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また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・[[飛鳥文化]]・[[白鳳文化]]・[[天平文化]]・[[弘仁・貞観文化|弘仁貞観文化]]・[[国風文化]]・[[院政期文化]]・[[鎌倉文化]]・[[北山文化]]・[[東山文化]]・[[桃山文化]]・[[元禄文化]]・[[化政文化]]・[[明治文化]]・[[大衆文化]]〜などとする区分もある(詳細→'''[[日本の文化#歴史]]''')。
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== 概説 ==
== 歴史認識・歴史叙述 ==
日本においては、[[漢字]]が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には[[歴史物語]]の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には西欧から近代的歴史観が本格的に導入された。

=== 古代 ===
[[6世紀]]には、[[治天下大王|大王]]の系譜を記す『[[帝紀]]』・神話を記す『[[旧辞]]』が、[[7世紀]]前半には[[聖徳太子]]らによって『[[天皇記]]』が編纂された。そうした修史の伝統を継承して、律令統一国家が成立した[[8世紀]]前半には、<!--『[[古事記]]』が執筆されたが、これは暗誦によって伝えられた古い伝承を文字化したものであり、[[叙事詩]]の要素を含んでいる。続いて、-->日本最初の[[正史]]である『[[日本書紀]]』が完成した。『日本書紀』は中国の正史の影響を強く受けており、[[天皇]]支配の正統性を強く訴え、[[皇位継承]]の経緯に関する記述が主たる内容だったが、もう一つ重要な点としては、中国・朝鮮に対する日本の独自性を主張していたことであった。この「天皇の正統性」「日本の独自性」の主張は、『日本書紀』を含むその後の正史(いわゆる[[六国史]]。『[[続日本紀]]』『[[日本後紀]]』『[[続日本後紀]]』『[[日本文徳天皇実録]]』『[[日本三代実録]]』)の主要なテーマであり、以後、幕末期までその影響が及んだ。

正史である六国史の編纂は「[[撰国史所]]」などと呼ばれていた機関を中心に国家事業として行われたが、『日本三代実録』を次ぐ『[[新国史]]』の編纂が途中で中止されたのを最後に正史の編纂は行われなくなり、平安中期以降は[[官司請負制]]に基づき[[家職]]を請け負う貴族・官人の家ごとに政務処理に先例を参照するための歴史資料として、[[日記]]が半公的な記録としてつけられるとともに、『[[類聚国史]]』『[[日本紀略]]』『[[百錬抄]]』やその他各種の年代記が編纂された。以上の歴史叙述はすべて漢文体によるものだったが、平安後期になると、人間をあるがままに日本風に描くという[[国風文化]]の影響のもと、表現形式がより柔軟かつ豊富な和文体による[[歴史物語]]・[[軍記物語]]・[[説話集]]が多数記されるようになり、これらは、従前の正史的歴史観への新たな歴史的意味付けの所産であると解されている。代表的なものとしては、歴史物語では『[[栄花物語]]』『[[大鏡]]』『[[増鏡]]』などが、軍記物語では『[[平家物語]]』『[[太平記]]』などが、説話集では『[[今昔物語集]]』などがある。こうした作品により、武士や庶民へも歴史認識が広く流布することとなった。

=== 中世 ===
[[鎌倉時代]]以降の[[武家]]台頭に危機感を募らせていた[[公家]]層を代表して、新たな歴史認識を示したのは[[慈円]]の『[[愚管抄]]』である。慈円は[[末法思想]]と「道理」をテーマとして国初以来の歴史を説き起こすと、武家が大きな政治権力を握ったことを「道理」観念で合理的に理解しようとしており、同書をもって初めて歴史認識が明確に示されたとする見解もある。中世には仏教的な歴史意識が広まったが、それに対抗して神官の間では『日本書紀』神話の講読が盛行すると、神道の立場を中心として神話と歴史を結合させる思想が起こった。これを背景に、中世中期には、[[北畠親房]]により神道的な神国思想をテーマとする『[[神皇正統記]]』が著された。また、中世のもう一つの歴史認識は、[[年中行事]]や[[有職故実]]などの儀礼を通じて歴史を考えるというもので、そのため、故実を伝えるための[[日記]]や各種記録文書が多数作成された。その影響で、鎌倉幕府の正史である『[[吾妻鏡]]』も日記体をとっている。

=== 近世 ===
近世([[江戸時代]])に入ると、[[徳川将軍家|将軍家]]や[[藩|大名家]]は権力を正当化するため、儒教思想を積極的に採用すると、歴史の編纂を通じて自らの正当性を主張した。代表的なものに『[[武徳大成記]]』『[[本朝通鑑]]』『[[大日本史]]』などがある。儒教は本来合理的な思考を有しており、儒教思想の興隆は合理主義的な歴史叙述、例えば[[大村由己]]『[[天正記]]』・[[太田牛一]]『[[信長公記]]』・[[小瀬甫庵]]『[[太閤記]]』などにその萌芽が見られ、[[山鹿素行]]『[[中朝事実]]』『[[武家事紀]]』などにおいても強く意識されるようになる。やがてそれらは[[新井白石]]の『[[読史余論]]』『[[古史通]]』などとして結実した。これらの動きは実証的な歴史研究、すなわち[[18世紀]]の[[荻生徂徠]]や[[伊藤東涯]]らによる政治制度史研究へとつながっていき、あわせて[[国学]]へも大きな影響を与えた。近世期の合理的・実証的歴史認識の一つの到達点が[[富永仲基]]である。仲基は、仏教・儒教・神道といった宗教・思想も歴史的に変化してきたのであり、これらを絶対視するのでなく客観的に捉えるべきことを唱えている。こうした状況は、日本の歴史研究が近代的な歴史学を受容するための十分な素地を既に生んでいたと評価されている。一方、江戸後期には幕藩体制の矛盾と対外緊張の高まりの中、庶民の間でも歴史への関心が広がり、『[[日本外史]]』『[[皇朝史略]]』など通俗的な歴史書が多く出版された。

=== 近代 ===
[[幕末]]から[[明治維新]]にかけて、文明史など西欧の近代歴史学が一気に流入したが、特に進歩史観・進化史観が日本で急速に広まった。これは従来の日本にない新しい歴史観であり、歴史の中に普遍的な法則性を見出そうとする歴史観であった。この影響のもと、在野において書かれたのが[[田口卯吉]]『[[日本開化小史]]』や[[福澤諭吉]]『[[文明論之概略]]』などである。これは日本史と西欧史の共通点を強調する方向へ進んでいった。たとえば、前者では、事象の原因と結果を論ずる手法を用いている。<ref> 田口卯吉『日本開化小史』改造社(改造文庫)1929年29頁(三上参次による序)</ref>。

一方、明治政府の立場から、[[天皇]]を中心とする国民国家を建設するため、国家主義的な歴史叙述が構築されていった。それは[[大政奉還]]・[[王政復古]]を正当化する歴史観であり、そのため[[大化の改新]]・[[建武の新政]]・[[明治維新]]が最も重要な改革に位置づけられ、こうした国家主義的な歴史観はとりわけ歴史教育の現場へ積極的に導入されていった。これは前代の国学や尊王思想を背景とするもので、根底には『日本書紀』以来続いてきた日本の歴史の独自性を強調する考えが流れていた。このように、明治以降の歴史認識・歴史叙述には、2つの潮流 - 歴史に普遍性を見出す方向と日本の歴史の独自性を強調する方向 - を見出しうるのである。

[[明治]]20年([[1887年]])に実証主義史学の祖[[レオポルト・フォン・ランケ|ランケ]]の弟子に当たるルードビヒ・リースが帝国大学に招聘された。リースは厳密な実証史学を指導すると、いわゆる官学アカデミズムが形成されたが、史料考証を重んじすぎるという憾みがあった。明治末期には、[[ドイツ歴史学派]]の影響による[[発展段階史観|発展段階説]]が唱えられ、また[[マルクス主義]]による[[唯物史観]]が紹介された。大正期に入ると、マルクス唯物史観が重んじる歴史法則性を強く否定視する歴史理論([[カント]]や[[ディルタイ]])が紹介され、歴史哲学への関心を高める契機となった。この時期は社会経済史・文化史・思想史など幅広い分野に関心が拡がっていた。こうした歴史学の発展の一方で、歴史学と国家主義的な歴史観との衝突も発生していた(「神道は祭天の古俗」事件、[[南北朝時代 (日本)#南北朝正閏論と後世への影響|南北朝正閏論争]]、[[天皇機関説]]事件など)。歴史学が実証主義を重視しすぎ、歴史認識や史学方法論を軽んじたことも国家主義的な歴史観の台頭を許す一因となり、昭和期に入ると[[国粋主義]]的な天皇を中心とする歴史観([[皇国史観]])や勧善懲悪史観が隆盛するに至った。

=== 現代 ===
[[第二次世界大戦]]後は、日本の歴史の独自性を主張する立場は大きく後退すると、歴史に普遍性を見出そうとする社会科学的な立場が主流となった。その中でも実証主義史学と特に唯物史観史学の2つが主潮流をなした。国家主義的な歴史観のくびきから解かれた戦後史学は多くの重要な実績を残したが、実証主義には歴史哲学を軽視するという弱点が、唯物史観には教条的になりがちという弱点があり、[[1960年代]]後半頃からその限界が指摘され始めた。[[1970年代]]からは、戦後歴史学に対する反省と見直しが始まり、[[1980年代]]からは特に精力的な取り組みが加速していった。この時期からは、従来あまり顧みられていなかった[[民俗学]]や[[文化人類学]]などの成果を歴史学へ学際的に反映させる試みが積極的に行われている。これらの歴史研究の結果、人口に膾炙した歴史像を大きく覆すような成果が多数発表されており、[[網野善彦]]などがその代表として挙げられようが、この結果一般に流布している歴史像と近年の研究成果との乖離が広がっていることも近年指摘され始めている。

他方で戦後は歴史の大衆化が進み、[[海音寺潮五郎]]や[[司馬遼太郎]]など歴史小説の流行、または[[邪馬台国]]論争の隆盛のように歴史ブームというべき現象も起きており、[[古史古伝]]などを典拠とする学術的に認められていない俗説も一定の広がりを見せている。さらに、一種の[[英雄]]主義・国家主義的な史観が、平成初年頃から[[自由主義史観]]を称して勃興し、実証性や客観性に偏重するアカデミズムの姿勢を批判した主張を展開している。これらはいずれも歴史学と呼びうるレベルにはないが、一般の歴史に対する関心の反映として認識することができる。

== 歴史 ==
=== 旧石器時代 ===
=== 旧石器時代 ===
[[ファイル:Japan glaciation.png|right|thumb|150px|約2万年前の日本列島]]
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*(参考→'''[[歴史書一覧#日本の歴史書|日本の歴史書]]''')
*(参考→'''[[歴史書一覧#日本の歴史書|日本の歴史書]]''')

== 歴史認識・歴史叙述 ==
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日本においては、[[漢字]]が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には[[歴史物語]]の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には西欧から近代的歴史観が本格的に導入された。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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* [[日本の古代道路]]
* [[日本の古代道路]]
* [[日本の税金]]
* [[日本の税金]]
* [[日本史学史]]
* [[日本教育史]]
* [[日本教育史]]
* [[日本法制史]]
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2012年11月26日 (月) 15:38時点における版

日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史国史(National History)のこと。本項では日本の歴史を概観する。

各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照されたい。また、政治史・文化史の面からすると、一連の事象を「明治時代」以降についてのみ元号で一括して時代区分することは、学術的に根拠が乏しい。

時代区分

日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。一応のところ、(原始・)古代中世近世近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なる。

古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。中世については、中世通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半〜12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期〜明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は冷戦構造が崩壊して、バブル崩壊で右肩上がりの経済成長が終わった1990年前後に変更すべきという意見もある。(以上の詳細→古代中世近世近代現代

上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。

一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治センターの所在地に従って、飛鳥時代奈良時代平安時代鎌倉時代室町時代安土桃山時代江戸時代と区分するが、これだけでは必ずしも十分でないため南北朝時代戦国時代という区分を設けており、これらは中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は本来なら「東京時代」と呼称すべきであろうが、天皇の在位に従って明治時代大正時代昭和時代平成時代と呼ばれている。これらのうち、明治維新から第二次世界大戦までの時代(明治時代・大正時代・戦前昭和時代)は、政体(憲法)に因んで「大日本帝国時代」と呼ぶ例もある[1]。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、これらとは異なる時代区分が用いられている(詳細→日本史時代区分表)。

また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化白鳳文化天平文化弘仁貞観文化国風文化院政期文化鎌倉文化北山文化東山文化桃山文化元禄文化化政文化明治文化大衆文化〜などとする区分もある(詳細→日本の文化#歴史)。

概説

旧石器時代

約2万年前の日本列島

日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年~約3万年前までさかのぼる。古く北海道と九州方面は大陸と地続きでありナイフ形石器と呼ばれる石器が列島全域で広く使用された。このナイフ型石器は北海道では発掘されていない。約2万年前にはシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。 また、約4~3万年前にかけて世界最古とされる磨製石器局部磨製石斧)が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器の使用が見られる。

岩戸遺跡から約2万4千年前のものとみられるこけし型の岩偶が出土したことで、旧石器時代にも何らかの信仰があったことがうかがえる。

約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除いて、次の縄文時代へ移行していった。

縄文時代

縄文式土器

縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。 草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文式土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟貝塚に見られる漁労植物の採集などで生活を営み、打製石器磨製石器骨角器などを用いた。

雑穀堅果などの栽培も行われたとする仮説も提示されており、野生のイヌビエから穀物のヒエへの栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、クリの選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。後期から晩期にかけては稲作も導入された。

南西諸島においてこの時期の前半は旧石器時代が継続していたが、約6千年前以降に貝塚時代に移行し、およそ平安時代末期まで続いた。

弥生時代

吉野ヶ里遺跡

紀元前9世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。

当時の日本列島は中国から倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼はとの通交により倭国連合の安定を図った。

北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。

古墳時代

大仙陵古墳前方後円墳

3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中頃に畿内に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州筑紫)・北関東毛野)・山陽吉備)・山陰出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。

4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮中国の技術と文物が倭国へ流入した。

馬の埴輪

5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、朝貢することで朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。

倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と(おくりな)されている人物である。このころより、大王_(ヤマト王権)治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。

倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。

またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向政な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。

この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。

飛鳥時代

法隆寺五重塔

6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。6世紀末、400年ぶりに中国を統一したの登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前半にかけて聖徳太子蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。

7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。

なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。

奈良時代

東大寺の大仏

8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城平城京)が置かれた。この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制班田制租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。

また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。

文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教は政府により厳しく統制されたものの鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺国分寺が国家護持の名目で建立された。工芸品では正倉院宝物が有名。称徳天皇が作らせた百万塔におさめられた百万塔陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物と言われている。

平安時代

源氏物語絵巻
源平合戦

8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の国造一族から任命された郡司階層の没落と百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで朝廷11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、戸籍による個別人民把握と郡司層の百姓層に対する首長権に裏付けられた、人頭税方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、負名体制へと変貌した。また地方統治を裏付ける軍事面においては、国衙軍制を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である、武士階層が登場した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家天皇家外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。

12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の量的増加と、経営単位として自律した一円領地化という質的変化が著しくなり、権門荘園領主とする荘園と、国衙が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場した。

奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、漢字を元に生み出された平仮名片仮名が使われていくようになり、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。

東北地方では、11世紀頃から安倍氏清原氏奥州藤原氏などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された鎮守府将軍をも交えてしばしば抗争した(前九年の役後三年の役)。南西諸島においては、12世紀頃からグスク時代に入る。以降の詳細は、北から奄美群島の歴史沖縄県の歴史先島諸島の歴史などを参照のこと。

鎌倉時代

鎌倉大仏

12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。

蒙古襲来絵詞

13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。また在地社会では悪党惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。

文化面では運慶快慶の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃からアイヌ文化が成立した。

南北朝時代

南朝のあった吉野山

14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統南朝足利氏が支援する持明院統北朝に朝廷が分かれた。大覚寺統後醍醐天皇鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士層の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離反し、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追った。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した。

文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、『二条河原落書』など文化の庶民化への動きが見られた。

室町時代

鹿苑寺金閣(北山文化
水墨画(天橋立図 雪舟

14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を室町幕府-守護体制という。

足利義満南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から日本国王冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。

この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌猿楽喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化北山文化東山文化)が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。

織田信長

戦国時代

15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名守護代国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。そうした流れの中で16世紀半ばに登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。

この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が始まり、火縄銃キリスト教などが伝来すると、それまでの戦術や日本の宗教観念に大きな影響を与えた。

豊臣秀吉

安土桃山時代

織田信長は室町将軍足利義昭を放逐すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一の事業は豊臣秀吉が継承することとなった。

秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定すると、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去。後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。

秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると大名武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。

徳川家康

江戸時代

浮世絵(『富嶽三十六景 - 凱風快晴』葛飾北斎

慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸江戸幕府が置かれた。

秀吉の死後、徳川家康関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると江戸に幕府を開き、大坂の役豊臣氏を滅ぼした。この後幕府は、17世紀中葉までに武家諸法度の発布、参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、キリスト教の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。そうした中勃発した島原・天草一揆は、キリスト教禁止の徹底と出島での管理貿易による鎖国の完成へとつながる。日本の境界領域である琉球王国蝦夷地和人地である渡島半島を除く北海道樺太及び千島列島)の支配は大名を通じて行なわれた。

一方で、社会の安定化に伴って耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらすと、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制という。

社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の元禄文化に結実した。18世紀に入ると幕府財政が慢性的に悪化すると、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力(寛政の改革天保の改革等)は行なわれるが成功はしなかった。この頃に都市町人を中心とする化政文化が花開いた。ところが、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化などを背景に、幕藩体制は次第に動揺していった。

黒船来航

19世紀中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシアイギリスアメリカ船の接近)により、幕藩体制は限界を迎えていた。同後半の黒船来航日米和親条約締結による開国を契機として幕府の管理貿易(鎖国)は解かれた。結果として幕府の威信は低下すると、朝廷の権威が増大することになり、幕府は大政奉還により権力の温存を図ったが、倒幕派の薩摩藩長州藩らとの内戦(戊辰戦争)に敗北後、瓦解した。

江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎俳諧浮世絵お陰参りなどが盛んになったほか、寺子屋藩校で広く教育が行われた。

明治時代

明治天皇

明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けると、明治新政府を樹立した。新政府は天皇大権のもと欧米の諸制度を積極的に導入すると、廃藩置県、身分解放、法制整備、国家インフラの整備など明治維新と呼ばれる一連の改革を遂行した。その過程で日本の境界領域であった琉球王国や、樺太を除く蝦夷地北海道の大部分と千島列島)、小笠原諸島を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。不平等条約の改正をするため、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。その後、日清戦争日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で台湾統治韓国併合を行った。

文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来すると、その有様は文明開化と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。言文一致変体仮名の整理、標準語の普及が進められ、近代的な日本語が成立した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、寺請制度が廃止された。神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする国家神道に再編されていく。キリスト教の布教も許されたが、仏教の巻き返しもありキリスト教の勢力はそれほど大きなものにはならなかった。

大正時代

関東大震災
尼港事件で焼け落ちた日本領事館

大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。日本は日英同盟に基づき第一次世界大戦に参戦して勝利すると、列強の一つに数えられるようになった。しかし、パリ講和会議では人種差別撤廃を訴えたがイギリス・アメリカの反対によって退けられ、ワシントン会議により日英同盟も解消された。また、列国に協調してシベリア出兵を行ったが、尼港事件など多大な犠牲を払うこととなった。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動の結果、アジアで最初の普通選挙が実施され政党政治が成立したが、同時に治安維持法が制定され国体を変革することを目的として結社を組織する共産主義団体等への取締が行われた。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が混迷する状況に追い討ちをかけた。

昭和時代

1945年8月6日に広島、同年8月9日に長崎に原子爆弾が投下された。

昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。大正期から続いた不景気に世界恐慌が直撃し、社会不安が増大した。政党政治に代わって軍部が力を持ち、関東軍は独断で満州を占領して満州国を樹立し、これがアメリカイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退した。その後、第二次上海事変等により中華民国との戦争状態(日中戦争支那事変)に発展した。日本はドイツ国イタリア王国三国同盟を結び、真珠湾攻撃でアメリカ合衆国と開戦して第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争)に突入した。

開戦当初は優勢だった日本軍アメリカ軍の物量と通商破壊に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み戦略爆撃で焼け野原にされ、広島と長崎には原子爆弾を投下されて敗れた。

高度経済成長期には、新幹線等各種インフラが整備された。

戦後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策に基づいた象徴天皇制国民主権平和主義を定めた日本国憲法を新たに制定した。朝鮮戦争時には占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国支援活動を行った[2]。昭和27年(1952年)にサンフランシスコ平和条約により主権を回復した後、急速に戦後復興を進め、冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結した。独立後の日本は西側諸国の中でも特に米国寄りの立場をとったが、日本国憲法第九条を根拠に、軍事力の海外派遣を行わなかった。戦後の日本は、サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による竹島軍事占領を除き諸外国からの軍事的実力行使にさらされることなく、自民党社会党の保革55年体制のもと、平和の中の繁栄を謳歌した。1972年には日中国交正常化沖縄返還が行われ、戦後処理問題は一区切りがついた。

日本のGNPは1966年にフランスを、1967年英国を、1968年にはドイツをそれぞれ追い抜き、米・ソ超大国に次ぐ世界第3位に躍進、先進国の仲間入りを果たした(高度経済成長)。オイルショック後の安定成長期には重化学工業から自動車電機へと産業の主役が移る産業構造の転換が進み、日本企業の輸出攻勢は貿易摩擦をもたらした。昭和末期、日本はプラザ合意を発端とするバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。

戦前は皇国史観で通してきた歴史教育は戦後、日教組の主導でマルクス史観へと転じた。この事で日本史から人間的解釈が消失し、国家悪と階級闘争に立脚した共産主義史観が主流と成った。戦前・戦中に弾圧されていた思想や研究が解禁され、歴史学の古代史や考古学の研究が大いに進展した。

平成時代

世界都市となった東京

平成年間(1989年 - )は平成時代と呼ばれる(平成(へいせい)は、日本の元号の一つであり、正確にいうと「時代」ではない)。昭和末期から続いたバブル景気が崩壊すると、その後の長期にわたる不況は失われた10年失われた20年と呼ばれ、経済面での構造改革が進められた。政治面でも冷戦終結と同時に変革を求める声が高まり、自社両党による55年体制が崩壊。非自民連立内閣が成立したが早々に瓦解した。

また、社会不安が高まる中で阪神淡路大震災地下鉄サリン事件東日本大震災及び福島第一原子力発電所事故などの大規模な災害が発生、危機管理に対する意識が高まるきっかけとなった。

21世紀に入り、BRICSなどの新興国が台頭。日本を含む先進国の産業空洞化、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機、中流階級の貧困層への転落などの傾向が顕著になり、従来世界経済において圧倒的に大きな影響力を持っていた日米や西欧の経済的・政治的プレゼンスは弱まりつつある。

歴史認識・歴史叙述

日本においては、漢字が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には歴史物語の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には西欧から近代的歴史観が本格的に導入された。

脚注

  1. ^ 由井正臣著、岩波ジュニア新書『大日本帝国の時代―日本の歴史〈8〉』
  2. ^ 防衛研究所戦史部石丸安蔵. “朝鮮戦争と日本の関わり―忘れ去られた海上輸送―”. 防衛研究所. 2011年8月2日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク

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