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「ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ」の版間の差分

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|本名=ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ
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|出身地=[[サンパウロ州]] {{仮リンク|ピラシカーバ|en|Piracicaba}}
|出身地=[[サンパウロ州]][[ピラシカーバ]]
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|ポジション=[[フォワード_(サッカー)|FW]]<ref name="jfl2009">[http://www.jfl.or.jp/archive/2009/0193586/top.html FC刈谷 (2009年)] 日本フットボールリーグ</ref>
|クラブ=[[コメルシアル]]<br />[[カッピバリアーノ]]<br />[[イトゥアーノFC]]<br />[[SEパルメイラス]]<br />[[FC東京|東京ガス/FC東京]]<br />[[湘南ベルマーレ]]<br />[[アルテ高崎|FCホリコシ/アルテ高崎]]<br />[[フットボールクラブ刈谷|FC刈谷]]
|利き足=右足
|年=1987<br />1988<br />1989-1991<br />1992<br />1992-2003<br />2004<br />2005-2007<br />2009
|ユースクラブ=[[AAポンチ・プレッタ|ポンチ・プレッタ]]<br />[[SEパルメイラス|パルメイリーニャ]]<br />[[カッピバリアーノFC|カッピバリアーノ]]
|出場(得点)= ({{0}}16)<br /> ({{0}}18)<br /><br /><br />292 (165)<br />19 ({{0|00}}2)<br />28 ({{0}}16)<br />
|ユース年=1977-<br />1984-<br />1987
|クラブ1=[[コメルシアル]] |年1=1987 |出場1= |得点1={{0}}16
|クラブ2=カッピバリアーノ |年2=1988 |出場2= |得点2={{0}}18
|クラブ3=[[イトゥアーノFC|イトゥアーノ]] |年3=1989-1991 |出場3= |得点3=
|クラブ4=[[SEパルメイラス|パルメイラス]] |年4=1992 |出場4= |得点4=
|クラブ5=[[東京ガスサッカー部|東京ガス]] / [[FC東京]] |年5=1992-2003 |出場5=292 |得点5=165
|クラブ6=[[湘南ベルマーレ]] |年6=2004 |出場6=19 |得点6={{0|00}}2
|クラブ7=[[アルテ高崎|FCホリコシ / アルテ高崎]] |年7=2005-2007 |出場7=28 |得点7={{0}}16
|クラブ8=[[フットボールクラブ刈谷|FC刈谷]] |年8=2009 |出場8= |得点8=
|クラブ成績更新日=2009年7月3日
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|監督年=2006<br />2010<br />2011
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'''アマラオ'''(''Amaral'')こと、本名'''ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ'''(''Wagner Pereira Cardozo'', [[1966年]][[10月16日]]-)は、[[ブラジル]]・[[サンパウロ州]]出身の元[[サッカー]]選手、サッカー指導者。ポジションは[[フォワード (サッカー)|FW]]。
'''アマラオ'''(''Amaral'')こと、本名'''ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ'''(''Wagner Pereira Cardozo'', [[1966年]][[10月16日]]-)は、[[ブラジル]]・[[サンパウロ州]]出身の元[[サッカー]]選手、サッカー指導者。ポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード(FW)]]。


Amaral(アマラオ)という愛称は、1970年代の[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]][[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]だった[[ジョアン・ジュスティノ・アマラウ・ドス・サントス|アマラウ]]に由来する。日本では一般的にアマラ'''オ'''と表記されるが、[[ブラジルポルトガル語]]の発音はアマラ'''ウ'''(厳密にはアマラゥ)が近い。
Amaral(アマラオ)という愛称は、1970年代の[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表選手]][[ジョアン・ジュスティノ・アマラウ・ドス・サントス|アマラウ]]に由来する。日本では一般的にアマラ'''オ'''と表記されるが、[[ブラジルポルトガル語]]の発音はアマラ'''ウ'''(厳密にはアマラゥ)が近い。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
=== プロ入り以前 ===
[[1987年]]、サンパウロ州の3部に所属していた[[コメルシアル]]とプロ契約。カッピバリアーノ、イトゥアーノと移籍した後、[[1992年]]に当時[[SEパルメイラス]]の監督の任に就いていた[[ネルソン・バプティスタ・ジュニオール|ネルシーニョ]]にプレーを認められ<ref>FC東京ファンブック2000 75頁</ref>名門パルメイラスに[[レンタル移籍]]で加入。移籍初戦となった[[フルミネンセ]]戦でゴールを決める。
[[サンパウロ州]][[ピラシカーバ]]{{Enlink|Piracicaba|a=on}}に生まれ、8歳の時に父の仕事先である同州[[カンピーナス]]へ引越す。当時カンピーナスの[[グアラニFC]]にはブラジル代表[[ディフェンダー_(サッカー)|センターバック(CB)]]のアマラウが所属しており、「アマラウと肌の色が似ていてCBだから」という理由で<ref name="kabe">{{Cite book|和書|title=サッカー移民 第2章「7 トーキョーの王様 -アマラオ-」|pages=196-208|year=2003|author=[[加部究]]|publisher=[[双葉社]]|isbn=978-4575296020}}</ref><ref>[[#Kushida|串田,17-18頁]]</ref>、友達から「Amaral」の愛称が付けられた。


[[1977年]]、10歳の時に[[カンピオナート・パウリスタ|サンパウロ州1部リーグ]]・[[AAポンチ・プレッタ]]ジュニアチームのテストに合格したが、同州[[オルトランジャ]]{{Enlink|Hortolândia|a=on}}に引越したことでバス代が捻出できなくなり<ref name="kushida29">[[#Kushida|串田,29-35頁]]</ref>退団。その後は工業系の専門学校に通いながらオルトランジャのアマチュアチームでプレーを続けていた<ref name="kabe" /><ref name="kushida29" />。ここでも当初はCBを務めていたが、FWへのポジション転向を監督に直訴し<ref name="kabe" /><ref name="kushida29" />、これが奏功。ヘディングの強さを発揮し<ref name="ara169" />、これ以後FWを務めるようになった。
その直後、当時[[ジャパンフットボールリーグ]](旧JFL)に所属していた[[FC東京|東京ガスサッカー部]]から勧誘を受け、1992年[[5月13日]]に初来日<ref>FC東京ファンブック2000 72頁</ref>。[[1994年]]には[[天皇杯全日本サッカー選手権大会|天皇杯]]上位進出、[[1998年]]には旧JFLでの優勝に貢献するなど活躍。この年の5月には東京ガスがサッカー部を翌[[1999年]]からプロクラブ化し、[[FC東京]]となる事も発表され、アマラオも引き続いてFC東京と契約し[[日本プロサッカーリーグ#Jリーグ ディビジョン2 (J2)|J2]]リーグを戦う事となった。


[[1984年]]、17歳で学校を卒業し、いくつかのクラブのテストを受けたものの失敗<ref name="kabe" />。町工場で旋盤工として働いて家計を助けながら[[夜学]]の高校へ通い、土日は[[SEパルメイラス]]下部組織のパルメイリーニャでアマチュアリーグに出場していた<ref name="kushida29" />。[[1985年]]には同リーグで得点王を獲得。クラブからの勧めでパルメイラストップチームのテストを受けたが、これが長引いたことで工場を辞めることになり、さらにテストも通らず、新調した[[スパイクシューズ]]は盗難に遭ってしまう<ref name="kushida29" />。これ以上プロクラブを探す気力は無く、再び旋盤工として就職し<ref name="kushida29" />、休日にアマチュアとしてサッカーに臨んでいたところ、[[1987年]]に[[カッピバリアーノFC]]への加入を勧められ、テスト期間として<ref name="kabe" />同クラブのユースチームでプレーすることになった。
1999年は一時怪我で戦線離脱したがJ2準優勝に貢献し、自身も来日9年目にしてようやく日本のトップカテゴリー・[[日本プロサッカーリーグ#Jリーグ ディビジョン1 (J1)|J1]]の檜舞台に立つことになった。


=== プロデビュー / パルメイラス ===
[[2000年]]のシーズン終盤には、翌年からの[[横浜F・マリノス]]への移籍話が実現しそうになったこともあったが、結局[[2003年]]シーズン終了までの4シーズンの間、FC東京でJ1を舞台に戦った。しかしチームが若返りを図る一方で本人は現役続行を希望し、2003年シーズン終了後に退団することとなった。この際、クラブのホームスタジアムがあり、本人も当時居住していた[[調布市]]から感謝状が送られ、市役所にてセレモニーが執り行われている。
1987年5月、カッピバリアーノから貸し出される形で、サンパウロ州の3部リーグに所属していた[[コメルシアル]]とプロ契約を締結。同年リーグ戦で16得点を挙げ、2部への昇格に貢献。[[1988年]]には同2部のカッピバリアーノへ復帰し、コンスタントに得点を挙げた<ref name="kabe" />。


[[1989年]]、同じく2部の[[イトゥアーノFC]]に移籍。同年リーグ戦の優勝に貢献し、翌[[1990年]]から1部へ昇格。着実にサンパウロ州内での知名度を高めつつあった<ref name="kabe" />。[[1991年]]は[[椎間板ヘルニア|スポーツヘルニア]]に苦しんでいたが<ref name="ara169" />、チームメートのFWが交通事故で急死したため<ref name="kushida42">[[#Kushida|串田,42頁]]</ref>その代役として急遽[[グアラニFC]]戦に先発出場することになった。この試合には、グアラニとの対戦を控えていた<ref name="kabe" />[[SEパルメイラス]]のスタッフが[[先乗りスカウト|視察]]に訪れており、また、パルメイラスではこの事故死したFWの獲得を検討していた<ref name="kushida42" />。グアラニ戦でのプレーぶりがパルメイラス監督の[[ネルソン・バプティスタ・ジュニオール|ネルシーニョ]]から認められ<ref>{{Cite book|和書|title=FC東京ファンブック2000|page=75|year=2000}}</ref><ref name="ara169" /><ref name="kabe" />、[[1992年]]1月よりイトゥアーノからのレンタルでパルメイラスに加入した。
[[2004年]]からJ2の[[湘南ベルマーレ]]に完全移籍したが、故障がちで目立った活躍をすることなく、[[2005年]]には[[日本フットボールリーグ]](JFL)のFCホリコシ(現・[[アルテ高崎]])に完全移籍、同年のJFL後期第9節[[三菱水島FC]]戦でJFL史上初の1試合5得点を記録している。[[2006年]]8月にはチーム事情もあり、シーズン途中から選手を兼ねながら監督を経験している。[[2007年]]は新監督を迎えた為、選手として契約を更新していたが、長年悩まされていた膝のケガの回復状態が思わしくなく、同年4月に現役引退を表明。この際、今後は日本で指導者ライセンスの獲得を目指し、将来はJリーグのクラブで監督を務めたいとコメントしている。


名門パルメイラスで活躍できれば[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]入りに大きく近づくと意気込んでいたが<ref name="kabe" />、コンディションが万全で無かったこともあり、ネルシーニョからはFW[[エバイール]]の控えとして起用された<ref name="kabe" />。移籍後初出場となった[[フルミネンセFC]]戦で先制点を挙げたものの<ref name="kabe" />、その後の[[半月板損傷]]によって戦列を離れ、先発定着はかなわなかった。
同年5月より、[[ハロー!プロジェクト]]のメンバーで構成されている[[フットサル]]チーム「[[Gatas Brilhantes H.P.]]」のコーチに就任。また、外国籍プレイヤーとして初の[[JFAアンバサダー]]にも任命された<ref group="注">アマラオ以降、外国籍者へのアンバサダー認定は行われず、制度自体も2010年4月に廃止されたため、アマラオが唯一の外国籍アンバサダーとなった。</ref>。同年6月より[[2008年]]12月まで[[東京中日スポーツ]](同紙はFC東京を応援)にコラム「King of Talk」を連載していた。


半月板の手術を行い[[アイシング (治療)|アイシング]]に務めていた中<ref name="ara169" />、イトゥアーノの監督だったテイシェイラが[[東京ガスサッカー部]](現 [[FC東京]])へアドバイザーとして加入することになり<ref name="kabe" />、同部への加入を持ちかけられる。ネルシーニョからは慰留されたものの<ref name="ara169" />、金銭的好条件と海外でのプレーに惹かれ<ref name="kabe" /><ref>[[#Kushida|串田,47頁]]</ref>、訪日を決断。この時は1年程でブラジルに帰国し、代表入りを再び目指すつもりでいた<ref name="ayumi1">{{Wayback|date=20031231013113|url=http://www.fctokyo.co.jp/amasapo/index.phtml?cont=ayumi1|title=アマサポ企画 AMARAL HISTORY (1)}} FC東京</ref>。
2008年10月には、アマラオのドキュメンタリー映画『[http://www.kingoftokyo.com/ KING OF TOKYO O FILME(キング・オブ・トーキョー・オ・フィウミ)]』が公開された。


=== 東京ガス / FC東京 ===
[[2009年]][[4月1日]]、東京ガスFC時代の同僚である[[浮氣哲郎]]が監督を務める[[フットボールクラブ刈谷|FC刈谷]]のコーチに就任する事が発表された。同年[[7月3日]]、アマラオ自身が選手と同じ視点で指導したいとの考えから、FC刈谷のコーチ兼任での選手登録がされた。これにより2年ぶりに現役復帰したことになり、浮氣監督より年上の選手となった。シーズン終了後、[[2010年]]シーズンからの監督専任が発表された<ref>[http://www.fckariya.jp/report/news_release.php?name=news_79 アマラオ新監督就任のお知らせ] FC刈谷 ニュースリリース 2009年12月20日付</ref>。[[2010年]]は[[東海社会人リーグ]]1部2位で終わり、[[日本フットボールリーグ|JFL]]復帰を逃した。翌シーズンの運営費削減に伴い、同年[[11月24日]]、プロ契約監督だったアマラオの退任が発表された<ref>[http://www.fckariya.jp/report/news_release.php?name=news_164 アマラオ監督退任のお知らせ] FC刈谷 ニュースリリース 2010年11月24日付</ref>。
1992年5月13日に訪日し<ref name="ayumi1" /><ref name="fct1778" />、[[ジャパンフットボールリーグ]](旧JFL){{Refnest|group="注"|アマラオは「アマチュアの2部リーグ」と聞かされており、ブラジル3部の下位チームの環境を想像していた<ref name="kushida61" />。}}に所属していた東京ガスSCへ加入。しかし、ブラジルの名門クラブから加入したアマラオにとって、当時の同部の環境は劣悪だった<ref name="kabe" /><ref name="kushida61">[[#Kushida|串田,61-63頁]]</ref>。用具の用意や洗濯を選手自ら行い<ref name="ara169" /><ref name="kabe" />、[[社員選手]]が大半であったため人数が揃わないままでも練習をし<ref name="kushida61" />、堅い人工芝の練習場で古傷の膝も痛んだ<ref name="ara169" /><ref name="kabe" />。日本の言葉、[[#Shoku|食事]]、習慣に中々馴染めず<ref name="ayumi1" />[[ホームシック]]にもなったが<ref name="kabe" />、チームメートとブラジル料理店に出掛けた際、同じ店に来ていた[[#Ramos|ラモス瑠偉から励まされ、交流を深めることになった]]。


何とか1年目のシーズンを終え、ブラジルへ復帰するつもりで帰国したが、イトゥアーノは資金難に陥っており、翌シーズンも東京ガスからのレンタル料を得ようとするスタッフから移籍期間の延長を求められる<ref name="kushida67">[[#Kushida|串田,67-68頁]]</ref>。アマラオは家族を支え、また旧知の仲間を助けるためにこの要請を受け入れ<ref name="kushida67" />、[[1993年]]に再び訪日。同年より[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]が華々しく開幕し、[[#Ramos|ラモスの活躍を目にしつつも]]、自分がやれることを精一杯やろう<ref name="ayumi2">{{Wayback|date=20030903143140|url=http://www.fctokyo.co.jp/amasapo/index.phtml?cont=ayumi2|title=アマサポ企画 AMARAL HISTORY (2)}} FC東京</ref>とJFLでのプレーを続けた。
[[2011年]]より、[http://www.funroots.net/ 株式会社ファンルーツ]所属のコーチングスタッフとして[[東京23フットボールクラブ|東京23FC]]監督、[http://www.fctoreros.net/ FCトレーロス]、[http://www.funroots.net/ ファンルーツアカデミー]コーチに就任。東京23FC監督としては、[[東京都社会人サッカーリーグ|東京都リーグ]]1部優勝、[[第47回全国社会人サッカー選手権大会]]優勝に導いたが、同年12月31日付で東京23FC監督を退任、帰国した<ref>[http://www.tokyo23fc.jp/news/news2_111229_1.html アマラオ監督退任のお知らせ] 東京23FC ニュースリリース 2011年12月29日付</ref>。


[[1994年]]は、日本での生活に馴染み<ref name="kabe" />、チームも[[大熊清]]のコーチ就任やFW[[関浩二]]らの加入など徐々に上位を目指す体制が整ってきた<ref name="ara169" />ことで、心身の充実を得てリーグ戦で20得点を挙げた。[[第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会|同年の天皇杯]]ではベスト8<ref group="注">準々決勝でベルマーレ平塚に敗戦。平塚は同大会で優勝。</ref>進出に貢献。東京ガスはこれらの活躍ぶりから完全移籍での獲得を決め、[[1995年]]になってイトゥアーノからパスを買い取った。大熊が監督に就きチーム強化が進む中、アマラオはエースとしてチームを牽引しつつ、プロとしてサッカーに臨む姿勢を言葉や態度でチームメートに示し続けた<ref name="kushida70">[[#Kushida|串田,70頁]]</ref><ref name="fct1778">{{Wayback|date=20040315083049|url=http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=item&item=expire/01778|title=アマラオ選手退団のお知らせ}} FC東京 (2003年12月2日)</ref>。[[1998年]]にはJFLでの優勝に貢献し、翌[[1999年]]からはFC東京(東京ガスから改称)の選手として[[日本プロサッカーリーグ#Jリーグ ディビジョン2 (J2)|J2(Jリーグ2部)]]に臨んだ。アマラオの活躍もあってJ2ではJ1昇格圏内を維持していたが、並行して開催された[[1999年のJリーグカップ|ナビスコカップ]]の準決勝[[鹿島アントラーズ]]戦で相手のスライディングを受けて負傷<ref name="kushida83">[[#Kushida|串田,83-86頁]]</ref>。トレーナーの[[木場克己]]は即座の交代を判断したが<ref name="ara28">[[#Ara|荒川,28頁]]</ref>、アマラオはJFL時代から「このチームはJリーグでも充分に戦えるはず」と考えていたことから<ref name="kushida83" />J1クラブとも戦う同カップ戦への意気込みが強く、木場を押し留めてプレーを続行<ref name="ara28" />。結果、[[骨折|剥離骨折]]による離脱を余儀なくされたが<ref name="ayumi2" /><ref name="ara28" /><ref name="kushida83" />、シーズン終盤に復帰。J2準優勝に貢献し、[[日本プロサッカーリーグ#Jリーグ ディビジョン1 (J1)|J1(Jリーグ1部)]]昇格を掴んだ。
== 評価 ==
FC東京の[[サポーター]]からは、'''キング・オブ・トーキョー'''の名で愛され<ref group="注">この呼び名のきっかけは、[[1997年のJFL|1997年JFL第21節]]・[[川崎フロンターレ]]戦に遡る。アマラオはこの試合で4得点を挙げた。</ref>、今なお[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]でFC東京が試合をする際には、'''KING AMARAL STUDIUM'''の巨大な横断幕がゴール裏に掲げられる。


[[2000年]]、自身訪日9年目にして、日本サッカーのトップカテゴリーであるJ1で戦うことになった。J1・1st第1節[[横浜F・マリノス]]戦では自身のプレーでPKを獲得したが<ref name="ara5">[[#Ara|荒川,5-6頁]]</ref>、FW[[リボニール・ルッシェル|ツゥット]]がキッカーを志願したため、アマラオは新加入のツゥットへの心配り<ref name="goto159">{{Cite book|和書|title=トーキョーワッショイ!|author=[[後藤勝_(ライター)|後藤勝]]|pages=159-162|pubilisher=[[双葉社]]}}</ref>からクラブ史上J1第1号ゴールの栄誉を譲った<ref name="ara5" />(このPKが決勝点となり1-0で勝利)。[[2000年のJリーグ ディビジョン1#得点ランキング|アマラオ・ツゥットの得点量産]]によってチームは中位に踏み止まったが、J1で戦える地力を付けてから上位を目指そうというクラブ首脳陣と、プロならばリーグ優勝を目標にすべきというアマラオとの間で溝が生じた<ref name="ara200">[[#Arakawa|荒川,200頁]]</ref><ref name="kushida87">[[#Kushida|串田,87-98頁]]</ref>。アマラオは横浜FMの[[オズワルド・アルディレス]]監督からポストプレーヤーとして高く評価されており<ref name="kushida87" />、シーズン終盤に同クラブからのオファーを受けたことで移籍を決意。しかし、このことを知ったサポーター達から慰留され、J1・2nd第14節[[ジェフユナイテッド市原・千葉|ジェフ市原]]戦では、試合開始前からMF[[佐藤由紀彦]]が[[ゴールデンゴール|Vゴール]]を決めてもなお、終始アマラオコールを受ける<ref name="ara200" /><ref name="kushida87" />。大熊からも「一緒に優勝を目指そう」と声をかけられ<ref name="kushida87" />翻意するに至った。
1992年から2003年シーズン終了までに記録された、東京ガス-FC東京における公式戦出場数'''330'''は、日本のクラブチームに所属した外国籍選手の「同一クラブにおける出場試合数」としては最多である(ただしクラブのJリーグ加盟が1999年からなので、Jリーグの公式記録としては1998年以前の記録はカウントされていない)。

[[2003年]]の契約更新をするに当たり、アマラオはその年限りでの契約満了を聞かされていた。36歳の年齢による怪我の回復の遅れやプレーの衰えを見せつつあったため<ref>[[#Kushida|串田,105頁]]</ref><ref name="goto159" />チームの若返りを図るというのが理由だった。同年11月18日に退団を表明<ref>[[#Kushida|串田,107頁]]</ref><ref name="goto159" />。リーグ戦終了後、クラブのホームスタジアムがあり、本人も当時居住していた[[調布市]]から感謝状が送られ、市役所にてセレモニーが執り行われた<ref>{{Wayback|date=20040506151934|url=http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=item&item=1782|title=アマラオ選手が調布市より感謝状を贈呈される}} FC東京 (2003年12月9日)</ref>。

1992年から2003年シーズン終了までに記録された、東京ガス及びFC東京における公式戦出場数'''330'''は、日本のクラブチームに所属した外国籍選手の「同一クラブにおける出場試合数」としては最多である(ただしクラブのJリーグ加盟が1999年からなので、Jリーグの公式記録としては1998年以前の記録はカウントされていない)。

=== 湘南 / 高崎 ===
[[2004年]]、J2・[[湘南ベルマーレ]]に完全移籍<ref>{{Wayback|date=20040315083332|url=http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=item&item=expire/01811|title=アマラオ選手 湘南ベルマーレへ移籍決定のお知らせ}} FC東京 (2003年12月22日)</ref>。スタッフからは別メニューでの調整を許されていたが<ref name="kushida126">[[#Kushida|串田,126頁]]</ref>、持ち前のひたむきさで<ref>[http://www.jsgoal.jp/news/jsgoal/00005912.html 2004開幕直前全28クラブ分析] [[J's GOAL]] (2004年3月5日)</ref>若手選手と同様の練習メニューに取り組み<ref name="kaiken">{{Wayback|date=20041209174212|url=http://www.bellmare.co.jp/voice/ama_kaiken.htm|title=アマラオ選手・入団記者会見}} 湘南ベルマーレ (2004年1月28日)</ref>、ホーム開幕戦のJ2第2節[[横浜FC]]戦で得点を挙げる上々のスタートとなった<ref>[http://www.j-league.or.jp/SS/jpn/team/2004020003_000012_1_W0707_J.html 選手出場記録 (1/3)] Jリーグ (2004年11月27日)</ref>。しかし、コンディションには自信を持っていたものの<ref name="kaiken" />、肉離れなどの負傷が重なったことで<ref name="bell2010" />目立った活躍を見せられずに退団。アマラオは後に、スタッフの指示通りに調整していればもっとチームに貢献できたかもしれないと後悔を吐露している<ref name="kushida126" />。

[[2005年]]、[[日本フットボールリーグ]](JFL)・FCホリコシ(翌年[[アルテ高崎]]に改称)に完全移籍<ref>{{Wayback|date=20050405043302|url=http://www.tacc.ac.jp/FC-Horikoshi/news/20041224-2.htm|title=新加入選手・登録抹消選手について}} FCホリコシ (2004年12月24日)</ref>。同年のJFL後期第9節[[三菱水島FC|三菱水島]]戦でJFL史上初の1試合5得点を記録した<ref>{{PDFlink|[http://www.jfl.or.jp/archive/2005/schedule/pdf/r2005A0012413.pdf 公式記録 第7回日本フットボールリーグ 後期第9節]}} 日本フットボールリーグ (2005年10月22日)</ref>。[[2006年]]は4月のJFL前期第7節[[ソニー仙台FC|ソニー仙台]]戦で得点を挙げたものの<ref>{{PDFlink|[http://www.jfl.or.jp/archive/2006/schedule/pdf/r2006A0010718.pdf 公式記録 第8回日本フットボールリーグ 前期第7節]}} 日本フットボールリーグ (2006年4月30日)</ref>、開幕前に負傷した膝の具合が思わしくなく、ブラジルへ帰国してリハビリに取り組んでいた。アマラオ不在の高崎は成績不振による監督交代に見舞われ、同年8月には帰国中のアマラオに[[選手兼任監督]]としての現場復帰が打診された。リハビリを途中で切り上げ、10月のJFL後期第10節[[ジェフユナイテッド市原・千葉リザーブズ|ジェフ・クラブ]]戦よりチームを指揮。同第14節から最終節までの4戦は2勝2分<ref>{{PDFlink|[http://www.jfl.or.jp/archive/2006/schedule/pdf/r2006A0013111.pdf 公式記録 第8回日本フットボールリーグ 後期第14節]}},{{PDFlink|[http://www.jfl.or.jp/archive/2006/schedule/pdf/r2006A0013216.pdf 同第15節]}},{{PDFlink|[http://www.jfl.or.jp/archive/2006/schedule/pdf/r2006A0013315.pdf 同第16節]}},{{PDFlink|[http://www.jfl.or.jp/archive/2006/schedule/pdf/r2006A0013417.pdf 同第17節]}} 日本フットボールリーグ</ref>で成績を上向かせた。[[2007年]]は新監督を迎えたため、選手として契約を更新していたが、やはり膝の状態が回復せず、同年4月に現役引退を表明。この際、今後は日本で指導者ライセンスの獲得を目指し、将来はJリーグのクラブで監督を務めたいとコメントしている。同年末、[[Jリーグアウォーズ#功労選手賞|Jリーグ功労選手賞]]を受賞<ref>[http://www.j-league.or.jp/release/000/00002110.html 【2007Jリーグアウォーズ】功労選手賞について] Jリーグ (2007年11月20日)</ref>。

=== 指導者時代 ===
2007年5月より、[[フットサル]]チーム「[[Gatas Brilhantes H.P.]]」のコーチに就任。また、外国籍プレイヤーとして初の[[JFAアンバサダー]]にも任命された<ref>[http://www.jfa.or.jp/archive/jfa/organisation/report/2007/riji_kyogi/070518_01.html 平成19年度 第2回理事会 協議事項] [[日本サッカー協会]] (2007年5月18日)</ref><ref name="js20th" /><ref group="注">アマラオ以降、外国籍者へのアンバサダー認定は行われず、制度自体も2010年4月に廃止されたため、アマラオが唯一の外国籍アンバサダーとなった。</ref>。同年6月より[[2008年]]12月まで[[東京中日スポーツ]](同紙はFC東京を応援)にコラム「King of Talk」を連載していた<ref name="tcs2008" />。

2008年5月11日に[[#引退試合|引退試合]]を開催。同年10月にはアマラオを取り上げたドキュメンタリー映画[[#外部リンク|「KING OF TOKYO O FILME」]]が公開された。

[[2009年]]4月、東京ガス及び湘南在籍時の同僚である[[浮氣哲郎]]の誘いを受け<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2009/06/13/kiji/K20090613Z00000200.html FC刈谷アマラオ新コーチ チームは「家族」] [[スポーツニッポン]] (2009年6月13日)</ref>、浮氣が監督を務めるJFL・[[フットボールクラブ刈谷|FC刈谷]]のコーチに就任した。同年5月、選手と共に戦い同じ目線で指導したいとの考えから、コーチ兼アマチュア選手としての現役復帰を希望<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20090706-514676.html アマラオがピッチで「実戦指導」] [[日刊スポーツ]] (2009年7月6日)</ref>。7月に選手登録され<ref name="nikkan2009">[http://www.fckariya.jp/info/news_release.php?no=241 アマラオコーチ 選手登録のお知らせ] FC刈谷 (2009年7月3日)</ref>、2年ぶりに現役復帰。なお、アマラオは浮氣(1971年生まれ)や当時の最年長Jリーガーである[[三浦知良]](1967年生まれ)よりも年長であり、日本の全国リーグでの現役最年長選手となった<ref name="nikkan2009" />。[[2010年]]は監督に専任されたが<ref>[http://www.fckariya.jp/info/news_release.php?no=372 アマラオ新監督就任のお知らせ] FC刈谷 (2009年12月20日)</ref>[[東海社会人リーグ|東海リーグ1部]]2位で終わり、JFL復帰を逃した。翌シーズンの運営費削減に伴い、同年11月にプロ契約監督だったアマラオの退任が発表された<ref>[http://www.fckariya.jp/info/news_release.php?no=576 アマラオ監督退任のお知らせ] FC刈谷 (2010年11月24日)</ref>。また、この年の2月には湘南ベルマーレOBの一員としてJ1昇格記念試合に参加。ミドルシュートで先制点を挙げ、MVPに選出されている<ref>[http://www.nikkansports.com/soccer/news/f-sc-tp0-20100220-598346.html アマラオ氏先制弾でMVP/湘南記念試合] [[日刊スポーツ]] (2010年2月20日)</ref><ref name="bell2010">[http://www.bellmare.co.jp/13247 馬入日記:2月20日 夢舞台、平塚に! J1昇格記念試合「We’re back」開催!] 湘南ベルマーレ (2010年2月20日)</ref>。

[[2011年]]、[http://www.funroots.net/ 株式会社ファンルーツ]所属のコーチングスタッフとして[[東京都社会人サッカーリーグ|東京都1部リーグ]]・[[東京23フットボールクラブ|東京23FC]]監督<ref>[http://www.fckariya.jp/info/news_release.php?no=609 アマラオ前監督 東京23FC監督就任のお知らせ] FC刈谷 (2011年2月7日)</ref><ref>[http://www.tokyo23fc.jp/news/news2_110114_1.html 前FC刈谷監督のアマラオ氏が弊クラブの監督に就任致しました。] 東京23FC (2011年1月14日)</ref>、[http://www.fctoreros.net/ FCトレーロス]、[http://www.funroots.net/ ファンルーツアカデミー]コーチに就任。東京23FC監督としてはリーグ優勝、[[第47回全国社会人サッカー選手権大会|全国社会人選手権(全社)]]優勝を果たしたが<ref>[http://web.gekisaka.jp/188787_88091_fl アマラオ監督率いる東京23FCが社会人日本一!] [[ゲキサカ]] (2011年10月20日)</ref>、この年限りで東京23FC監督を退任、帰国した<ref>[http://www.tokyo23fc.jp/news/news2_111229_1.html アマラオ監督退任のお知らせ] 東京23FC (2011年12月29日)</ref>。


==エピソード==
==エピソード==
*日本での生活ため、日本語かなり流暢に話すことができる。[[ひらがな]]・[[カタカナ]]であればむ事も支障は少ない。現役引退後日本でサッカー指導者になりたいとの希望からさらに日本語を勉強する事を希望し、[[公文式]]の国語の授業を日本の中学生のクラスに混じ勉強した<ref>[[東京MXTV]] FC東京vs横浜Fマリノス戦副音声インタビュー 2007年[[10月6日]]</ref>。ブログも日本語で書いている
*日本での生活かったため、日本語かなり流暢に話すことができる。[[ひらがな]]・[[カタカナ]]も支障は少ない。現役引退後日本でサッカー指導者になりたいとの希望からさらに日本語を勉強する事を希望し、[[公文式]]の国語の授業を日本の中学生のクラスに混じって勉強した<ref>[[東京MXTV]] FC東京vs横浜Fマリノス戦副音声インタビュー 2007年[[10月6日]]</ref>。[[#外部リンク|自身のブログ]]も日本語で更新を続けた
*{{Anchors|Shoku}}訪日してしばらくは口に合う日本食が無く「近所にあったそば屋で毎日[[蕎麦]]ばかり食べていた」(アマラオ談)<ref name="dai2003" />。訪日3年目の1994年、[[FC東京深川グランド|練習場]]がある[[猿江]]の洋食屋の[[生姜焼き‎]]を気に入り、店の常連客になった<ref name="kushida70" />。その後好き嫌いはほとんど無くなったが、魚介類は嫌いで<ref name="kabe" />自ら口に運ぶ事はない<ref name="dai2003">{{Cite book|和書|title=[[週刊サッカーダイジェスト]] 2003年3月25日号|page=99}}</ref>。
*来日直後から[[ラモス瑠偉]]との親交が深い。当初、ブラジルとは全く違う日本の環境や食事に馴染めず[[ホームシック]]になりブラジルに帰りたがったアマラオを、東京の[[ディスコ]]やブラジル料理の食べられる店などに外食に連れて行き元気付けるなど、ブラジル出身の先輩として大きな支えとなった<ref>串田杢弥『KING OF TOKYO アマラオ』[[ゴマブックス]]、2008年、50-58頁</ref>。2008年に行われたアマラオ引退試合にも参加した。
*{{Anchors|Ramos}}訪日直後から[[ラモス瑠偉]]との親交が深い。ラモスは、長姉家族がパルメイラスのファンだったことから「パルメイラスのAmaral」を知っており<ref name="kushida50" />、そんな選手が当時Jリーグ入りを目指してもいないようなクラブに加入していたことに驚き、日本に馴染めずブラジルに帰りたがっていたアマラオを東京の[[ディスコ]]や外食に連れて行き元気付けるなど、ブラジル出身の先輩として大きな支えとなった<ref name="kabe" /><ref name="kushida50">[[#Kushida|串田,50-58頁]]</ref>。また、アマラオはラモスのJリーグでのプレー振りからも刺激を受け、ボールの扱いだけではなくチームのために走ることで日本人からの信頼を得られると教えられた<ref name="kushida50" />。もっとも、ラモスは、アマラオがあまりに守備に奔走するので「(自身は[[ミッドフィールダー|MF]]だが、)FWは点を決めないと」「湘南は守備させるためにお前を呼んだんじゃない」と苦言を呈している<ref name="kushida50" />。ラモスは[[#引退試合|2008年に行われたアマラオの引退試合]]にも参加。
*来日当初は日本食で口に合うものがなく、「近所にあったそば屋で毎日[[蕎麦]]ばかり食べていた」(アマラオ談)。その後好き嫌いはほとんど無くなったが、魚介類は嫌いで自ら口に運ぶ事はない<ref>[[週刊サッカーダイジェスト]] 2003年3月25日号 99頁</ref>。

=== キング・オブ・トーキョー ===
1997年9月7日、日本代表は[[三浦知良]]が4得点を挙げて[[1998 FIFAワールドカップ・アジア予選|ワールドカップアジア最終予選]]・[[サッカーウズベキスタン代表|ウズベキスタン]]戦に勝利。[[マスメディア|メディア]]が「キング・カズ」の活躍に沸き立つ中、翌日に行われた[[1997年のJFL|JFL第21節]]・東京ガスvs[[川崎フロンターレ]]<ref group="注">後にFC東京と川崎の対戦は「[[多摩川クラシコ]]」として盛り立てられることになるが、当時は東京ガスであり、多摩川クラシコとしてはカウントされていない。</ref>でアマラオも4得点を記録し、東京ガスサポーターから「キング」の声が挙がった<ref name="king2011">{{Cite book|和書|title=Jリーグ サッカーキング 2011年12月号|page=44|year=2011|publisher=[[フロムワン]]}}</ref>。この時は内輪受けのパロディに過ぎなかった<ref name="kushida75">[[#Kushida|串田,75-78頁]]</ref>。

東京ガスは1999年よりFC東京としてJリーグに加盟することになったが、「キングと呼ばれる選手がいるらしい」という事実は実態が掴めない新規参入クラブを取材するメディアにとって格好の材料となり<ref name="kushida75" />、FC東京のキングとして取り上げられる。サポーターもこれに便乗し、いつの頃からか<ref name="ayumi2" />「キング・オブ・トーキョー」の通り名で呼ばれるようになった。

ブラジル人のアマラオにとって「[[:wikt:|Rei(王)]]」の名は[[ペレ]]のものであり<ref name="kushida75" />、また、日本サッカーへ多大な貢献をしてきた[[ジーコ]]やラモスがいるというのに自分が王と呼ばれていいのかと<ref name="ara169">[[#Ara|荒川,169-175頁]]</ref>当初はこの名を受け入れられずにいたが、サポーターと築いてきた信頼の証<ref name="kabe" />として認めるようになった。

アマラオ退団以後も、FC東京が[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]で試合をする際には、サポーターによって「KING AMARAL STUDIUM」の巨大な横断幕が掲げられた<ref name="js20th">[http://lsj.jsgoal.jp/free/20thaniv/2003/2003-32.html KING OF TOKYOのアマラオがF東京を退団] [[J's GOAL]]</ref><ref name="king2011" />。また、群馬県のクラブであるFCホリコシでも試合会場ではキング・オブ・トーキョーとして紹介された<ref>[[#Kushida|串田,128頁]]</ref>。

2008年10月に公開されたアマラオのドキュメンタリー自伝映画<ref name="sponichi0509" />のタイトルも「[[#外部リンク|KING OF TOKYO O FILME(キング・オブ・トーキョー・オ・フィウミ)]]」と銘打たれた。この映画は[[日系ブラジル人|ブラジル移民100周年]]を記念する事業の一環として外務省の認可の下で制作された<ref name="sponichi0509">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2008/05/09/kiji/K20080509Z00001540.html “キング”アマラオ氏が映画になる] [[スポーツニッポン]] (2008年5月9日)</ref>。

=== 引退試合 ===
2008年5月11日開催。[[引退試合#Jリーグ|Jリーグ規約には、引退試合開催要件として公式戦通算500試合出場という規定が設けられているが]]、アマラオはこの要件を満たしていなかったことから、無料の非公式試合として開催された<ref name="tcs2008">[http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/fctokyo/news/200804/CK2008042302005869.html 5・11味スタ アマラオ氏引退試合] [[東京中日スポーツ]] (2008年4月23日)</ref>。

なお、この試合はFC東京のホームスタジアムである味の素スタジアムの[[命名権]]更新を記念する「第1回味の素スタジアム感謝デー」の一環として行われている<ref name="chofu">[http://chofu.com/_event/02137.html 第1回味の素スタジアム感謝デー] ちょうふどっとこむ</ref><ref name="tcs2008" />。

参加選手はJFAアンバサダーを中心とするチームと東京ガス及びFC東京OBチームの二手に分かれ、アマラオは前半は前者、後半は後者を率いてプレー。後半20分に惜別の得点を挙げた<ref name="sponichi0512" />。

{{Footballbox
| event = 「アマラオ ファイナルマッチ」
| 開催日 = 2008年5月11日<br />14:00<ref>{{Wayback|date=20080506183527|url=http://www.ajinomotostadium.com/news/cont.html?item=10315|title=5/11(日)味の素スタジアム感謝デー「アマラオファイナルマッチ」}} 味の素スタジアム (2008年5月3日)</ref><ref name="chofu" />
| 競技場 = 味の素スタジアム
| チーム1 = AMARAL AMIGOS
| チーム2 = TOKYO LEGENDS
| スコア = 2 - 3
| 得点者1 = [[山口素弘]] {{Goal}}<br />[[永島昭浩]] {{Goal}}
| 得点者2 = [[和田潤]] {{Goal}}{{Goal}}<br />アマラオ {{Goal}}
| 観客数 = 15591人<ref name="sponichi0512">[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2008/05/12/kiji/K20080512Z00001430.html 惜別1発! アマラオ氏涙の引退マッチ] [[スポーツニッポン]] (2008年5月12日)</ref>
}}
{{hidden begin
|title=出場選手
|titlestyle=background:#CCCCFF; text-align:center;
}}
{| style="margin: 0 auto;"
| style="vertical-align: top;"|
{| style="font-size: 85%; border-collapse: collapse;"
|-
|colspan=3|'''AMARAL'''
|-
!width=25| !!width=25|
|-
|GK||{{0}}1||[[小島伸幸]]
|-
|FP||{{0}}2||[[名良橋晃]]
|-
|FP||{{0}}3||[[相馬直樹]]
|-
|FP||{{0}}5||[[山口素弘]]
|-
|FP||{{0}}6||[[本田泰人]]
|-
|FP||{{0}}7||[[前園真聖]]
|-
|FP||10||[[ラモス瑠偉]]
|-
|FP||11||アマラオ
|-
|FP||14||[[シルバ・ジョゼ・レイナルド・フェルナンデス|レイナルド]]
|-
|FP||16||[[澤登正朗]]
|-
|FP||17||[[小倉隆史]]
|-
|colspan=3|'''控え'''
|-
|GK||21||[[林一章]]
|-
|FP||{{0}}4||[[安彦考真]]
|-
|FP||{{0}}8||[[矢部次郎]]
|-
|FP||{{0}}9||[[相根澄]]
|-
|FP||13||[[永島昭浩]]
|-
|FP||15||[[平間智和]]
|-
|FP||18||[[マルコス・ボニファシオ・ダ・ローシャ|マルキーニョ]]
|-
|FP||20||[[古庄亨]]
|}
| style="padding: 0 1em;"|
| style="vertical-align: top;"|
{| style="font-size: 85%; border-collapse: collapse;"
|-
|colspan=3|'''TOKYO'''
|-
!width=25| !!width=25|
|-
|GK||{{0}}1||[[堀池洋充]]
|-
|FP||{{0}}5||[[古邊考功]]
|-
|FP||{{0}}5||[[下平隆宏]]
|-
|FP||{{0}}6||[[浮氣哲郎]]
|-
|FP||{{0}}9||[[和田潤]]
|-
|FP||10||[[三浦文丈]]
|-
|FP||12||[[梅山修]]
|-
|FP||13||[[加賀見健介]]
|-
|FP||16||[[小池知己]]
|-
|FP||17||[[鏑木享]]
|-
|FP||18||[[岡元勇人]]
|-
|colspan=3|'''控え'''
|-
|GK||22||[[鈴木敬之]]
|-
|FP||10||[[奥原崇]]
|-
|FP||11||アマラオ
|-
|FP||14||[[原博実]]
|-
|FP||17||[[岡島清延]]
|-
|FP||20||[[松本磨]]
|-
|FP||25||[[岡本淳一]]
|-
|FP||27||[[立石敬之]]
|}
|}{{hidden end}}


==所属クラブ==
==所属クラブ==
62行目: 226行目:
*1977年 {{flagicon|BRA}} [[AAポンチ・プレッタ]]ジュニア
*1977年 {{flagicon|BRA}} [[AAポンチ・プレッタ]]ジュニア
*1984年-1986年 {{flagicon|BRA}} パルメイリーニャ (SEパルメイラスのユース)
*1984年-1986年 {{flagicon|BRA}} パルメイリーニャ (SEパルメイラスのユース)
*1987年 {{flagicon|BRA}} カッピバリアーノユース
*1987年 {{flagicon|BRA}} [[カッピバリアーノFC]]{{Enlink|Capivariano Futebol Clube}}ユース
;プロ経歴
;プロ経歴
*1987年 {{flagicon|BRA}} [[コメルシアル]] (loan)
*1987年 {{flagicon|BRA}} [[コメルシアル]] (loan)
*1988年 {{flagicon|BRA}} {{仮リンク|カッピバリアーノFC|pt|Capivariano Futebol Clube}}
*1988年 {{flagicon|BRA}} [[カッピバリアーノFC]]{{Enlink|Capivariano Futebol Clube}}
*1989年-1991年 {{flagicon|BRA}} {{仮リンク|イトゥアーノFC|en|Ituano Futebol Clube}}
*1989年-1991年 {{flagicon|BRA}} [[イトゥアーノFC]]{{Enlink|Ituano Futebol Clube}}
*1992年 {{flagicon|BRA}} [[SEパルメイラス]] (loan)
*1992年 {{flagicon|BRA}} [[SEパルメイラス]] (loan)
*1992年-2003年 {{flagicon|JPN}} [[FC東京|東京ガス/FC東京]] (1995年に完全移籍加入)
*1992年-2003年 {{flagicon|JPN}} [[東京ガスサッカー部|東京ガスサッカー部 / 東京ガスフットボールクラブ]] / [[FC東京]] (1995年に完全移籍加入)
*2004年 {{flagicon|JPN}} [[湘南ベルマーレ]]
*2004年 {{flagicon|JPN}} [[湘南ベルマーレ]]
*2005年-2007年4月 {{flagicon|JPN}} [[アルテ高崎|FCホリコシ/アルテ高崎]] (2006年8月 - 12月は[[選手兼任監督]])
*2005年-2007年4月 {{flagicon|JPN}} [[アルテ高崎|FCホリコシ / アルテ高崎]] (2006年8月 - 12月は[[選手兼任監督]])
*2009年7月-12月{{flagicon|JPN}} [[フットボールクラブ刈谷|FC刈谷]] (コーチ兼任)
*2009年7月-12月{{flagicon|JPN}} [[フットボールクラブ刈谷|FC刈谷]] (コーチ兼任)


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|1987||[[コメルシアル]]||||[[カンピオナート・パウリスタ|サンパウロ州]]3部||||16||||||||||||
|1987||[[コメルシアル]]||||[[カンピオナート・パウリスタ|サンパウロ州]]3部||||16||||||||||||
|-
|-
|1988||[[カッピバリアーノFC|カッピバリアーノ]]||||rowspan=2|サンパウロ州2部A||||18||||||||||||
|1988||[[カッピバリアーノFC|カッピバリアーノ]]||||rowspan=2|サンパウロ州2部||||18||||||||||||
|-
|-
|1989||rowspan=3|[[イトゥアーノFC|イトゥアーノ]]||||||||||||||||||
|1989||rowspan=3|[[イトゥアーノFC|イトゥアーノ]]||||||||||||||||||
130行目: 294行目:
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終}}||||||||||||||
{{:利用者:Bcjp/t/fbp国内表 通算終}}||||||||||||||
|}
|}
*[[ジャパンフットボールリーグ]]初出場 - 1992年7月5日 JFL第1節 vs[[ヤンマーディーゼルサッカー部]] ([[岡山県美作ラグビー・サッカー場|美作]])
*[[ジャパンフットボールリーグ]]初出場 - 1992年7月5日 JFL第1節 vs[[ヤンマーディーゼルサッカー部]] ([[岡山県美作ラグビー・サッカー場|美作]])<ref name="fct1778" />
*ジャパンフットボールリーグ初得点 - 1992年7月12日 JFL第3節 vs[[日本鋼管サッカー部|NKKサッカー部]] ([[多摩市立陸上競技場|多摩]])
*ジャパンフットボールリーグ初得点 - 1992年7月12日 JFL第3節 vs[[日本鋼管サッカー部|NKKサッカー部]] ([[多摩市立陸上競技場|多摩]])
*[[Jリーグ ディビジョン2]]初出場・初得点 - 1999年3月14日 J2第1節 vs[[サガン鳥栖]] ([[国立西が丘サッカー場|西が丘]])
*[[Jリーグ ディビジョン2]]初出場・初得点 - 1999年3月14日 J2第1節 vs[[サガン鳥栖]] ([[国立西が丘サッカー場|西が丘]])
143行目: 307行目:
*1996年{{0}}9月15日 - JFL第21節 vs[[コスモ石油四日市FC]] ([[江東区夢の島陸上競技場|夢の島]])
*1996年{{0}}9月15日 - JFL第21節 vs[[コスモ石油四日市FC]] ([[江東区夢の島陸上競技場|夢の島]])
*1997年{{0}}9月{{0}}8日 - JFL第21節 vs[[川崎フロンターレ]] ([[江戸川区陸上競技場|江戸川]]) ※4得点
*1997年{{0}}9月{{0}}8日 - JFL第21節 vs[[川崎フロンターレ]] ([[江戸川区陸上競技場|江戸川]]) ※4得点
*1997年10月26日 - JFL第29節 vs[[ジヤトコFC|ジャトコ]] ([[富士総合運動公園陸上競技場|富士]])
*1997年10月26日 - JFL第29節 vs[[ジヤトコサッカー部|ジャトコ]] ([[富士総合運動公園陸上競技場|富士]])
*1999年{{0}}9月19日 - J2第27節 vs[[ベガルタ仙台]] ([[仙台スタジアム|仙台]])
*1999年{{0}}9月19日 - J2第27節 vs[[ベガルタ仙台]] ([[仙台スタジアム|仙台]])
*2000年{{0}}7月{{0}}8日 - J1 2ndステージ第3節 vs川崎フロンターレ (国立)
*2000年{{0}}7月{{0}}8日 - J1 2ndステージ第3節 vs川崎フロンターレ (国立)
151行目: 315行目:


==指導歴==
==指導歴==
*2006年8月-2006年12月 {{flagicon|JPN}} [[アルテ高崎]] ([[選手兼任監督]])
*2006年8月-2006年12月 {{flagicon|JPN}} [[アルテ高崎]]監督 (選手兼任)
*2009年4月-12月{{flagicon|JPN}} [[フットボールクラブ刈谷|FC刈谷]]コーチ (2009年7月から選手兼任)
*2009年4月-12月{{flagicon|JPN}} [[フットボールクラブ刈谷|FC刈谷]]コーチ (2009年7月から選手兼任)
*2010年 {{flagicon|JPN}} FC刈谷監督
*2010年 {{flagicon|JPN}} FC刈谷監督
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== 監督成績 ==
== 監督成績 ==
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||-||-||'''39'''||'''26'''||'''9'''||'''4'''||-||-
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|}

== 関連項目 ==
* [[Jリーグの外国籍選手一覧]]
* [[FC東京の選手一覧]]
* [[湘南ベルマーレの選手一覧]]


==タイトル==
==タイトル==
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*[[東京都社会人サッカーリーグ]]1部 (2011年)
*[[東京都社会人サッカーリーグ]]1部 (2011年)
*[[全国社会人サッカー選手権大会]] ([[第47回全国社会人サッカー選手権大会|2011年]])
*[[全国社会人サッカー選手権大会]] ([[第47回全国社会人サッカー選手権大会|2011年]])

== 出演 ==
;CM
*[[パワードコム|東京電話「ロスタイム編」]] (2001年) - [[松坂慶子]]との競演。アマラオが松坂の得点をアシスト<ref>[http://www.kddi.com/business/news/information/powered/ttnet_h13/h130920.html 「東京電話」新テレビCMについて] 東京通信ネットワーク (2001年9月20日)</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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{{Reflist|group="注"}}
{{Reflist|group="注"}}
;出典
;出典
{{Reflist}}
{{Reflist|3}}

== 関連書籍 ==
*{{Anchors|Ara}}{{Cite book|和書|title=FC東京の挑戦|author=[[荒川裕治]]|year=2001|publisher=[[小学館]]}}
*{{Anchors|Kushida}}{{Cite book|和書|title=KING OF TOKYO アマラオ|author=[[串田杢弥]]|year=2008|publisher=[[ゴマブックス]]}}

== 関連項目 ==
* [[Jリーグの外国籍選手一覧]]
* [[FC東京の選手一覧]]
* [[湘南ベルマーレの選手一覧]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://amaral.blog.players.tv/ アマラオ公式ブログ「アマブロ」]
* [http://amaral.blog.players.tv/ アマラオ公式ブログ「アマブロ」]
* [http://www.kingoftokyo.com/ ドキュメンタリー映画「KING OF TOKYO O FILME」]
* [http://www.zerozero.pt/jogador.php?id=158075 Amaral] zerozero.pt
;プロフィール
* {{Wayback|date=20031222012820|url=http://www.fctokyo.co.jp/home/index.phtml?cont=player&num=11|title=プロフィール (2003年版)}} - FC東京
* {{Wayback|date=20041205075959|url=http://www.bellmare.co.jp/fsquad/members_html/12_amaral.html|title=プロフィール (2004年版)}} - 湘南ベルマーレ
* {{Wayback|date=20060210123343|url=http://www.tacc.ac.jp/FC-Horikoshi/profil/2005member/member/07.html|title=プロフィール (2005年版)}} - FCホリコシ
* {{PDFlink|[http://www.yumesen.jp/teacher/pdf/pdf_amaral.pdf JFAこころのプロジェクト 夢先生プロフィール]}} - [[日本サッカー協会]]
* [http://www.zerozero.pt/jogador.php?id=158075 Amaral] zerozero.pt{{Pt icon}}
;特集
* {{Wayback|date=20040215135733|url=http://number.goo.ne.jp/from_number/572/special_features/spe3/index.html|title=アマラオは東京をアイシテル。(1/5)}} - [[Sports_Graphic_Number‎|Number]] (2003年3月20日)
* {{Wayback|date=20040215191206|url=http://number.goo.ne.jp/from_number/572/special_features/spe3/page2.html|title=同上 (2/5)}}
* {{Wayback|date=20040215220708|url=http://number.goo.ne.jp/from_number/572/special_features/spe3/page3.html|title=同上 (3/5)}}
* {{Wayback|date=20040216164534|url=http://number.goo.ne.jp/from_number/572/special_features/spe3/page4.html|title=同上 (4/5)}}
* {{Wayback|date=20040217043255|url=http://number.goo.ne.jp/from_number/572/special_features/spe3/page5.html|title=同上 (5/5)}}
* {{Wayback|date=20060511171228|url=http://www.soccer-m.ne.jp/interview/964/index.html|title=interview No.964 (1/2)}} - WEBサッカーマガジン (2004年3月3日)
* {{Wayback|date=20050206050140|url=http://www.soccer-m.ne.jp/interview/964/index_02.html|title=同上 (2/2)}}
* {{Wayback|date=20041230190304|url=http://www.bellmare.co.jp/voice/player/amaral041221.htm|title=Player's Voice}} - 湘南ベルマーレ (2004年12月21日)
* [http://football-navi.com/archives/5657 東京に帰ってきた監督アマラオの1年 (1/3)] , [http://football-navi.com/archives/5657/2 (2/3)] , [http://football-navi.com/archives/5657/3 (3/3)] - SOCCER NAVI (2011年11月29日)
* [http://www.saopauloshimbun.com/index.php/conteudo/show/id/15757/menu/58/cat/148 【W杯企画】ブラジルサッカーを支える人々4 元Jリーガーのアマラオ] - サンパウロ新聞 (2013年12月5日)


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2014年1月1日 (水) 17:03時点における版

アマラオ
名前
本名 ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ
愛称 アマ、キング・オブ・トーキョー
ラテン文字 AMARAL
基本情報
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
生年月日 (1966-10-16) 1966年10月16日(58歳)
出身地 サンパウロ州ピラシカーバ
身長 183cm[1]
体重 76kg[1]
選手情報
ポジション FW[1]
利き足 右足
ユース
1977-
1984-
1987
ポンチ・プレッタ
パルメイリーニャ
カッピバリアーノ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1987 コメルシアル (016)
1988 カッピバリアーノ (018)
1989-1991 イトゥアーノ
1992 パルメイラス
1992-2003 東京ガス / FC東京 292 (165)
2004 湘南ベルマーレ 19 (002)
2005-2007 FCホリコシ / アルテ高崎 28 (016)
2009 FC刈谷
監督歴
2006 アルテ高崎
2010 FC刈谷
2011 東京23FC
1. 国内リーグ戦に限る。2009年7月3日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アマラオAmaral)こと、本名ワグネル・ペレイラ・カルドーゾ(Wagner Pereira Cardozo, 1966年10月16日-)は、ブラジルサンパウロ州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード(FW)

Amaral(アマラオ)という愛称は、1970年代のブラジル代表選手アマラウに由来する。日本では一般的にアマラと表記されるが、ブラジルポルトガル語の発音はアマラ(厳密にはアマラゥ)が近い。

来歴

プロ入り以前

サンパウロ州ピラシカーバ (enに生まれ、8歳の時に父の仕事先である同州カンピーナスへ引越す。当時カンピーナスのグアラニFCにはブラジル代表センターバック(CB)のアマラウが所属しており、「アマラウと肌の色が似ていてCBだから」という理由で[2][3]、友達から「Amaral」の愛称が付けられた。

1977年、10歳の時にサンパウロ州1部リーグAAポンチ・プレッタジュニアチームのテストに合格したが、同州オルトランジャ (enに引越したことでバス代が捻出できなくなり[4]退団。その後は工業系の専門学校に通いながらオルトランジャのアマチュアチームでプレーを続けていた[2][4]。ここでも当初はCBを務めていたが、FWへのポジション転向を監督に直訴し[2][4]、これが奏功。ヘディングの強さを発揮し[5]、これ以後FWを務めるようになった。

1984年、17歳で学校を卒業し、いくつかのクラブのテストを受けたものの失敗[2]。町工場で旋盤工として働いて家計を助けながら夜学の高校へ通い、土日はSEパルメイラス下部組織のパルメイリーニャでアマチュアリーグに出場していた[4]1985年には同リーグで得点王を獲得。クラブからの勧めでパルメイラストップチームのテストを受けたが、これが長引いたことで工場を辞めることになり、さらにテストも通らず、新調したスパイクシューズは盗難に遭ってしまう[4]。これ以上プロクラブを探す気力は無く、再び旋盤工として就職し[4]、休日にアマチュアとしてサッカーに臨んでいたところ、1987年カッピバリアーノFCへの加入を勧められ、テスト期間として[2]同クラブのユースチームでプレーすることになった。

プロデビュー / パルメイラス

1987年5月、カッピバリアーノから貸し出される形で、サンパウロ州の3部リーグに所属していたコメルシアルとプロ契約を締結。同年リーグ戦で16得点を挙げ、2部への昇格に貢献。1988年には同2部のカッピバリアーノへ復帰し、コンスタントに得点を挙げた[2]

1989年、同じく2部のイトゥアーノFCに移籍。同年リーグ戦の優勝に貢献し、翌1990年から1部へ昇格。着実にサンパウロ州内での知名度を高めつつあった[2]1991年スポーツヘルニアに苦しんでいたが[5]、チームメートのFWが交通事故で急死したため[6]その代役として急遽グアラニFC戦に先発出場することになった。この試合には、グアラニとの対戦を控えていた[2]SEパルメイラスのスタッフが視察に訪れており、また、パルメイラスではこの事故死したFWの獲得を検討していた[6]。グアラニ戦でのプレーぶりがパルメイラス監督のネルシーニョから認められ[7][5][2]1992年1月よりイトゥアーノからのレンタルでパルメイラスに加入した。

名門パルメイラスで活躍できればブラジル代表入りに大きく近づくと意気込んでいたが[2]、コンディションが万全で無かったこともあり、ネルシーニョからはFWエバイールの控えとして起用された[2]。移籍後初出場となったフルミネンセFC戦で先制点を挙げたものの[2]、その後の半月板損傷によって戦列を離れ、先発定着はかなわなかった。

半月板の手術を行いアイシングに務めていた中[5]、イトゥアーノの監督だったテイシェイラが東京ガスサッカー部(現 FC東京)へアドバイザーとして加入することになり[2]、同部への加入を持ちかけられる。ネルシーニョからは慰留されたものの[5]、金銭的好条件と海外でのプレーに惹かれ[2][8]、訪日を決断。この時は1年程でブラジルに帰国し、代表入りを再び目指すつもりでいた[9]

東京ガス / FC東京

1992年5月13日に訪日し[9][10]ジャパンフットボールリーグ(旧JFL)[注 1]に所属していた東京ガスSCへ加入。しかし、ブラジルの名門クラブから加入したアマラオにとって、当時の同部の環境は劣悪だった[2][11]。用具の用意や洗濯を選手自ら行い[5][2]社員選手が大半であったため人数が揃わないままでも練習をし[11]、堅い人工芝の練習場で古傷の膝も痛んだ[5][2]。日本の言葉、食事、習慣に中々馴染めず[9]ホームシックにもなったが[2]、チームメートとブラジル料理店に出掛けた際、同じ店に来ていたラモス瑠偉から励まされ、交流を深めることになった

何とか1年目のシーズンを終え、ブラジルへ復帰するつもりで帰国したが、イトゥアーノは資金難に陥っており、翌シーズンも東京ガスからのレンタル料を得ようとするスタッフから移籍期間の延長を求められる[12]。アマラオは家族を支え、また旧知の仲間を助けるためにこの要請を受け入れ[12]1993年に再び訪日。同年よりJリーグが華々しく開幕し、ラモスの活躍を目にしつつも、自分がやれることを精一杯やろう[13]とJFLでのプレーを続けた。

1994年は、日本での生活に馴染み[2]、チームも大熊清のコーチ就任やFW関浩二らの加入など徐々に上位を目指す体制が整ってきた[5]ことで、心身の充実を得てリーグ戦で20得点を挙げた。同年の天皇杯ではベスト8[注 2]進出に貢献。東京ガスはこれらの活躍ぶりから完全移籍での獲得を決め、1995年になってイトゥアーノからパスを買い取った。大熊が監督に就きチーム強化が進む中、アマラオはエースとしてチームを牽引しつつ、プロとしてサッカーに臨む姿勢を言葉や態度でチームメートに示し続けた[14][10]1998年にはJFLでの優勝に貢献し、翌1999年からはFC東京(東京ガスから改称)の選手としてJ2(Jリーグ2部)に臨んだ。アマラオの活躍もあってJ2ではJ1昇格圏内を維持していたが、並行して開催されたナビスコカップの準決勝鹿島アントラーズ戦で相手のスライディングを受けて負傷[15]。トレーナーの木場克己は即座の交代を判断したが[16]、アマラオはJFL時代から「このチームはJリーグでも充分に戦えるはず」と考えていたことから[15]J1クラブとも戦う同カップ戦への意気込みが強く、木場を押し留めてプレーを続行[16]。結果、剥離骨折による離脱を余儀なくされたが[13][16][15]、シーズン終盤に復帰。J2準優勝に貢献し、J1(Jリーグ1部)昇格を掴んだ。

2000年、自身訪日9年目にして、日本サッカーのトップカテゴリーであるJ1で戦うことになった。J1・1st第1節横浜F・マリノス戦では自身のプレーでPKを獲得したが[17]、FWツゥットがキッカーを志願したため、アマラオは新加入のツゥットへの心配り[18]からクラブ史上J1第1号ゴールの栄誉を譲った[17](このPKが決勝点となり1-0で勝利)。アマラオ・ツゥットの得点量産によってチームは中位に踏み止まったが、J1で戦える地力を付けてから上位を目指そうというクラブ首脳陣と、プロならばリーグ優勝を目標にすべきというアマラオとの間で溝が生じた[19][20]。アマラオは横浜FMのオズワルド・アルディレス監督からポストプレーヤーとして高く評価されており[20]、シーズン終盤に同クラブからのオファーを受けたことで移籍を決意。しかし、このことを知ったサポーター達から慰留され、J1・2nd第14節ジェフ市原戦では、試合開始前からMF佐藤由紀彦Vゴールを決めてもなお、終始アマラオコールを受ける[19][20]。大熊からも「一緒に優勝を目指そう」と声をかけられ[20]翻意するに至った。

2003年の契約更新をするに当たり、アマラオはその年限りでの契約満了を聞かされていた。36歳の年齢による怪我の回復の遅れやプレーの衰えを見せつつあったため[21][18]チームの若返りを図るというのが理由だった。同年11月18日に退団を表明[22][18]。リーグ戦終了後、クラブのホームスタジアムがあり、本人も当時居住していた調布市から感謝状が送られ、市役所にてセレモニーが執り行われた[23]

1992年から2003年シーズン終了までに記録された、東京ガス及びFC東京における公式戦出場数330は、日本のクラブチームに所属した外国籍選手の「同一クラブにおける出場試合数」としては最多である(ただしクラブのJリーグ加盟が1999年からなので、Jリーグの公式記録としては1998年以前の記録はカウントされていない)。

湘南 / 高崎

2004年、J2・湘南ベルマーレに完全移籍[24]。スタッフからは別メニューでの調整を許されていたが[25]、持ち前のひたむきさで[26]若手選手と同様の練習メニューに取り組み[27]、ホーム開幕戦のJ2第2節横浜FC戦で得点を挙げる上々のスタートとなった[28]。しかし、コンディションには自信を持っていたものの[27]、肉離れなどの負傷が重なったことで[29]目立った活躍を見せられずに退団。アマラオは後に、スタッフの指示通りに調整していればもっとチームに貢献できたかもしれないと後悔を吐露している[25]

2005年日本フットボールリーグ(JFL)・FCホリコシ(翌年アルテ高崎に改称)に完全移籍[30]。同年のJFL後期第9節三菱水島戦でJFL史上初の1試合5得点を記録した[31]2006年は4月のJFL前期第7節ソニー仙台戦で得点を挙げたものの[32]、開幕前に負傷した膝の具合が思わしくなく、ブラジルへ帰国してリハビリに取り組んでいた。アマラオ不在の高崎は成績不振による監督交代に見舞われ、同年8月には帰国中のアマラオに選手兼任監督としての現場復帰が打診された。リハビリを途中で切り上げ、10月のJFL後期第10節ジェフ・クラブ戦よりチームを指揮。同第14節から最終節までの4戦は2勝2分[33]で成績を上向かせた。2007年は新監督を迎えたため、選手として契約を更新していたが、やはり膝の状態が回復せず、同年4月に現役引退を表明。この際、今後は日本で指導者ライセンスの獲得を目指し、将来はJリーグのクラブで監督を務めたいとコメントしている。同年末、Jリーグ功労選手賞を受賞[34]

指導者時代

2007年5月より、フットサルチーム「Gatas Brilhantes H.P.」のコーチに就任。また、外国籍プレイヤーとして初のJFAアンバサダーにも任命された[35][36][注 3]。同年6月より2008年12月まで東京中日スポーツ(同紙はFC東京を応援)にコラム「King of Talk」を連載していた[37]

2008年5月11日に引退試合を開催。同年10月にはアマラオを取り上げたドキュメンタリー映画「KING OF TOKYO O FILME」が公開された。

2009年4月、東京ガス及び湘南在籍時の同僚である浮氣哲郎の誘いを受け[38]、浮氣が監督を務めるJFL・FC刈谷のコーチに就任した。同年5月、選手と共に戦い同じ目線で指導したいとの考えから、コーチ兼アマチュア選手としての現役復帰を希望[39]。7月に選手登録され[40]、2年ぶりに現役復帰。なお、アマラオは浮氣(1971年生まれ)や当時の最年長Jリーガーである三浦知良(1967年生まれ)よりも年長であり、日本の全国リーグでの現役最年長選手となった[40]2010年は監督に専任されたが[41]東海リーグ1部2位で終わり、JFL復帰を逃した。翌シーズンの運営費削減に伴い、同年11月にプロ契約監督だったアマラオの退任が発表された[42]。また、この年の2月には湘南ベルマーレOBの一員としてJ1昇格記念試合に参加。ミドルシュートで先制点を挙げ、MVPに選出されている[43][29]

2011年株式会社ファンルーツ所属のコーチングスタッフとして東京都1部リーグ東京23FC監督[44][45]FCトレーロスファンルーツアカデミーコーチに就任。東京23FC監督としてはリーグ優勝、全国社会人選手権(全社)優勝を果たしたが[46]、この年限りで東京23FC監督を退任、帰国した[47]

エピソード

  • 日本での生活が長かったため、日本語をかなり流暢に話すことができる。ひらがなカタカナの読みも支障は少ない。現役引退後日本でサッカー指導者になりたいとの希望からさらに日本語を勉強する事を希望し、公文式の国語の授業を日本の中学生のクラスに混じって勉強した[48]自身のブログも日本語で更新を続けた。
  • 訪日してしばらくは口に合う日本食が無く「近所にあったそば屋で毎日蕎麦ばかり食べていた」(アマラオ談)[49]。訪日3年目の1994年、練習場がある猿江の洋食屋の生姜焼き‎を気に入り、店の常連客になった[14]。その後好き嫌いはほとんど無くなったが、魚介類は嫌いで[2]自ら口に運ぶ事はない[49]
  • 訪日直後からラモス瑠偉との親交が深い。ラモスは、長姉家族がパルメイラスのファンだったことから「パルメイラスのAmaral」を知っており[50]、そんな選手が当時Jリーグ入りを目指してもいないようなクラブに加入していたことに驚き、日本に馴染めずブラジルに帰りたがっていたアマラオを東京のディスコや外食に連れて行き元気付けるなど、ブラジル出身の先輩として大きな支えとなった[2][50]。また、アマラオはラモスのJリーグでのプレー振りからも刺激を受け、ボールの扱いだけではなくチームのために走ることで日本人からの信頼を得られると教えられた[50]。もっとも、ラモスは、アマラオがあまりに守備に奔走するので「(自身はMFだが、)FWは点を決めないと」「湘南は守備させるためにお前を呼んだんじゃない」と苦言を呈している[50]。ラモスは2008年に行われたアマラオの引退試合にも参加。

キング・オブ・トーキョー

1997年9月7日、日本代表は三浦知良が4得点を挙げてワールドカップアジア最終予選ウズベキスタン戦に勝利。メディアが「キング・カズ」の活躍に沸き立つ中、翌日に行われたJFL第21節・東京ガスvs川崎フロンターレ[注 4]でアマラオも4得点を記録し、東京ガスサポーターから「キング」の声が挙がった[51]。この時は内輪受けのパロディに過ぎなかった[52]

東京ガスは1999年よりFC東京としてJリーグに加盟することになったが、「キングと呼ばれる選手がいるらしい」という事実は実態が掴めない新規参入クラブを取材するメディアにとって格好の材料となり[52]、FC東京のキングとして取り上げられる。サポーターもこれに便乗し、いつの頃からか[13]「キング・オブ・トーキョー」の通り名で呼ばれるようになった。

ブラジル人のアマラオにとって「Rei(王)」の名はペレのものであり[52]、また、日本サッカーへ多大な貢献をしてきたジーコやラモスがいるというのに自分が王と呼ばれていいのかと[5]当初はこの名を受け入れられずにいたが、サポーターと築いてきた信頼の証[2]として認めるようになった。

アマラオ退団以後も、FC東京が味の素スタジアムで試合をする際には、サポーターによって「KING AMARAL STUDIUM」の巨大な横断幕が掲げられた[36][51]。また、群馬県のクラブであるFCホリコシでも試合会場ではキング・オブ・トーキョーとして紹介された[53]

2008年10月に公開されたアマラオのドキュメンタリー自伝映画[54]のタイトルも「KING OF TOKYO O FILME(キング・オブ・トーキョー・オ・フィウミ)」と銘打たれた。この映画はブラジル移民100周年を記念する事業の一環として外務省の認可の下で制作された[54]

引退試合

2008年5月11日開催。Jリーグ規約には、引退試合開催要件として公式戦通算500試合出場という規定が設けられているが、アマラオはこの要件を満たしていなかったことから、無料の非公式試合として開催された[37]

なお、この試合はFC東京のホームスタジアムである味の素スタジアムの命名権更新を記念する「第1回味の素スタジアム感謝デー」の一環として行われている[55][37]

参加選手はJFAアンバサダーを中心とするチームと東京ガス及びFC東京OBチームの二手に分かれ、アマラオは前半は前者、後半は後者を率いてプレー。後半20分に惜別の得点を挙げた[56]


「アマラオ ファイナルマッチ」
2008年5月11日
14:00[57][55]
AMARAL AMIGOS 2 - 3 TOKYO LEGENDS
山口素弘 ゴール
永島昭浩 ゴール
和田潤 ゴールゴール
アマラオ ゴール
味の素スタジアム
観客数: 15591人[56]
出場選手
AMARAL
GK 01 小島伸幸
FP 02 名良橋晃
FP 03 相馬直樹
FP 05 山口素弘
FP 06 本田泰人
FP 07 前園真聖
FP 10 ラモス瑠偉
FP 11 アマラオ
FP 14 レイナルド
FP 16 澤登正朗
FP 17 小倉隆史
控え
GK 21 林一章
FP 04 安彦考真
FP 08 矢部次郎
FP 09 相根澄
FP 13 永島昭浩
FP 15 平間智和
FP 18 マルキーニョ
FP 20 古庄亨
TOKYO
GK 01 堀池洋充
FP 05 古邊考功
FP 05 下平隆宏
FP 06 浮氣哲郎
FP 09 和田潤
FP 10 三浦文丈
FP 12 梅山修
FP 13 加賀見健介
FP 16 小池知己
FP 17 鏑木享
FP 18 岡元勇人
控え
GK 22 鈴木敬之
FP 10 奥原崇
FP 11 アマラオ
FP 14 原博実
FP 17 岡島清延
FP 20 松本磨
FP 25 岡本淳一
FP 27 立石敬之

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
ブラジル リーグ戦 ブラジル杯オープン杯 期間通算
1987 コメルシアル サンパウロ州3部 16
1988 カッピバリアーノ サンパウロ州2部 18
1989 イトゥアーノ
1990 (pt サンパウロ州1部
1991 (pt
1992 (pt パルメイラス
日本 リーグ戦 ナビスコ杯天皇杯 期間通算
1992 東京ガス 11 旧JFL1部 16 7 - - 16 7
1993 17 8 - - 17 8
1994 旧JFL 30 20 - 3 1 33 21
1995 28 16 - 1 0 29 16
1996 25 17 - 3 5 28 22
1997 25 18 - 0 0 25 18
1998 24 15 - 3 2 27 17
1999 FC東京 J2 26 15 8 2 3 2 37 19
2000 J1 22 13 2 0 1 0 25 13
2001 25 17 2 0 0 0 27 17
2002 29 15 6 1 0 0 35 16
2003 25 4 6 3 2 0 33 7
2004 湘南 12 J2 19 2 - 2 0 21 2
2005 ホリコシ 7 JFL 24 15 - 2 3 26 18
2006 高崎 11 4 1 - 0 0 4 1
2007 0 0 - - 0 0
2009 刈谷 28 - 1 0
通算 ブラジル
日本 J1 101 49 16 4 3 0 120 53
日本 J2 45 17 8 2 5 2 58 21
日本 JFL 28 16 - 2 3 30 19
日本 旧JFL1部 165 101 - 10 8 175 109
総通算

ハットトリック

指導歴

監督成績

年度 クラブ 所属 リーグ戦 カップ戦 備考
順位 勝点 試合 リーグ杯 天皇杯
2006 高崎 JFL 10位 12 9 3 3 3 - 2回戦 8月より (順位は最終順位)
2010 刈谷 東海1部 2位 35 16 10 5 1 - -
2011 東京23 東京都1部 1位 40 14 13 1 0 - -
総通算 - - 39 26 9 4 - -

タイトル

選手
監督

出演

CM

脚注

注釈
  1. ^ アマラオは「アマチュアの2部リーグ」と聞かされており、ブラジル3部の下位チームの環境を想像していた[11]
  2. ^ 準々決勝でベルマーレ平塚に敗戦。平塚は同大会で優勝。
  3. ^ アマラオ以降、外国籍者へのアンバサダー認定は行われず、制度自体も2010年4月に廃止されたため、アマラオが唯一の外国籍アンバサダーとなった。
  4. ^ 後にFC東京と川崎の対戦は「多摩川クラシコ」として盛り立てられることになるが、当時は東京ガスであり、多摩川クラシコとしてはカウントされていない。
出典
  1. ^ a b c FC刈谷 (2009年) 日本フットボールリーグ
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 加部究『サッカー移民 第2章「7 トーキョーの王様 -アマラオ-」』双葉社、2003年、196-208頁。ISBN 978-4575296020 
  3. ^ 串田,17-18頁
  4. ^ a b c d e f 串田,29-35頁
  5. ^ a b c d e f g h i 荒川,169-175頁
  6. ^ a b 串田,42頁
  7. ^ 『FC東京ファンブック2000』2000年、75頁。 
  8. ^ 串田,47頁
  9. ^ a b c アマサポ企画 AMARAL HISTORY (1) - ウェイバックマシン(2003年12月31日アーカイブ分) FC東京
  10. ^ a b c アマラオ選手退団のお知らせ - ウェイバックマシン(2004年3月15日アーカイブ分) FC東京 (2003年12月2日)
  11. ^ a b c 串田,61-63頁
  12. ^ a b 串田,67-68頁
  13. ^ a b c アマサポ企画 AMARAL HISTORY (2) - ウェイバックマシン(2003年9月3日アーカイブ分) FC東京
  14. ^ a b 串田,70頁
  15. ^ a b c 串田,83-86頁
  16. ^ a b c 荒川,28頁
  17. ^ a b 荒川,5-6頁
  18. ^ a b c 後藤勝『トーキョーワッショイ!』、159-162頁。 
  19. ^ a b 荒川,200頁
  20. ^ a b c d 串田,87-98頁
  21. ^ 串田,105頁
  22. ^ 串田,107頁
  23. ^ アマラオ選手が調布市より感謝状を贈呈される - ウェイバックマシン(2004年5月6日アーカイブ分) FC東京 (2003年12月9日)
  24. ^ アマラオ選手 湘南ベルマーレへ移籍決定のお知らせ - ウェイバックマシン(2004年3月15日アーカイブ分) FC東京 (2003年12月22日)
  25. ^ a b 串田,126頁
  26. ^ 2004開幕直前全28クラブ分析 J's GOAL (2004年3月5日)
  27. ^ a b アマラオ選手・入団記者会見 - ウェイバックマシン(2004年12月9日アーカイブ分) 湘南ベルマーレ (2004年1月28日)
  28. ^ 選手出場記録 (1/3) Jリーグ (2004年11月27日)
  29. ^ a b 馬入日記:2月20日 夢舞台、平塚に! J1昇格記念試合「We’re back」開催! 湘南ベルマーレ (2010年2月20日)
  30. ^ 新加入選手・登録抹消選手について - ウェイバックマシン(2005年4月5日アーカイブ分) FCホリコシ (2004年12月24日)
  31. ^ 公式記録 第7回日本フットボールリーグ 後期第9節 (PDF) 日本フットボールリーグ (2005年10月22日)
  32. ^ 公式記録 第8回日本フットボールリーグ 前期第7節 (PDF) 日本フットボールリーグ (2006年4月30日)
  33. ^ 公式記録 第8回日本フットボールリーグ 後期第14節 (PDF) ,同第15節 (PDF) ,同第16節 (PDF) ,同第17節 (PDF) 日本フットボールリーグ
  34. ^ 【2007Jリーグアウォーズ】功労選手賞について Jリーグ (2007年11月20日)
  35. ^ 平成19年度 第2回理事会 協議事項 日本サッカー協会 (2007年5月18日)
  36. ^ a b KING OF TOKYOのアマラオがF東京を退団 J's GOAL
  37. ^ a b c 5・11味スタ アマラオ氏引退試合 東京中日スポーツ (2008年4月23日)
  38. ^ FC刈谷アマラオ新コーチ チームは「家族」 スポーツニッポン (2009年6月13日)
  39. ^ アマラオがピッチで「実戦指導」 日刊スポーツ (2009年7月6日)
  40. ^ a b アマラオコーチ 選手登録のお知らせ FC刈谷 (2009年7月3日)
  41. ^ アマラオ新監督就任のお知らせ FC刈谷 (2009年12月20日)
  42. ^ アマラオ監督退任のお知らせ FC刈谷 (2010年11月24日)
  43. ^ アマラオ氏先制弾でMVP/湘南記念試合 日刊スポーツ (2010年2月20日)
  44. ^ アマラオ前監督 東京23FC監督就任のお知らせ FC刈谷 (2011年2月7日)
  45. ^ 前FC刈谷監督のアマラオ氏が弊クラブの監督に就任致しました。 東京23FC (2011年1月14日)
  46. ^ アマラオ監督率いる東京23FCが社会人日本一! ゲキサカ (2011年10月20日)
  47. ^ アマラオ監督退任のお知らせ 東京23FC (2011年12月29日)
  48. ^ 東京MXTV FC東京vs横浜Fマリノス戦副音声インタビュー 2007年10月6日
  49. ^ a b 週刊サッカーダイジェスト 2003年3月25日号』、99頁。 
  50. ^ a b c d 串田,50-58頁
  51. ^ a b 『Jリーグ サッカーキング 2011年12月号』フロムワン、2011年、44頁。 
  52. ^ a b c 串田,75-78頁
  53. ^ 串田,128頁
  54. ^ a b “キング”アマラオ氏が映画になる スポーツニッポン (2008年5月9日)
  55. ^ a b 第1回味の素スタジアム感謝デー ちょうふどっとこむ
  56. ^ a b 惜別1発! アマラオ氏涙の引退マッチ スポーツニッポン (2008年5月12日)
  57. ^ 5/11(日)味の素スタジアム感謝デー「アマラオファイナルマッチ」 - ウェイバックマシン(2008年5月6日アーカイブ分) 味の素スタジアム (2008年5月3日)
  58. ^ 「東京電話」新テレビCMについて 東京通信ネットワーク (2001年9月20日)

関連書籍

関連項目

外部リンク

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