけられるあてもなかったとも考証されている[65]

ベルリン大学

[編集]
マルクス在学中から10年後の1850年のベルリン大学を描いた絵。

1836年10月にベルリン大学に転校した[2][66][67][68]。ベルリン大学は厳格をもって知られており、ボン大学で遊び歩くマルクスにもっとしっかり法学を勉強してほしいと願う父の希望での転校だった[67][69][70]。しかし、マルクス自身は、イェニーと疎遠になると考えて、この転校に乗り気でなかったという[70][71][72]

同大学で受講した講義は、法学がほとんどで、詩に関する講義はとっていない[73][74]。だが、詩や美術史への関心は持ち続け、それにローマ法への関心が加わって、哲学に最も強い関心を持つようになった[67]1837年1838年の冬に病気をしたが、その時に療養地シュトラローで、ヘーゲル哲学[注釈 5]の最初の影響を受けた[78][79][80]

以降ヘーゲル中央派に分類されつつもヘーゲル左派寄りのエドゥアルト・ガンスの授業を熱心に聴くようになった[81][82]。また、ブルーノ・バウアーカール・フリードリヒ・ケッペンドイツ語版ルートヴィヒ・アンドレアス・フォイエルバッハアーノルト・ルーゲアドルフ・フリードリヒ・ルーテンベルクドイツ語版らヘーゲル左派哲学者の酒場の集まり「ドクトル・クラブ(Doktorclub)」に頻繁に参加するようになり、その影響で一層ヘーゲル左派の思想に近づいた[83][84][85][86]。とりわけバウアーとケッペンから強い影響を受けた[87][88][89]。ちょうどこの時期は「ドクトル・クラブ」がキリスト教批判・無神論に傾き始めた時期だったが、マルクスはその中でも最左翼であったらしい[90][91]

ベルリン大学時代にも放埓な生活を送り、多額の借金を抱えることとなった。これについて、父ハインリヒは、手紙の中で「裕福な家庭の子弟でも年500ターレル以下でやっているというのに、我が息子殿ときたら700ターレルも使い、おまけに借金までつくりおって」と不満の小言を述べている[92][93][94]。また、ハインリヒは、自分が病弱だったこともあり、息子には早く法学学位を取得して法律職で金を稼げるようになってほしかったのだが、哲学などという非実務的な分野にかぶれて法学を疎かにしていることが心配でならなかった[95]。1837年12月9日付けの父からの手紙には、「おまえはおまえの両親に数々の不愉快な思いをさせ、喜ばせることはほとんどないか、全然なかった」と記されている[78]

1838年5月10日に父ハインリヒが病死した。父の死によって、法学で身を立てる意思はますます薄くなり、大学に残って哲学研究に没頭したいという気持ちが強まった[96][97]。博士号を得て哲学者になることを望むようになり、古代ギリシャの哲学者エピクロスデモクリトスの論文の執筆を開始した[84][90][98]。だが、母ヘンリエッテは、一人で7人の子供を養う身の上になってしまったため、長兄マルクスには早く卒業して働いてほしがっていた。しかし、マルクスは、新たな仕送りを要求するばかりだったので、母や姉ゾフィーと金銭をめぐって争うようになり、家族仲は険悪になっていった[97]

1840年キリスト教正統主義思想の強い影響を受けるロマン主義フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位し、保守的なヨハン・アルブレヒト・フォン・アイヒホルンドイツ語版文部大臣ドイツ語版に任命されたことで言論統制が強化された[注釈 6][84][100][99]。ベルリン大学にも1841年に反ヘーゲル派のフリードリヒ・シェリング教授が「不健全な空気を一掃せよ」という国王直々の命を受けて赴任してきた[100]

マルクスはベルリン大学で学士号修士号を取得後、博士号を取得するべく博士論文の執筆を始めていたが、そのようなこともあって、ベルリン大学に論文を提出することを避け、1841年4月6日に審査が迅速で知られるイェーナ大学に『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異英語版(Differenz der Demokritischen und Epikureischen Naturphilosophie)』と題した論文を提出し、9日後の4月15日に同大学から哲学博士号を授与された[101]。この論文は文体と構造においてヘーゲル哲学に大きく影響されている一方、エピクロスの「アトムの偏差」論に「自己意識」の立場を認めるヘーゲル左派の思想を踏襲している[注釈 7][104][105][106]

大学教授への道が閉ざされる

[編集]
ブルーノ・バウアー
若い頃のマルクスのヘーゲル左派・無神論仲間だったが、後にマルクスによって批判される。晩年は無神論や共産主義から離れた。

1841年4月に学位を取得した後、トリーアへ帰郷した[107][108]。大学教授になる夢を実現すべく、同年7月にボンへ移り、ボン大学で教授をしていたバウアーのもとを訪れる。バウアーの紹介で知り合ったボン大学教授連と煩わしがりながらも付き合うようになった[108]。しかしプロイセン政府による言論統制は強まっており、バウアーはすでに解任寸前の首の皮一枚だったため、マルクスとしてはバウアーの伝手は大して期待しておらず、いざという時には岳父ヴェスファーレンの伝手で大学教授になろうと思っていたようである(マルクスの学位論文の印刷用原稿にヴェストファーレンへの献辞がある)[109]

ボンでのマルクスとバウアーは『無神論文庫』という雑誌の発行を計画したが、この計画はうまくいかなかった[108][110]。二人は夏の間、ボンで無頼漢のような生活を送った。飲んだくれ、教会で大声をだして笑い、ロバでボンの街中を走りまわった。そうした無頼漢生活の極めつけが匿名のパロディー本『ヘーゲル この無神論者にして反キリスト者に対する最後の審判のラッパ(Die Posaune des jüngsten Gerichts über Hegel, den Atheisten und Antichristen)』をザクセン王国ライプツィヒで出版したことだった[110][111]。その内容は、敬虔なキリスト教徒が批判するというかたちでヘーゲルの無神論と革命性を明らかにするというもので、これは基本的にバウアーが書いた物であるが、マルクスも関係しているといわれる[108][110]

やがてこの本を書いたのは敬虔なキリスト教信徒ではなく無神論者バウアーと判明し、したがってその意図も明らかとなった[111]。バウアーはすでに『共観福音書の歴史的批判』という反キリスト教著作のためにプロイセン政府からマークされていたが、そこへこのようなパロディー本を出版したことでいよいよ政府から危険視されるようになった。1842年3月にバウアーが大学で講義することは禁止された。これによってマルクスも厳しい立場に追い込まれた[110][111][112][113][114]

マルクスのもう一つの伝手であった岳父ヴェストファーレンも同じころに死去し、マルクスの進路は大学も官職も絶望的となった[113]

『ライン新聞』のジャーナリストとして

[編集]
マルクスが編集長を務めていた『ライン新聞ドイツ語版

1841年夏にアーノルト・ルーゲは検閲が比較的緩やかなザクセン王国の王都ドレスデンへ移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版した。マルクスはケッペンを通じてルーゲに接近し、この雑誌にプロイセンの検閲制度を批判する論文を寄稿したが、ザクセン政府の検閲で掲載されなかった[注釈 8][108][116][117][118]

ザクセンでも検閲が強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿を断念し、彼の友人が何人か参加していたライン地方の『ライン新聞ドイツ語版』に目を転じた[118]。この新聞は1841年12月にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が新検閲令を発し、検閲を多少緩めたのを好機として1842年1月にダーゴベルト・オッペンハイムドイツ語版ルドルフ・カンプハウゼンらライン地方の急進派ブルジョワジーとバウアーやケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派が協力して創刊した新聞だった[注釈 9][121][119][122][123][124]

同紙を実質的に運営していたのは社会主義者のモーゼス・ヘスだったが、彼はヘーゲル左派の新人マルクスに注目していた。当時のマルクスは社会主義者ではなかったから「私は社会主義哲学には何の関心もなく、あなたの著作も読んではいません」とヘスに伝えていたものの、それでもヘスはマルクスを高く評価し、「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学の知恵を刺すような機知で包んでいる。ルソーとヴォルテールとホルバッハレッシングとハイネとヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」と絶賛していた[125]

マルクスは1842年5月にもボン(後にケルン)へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加し、論文を寄稿するようになった[126][127]。6月にプロイセン王を支持する形式をとって無神論の記事を書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事は検閲で却下された。また8月にも結婚の教会儀式に反対する記事を書いたのが検閲官に却下された。当時の新聞記事は無署名であるからマルクスが直接目を付けられる事はなかったものの、新聞に対する目は厳しくなった。最初の1年は試用期間だったが、それも終わりに近づいてきた10月に当局は『ライン新聞』に対して反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクスは新聞を守るために当局の命令に従うべきと主張し、その意見に賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新しい編集長に任じられた[128][129]

このような経緯であったから新編集長マルクスとしては新聞を存続させるために穏健路線をとるしかなかった。まず検閲当局に対して「これまでの我々の言葉は、全てフリードリヒ大王の御言葉を引用することで正当化できるものですが、今後は必要に迫られた場合以外は宗教問題を取り扱わないとお約束いたします」という誓約書を提出した[130]。実際にマルクスはその誓約を守り、バウアー派の急進的・無神論的な主張を抑え続けた(これによりバウアー派との関係が悪くなった)[131][132]。プロイセン検閲当局も「マルクスが編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している[133][134]

また7月革命後の1830年代のフランスで台頭した社会主義・共産主義思想が1840年代以降にドイツに輸出されてきていたが、当時のマルクスは共産主義者ではなく、あくまで自由主義者・民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存の共産主義には実現性を認めず、批判を加えていく」という方針を示した[注釈 10][138][139][135][140][141]。また「持たざる者と中産階級の衝突は平和的に解決し得ることを確信している」とも表明した[130]

一方で法律や節度の範囲内での反封建主義闘争は止めなかった。ライン県議会で制定された木材窃盗取締法を批判したり[注釈 11]ライン県ドイツ語版知事エドゥアルト・フォン・シャーパードイツ語版の方針に公然と反対するなどした[133]

だがこの態度が災いとなった。検閲を緩めたばかりに自由主義新聞が増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった。国内のみならず隣国のザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった[133][143]。マルクスの『ライン新聞』もプロイセンと神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動の支柱」と批判する記事を掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、1843年3月をもって廃刊させられることとなった[138][144][145][146][147]

マルクス当人は政府におもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしている[148]。また『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再勉強に集中する必要性を感じていた[149]

結婚

[編集]

年俸600ターレルの『ライン新聞』編集長職を失ったマルクスだったが、この後ルーゲから『独仏年誌』をフランスかベルギーで創刊する計画を打ち明けられ、年俸850ターレルでその共同編集長にならないかという誘いを受けた。次の職を探さねばならなかったマルクスはこれを承諾した[150][151][152]

ルーゲ達が『独仏年誌』創刊の準備をしている間の1843年6月12日、クロイツナハにおいて25歳のマルクスは29歳の婚約者イェニーと結婚した[150][153][154][155][156]

前ヴェストファーレン家当主ルートヴィヒは自由主義的な人物で二人の婚約に反対しなかったが、その子で当代当主となっているフェルディナント(イェニーの兄)は保守的な貴族主義者だったのでマルクスのことを「ユダヤのヘボ文士」「過激派の無神論者」と疎み、「そんなロクデナシと結婚して家名を汚すな」と結婚に反対した。他の親族も反対する者が多かった。だがイェニーの意思は変わらなかった[157][158]

これについてマルクスは「私の婚約者は、私のために最も苦しい闘い ―天上の主ベルリンの主を崇拝する信心深い貴族的な親類どもに対する闘い― を戦ってくれた。そのためにほとんど健康も害したほどである」と述べている[158]

フォイエルバッハの人間主義へ

[編集]
ルートヴィヒ・フォイエルバッハ
マルクスは彼から人間主義的唯物論の影響を受けつつ、その人間観が経済的基礎に裏付けられていないと批判した。

マルクスの再勉強はヘーゲル批判から始まった[150][159]。その勉強の中で『キリスト教の本質』(1841年)を著したフォイエルバッハ人間主義的唯物論から強い影響を受けるようになった。フォイエルバッハ以前の無神論者たちはまだ聖書解釈学の範疇から出ていなかったが、フォイエルバッハはそれを更に進めて神学を人間学にしようとした[160][161][162]。彼は「人間は個人としては有限で無力だが、類(彼は共同性を類的本質と考えていた[163])としては無限で万能である。神という概念は類としての人間を人間自らが人間の外へ置いた物に過ぎない」「つまり神とは人間である」「ヘーゲル哲学の言う精神あるいは絶対的な物という概念もキリスト教の言うところの神を難しく言い換えたに過ぎない」といった主張を行うことによって「絶対者」を「人間」に置き換えようとし、さらに「歴史の推進力は精神的なものではなく、物質的条件の総和であり、これがその中で生きている人間に思考し行動させる」として「人間」を「物質」と解釈した[164][165][166][167]

マルクスはこの人間主義的唯物論に深く共鳴し、後に『聖家族』の中で「フォイエルバッハは、ヘーゲル哲学の秘密を暴露し、精神の弁証法を絶滅させた。つまらん『無限の自己意識』に代わり、『人間』を据え置いたのだ」と評価した[168]。マルクスはこの1843年に弁証法と市民社会階級の対立などの社会科学的概念のみ引き継いでヘーゲル哲学の観念的立場から離れ、フォイエルバッハの人間主義の立場に立つようになったといえる[169][170]

マルクスは1843年3月から8月にかけて書斎に引きこもって『ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts)』の執筆にあたった[169][171]。これはフォイエルバッハの人間主義の立場からヘーゲルの国家観を批判したものである。ヘーゲルは「近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度である。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合する」と説くが[172]、これに対してマルクスは国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ[173]、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対した[174]。国家を主体化するヘーゲルに反対し、人間こそが具体物であり、国は抽象物に過ぎないとして「人間を体制の原理」とする「民主制」が帰結と論じ、「民主制のもとでは類(共同性)が実在としてあらわれる」と主張する。この段階では「民主制」という概念で語ったが、後にマルクスはこれを共産主義に置き換えて理解していくことになる[175]

パリ在住時代

[編集]

『独仏年誌』の発刊場所についてマルクスはフランス王国ストラスブールを希望していたが、ルーゲやヘスたちは検閲がフランスよりも緩めなベルギー王国王都ブリュッセルを希望した。しかし最終的には印刷環境がよく、かつドイツ人亡命者が多いフランス王都パリに定められた[176][177][178]

こうしてマルクスは1843年10月から新妻とともにパリへ移住し、ルーゲが用意したフォーブール・サンジェルマンフランス語版の共同住宅でルーゲとともに暮らすようになった[179][180]

「人間解放」

[編集]
独仏年誌』に掲載された『ヘーゲル法哲学批判序説ドイツ語版
この著作からマルクスは「非人間」のプロレタリアート階級を中心にした「人間解放」を訴えるようになった。

1844年2月に『独仏年誌』1号2号の合併号が出版された。マルクスとルーゲのほか、ヘスやハイネエンゲルスが寄稿した[181][182][183]。このうち著名人といえる者はハイネのみだった。ハイネはパリ在住時代にマルクスが親しく付き合っていたユダヤ人の亡命詩人であり、その縁で一篇の詩を寄せてもらったのだった[注釈 12][182][183]。エンゲルスは父が共同所有するイギリスの会社で働いていたブルジョワの息子だった。マルクスが『ライン新聞』編集長をしていた1842年11月に二人は初めて知り合い、以降エンゲルスはイギリスの社会状況についての論文を『ライン新聞』に寄稿するようになっていた[185][186]。エンゲルスは当時全くの無名の人物だったが、誌面を埋めるために論文を寄せてもらった[183]。マルクスは尊敬するフォイエルバッハにも執筆を依頼していたが、断られている[187]

マルクス自身はこの創刊号にルーゲへの手紙3通と『ユダヤ人問題によせて』と『ヘーゲル法哲学批判序説ドイツ語版』という2つの論文を載せている[147][187][188]。この中でマルクスは「ユダヤ人はもはや宗教的人種的存在ではなく、隣人から被った扱いによって貸金業その他職業を余儀なくされている純然たる経済的階級である。だから彼らは他の階級が解放されて初めて解放される。大事なことは政治的解放(国家が政治的権利や自由を与える)ではなく、市民社会からの人間的解放だ。」[189][190]、「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」[191]、「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されているプロレタリアート階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」といった趣旨のことを訴えた[192][193][194][195]。こうしていよいよプロレタリアートに注目するようになったマルクスだが、一方で既存の共産主義にはいまだ否定的な見解を示しており、この段階では人間解放を共産革命と想定していたわけではないようである。もっともローレンツ・フォン・シュタインが紹介した共産主義者の特徴「プロレタリアートを担い手とする社会革命」と今やほとんど類似していた[196]

しかし結局『独仏年誌』はハイネの詩が載っているということ以外、人々の関心をひかなかった[197]。当時パリには10万人のドイツ人がいたが、そのうち隅から隅まで読んでくれたのは一人だけだった。まずいことにそれは駐フランス・プロイセン大使だった。大使は直ちにこの危険分子たちのことをベルリン本国に報告した[198]。この報告を受けてプロイセン政府は国境で待ち伏せて、プロイセンに送られてきた『独仏年誌』を全て没収した(したがってこれらの分は丸赤字)。さらに「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名はプロイセンに入国次第、逮捕する」という声明まで出された[199][200][201]

スイスにあった出版社は赤字で倒産し、『独仏年誌』は創刊号だけで廃刊せざるをえなくなった[201][202][203][204]。マルクスはルーゲが金の出し惜しみをしたせいで廃刊になったと考え、ルーゲを批判した[205]。そのため二人の関係は急速に悪化し、ルーゲはマルクスを「恥知らずのユダヤ人」、マルクスはルーゲを「山師」と侮辱しあうようになった。二人はこれをもって絶縁した。後にマルクスもルーゲもロンドンで30年暮らすことになるが、その間も完全に没交渉だった[206]

そして共産主義へ

[編集]
フリードリヒ・エンゲルス(1840年頃)。
1844年に『聖家族』を共著してから親しくなり、以降生涯を通じて最も近しいパートナーとなった。

マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受けた[207][208][209]。エンゲルスはこの中でイギリス産業に触れた経験から私有財産制やそれを正当化するアダム・スミスリカードセイなどの国民経済学(古典派経済学)を批判した[210]

これに感化されたマルクスは経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになった。アダム・スミス、リカード、セイ、ジェームズ・ミル等の国民経済学者の本、またサン=シモンフーリエプルードン等の社会主義者の本を読み漁った[208]。この時の勉強のノートや草稿の一部をソ連のマルクス・エンゲルス・レーニン研究所が1932年に編纂して出版したのが『経済学・哲学草稿』である[211][212]。その中でマルクスは「国民経済学者は私有財産制の運動法則を説明するのに労働を生産の中枢と捉えても、労働者を人間としては認めず、労働する機能としか見ていない」点を指摘する[213]。またこれまでマルクスは「類としての人間」の本質をフォイエルバッハの用法そのままに「共同性・普遍性」という意味で使ってきたが、経済学的見地から「労働する人間」と明確に規定するようになった[214][215]。「生産的労働を行って、人間の類的本質を達成することが人間の本来的あり方」「しかし市民社会では生産物は労働者の物にはならず、労働をしない資本家によって私有・独占されるため、労働者は自己実現できず、疎外されている」と述べている[216][217]。またこの中でマルクスはいよいよ自分の立場を共産主義と定義するようになった[218]

1844年8月から9月にかけての10日間エンゲルスがマルクス宅に滞在し、2人で最初の共著『聖家族』を執筆を約束する。これ以降2人は親しい関係となった[219][220]。この著作はバウアー派を批判したもので[221]、「完全なる非人間のプロレタリアートにこそ人間解放という世界史的使命が与えられている」「しかしバウアー派はプロレタリアートを侮蔑して自分たちの哲学的批判だけが進歩の道だと思っている。まことにおめでたい聖家族どもである」「ヘーゲルの弁証法は素晴らしいが、一切の本質を人間ではなく精神に持ってきたのは誤りである。神と人間が逆さまになっていたように精神と人間が逆さまになっている。だからこれをひっくり返した新しい弁証法を確立せねばならない」と訴えた[222]

また1844年7月にルーゲが『フォールヴェルツドイツ語版』誌にシュレージエンで発生した織り工の一揆について「政治意識が欠如している」と批判する匿名論文を掲載したが、これに憤慨したマルクスはただちに同誌に反論文を送り、「革命の肥やしは政治意識ではなく階級意識」としてルーゲを批判し、シュレージエンの一揆を支持した[223][224][225][226]。マルクスはこれ以外にも23もの論文を同誌に寄稿した[227]

しかしこの『フォールヴェルツ』誌は常日頃プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を批判していたため、プロイセン政府から目を付けられていた。プロイセン政府はフランス政府に対して同誌を取り締まるよう何度も圧力をかけており、ついに1845年1月、フランス外務大臣フランソワ・ギゾーは、内務省を通じてマルクスはじめ『フォールヴェルツ』に寄稿している外国人を国外追放処分とした[227][228][229][230][231]

こうしてマルクスはパリを去らねばならなくなった。パリ滞在は14か月程度であったが、マルクスにとってこの時期は共産主義思想を確立する重大な変化の時期となった[232]

ブリュッセル在住時代

[編集]

マルクス一家は1845年2月にパリを離れ、ベルギー王都ブリュッセルに移住した[233][234]。ベルギー王レオポルド1世は政治的亡命者に割と寛大だったが、それでもプロイセン政府に目を付けられているマルクスがやって来ることには警戒した。マルクスはベルギー警察の求めに応じて「ベルギーに在住する許可を得るため、私は現代の政治に関するいかなる著作もベルギーにおいては出版しないことを誓います。」という念書を提出した[229][235]。しかし、マルクスはこの確約は政治に参加しないことを意味するものではないと解釈し、以後も政治的な活動を続けた[236]。またプロイセン政府はベルギー政府にも強い圧力をかけてきたため、マルクスは「北アメリカ移住のため」という名目でプロイセン国籍を正式に離脱した。以降マルクスは死ぬまで無国籍者であった[237]

ブリュッセルにはマルクス以外にもドイツからの亡命社会主義者が多く滞在しており、ヘス、詩人フェルディナント・フライリヒラート、元プロイセン軍将校のジャーナリストであるヨーゼフ・ヴァイデマイヤードイツ語版、学校教師のヴィルヘルム・ヴォルフドイツ語版、マルクスの義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンドイツ語版などがブリュッセルを往来した[238]。1845年4月にはエンゲルスもブリュッセルへ移住してきた[239]。この頃からエンゲルスに金銭援助してもらうようになる[240]

唯物史観と剰余価値理論の確立

[編集]

1845年夏からエンゲルスとともに『ドイツ・イデオロギー』を共著したが、出版社を見つけられず、この作品は二人の存命中には出版されることはなかった[241][242][243]。この著作の中でマルクスとエンゲルスは「西欧の革新的な哲学も封建主義的なドイツに入ると頭の中だけの哲学的空論になってしまう。大事なのは実践であり革命」と訴え、バウアーやフォイエルバッハらヘーゲル後の哲学者、またヘスやカール・グリューンら「真正社会主義者」[注釈 13]に批判を加えている[245][246]。マルクスは同じころに書いたメモ『フォイエルバッハに関するテーゼ』の中でもフォイエルバッハ批判を行っており、その中で「生産と関連する人間関係が歴史の基礎であり、宗教も哲学も道徳も全てその基礎から生まれた」と主張し、マルクスの最大の特徴ともいうべき唯物史観を萌芽させた[247]

さらに1847年には『哲学の貧困』を著した。これはプルードンの著作『貧困の哲学(:Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère)』を階級闘争の革命を目指さず、漸進主義ですませようとしている物として批判したものである[248]。この中でマルクスは「プルードンは労働者の賃金とその賃金による労働で生産された生産物の価値が同じだと思っているようだが、実際には賃金の方が価値が低い。低いから労働者は生産物と同じ価値の物を手に入れられない。したがって労働者は働いて賃金を得れば得るほど貧乏になっていく。つまり賃金こそが労働者を奴隷にしている」と主張し、剰余価値理論を萌芽させた[249]。また「生産力が増大すると人間の生産様式は変わる。生産様式が変わると社会生活の様式も変わる。思想や社会関係もそれに合わせて変化していく。古い経済学はブルジョワ市民社会のために生まれた思想だった。そして今、共産主義が労働者階級の思想となり、市民社会を打ち倒すことになる」と唯物史観を展開して階級闘争の必然性を力説する[250]。そして「プルードンは、古い経済学と共産主義を両方批判し、貧困な弁証法哲学で統合しようとする小ブルジョアに過ぎない」と結論している[251]

1847年末にはドイツ労働者協会の席上で労働者向けの講演を行ったが、これが1849年に『新ライン新聞』上で『賃金労働と資本ドイツ語版』としてまとめられるものである。その中で剰余価値理論(この段階ではまだ剰余価値という言葉を使用していないが)をより後の『資本論』に近い状態に発展させた。「賃金とは労働力という商品の価格である。本来労働は、人間自身の生命の活動であり、自己実現なのだが、労働者は他に売るものがないので生きるためにその力を売ってしまった。したがって彼の生命力の発現の労働も、その成果である生産物も彼の物ではなくなっている(労働・生産物からの疎外)。」[252]、「商品の価格は、その生産費、つまり労働時間によってきまる。労働力という商品の価格(賃金)も同様である。労働力の生産費、つまり生活費で決まる」[253]、「資本家は労働力を購入して、そしてその購入費以上に労働をさせて労働力を搾取することで資本を増やす。資本が増大すればブルジョワの労働者への支配力も増す。賃金労働者は永久に資本に隷従することになる。」といった主旨のことを述べている[254]

共産主義者同盟の結成と『共産党宣言』

[編集]
共産主義者同盟の綱領として書かれた革命実践の小冊子『共産党宣言

パリ時代のマルクスは革命活動への参加に慎重姿勢を崩さなかったが、唯物史観から「プロレタリア革命の必然性」を確信するようになった今、マルクスに革命を恐れる理由はなかった。「現在の問題は実践、つまり革命である」と語るようになった[255]

1846年2月にはエンゲルス、ヘス、義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンドイツ語版フェルディナント・フライリヒラートヨーゼフ・ヴァイデマイヤードイツ語版ヴィルヘルム・ヴァイトリングヘルマン・クリーゲドイツ語版エルンスト・ドロンケドイツ語版らとともにロンドンのドイツ人共産主義者の秘密結社「正義者同盟」との連絡組織として「共産主義通信委員会」をブリュッセルに創設している[256][257][258][259]。しかしマルクスの組織運営は独裁的と批判される。創設してすぐにヴァイトリングとクリーゲを批判して除名する。そのあとすぐモーゼス・ヘスが除名される前に辞任した。マルクスは瞬く間に「民主的な独裁者」の悪名をとるようになる[260][261]。その一方、マルクスはフランスのプルードンに参加を要請したが、「運動の最前線にいるからといって、新たな不寛容の指導者になるのはやめましょう」と断られている。この数カ月後にマルクスは上記の『哲学の貧困』でプルードン批判を開始する[256][262]

新たな参加者が現れず、停滞気味の中の1847年1月、ロンドン正義者同盟のマクシミリアン・ヨーゼフ・モルドイツ語版がマルクスのもとを訪れ、マルクスの定めた綱領の下で両組織を合同させることを提案した。マルクスはこれを許可し、6月のロンドンでの大会で共産主義通信委員会は正義者同盟と合同し、国際秘密結社「共産主義者同盟 (1847年)」を結成することを正式に決議した[263][264]。またマルクスの希望でプルードン、ヴァイトリング、クリーゲの三名を「共産主義の敵」とする決議も出された[265]

合同によりマルクスは共産主義者同盟ブリュッセル支部長という立場になった[265]。11月にロンドンで開催された第二回大会に出席し、同大会から綱領作成を一任されたマルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『共産党宣言』を完成させた[256][266][267]。一応エンゲルスとの共著となっているが、ほとんどマルクスが一人で書いたものだった[268]

この『共産党宣言』は「一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。共産主義という名の妖怪が」という有名な序文で始まる。ついで第一章冒頭で「これまでに存在したすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と定義し、第一章と第二章でプロレタリアが共産主義革命でブルジョワを打倒することは歴史的必然であると説く[269][270]。さらに第三章では「似非社会主義・共産主義」を批判する[注釈 14]。そして最終章の第四章で具体的な革命の行動指針を定めているが、その中でマルクスは、封建主義的なドイツにおいては、ブルジョワが封建主義を打倒するブルジョワ革命を目指す限りはブルジョワに協力するが、その場合もブルジョワへの対立意識を失わず、封建主義体制を転覆させることに成功したら、ただちにブルジョワを打倒するプロレタリア革命を開始するとしている[272]。そして最後は以下の有名な言葉で締めくくった。

共産主義者はこれまでの全ての社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に恐れおののくがいい。プロレタリアは革命において鎖以外に失う物をもたない。彼らが獲得する物は全世界である。万国のプロレタリアよ、団結せよ[273]

1848年革命をめぐって

[編集]
1848年革命のヨーロッパ。

1847年の恐慌による失業者の増大でかねてから不穏な空気が漂っていたフランス王都パリ1848年2月22日に暴動が発生し、24日にフランス王ルイ・フィリップが王位を追われて共和政政府が樹立される事件が発生した(2月革命[注釈 15][278][275]。この2月革命の影響は他のヨーロッパ諸国にも急速に波及し、近代ヨーロッパの転換点となった[279]

ドイツ連邦議会ドイツ語版議長国であるオーストリア帝国の帝都ウィーンでは3月13日に学生や市民らの運動により宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒが辞職してイギリスに亡命することを余儀なくされ、皇帝フェルディナント1世も一時ウィーンを離れる事態となった。オーストリア支配下のハンガリーボヘミア、北イタリアでは民族運動が激化。イタリア諸国のイタリア統一運動も刺激された[280]。プロイセン王都ベルリンでも3月18日に市民が蜂起し、翌19日には国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が国王軍をベルリン市内から退去させ、自ら市民軍の管理下に入り、自由主義内閣の組閣、憲法の制定、プロイセン国民議会ドイツ語版の創設、ドイツ統一運動に承諾を与えた[281][282]。他のドイツ諸邦でも次々と同じような蜂起が発生した[283]。そして自由都市フランクフルト・アム・マインにドイツ統一憲法を制定するためのドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)が設置されるに至った[注釈 16][284]

ベルギー警察に逮捕される

[編集]

マルクスは、2月革命後にフランス臨時政府のメンバーとなっていたフェルディナン・フロコンフランス語版から「ギゾーの命令は無効になったからパリに戻ってこい」という誘いを受けた[285][286][287]。マルクスはこれ幸いと早速パリに向かう準備を開始した[286][288]

その準備中の3月3日、革命の波及を恐れていたベルギー王レオポルド1世からの「24時間以内にベルギー国内から退去し、二度とベルギーに戻るな」という勅命がマルクスのもとに届けられた[289]。いわれるまでもなくベルギーを退去する予定のマルクスだったが、3月4日に入った午前1時、ベルギー警察が寝所にやってきて逮捕された[256][290]。町役場の留置場に入れられたが、「訳の分からないことを口走る狂人」と同じ監房に入れられ、一晩中その「狂人」の暴力に怯えながら過ごす羽目になったという[288]。同日早朝、マルクスとの面会に訪れた妻イェニーも身分証を所持していないとの理由で「放浪罪」容疑で逮捕された[291]

マルクス夫妻の逮捕についてベルギー警察を批判する意見もあるが、妻イェニーは「ブリュッセルのドイツ人労働者は武装することを決めていました。そのため短剣やピストルをかき集めていました。カールはちょうど遺産を受け取った頃だったので、喜んでその金を武器購入費として提供しました。(ベルギー)政府はそれを謀議・犯罪計画と見たのでしょう。マルクスは逮捕されなければならなかったのです。」と証言している[291]

3月4日午後3時にマルクスとイェニーは釈放され、警察官の監視のもとで慌ただしくフランスへ向けて出国することになった。その道中の列車内は革命伝染阻止のために出動したベルギー軍人で溢れかえっていたという。列車はフランス北部の町ヴァランシエンヌで停まり、マルクス一家はそこから乗合馬車でパリに向かった[291]

共産主義者同盟をパリに移す

[編集]
1848年のパリ

3月5日にパリに到着したマルクスは翌6日にも共産主義者同盟の中央委員会をパリに創設した。議長にはマルクスが就任し、エンゲルス、カール・シャッパー、モル、ヴォルフ、ドロンケらが書記・委員を務めた[292][293]。議長マルクスはメンバーに赤いリボンを付けることを決議して組織の団結力を高めたが、共産主義者同盟は秘密結社であるから、この名前で活動するわけにもいかず、表向きの組織として「ドイツ労働者クラブ」も結成した[294]

3月21日にはエンゲルスとともに17カ条から成る『ドイツにおける共産党の要求』を発表した。ブルジョワとの連携を意識して『共産党宣言』よりも若干マイルドな内容になっている[注釈 17][295]

マルクスは革命のために必要なのは詩人や教授の部隊ではなく、プロパガンダと扇動だと考えていた[296]。しかし在パリ・ドイツ人労働者には即時行動したがる者が多く、ゲオルク・ヘルヴェークアデルベルト・フォン・ボルンシュテットドイツ語版の「パリでドイツ人労働者軍団を組織してドイツへ進軍する」という夢想的計画が人気を集めていた。フランス臨時政府も物騒な外国人労働者たちをまとめて追い出すチャンスと見てこの計画を積極的に支援した。一方マルクスは「馬鹿げた計画はかえってドイツ革命を阻害する。在パリ・ドイツ人労働者をみすみす反動政府に引き渡しに行くようなものだ」としてこの計画に強く反対した[287][296][297]。ヘルヴェークとボルンシュテットが「黒赤金同盟」を結成すると、マルクスはこれを自分の共産主義者同盟に対抗するものと看做し、ボルンシュテットを共産主義者同盟から除名した(ヘルヴェークはもともと共産主義者同盟のメンバーではなかった)[298]。結局この二人は4月1日から数百人のドイツ人労働者軍団を率いてドイツ国境を越えて進軍するも、バーデン軍の反撃を受けてあっというまに武装解除されてしまう[296][297][299]

マルクスはこういう国外で労働者軍団を編成してドイツへ攻め込むというような冒険的計画には反対だったが、革命扇動工作員を個別にドイツ各地に送り込み、その地の革命を煽動させることには熱心だった[300]。マルクスの指示のもと、3月下旬から4月上旬にかけて共産主義者同盟のメンバーが次々とドイツ各地に工作員として送りこまれた[301]。フロコンの協力も得て最終的には300人から400人を送りこむことに成功した[300]。エンゲルスは父や父の友人の資本家から革命資金を募ろうとヴッパータールに向かった[302]

ケルン移住と『新ライン新聞』発行

[編集]
新ライン新聞』1848年6月19日号

マルクスとその家族は4月上旬にプロイセン領ライン地方ケルンに入った[302]。革命扇動を行うための新たな新聞の発行準備を開始したが、苦労したのは出資者を募ることだった。ヴッパータールへ資金集めにいったエンゲルスはほとんど成果を上げられずに戻ってきた[303][304]。結局マルクス自らが駆け回って4月中旬までには自由主義ブルジョワの出資者を複数見つけることができた[299][303]。ケルンの小規模実業家や専門職からの資金提供や、マルクスも相続金の一部を差し出し、13000ターラー集まった[305]

新たな新聞の名前は『新ライン新聞』と決まった。創刊予定日は当初7月1日に定められていたが、封建勢力の反転攻勢を阻止するためには一刻の猶予も許されないと焦っていたマルクスは、創刊日を6月1日に早めさせた[256][299][306]。同紙はマルクスを編集長として、エンゲルスやシャッパー、ドロンケ、フライリヒラート、ヴォルフなどが編集員として参加した[303][306]。マルクスの年俸は1500ターラーで、今までで最も恵まれた環境になった[307]

しかしマルクスは同紙の運営も独裁的に行い、ステファン・ボルンドイツ語版からは「どんなに暴君に忠実に仕える臣下であってもマルクスの無秩序な専制にはついていかれないだろう」と評された。マルクスの独裁ぶりは親友のエンゲルスからさえも指摘された[注釈 18][306]

同紙は「共産主義の機関紙」ではなく「民主主義の機関紙」と銘打っていたが、これは出資者への配慮、また封建主義打倒まではブルジョワ自由主義と連携しなければいけないという『共産党宣言』で示した方針に基づく戦術だった[256][309][310][311]

プロレタリア革命の「前段階」たるブルジョワ革命を叱咤激励しながら、「大問題・大事件が発生して全住民を闘争に駆り立てられる状況になった時のみ蜂起は成功する」として時を得ないで即時蜂起を訴える意見は退けた。またドイツ統一運動も支援し、フランクフルト国民議会にも参加していく方針を示した[312]。マルクスは国境・民族を越える人であり、民族主義者ではないが、ドイツの「政治的後進性」は小国家分裂状態によってもたらされていると見ていたのである[313]。外交面ではポーランド人やイタリア人、ハンガリー人の民族運動を支持した。また「革命と民族主義を蹂躙する反動の本拠地ロシアと戦争することが(革命や民族主義を蹂躙してきた)ドイツの贖罪であり、ドイツの専制君主どもを倒す道でもある」としてロシアとの戦争を盛んに煽った[314]

革命の衰退

[編集]
パリの6月蜂起でフランス軍に殲滅された蜂起労働者たちの死体を描いた絵画

しかし、革命の機運は衰えていく一方だった。「反動の本拠地」ロシアにはついに革命が波及せず、4月10日にはイギリスでチャーティスト運動が抑え込まれた[315]6月23日にはフランス・パリで労働者の蜂起が発生するも(6月蜂起)、ルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いるフランス軍によって徹底的に鎮圧された[299][315]。この事件はヨーロッパ各国の保守派を勇気づけ、保守派の本格的な反転攻勢の狼煙となった[311][316]ヨーゼフ・フォン・ラデツキー元帥率いるオーストリア軍ロンバルディア(北イタリア)に出動してイタリア民族運動を鎮圧することに成功し、オーストリアはヨーロッパ保守大国の地位を取り戻した[317]。プロイセンでは革命以来ルドルフ・カンプハウゼンダーヴィト・ハンゼマンドイツ語版の自由主義内閣が発足していたが、彼らもどんどん封建主義勢力と妥協的になっていた[318]。5月から開催されていたフランクフルト国民議会も夏の間、不和と空回りした議論を続け、ドイツ統一のための有効な手を打てなかった[310]

革命の破局の時が迫っていることに危機感を抱いたマルクスは、『新ライン新聞』で「ハンゼマンの内閣は曖昧な矛盾した任務を果たしていく中で、今ようやく打ち立てられようとしているブルジョワ支配と内閣が反動封建分子に出し抜かれつつあることに気づいているはずだ。このままでは遠からず内閣は反動によって潰されるだろう。ブルジョワはもっと民主主義的に行動し、全人民を同盟者にするのでなければ自分たちの支配を勝ち取ることなどできないということを自覚せよ」「ベルリン国民議会は泣き言を並べ、利口ぶってるだけで、なんの決断力もない」「ブルジョワは、最も自然な同盟者である農民を平気で裏切っている。農民の協力がなければブルジョワなど貴族の前では無力だということを知れ」とブルジョワの革命不徹底を批判した[319]

マルクスの『新ライン新聞』に対する風当たりは強まっていき、7月7日には検察官侮辱の容疑でマルクスの事務所に強制捜査が入り、起訴された[320]。だがマルクスは立場を変えようとしなかったので、9月25日にケルンに戒厳令が発せられた際に軍司令官から新聞発行停止命令を受けた。シャッパーやベッカーが逮捕され、エンゲルスにも逮捕状が出たが、彼は行方をくらました。新聞の出資者だったブルジョワ自由主義者もこの頃までにほとんどが逃げ出していた[321]

10月12日に戒厳令が解除されるとマルクスはただちに『新ライン新聞』を再発行した。ブルジョワが逃げてしまったので、マルクスは将来の遺産相続分まで含めた自分の全財産を投げ打って同紙を個人所有し、何とか維持させた。

しかし革命派の戦況はまずます絶望的になりつつあった。10月16日にオーストリア帝都ウィーンで発生した市民暴動は同月末までにヴィンディシュ=グレーツ伯爵率いるオーストリア軍によって蹴散らされた。またこの際ウィーンに滞在中だったフランクフルト国民議会の民主派議員ローベルト・ブルムドイツ語版が見せしめの即決裁判で処刑された[322]。プロイセンでも11月1日に保守派のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵が宰相に就任し、11月10日にはフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥率いるプロイセン軍がベルリンを占領して市民軍を解散させ、プロイセン国民議会も停会させた[323]

武装闘争とプロイセンからの追放

[編集]
1849年5月18日に赤刷りで出した『新ライン新聞』最終号

プロイセン国民議会は停会する直前に納税拒否を決議した[324][325]。マルクスはこの納税拒否の決議をあくまで推進しようと、11月18日に「民主主義派ライン委員会」の決議として「強制的徴税はいかなる手段を用いてでも阻止せねばならず、(徴税に来る)敵を撃退するために武装組織を編成せよ」という宣言を出した[326][327][328]

フェルディナント・ラッサールデュッセルドルフでこれに呼応するも、彼は11月22日に反逆容疑で逮捕された[329]。マルクスも反逆を煽動した容疑で起訴され、1849年2月8日陪審制の裁判にかけられた[329]。マルクスは「暴動を示唆」したことを認めていたが、陪審員には反政府派が多かったため、「国民議会の決議を守るために武装組織の編成を呼び掛けただけであり、合憲である」として全員一致でマルクスを無罪とした[326]

この無罪判決のおかげで『新ライン新聞』はその後もしばらく活動できたが、軍からの警戒は強まった。3月2日には軍人がマルクスの事務所にやってきてサーベルを抜いて脅迫してきたが、マルクスは拳銃を見せて追い払った。エンゲルスは後年に「8000人のプロイセン軍が駐屯するケルンで『新ライン新聞』を発行できたことをよく驚かれたものだが、これは『新ライン新聞』の事務所に8丁の銃剣と250発の弾丸、ジャコバン派の赤い帽子があったためだ。強襲するのが困難な要塞と思われていたのだ」と語っている[330]

5月にフランクフルト国民議会の決議したドイツ帝国憲法とドイツ帝冠をプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が拒否したことで、ドイツ中の革命派が再び蜂起した。とりわけバーデン大公国とバイエルン王国領プファルツ地方で発生した武装蜂起は拡大した。亡命を余儀なくされたバーデン大公はプロイセン軍に鎮圧を要請し、これを受けてプロイセン皇太弟ヴィルヘルム(後のプロイセン王・ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世)率いるプロイセン軍が出動した[331][332]

革命の機運が戻ってきたと見たマルクスは『新ライン新聞』で各地の武装蜂起を嬉々として報じた[333]。これがきっかけで5月16日にプロイセン当局より『新ライン新聞』のメンバーに対して国外追放処分が下され、同紙は廃刊を余儀なくされた。マルクスは5月18日の『新ライン新聞』最終号を刷りで出版し、「我々の最後の言葉はどこでも常に労働者階級の解放である!」と締めくくった[333][334][335]。マルクスは全ての印刷機や家具を売り払って『新ライン新聞』の負債の清算を行ったが、それによって一文無しとなった[333][335]

パリ亡命を決意したマルクスは、エンゲルスとともにバーデン・プファルツ蜂起の中心地であるカイザースラウテルンに向かい、そこに作られていた臨時政府からパリで「ドイツ革命党」代表を名乗る委任状をもらった。そこからの帰途、二人はヘッセン大公国軍に逮捕されるも、まもなくフランクフルト・アム・マインで釈放された[336]。マルクスはそのままパリへ亡命したが、エンゲルスは逃亡を嫌がり、バーデンの革命軍に入隊し、武装闘争に身を投じた[336][337][338]

フランスを経てイギリスへ

[編集]

6月初旬に「プファルツ革命政府の外交官」と称して偽造パスポートでフランスに入国。パリのリール通りフランス語版に居住し、「ランボス」という偽名で文無しの潜伏生活を開始した[339]。ラッサールやフライリヒラートから金の無心をして生計を立てた[340]

この頃のフランスはナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオン・ボナパルト(後のフランス皇帝ナポレオン3世)が大統領を務めていた[341]。ルイ・ボナパルトはカトリック保守の秩序党の支持を得て、教皇のローマ帰還を支援すべく、対ローマ共和国戦争を遂行していたが、左翼勢力がこれに反発し、6月13日に蜂起が発生した。しかしこの蜂起はフランス軍によって徹底的に鎮圧され、フランスの左翼勢力は壊滅的な打撃を受けた(6月事件)[339][342]

この事件の影響でフランス警察の外国人監視が強まり、偽名で生活していたマルクスも8月16日にパリ行政長官からモルビアン県へ退去するよう命令を受けた。マルクス一家は命令通りにモルビアンへ移住したが、ここはポンティノ湿地フランス語版の影響でマラリアが流行していた。このままでは自分も家族も病死すると確信したマルクスは、「フランス政府による陰険な暗殺計画」から逃れるため、フランスからも出国する覚悟を固めた[343]

ドイツ諸国やベルギーには戻れないし、スイスからも入国を拒否されていたマルクスを受け入れてくれる国はイギリス以外にはなかった[343]

ロンドン在住時代

[編集]

ディーン通りで赤貧生活

[編集]
マルクスが暮らしていたディーン通り英語版28番地の住居。マルクスのブルー・プラークが入っている。

ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると[344]、1849年8月27日に船に乗り、イギリスに入国した[345]。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという[346]

イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンでキャンバーウェル英語版にある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった[347]

これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だったソーホーディーン通り英語版28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた[348][349][350]

プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという[351][352]。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した[353][354]。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった[355][356][357]

それでもマルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた[353][358]。のみならず秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった[359]。また、レイ・ランケスターといった博物館関係者とも親交を得た。

生計はフリードリヒ・エンゲルスからの定期的な仕送り[注釈 19]、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)への不定期な金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカ合衆国の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親にさえ金を無心している(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)[362]

しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった[359]。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという[360]。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという[348][360]

自分の雑誌とアメリカの新聞で文芸活動

[編集]
1864年の『ニューヨーク・トリビューン

エンゲルスが参加していたバーデン・プファルツの武装闘争はプロイセン軍によって完全に鎮圧された。エンゲルスはスイスに亡命し、女と酒に溺れる日々を送るようになった。マルクスは彼に手紙を送り、「スイスなどにいてはいけない。ロンドンでやるべきことをやろうではないか」とロンドン移住を薦めた[363][364]。これに応じてエンゲルスも11月12日にはロンドンへやってきた[365]

エンゲルスやコンラート・シュラムドイツ語版の協力を得て新しい雑誌の創刊準備を進め、1850年1月からドイツ連邦自由都市ハンブルクで月刊誌『新ライン新聞 政治経済評論ドイツ語版』を出版した[366][367][368][369][370]。同誌の執筆者はマルクスとエンゲルスだけだった。マルクスは『1848年6月の敗北』と題した論文を数回にわたって掲載したが、これが後に『フランスにおける階級闘争(Die Klassenkämpfe in Frankreich 1848 bis 1850)』として発刊されるものである[367]。この中でマルクスはフランス2月革命の経緯を唯物史観に基づいて解説し、1848年革命のそもそもの背景は1847年の不況にあったこと、そして1848年中頃から恐慌が収まり始めたことで反動勢力の反転攻勢がはじまったことを指摘した[371]。結局この『新ライン新聞 政治経済評論』はほとんど売れなかったため、資金難に陥って、最初の四カ月間に順次出した4号と11月の5号6号合併号のみで廃刊した[368][372]

ついで1851年秋からアメリカ合衆国ニューヨークで発行されていた当時20万部の発行部数を持っていた急進派新聞『ニューヨーク・トリビューン』のロンドン通信員となった[359]。マルクスはこの新聞社の編集者チャールズ・オーガスタス・デーナと1849年にケルンで知り合っており、その伝手で手に入れた仕事だった[373]。原稿料ははじめ1記事1ポンドだった。1854年以降に減らされるものの、借金に追われるマルクスにとっては重要な収入源だった[359][374]。マルクスは英語が不自由だったので記事の執筆にあたってもエンゲルスの力を随分と借りたようである[375]

マルクスが寄稿した記事はアメリカへの愛がこもっており、アメリカ人からの評判も良かったという。アメリカの黒人奴隷制を批判したサザーランド公爵夫人英語版に対して「サザーランド公爵家スコットランドの領地で住民から土地を奪い取って窮乏状態に追いやっている癖に何を抜かしているか」と批判を加えたこともある[376]。マルクスと『ニューヨーク・トリビューン』の関係は10年続いたが、1861年にアメリカで南北戦争が勃発したことで解雇された(マルクスに限らず同紙のヨーロッパ通信員全員がこの時に解雇されている。内乱中にヨーロッパのことなど論じている場合ではないからである)[377]

共産主義者同盟の再建と挫折

[編集]

1849年秋以来、共産主義者同盟のメンバーが次々とロンドンに亡命してきていた。モルは革命で戦死したが、シャッパーやヴォルフは無事ロンドンに到着した。また大学を出たばかりのヴィルヘルム・リープクネヒト、バーデン・プファルツ革命軍でエンゲルスの上官だったアウグスト・ヴィリヒドイツ語版などもロンドンへやってきてマルクスの新たな同志となった。彼らを糾合して1850年3月に共産主義同盟を再結成した[378][379][380]

再結成当初は、近いうちにまた革命が起こるという希望的観測に基づく革命方針を立てた。ドイツでは小ブルジョワ民主主義組織が増える一方、労働者組織はほとんどなく、あっても小ブルジョワ組織の指揮下におさめられてしまっているのが一般的だったので、まず独立した労働者組織を作ることが急務とした。またこれまで通り、封建主義打倒までは急進的ブルジョワとも連携するが、彼らが自身の利益固めに走った時はただちにこれと敵対するとし、ブルジョワが抑制したがる官公庁占拠など暴力革命も積極的に仕掛けていくことを宣言した。ハインリヒ・バウアー(Heinrich Bauer)がこの宣言をドイツへ持っていき、共産主義者同盟をドイツ内部に秘密裏に再建する工作を開始した(バウアーはその後オーストリアで行方不明となる)[381][382]

しかし1850年夏には革命の火はほとんど消えてしまった。フランスでは左翼勢力はすっかり蚊帳の外で、ルイ・ボナパルトの帝政復古か、秩序党の王政復古かという情勢になっていた。ドイツ各国でもブルジョワが革命を放棄して封建主義勢力にすり寄っていた。革命精神が幾らかでも残ったのはプロイセンがドイツ中小邦国と組んで起こそうとした小ドイツ主義統一の動きだったが、それもオーストリアとロシアによって叩き潰された(オルミュッツの屈辱[383][384]

こうした状況の中、マルクスは今の好景気が続く限り、革命は起こり得ないと結論するようになり[385]、共産主義者同盟のメンバーに対し、即時行動は諦めるよう訴えた[386]。だが共産主義者同盟のメンバーには即時行動を求める者が多かった。マルクスの独裁的な組織運営への反発もあって、とりわけヴィリヒが反マルクス派の中心人物となっていった。シャッパーもヴィリヒを支持し、共産主義者同盟内に大きな亀裂が生じた[387][388]

1850年9月15日の執行部採決ではマルクス派が辛くも勝利を収めたものの、一般会員にはヴィリヒ支持者が多く、両派の溝は深まっていく一方だった。そこでマルクスは共産主義者同盟の本部をプロイセン王国領ケルンに移す事を決定した。そこには潜伏中の秘密会員しかいないが、それ故にヴィリヒ派を抑えられると踏んだのである[389]。だがこの決定に反発したヴィリヒ達は共産主義者同盟から脱退し、ルイ・ブランとともに「国際委員会」という新組織を結成した。マルクスはこれに激怒し、この頃彼がエンゲルスに宛てて送った手紙もこの組織への批判・罵倒で一色になっている[390]

共産主義者同盟の本部をケルンに移したことは完全に失敗だった。1851年5月から6月にかけて共産主義者同盟の著名なメンバー11人が大逆罪の容疑でプロイセン警察によって摘発されてしまったのである[391][392]。しかもこの摘発を命じたのはマルクスの義兄(イェニーの兄)にあたるフェルディナント・フォン・ヴェストファーレン(当時プロイセン内務大臣)だった。フェルディナントは今回の陰謀事件がどれほど悪質であったか、その陰謀の背後にいるマルクスがいかに恐ろしいことを企んでいるかをとうとうと宣伝した[393]。これに対抗してマルクスは11人が無罪になるよう駆け回ったものの、ロンドンで証拠収集してプロイセンの法廷に送るというのは難しかった。そもそも暴動を教唆する文書を出したのは事実だったから、それを無害なものと立証するのは不可能に近かった。結局1852年10月に開かれた法廷で被告人11人のうち7人が有罪となり、共産主義者同盟は壊滅的打撃を受けるに至った(ケルン共産党事件)[394][395][396]

これを受けてさすがのマルクスも共産主義者同盟の存続を諦め、1852年11月17日に正式に解散を決議した[392]。以降マルクスは10年以上もの間、組織活動から遠ざかることになる[394]。1853年10月にマルクスはエンゲルスに「どんな党とも関係をもたない」と宣言し、以降、マルクスは政治活動との共闘を放棄した[397]

ナポレオン3世との闘争

[編集]
マルクスが厳しく批判したフランス皇帝ナポレオン3世

一方フランスでは1851年12月に大統領ルイ・ボナパルトが議会に対するクーデタを起こし、1852年1月に大統領に権力を集中させる新憲法を制定して独裁体制を樹立した[398]。さらに同年12月には皇帝に即位し、ナポレオン3世と称するようになった[342]

マルクスは彼のクーデタを考察した『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を執筆し、これをアメリカの週刊新聞『レヴォルツィオーン』に寄稿した[399][400][401]。この論文は「ヘーゲルはどこかで言った。歴史上のあらゆる偉大な事実と人物は二度現れると。彼はこう付け加えるのを忘れた。最初は悲劇として、二度目は茶番として」という有名な冒頭で始まり[400]、ナポレオン3世に激しい弾劾を加えつつ、このクーデタの原因を個人の冒険的行動や抽象的な歴史的発展に求める考えを退けて、フランスの階級闘争が何故こうした凡庸な人物を権力の座に就けるに至ったかを分析する[400]

ナポレオン3世は東方問題をめぐってロシア帝国と対立を深め、イギリス首相パーマストン子爵と連携して1854年からクリミア戦争を開始した。マルクスはロシアのツァーリズムに対するこの戦争を歓迎した[402]。ところが、自分が特派員になっている『ニューヨーク・トリビューン』は反英・親露的立場をとり、マルクスを困惑させた。マルクスとしては家計的にここと手を切るわけにはいかないのだが、エンゲルスへの手紙の中では「同紙が汎スラブ主義反対の声明を出すことが是非とも必要だ。でなければ僕らはこの新聞と決別するしかなくなるかもしれない」とまで書いている[403]

一方でマルクスは英仏にも疑惑の目を向けていた。「偽ボナパルトとパーマストン卿がやっている以上この戦争は偽善であり、ロシアを本気で倒すつもりなどないことは明らか」というのがマルクスの考えだった。マルクスはナポレオン3世もパーマストン子爵もツァーリ(ロシア皇帝)と秘密協定を結んでいると思いこんでいたそれは極端な意見だったが、実際クリミア戦争はクリミア半島セヴァストポリ要塞を陥落させたところで中途半端に終わった[402]

ナポレオン3世は1859年サルデーニャ王国宰相カミッロ・カヴールと連携して北イタリアを支配するオーストリア帝国に対する戦争を開始した(イタリア統一戦争)。この戦争は思想の左右を問わずドイツ人を困惑させた。言ってみれば「フランス国内で自由を圧殺する専制君主ナポレオン3世がイタリア国民の自由を圧殺する専制君主国オーストリアに闘いを挑んだ」状態だからである。結局大ドイツ主義者(オーストリア中心のドイツ統一志向)がオーストリアと連携してポー川(北イタリア)を守るべしと主張し、小ドイツ主義者(オーストリアをドイツから排除してプロイセン中心のドイツ統一志向)はオーストリアの敗北を望むようになった[404]

この戦争をめぐってエンゲルスは小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でプロイセンのドゥンカー書店から出版した[405][406]。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアがポー川(北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標はライン川(西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るために軍事上重要なポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持した。マルクスもこの見解を支持した[407]

マルクスが警戒したのはナポレオン3世の帝政がこの戦争を利用して延命することとフランスとロシアの連携がドイツ統一に脅威を及ぼしてくることだった[408]。そのためマルクスはプロイセンがオーストリア側で参戦しようとしないことに憤り、「中立を主張するプロイセンの政治家どもは、ライン川左岸のフランスへの割譲を許したバーゼルの和約に歓声を送り、またウルムの戦いアウステルリッツの戦いでオーストリアが敗れた時に両手をこすり合わせていた連中である」と批判した[409]。また「オーストリアは全ドイツの敵であり、プロイセンは中立の立場を取るべき」と主張するカール・フォークトドイツ語版を「ナポレオン3世から金をもらっている」と批判した[410][411]

しかしナポレオン3世を批判するあまり、イタリア統一運動を妨害し、ハプスブルク家による民族主義蹂躙を支持しているかのように見えるマルクスたちの態度にはラッサールも疑問を感じた。彼は独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens)』という小冊子を執筆し、プロイセンは今度の戦争に参戦すべきではなく、ナポレオン3世が民族自決に基づいて南方の地図を塗り替えるならプロイセンは北方のシュレースヴィヒホルシュタインに対して同じことをすればよいと訴えた。マルクスはこれに激怒し、ラッサールに不信感を抱くようになった[412]

グラフトン・テラスへ引っ越し

[編集]
1861年のマルクス

1855年春と1856年夏に、妻イェニーの伯父と母が相次いで死去した。とくに母の死はイェニーを悲しませたが、イェニーがその遺産の一部を相続したため、マルクス家の家計は楽になった[413][414]

マルクス家は悲惨なディーン街を脱出し、ロンドン北部ベルサイズ・パーク英語版グラフトン・テラス(Grafton Terrace)9番地へ移住した[413]。当時この周辺は開発されていなかったため、不動産業界の評価が低く、安い賃料で借りることができた。イェニーはこの家について「これまでの穴倉と比べれば、私たちの素敵な小さな家はまるで王侯のお城のようでしたが、足の便の悪い所でした。ちゃんとした道路がなく、辺りには次々と家が建設されてガラクタの山を越えていかないといけないのです。ですから雨が降った日にはブーツが泥だらけになりました」と語っている[415]

引っ越してもマルクス家の金銭的危機は続いた。最大の原因は1857年にはじまった恐慌だった。これによって最大の援助者であるエンゲルスの給料が下がったうえ[416]、『ニューヨーク・トリビューン』に採用してもらえる原稿数も減り、収入が半減したのである[417]。結局金融業者と質屋を回る生活が続いた[418]。マルクスは1857年1月のエンゲルス宛の手紙の中で「何の希望もなく借金だけが増えていく。なけなしの金を注ぎ込んだ家の中で二進も三進もいかなくなってしまった。ディーン通りにいた頃と同様、日々暮らしていくことさえ難しくなっている。どうしていいのか皆目分からず、5年前より絶望的な状況だ。私は既に自分が世の中の辛酸を舐めつくしたと思っていたが、そうではなかった。」と窮状を訴えている。エンゲルスは驚き、毎月5ポンドの仕送りと、必要なときにはいつでも余分に送ることを約束する。「(エンゲルスはそのとき猟馬を買ったばかりだったが、)きみときみの家族がロンドンで困っているというのに、馬なんか飼っている自分が腹立たしい」[419]

終わる気配のない困窮状態にマルクスとイェニーの夫婦喧嘩も増えたようである。この頃のエンゲルスへの手紙の中でマルクスは「妻は一晩中泣いているが、それが私には腹立たしくてならぬ。妻は確かに可哀そうだ。この上もない重荷が彼女に圧し掛かっているし、それに根本的に彼女が正しいのだから。だが君も知っての通り、私は気が短いし、おまけに多少無情なところもある」と告白している[420]

特に1861年に『ニューヨーク・トリビューン』から解雇されると困窮が深刻化、マルクスも鉄道の出札係に応募したがひどい悪筆のため断られ生活苦は続いた[416]

『経済学批判』と『資本論』

[編集]
資本論』初版のタイトルページ

マルクスの最初の本格的な経済学書である『経済学批判』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげたものである。1859年1月にこの原稿を完成させたマルクスはラッサールの仲介でドゥンカー書店からこれを出版した[421]。『経済学批判』は本格的な経済学研究書の最初の1巻として書かれた物であり、その本格的な研究書というのが1866年11月にハンブルクのオットー・マイスネル書店から出版した『資本論』第1巻だった[422]。そのため経済学批判の主要なテーゼは全て資本論の第1巻に内包されている[423]。よってこの二つはまとめて解説する。マルクスは『資本論』の中で次の主旨のことを主張した。

「人間が生きていくためには生産する必要があり、それは昔から行われてきた。ある場所で生産された物が別の場所で生産された物と交換される。それが成り立つのは生産物双方の使用価値(用途)が異なり、またその価値(生産にかかっている人間の労働量)が同じだからだ。だが資本主義社会では生産物は商品にされ、特に貨幣によって仲介されることが多い。たとえ商品化されようと貨幣によって仲介されようと使用価値の異なる生産物が交換されている以上、人間の労働の交換が行われているという本質は変わらないが、その意識は希薄になってしまう。商品と化した生産物は物として見る人がほとんどであり、商品の取引は物と物の取引と見られるからである。人間の創造物である神が人間の外に追いやられて人間を支配したように、人間の創造物である商品や貨幣が人間の外に追いやられて人間を支配したのである。商品や貨幣が神となれば、それを生産した者ではなく、所有する者が神の力で支配するようになる」[424]

「ブルジョワ市民社会の発展は労働者を生み出した。この労働者というのは労働力(自分の頭脳や肉体)の他には売れる物を何も所有していない人々のことである。労働者は自らの労働力を商品化し、資本家にそれを売って生活している。資本家は利益を上げるために購入した労働力という商品を、価値以上に使用して剰余価値を生み出させ、それを搾取しようとする(賃金額に相当する生産物以上の物を生産することを労働者に要求し、それを無償で手に入れようとする)。資本家が剰余価値を全部消費するなら単純再生産が行われるし、剰余価値の一部が資本に転換されれば、拡大再生産が行われる。拡大再生産が進むと機械化・オートメーション化により労働者人口が過剰になってくる。産業予備軍(失業者)が増え、産業予備軍は現役労働者に取って代わるべく現役労働者より悪い条件でも働こうとしだすので、現役労働者をも危機に陥れる。こうして労働者階級は働けば働くほど窮乏が進んでいく。」[425]

「商品は、不変資本(機械や原料など生産手段に投下される資本)、可変資本(労働力購入のために投下される資本)、剰余価値からなる。不変資本は新しい価値を生まないが、可変資本は自らの価値以上の剰余価値を生むことができる。この剰余価値が資本家の利潤を生みだす。ところが拡大再生産が進んで機械化・オートメーション化してくると不変資本がどんどん巨大化し、可変資本がどんどん下がる状態になるから、資本家にとっても剰余価値が減って利潤率が下がるという事態に直面する。投下資本を大きくすれば利潤の絶対量を上げ続けることはできる。だが利潤率の低下は生産力の更なる発展には妨げとなるため、資本主義生産様式の歴史的限界がここに生じる」[426]

そして「労働者の貧困と隷従と退廃が強まれば強まるほど彼らの反逆も増大する。ブルジョワはプロレタリア階級という自らの墓掘り人を作り続けている。収奪者が収奪される運命の時は近づいている。共産主義への移行は歴史的必然である」と結論する[427]

プロイセン帰国騒動

[編集]

1861年1月、祖国プロイセンで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、皇太弟ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世として新たな国王に即位した。即位にあたってヴィルヘルム1世は政治的亡命者に大赦を発した[428]。これを受けてベルリン在住の友人ラッサールはマルクスに手紙を送り、プロイセンに帰国して市民権を回復し、『新ライン新聞』を再建してはどうかと勧めた[428][429]。マルクスは「ドイツの革命の波は我々の船を持ち上げるほど高まっていない」と思っていたものの、プロイセン市民権は回復したいと思っていたし、『ニューヨーク・トリビューン』の仕事を失ったばかりだったのでラッサールとラッサールの友人ハッツフェルト伯爵夫人ゾフィードイツ語版が『新ライン新聞』再建のため資金援助をしてくれるという話には魅力を感じた[428]

マルクスはラッサールと伯爵夫人の援助で4月1日にもプロイセンに帰国し、ベルリンのラッサール宅に滞在した。ところがラッサールと伯爵夫人は貴族の集まる社交界や国王臨席のオペラにマルクスを連れ回す貴族的歓待をしたため、贅沢や虚飾を嫌うマルクスは不快に感じた[430]。マルクスがこういう生活に耐えていたのはプロイセン市民権を回復するためだったが、4月10日にはマルクスの市民権回復申請は警察長官から正式に却下され、マルクスは単なる外国人に過ぎないことが改めて宣告された[431]

マルクスが帰国の準備を始めると、伯爵夫人は「仕事の都合が付き次第、ベルリンを離れるというのが私が貴方に示した友情に対するお答えなのでしょうか」とマルクスをたしなめた[432]。だがマルクスの方はラッサールやベルリンの人間の「虚栄的生活」にうんざりし、プロイセンに帰国する意思も『新ライン新聞』を再建する意思もすっかりなくしたようだった。とくにラッサールと数週間暮らしたことはマルクスとラッサールの関係に変化を与えた。マルクスはこれまでラッサールの政治的立場を支持してきたが、このプロイセン帰国でドイツの同志たちの「ラッサールは信用ならない」という評価を受け入れるようになった[432]

ラッサールとの亀裂

[編集]
フェルディナント・ラッサール
マルクスの友人の社会主義者だが、マルクスと違いヘーゲル左派の影響を残していたので国家に依存した。対資本家で封建主義者と共闘することも厭わなかった。

1862年の夏、ラッサールがロンドン万博で訪英するのをマルクスが歓迎することになった。先のベルリンで受けた饗応の返礼であったが、マルクス家には金銭的余裕はないから、このために色々と質に入れなければならなかった。しかしラッサールは、マルクス家の窮状に鈍感で浪費が激しかった。また彼は自慢話が多く、その中には誇大妄想的なものもあった。たとえばイタリアのマッツィーニガリバルディもプロイセン政府と同じく自分の動かしている「歩」に過ぎないと言いだして、マルクスやイェニーに笑われた。しかしラッサールの方は、マルクスは抽象的になりすぎて政治の現実が分からなくなっているのだとなおも食い下がった。イェニーはラッサールの訪問を面白がっていたようだが、マルクスの方はうんざりし、エンゲルスへの手紙の中でラッサールについて「去年あって以来、あの男は完全に狂ってしまった」「あの裏声で絶えまないおしゃべり、わざとらしく芝居がかった所作、あの教条的な口調!」と評した。帰国直前になってようやくマルクス家の窮状に気付いたラッサールはエンゲルスを保証人にして金を貸すが、数か月後、返済期限をめぐってエンゲルスから「署名入りの借用書」を求めてマルクスともめる。マルクスは謝罪の手紙をだしたが、ラッサールは返事をださず、二人の関係は絶えた[433]

プロイセンでは、1861年12月とつづく1862年4月の総選挙で保守派が壊滅的打撃を被り、ブルジョワ自由主義政党ドイツ進歩党が大議席を獲得していた[434]。軍制改革問題をめぐって国王ヴィルヘルム1世は自由主義勢力に追い詰められ、いよいよブルジョワ革命かという情勢になった。

ところがラッサールは進歩党の「夜警国家」観や「エセ立憲主義」にしがみ付く態度を嫌い、1863年に進歩党と決別して全ドイツ労働者同盟を結成しはじめた[435]。そしてヴィルヘルム1世が対自由主義者の最終兵器として宰相に登用したユンカーの保守主義者オットー・フォン・ビスマルクと親しくするようになりはじめた。これはマルクスが『共産党宣言』以来言い続けてきた、封建制打倒まではプロレタリアはブルジョワ革命を支援しなければならないという路線への重大な逸脱だった。

不信感を持ったマルクスはラッサールの労働運動監視のためヴィルヘルム・リープクネヒトをベルリンに派遣した。リープクネヒトは全ドイツ労働者同盟に加入し、ユリウス・ファールタイヒドイツ語版ら同盟内部の反ラッサール派と連絡を取り合い、彼らを「マルクス党」に取り込もうと図った[436][437]。また、マルクスはラッサールとともにビスマルクから国営新聞の編集に誘われた時もその反ビスマルク的姿勢から拒否してる[438]

ところがラッサールは1864年8月末に恋愛問題に絡む決闘で命を落とした[439]。ラッサールの死を聞いたエンゲルスは冷淡な反応を示したが、マルクスの方はラッサール不信にも関わらず、「古い仲間が次々と死に、新しい仲間は増えない」と語って随分と意気消沈した。そして伯爵夫人やラッサールの後継者ヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァードイツ語版に彼の死を惜しむ弔辞を書いた[注釈 20][441][442]

ラッサールの死で最も有名な社会主義者はマルクスになった[443]

メイトランド・パークへの引っ越し

[編集]

1863年11月に母ヘンリエッテが死去した。マルクスは母の死には冷淡で「私自身棺桶に足を入れている。この状況下では私には母以上の物が必要だろう」と述べた。遺産は前仮分が多額だったのでそれほど多くは出なかった[444]。しかしともかくもその遺産を使って1864年3月にメイトランドパーク・モデナ・ヴィラズ1番地(1 Modena Villas, Maitland Park)の一戸建ての住居を借りた[445]。家賃と税金はこれまでの住居の倍だったが、妻イェニーはこの家を「新しいし、日当たりもいいし、風通しも良い住み心地のいい家」と絶賛している[446]

さらに1864年5月9日には同志のヴィルヘルム・ヴォルフが死去した。ヴォルフは常にマルクスとエンゲルスに忠実に行動を共にしていた人物であり、彼は遺産のほとんどをマルクスに捧げる遺言書を書き残していた。マルクスは彼の葬儀で何度も泣き崩れた。ヴォルフは単なる外国語講師に過ぎなかったが、倹約家でかなりの財産を貯めていた。これによってマルクスは一気に820ポンドも得ることができた。この額はマルクスがこれまで執筆で得た金の総額よりも多かった[447]。マルクスがこの数年後に出した資本論の第一巻をエンゲルスにではなくヴォルフに捧げているのはこれに感謝したからのようである[448]

急に金回りが良くなったマルクス一家は浪費生活を始めた。パーティーを開いたり、旅行に出かけたり、子供たちのペットを大量購入したり、アメリカやイギリスの株を購入したりするようになったのである[449]。しかしこのような生活を続けたため、すぐにまた借金が膨らんでしまった。再びエンゲルスに援助を求めるようになり、結局1869年までにエンゲルスがその借金を肩代わりすることになった(この4年間にエンゲルスが出した金額は1862ポンドに及ぶという)。この借金返済以降、ようやくマルクス家の金銭事情は落ち着いた[450]

1875年春には近くのメイトランド・パーク・ロード41番地に最後の引っ越しをしている。以降マルクスは死去するまでここを自宅とすることになる[451]

第一インターナショナルの結成

[編集]
第一インターナショナル(国際労働者協会)のロゴ

1857年からの不況、さらにアメリカ南北戦争に伴う綿花危機でヨーロッパの綿花関連の企業が次々と倒産して失業者が増大したことで1860年代には労働運動が盛んになった[452]。イギリスでは1860年にロンドン労働評議会英語版がロンドンに創設された[453]。フランスでは1860年代以降ナポレオン3世が「自由帝政フランス語版」と呼ばれる自由主義化改革を行うようになり[454]、皇帝を支持するサン・シモン主義者や労働者の団体『パレ・ロワイヤル・グループ(groupe du Palais-Royal)』の結成が許可された[455]。プルードン派やブランキ派の活動も盛んになった[456]。前述したようにドイツでも1863年にラッサールが全ドイツ労働者同盟を結成した[457]

こうした中、労働者の国際連帯の機運も高まった。1862年8月5日にはロンドンのフリーメーソン会館英語版でイギリス労働者代表団とフランス労働者代表団による初めての労働者国際集会が開催された[458]。労働者の国際組織を作ろうという話になり、1864年9月28日にロンドンのセント・マーチン会館英語版でイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイス、ポーランドの労働者代表が出席する集会が開催され、ロンドン労働評議会英語版ジョージ・オッジャー英語版を議長とする第一インターナショナル(国際労働者協会)の発足が決議されるに至った[459]

マルクスはこの集会に「ドイツの労働者代表」として参加するよう要請を受け、共産主義者同盟の頃から友人であるヨハン・ゲオルク・エカリウスドイツ語版とともに出席した[460]。マルクスは総務評議会(執行部)と起草委員会(規約を作るための委員会)の委員に選出された[461][462]

マルクスは早速に起草委員として規約作りにとりかかった。委員はマルクスの他にもいたものの、彼らの多くは経験のない素人の労働者だったので(労働者の中ではインテリであったが)、長年の策略家マルクスにとっては簡単な議事妨害と批評だけで左右できる相手だった[463]。マルクスもエンゲルスへの手紙の中で「難しいことではなかった。相手は『労働者』ばかりだったから」と語っている[463]。イタリア人の委員がジュゼッペ・マッツィーニの主張を入れようとしたり、イギリス人の委員がオーエン主義を取り入れようとしたりもしたが、いずれもマルクスによって退けられている[464]。唯一マルクスが譲歩を迫られたのは、前文に「権利・義務」、協会の指導原理に「真理・道義・正義」といった表現が加えたことだったが、マルクスはエンゲルスの手紙の中でこれらの表現を「何ら害を及ぼせない位置に配置した」と語っている[463]

こうして作成された規約は全会一致で採択された[464]。後述するイギリス人の労働組合主義、フランス人のプルードン主義、ドイツ人のラッサール派などをまとめて取り込むことを視野に入れて、かつての『共産党宣言』よりは包括的な規約にしてある(結局ラッサール派は取り込めなかったが)[465]。それでも最後には「労働者は政治権力の獲得を第一の義務とし、もって労働者階級を解放し、階級支配を絶滅するという究極目標を自らの手で勝ち取らねばならない。そのために万国のプロレタリアよ、団結せよ!」という『共産党宣言』と同じ結び方をしている[466]

プルードン主義・労働組合主義・議会主義との闘争

[編集]
1867年のマルクス

インターナショナルの日常的な指導はマルクスとインターナショナル内の他の勢力との権力闘争の上に決定されていた。他の勢力とは主に「プルードン主義」、労働組合主義、バクーニン派であった[467]バクーニンについては後述)。

フランス人メンバーはフランス革命に強く影響されていたため、マルクスがいうところの「プルードン主義」「小ブルジョワ社会主義」に走りやすかった。そのためマルクスが主張する私有財産制の廃止に賛成せず、小財産制を擁護する者が多かった。また概してフランス人は直接行動的であり、ナポレオン3世暗殺計画を立案しだすこともあった。彼らは「ドイツ人」的な小難しい科学分析も、「イギリス人」的な議会主義も嫌う傾向があった。ただフランス人はインターナショナルの中でそれほど数は多くなかったから、マルクスにとって大きな脅威というわけでもなかった[468]

むしろマルクスにとって厄介だったのはイギリス人メンバーの方だった。インターナショナル創設の原動力はイギリス労働者団体であったし、インターナショナルの本部がロンドンにあるため彼らの影響力は大きかった[469]。イギリス人メンバーは労働組合主義議会主義に強く影響されているので、労働条件改善や選挙権拡大といった社会改良だけで満足することが多く、また何かにつけて「ブルジョワ議会」を通じて行動する傾向があった[470]。インターナショナルはイギリスの男子選挙権拡大を目指す改革連盟に書記を送っていたものの、その指導者である弁護士エドモンド・ビールズ英語版がインターナショナルの総評議会に入ってくることをマルクスは歓迎しなかった。マルクスはイギリスの「ブルジョワ政治家」たちが参加してくるのを警戒していた。ビールズが次の総選挙に出馬を決意したことを理由に「インターナショナルがイギリスの政党政治に巻き込まれることは許されない」としてビールズ加入を阻止した[471]

リンカーンの奴隷解放政策を支持

[編集]

1861年にアメリカ南北戦争が勃発して以来、イギリス世論はアメリカ北部(アメリカ合衆国)を支持するかアメリカ南部(アメリカ連合国)を支持するかで二分されていた。イギリス貴族や資本家は「連合国の奴隷制に問題があるとしても合衆国が財産権を侵害しようとしているのは許しがたい」と主張する親連合国派が多かった。対してイギリス労働者・急進派は奴隷制廃止を掲げる合衆国を支持した。この問題をめぐる貴族・資本家VS労働者・急進派の対立はかなり激しいものとなっていった[472]

これは様々な勢力がいるインターナショナルが一致させることができる問題だった。ちょうど1864年11月には合衆国大統領選挙があり、奴隷制廃止を掲げるエイブラハム・リンカーンが再選を果たした。マルクスはインターナショナルを代表してリンカーンに再選祝賀の手紙を書き、アメリカ大使アダムズに提出した[472][473]。マルクスはエンゲルスへの手紙の中で「奴隷制を資本主義に固有な本質的諸害悪と位置付けたことで、通俗的な民主的な言葉遣いとは明確に区別できる手紙になった」と語っている[472]

この手紙に対してリンカーンから返事があった。マルクスは手紙の中でリンカーンにインターナショナル加入を勧誘していたが、リンカーンは返事の中で「宣伝に引き入れられたくない」と断っている。だがマルクスは「アメリカの自由の戦士」から返事をもらったとしてインターナショナル宣伝にリンカーンを大いに利用した[474]。実際そのことが『タイムズ』に報道されたおかげで、インターナショナルはわずかながら宣伝効果を得られたのだった[472]

ラッサール派の親ビスマルク路線との闘争

[編集]
プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルク

ラッサールの死後、全ドイツ労働者同盟(ラッサール派)はラッサールから後継者に指名されたベルンハルト・ベッケルとハッツフェルト伯爵夫人を中心とするラッサールの路線に忠実な勢力とヨハン・バプティスト・フォン・シュヴァイツァードイツ語版を中心とする創設者ラッサールに敬意を払いつつも独自の発展が認められるべきと主張する勢力に分裂した[475]

そうした情勢の中でシュヴァイツァーがマルクスに接近を図るようになり、同盟の新聞『ゾチアール・デモクラート(社会民主主義)』に寄稿するよう要請を受けた。マルクスとしてはこの新聞に不満がないわけでもなかったが、インターナショナルや(当時来年出ると思っていた)『資本論』の販売のためにベルリンに足場を持っておきたい時期だったので当初は協力した。しかしまもなく同紙のラッサール路線の影響の強さにマルクスは反発するようになった[476]。結局1865年2月23日にエンゲルスとともに同紙との絶縁の宣言を出すに至った。その中で「我々は同紙が進歩党に対して行っているのと同様に内閣と封建的・貴族的政党に対しても大胆な方針を取るべきことを再三要求したが、『社会民主主義』紙が取った戦術(マルクスはこれを「王党的プロイセン政府社会主義」と呼んだ)は我々との連携を不可能にするものだった」と書いている[477][478]

このマルクスとラッサール派の最終的決裂を受けて、1865年秋にプロイセンから国外追放されたリープクネヒトは、ラッサール派に対抗するため、アウグスト・ベーベルとともに「ザクセン人民党」を結成しオーストリアも加えた大ドイツ主義的統一・反プロイセン的な主張をするようになった[479][480]。ラッサール派の小ドイツ主義統一(オーストリアをドイツから追放し、プロイセン中心のドイツ統一を行う)路線に抵抗するものだった[479]

もっともビスマルクにとっては労働運動勢力が何を主張し合おうが関係なかった。彼は小ドイツ主義統一を推し進め、1866年普墺戦争でオーストリアを下し、ドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放するとともにプロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立することに成功した[481]。マルクスはビスマルクが王朝的に小ドイツ主義的に統一を推し進めていくことに不満もあったものの、諸邦分立状態のドイツ連邦が続くよりはプロイセンを中心に強固に固まっている北ドイツ連邦の方がプロレタリア闘争に有利な展望が開けていると一定の評価をした[482]。リープクネヒトとベーベルも1867年に北ドイツ連邦の帝国議会選挙に出馬して当選を果たした[483]

マルクスはリープクネヒトはあまり当てにしていなかったが、ベーベルの方は高く評価していた。ベーベルは1868年初頭にシュヴァイツァーの『社会民主主義』紙に対抗して『民主主義週報』紙を立ち上げ、これを起点にラッサール派に参加していない労働組合を次々と取り込むことに成功し、マルクス派をラッサール派に並ぶ勢力に育て上げることに成功したのである[483]。そしてその成功を盾にベーベルとリープクネヒトは1869年8月初めにアイゼナハにおいて社会民主労働党ドイツ語版(アイゼナハ派)を結成した[484]

マルクスもこの状況を満足げに眺め、フランス労働運動よりドイツ労働運動の方が先進的になってきたと評価するようになった。[要出典]

普仏戦争をめぐって

[編集]
普仏戦争で進軍するプロイセン軍。
1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿で行われたプロイセン王ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝即位式。白い軍服がビスマルク

1870年夏に勃発した普仏戦争はビスマルクの謀略で始まったものだが、ナポレオン3世を宣戦布告者に仕立てあげる工作が功を奏し、北ドイツ連邦も南ドイツ諸国もなく全ドイツ国民のナショナリズムが爆発した国民戦争となった。亡命者とはいえ、やはりドイツ人であるマルクスやエンゲルスもその熱狂からは逃れられなかった。

開戦に際してマルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある。もしもプロイセンが勝てば国家権力の集中化はドイツ労働者階級の集中化を助けるだろう。ドイツの優勢は西ヨーロッパの労働運動の重心をフランスからドイツへ移すことになるだろう。そして1866年以来の両国の運動を比較すれば、ドイツの労働者階級が理論においても組織においてもフランスのそれに勝っている事は容易にわかるのだ。世界的舞台において彼らがフランスの労働者階級より優位に立つことは、すなわち我々の理論がプルードンの理論より優位に立つことを意味している」と述べた[484][485]。エンゲルスに至っては「今度の戦争は明らかにドイツの守護天使がナポレオン的フランスのペテンをこれ限りにしてやろうと決心して起こしたものだ」と嬉々として語っている[486]

もっともこれは私的な意見であり、フランス人も参加しているインターナショナルの場ではマルクスももっと慎重にふるまった。開戦から10日後の7月23日、マルクスはインターナショナルとしての公式声明を発表し、その中で「ルイ・ボナパルトの戦争策略は1851年のクーデタの修正版であり、第二帝政は始まった時と同じくパロディーで終わるだろう。しかしボナパルトが18年もの間、帝政復古という凶悪な茶番を演じられたのはヨーロッパの諸政府と支配階級のおかげだということを忘れてはならない」「ビスマルクはケーニヒグレーツの戦い以降、ボナパルトと共謀し、奴隷化されたフランスに自由なドイツを対置しようとせず、ドイツの古い体制のあらゆる美点を注意深く保存しながら第二帝政の様々な特徴を取り入れた。だから今やライン川の両岸にボナパルト体制が栄えている状態なのだ。こういう事態から戦争以外の何が起こりえただろうか」[487][488]、「今度の戦争はドイツにとっては防衛戦争だが、その性格を失ってフランス人民に対する征服戦争に墜落することをドイツ労働者階級は許してはならない。もしそれを許したら、ドイツに何倍もの不幸が跳ね返ってくるであろう」とした[489][490][491][492]

戦況はプロイセン軍の優位に進み、1870年9月初旬のセダンの戦いでナポレオン3世がプロイセン軍の捕虜となった。第二帝政の権威は地に堕ち、パリで革命が発生して第三共和政が樹立されるに至った[493]。共和政となったフランスとの戦いにはマルクスは消極的であり、「あのドイツの俗物(ビスマルク)が、神にへつらうヴィルヘルムにへつらえばへつらうほど、彼はフランス人に対してますます弱い者いじめになる」「もしプロイセンがアルザス=ロレーヌを併合するつもりなら、ヨーロッパ、特にドイツに最大の不幸が訪れるだろう」「戦争は不愉快な様相を呈しつつある。フランス人はまだ殴られ方が十分ではないのに、プロイセンの間抜けたちはすでに数多くの勝利を得てしまった」と私的にも不満を述べるようになった[494]

9月9日にはインターナショナルの第二声明を出させた。その中でドイツの戦争がフランス人民に対する征服戦争に転化しつつあることを指摘した。ドイツは領土的野心で行動すべきではなく、フランス人が共和政を勝ち取れるよう行動すべきとし、ビスマルクやドイツ愛国者たちが主張するアルザス=ロレーヌ併合に反対した[489][495]。アルザス=ロレーヌ割譲要求はドイツの安全保障を理由にしていたが、これに対してマルクスは「もしも軍事的利害によって境界が定められることになれば、割譲要求はきりがなくなるであろう。どんな軍事境界線もどうしたって欠点のあるものであり、それはもっと外側の領土を併合することによって改善される余地があるからだ。境界線というものは公平に決められることはない。それは常に征服者が被征服者に押し付け、結果的にその中に新たな戦争の火種を抱え込むものだからだ」と反駁した[496][497]

一方ビスマルクはパリ包囲戦中の1871年1月にもドイツ軍大本営が置かれているヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉し、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形でのドイツ統一を取り決め、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に戴冠させてドイツ帝国を樹立した。その10日後にはフランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を盛り込んだ休戦協定を結ばせることにも成功し、普仏戦争は終結した。これを聞いたマルクスは意気消沈したが、「戦争がどのように終わりを告げようとも、それはフランスのプロレタリアートに銃火器の使用方法を教えた。これは将来に対する最良の保障である」と予言した[498]

パリ・コミューン支持をめぐって

[編集]
ティエール政府の軍隊により逮捕されるパリ・コミューンのメンバー。

マルクスの予言はすぐにも実現した。休戦協定に反発したパリ市民が武装蜂起し、1871年3月18日にはアドルフ・ティエール政府をパリから追い、プロレタリア独裁政府パリ・コミューンを樹立したのである。3月28日にはコミューン92名が普通選挙で選出されたが、そのうち17人はインターナショナルのフランス人メンバーだった[499][500]。マルクスはパリは無謀な蜂起するべきではないという立場をとっていたが、いざパリ・コミューン誕生の報に接すると、「なんという回復力、なんという歴史的前衛性、なんという犠牲の許容性をパリジャンは持っていることか!」「歴史上これに類する偉大な実例はかつて存在したことはない!」とクーゲルマンへの手紙で支持を表明した[500][501]。しかし結局このパリ・コミューンは2カ月強しか持たなかった。ヴェルサイユに移ったティエール政府による激しい攻撃を受けて5月終わり頃には滅亡したのである[489][500][502]

マルクスは5月30日にもインターナショナルからパリ・コミューンに関する声明を出した。この声明を後に公刊したのが『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』である。その中でマルクスは「パリ・コミューンこそが真のプロレタリア政府である。収奪者に対する創造階級の闘争の成果であり、ついに発見された政治形態である」と絶賛した[503][504]。そしてティエール政府の高官を悪罵してその軍隊によるコミューン戦士2万人の殺害を「蛮行」と批判し、コミューンが報復として行った聖職者人質60数名の殺害を弁護した[505]。またビスマルクがフランス兵捕虜を釈放してティエール政府の軍隊に参加させたことに対しては、自分が以前主張してきたように、「各国の政府はプロレタリアに対する場合には一つ穴の狢」だと弾劾した[505]

その後もマルクスは「コミューンの名誉の救い主」(これは後に批判者たちからの嘲笑的な渾名になったが)を自称して積極的なコミューン擁護活動を行った。イギリスへ亡命したコミューン残党の生活を支援するための委員会も設置させている[506]。娘婿ポール・ラファルグジュール・ゲードなど、コミューン派だったために弾圧された人々はこうしたネットワークを拠点にマルクスと緊密に連携するようになり、のちのフランス社会党の一翼を形成することになる。

しかしパリ・コミューンの反乱は全ヨーロッパの保守的なマスコミや世論を震え上がらせており、さまざまな媒体から、マルクスたちが黒幕とするインターナショナル陰謀論、マルクス陰謀論、ユダヤ陰謀論が出回るようになった[注釈 21]。この悪評でインターナショナルは沈没寸前の状態に陥ってしまった[510][511]

こうした中、オッジャーらイギリス人メンバーはインターナショナルとの関係をブルジョワ新聞からも自分たちの穏健な同志たちからも糾弾され、ついにオッジャーは1871年6月をもってインターナショナルから脱退した[512]。これによりマルクスのイギリス人メンバーに対する求心力は大きく低下した。マルクスの独裁にうんざりしたイギリス人メンバーは自分たちの事柄を処理できるイギリス人専用の組織の設置を要求するようになった。自分の指導下から離脱しようという意図だと察知したマルクスは、当初これに反対したものの、もはや阻止できるだけの影響力はなく、最終的には彼らの主張を認めざるを得なかった。マルクスは少しでも自らの敗北を隠すべく、自分が提起者となって「イギリス連合評議会」をインナーナショナル内部に創設させた[510]

マルクスの権威が低下していく中、追い打ちをかけるようにバクーニンとの闘争が勃発し、いよいよインターナショナルは崩壊へと向かっていく[513]

バクーニンの分立主義とユダヤ陰謀論との闘争

[編集]
ミハイル・バクーニン
ロシア貴族出の革命家でマルクスの旧友だったが、インターナショナルでは地方団体独立を主張して中央のマルクスと敵対。更にユダヤ陰謀論からマルクスの正体を怪しんだ。

ミハイル・バクーニンはロシア貴族の家に生まれがら共産主義的無政府主義の革命家となった異色の人物だった。1844年にマルクスと初めて知り合い、1848年革命で逮捕され、シベリア流刑となるも脱走して、1864年に亡命先のロンドンでマルクスと再会し、インターナショナルに協力することを約束した。そして1867年以来スイスジュネーブでインターナショナルと連携しながら労働運動を行っていたが、1869年夏にはインターナショナル内部で指導的地位に就くことを望んでインターナショナルに参加した人物だった[514][515]

バクーニンは、これまでマルクスを称賛してきたものの、マルクスの権威主義的組織運営に対する反感を隠そうとはしなかった[516]。彼はマルクスの中央権力を抑え込むべく、インターナショナルを中央集権組織ではなく、半独立的な地方団体の集合体にすべきと主張するようになった。この主張は、スイスやイタリアスペインの支部を中心にマルクスの独裁的な組織運営に反発するメンバーの間で着実に支持を広げていった[517]。しかしマルクスの考えるところではインターナショナルは単なる急進派の連絡会であってはならず、各地に本部を持ち統一された目的で行動する組織であるべきだった。だからバクーニンの動きは看過できないものだった[518]

しかもバクーニンは強烈な反ユダヤ主義者であり、インターナショナル加盟後も「ユダヤ人はあらゆる国で嫌悪されている。だからどの国の民衆革命でもユダヤ人大量虐殺を伴うのであり、これは歴史的必然だ」などと述べてユダヤ人虐殺を公然と容認・推奨していた[519]。だからマルクスとの対立が深まるにつれてバクーニンのマルクス批判の調子もだんだん反ユダヤ主義・ユダヤ陰謀論の色彩を帯びていった[520]。たとえば「マルクスの共産主義は中央集権的権力を欲する。国家の中央集権には中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに人民の労働の上に相場を張っている寄生虫民族ユダヤ人は、その存在手段を見出すのである」[521]「この世界の大部分は、片やマルクス、片やロスチャイルド家の意のままになっている。私は知っている。反動主義者であるロスチャイルドが共産主義者であるマルクスの恩恵に大いに浴していることを。他方、共産主義者であるマルクスが本能的に金の天才ロスチャイルドに抗いがたいほどの魅力を感じ、称賛の念を禁じえなくなっていることも。ユダヤの結束、歴史を通じて維持されてきたその強固な結束が、彼らを一つにしているのだ」「独裁者にしてメシアであるマルクスに献身的なロシアとドイツのユダヤ人たちが私に卑劣な陰謀を仕掛けてきている。私はその犠牲となるだろう。ラテン系の人たちだけがユダヤの世界制覇の陰謀を叩き潰すことができる」といった具合である[519]

ヨーロッパ中でインターナショナルの批判が高まっている時であったからバクーニンのこうした粗暴な反ユダヤ主義はインターナショナル総評議会にとっても看過するわけにはいかないものだった。総評議会は1872年6月にマルクスの書いた『インターナショナルにおける偽装的分裂』を採択し、その中でバクーニンについて人種戦争を示唆し、労働運動を挫折させる無政府主義者の頭目であり、インターナショナル内部に秘密組織を作ったとして批判した[522]。同じころ、バクーニンの友人セルゲイ・ネチャーエフがバクーニンのために送った強請の手紙を入手したマルクスは、1872年9月にオランダハーグで開催された大会においてこれを暴露した。劇的なタイミングでの提出だったのでプルードン派もバクーニン追放に回り、大会は僅差ながらバクーニンをインターナショナルから追放する決議案を可決させた[523][524]

インターナショナルの終焉

[編集]

バクーニンを追放することには成功したマルクスだったが、ハーグ大会の段階でインターナショナルにおけるマルクスの権威は失われていた。イギリス人メンバーがマルクスの反対派に転じていたし、親しかったエカリウスとも喧嘩別れしてしまっていた[525]

ハーグ大会の際、エンゲルスが自分とマルクスの意志として総評議会をアメリカ・ニューヨークに移すことを提起した。エンゲルスはその理由として「アメリカの労働者組織には熱意と能力がある」と説明したが、そうした説明に納得する者は少なかった。インターナショナル・アメリカ支部はあまりに小規模だった[526][527]。エンゲルスの提案は僅差で可決されたものの、「ニューヨークに移すぐらいなら月に移した方がまだ望みがある」などという意見まで出る始末だった[527][528]。『ザ・スペクテイター』紙も「もはやコミューンの運気もその絶頂が過ぎたようだ。絶頂期自体さほど高い物でもなかったが。そこがロシアでもない限り、再び運動が盛り上がる事はないだろう」と嘲笑的に報じた[528]

なぜエンゲルスとマルクスがこのような提案をしたのか、という問題については議論がある。マルクスは大会前に引退をほのめかす個人的心境をルイス・クーゲルマン英語版に打ち明けており、彼が『資本論』の執筆のために総評議員をやめたがっていたことは周知の事実だった。このことから、マルクスはインターナショナルを終わらせるためにこのような提案をしたのだという見解がでてくる[526]。しかしこの説には疑問が残る。というのも、ハーグ大会でマルクスたちはむしろ総評議会の権限を強化しているし、大会後のマルクスとエンゲルスの往復書簡の内容はどのように読んでも彼らがインターナショナルを見限ったと解釈できるものではないからだ。したがってもう一つの説として、マルクスは本部をアメリカに移すことによってインターナショナルを危機から遠ざけ、ハーグ大会での「政治権力獲得のための政党の組織」(規約第7条付則)の決議に沿うようにアメリカで社会主義政党結成を支援していたインターナショナルの幹部フリードリヒ・ゾルゲ英語版らアメリカのマルクス主義者を通じてその勢力を保とうとしたのではないか、という解釈も生まれる[529]

しかし結局のところ、アメリカでのインターナショナルの歴史は長くなかった。最終的には1876年のフィラデルフィア大会において解散決議が出され、その短い歴史を終えることとなった[注釈 22][523]

『ゴータ綱領批判』

[編集]
ヴィルヘルム・リープクネヒト
基本的にマルクスに忠実な部下だが、アイゼナハ派とラッサール派の合同はマルクスの意に沿わぬ形で行い、マルクスから『ゴータ綱領批判』で批判を受けた。

ドイツではラッサール派の信望が高まっている時期だった。インターナショナルも衰退した今、アイゼナハ派のリープクネヒトとしては早急にラッサール派と和解し、ドイツ労働運動を一つに統合したがっていた。ドイツの内側にいるリープクネヒトから見ればマルクスやエンゲルスは外国にあってドイツの政治状況も知らずに妥協案を拒否する者たちであり、政治的戦術にかけては自分の方が把握できているという自負心があった[530]

すでにアイゼナハ派はオーストリアも加えたドイツ統一の計画を断念していたし、ラッサール派も1871年にシュヴァイツァーが党首を辞任して以来ビスマルク寄りの態度を弱めていたから両者が歩み寄るのはそれほど難しくもなかった。ただ対立期間が長かったので冷却期間がしばらく必要なだけだった。だからその冷却期間も過ぎた1875年2月にはゴータで両党代表の会合が持たれ、5月にも同地で大会を開催のうえ両党を合同させることが決まったのである[531][532]

この合同に際して両党の統一綱領として作られたのがゴータ綱領ドイツ語版だった。ラッサール派は数の上で優位であったにも関わらず、綱領作成に際して主導権を握ることはなかった。彼らはすでにラッサールの民族主義的な立場や労働組合への不信感を放棄していたためである。そのためほぼアイゼナハ派の綱領と同じ綱領となった[533]。リープクネヒトはマルクスにもこの綱領を送って承認を得ようとしたが、マルクスはこれを激しく批判する返事をリープクネヒトに送り、エンゲルスにも同じような手紙を送らせた[530]

この時の書簡を編纂してマルクスの死後にエンゲルスが出版したものが『ゴータ綱領批判』である[注釈 23]。マルクスから見れば、この綱領は最悪の敵である国家の正当性を受け入れて「労働に対する正当な報酬」や「相続法の廃止」といった小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるという迷信に立脚したものであり、結局は国家を支え、資本主義社会を支える結果になるとした[536]

マルクスは、綱領に無意味な語句や曖昧な自由主義的語句が散りばめられていると批判した[536]。とりわけ「公平」という不明瞭な表現に強く反発した[537]。自分の著作の引用部分についてもあらさがしの調子で批判を行った[538]。ラッサール派の影響を受けていると思われる部分はとりわけ強い調子で批判した。綱領の中にある「労働者階級はまず民族国家の中で、その解放のために働く」については「さぞかしビスマルクの口に合うことだろう」と批判し[538]。「賃金の鉄則」はラッサールがリカードから盗んだものであり、そのような言葉を綱領に入れたのはラッサール派への追従の証であると批判した[538]

また綱領が「プロレタリアート独裁」にも「未来の共産主義社会の国家組織」にも触れず、「自由な国家」を目標と宣言していることもブルジョワ的理想と批判した[538]

リープクネヒトはマルクスからの手紙をいつも通り敬意をこめて取り扱ったものの、これをつかうことはなく、マルクスやエンゲルスも党の団結を優先してこの批判を公表しなかった[536][539]。ゴータ綱領は、わずかに「民族国家の中で」という表現について「国際的協力の理想へ向かう予備的段階」であることを確認する訂正がされただけだった[539]。ゴータ綱領のもとにドイツ社会主義労働者党が結成されるに至った。これについてマルクスは口惜しがったし[539]、この政党を「プチブル集団」「民主主義集団」と批判し続けたが[540]、マルクスの活動的な生涯はすでに終わっており、受けた打撃もそれほど大きいものではなかったという[539]

晩年の放浪生活

[編集]
1882年のカール・マルクス

マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちだったが、1873年には肝臓肥大という深刻な診断を受ける。以降鉱泉での湯治を目的にあちこちを巡ることになった。1876年まではオーストリア=ハンガリー帝国カールスバートにしばしば通った[541]。1877年にはドイツ・ライン地方のバート・ノイェンアール=アールヴァイラー(Bad Neuenahr-Ahrweiler)にも行ったが、それを最後にドイツには行かなくなった。マルクスによれば「ビスマルクのせいでドイツに近づけなくなった」という[542]。1878年からはイギリス王室の私領であるチャンネル諸島で湯治を行った[543]

1880年秋からイギリス人社会主義者ヘンリー・ハインドマンと親しくするようになった。ハインドマンは1881年にイギリスでマルクス主義を標榜する社会民主主義連盟英語版を結成する。この組織にはエリノア・マルクスウィリアム・モリスも参加していたが、ハインドマンが1881年秋に出版した『万人のためのイギリス』の中で、『資本論』の記述を無断で引用した(マルクスの名前は匂わす程度にしか触れていなかった)ことをきっかけに、日頃ハインドマンを快く思っていなかったマルクスは彼との関係を絶った。彼の社会民主主義連盟はその後もマルクス主義を称したが、エリノアやウィリアム・モリスもマルクスの死後脱退し、社会主義同盟を結成することになる。マルクス自身は死の直前でハインドマンと和解したが、エンゲルスはその後も社会民主主義連合を批判した[544]。結局、イギリス労働運動はケア・ハーディトム・マンらの独立労働党(のちのイギリス労働党)に収斂することになる。イギリス労働党は第二インターナショナルの議会派の一翼を形成する。

1881年夏には妻イェニーとともにパリで暮らす既婚の長女と次女のところへ訪れた。マルクスは1849年以来、フランスを訪れておらず、パリ・コミューンのこともあるので訪仏したら逮捕されるのではという不安も抱いていたが、長女の娘婿シャルル・ロンゲフランス語版ジョルジュ・クレマンソーからマルクスの身の安全の保証をもらってきたことで訪仏を決意したのだった[545]

パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれた。マルクスの悲しみは深かった。「私は先般来の病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」[546] と語った。エンゲルスはイェニーの死によってマルクスもまた死んでしまったとマルクスの娘エリノアに述べている[547]

独り身となったマルクスだったが、病気の治療のために1882年も活発に各地を放浪した。1月にはイギリス・ヴェントナー英語版を訪れたかと思うと、翌2月にはフランスを経由してフランス植民地アルジェリアアルジェへ移った[546][548][549]北アフリカの灼熱に耐えかねたマルクスはここでトレードマークの髪と髭を切った[550]。アルジェリアからの帰国途中の6月にはモナコ公国モンテカルロに立ち寄り、さらに7月にはフランスに行って長女カロリーネの娘婿ロンゲのところにも立ち寄ったが、この時長女カロリーネは病んでいた。つづいて次女ラウラとともにスイスヴェヴェイを訪問したが、その後イギリスへ帰国して再びヴェントナーに滞在した[550][551][552]

死去

[編集]

1883年1月12日に長女カロリーネが病死した。その翌日にロンドンに帰ったマルクスだったが、すぐにも娘の後を追うことになった。3月14日昼頃に椅子に座ったまま死去しているのが発見されたのである。64歳だった[553][554][555]

その3日後にハイゲイト墓地の無宗教墓区域にある妻の眠る質素な墓に葬られた。葬儀には家族のほか、エンゲルスやリープクネヒトなど友人たちが出席したが、大仰な儀式を避けたマルクスの意思もあり、出席者は全員合わせてもせいぜい20人程度の慎ましいものだった[556][557]

葬儀でエンゲルスは「この人物の死によって、欧米の戦闘的プロレタリアートが、また歴史科学が被った損失は計り知れない物がある」「ダーウィンが有機界の発展法則を発見したようにマルクスは人間歴史の発展法則を発見した」「マルクスは何よりもまず革命家であった。資本主義社会とそれによって作り出された国家制度を転覆させることに何らかの協力をすること、近代プロレタリアート解放のために協力すること、これが生涯をかけた彼の本当の仕事であった」「彼は幾百万の革命的同志から尊敬され、愛され、悲しまれながら世を去った。同志はシベリアの鉱山からカリフォルニアの海岸まで全欧米に及んでいる。彼の名は、そして彼の仕事もまた数世紀を通じて生き続けるであろう」と弔辞を述べた[557][558]

マルクスの死後、イギリスでは労働党が1922年に労働党政権を誕生させる。フランスでは1936年に社会党と共産党による人民戦線内閣が誕生。ドイツではドイツ社会民主党がワイマール共和国で長く政権を担当する。そしてロシアではレーニンの指導するロシア革命を経て、ソヴィエト連邦が誕生した。

マルクスの遺産は250ポンド程度であり、家具と書籍がその大半を占めた。それらやマルクスの膨大な遺稿はすべてエンゲルスに預けられた。エンゲルスはマルクスの遺稿を整理して、1885年7月に『資本論』第2巻、さらに1894年11月に第3巻を出版する[注釈 24][560][561]2013年に『共産党宣言』とともに『資本論』初版第1部が国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の世界の記憶に登録された[562]

マルクスの墓は1954年に墓地内の目立つ場所に移され、1956年には頭像が取り付けられている。その墓には「万国の労働者よ、団結せよ」という彼の最も有名な言葉と『フォイエルバッハに関するテーゼ』から取った「哲学者たちはこれまで世界をさまざまに解釈してきただけである。問題は世界を変革することである」という言葉が刻まれている[563]1970年1月18日、何者かが墓と胸像に爆弾を仕掛けて破壊する事件が発生した[564]。胸像などは後に修復されている。

2018年4月には生誕200年を記念し、トリーアの観光局がマルクスの肖像が描かれた0ユーロ紙幣を3ユーロで発売したところ購入者が殺到し増刷する事態となった[565]

人物

[編集]
1867年のカール・マルクス

健康状態・体格

[編集]

小柄で肥満体形だった[566]。娘婿のポール・ラファルグは舅マルクスの体格について「背丈は普通以上で肩幅は広く、胸はよく張り、四肢はバランスが良い。もっとも脊柱はユダヤ人種によく見られるように、脚の割に長かった」と評している。要するに短足で座高が高いので座っていると大きく見えたようである[567]

マルクスは病弱者ではなかったが、生活が不規則で栄養不足なことが多かったので、ロンドンで暮らすようになった頃からしばしば病気になった[568]肝臓病脳病神経病など様々な病気に苦しんだ[569]。『資本論』第1巻を執筆していた頃にはお尻のオデキに苦しみ、しばしば座っていることができず、立ちながら執筆したという。この股間の痛みが著作の中の激しい憎しみの表現に影響を与えているとエンゲルスが手紙でからかうと、マルクスも「滅びる日までブルジョワジーどもが私のお尻のオデキのことを覚えていることを祈りたい。あのむかつく奴らめ!」と返信している[570]

また新陳代謝機能に障害があり、食欲不振・便秘胃腸カタルなどに苦しんだ。この食欲不振を打ち払うために塩辛い物をよく口にした[571]オットー・リュウレドイツ語版は著書『マルクス、生涯と事業』の中でここにマルクスの極端な性格の原因を求め、「マルクスは食事に関する正しい知識を持っておらず、ある時は少なく、ある時は不規則に、ある時は不愉快に食べ、その代わりに食欲を塩っ辛い物で刺激した。」「悪しき飲食者は悪しき労作者であり、悪しき僚友でもある。彼は飲食について何も食わないか、胃袋を満杯にするかの二極だった。同じく執筆について執筆を全く面倒くさがるか、執筆のために倒れるかの二極だった。同じく他者について、人間を避けるか、誰もが利益せぬ全ての人と友になるかの二極だった。彼は常に極端に動く」と述べる[571]

酒好きであり[9]、またヘビースモーカーだった。マルクスがラファルグに語ったところによると「資本論は私がそれを書く時に吸った葉巻代にすらならなかった」という。家計の節約のために安物で質の悪い葉巻を吸い、体調を壊して医者に止められている[572][573]

趣味・嗜好

[編集]

詩や劇文学を愛好した。古代ギリシャの詩人ではアイスキュロスホメーロスを愛した。とりわけアイスキュロスはお気に入りで、娘婿のラファルグによればマルクスは1年に1回はアイスキュロスをギリシャ語原文で読んだという[574]ドイツ文学ではゲーテハイネを愛していたが、ドイツから亡命することになった後はドイツ文学への関心は薄れていったという。亡命後のドイツ文学への唯一の反応はワーグナーを「ドイツ神話を歪曲した」と批判したことだけだった[575]フランス文学ではディドロの『ラモーの甥』のような啓蒙文学とバルザックの『人間喜劇』のような写実主義文学を愛した[576]。特にバルザックの作品はブルジョワ社会を良く分析したものとして高く評価し、いつかバルザックの研究書を執筆したいという希望を周囲に漏らしていたが、それは実現せずに終わった[577][578]。逆にシャトーブリアンロマン主義作家のことは嫌った[575]。ロンドン亡命後にはイギリス文学にも関心を持った。イギリス文学ではやはりなんといってもシェイクスピアが別格だった。マルクス家は一家をあげてシェイクスピアを崇拝していたといっても過言ではない[578]フィールディングの『トム・ジョウンズ』も愛した[578]。またロマン主義を嫌うマルクスだが、ウォルター・スコットの作品は「ロマン類の傑作」と評していた[578]バイロンシェリーについては、前者は長生きしていたら恐らく反動的ブルジョワになっていたので36歳で死んで良かったと評し、後者は真の革命家であるので29歳で死んだことが惜しまれると評している[578]イタリア文学ではダンテを愛した[573][579]

前述したように食欲不振に苦しみ、それを解消するためにハム、薫製の魚料理キャビアピクルスなど塩辛い物を好んで食べたという[573]

チェスが好きだったが、よくその相手をしたヴィルヘルム・リープクネヒトに勝てた例がなかった。マルクスは彼に負けるのが悔しくてたまらなかったという[580]。気分転換は高等数学を解くことであった[581]

「告白」というヴィクトリア朝時代に流行った遊びでマルクスの娘たちの20の質問に答えた際、好きな色として、好きな花として月桂樹、好きなヒーローとしてスパルタクス、好きなヒロインとしてグレートヒェンをあげた[582]

他人に渾名を付けるのが好きだった。妻イェニーはメーメ、三人の娘たちはそれぞれキーキ、コーコ、トゥシーだった[579][583]。エンゲルスのことは「安楽椅子の自称軍人」(彼は軍事研究にはまっていた)という意味で「将軍」と呼んだ[584][585]ヴィルヘルム・リープクネヒトは「幼稚」という意味で「ヴィルヘルムヒェン(ヴィルヘルムちゃん)」[479]。ラッサールは色黒なユダヤ系なので「イジー男爵」「ユダヤのニガー」だった[586]。マルクス自身もその色黒と意地悪そうな顔から娘たちやエンゲルスから「ムーア人」や「オールド・ニック(悪魔)」と渾名された[579][583][587]。マルクス当人は娘たちには自分のことを「ムーア人」ではなく、「オールド・ニック」あるいは「チャーリー」と呼んでほしがっていたようである[365]

家計・金銭問題

[編集]

ロバート・L.ハイルブローナーは「もしマルクスが折り目正しく金勘定のできる人物だったなら、家族は体裁を保って生活できたかもしれない。けれどもマルクスは決して会計の帳尻を合わせるような人物ではなかった。たとえば、子供たちが音楽のレッスンを受ける一方で、家族は暖房無しに過ごすということになった。破産との格闘が常となり、金の心配はいつも目前の悩みの種だった」と語っている[588]

マルクス家の出納帳は収入に対してしばしば支出が上回っていたが、マルクス自身は贅沢にも虚飾にも関心がない人間だった[589]。マルクス家の主な出費は、マルクスの仕事の関係だったり、家族が中流階級の教育や付き合いをするためのものが大半だった。マルクスは極貧のなかでも三人の娘が中流階級として相応しい教養をつけるための出費を惜しまなかったが、そのためにいつも借金取りや大家に追われていた。

マルクスは定職に就くことがなかったため(前述のように一度鉄道の改札係に応募しているが、断られている)、マルクス家の収入はジャーナリストとしてのわずかな収入と、エンゲルスをはじめとする友人知人の資金援助、マルクス家やヴェストファーレン家の遺産相続などが主だった。友人たちからの資金援助はしばしば揉め事の種になった。ルーゲやラッサールが主張したところを信じれば、彼らとマルクスとの関係が断絶した理由は金銭問題だった。1850年にはラッサールとフライリヒラートに資金援助を請うた際、フライリヒラートがそのことを周囲に漏らしたことがあり、マルクスは苛立って「おおっぴらに乞食をするぐらいなら最悪の窮境に陥った方がましだ。だから私は彼に手紙を書いた。この一件で私は口では言い表せないほど腹を立てている」と書いている[340]。エンゲルスの妻メアリーの訃報の返信として、マルクスが家計の窮状を訴えたことで彼らの友情に危機が訪れたこともある[590]。しかしエンゲルスは生涯にわたって常にマルクスを物心両面で支え続けた。『資本論』が完成した時、マルクスはエンゲルスに対して「きみがいなければ、私はこれを完成させることはできなかっただろう」と感謝した[591]

人間関係

[編集]

マルクスは亡命者だったので、ロンドン、ブリュッセル、パリなどの亡命者コミュニティの中で生活した。

マルクスを支えたのは、イェニー、イェニーヒェン、ラウラ、エリノアなどの家族の他、エンゲルスのような親友、リープクネヒトやベーベルのような部下、ヴォルフやエカリウスのような同志たちだった。マルクスはロンドンで学者コミュニティと接触があったようで、生物学者や化学者といった人たちと交流があった。ドイツの医師であるクーゲルマンとは頻繁に手紙のやり取りをしている。マルクスはダーウィンの仮説を称賛していて、自分の著した『資本論』をダーウィンに送っている。ダーウィンは謝辞の返信をだしているが[592]、『資本論』自体はあまりに専門的すぎて最後まで読んでいなかったらしい。

マルクスは組織運営の問題や思想上の対立でしばしば論敵をつくった。マルクスの批判を免れた人には、ブランキハイネオコーナー英語版ガリバルディなどがいるが、プルードンフォイエルバッハバウアーデューリングマッツィーニバクーニンなどは厳しい批判にさらされた。

批判者からは以下のような意見が見られる。

1848年8月、当時ボン大学の学生だったカール・シュルツはケルンで開催された民主主義派の集会に出席したが、その時演説台に立ったマルクスの印象を次のように語っている。「彼ほど挑発的で我慢のならない態度の人間を私は見たことがない。自分の意見と相いれない意見には謙虚な思いやりの欠片も示さない。彼と意見の異なる者はみな徹底的に侮蔑される。(略)自分と意見の異なる者は全て『ブルジョワ』と看做され、嫌悪すべき精神的・道徳的退廃のサンプルとされ、糾弾された。」[593]

アーノルド・ルーゲは「私はこの争いを体裁の悪い物にしたくないと思って極力努力したが、マルクスは手当たり次第、誰に向かっても私の悪口を言う。マルクスは共産主義者を自称するが、実際は狂信的なエゴイストである。彼は私を本屋だとかブルジョワだとか言って迫害してくる。我々は最悪の敵同士になろうとしている。私の側から見れば、その原因は彼の憎悪と狂気としか考えられない」と語る[205]

ミハイル・バクーニンは「彼は臆病なほど神経質で、たいそう意地が悪く、自惚れ屋で喧嘩好きときており、ユダヤの父祖の神エホバの如く、非寛容で独裁的である。しかもその神に似て病的に執念深い。彼は嫉妬や憎しみを抱いた者に対してはどんな嘘や中傷も平気で用いる。自分の地位や影響力、権力を増大させるために役立つと思った時は、最も下劣な陰謀を巡らせることも厭わない。」と語る[594]

マルクスの伝記を書いたE・H・カーは「彼(マルクス)は同等の地位の人々とうまくやっていけた試しがなかった。政治的な問題が討議される場合、彼の信条の狂信的性格のために、他の人々を同等の地位にある者として扱うことができなかった。彼の戦術はいつも相手を抑えつけることであった。というのも彼は他人を理解しなかったからである。彼と同じような地位と教育をもっていて政治に没頭していた人々の中では、エンゲルスのように彼の優位を認めて彼の権威に叩頭するような、ごく少数の者だけが彼の友人としてやっていくことができた」と評している[388]

マルクス主義者のフランツ・メーリングさえも「(マルクスが他人を批判する時の論法は)相手の言葉を文字通りとったり、歪曲したりすることで、考え得る限りのバカバカしい意味を与えて、誇張した無軌道な表現にふけるもの」と批判している[595]。メーリングはラッサールはじめマルクスが批判した他の社会主義者を弁護することが多いが、彼はその理由として「マルクスは超人ではなかったし、彼自身人間以上のものであることを欲しなかった。考えもなく口真似することこそは、まさに彼が一番閉口したことであった。彼が他人に加えた不正を正すことは、彼に加えられた不正を正すことに劣らず、彼の精神を呈して彼を尊敬することなのだ。」と述べている[596]

思想

[編集]

エンゲルスとの関係

[編集]

マルクスとエンゲルスは1844年の再会以降、無二の盟友として緊密な関係を保ち、頻繁に往復書簡を交わして思想交流をしていたために、その思想はつねに一致していたとしばしば捉えられるが、マルクスとエンゲルスの思想の差異を指摘する研究者もいる。

たとえばエンゲルスは『反デューリング論』でマルクス主義が一貫した体系という性格をもっていることを指摘したが、マルクス自身は自分の論稿を常に一貫した体系として提示したわけではなかった。またエンゲルスは『自然弁証法』で弁証法哲学自然科学の領域にも応用できることを示したが、これについてマルクスは「ぼくは時間をとって、その問題についてじっくり考え『権威たち』の意見を聞くまでは、あえて判断をくださないようにしよう」と返信している[597]

1869年にロンドンへ移住して以降のエンゲルスの理論活動においては、自然科学や原始社会などの新たな研究をふまえ、マルクス主義を社会のみならず自然をも包括するよう体系化しようとする志向が見受けられる[598]。現在の『資本論』第3巻では、エンゲルスによる大幅な改変がなされている[599]

「決定論」

[編集]

マルクスの思想体系は「経済決定論」だという批判がしばしばある。その含意は、社会や政治や心理の発展過程はすべて経済に規定されているとマルクスは考えていた、というものである[600]。また、カール・ポパーアイザイア・バーリンはマルクスがヘーゲル主義的な「歴史決定論」に陥っていると批判している[601]

マルクスがヘーゲルの言う「理性の狡知」の論理をしばしば用いたのは事実だが、マルクス自身は人間の主体性や歴史の偶然性を度々認めている。たとえばイーグルトンはマルクスが初期の著作で人間の類的存在と歴史に対する能動的な役割を認めていたことを指摘する[602]。またマルクスは『フォイエルバッハ・テーゼ』で「環境の変革と教育に関する唯物論の学説は、環境が人間によって変革され、教育者自身が教育されなければならないことを忘れている」と書いているし[603]、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』では、マルクス自身がプルードンが歴史的決定論に陥っていると批判している[604]

E.H.カーは、カール・ポパーアイザイア・バーリンがマルクス主義を歴史決定論であると批判したことに触れて、マルクスの立場は決定論ではなく、因果関係の重視であると反論している[605]。カーはマルクスの「もし世界史にチャンスの余地がなかったとしたら、世界史は非常に神秘的な性格のものになるであろう。もちろん、このチャンスそのものは発展の一般的傾向の一部になり、他の形態のチャンスによって埋め合わされる。しかし、発展の遅速は、初め運動の先頭に立つ人々の性格の『偶然的』性格を含む、こうした『偶然事』に依存する」という発言を引用して、マルクスが単純な歴史決定論ではないより精緻な態度をとっていることを指摘している。

ユダヤ人観

[編集]

マルクスは自分がユダヤ人であることを否定したことも、逆にそれを積極的にアピールしたこともなかった。これはマルクスの娘エリノア・マルクスが自分がユダヤ人であることを誇りを持ってアピールしていたのと対照的であった[606]。マルクスは自由主義的なライン地方に生まれ育ち、6歳のときに親の方針でキリスト教に改宗していたのでハイネラッサールのようにユダヤ人の出自で苦しむということは少なかった[607]

しばしば見られる批判として、マルクスはユダヤ人を蔑視していた、というものがある。マルクスがラッサールのことを「ユダヤのニガー」と渾名したことや[注釈 25]、マルクスが若い頃に書いた『ユダヤ人問題によせて』でユダヤ人のことを悪徳な貸金業者として描写したことがその根拠となっている。

ユダヤ人問題によせて』でマルクスは、ブルーノ・バウアーがユダヤ人を解放するには彼らをユダヤ教からキリスト教に改宗させればよいと主張したのに反論して、国家がユダヤ人を排除していることが職業へと向かわせていると指摘し、「実際的ユダヤ教」と「賤業」とを比喩的に同一視しながら、「クリスチャンがユダヤ人となり」、遂には人類全体を「実際的」ユダヤ教から解放する必要があると言っている[610]。また、「他方、ユダヤ人が自分のこの実際的な本質をつまらぬものとみとめてその廃棄にたずさわるならば、彼らは自分のこれまでの発展から抜けでて、人間的解放そのものにたずさわり、そして人間の自己疎外の最高の実際的表現に背をむけることになる。」ともいい、「ユダヤ人がユダヤ人的なやり方で自己を解放したのは、ただたんに彼らが金力をわがものとしたことによってではなく、貨幣が、彼らの手を通じて、また彼らの手をへないでも、世界権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教諸国民の実際的精神となったことによってなのである。ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になっただけ、それだけ自分を解放したのである。(中略)ユダヤ人の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である。」とも言っている[610]

労働者観

[編集]

マルクスやエンゲルスは労働者を軽蔑していたという主張がある。

レオポルト・シュワルツシルトドイツ語版は「マルクスとエンゲルスは公にはプロレタリアートを人類の救済者と呼び、その独特の優れた性格を賛美してやまなかった。だが私的にはプロレタリアートについての彼らの言葉はますます尊大に侮蔑的になってきた。エンゲルスはマルクスへの報告の中で、まるでプロイセン軍の軍曹が新兵に向かって用いるような言葉でプロレタリアを語っている。『あいつら』、『あの駄馬たち』、『何でも信じる愚かな労働者』」と主張する[611]。マルクスに批判的なシュロモ・アヴィネリ英語版も「プロレタリアートが自らのゴールを設定し、他からの援助なしにそれを実現する能力に関してマルクスが懐疑的であったことは様々な資料からうかがい知れる。このことは革命は決して大衆から起こることはなく、エリート集団から発するものだという彼の見解とも一致する」と主張する[612]ロバート・ペイン英語版も「マルクスは人間を侮蔑していた。とりわけ彼がプロレタリアートと呼んだ人種を」と主張する[612]

一方フランシス・ウィーン英語版は、アヴィネリの批判について「様々な資料」というが何のことなのか具体的に指摘していないと批判し、そこには「雑魚に対するマルクスの侮辱は世界的に知れているので実証するまでもない」という態度があると批判する[613]。マルクスが労働者を侮辱した例としてアヴィネリが上げるヴィルヘルム・ヴァイトリングについては「マルクスはヴァイトリングに対して実に寛大だった。その信念のために罰せられた哀れな仕立て職人を邪険に扱うべきではないと言ったのは他でもないマルクスであり、二人の関係にひびが入ったのはマルクスが最下層の人間を侮蔑していたからではなく、ヴァイトリングの耐えがたいほど自己中心的な政治的および宗教的な誤謬のせいであった。むしろヴァイトリングが労働者階級ではなく中産階級者だったらもっと激しい攻撃を加えていただろう」と述べている[613]

またウィーンは、同じくアヴィネリがマルクスから侮辱を受けた労働者の同志として例示するヨハン・ゲオルク・エカリウスドイツ語版についても、マルクスは彼自身悲惨な生活を送っていた1850年代を通じてエカリウスの生活に気をかけていたことを指摘する。ワシントンにいる同志のジャーナリストに依頼してエカリウスの論文が新聞に掲載されるよう取り計らったり、またエカリウスが病気になった時には、エンゲルスに依頼してワインを送ったり、エカリウスの子供たちが死んだ時にも葬儀費用を稼ぐための募金活動を行ったことを指摘した。そして「にもかかわらず、マルクスはただの仕立職人には狭量な軽侮の念を抱いていたなどという旧態依然たる戯言を未だに繰り返す研究者がなんと多いことか」と嘆いている[614]

戦争観

[編集]

マルクスは戦争を資本主義社会や階級社会に特有の付随現象と見ていた[615]。だが労働者階級が戦争に対して取るべき態度については、戦争の前提と帰結から個別に決めていく必要があると考えていた[615]。とりわけその戦争がプロレタリア革命にとって何を意味しているかを最も重視した[616][617]

1848年革命中の『新ライン新聞』時代には、諸国民の春に対してヨーロッパの憲兵として振舞ったロシアと開戦すべきことを盛んに煽ったし[314]、クリミア戦争も反ロシアの立場から歓迎した[402]。イタリア統一戦争では反ナポレオン3世の立場からオーストリアの戦争遂行を支持し、参戦せずに中立の立場をとろうとするプロイセンを批判した[407]普墺戦争も連邦分立状態が続くよりはプロイセンのもとに強固にまとまる方がプロレタリア闘争に有利と考えて一定の評価をした[482]

しかし弟子たちの模範になったのは、普仏戦争に対する次のようなマルクスの立場だった。普仏戦争勃発時、マルクスは戦争を仕掛けたナポレオン3世に対してドイツの防衛戦争を支持したが、戦争がフランス人民に対する侵略戦争と化せば、その勝敗にかかわらず両国に大きな不幸をもたらすだろうと警告した。「差し迫った忌まわしい戦争がどのような展開を見せようと、すべての国の労働者階級の団結が最後には戦争の息の根を止めるだろう。公のフランスと公のドイツが兄弟殺しにも似た諍いをしているあいだにも、フランスとドイツの労働者たちは互いに平和と友好のメッセージを交換し合っているという事実。歴史上、類を見ないこの偉大な事実が明るい未来を見晴らす窓を開けてくれる」[618]

マルクスのこの立場は、職業軍人による十九世紀的な戦争から、二十世紀的な国民総動員へと戦争の性格が変わっていくにつれ、彼の弟子たちにますます重視されるようになった。

各国観

[編集]

プロイセン政府に追われてからのマルクスは、基本的にコスモポリタンで、『共産党宣言』には「プロレタリアは祖国を持たない」という有名な記述がある。しかし、その続きで「ブルジョアの意味とはまったく違うとはいえ、プロレタリア自身やはり民族的である」とも述べている[619]。ヨーロッパ列強に支配されていたポーランドやアイルランドの民族主義については支援する一方で労働貴族が形成されつつあったイギリスの労働者階級や、ナポレオン三世の戴冠を許したフランスの労働者階級のナショナリズムにはしばしば厳しい批判を行っている[620]。他方、イギリスのチャーチスト運動やフランスのパリコミューンを遂行した労働者の階級意識は評価するなど、マルクスの各国観は民族的偏見というよりはむしろ階級意識が評価の基準だった[500]。またマルクス自身はドイツ人だったが、自分をほとんどドイツ人とは認識していなかったようである。プロイセン政府は専制体制と評価し、これを批判していた。

十九世紀、ヨーロッパの憲兵として反革命の砦だったロシアには非常に当初厳しい評価を下している。E.H.カーはこれをスラブ人に対するドイツ的偏見と解釈していた[621]。マルクス自身はロシアの将来について、「もし農民が決起するなら、ロシアの一七九三年は遠くないであろう。この半アジア的な農奴のテロル支配は史上比類ないものとなろう。しかしそれはピョートル大帝のにせの改革につぐ、ロシア史上第二の転換点となり、次はほんとうの普遍的な文明を打ち立てるだろう」と予測している(『マルクスエンゲルス全集』12巻648頁)。1861年の農奴解放令によって近代化の道を歩み始めて以降のロシアに対しては積極的に評価し、フロレンスキーの『ロシアにおける労働者階級の状態』を読み、「きわめてすさまじい社会革命が-もちろんモスクワの現在の発展段階に対応した劣ったかたちにおいてではあれ-ロシアでは避けがたく、まぢかに迫っていることを、痛切に確信するだろう。これはよい知らせだ。ロシアとイギリスは現在のヨーロッパの体制の二大支柱である。それ以外は二次的な意義しかもたない。美しい国フランスや学問の国ドイツでさえも例外ではない」と書いている(『マルクス・コレクション7』p. 340-342)。更に死の2、3年前には「ロシアの村落的共同体はもし適当に指導されるなら、未来の社会主義的秩序の萌芽を含んでいるかもしれぬ」とロシアの革命家ヴェラ・ザスーリッチに通信している[622]

植民地観

[編集]

マルクスは、『共産党宣言』では、ポーランド独立運動において「農業革命こそ国民解放の条件と考える政党」を支持し[623]、1867年のフェニアンによるアイルランド反乱の際には、植民地問題をイギリスの社会革命の一環として捉えるようになる。マルクスによれば、当時イギリスに隷属していたアイルランドはイギリスの地主制度の要塞になっている。イギリスで社会革命を推し進めるためには、アイルランドで大きな打撃を与えなければならない。「他の民族を隷属させる民族は、自分自身の鉄鎖を鍛えるのである。」「現在の強制された合併(すなわちアイルランドの隷属)を、できるなら自由で平等な連邦に、必要なら完全な分離に変えることが、イギリス労働者階級の解放の前提条件である」[624]

他方、マルクスのインド・中国論にはオリエンタリズムという批判がある(たとえばエドワード・サイードのマルクス論)。しかし一方でマルクスのインド・中国論はヘーゲル的な歴史観によるものだという解釈もある[625]。マルクスによれば、イギリスのインド支配や中国侵略は低劣な欲得づくで行われ、利益追求の手段もまた愚かだった。しかしイギリスは、無意識的にインドや中国の伝統的社会を解体するという歴史的役割を果たした。マルクスによれば、この事実を甘いヒューマニズムではなく冷厳なリアリズムで確認するべきである。「ブルジョワジーがひとつの進歩をもたらすときには、個人や人民を血と涙のなかで、悲惨と堕落のなかでひきずりまわさずにはこなかったではないか」。

ヨーロッパによって植民地、半植民地状態におかれたインドと中国の将来については、マルクスは次のように予測した。

「大ブリテンそのもので産業プロレタリアートが現在の支配階級にとってかわるか、あるいはインド人自身が強くなってイギリスのくびきをすっかりなげすてるか、このどちらかになるまでは、インド人は、イギリスのブルジョワジーが彼らのあいだに播いてくれた新しい社会の諸要素の果実を、取り入れることはないであろう。それはどうなるにしても、いくらか遠い将来に、この偉大で興味深い国が再生するのを見ると、期待してまちがいないようである」[626]

「完全な孤立こそが、古い中国を維持するための第一の条件であった。こうした孤立状態がイギリスの介入によってむりやりに終わらされたので、ちょうど封印された棺に注意ぶかく保管されたミイラが外気に触れると崩壊するように、崩壊が確実にやってくるに違いない」[627]

評価・批判

[編集]

マルクスのことをフェルディナント・ラッサールは「経済学者になったヘーゲルであり、社会主義者になったリカード」と表現した[628]

マルクスの伝記作家フランシス・ウィーン英語版は「20世紀の歴史はマルクスの遺産のようなものだ。スターリン毛沢東チェ・ゲバラカストロも ―現代の偶像も、あるいは怪物も、みな自らをマルクスの後継者と宣言して憚らなかった。マルクスが生きていたら彼らをその通りに認めたかどうか、それはまた別問題だ。実際、彼の弟子を自称する道化たちは、彼の存命中からしばしば彼を絶望の淵に追いやることが少なくなかった。たとえば、フランスの新しい政党が自分たちはマルキシストであると宣言した時、マルクスはそれを聞いて『少なくとも私はマルキシストではない』と答えたという。それでも彼の死後、百年のうちに世界の人口の半数がマルキシズムを教義と公言する政府によって統治されるようになった。さらに彼の理念は経済学、歴史学、地理学、社会学、文学を大きく変えた。微賎の貧者がこれほどまでに世界的な信仰を呼び起こしながら、悲惨なまでに今なお誤解され続けているのは、それこそイエス・キリスト以来ではないだろうか」と評する[629]

歴史学者E.H.カーは「マルクスは破壊の天才ではあったが、建設の天才ではなかった。彼は何を取り去るべきかの認識においては、極めて見通しがきいた。その代わりに何を据えるべきかに関する彼の構想は、漠然としていて不確実だった。」「彼の全体系の驚くべき自己矛盾が露呈せられるのはまさにこの点である」と述べつつ、「彼の事業の最も良い弁護は結局バクーニンの『破壊の情熱は建設の情熱である』という金言の中に発見されるかもしれない。」「彼の当面の目標は階級憎悪であり、彼の究極の目的は普遍的愛情であった。一階級の独裁、―これが彼の建設的政治学への唯一の堅固で成功した貢献であるが― は階級憎悪の実現であり延長であった。それがマルクスによってその究極の目的として指定された普遍的愛情の体制へ到達する可能性があるか否かは、まだ証明されていない」「しかしマルクスの重要性は彼の政治思想の狭い枠を超えて広がっている。ある意味でマルクスは20世紀の思想革命全体の主唱者であり、先駆者であった」と評している[630]

政治哲学者アイザイア・バーリンは「マルクスが発展させた何らかの理論について、その直接の源流をたどってみることは比較的に簡単なことである。だがマルクスの多くの批判者はこのことにあまりにも気を遣いすぎているように思える。彼の諸見解の中で、その萌芽が彼以前や同時代の著作家たちの中にないようなものは、恐らく何一つないといっていい」として、例えば唯物論スピノザドルバックフォイエルバッハに負うところが大きいこと、「人類の歴史は全て階級闘争」とする歴史観はシモン=ニコラ=アンリ・ランゲフランス語版サン=シモンが主張していたこと、「恐慌の周期的発生の不可避」という科学的理論はシスモンディの発見であること、「第四階級の勃興」は初期フランス共産主義者によって主張されたこと、「プロレタリアの疎外」はマックス・シュティルナーがマルクスより1年早く主張していること、プロレタリア独裁はバブーフが設計したものであること、労働価値説ジョン・ロックアダム・スミスリカードら古典経済学者に依拠していること、搾取剰余価値説シャルル・フーリエがすでに主張していたこと、それへの対策の国家統制策もジョン・フランシス・ブレイ英語版ウィリアム・トンプソントーマス・ホジスキンらがすでに論じていたことなどをバーリンはあげる[631][注釈 26]。「社会観察の上に立って研究を行っている全ての人は必然的にその影響を受けている。あらゆる国の相争う階級、集団、運動、その指導者のみならず、歴史家、社会学者、心理学者、政治学者、批評家、創造的芸術家は、社会生活の質的変化を分析しようと試みる限り、彼らの発想形態の大部分はカール・マルクスの業績に負うことになる」「その主要原理の誇張と単純化した適用は、その意味を大いに曖昧化し、理論と実践の両面にわたる多くの愚劣な失策は、マルクスの理論の名によって犯されてきた。それにも関わらず、その影響力は革命的であったし、革命的であり続けている」と評する[632]

城塚登はマルクスは元々経済学の人ではなく、哲学の人であり、「人間解放」という哲学的結論に達してから経済学に入ったがゆえに、それまでの国民経済学者と異なる結論に達したと主張する[633]

2005年のイギリスBBCのラジオ番組の視聴者投票でマルクスは偉大な哲学者第1位に選ばれた。2位はヒューム、3位はウィトゲンシュタイン、4位はニーチェ、5位はプラトン、6位はカント、7位はアクィナス、8位はソクラテス、9位はアリストテレス、10位はポパーだった[634]

家族

[編集]

[編集]
妻のジェニー

1836年にトリーア在住の貴族ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンの娘であるイェニー(ジェニー、1814-1881)と婚約し、1843年に結婚した[158][635]。マルクスは反貴族主義者だが、妻が貴族であることは非常に誇りにし、妻には「マダム・イェニー・マルクス。旧姓バロネッセ(男爵令嬢)・フォン・ヴェストファーレン」という名刺を作らせて、商人や保守派相手にはしばしばそれを見せびらかした[636]。また困窮の時でもドイツの男爵令嬢にみすぼらしい恰好をさせるわけにはいかないとイェニーの衣服には金を使い、債権者を怒らせた[637]

マルクスの伝記作家は概してヴェストファーレン家の貴族としての家格を誇張しがちであるが、実際にはヴェストファーレン家は由緒ある貴族というわけではなく、ルートヴィヒの父であるフィリップドイツ語版の代に戦功で貴族に列したに過ぎない。同家はスコットランド王室に連なるなどという噂もあるが、ヨーロッパでは多くの家がどこかで王室と繋がっているため、それは名門であることを意味しない。ルートヴィヒはトリーアの統治を任せられていたわけではなく、一介の役人としてトリーアに赴任していただけである。プロイセン封建秩序の中にあってヴェストファーレン家など取るに足らない末席貴族であることは明らかであり、実質的な生活状態は平民と大差なかったと考えられる。ただ末席貴族ほど気位が高いというのは一般によくある傾向であり、その末席貴族の娘がユダヤ人に「降嫁」するのは異例と言えなくもない[638]

イェニーの兄でルートヴィヒの跡を継いでヴェストファーレン家の当主となったフェルディナントは、マルクスとは対極に位置するような徹底した保守主義者であり、妹を「国際的に悪名高いユダヤ人」から引き離したがっていた[158][639]。また彼は1850年代の保守派の反転攻勢期にプロイセン内務大臣となり、時の宰相オットー・フォン・マントイフェルの方針に背いてまでユンカーのための保守政治を推し進めた人物でもある[640]。一方イェニーの弟エドガードイツ語版はマルクス夫妻の良き理解者であった。初期のマルクスの声明にはよく彼も署名していたが最後までマルクスと行動を共にしたわけではなく、後に渡米し、帰国後には自堕落に過ごしていた[641][642]

子供

[編集]
マルクス(左上)と娘たち(前列左より長女ジェニー・キャロライン、四女エリノア、次女ラウラドイツ語版)。右上はフリードリヒ・エンゲルス。1864年頃

マルクスとイェニーは二男四女に恵まれた。マルクスは政治的生活では独裁的だったが、家庭ではおおらかな父親であり、「子供が親を育てねばならない」とよく語っていた[583]。晩年にも孫たちの訪問をなによりも喜び、孫たちの方からも愛される祖父だった[643]

  1. 長女ジェニー・カロリーナドイツ語版1844年-1883年)は、パリ・コミューンに参加してロンドンに亡命したフランス人社会主義者シャルル・ロンゲフランス語版と結婚した[644][645]。彼女は父マルクスに先立って1883年1月に死去している[646]
  2. 次女ジェニー・ラウラドイツ語版1845年-1911年)は、インターナショナル参加のために訪英したフランス人社会主義者ポール・ラファルグと結婚したが、子供はできなかった。ポールとラウラは、社会主義者は老年になってプロレタリアのために働けなくなったら潔く去るべきだ、という意見をもっていて、1911年にポールとともに自殺した[647]。彼らの自殺は当時ヨーロッパの社会主義者たちの間でセンセーションを巻き起こした。
  3. 長男エドガー(エトガル[648])(1847年-1855年4月6日)は義弟エドガー・フォン・ヴェストファーレンに因んで名づけられた[649]。マルクスはこの長男エドガーをとりわけ可愛がっていた。娘に冷たいわけではなかったが、息子の方により愛着を持っていた[650]。8歳でなくなったエドガーの死にあたってマルクスは絶望し、この3カ月後にラッサールに送った手紙の中で「真に偉大な人々は、自然の世界との多くの関係、興味の対象を数多く持っているので、どんな損失も克服できるという。その伝でいけば、私はそのような偉大な人間ではないようだ。我が子の死は私を芯まで打ち砕いた」と書いている[651]。妻の子6人のほかに、メイドとの間に男児がいたとされる。
  4. 次男ヘンリー・エドワード・ガイ(ハインリヒ・グイード[652])(1849年-1850年11月19日)はイギリス議会爆破未遂犯ガイ・フォークスに因んで名付けたが[584]、ディーン通りに引っ越す直前に幼くして突然死した[653]
  5. 三女ジェニー・エヴェリン・フランセス(フランツィスカ[654])(1851年-1852年4月14日)もディーン通りの住居で気管支炎により幼い命を落としている[655]
  6. 四女ジェニー・エリノア1855年-1898年)は、三人の娘たちの中でも一番のおてんばであり、マルクスも可愛がっていた娘だった。とりわけ晩年のマルクスは彼女が側にいないと、いつも寂しそうにしたという[656]。エレノアの生涯は『ミス・マルクス』(日本公開2021年)として映画化された[657]1898年3月31日遺書を残して服毒自殺[658]

婚外子

[編集]
マルクスの非嫡出子を儲けたマルクス家のメイドのヘレーネ・デムートドイツ語版
マルクスとヘレーネの子とされるフレデリック。1921年

ヴェストファーレン家でイェニーのメイドをしていたヘレーネ・デムートドイツ語版(1820-1870、愛称レンヒェン)は、イェニーの母がイェニーのためにマルクス家に派遣し、以降マルクス一家と一生を共にすることになった。彼女は幼い頃から仕えてきたイェニーを崇拝しており、40年もマルクス家に献身的に仕え、マルクス家の困窮の時にはしばしば給料ももらわず無料奉仕してくれていた[201][659]。彼女は1851年にディーン通りのマルクス家の住居においてフレデリック(フレディ)・デムート(1851-1929)を儲けた[660]。フレディの出生証明の父親欄は空欄になっており、里子に出されたが、1962年に発見されたアムステルダムの「社会史国際研究所」の資料と1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙からフレディの父親はマルクスであるという説が有力となった[661]

このエンゲルス家の女中の手紙や娘のエリノアの手紙から、マルクスの娘たちはフレディをエンゲルスの私生児だと思っていて、エリノアはエンゲルスが父親としてフレディを認知しないことを批判していた事が分かる[662]。エンゲルス家の女中の手紙によれば、エンゲルスは死の直前に人を介してエリノアにフレディはマルクスの子だと伝えたが、エリノアは嘘であるといって認めなかった。それに対してエンゲルスは「トゥッシー(エリノア)は父親を偶像にしておきたいのだろう」と語ったという[663]

ちなみにフレディ当人は自分がマルクスの子であるとは最後まで知らなかった。彼はマルクスの子供たちの悲惨な運命からただ一人逃れ、ロンドンで旋盤工として働き、1929年に77歳で生涯を終えている[664]。ロンドンの労働者階級の家庭の養子となって英国籍となり、機械工として修業後、機械工合同組合員となり、ハックニー労働党の創設メンバーと言われる[665]

マルクスの著作

[編集]
1973年に東ドイツで出版された『資本論

マルクス像

[編集]

東欧諸国には共産主義政党独裁時代に建てられた複数のマルクス像が現在まで残っている。また近年の2018年にも依然として中国共産党の独裁体制下にある中華人民共和国からマルクス生誕200年を記念して生誕地であるドイツのトリーアに対して高さ5.5m、重さ2.3tの彫像が寄贈され、除幕式には欧州委員会ジャン=クロード・ユンケル委員長やドイツ社会民主党アンドレア・ナーレス党首などが出席したが[666]、かつてドイツ共産党の台頭によってナチスの独裁と東西分断といった負の影響もあったドイツではマルクスに対して否定的な見方が根強くあって彫像設置には批判も出ていた[667]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ さまざまな辞典で使用される「カール・ハインリヒ・マルクス」という名前は、誤りによるもの。彼の出生証明書には「カール・ハインリヒ・マルクス」と書かれているが、他の場所では「カール・マルクス」が使用されている。「K.H.マルクス」は、彼の詩集と彼の論文の書き起こしでのみ使用されている。マルクスは1838年に亡くなった父親に敬意を表したかったので、3つの文書で自分を「カール・ハインリヒ」と呼んだ。
  2. ^ 1862年、ロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツ(英国王立技芸協会)より授かる[1]
  3. ^ プロイセン政府は1815年にもドイツ連邦規約16条に基づき、ユダヤ教徒の公職追放を開始した。この措置とユダヤ人迫害機運の盛り上がりの影響でこの時期にユダヤ教徒から改宗者が続出した。ハインリヒ・ハイネエドゥアルト・ガンスらもこの時期に改宗している[17]。マルクスの父ヒルシェルは当時トリーア市の法律顧問を務めていたため、やはり公職追放の危機に晒された。彼ははじめ改宗を拒否し、ナポレオン法典を盾に公職に止まろうとした。その主張は地方高等裁判所長官フォン・ゼーテからも支持を得ていたが、プロイセン中央政府の法務大臣ドイツ語版フリードリヒ・レオポルト・フォン・キルヒアイゼンドイツ語版から例外措置はありえないと通告された。結局ヒルシェルはゼーテからの勧めで最終手段として改宗したのだった[18]
  4. ^ ヨーゼフ・シュンペーターはマルクスの著作の傾向を看破したものとしてこの評価に注目しており、「マルクスがこの種の文体を使った時は、いつも何らかの隠さなければならない弱点があると見てよい」と評している[43]
  5. ^ ヘーゲルは、当時プロイセンで最も高名な哲学者だった。ヘーゲルは、「この世の全てのものは矛盾をもっているので、不可避で否定を持つが、絶対的なもの(彼はこれを精神と見た)の意思に従って、否定から否定へとジグザグに動いて矛盾を解消して、より理性的な状態へと近づけていく運動である」と考えた。この概念で把握することを弁証法という[75][76]。ヘーゲルのこの考えに従えば、理性的なものは必ず現実に現れてくるはずだし、現在の状態は、必ず理性的な部分があるということになる。ヘーゲルは「理性の最高段階は国家であり、あらゆる矛盾は国家によって解消される」と考えた。そして、プロイセン王国こそがそれを最も体現している国であるとした。プロイセン政府にとっては、フランス革命的な西欧自由主義への対抗として、都合のいい哲学であった。しかし、ヘーゲルは1831年に死去し、その思想の継承者たちは右派・中央派・左派に分裂した。自由主義・啓蒙主義思想から封建主義的なプロイセンの現状の批判する左派は、現実の中に理性を探すのではなく、理性によって現実を審査すべきとしてヘーゲル批判を行うようになった。若き日のマルクスも、このヘーゲル左派の立場に立った[77]
  6. ^ 前王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は優柔不断な性格の王でヘーゲル派のカール・フォム・シュタイン・ツム・アルテンシュタインドイツ語版を文部大臣にしていたため、これまでヘーゲル左派への弾圧も比較的緩やかであった[99]
  7. ^ デモクリトスエピクロスはアトム(原子)を論じた古代ギリシャの哲学者。デモクリトスはあらゆるものはアトムが直線的に落下して反発しあう運動で構成されていると考えた初期唯物論者だった。これに対してエピクロスはデモクリトスのアトム論を継承しつつもアトムは自発的に直線からそれる運動(偏差)をすることがあると考えた[102]。近代まで長らくエピクロスはデモクリトスに余計なものを付け加えた改悪者とされてきたが、自由主義の風潮が高まると哲学的観点から再評価が始まった。デモクリトスのアトム論では人間の行動や心までもアトムの運動による必然ということになってしまうのに対し、エピクロスは偏差の考えを付け加えることで自由を唯物論の中に取り込もうとしたのではないかと考えられるようになったからである。ヘーゲル左派もエピクロスをストア派懐疑主義とともに自分たちの「自己意識」の立場の原型と看做した。マルクスもそうした立場を踏襲してエピクロスとデモクリトスを比較する論文を書いたのだった[103]
  8. ^ ルーゲはマルクスの論文を含む掲載を認められなかった論文を1843年にスイスで『アネクドータ(Anekdote)』という雑誌にして出版している[115]
  9. ^ この新聞は自由主義的だが、ライン地方がプロイセン領であること自体は受け入れており、親仏的・反プロイセン的カトリック新聞『ケルン新聞』への対抗としてプロテスタントのプロイセン政府としても必ずしも邪魔な存在ではなく、その発刊に際しては好意的でさえあったという[119][120]
  10. ^ ただしこの論説のなかでマルクスは「プルードンの洞察力ある著作については研究の必要がある」ともしている[135][136][137]
  11. ^ 農民が森林所有者の許可なく木材を採取することを盗伐として取り締まる法案。マルクスはこの法案を貧民の慣習上の権利を侵すものとして反対した。ただしこの法案は森林所有者の財産権保護だけを目的とする物ではなく、当時凄まじい勢いで進んでいた森林伐採を抑えようという自然環境保護の目的もあった。そちらの観点についてはマルクスは何も語っていない[142]
  12. ^ 仮借ない批判で知られるマルクスだが、不思議なことにハイネだけは最後まで批判しなかった。マルクスとハイネの意見が相違しなかったからではない。ハイネはプロレタリアートが勝利した世界に芸術や美術の居場所はないと感じ取り、共産主義を好んでいなかった。また1856年に死去した際には神に許しを請う遺言書を書いている。このような「反共」や「信仰への墜落」にも関わらず、マルクスはハイネに対して何らの非難も発しなかったのである。マルクスの娘のエレナによれば「父はあの詩人をその作品と同じぐらい愛していました。だから彼の政治的弱さはどこまでも大目に見ていたのです。それを父はこう説明していました。『詩人というのは妙な人種で彼らには好きな道を歩ませてやらねばならない。彼らを常人の尺度で、いや常人ではない尺度でも図ってはならないのだ』」[184]
  13. ^ ブリュッセル時代にもモーゼス・ヘスとマルクス・エンゲルスはしばしば共同で研究をしていたが、ヘスは哲学的観点が抜けきれず、階級闘争など過激な路線を嫌い、階級間を和合させようとしたため、マルクスたちから「真正社会主義者」という批判を受けた[244]
  14. ^ たとえば貴族や聖職者がブルジョワへの復讐で提唱する「封建主義的社会主義・キリスト教的社会主義」、ブルジョワの一部が自分の支配権を延命させるべく主張する「ブルジョワ社会主義」、大工業化で零落した小ブルジョワによるギルド的な「小ブルジョワ社会主義」、哲学者が思弁的哲学の中だけで作っている「真正社会主義」、プロレタリアート革命なしで階級対立と搾取の無い世界を実現できるかのように語る「空想的社会主義」などである[270][271]
  15. ^ ルイ・フィリップ王は1830年の7月革命復古王政が打倒された後、ブルジョワに支えられて王位に就き、多くの自由主義改革を行った人物である。しかしその治世中、労働者階級が台頭するようになり、労働運動が激化した。1839年に社会主義者ルイ・オーギュスト・ブランキの一揆が発生したことがきっかけで保守化を強め、ギゾーを中心とした専制政治を行うようになった[274]。1847年の恐慌で失業者数が増大、社会的混乱が増して革命前夜の空気が漂い始めた。そして1848年2月22日、パリで選挙法改正運動が政府に弾圧されたのがきっかけで暴動が発生[275]。23日にはギゾーが首相を辞し、24日にはルイ・フィリップ王は国外へ逃れる事態となったのである[276][277]
  16. ^ こうしたドイツにおける1848年革命は「3月革命」と呼ばれる。
  17. ^ たとえば『共産党宣言』では「あらゆる相続権の廃止」「全ての土地の国有化」となっていたのを、『ドイツにおける共産党の要求』では「相続権の縮小」「封建主義的領地の国有化」としている。また国立銀行の創設の要求について「国立銀行が貨幣を硬貨と交換するようになれば、万国の両替手数料は安くなり、外国貿易に金銀が使用可能となる」とブルジョワ目線で説明を付けている[295]
  18. ^ マルクスの独裁ぶりを象徴するのがケルン労働者協会会長で共産主義者同盟にも所属していたアンドレアス・ゴットシャルクドイツ語版をつまらないことで激しく糾弾したことだった。ゴットシャルクはこれにうんざりして共産主義者同盟から離脱してしまった。マルクスのゴットシャルク批判は方針の相違では説明を付け難い。フランシス・ウィーンは、「嫉妬がからんでいたということだけは言えるだろう」としている。ウィーンによれば、マルクスは自分の統括下にない組織や機関に批判的だったし、貧しい人たちへの医療活動で知られる医者のゴットシャルクは編集発行人のマルクスより多くの信奉者を得ていた[308]
  19. ^ エンゲルスはロンドンに来た後、ロンドンの新聞社に務めることを夢見ていたが、その夢は叶わず、他の自活の手段も見つけられなかったので父親と和解し、1850年12月からマンチェスターにある父の共同所有する会社で勤務するようになった[360]。とはいえこの頃エンゲルスの給料も年100ポンドを超えることはなかったと見られており、また父の代わりにマンチェスターの大世帯をやり繰りしなければならなかったのでマルクスにやれる金にも限度があった[361]
  20. ^ これについてマルクスの伝記を書いたE・H・カーは「マルクスはラッサールに腹を立てていた。彼を軽蔑したり、時には憎悪したこともあった。彼に対して陰謀を企みもした。しかしラッサールには常に生々しい情熱、力強い人格、自己犠牲の献身、紛う方なき天才の閃きがあり、これがために否応なくマルクスから尊敬を、ほとんど愛情さえ勝ち得たのである。マルクスはエンゲルスの冷静な批判の影響を受けたが、それに完全に納得したことは一度もなかった。恐らくマルクスがゲットーのユダヤ人を軽蔑していたにも関わらず、目に見えぬ、自分には気づかれぬ人種的親近性があったのであろう。二人の意見と性格がどれほど違っても、マルクスがラッサールに無関心であったことは一度もなかった。ラッサールの死はマルクスの生涯においてもヨーロッパ社会主義の歴史においても、一時期を画した」と評している[440]
  21. ^ たとえば『フレイザーズ・マガジン英語版』は「インターナショナルの影響について我々はあまり目にすることも耳にすることもないが、その隠された手は神秘的かつ恐ろしい力で革命装置を操っている」と書いた[507]。『ペルメル・ガゼット英語版』紙は「マルクスは生まれながらのユダヤ人であり、政治的共産主義を生み出すことを目的とする途方もない陰謀の長である」と書いた[508]。フランスのある新聞は「マルクスは陰謀家の最高権威であり、ロンドンの隠れ家からコミューンを指揮した。インターナショナルは700万人の会員を擁し、全員がマルクスの決起命令を待っている」などと報じている[509]
  22. ^ インターナショナルの再建にはその後13年を要し、マルクスは既に他界している。再建された第二インターナショナルは、イギリス労働党フランス社会党ドイツ社会民主党ロシア社会民主党といった有力政党を抱えるヨーロッパの一大政治組織になった。第二インターナショナルはドイツのベルンシュタインからロシアのレーニンまで多様な政治的色彩をもつ党派の連合体だった。
  23. ^ マルクス派が優勢になったドイツ社会主義労働者党は、1891年にドイツ社会民主党と党名を変更しエルフルト綱領を制定した[534]。この中で、エンゲルスは『ゴータ綱領批判』を出版しラサール主義の色が強いゴータ綱領を批判した[535]
  24. ^ 『資本論』第4部こと『剰余価値学説史』は、エンゲルスの死後カール・カウツキーの編集で出版されたが、これが本文の改竄を含んでいるという理由で、ソ連マルクス=レーニン主義研究所により編集し直された。これは構成および各節の小見出しが上の研究所の手になるものである。その後、未編集の草稿の状態を再現した「1861-63年の経済学草稿」が日本語訳でも出版されている。『資本論』に関するもの以外にもマルクス、エンゲルスの死後に発見された著作やノートには同様の問題をはらんでいるものがあり、特に1932年のいわゆる旧MEGAに収録された『ドイツ・イデオロギー』は原稿の並べ替えが行われ、廣松渉から「偽書」と批判された(詳細は『新編輯版 ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫)の「解説」および『廣松渉著作集』、岩波書店、第八巻参照)。『経済学・哲学草稿』は旧MEGA版、ディーツ版、ティアー版などの各版で順序や収録された原稿が異なる[559]
  25. ^ マルクス自身も色黒のユダヤ系であったが、マルクスはラッサールが色黒のユダヤ系なのを捉えて彼が黒人系ユダヤ人であると揶揄していた。エンゲルスへの手紙の中で「彼(ラッサール)の頭の髪の伸び方(縮れ毛)がよく示している通り、彼はモーセがユダヤ人を連れてエジプトから脱出した際に同行したニグロの子孫である。彼の母親か父親がニガーと交わったのでない限り。片やドイツとユダヤの混ぜ合わせ、かたやニグロの血、この二つがこの奇妙な生き物をこの世に誕生させたのだ。この男のしつこさは紛れもなくニガーのそれである」と書いている[586][608][609]
  26. ^ さらにバーリンは述べる。「マルクスは自分の思想が他の思想家に負うていることを決して否定しようとはしなかった。」「マルクスの求める指標は目新しさではなく、真理であった。彼はその思想が最終的な形を取り始めたパリ時代の初期に他人の著作の中に真理を発見すると自己の新しい総合の中にそれを組み入れようと努力した」「マルクスはこれら膨大な素材をふるいにかけて、その中から独創的で真実かつ重要と思えるものを引き出してきた。そしてそれらを参照しつつ、新しい社会分析の方法を構築したのである。」「この長所は簡明な基本的諸原理を包括的・現実的にかつ細部にわたって見事に総合したことである」「いかなる現象であれ最も重要な問題は、その現象が経済構造に対して持っている関係、すなわちこの現象をその表現とする社会構造の中での経済力の諸関係に関わるものであると主張することによって、この理論は新しい批判と研究の道具を作り出したのである。」

出典

[編集]
  1. ^ Ref No RSA/SC/IM/701/S1000 < Search results
  2. ^ a b c 佐々木 2016, pp. 257–259.
  3. ^ 林(2021) p.94-95,102
  4. ^ a b c d ウィーン(2002) p.21
  5. ^ カー(1956) p.14
  6. ^ a b 廣松(2008) p.16
  7. ^ a b 小牧(1966) p.39
  8. ^ a b c d e 廣松(2008) p.17
  9. ^ a b 石浜(1931) p.43
  10. ^ 廣松(2008) p.18/22
  11. ^ 城塚(1970) p.26-27
  12. ^ ウィーン(2002) p.17
  13. ^ a b ウィーン(2002) p.18
  14. ^ 石浜(1931) p.44
  15. ^ 城塚(1970) p.25
  16. ^ Nikolaus Sandmann: Heinrich Marx, Jude, Freimaurer und Vater von Karl Marx. In: Humanität, Zeitschrift für Gesellschaft, Kultur und Geistesleben, Hamburg; Heft 5/1992, p.13–15.
  17. ^ 廣松(2008) p.19
  18. ^ 廣松(2008) p.19-20
  19. ^ 廣松(2008) p.17-19
  20. ^ シュワルツシルト(1950) p.3/8
  21. ^ a b スパーバー 2015a, p. 44.
  22. ^ a b c d カー(1956) p.15
  23. ^ メーリング(1974) 1巻 p.36
  24. ^ シュワルツシルト(1950) p.4/9
  25. ^ Heinz Monz: Der Erbteilungsvertraag Henriette Marx
  26. ^ Manfred Schöncke: Karl und Heinrich Marx und ihre Geschwister, S. 307–309
  27. ^ Jan Gielkens, S. 220–221
  28. ^ シュワルツシルト(1950) p.9-10
  29. ^ 石浜(1931) p.46
  30. ^ メーリング(1974) 1巻 p.40
  31. ^ 廣松(2008) p.21
  32. ^ ウィーン(2002) p.21-22
  33. ^ a b 廣松(2008) p.25
  34. ^ 小牧(1966) p.43
  35. ^ a b c ウィーン(2002) p.22
  36. ^ ウィーン(2002) p.19
  37. ^ 廣松(2008) p.26
  38. ^ a b 廣松(2008) p.27
  39. ^ シュワルツシルト(1950) p.18
  40. ^ シュワルツシルト(1950) p.17
  41. ^ 廣松(2008) p.29
  42. ^ カー(1956) p.16-17
  43. ^ a b シュワルツシルト(1950) p.18-19
  44. ^ カー(1956) p.16
  45. ^ カー(1956) p.17
  46. ^ a b c 城塚(1970) p.30
  47. ^ 石浜(1931) p.52-53
  48. ^ 廣松(2008) p.64-65
  49. ^ ウィーン(2002) p.24
  50. ^ a b 佐々木 2016, pp. 21–22.
  51. ^ a b 廣松(2008) p.65-66
  52. ^ シュワルツシルト(1950) p.21
  53. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.43
  54. ^ a b ウィーン(2002) p.27
  55. ^ 廣松(2008) p.66
  56. ^ 石浜(1931) p.56
  57. ^ 廣松(2008) p.156
  58. ^ 佐々木 2016, p. 20.
  59. ^ カー(1956) p.22-23
  60. ^ ウィーン(2002) p.26/28
  61. ^ ウィーン(2002) p.28
  62. ^ 佐々木 2016, pp. 22–23.
  63. ^ カー(1956) p.23
  64. ^ メーリング(1974) 1巻 p.45
  65. ^ スパーバー 2015a, p. 73.
  66. ^ 石浜(1931) p.57
  67. ^ a b c 城塚(1970) p.31
  68. ^ メーリング(1974) 1巻 p.51
  69. ^ 石浜(1931) p.55
  70. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.50
  71. ^ 石浜(1931) p.57-58
  72. ^ 廣松(2008) p.66-67
  73. ^ 廣松(2008) p.67-68
  74. ^ 石浜(1931) p.62-64
  75. ^ 小牧(1966) p.72
  76. ^ シュワルツシルト(1950) p.41-42
  77. ^ 小牧(1966) p.74-76
  78. ^ a b 佐々木 2016, pp. 25–35.
  79. ^ 石浜(1931) p.66
  80. ^ 廣松(2008) p.80
  81. ^ 廣松(2008) p.67
  82. ^ シュワルツシルト(1950) p.29
  83. ^ ウィーン(2002) p.39
  84. ^ a b c カー(1956) p.27
  85. ^ 城塚(1970) p.32
  86. ^ メーリング(1974) 1巻 p.54
  87. ^ 石浜(1931) p.68-69
  88. ^ メーリング(1974) 1巻 p.64
  89. ^ シュワルツシルト(1950) p.37
  90. ^ a b 廣松(2008) p.96
  91. ^ シュワルツシルト(1950) p.43
  92. ^ 廣松(2008) p.68
  93. ^ メーリング(1974) 1巻 p.56
  94. ^ シュワルツシルト(1950) p.33
  95. ^ ウィーン(2002) p.39-40
  96. ^ ウィーン(2002) p.43
  97. ^ a b 廣松(2008) p.93-94
  98. ^ 城塚(1970) p.42
  99. ^ a b 廣松(2008) p.123-125
  100. ^ a b ウィーン(2002) p.44
  101. ^ ウィーン(2002) p.43/45-46
  102. ^ 小牧(1966) p.67-68
  103. ^ 城塚(1970) p.54-59
  104. ^ 石浜(1931) p.72
  105. ^ 城塚(1970) p.59/61-62
  106. ^ 廣松(2008) p.105-106
  107. ^ カー(1956) p.28
  108. ^ a b c d e 廣松(2008) p.126
  109. ^ 廣松(2008) p.125-126
  110. ^ a b c d カー(1956) p.31
  111. ^ a b c ウィーン(2002) p.46
  112. ^ 城塚(1970) p.67
  113. ^ a b 廣松(2008) p.128
  114. ^ シュワルツシルト(1950) p.48
  115. ^ 石浜(1931) p.77
  116. ^ 石浜(1931) p.76-77
  117. ^ 城塚(1970) p.68
  118. ^ a b ウィーン(2002) p.49
  119. ^ a b 廣松(2008) p.130
  120. ^ シュワルツシルト(1950) p.49-50
  121. ^ 石浜(1931) p.79
  122. ^ カー(1956) p.32-33
  123. ^ 太田(1930) p.7
  124. ^ シュワルツシルト(1950) p.50
  125. ^ シュワルツシルト(1950) p.53-54
  126. ^ 石浜(1931) p.80-81
  127. ^ カー(1956) p.33
  128. ^ 佐々木 2016, p. 37.
  129. ^ シュワルツシルト(1950) p.61
  130. ^ a b シュワルツシルト(1950) p.62
  131. ^ 廣松(2008) p.147
  132. ^ 城塚(1970) p.85
  133. ^ a b c 廣松(2008) p.152
  134. ^ シュワルツシルト(1950) p.66
  135. ^ a b ウィーン(2002) p.58
  136. ^ 石浜(1931) p.82
  137. ^ 廣松(2008) p.143
  138. ^ a b 佐々木 2016, pp. 37–39.
  139. ^ 石浜(1931) p.82-83
  140. ^ 城塚(1970) p.80
  141. ^ 廣松(2008) p.142-143
  142. ^ 廣松(2008) p.140
  143. ^ シュワルツシルト(1950) p.72
  144. ^ ウィーン(2002) p.62-63
  145. ^ 石浜(1931) p.85
  146. ^ カー(1956) p.35
  147. ^ a b 太田(1930) p.9
  148. ^ ウィーン(2002) p.64
  149. ^ 石浜(1931) p.87
  150. ^ a b c 佐々木 2016, pp. 39–42.
  151. ^ 廣松(2008) p.152-153
  152. ^ 石浜(1931) p.89-90
  153. ^ カー(1956) p.37
  154. ^ 石浜(1931) p.90
  155. ^ 廣松(2008) p.155
  156. ^ ウィーン(2002) p.69
  157. ^ ウィーン(2002) p.68-69
  158. ^ a b c d シュワルツシルト(1950) p.78
  159. ^ 城塚(1970) p.87
  160. ^ 佐々木 2016, pp. 43–45.
  161. ^ 小牧(1966) p.81-82
  162. ^ 城塚(1970) p.88
  163. ^ 廣松(2008) p.190
  164. ^ カー(1956) p.100
  165. ^ バーリン(1974) p.84
  166. ^ 小牧(1966) p.104-107
  167. ^ 城塚(1970) p.90
  168. ^ 小牧(1966) p.107
  169. ^ a b 石浜(1931) p.89
  170. ^ 城塚(1970) p.91-92
  171. ^ 廣松(2008) p.163
  172. ^ 城塚(1970) p.94-96
  173. ^ 廣松(2008) p.171
  174. ^ 城塚(1970) p.97
  175. ^ 廣松(2008) p.167-170
  176. ^ 石浜(1931) p.90-92
  177. ^ カー(1956) p.38
  178. ^ 廣松(2008) p.195
  179. ^ 石浜(1931) p.92
  180. ^ シュワルツシルト(1950) p.79
  181. ^ 石浜(1931) p.94-95
  182. ^ a b 小牧(1966) p.111
  183. ^ a b c シュワルツシルト(1950) p.80
  184. ^ ウィーン(2002) p.84
  185. ^ カー(1956) p.55-56
  186. ^ 城塚(1970) p.127-128
  187. ^ a b 石浜(1931) p.95
  188. ^ 小牧(1966) p.111-112
  189. ^ バーリン(1974) p.106-107
  190. ^ 小牧(1966) p.113
  191. ^ 小牧(1966) p.115
  192. ^ 小牧(1966) p.116-117
  193. ^ 城塚(1970) p.114-116
  194. ^ 廣松(2008) p.219-221
  195. ^ 石浜(1931) p.96
  196. ^ 廣松(2008) p.222
  197. ^ ウィーン(2002) p.85-86
  198. ^ シュワルツシルト(1950) p.87
  199. ^ ウィーン(2002) p.85
  200. ^ 石浜(1931) p.105
  201. ^ a b c シュワルツシルト(1950) p.88
  202. ^ 廣松(2008) p.206
  203. ^ 小牧(1966) p.121
  204. ^ 石浜(1931) p.104-105
  205. ^ a b シュワルツシルト(1950) p.89
  206. ^ カー(1956) p.47
  207. ^ 佐々木 2016, p. 62.
  208. ^ a b 小牧(1966) p.122
  209. ^ 城塚(1970) p.127-129
  210. ^ 城塚(1970) p.128
  211. ^ 小牧(1966) p.123-124
  212. ^ 城塚(1970) p.129-130
  213. ^ 城塚(1970) p.131
  214. ^ 城塚(1970) p.136-138
  215. ^ 小牧(1966) p.124
  216. ^ 小牧(1966) p.124-125
  217. ^ 城塚(1970) p.139
  218. ^ 城塚(1970) p.144
  219. ^ 小牧(1966) p.122-123
  220. ^ 石浜(1931) p.117
  221. ^ 佐々木 2016, pp. 62–63.
  222. ^ 小牧(1966) p.129-132
  223. ^ 佐々木 2016, p. 52.
  224. ^ 石浜(1931) p.106-108
  225. ^ ウィーン(2002) p.87
  226. ^ シュワルツシルト(1950) p.106
  227. ^ a b カー(1956) p.58-59
  228. ^ 石浜(1931) p.108-109
  229. ^ a b ウィーン(2002) p.112
  230. ^ 小牧(1966) p.121-122/135
  231. ^ シュワルツシルト(1950) p.118
  232. ^ 石浜(1931) p.93/109
  233. ^ 小牧(1966) p.135-136
  234. ^ 石浜(1931) p.109
  235. ^ シュワルツシルト(1950) p.120
  236. ^ ウィーン(2007)
  237. ^ 石浜(1931) p.124
  238. ^ 石浜(1931) p.130
  239. ^ 小牧(1966) p.136
  240. ^ 石浜(1931) p.122-123
  241. ^ 小牧(1966) p.137
  242. ^ ウィーン(2002) p.115-116
  243. ^ 石浜(1931) p.125
  244. ^ 石浜(1931) p.137
  245. ^ 石浜(1931) p.129-130
  246. ^ 小牧(1966) p.138
  247. ^ 小牧(1966) p.138-139
  248. ^ 石浜(1931) p.144
  249. ^ 小牧(1966) p.141-142
  250. ^ 小牧(1966) p.142
  251. ^ 小牧(1966) p.142-143
  252. ^ 小牧(1966) p.144
  253. ^ 小牧(1966) p.145-146
  254. ^ 小牧(1966) p.146-147
  255. ^ 小牧(1966) p.153
  256. ^ a b c d e f 佐々木 2016, pp. 88–91.
  257. ^ 石浜(1931) p.146
  258. ^ 小牧(1966) p.154
  259. ^ ウィーン(2002) p.127
  260. ^ ウィーン(2002) p.127-131
  261. ^ シュワルツシルト(1950) p.147-158
  262. ^ ウィーン(2002) p.132
  263. ^ 石浜(1931) p.146-150
  264. ^ 小牧(1966) p.155
  265. ^ a b ウィーン(2002) p.138
  266. ^ 石浜(1931) p.153-154
  267. ^ 小牧(1966) p.156
  268. ^ ウィーン(2002) p.145
  269. ^ 小牧(1966) p.157-162
  270. ^ a b 石浜(1931) p.155
  271. ^ 小牧(1966) p.163-165
  272. ^ 小牧(1966) p.166
  273. ^ カー(1956) p.79
  274. ^ 石浜(1931) p.157-158
  275. ^ a b 小牧(1966) p.168
  276. ^ 石浜(1931) p.160
  277. ^ ウィーン(2002) p.151
  278. ^ 石浜(1931) p.158-160
  279. ^ 1848年革命とは”. コトバンク. 2021年11月3日閲覧。
  280. ^ 石浜(1931) p.162
  281. ^ 石浜(1931) p.163
  282. ^ エンゲルベルク(1996) p.257-258
  283. ^ 石浜(1931) p.162-163
  284. ^ 小牧(1966) p.169
  285. ^ 石浜(1931) p.166
  286. ^ a b カー(1956) p.83
  287. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.266
  288. ^ a b ウィーン(2002) p.153
  289. ^ ウィーン(2002) p.152
  290. ^ 小牧(1966) p.170
  291. ^ a b c ウィーン(2002) p.154
  292. ^ 小牧(1966) p.170-171
  293. ^ メーリング(1974) 1巻 p.267
  294. ^ ウィーン(2002) p.155
  295. ^ a b ウィーン(2002) p.156-157
  296. ^ a b c ウィーン(2002) p.156
  297. ^ a b 石浜(1931) p.169
  298. ^ カー(1956) p.84
  299. ^ a b c d カー(1956) p.86
  300. ^ a b 石浜(1931) p.171
  301. ^ ウィーン(2002) p.157
  302. ^ a b ウィーン(2002) p.158
  303. ^ a b c 石浜(1931) p.173
  304. ^ メーリング(1974) 1巻 p.268
  305. ^ スパーバー 2015a, p. 285.
  306. ^ a b c ウィーン(2002) p.159
  307. ^ スパーバー 2015a, p. 287.
  308. ^ ウィーン(2002) p.161-162
  309. ^ 小牧(1966) p.172
  310. ^ a b カー(1956) p.87
  311. ^ a b 石浜(1931) p.174
  312. ^ 小牧(1966) p.172-173
  313. ^ バーリン(1974) p.185
  314. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.275-276
  315. ^ a b エンゲルベルク(1996) p.279
  316. ^ エンゲルベルク(1996) p.278
  317. ^ エンゲルベルク(1996) p.280
  318. ^ メーリング(1974) 1巻 p.271-272
  319. ^ メーリング(1974) 1巻 p.272-273/290
  320. ^ ウィーン(2002) p.164
  321. ^ ウィーン(2002) p.164-166
  322. ^ エンゲルベルク(1996) p.299-300
  323. ^ エンゲルベルク(1996) p.301
  324. ^ エンゲルベルク(1996) p.303
  325. ^ 石浜(1931) p.179
  326. ^ a b ウィーン(2002) p.173
  327. ^ メーリング(1974) 1巻 p.305
  328. ^ 石浜(1931) p.179-180
  329. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.306
  330. ^ ウィーン(2002) p.174-175
  331. ^ 石浜(1931) p.182
  332. ^ エンゲルベルク(1996) p.320
  333. ^ a b c ウィーン(2002) p.175
  334. ^ 小牧(1966) p.174-175
  335. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.317
  336. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.318
  337. ^ 小牧(1966) p.176
  338. ^ ウィーン(2002) p.176
  339. ^ a b ウィーン(2002) p.176-177
  340. ^ a b メーリング(1974) 1巻 p.319
  341. ^ 鹿島(2004) p.63-68
  342. ^ a b 鹿島(2004) p.79
  343. ^ a b ウィーン(2002) p.177
  344. ^ バーリン(1974) p.190
  345. ^ ウィーン(2002) p.177-179
  346. ^ バーリン(1974) p.191
  347. ^ カー(1956) p.121-122
  348. ^ a b カー(1956) p.123
  349. ^ 石浜(1931) p.206
  350. ^ ウィーン(2002) p.199
  351. ^ バーリン(1974) p.205
  352. ^ シュワルツシルト(1950) p.265
  353. ^ a b 佐々木 2016, pp. 91–94.
  354. ^ カー(1956) p.127
  355. ^ 小牧(1966) p.180
  356. ^ ウィーン(2002) p.212
  357. ^ シュワルツシルト(1950) p.267
  358. ^ バーリン(1974) p.206
  359. ^ a b c d ウィーン(2002) p.215
  360. ^ a b c バーリン(1974) p.204
  361. ^ バーリン(1974) p.206-207
  362. ^ カー(1956) p.123/128
  363. ^ ウィーン(2002) p.178
  364. ^ メーリング(1974) 2巻 p.7
  365. ^ a b ウィーン(2002) p.183
  366. ^ 石浜(1931) p.187-188
  367. ^ a b 小牧(1966) p.177
  368. ^ a b カー(1956) p.122
  369. ^ ウィーン(2002) p.187
  370. ^ メーリング(1974) 2巻 p.7-8
  371. ^ 石浜(1931) p.189-190
  372. ^ 小牧(1966) p.177-178
  373. ^ バーリン(1974) p.209
  374. ^ バーリン(1974) p.210
  375. ^ 石浜(1931) p.211
  376. ^ バーリン(1974) p.217
  377. ^ カー(1956) p.186
  378. ^ メーリング(1974) 2巻 p.22-24
  379. ^ 石浜(1931) p.190-191
  380. ^ カー(1956) p.144
  381. ^ メーリング(1974) 2巻 p.24-25
  382. ^ 石浜(1931) p.191-192
  383. ^ メーリング(1974) 2巻 p.27
  384. ^ エンゲルベルク(1996) p.343-344
  385. ^ 石浜(1931) p.195
  386. ^ カー(1956) p.144-145
  387. ^ 石浜(1931) p.195-196
  388. ^ a b カー(1956) p.145
  389. ^ カー(1956) p.146
  390. ^ カー(1956) p.147
  391. ^ カー(1956) p.147-149
  392. ^ a b 小牧(1966) p.178
  393. ^ シュワルツシルト(1950) p.271
  394. ^ a b カー(1956) p.151
  395. ^ 石浜(1931) p.207-209
  396. ^ シュワルツシルト(1950) p.273
  397. ^ スパーバー 2015b, p. 8.
  398. ^ 鹿島(2004) p.118-139
  399. ^ 佐々木 2016, p. 91.
  400. ^ a b c カー(1956) p.152
  401. ^ ウィーン(2002) p.225
  402. ^ a b c メーリング(1974) 2巻 p.80-81
  403. ^ カー(1956) p.184
  404. ^ カー(1956) p.207
  405. ^ メーリング(1974)2巻 p.126
  406. ^ 石浜(1931) p.224-225
  407. ^ a b メーリング(1974)2巻 p.126-128
  408. ^ メーリング(1974)2巻 p.133
  409. ^ メーリング(1974)2巻 p.134
  410. ^ 江上(1972) p.110-111
  411. ^ カー(1956) p.209-210
  412. ^ 江上(1972) p.107-108
  413. ^ a b ウィーン(2002) p.266
  414. ^ シュワルツシルト(1950) p.268
  415. ^ ウィーン(2002) p.266-270
  416. ^ a b バーリン(1974) p.240
  417. ^ ウィーン(2002) p.271
  418. ^ 石浜(1931) p.232-233
  419. ^ ウィーン(2002) p.269-270
  420. ^ シュワルツシルト(1950) p.269
  421. ^ 小牧(1966) p.185-187
  422. ^ 小牧(1966) p.188-189
  423. ^ バーリン(1974) p.228
  424. ^ 小牧(1966) p.196-199
  425. ^ 小牧(1966) p.199-204
  426. ^ 小牧(1966) p.203-206
  427. ^ 小牧(1966) p.208
  428. ^ a b c ウィーン(2002) p.296
  429. ^ 江上(1972) p.132
  430. ^ ウィーン(2002) p.297
  431. ^ ウィーン(2002) p.297-298
  432. ^ a b ウィーン(2002) p.298
  433. ^ ウィーン(2002) p.301-303
  434. ^ エンゲルベルク(1996) p.482-483
  435. ^ 江上(1972) p.167-189
  436. ^ 江上(1972) p.209
  437. ^ カー(1956) p.245-246
  438. ^ アウグスト・ベーベル『ベーベル自叙伝』[要ページ番号]
  439. ^ 江上(1972) p.261
  440. ^ カー(1956) p.249
  441. ^ カー(1956) p.248-249
  442. ^ メーリング(1974)2巻 p.194
  443. ^ カー(1956) p.251
  444. ^ ウィーン(2002) p.319-320
  445. ^ ウィーン(2002) p.320
  446. ^ ガンブレル(1989) p.136-137
  447. ^ ウィーン(2002) p.321
  448. ^ ウィーン(2002) p.322
  449. ^ ウィーン(2002) p.322-323
  450. ^ ガンブレル(1989) p.139
  451. ^ メーリング(1974)3巻 p.182
  452. ^ 石浜(1931) p.241-242
  453. ^ 石浜(1931) p.242-243
  454. ^ 鹿島(2004) p.178
  455. ^ 鹿島(2004) p.369-370
  456. ^ 石浜(1931) p.243
  457. ^ 江上(1972) p.210
  458. ^ カー(1956) p.255
  459. ^ カー(1956) p.259-261
  460. ^ カー(1956) p.259
  461. ^ カー(1956) p.262
  462. ^ 石浜(1931) p.245-249
  463. ^ a b c カー(1956) p.263
  464. ^ a b 石浜(1931) p.249
  465. ^ 石浜(1931) p.256
  466. ^ 小牧(1966) p.211
  467. ^ カー(1956) p.266
  468. ^ カー(1956) p.266-267
  469. ^ カー(1956) p.268
  470. ^ カー(1956) p.266/269
  471. ^ カー(1956) p.270
  472. ^ a b c d カー(1956) p.269
  473. ^ シュワルツシルト(1950) p.329-330
  474. ^ シュワルツシルト(1950) p.330
  475. ^ カー(1956) p.287
  476. ^ カー(1956) p.288-289
  477. ^ カー(1956) p.288-290
  478. ^ メーリング(1974)2巻 p.215-216
  479. ^ a b c カー(1956) p.291
  480. ^ メーリング(1974) 3巻 p.79
  481. ^ シュワルツシルト(1950) p.340-341
  482. ^ a b メーリング(1974)3巻 p.78
  483. ^ a b カー(1956) p.292
  484. ^ a b カー(1956) p.295
  485. ^ メーリング(1974) 3巻 p.81-82
  486. ^ カー(1956) p.296-297
  487. ^ カー(1956) p.297
  488. ^ メーリング(1974) 3巻 p.79-80
  489. ^ a b c 小牧(1966) p.214
  490. ^ カー(1956) p.299
  491. ^ メーリング(1974) 3巻 p.80
  492. ^ ウィーン(2002) p.385
  493. ^ ウィーン(2002) p.387
  494. ^ カー(1956) p.298-299
  495. ^ カー(1956) p.299-300
  496. ^ カー(1956) p.300
  497. ^ ウィーン(2002) p.388-389
  498. ^ カー(1956) p.301
  499. ^ カー(1956) p.302-303
  500. ^ a b c d ウィーン(2002) p.391
  501. ^ メーリング(1974)3巻 p.97
  502. ^ カー(1956) p.303
  503. ^ 石浜(1931) p.269
  504. ^ メーリング(1974)3巻 p.103
  505. ^ a b カー(1956) p.304
  506. ^ カー(1956) p.307
  507. ^ ウィーン(2002) p.399
  508. ^ ウィーン(2002) p.400
  509. ^ ウィーン(2002) p.398
  510. ^ a b カー(1956) p.309
  511. ^ ガンブレル(1989) p.150
  512. ^ カー(1956) p.310
  513. ^ カー(1956) p.333
  514. ^ カー(1956) p.321-325
  515. ^ ウィーン(2002) p.380-383
  516. ^ バーリン(1974) p.243
  517. ^ バーリン(1974) p.242/274
  518. ^ バーリン(1974) p.242-243
  519. ^ a b ウィーン(2002) p.408
  520. ^ バーリン(1974) p.244
  521. ^ 外川(1973) p.390
  522. ^ ウィーン(2002) p.409
  523. ^ a b ウィーン(2002) p.416
  524. ^ バーリン(1974) p.273-274
  525. ^ カー(1956) p.354-355
  526. ^ a b ウィーン(2002) p.412-413
  527. ^ a b バーリン(1974) p.274
  528. ^ a b ウィーン(2002) p.413
  529. ^ 渡辺孝次(1996)『時計職人とマルクス』同文館p.309-310
  530. ^ a b バーリン(1974) p.276
  531. ^ カー(1956) p.394-395
  532. ^ 石浜(1931) p.275-276
  533. ^ カー(1956) p.395
  534. ^ ドイツ社会民主党とは”. コトバンク. 2021年11月3日閲覧。
  535. ^ ゴータ綱領とは”. コトバンク. 2021年11月3日閲覧。
  536. ^ a b c バーリン(1974) p.277
  537. ^ カー(1956) p.396
  538. ^ a b c d カー(1956) p.397
  539. ^ a b c d カー(1956) p.398
  540. ^ シュワルツシルト(1950) p.411-412/414
  541. ^ カー(1956) p.401-402
  542. ^ カー(1956) p.402
  543. ^ カー(1956) p.403
  544. ^ カー(1956) p.405
  545. ^ カー(1956) p.406
  546. ^ a b カー(1956) p.407
  547. ^ バーリン(1974) p.292
  548. ^ 石浜(1931) p.280
  549. ^ メーリング(1974)3巻 p.215-216
  550. ^ a b カー(1956) p.408
  551. ^ 石浜(1931) p.281
  552. ^ メーリング(1974)3巻 p.216
  553. ^ カー(1956) p.410
  554. ^ 石浜(1931) p.281-282
  555. ^ メーリング(1974)3巻 p.217
  556. ^ 小牧(1966) p.221
  557. ^ a b メーリング(1974)3巻 p.219-221
  558. ^ 小牧(1966) p.221-222
  559. ^ 『経済学・哲学草稿』、岩波文庫版、p.298
  560. ^ ウィーン(2002) p.461
  561. ^ 石浜(1931) p.284
  562. ^ Schriften von Karl Marx: "Das Manifest der Kommunistischen Partei" (1848) und "Das Kapital", ernster Band (1867)
  563. ^ ガンブレル(1989) p.170
  564. ^ マルクスの墓に爆弾『朝日新聞』1970年(昭和45年)1月19日朝刊 12版 15面
  565. ^ 生誕200年記念「マルクス紙幣」に注文殺到 額面は0 - 朝日新聞
  566. ^ 石浜(1931) p.272
  567. ^ メーリング(1974)3巻 p.175
  568. ^ カー(1956) p.401
  569. ^ 石浜(1931) p.274
  570. ^ ウィーン(2002) p.354
  571. ^ a b 小泉(1967) p.29
  572. ^ ウィーン(2002) p.353
  573. ^ a b c メーリング(1974)3巻 p.176
  574. ^ メーリング(1974)3巻 p.176-177
  575. ^ a b メーリング(1974)3巻 p.177
  576. ^ メーリング(1974)3巻 p.177-178
  577. ^ バーリン(1974) p.291
  578. ^ a b c d e メーリング(1974)3巻 p.178
  579. ^ a b c バーリン(1974) p.290
  580. ^ カー(1956) p.126
  581. ^ 『天才の勉強術』新潮選書、1994年。 
  582. ^ ウィーン(2002) p.463
  583. ^ a b c カー(1956) p.124
  584. ^ a b ウィーン(2002) p.182
  585. ^ メーリング(1974) 2巻 p.75
  586. ^ a b ウィーン(2002) p.299
  587. ^ ウィーン(2002) p.51
  588. ^ ハイルブローナー(2001)
  589. ^ ウィーン(2002) p.81
  590. ^ ウィーン(2002) p.315-319
  591. ^ ウィーン(2002) p.357
  592. ^ John Bellamy Foster, Marx's Ecology: Materialism and Nature, p. 207.
  593. ^ ウィーン(2002) p.163
  594. ^ バーリン(1974) p.118
  595. ^ シュワルツシルト(1950) p.109
  596. ^ メーリング(1974)2巻 p.184
  597. ^ テレル・カーヴァー(1995)『マルクスとエンゲルスの知的関係』世界書院 p.153
  598. ^ 保住, 敏彦「エンゲルスの理論活動の意義と問題:没後100年を記念して」『経済学史学会年報』第33巻第33号、経済学史学会、1995年、39-51頁、doi:10.11498/jshet1963.33.39ISSN 0453-4786NAID 130004246154 
  599. ^ 佐々木, 隆治「いわゆる「転形問題」についての覚え書き」『立教經濟學研究』第70巻第1号、2016年、89 - 102頁、doi:10.14992/00012411 
  600. ^ オフェル・フェルドマン(2006)『政治心理学』ミネルヴァ書房 p.35
  601. ^ E.H.カー(1962)『歴史とは何か』岩波新書 p.134-136
  602. ^ イーグルトン(2011)『なぜマルクスは正しかったのか』河出書房新社 p.84
  603. ^ マルクス(2002)『ドイツ・イデオロギー』岩波文庫 p.230
  604. ^ マルクス(2008)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』平凡社 p.198
  605. ^ E.H.カー(1962)『歴史とは何か』岩波新書 p.149
  606. ^ ウィーン(2002) p.73
  607. ^ 江上(1972) p.13
  608. ^ カー(1956) p.243
  609. ^ シュワルツシルト(1950) p.311
  610. ^ a b マルクス(1844)『ユダヤ人問題によせて』
  611. ^ シュワルツシルト(1950) p.155
  612. ^ a b ウィーン(2002) p.333
  613. ^ a b ウィーン(2002) p.333-334
  614. ^ ウィーン(2002) p.334-335
  615. ^ a b メーリング(1974)3巻 p.77
  616. ^ 石浜(1931) p.219
  617. ^ メーリング(1974)3巻 p.77-78
  618. ^ ウィーン(2002) p.385-386
  619. ^ 共産党宣言第二章
  620. ^ ウィーン(2002) p.244-245
  621. ^ カー(1956) p.183
  622. ^ カー(1956) p.316
  623. ^ マルクス・エンゲルス、大内兵衛・向坂逸郎訳(1848:1946)『共産党宣言』岩波書店p.86
  624. ^ マルクス「総評議会からラテン系スイス連合評議会へ」『マルクス・エンゲルス全集 16巻』大月書店p.383.
  625. ^ 今村仁司「解説」『マルクス・コレクション6』440-444頁
  626. ^ マルクス「イギリスのインド支配の将来の結果」『マルクス・エンゲルス全集 9巻』大月書店p.210-211.
  627. ^ マルクス「中国とヨーロッパにおける革命」『マルクス・コレクション6』296-297頁
  628. ^ ウィーン(2002) p.276
  629. ^ ウィーン(2002) p.467-468
  630. ^ カー(1956) p.412-413
  631. ^ バーリン(1974) p.19
  632. ^ バーリン(1974) p.18-20/205
  633. ^ 城塚(1970) p.132
  634. ^ Press Releases Marx wins In Our Time's Greatest Philosopher vote,BBC Radio 4,Date:13.07.2005
  635. ^ 小牧(1966) p.51/229
  636. ^ ウィーン(2002) p.218-219
  637. ^ ウィーン(2002) p.218
  638. ^ 廣松(2008) p.155-156
  639. ^ ウィーン(2002) p.68
  640. ^ メーリング(1974) 1巻 p.47
  641. ^ 石浜(1931) p.133-134
  642. ^ メーリング(1974) 1巻 p.47-48
  643. ^ カー(1956) p.404
  644. ^ 石浜(1931) p.289
  645. ^ ウィーン(2002) p.392
  646. ^ 石浜(1931) p.290
  647. ^ ウィーン(2002) p.462
  648. ^ スパーバー 2015b, p. 9.
  649. ^ 石浜(1931) p.134
  650. ^ ウィーン(2002) p.261-262
  651. ^ ウィーン(2002) p.264
  652. ^ スパーバー 2015a, p. 326-331.
  653. ^ ウィーン(2002) p.200
  654. ^ スパーバー 2015a, p. 332-337.
  655. ^ ウィーン(2002) p.211
  656. ^ カー(1956) p.386-387
  657. ^ マルクスに才能とケア労働を搾取された”父の娘”の壮絶な最後【毒家族に生まれて】Elle, ハースト婦人画報社、2021/09/03
  658. ^ Kapp, Eleanor Marx: Volume 2, pp. 696-697.
  659. ^ カー(1956) p.121
  660. ^ ウィーン(2002) p.205-211
  661. ^ ウィーン(2002) p.205
  662. ^ ウィーン(2002) p.209
  663. ^ ウィーン(2002) p.206
  664. ^ ウィーン(2002) p.205/462
  665. ^ Wheen, Francis (1999). Karl Marx. Fourth Estate. pp. 170–176
  666. ^ 中国がドイツに贈った「巨大マルクス像」が大論争を起こしたワケ”. 現代ビジネス (2018年5月11日). 2019年3月29日閲覧。
  667. ^ マルクス像寄贈は中国のプロパガンダか? 独で議論「独裁の土台」「毒のある贈り物」”. 産経ニュース (2018年5月4日). 2019年10月16日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]