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「深泥池」の版間の差分

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{{multiple image
[[ファイル:Midorogaoke1 Kyoto,JAPAN.jpg|thumb|right|250px|深泥池(北東を望む)]]
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| image1 = Midorogaoke1 Kyoto,JAPAN.jpg
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| caption1 = 南の畔から北東に控える裏山の一つ「高山」を望む。手前には国の[[天然記念物]]に指定されている[[#深泥池生物群集|深泥池生物群集]]が見える。
}}
{{Location map | Japan Kyoto city
| lat_deg = 35 | lat_min = 03 | lat_sec = 28 | lat_dir = N
| lon_deg = 135 | lon_min = 46 | lon_sec = 7.4 | lon_dir = E
| label = 深泥池
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| caption = 深泥池の位置/京都盆地の北端部の、小さい山々が少し出張った所の隙間にある。
| alt = 深泥池の位置
}}
'''深泥池'''(みどろがいけ<ref name="日経_20160415">{{Cite news |和書 |author=竹内義治 |date=2016-04-15 |title=春告げる 氷河期の面影(時の回廊)京都・深泥池 |url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASIH08H02_Z00C16A4AA2P00/ |publisher=[[日本経済新聞社]] |newspaper=[[日本経済新聞]] |accessdate=2019-07-25 }}</ref>、みぞろがいけ{{r|日経_20160415}}、{{small|別表記}}:'''深泥ケ池''')は、[[日本]]の[[近畿地方]]中北部の[[京都盆地]]北端部に所在する、[[池]]と[[湿地]]からなる[[地形]]である。全[[水域]]と西の畔は現在[[行政]]上の[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]'''上賀茂狭間町'''(かみがもはざまちょう)<ref group="gm">上賀茂狭間町({{googlemap|上賀茂狭間町}}) ※該当地域は赤色で囲い表示される。深泥池の全水域と西畔地域の大部分で構成される。町の東域は深泥池の輪郭を綺麗になぞっている。[[上賀茂]]の「狭間町」ではなく、「上賀茂狭間町」。</ref>(かつての京都府[[愛宕郡]]上賀茂村の東端<!--※地名化して意味が変わるので「の」は削除禁止。--><ref name="GeoNLP_1920">{{Cite web|和書|date=1920-01-01 |title=京都府愛宕郡上賀茂村 (26B0020008) - 歴史的行政区域データセットβ版 |url=http://geoshape.ex.nii.ac.jp/city/resource/26B0020008.html |publisher=GeoNLPプロジェクト |website=Geoshapeリポジトリ(公式ウェブサイト) |accessdate=2019-07-27 }}</ref>。[[江戸時代]]における[[山城国]]愛宕郡上加茂村近傍、[[幕藩体制]]下の[[山城国|城州]]上加茂村近傍の[[深泥池貴舩神社]][[寺社領|領]]等<ref name="木船神分霊" group="*">江戸時代初期にあたる[[寛文]]年間([[1660年|1660]]-[[1670年]]間)のいずれかの年の[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]までは[[貴船神社]]領であったが、深泥池の農民らの[[分霊#勧請|勧請]]によって[[分霊]]が叶った。</ref>{{r|NDL-Dc_山州名跡志_127}})に属する。


上賀茂狭間町の西に位置する'''上賀茂深泥池町'''(かみがもみどろいけちょう)<ref group="gm">上賀茂深泥池町({{googlemap|上賀茂深泥池町}}) ※該当地域は赤色で囲い表示される。上賀茂の「深泥池町」ではなく、「上賀茂深泥池町」。</ref>は、深泥池と接していないが、歴史上でも行政上でも深く関わっている。
'''深泥池'''(みどろがいけ、みぞろがいけ)は、[[日本]]にある[[池]]<!--WP:POV-->。[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]][[上賀茂]]深泥池町に所在する。俗に'''深泥ヶ池'''などとも記す。


== 概要 ==
== 概要 ==
池の総[[面積]]は約9.2[[ヘクタール]]で、周囲は約1,540[[メートル]]<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005655.html 京都市情報館 天然記念物 深泥池生物群集]</ref>。池の中央には[[浮島]]が存在する(※地図には掲載されない)。今も昔も流入[[河川]]は無いが、[[1927年]]([[昭和]]2年)6月<ref>{{Cite web|和書|date=2019-05-21 |title=松ケ崎浄水場のあらまし |url=https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000104055.html |publisher=京都市上下水道局 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-07-26 }}</ref>に松ケ崎浄水場<ref group="gm">松ケ崎浄水場({{googlemap|松ケ崎浄水場}}) ※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref>(''cf.'' {{small|[[京都市上下水道局#浄水場]]}})ができて以降はその[[配水池]]より若干の漏水が流入している<ref>[http://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/web_j/hapyo/06/d09.pdf 深泥池における水質分布特性]</ref>。
周囲は約1.5[[キロメートル]]、[[面積]]は約9[[ヘクタール]]で、中央には[[浮島]]が存在する。


北側をケシ山([[標高]]177メートル)、東側を高山(標高179メートル{{r|GeoNLP_1920}})と池に突き出した[[半島]]状のチンコ山{{r|GeoNLP_1920}}、南側を西山(標高135メートル{{r|GeoNLP_1920}})と、池は標高200メートルに達しない[[丘陵地]]に三方を囲まれた低地にあり、南西端のみが平地に開けていて、広大な[[京都盆地]]に繋がっている{{r|GeoNLP_1920}}。西側にはまた別の山地(上賀茂本山<ref group="gm">上賀茂本山({{googlemap|上賀茂本山}}) ※該当地域は赤色で囲い表示される。</ref>の山)の東端が迫っているため、畔の平地部は狭い。畔にあるそのわずかな平地には、昔から[[寺社]]のほか[[住宅|民家]]もいくらかあったが、今では家々がぎっしりと立ち並んでいる{{r|GeoNLP_1920}}。{{Anchors|鞍馬街道}}西側の平地には[[平安京|平安]][[遷都]]の頃から鞍馬街道(鞍馬大路)が南北に通っていた<ref name="情報館_鞍馬街道">{{Cite web|和書|author=京都市役所 |title=ア 鞍馬街道 - 京郊の歴史的風致 |url=https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000071/71658/2703keikaku2-7.pdf |publisher=京都市 |website=京都市情報館(公式ウェブサイト) |format=PDF |page=(2-129) |accessdate=2019-07-26 }}</ref>。この[[街道]]は、平安京と[[丹波国]]を結ぶ[[物流]]の道で、いずれも深泥池から見ておおよそ真北の山奥にあって[[風水]]上の北方守護の要であった[[鞍馬寺]]と遷都以前からあった[[貴船神社]]へ延びる[[参詣道]]でもあった。現在は分割されて[[京都府道40号下鴨静原大原線|府道40号]]の一部や[[京都府道103号上賀茂山端線|府道103号]]の一部が旧・鞍馬街道に相当しており、深泥池の直近では40号が走る(※各道路の繋がりは『[[#交通アクセス|交通アクセス]]』節に詳しい)。東は松ケ崎大谷町<ref group="gm">松ケ崎大谷町({{googlemap|松ケ崎大谷町}}) ※該当地域は赤色で囲い表示される。西へ突き出している所がチンコ山。</ref>、南は松ケ崎深泥池端町<ref group="gm">松ケ崎深泥池端町({{googlemap|松ケ崎深泥池端町}}) ※該当地域は赤色で囲い表示される。深泥池の南岸の大半がこの地域と接している。</ref>と松ケ崎西山町<ref group="gm">松ケ崎西山町({{googlemap|松ケ崎西山町}}) ※該当地域は赤色で囲い表示される。南畔の部分でほんの少しだけ接している。</ref>の、共に山麓と接しており、これらの山の頂付近には深泥池に面した[[古墳]]群がある。高山を挟んで深泥池の東向こうには[[宝ヶ池]](江戸時代に造成された[[ため池|溜池]])がある。
[[氷河期]]<ref>一般的には「氷河期」で通じるが、[[地質学]]的厳密性を背負えば、[[現世 (地球科学)|現世]]も含む[[新生代]]氷河期のうちの[[最終氷期]](ヴュルム氷期)。</ref>からの生き残りとされる生物と温暖地に生息する生物が共存しており、学術的にも貴重な池である。[[1927年]]([[昭和]]2年)6月14日に、[[植生#植物群落|植物群落]]が「深泥池水生植物群」として[[天然記念物#日本における天然記念物|国の天然記念物]]に指定され、その後、[[1988年]](昭和63年)に「深泥池生物群集」として[[生物群集]]全体に対象が広げられている。また、[[2002年]](平成14年)に発刊された[[京都府レッドデータブック]]には「[[要継続保護]]」として掲載されている<ref>{{Cite web |url=http://www.kyobunka.or.jp/isan/ten1.html |title=深泥池生物群集 - 京の自然遺産 |work=公式ウェブサイト |publisher=京都市文化観光資源保護財団 |accessdate=2008年11月9日}}</ref>。


深泥池は、その形態から、およそ1万年前までに、池の南西部にできた開析谷({{small|かいせきこく}})<ref group="*">台地の末端部分が断層活動や水流による侵食で、崖崩れが繰り返し発生してできた谷をいう。</ref>の出口が、[[鴨川 (淀川水系)|鴨川]](賀茂川)の扇状地堆積物([[砕屑物]])によって塞き止められ、[[自然堤防]]の原型が造り上がって、深泥池の形状を保ってきたと考えられている<ref name="ns2008_k5">[[#西村2008|西村2008]] p.52:『京都五億年の旅』(地学団体研究会京都支部、法律文化社、1979年)p.163</ref><ref name="kenkyukai">[http://mizoro.org/index.html 深泥池水生生物研究会 市民が誇れる京都最古の自然-深泥池-]</ref>。また、この時期の[[最終氷期]]の地層から、[[地質調査]]によって[[ミツガシワ]]の花粉が確認された。なお、この場所には自然堤防に加えて人工[[堤防]]が設けられている。[[1911年]](明治44年)1月に刊行された『京都府愛宕郡村志』<ref group="*">{{Cite book |和書 |year=1911 |title=京都府愛宕郡村志 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000427148-00 |publisher=京都府[[愛宕郡]] }}</ref>によれば「古代に於いて用水の為に造築」されており<ref>[[#京都地名3|京都地名3]] p.86</ref>、[[6世紀]]前後([[飛鳥時代]]半ば)に上述の自然堤防に人工堤防が増築されたものとされる{{r|ns2008_k5}}。
== 生息する動植物 ==
[[ミツガシワ]]や[[ホロムイソウ]]のような寒冷地に分布する[[植物]]や、[[ジュンサイ]]のような各地に自生するような植物、[[タヌキモ属|タヌキモ]] ([[w:Utricularia|en]]) や[[モウセンゴケ]]のような[[食虫植物]]、[[ヌマガヤ]]([[学名]]:''Moliniopsis japonica'')や[[イヌノハナゴケ]]といった[[湿原#高層湿原|高層湿原]]の構成種など、様々な植物が共存している。


== 歴史 ==
また、[[スジエビ]]、[[ヨシノボリ]]、[[クサガメ]]、[[ニホンイシガメ]]などといった[[動物]]も生息している。このほか、日本に分布する約200種の[[トンボ]]のうち約50種が生息しているという。[[1930年]](昭和5年)に日本で初めて[[ミズグモ]]が発見された場所であり、[[本州]]以南で数少ない生息地の一つである。
=== 名称 ===
{{Anchors|天長六年十月丙辰条}}
[[平安時代]]前期、[[菅原道真]]によって[[編纂]]された『[[類聚国史]]』に、[[淳和天皇]]が「'''泥濘池'''」なる所に[[行幸]]して鳥網({{small|とりあみ、とあみ}})を使って[[水鳥]]の[[狩猟|猟]]を行ったという記述があり、「[[wikt:en:泥濘む|泥濘]]{{sup|([[wikt:en:ぬかるむ|ぬかる]])}}む池」を意味するこの「泥濘池」が、現在ある「深泥池」と比定されている。現在知られている限り、この池の名称と思われる語の、これが初出(※記録上の最初)である。同書から引用した[[尾張藩]]編纂の『類聚日本後紀』巻第19 に所収の[[天長]]六年十月[[丙辰]]条(天長6年10月10日条、[[ユリウス暦]]換算:[[829年]][[11月9日]]の条)をここに示す。
{{Quotation|《 [[原文|原 文]] 》 {{small|※字は[[旧字体]]。[[約物]]は現代の補足。}}<br />天長六年 (...) 冬十月 (...) 丙辰幸泥濘池羅獵水鳥  ''──『類聚日本後紀』卷第十九 天長六年十月丙辰条'' <ref name="愛知館_類聚日本後紀">{{Cite web|和書|title=類聚日本後紀 |url=https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/50.html |publisher=[[愛知芸術文化センター]][[愛知県図書館]] |website=デジタルライブラリー(公式ウェブサイト) |accessdate=2019-07-25 }}</ref><hr />《[[原文#書き下し|書き下し文]]》 {{small|※字は[[新字体]]、文は[[文語体]]。[[振り仮名]]は[[歴史的仮名遣]]。読みの特定できない語は無記とする。}}<br />{{Ruby|天長|てんちやう}}六年(...略...)冬{{Ruby|十月|じふぐあつ}}(...略...){{Ruby|丙辰|ひのえたつ}}、泥濘池に{{Ruby|幸|みゆき}}し、{{Ruby|水鳥|みづどり}}を{{Ruby|羅|あみ}}で{{Ruby|猟|かり}}す。<hr />《[[原文#現代日本語訳|口語解釈例]]》 {{small|※文は[[口語]]体。角括弧[ ]内は補足文。振り仮名は[[現代仮名遣い]]。}}<br />{{Ruby|天長|てんちょう}}6年冬10月{{Ruby|[[丙辰]]|ひのえたつ}}[(計算上の[[旧暦]][[10月10日 (旧暦)|10月10日]]、ユリウス暦換算上の829年11月9日)]、[淳和天皇は]泥濘池に[[行幸]]し、{{Ruby|羅|ら(うすもの)}}[={{Ruby|鳥網|とりあみ}}]で{{Ruby|水鳥|みずどり}}の{{Ruby|猟|かり}}[=[[狩猟]]]をした。}}
{{Anchors|和泉式部}}
平安時代中期から後期にかけては、[[和泉式部]]が「'''みどろ池'''」の水鳥を[[和歌]]に詠んだほか、[[藤原実資]]の[[日記]]『[[小右記]]』には深泥池と比定される池の名「'''美度呂池'''」<ref>[[#京都地名3|京都地名3]] p.86:[[寛仁]]2年([[1018年]])11月25日条</ref>が記されている。以下に和泉式部の歌を記す。
{{Quotation|《[[旋頭歌]]》 名を聞けば 影だにみえじ みどろ池に すむ水鳥の あるぞあやしき  ''──和泉式部『和泉式部 續集』 第541首'' {{r|日経_20160415}}<hr />《解釈例》 その名を聞くと、濁っていて影さえ見えないだろうと思われる、そのようなみどろ池に棲む水鳥がいるなんて、不思議でならない。}}


{{Anchors|梁塵秘抄}}
=== 外来種の影響 ===
平安時代末期に編まれた歌謡集『[[梁塵秘抄]]』には以下のような記述があり、「'''御菩薩池'''」の名が見える。
[[ナガバオモダカ]](学名:''Sagittaria graminea''。[[cf#cf|''cf.'']] [[オモダカ属]])、[[キショウブ]]などの植物や、[[ブルーギル]]や[[オオクチバス]]、[[ワニガメ]]、[[アカミミガメ]]などの[[外来種]]が問題視されている。これらは繁殖力が強く、[[生態系]]に悪影響を与えているとされ、事実、[[メダカ]]や[[タモロコ]]など、いくつかの[[在来種]]が[[食物連鎖|食物網]](特に[[捕食-被食関係]])の変化によって姿を消している。また、[[北大路魯山人]]が「特別な優品」と評した[[ジュンサイ]]は、[[ルアーフィッシング]]の妨げになるとの事由によって刈り取られるなどされ、あまり見かけなくなってしまった時期もある。このため、定期的に地元の人や研究者によって在来種の調査や、外来種の駆除を行っている。
{{Quotation|《 [[原文|原 文]] 》 いづれか貴船へ参る道 賀茂川箕里御菩薩池御菩薩坂 畑井田篠坂や一二の橋 山川さらさら岩枕  ''──『梁塵秘抄』''<hr />《[[原文#書き下し|書き下し文]]》 いづれか{{Ruby|[[貴船]]|きぶね}}へ参る道、{{ruby|賀茂川|かもがわ}}、{{Ruby|箕里|みのさと}}、{{Ruby|御菩薩池|みどろいけ}}、御菩薩坂。{{Ruby|畑井田|はたいだ}}、{{Ruby|篠坂|しのさか}}や、一二の橋。山川さらさら岩枕。}}
{{Anchors|地蔵堂_画像}}[[ファイル:Midorogaike Jizodo.JPG|thumb|230px|深泥池地蔵堂/2代目地蔵尊が奉納されている。]]
この時期から、深泥池の畔は[[地蔵菩薩]][[信仰]]の[[霊場|霊地]](''cf.'' {{small|[[霊場#地蔵菩薩霊場]]}})となり、地蔵堂は「[[京都六地蔵|京の六地蔵]]廻り」の第一霊場として崇められるようになった{{r|日文研_都名所図会}}<ref group="*">六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の入り口にそれぞれ地蔵がおり、京都の境の街道口に祀られた六地蔵の巡る供養を行うことで、物故者が六道の流転から救われるとされた。</ref>。


[[室町時代]]中期に編纂された[[辞典]]『[[壒嚢鈔]]』の巻1の83「節分夜打大豆事」には「'''美曽路池'''(みぞろいけ)」の表記が見られる<ref>{{Cite book|author=行誉|title=壒嚢鈔|date=|year=1445|accessdate=|publisher=国文学研究資料館|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。室町時代後期の公家・[[甘露寺親長]]の日記『[[親長卿記]]』には「'''美曽呂池'''」の名が見える。同じく室町時代後期の[[洛中洛外図#上杉本|上杉本]]『[[洛中洛外図]]』には「'''みそろいけ'''」の西畔に「美曽呂関所」<ref group="*">[[鞍馬寺]]仁王門横の説明板によると、[[後醍醐天皇]]が[[鞍馬寺]]の僧に、[[足利尊氏]]軍の[[若狭国]]からの南下を阻止する命令を下したとされ、深泥池の畔の道が若狭へ通じる街道として通じていたことを示している。</ref>と、その横に「ぢさうたう」(地蔵堂)が描かれている<ref>[[#京都地名3|京都地名3]] p.87:『上杉家本「洛中洛外図」』(米沢市上杉博物館蔵)の「みそろ池」</ref>。
== アクセス ==
* 所在地 :[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]][[上賀茂]]深泥池町
; 鉄道
* {{color|#3a204b|■}}[[京都市営地下鉄]] {{color|#3cb371|■}}[[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]] {{color|#3cb371|■}}[[北山駅 (京都府)|北山駅]]から徒歩。
; 自動車道
* [[路線バス]]は、[[京都市営バス]]・[[京都バス]]ともに深泥池[[バス停留所|バス停]]から徒歩。


[[江戸時代]]初期の[[明暦]]4年/[[万治]]元年([[1658年]])に編まれた[[地誌]]『洛陽名所集』には「'''御菩薩池'''」と記されている。[[寛文]]5年([[1665年]])刊行の『扶桑京華志({{small|ふそうけいかし}})』には「御菩薩池 一に深泥池又御泥池と作る」とあり、「御菩薩池」に加えて「'''深泥池'''」「'''御泥池'''」という名称が現れている。[[貞享]]2年([[1685年]])刊行の地誌『京羽二重({{small|きょうはぶたえ}})』には「'''御菩薩池'''(みぞろいけ)」と記されている。
池の西側を走る道路の幅は1.5車線- 2車線程度と狭い割に交通量が多い。また、大型の路線バスも通行している。


{{Anchors|山州名跡志}}
; 近隣の名所・施設
江戸時代前期中には、[[正徳 (日本)|正徳]]元年([[1711年]])刊行の地誌『山州名跡志』で、昔の「'''美度呂池'''」を今は「'''美曾呂池'''」と呼んでいる旨が記されており、「'''御菩薩池'''(みぞろいけ)」「'''洫呂池'''(みぞろいけ)」「'''御ゾロ池'''」の名も見える。以下に『山州名跡志』所収の一例を示す。
* [[宝が池公園|宝が池(宝が池公園)]]、および、[[国立京都国際会館]]
{{Quotation|《 [[原文|原 文]] 》 ○{{Ruby|御菩薩池|ミゾロイケ}} 在{{sub|二}}幡枝南{{sub|一}}。名義未{{sub|レ}}見{{sub|二}}實記{{sub|一}}。或作{{sub|二}}{{Ruby|洫呂池|ミゾロイケ}}。傳云、往昔此池面に地藏菩薩現ずと、卽同所村の中に六地蔵の隨一を安置す。此故に稱すと云々。予未{{sub|レ}}考。又云、此池は木船神の領ずる處也、事は則彼社神秘義といふ。  ''──『山州名跡志』卷之六 愛宕郡 御菩薩池'' <ref name="NDL-Dc_山州名跡志_127">{{Cite web|和書|title=山州名跡志 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952774 |publisher=[[国立国会図書館]] |website=[[国立国会図書館#国立国会図書館デジタルコレクション|国立国会図書館デジタルコレクション]](公式ウェブサイト) |format=PDF |accessdate=2019-07-27 }}※該当ページのコマ番号は127/335。</ref><hr />《[[原文#書き下し|書き下し文]]》 ○{{Ruby|御菩薩池|みぞろいけ}} {{Ruby|幡枝|はたえだ}}[(=[[幡枝八幡宮]]で知られる地域)]の南にあり。実記に名義未だ見ず。{{Ruby|洫呂池|みぞろいけ}}__。伝へて云ふ、往昔此の池の面に[[地蔵菩薩]]現ずと、即ち同所村の中に[[六地蔵]]の随一を安置す。此れ故に称すと云々。__。又云ふ、此の池は木船神の領ずる処[(=[[深泥池貴舩神社]]の[[所領]]<ref name="木船神分霊" group="*" />)]なり、事は則ち彼の社の神秘の義といふ。}}
* [[鴨川 (淀川水系)|賀茂川]]、および、[[上賀茂神社]]
{{Quotation|《 原 文 》 ○美度呂池 在{{sub|二}}上賀茂東鞍馬大路傍{{sub|一}} 今呼{{sub|二}}美曾呂池{{sub|一}}  ''──『山州名跡志』''<hr />《書き下し文》 ○美度呂池 上賀茂の東の鞍馬大路の傍にあり、美曾呂池と今は呼ぶ。}}
* [[円通寺 (京都市)|円通寺]]

[[安永]]9年([[1780年]])刊行の地誌『[[都名所図会]]』巻の6 後玄武には、この池を描いた頁の見出しに「'''御菩薩池'''(みそろ{{small|か}}いけ)」とあり、下段には小さく「'''みぞろヶ池'''」とも記されている一方で、次頁の解説では「'''御菩薩池'''(みぞろいけ)」と記している<ref name="日文研_都名所図会">{{Cite web|和書|title=御菩薩池(深泥池)- 巻之六 後玄武再刻 - 都名所図会 |url=http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_522.html |publisher=[[国際日本文化研究センター]](日文研) |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-07-26 }}■画像あり。</ref><ref name="愚人_都名所図会">{{Cite web|和書|title=巻之六 後玄武 |url=https://sites.google.com/site/miyakomeisyo/home/maki-no-roku--go-genbu/yu-pu-sa-chi |publisher=個人(竹林の愚人) |website=都名所図会(個人ウェブサイト) |accessdate=2019-07-26 }}■画像あり。</ref>。池の畔には[[馬子]]や旅人と共に「地蔵堂」も描かれており、次頁の解説には「六地蔵廻りの其一なり」とある{{r|日文研_都名所図会}}。

『御影像谷祭禮縁起』の、[[文化 (元号)|文化]]8年([[1811年]])の写本には、「'''美曽呂池'''」「'''御泥池'''」の表記が見られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://hdl.handle.net/2433/1353|title=指定されたアイテムはリポジトリから取り下げられました。|accessdate=2022-11-14|publisher=京都大学附属図書館}}{{出典無効|date=2022年11月}}{{Retracted|intentional=yes}}</ref>。

このように、江戸時代の史料には前の時代に引き続いて「御菩薩池」とこれに類する名称が多く、長らく最も一般的な名称であったことが分かる<ref>[[#京都地名2|京都地名2]] p.312。</ref>。しかし明治時代初頭の[[神仏分離|神仏分離令]]と[[廃仏毀釈]]によって状況は一変する。地蔵堂周辺は (???-) [[賀茂別雷神社]](上賀茂神社)の[[所領]]であった (-???) ため<!--※2019年7月25日に編集を始める以前の文は「池周辺の地は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の所領であったため」で、明らかにおかしいので、「池周辺の地は」と小手先の逃げを打ってお茶を濁した状態にしましたが、そもそもこの地の古社だった秋葉神社が「神仏習合でけしからん!」ということで、上賀茂神社の社家に社を打ち壊されたという経緯があるのですが…。それに、深泥池は貴船神社の縁地のはず。上賀茂神社との繋がりは何処にあるのでしょうか。-->、[[神仏習合]]の下で[[地蔵菩薩]]もこの地で信仰され続けてきたのであるが、[[国家神道]]([[神社神道]])の構築の邪魔になる[[仏教]]系の信仰が[[神社]]と引き剥がされることを余儀なくされ、この地の地蔵菩薩の霊地は[[上善寺]]への遷座を強いられた<ref>[[#京都地名3|京都地名3]] p.89</ref>。そして、霊地の基であるべき地蔵菩薩の遷移によって「御菩薩池」という地名は実を失い。換わって「'''深泥池'''」という地名が用いられるようになったということである。

江戸時代の[[文人画|文人画家]]で[[書家]]の[[池大雅]]は、祖先の地・深泥池にちなんで「池」を名乗ったという{{r|日経_20160415}}。

=== 読み ===
[[ファイル:Midorogaike Jizodo2.JPG|thumb|right|220px|深泥池地蔵堂に掲げられる御詠歌額で、「みぞろ池」と記されている。]]
「深泥池」の読みは、「み'''ど'''ろ(が)いけ」「み'''ぞ'''ろ(が)いけ」の二通りが存在し、特段の統一がなされていない。京都市のサイトでは「み'''ぞ'''ろがいけ」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005655.html|title=深泥池|accessdate=2014-05-15}}</ref>、[[京都市交通局]]の市バス停留所名称では「み'''ど'''ろがいけ」<ref>[http://www.city.kyoto.jp/kotsu/busdia/keitou/kto/004.htm 京都市交通局 ハイパー市バスダイヤ 4号系統]</ref>と表記する一方で、京都府の公式ウェブサイトでは両方の読み方を併記している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/sur0077.html|title=深泥池|accessdate=2014年5月15日}}</ref>。歴史的にも上述の通り、それぞれの振り仮名が使われ、混用されていた。

『[[類聚国史]]』書中の「泥濘」について、観智院本『[[類聚名義抄]]』によると、古訓は「ミソコル」とされる。ミソは「溝」、一般的に人工水路を意味するが、もとは山中から谷に出てくる自然の流れのことを示した。「コル」は滞る意味の「凝」である。時代を経ていつしか水流が滞り、池の水が泥になった。『大日本地名辞書』(吉田東伍著、冨山房書店)には「御泥池 真泥(みどろ)の義也」と記されている。この「泥({{small|どろ}})」自体に着目するか、池古来の水流「溝({{small|みぞ}})」に着目するかの違いがもとで、両方の読みが残ったと考えられる<ref>[[#京都地名3|京都地名3]] pp.86-89</ref>。

[[文化庁]]に登録されている名称は「み'''ど'''ろがいけ」であり、付近の地名「上賀茂深泥池町」「松ケ崎深泥池端」も、「かみがもみ'''ど'''ろいけちょう」「まつがさきみ'''ど'''ろいけばた」と読む。一方、『京童』([[1658年]])<ref>[[#西村2008|西村2008]] p.109:『新修京都叢書1』(新修京都叢書刊行会、光彩社、1967年)p.65、『新修京都叢書1』(野間光辰、臨川書店、1967年)p.63</ref>、『都名所車』([[1714年]])<ref>[[#西村2008|西村2008]] pp.114-116:『新修京都叢書9』(新修京都叢書刊行会、光彩社、1968年)p.468、『新修京都叢書5』(野間光辰、臨川書店、1968年)p.514</ref>、『京城勝覧』([[1718年]])<ref>[[#西村2008|西村2008]] pp.114-116:『新修京都叢書5』(新修京都叢書刊行会、光彩社、1968年)p.485、『新修京都叢書12』(野間光辰、臨川書店、1971年)p.645</ref>、{{要出典|地蔵堂正面の御詠歌額(■右列に画像あり)からは、それぞれ「み'''ぞ'''ろ池」と記されていることから、地元では「み'''ぞ'''ろ(が)いけ」の読みで親しまれてきたことが分かる|date=2020年5月}}。

=== 信仰等 ===
{{節スタブ}}
かつて、池には[[八大竜王]]が祀られ、八池<ref group="*">八大竜王が勧請された[[貴船神社|貴船]]龍王の瀧、野中の清水、舟差、神供寺の池(干池)、大田の池(満池)、黒蛇池、新蛇池、御泥池の総称。(京都大学附属図書館所蔵「賀茂名所物語」より)</ref>のうちの一つに数えられていた<ref name="kamo-meisho-monogatari">{{Cite web|和書|url= https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006109#?c=0&m=0&s=0&cv=0&r=0&xywh=-1144%2C-115%2C5358%2C2275|title=京都大学学術情報リポジトリ 貴重資料画像 - 賀茂名所物語|accessdate=2018-08-15|publisher=[[京都大学|京都大学附属図書館]]}}</ref>。

[[室町時代]]の[[説経節]]『[[小栗判官]]』には、深泥池に[[大蛇]]が棲むという話がある<ref name="">{{Cite web|和書|author=本宮町商工会 |title=小栗判官を知っていますか? |url=http://www2.w-shokokai.or.jp/hongu/oguritokumano.html |publisher=和歌山県商工会連合会 |website=熊野本宮(公式ウェブサイト) |accessdate=2019-07-26 }}</ref>。

近現代においては、[[タクシー]]乗客の女性が突然消えた事件が[[新聞]]や[[週刊誌]]に取り上げられたこともある<ref name="京大coop_2004">{{Cite web|和書|author= |date=2004 |title=心冷スポット |url=http://www.s-coop.net/lifestage/backnumber/2004/pdf/0407_00-01.pdf |publisher=京都大学生活協同組合[https://www.s-coop.net/] |website=『らいふすてーじ』公式ウェブサイト |format=PDF |accessdate=2019-07-26 }}</ref><ref>[http://b-spot.seesaa.net/article/19237729.html 日本珍スポット100景-B級スポット観光ガイド- 京都最大の心霊スポット「深泥池」【京都】]{{リンク切れ|date=2019年7月}}</ref><ref>[http://rumor-forest.net/index.php?ID=902 噂の杜 深泥池]{{リンク切れ|date=2016年3月}}</ref><ref>朝日新聞 1969年(昭和44年)10月7日付</ref>。

== 深泥池生物群集 ==
[[最終氷期]]からの生き残りとされる生物と、温暖地に生息する生物が共存しており、学術的にも貴重な池として著名である。

[[1927年]]([[昭和]]2年)6月14日に、[[植生#植物群落|植物群落]]が「深泥池水生植物群」として[[天然記念物#日本における天然記念物|国の天然記念物]]に指定され、その後、[[1988年]](昭和63年)に「深泥池生物群集」として[[生物群集]]全体に対象が広げられている。また、[[2002年]]([[平成]]14年)に発刊された[[京都府レッドデータブック]]には「要継続保護」として掲載されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyobunka.or.jp/isan/ten1.html |title=深泥池生物群集 - 京の自然遺産 |publisher=京都市文化観光資源保護財団 |accessdate=2008-11-09}}</ref>。

== 生物相 ==
{{Anchors|生息する動植物}}
=== 浮島と高層湿原(ミズゴケ湿原) ===
[[ファイル:Midorogaoke2 Kyoto,JAPAN.jpg|thumb|250px|深泥池に広がる高層湿原]]
深泥池の南側から水域を隔てた池の中央部分に、池全体の3分の1を占める[[浮島]]が存在する。この下には水の流れがあり、島が池に浮いていることが確認されている。この浮島は、標高が水面とほぼ等しいほか、[[窒素]]や[[リン]]などの[[ミネラル|無機塩類]]がほとんど含まれない貧栄養性の[[湿原]]が広がる。ここでは有機物の分解が進まず、枯死した植物が堆積していくために、[[コケ植物|コケ類]]を始め多様な植物が生育する絶好の場となっている{{r|kenkyukai}}。

浮島は夏になると浮かび上がり、冬には沈んで冠水する動きを見せる。この特徴により、多様な植物が生育している<ref name="bunka">{{PDFlink|[http://www.kyobunka.or.jp/gaiyou/shiseki_pdf/midorogaike.pdf 京都市文化市民局 深泥池]}}</ref>。[[ミツガシワ]]や[[ホロムイソウ]]のような寒冷地に分布する植物や、[[ジュンサイ]]のような各地に自生する植物、[[タヌキモ属|タヌキモ]] ([[w:Utricularia|en]]) や[[モウセンゴケ]]のような[[食虫植物]]、[[オオミズゴケ]]、[[ハリミズゴケ]]、[[ヌマガヤ]]([[学名]]:''Moliniopsis japonica'')、[[イヌノハナゴケ]]といった[[湿原#低層と高層|高層湿原]](ミズゴケ湿原)の構成種が共存している<ref name="府_rdb2015">{{Cite web|和書|author=京都府 環境部 自然環境保全課 |date=2015 |title=深泥池 - 京都府レッドデータブック2015 |url=https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/sur0077.html |publisher=京都府 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-07-29 }}</ref><ref name="MOE_重要湿地">{{Cite web|和書|author=環境省 自然環境局 自然環境計画課 |date= |title=「重要湿地」 No.321 深泥池湿地 - 生物多様性保全上重要な湿地 |url=https://www.env.go.jp/nature/important_wetland/wetland/w321.html |publisher=[[環境省]] |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-07-29 }}</ref>。

約60種もの[[トンボ]]が生息しており、これは、日本に分布するトンボが約200種いるなかでその4分の1以上が当地域に分布していることを意味する。また、[[フナ]]、[[ヨシノボリ]]、[[スジエビ]]、[[クサガメ]]、[[ニホンイシガメ]]などの池に生息する動物や、[[ヒドリガモ]]や[[ルリビタキ]]を始めとした、晩冬期を中心に170種の野鳥の飛来が確認されている<ref>出典は鳥類のみ。{{Cite web|和書|title=京都自然観察地ミニガイド |url=http://ecol.zool.kyoto-u.ac.jp/homepage/serow/essays/miniguide.html |publisher=京都大学大学院理学研究科 動物生態学研究室 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-07-29 }}</ref>。[[1930年]](昭和5年)には、日本で初めて[[ミズグモ]]が発見されるなど、希少動物にとっての数少ない生息地でもある<ref name="kenkyukai2">[http://mizoro.org/index.html 深泥池水生生物研究会 深泥池周辺に住んでる生き物たち]</ref>。

=== 池の周囲 ===
[[ファイル:Midorogaike02.JPG|thumb|250px|深泥池畔に咲く白いカキツバタ]]
春になると[[ミツガシワ]]の白い花が咲く中を、[[ニホンミツバチ]]や[[ハナアブ]](ハナダカマガリモンハナアブ)が、花粉や蜜を食べながら送粉の役割を果たして飛び回る。5月には主に白色の[[カキツバタ]]<ref group="*">「[[大田神社 (京都市)#大田ノ沢のカキツバタ群落|大田ノ沢のカキツバタ群落]]」にて紫色の花をつけるカキツバタとは対照的である。</ref>や赤色の[[トキソウ]]が、秋には青色の[[サワギキョウ]]が咲き競う{{r|kenkyukai|府_rdb2015}}。また、池の集水域となる周辺の山々には、[[コナラ]]、[[アベマキ]]などの落葉樹、[[アカマツ]]などの常緑樹による林が形成されている{{r|bunka}}。

=== 外来種の影響 ===
[[ナガバオモダカ]]、[[キショウブ]]などの植物や、[[ブルーギル]]、[[オオクチバス]]、[[カムルチー]]、[[アカミミガメ]]、カダヤシなどの[[外来種]]が問題視されている。これらは繁殖力が強く、[[生態系]]に悪影響を与えているとされ、[[メダカ]]や[[タモロコ]]など、いくつかの[[在来種]]が[[食物連鎖|食物網]](特に[[捕食-被食関係]])の変化によって姿を消している{{r|kenkyukai2}}<ref>[http://net1010.net/2010/06/post_1828.php 京都九条山 自然観察日記 キショウブ]</ref>。

また、[[北大路魯山人]]が「京の洛北深泥池の産が飛切りである。これは特別な優品」と評した[[ジュンサイ]]は、初夏から秋にかけて暗紅紫色の花を咲かせる。かつて、深泥池の[[水質汚濁|水質悪化]]、[[外来種]]植物の繁殖が影響したほか、[[ルアーフィッシング]]の妨げになると刈り取られたことから、ほとんど見られなくなった時期もあった。このため、地元住民や研究者らが、定期的に在来種の調査や外来種の駆除を行うなど、生物群集の生育に適した水質改善に取り組んでいる<ref name="asahi">[http://www.asahi.com/eco/OSK201002050035.html 朝日新聞社2010年2月25日「魯山人絶賛のジュンサイ、再生 京都・深泥池、環境改善」]</ref>。

観賞用の水草として知られる外来種の食虫植物[[タヌキモ科|オオバナイトタヌキモ]]が、[[2000年]](平成12年)ごろに浮島の一部で確認され、その後急速に生息域を拡大させている。人の手で池に持ち込まれた可能性が高く、[[2012年]](平成24年)夏には池の水面を10[[センチメートル]]の厚さで覆いつくすほどにまで繁殖した。後述の「深泥池水生生物研究会」によって調査と駆除が試みられているが、まだ十分な効果は上がっていない。水草の水面増殖により日光が遮断されて水中まで届かず、酸素濃度の低下を招くことによる生態系への悪影響が懸念される<ref>「深泥池、外来水草が繁殖」『京都新聞』2013年6月10日付朝刊。</ref>。


== 特記事項 ==
== 特記事項 ==
[[ファイル:Midorogaike01.JPG|thumb|250px|深泥池に沿う市道岩倉上賀茂線]]
=== 心霊スポット ===
[[怪談]]や[[超常現象|怪奇現象]]の舞台として有名な土地であり、古より現代に到るまで、様々な話が[[伝承]]されている。現代的感覚では、全国的に有名な[[心霊スポット]]である。また、{{要出典範囲|この地はタクシー怪談の起源として知られている|date=2010年5月}}。<!--起源について、検証可能性を満たすソースを提示ください。-->


== 脚注・出典 ==
=== 道路拡幅計画 ===
深泥池の北西側に沿って延びる市道岩倉上賀茂線は交通量が多いものの狭隘な道路であり、[[1985年]](昭和60年)、[[左京区]][[岩倉 (京都市)|岩倉]]地域住民らにより道路整備が望まれた。この請願申請が京都市会へ提出されたことにより、[[1990年]](平成2年)に池を埋立てて道路拡幅を行う計画が持ち出され、深泥池やその周囲の自然環境をどう保全するかの論議が湧きおこった。京都市は「都市計画実現上の大きな課題となる『天然記念物深泥池』に影響するため、存続することは困難」と評価している<ref>{{PDFlink|[https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000090/90165/2.3.113-1.pdf 都市計画道路 評価カルテ 路線名:Ⅱ・Ⅲ・113 岩倉上賀茂線 平成22年3月26日]}} {{リンク切れ|date=2013年8月}}</ref><ref name="kyotonp">[http://www.kyoto-np.co.jp/kp/cop3/net/net20.html 京都新聞社 広がれ環境ネット<20>深泥池を守る会]</ref>。その後2011年4月2日に計画の見直しが行われ、市道岩倉上賀茂線の都市計画は廃止された<ref>[http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/page/0000099694.html 都市計画道路網の見直しに関する都市計画道路の変更(廃止)について]京都市 2017年10月16日閲覧。</ref>。なお、[[1997年]](平成9年)に京都市が地元の地権者から池を買い上げている{{r|asahi}}<ref>[http://everkyoto.web.fc2.com/report11.html 京都鴨川風光 深泥池]</ref>。

=== 市民団体 ===
[[1965年]](昭和40年)以来、地元住民を中心とする「'''深泥池を美しくする会'''」が環境保護に資する活動を続けている。1990年(平成2年)には、上述の道路拡幅計画を反対する立場から「'''深泥池を守る会'''」{{r|kyotonp}}が、[[1998年]](平成10年)には、外来種の調査捕獲や植生管理をする「'''深泥池水生生物研究会'''」(当初は「深泥池水生動物研究会」)が相次いで発足した{{r|kenkyukai}}。

== 交通アクセス ==
; 鉄道
: {{Color|#3cb371|■}}[[京都市営地下鉄]] {{Color|#3cb371|■}}[[京都市営地下鉄烏丸線|烏丸線]] {{Color|#3cb371|●}}[[北山駅 (京都府)|北山駅]]で下車し、2番出口より北へ徒歩10~15分。
; 道路
: {{Color|darkseagreen|■}}[[京都市営バス]] {{Color|blue|■}}4号系統(均一系統。2コースある『上賀茂神社前発・京都駅前着』のいずれでも経由する)
::: ●深泥池バス停留所<ref group="gm">深泥池バス停留所({{googlemap|深泥池バス停留所}}) ※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref>を下車し、北へ徒歩3分(信号のある交差点<ref name="府道40x130">[https://www.google.com/maps/place/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BA%9C%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82+%E5%BA%9C%E9%81%93103%E5%8F%B7/@35.0566334,135.7667697,21z/data=!4m5!3m4!1s0x600108339c76d643:0xc537a85023ea80a!8m2!3d35.0547163!4d135.7671194 府道40号・103号交差点]</ref>をさらに進み、突き当りの交差点で到着。東に見える)。
: {{Color|maroon|■}}[[京都バス]] {{Color|blue|■}}45・46系統
::: ●深泥池バス停留所を下車し、北へ徒歩約3分。
: {{Color|blue|■}}[[京都府道40号下鴨静原大原線]](一部は旧・鞍馬街道)
::: 遠く[[大原 (京都市)|大原]]から回り込んで北から深泥池の西畔地域へ繋がる。鞍馬寺・貴船神社方面から延びる[[京都府道38号京都広河原美山線|府道38号]](一部は旧・鞍馬街道)とはかなり北に位置する[[市原]]付近で合流する。
: {{Color|blue|■}}[[京都府道103号上賀茂山端線]](一部は旧・鞍馬街道)
::: 西にある[[御薗橋]]・[[上賀茂神社]][[門前町]]方面からはおおよそ真東へ進み、[[京都府道40号下鴨静原大原線|府道40号]]の終点に当たる交差点{{r|府道40x130}}で左折して40号に入ってすぐ。下鴨中通りからはひたすら真北へ低い山が迫る所まで走り、信号のある交差点{{r|府道40x130}}で103号は西へ折れ曲がるが、まっすぐ進んで40号に入ればすぐ。
: {{Color|darkgray|■}}幡枝本通り
::: 北東にある[[岩倉 (京都市)|岩倉]]方面から南西にある深泥池の北畔へ繋がる。
; 補足
:* 駐車場 - 無し。

== 周辺情報 ==
; 上賀茂狭間町内・上賀茂深泥池町内
* [[#鞍馬街道|鞍馬街道]](鞍馬大路)
:: [[平安京|平安]][[遷都]]の頃からの古[[街道]]で、[[御所]]と[[鞍馬寺]]を結び、山城国から[[丹波国]]・[[若狭国]]まで延びていた。深泥池付近では[[京都府道40号下鴨静原大原線|府道40号]]が旧・鞍馬街道にあたる。
* [[深泥池貴舩神社]]
:: 深泥池の[[氏神]]神社。住所は上賀茂深泥池町53。<ref group="gm">深泥池貴舩神社({{googlemap|深泥池貴舩神社}}) ※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref> 元の氏神神社は[[貴船神社]]。
* [[秋葉神社 (京都市北区上賀茂深泥池町)|秋葉神社]](あきばじんじゃ)
:: 深泥池にある古社。<!--※住所は不明。-->[[すぐき]]の発祥地ともされており、参道には「すぐきの神様秋葉神社の縁起碑」がある<ref name="碑像map">{{Cite web|和書|date=2012-02-19 |title=すぐきの神様秋葉神社の縁起碑 |url=http://hizou.30maps.com/map/2022 |publisher= |website=碑像マップ(非公式ウェブサイト) |accessdate=2019-07-29 }}※碑文が読める。</ref>。<ref group="gm">深泥池 秋葉神社({{googlemap|深泥池秋葉神社}}) ※該当施設は拡大していって初めて青色系でスポット表示される。文字表記は「秋葉神社(すぐきの神様)」</ref>
* 深泥池地蔵堂
:: 明治時代初期に遷座してしまった古来の深泥池地蔵堂に換わって再興された地蔵堂。住所は上賀茂深泥池町46。■右列に[[#地蔵堂_画像|画像]]あり。<ref group="gm">深泥池地蔵堂({{googlemap|深泥池地蔵堂}}) ※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref>
; 隣接地域
* 深泥池児童公園
:: 南の岸辺に隣接した畔にあり、池に最も近い施設といえる。住所は上賀茂池端町11。<ref group="gm">深泥池児童公園({{googlemap|深泥池児童公園}}) ※該当施設は緑色の文字でスポット表示される。</ref>
* [[福祉施設]]のエリア
:: 北畔の谷間は複数の福祉施設が立地する区域となっている。住所は上賀茂ケシ山1。京都[[京都博愛会病院|博愛会病院]]は、現在地にて[[1928年]](昭和3年)12月に設立された[[結核]]療養所「京都保養院」を前身とする<ref name="京博院_史">{{Cite web |title=沿革 |url=https://www.kyoto-hakuaikai.or.jp/hakuai/about/history/ |publisher=京都博愛会病院 |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-07-29 }}</ref><ref group="gm">京都博愛会病院({{googlemap|京都博愛会病院}}) ※該当施設は赤色でスポット表示される。</ref>。昔の学術的図説では「病院」側などと記されている。介護付有料老人ホーム 京都ヴィラは、[[1985年]](昭和60年)7月1日開設<ref>{{Cite web |title=概要 |url=http://www.kyoto-villa.com/about.html |publisher=介護付有料老人ホーム 京都ヴィラ |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-07-29 }}</ref>。特別養護老人ホーム ユーカリの里は[[2000年]](平成12年)2月設立<ref>{{Cite web|和書|title=特別養護老人ホーム ユーカリの里 |url=https://kyoto-srk.jp/shisetsu_ichiran/006.html |publisher=京都市老人福祉施設協議会(市老協) |website=公式ウェブサイト |accessdate=2019-07-29 }}</ref>。
* [[賀茂別雷神社]](上賀茂神社)
:: 山で隣接している、全国的に有名な神社。住所(社務所所在地)は上賀茂本山339。この神社の山(上賀茂本山)とケシ山と深泥池とに挟まれた谷間に深泥池の集落がある。
; 他地域
* [[大田神社_(京都市)|大田神社]] - 住所(社務所所在地)は上賀茂本山340。
* [[上賀茂本通]]
* [[円通寺 (京都市左京区)|円通寺]] - [[左京区]]岩倉幡枝町389に所在。
* [[宝が池公園]] - 左京区上高野流田町8周辺に所在。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
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=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|group="*"}}
; Googleマップ
{{Reflist|group="gm"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book |和書 |editor=京都地名研究会 |year=2007 |title=京都の地名検証2 |publisher=[[勉誠出版]] |isbn=978-4-585-05139-8 |ref=京都地名2 }}
* {{Cite book |和書 |editor=西村勁一郎編 |year=2008 |title=探訪 京都・上賀茂と二つの鞍馬街道-その今昔 |publisher=西村勁一郎 |isbn=978-4-99-041980-6 |ref=西村2008 }}
* {{Cite book |和書 |editor=京都地名研究会 |year=2010 |title=京都の地名検証3 |publisher=勉誠出版 |isbn=978-4-58-522000-8 |ref=京都地名3 }}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Col-begin}}
{{Col-break}}
=== 深泥池生物群集 ===
{{commonscat|Midorogaike}}
* [[日本の湖沼一覧]]
* [[日本の湖沼一覧]]
* [[浮島]]
* [[植生#植物群落]] / [[天然記念物#日本における天然記念物]]
* [[水草|湿地性植物]]
* [[植生#植物群落|植物群落]]
* [[天然記念物#日本における天然記念物|日本における天然記念物]]
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/1662 文化庁 国指定文化財等データベース 深泥池生物群集]
* {{Cite web |url=http://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/sur0077.html
* [https://www.pref.kyoto.jp/select200/animal24.html 京都府 京都の自然200選 水生生物(ミズグモ、水生植物等)が群生し、カモ等の水鳥の飛来する深泥池]
|title=深泥池 - 京都府レッドデータブック
* [https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/geo/db/sur0077.html 京都府レッドデータブック 深泥池]
|work=公式ウェブサイト |publisher=京都府
* [http://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/eco/rs/rs02.html 京都府レッドデータブック 深泥池の花粉分析試料に含まれる微粒炭に見る人と植生の関わりの歴史]
|accessdate=2008年3月13日}}
* [http://www.city.kyoto.lg.jp/bunshi/page/0000005655.html 京都市情報館 文化市民局 文化財保護課 深泥池]
* {{Cite web |author=竹門康弘、高井利憲
* [http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=4&ManageCode=7000060 京都観光Navi 深泥池]
|url=http://www.jca.apc.org/~non/ |title=深泥池水生生物研究会
* [http://www.kyobunka.or.jp/isan/ten1.html 京都市文化観光資源保護財団 京の自然遺産 深泥池生物群集]
|work=公式ウェブサイト |publisher=深泥池水生生物研究会
* [http://mizoro.org/index.html 深泥池水生生物研究会]
|accessdate=2008年4月22日}}
* {{Cite journal|和書|author=深泥池団体研究グループ |date=1976-01 |title=深泥池の研究(1)|url=https://doi.org/10.15080/agcjchikyukagaku.30.1_15 |publisher = 地学団体研究会 |journal = 地球科学 |volume = 30 |issue = 1 |pages = 15-38 |doi=10.15080/agcjchikyukagaku.30.1_15}}※図説も多い。

{{japan-geo-stub}}


{{日本の湖沼}}
{{DEFAULTSORT:みそろかいけ}}
{{ウィキ座標2段度分秒|35|3|28|N|135|46|7.4|E|region:JP|display=title}}
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みとろかいけ}}
[[Category:日本の池]]
[[Category:日本の池]]
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[[Category:近畿地方の湖]]
[[Category:京都市の地理]]
[[Category:無脊椎動物天然記念物]]
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[[Category:無脊椎動物天然記念物]]
[[Category:植物天然記念物]]
[[Category:植物天然記念物]]
[[Category:京都府にある国指定の天然記念物]]
[[Category:京都府の地形]]
[[Category:京都市北区の地理]]
[[Category:山城国]]

2024年12月11日 (水) 17:44時点における最新版

深泥池
南の畔から北東に控える裏山の一つ「高山」を望む。手前には国の天然記念物に指定されている深泥池生物群集が見える。
深泥池の位置
深泥池の位置
深泥池
深泥池の位置/京都盆地の北端部の、小さい山々が少し出張った所の隙間にある。

深泥池(みどろがいけ[1]、みぞろがいけ[1]別表記深泥ケ池)は、日本近畿地方中北部の京都盆地北端部に所在する、湿地からなる地形である。全水域と西の畔は現在行政上の京都府京都市北区上賀茂狭間町(かみがもはざまちょう)[gm 1](かつての京都府愛宕郡上賀茂村の東端[2]江戸時代における山城国愛宕郡上加茂村近傍、幕藩体制下の城州上加茂村近傍の深泥池貴舩神社[* 1][3])に属する。

上賀茂狭間町の西に位置する上賀茂深泥池町(かみがもみどろいけちょう)[gm 2]は、深泥池と接していないが、歴史上でも行政上でも深く関わっている。

概要

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池の総面積は約9.2ヘクタールで、周囲は約1,540メートル[4]。池の中央には浮島が存在する(※地図には掲載されない)。今も昔も流入河川は無いが、1927年昭和2年)6月[5]に松ケ崎浄水場[gm 3]cf. 京都市上下水道局#浄水場)ができて以降はその配水池より若干の漏水が流入している[6]

北側をケシ山(標高177メートル)、東側を高山(標高179メートル[2])と池に突き出した半島状のチンコ山[2]、南側を西山(標高135メートル[2])と、池は標高200メートルに達しない丘陵地に三方を囲まれた低地にあり、南西端のみが平地に開けていて、広大な京都盆地に繋がっている[2]。西側にはまた別の山地(上賀茂本山[gm 4]の山)の東端が迫っているため、畔の平地部は狭い。畔にあるそのわずかな平地には、昔から寺社のほか民家もいくらかあったが、今では家々がぎっしりと立ち並んでいる[2]西側の平地には平安遷都の頃から鞍馬街道(鞍馬大路)が南北に通っていた[7]。この街道は、平安京と丹波国を結ぶ物流の道で、いずれも深泥池から見ておおよそ真北の山奥にあって風水上の北方守護の要であった鞍馬寺と遷都以前からあった貴船神社へ延びる参詣道でもあった。現在は分割されて府道40号の一部や府道103号の一部が旧・鞍馬街道に相当しており、深泥池の直近では40号が走る(※各道路の繋がりは『交通アクセス』節に詳しい)。東は松ケ崎大谷町[gm 5]、南は松ケ崎深泥池端町[gm 6]と松ケ崎西山町[gm 7]の、共に山麓と接しており、これらの山の頂付近には深泥池に面した古墳群がある。高山を挟んで深泥池の東向こうには宝ヶ池(江戸時代に造成された溜池)がある。

深泥池は、その形態から、およそ1万年前までに、池の南西部にできた開析谷(かいせきこく[* 2]の出口が、鴨川(賀茂川)の扇状地堆積物(砕屑物)によって塞き止められ、自然堤防の原型が造り上がって、深泥池の形状を保ってきたと考えられている[8][9]。また、この時期の最終氷期の地層から、地質調査によってミツガシワの花粉が確認された。なお、この場所には自然堤防に加えて人工堤防が設けられている。1911年(明治44年)1月に刊行された『京都府愛宕郡村志』[* 3]によれば「古代に於いて用水の為に造築」されており[10]6世紀前後(飛鳥時代半ば)に上述の自然堤防に人工堤防が増築されたものとされる[8]

歴史

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名称

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平安時代前期、菅原道真によって編纂された『類聚国史』に、淳和天皇が「泥濘池」なる所に行幸して鳥網(とりあみ、とあみ)を使って水鳥を行ったという記述があり、「泥濘ぬかるむ池」を意味するこの「泥濘池」が、現在ある「深泥池」と比定されている。現在知られている限り、この池の名称と思われる語の、これが初出(※記録上の最初)である。同書から引用した尾張藩編纂の『類聚日本後紀』巻第19 に所収の天長六年十月丙辰条(天長6年10月10日条、ユリウス暦換算:829年11月9日の条)をここに示す。

《 原 文 》 ※字は旧字体約物は現代の補足。
天長六年 (...) 冬十月 (...) 丙辰幸泥濘池羅獵水鳥  ──『類聚日本後紀』卷第十九 天長六年十月丙辰条 [11]
書き下し文》 ※字は新字体、文は文語体振り仮名歴史的仮名遣。読みの特定できない語は無記とする。
天長てんちやう六年(...略...)冬十月じふぐあつ(...略...)丙辰ひのえたつ、泥濘池にみゆきし、水鳥みづどりあみかりす。
口語解釈例》 ※文は口語体。角括弧[ ]内は補足文。振り仮名は現代仮名遣い
天長てんちょう6年冬10月丙辰ひのえたつ[(計算上の旧暦10月10日、ユリウス暦換算上の829年11月9日)]、[淳和天皇は]泥濘池に行幸し、ら(うすもの)[=鳥網とりあみ]で水鳥みずどりかり[=狩猟]をした。

平安時代中期から後期にかけては、和泉式部が「みどろ池」の水鳥を和歌に詠んだほか、藤原実資日記小右記』には深泥池と比定される池の名「美度呂池[12]が記されている。以下に和泉式部の歌を記す。

旋頭歌》 名を聞けば 影だにみえじ みどろ池に すむ水鳥の あるぞあやしき  ──和泉式部『和泉式部 續集』 第541首 [1]
《解釈例》 その名を聞くと、濁っていて影さえ見えないだろうと思われる、そのようなみどろ池に棲む水鳥がいるなんて、不思議でならない。

平安時代末期に編まれた歌謡集『梁塵秘抄』には以下のような記述があり、「御菩薩池」の名が見える。

《 原 文 》 いづれか貴船へ参る道 賀茂川箕里御菩薩池御菩薩坂 畑井田篠坂や一二の橋 山川さらさら岩枕  ──『梁塵秘抄』
書き下し文》 いづれか貴船きぶねへ参る道、賀茂川かもがわ箕里みのさと御菩薩池みどろいけ、御菩薩坂。畑井田はたいだ篠坂しのさかや、一二の橋。山川さらさら岩枕。

深泥池地蔵堂/2代目地蔵尊が奉納されている。

この時期から、深泥池の畔は地蔵菩薩信仰霊地cf. 霊場#地蔵菩薩霊場)となり、地蔵堂は「京の六地蔵廻り」の第一霊場として崇められるようになった[13][* 4]

室町時代中期に編纂された辞典壒嚢鈔』の巻1の83「節分夜打大豆事」には「美曽路池(みぞろいけ)」の表記が見られる[14]。室町時代後期の公家・甘露寺親長の日記『親長卿記』には「美曽呂池」の名が見える。同じく室町時代後期の上杉本洛中洛外図』には「みそろいけ」の西畔に「美曽呂関所」[* 5]と、その横に「ぢさうたう」(地蔵堂)が描かれている[15]

江戸時代初期の明暦4年/万治元年(1658年)に編まれた地誌『洛陽名所集』には「御菩薩池」と記されている。寛文5年(1665年)刊行の『扶桑京華志(ふそうけいかし)』には「御菩薩池 一に深泥池又御泥池と作る」とあり、「御菩薩池」に加えて「深泥池」「御泥池」という名称が現れている。貞享2年(1685年)刊行の地誌『京羽二重(きょうはぶたえ)』には「御菩薩池(みぞろいけ)」と記されている。

江戸時代前期中には、正徳元年(1711年)刊行の地誌『山州名跡志』で、昔の「美度呂池」を今は「美曾呂池」と呼んでいる旨が記されており、「御菩薩池(みぞろいけ)」「洫呂池(みぞろいけ)」「御ゾロ池」の名も見える。以下に『山州名跡志』所収の一例を示す。

《 原 文 》 ○御菩薩池ミゾロイケ 在幡枝南。名義未實記。或作洫呂池ミゾロイケ。傳云、往昔此池面に地藏菩薩現ずと、卽同所村の中に六地蔵の隨一を安置す。此故に稱すと云々。予未考。又云、此池は木船神の領ずる處也、事は則彼社神秘義といふ。  ──『山州名跡志』卷之六 愛宕郡 御菩薩池 [3]
書き下し文》 ○御菩薩池みぞろいけ 幡枝はたえだ[(=幡枝八幡宮で知られる地域)]の南にあり。実記に名義未だ見ず。洫呂池みぞろいけ__。伝へて云ふ、往昔此の池の面に地蔵菩薩現ずと、即ち同所村の中に六地蔵の随一を安置す。此れ故に称すと云々。__。又云ふ、此の池は木船神の領ずる処[(=深泥池貴舩神社所領[* 1])]なり、事は則ち彼の社の神秘の義といふ。
《 原 文 》 ○美度呂池 在上賀茂東鞍馬大路傍 今呼美曾呂池  ──『山州名跡志』
《書き下し文》 ○美度呂池 上賀茂の東の鞍馬大路の傍にあり、美曾呂池と今は呼ぶ。

安永9年(1780年)刊行の地誌『都名所図会』巻の6 後玄武には、この池を描いた頁の見出しに「御菩薩池(みそろいけ)」とあり、下段には小さく「みぞろヶ池」とも記されている一方で、次頁の解説では「御菩薩池(みぞろいけ)」と記している[13][16]。池の畔には馬子や旅人と共に「地蔵堂」も描かれており、次頁の解説には「六地蔵廻りの其一なり」とある[13]

『御影像谷祭禮縁起』の、文化8年(1811年)の写本には、「美曽呂池」「御泥池」の表記が見られる[17]

このように、江戸時代の史料には前の時代に引き続いて「御菩薩池」とこれに類する名称が多く、長らく最も一般的な名称であったことが分かる[18]。しかし明治時代初頭の神仏分離令廃仏毀釈によって状況は一変する。地蔵堂周辺は (???-) 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の所領であった (-???) ため、神仏習合の下で地蔵菩薩もこの地で信仰され続けてきたのであるが、国家神道神社神道)の構築の邪魔になる仏教系の信仰が神社と引き剥がされることを余儀なくされ、この地の地蔵菩薩の霊地は上善寺への遷座を強いられた[19]。そして、霊地の基であるべき地蔵菩薩の遷移によって「御菩薩池」という地名は実を失い。換わって「深泥池」という地名が用いられるようになったということである。

江戸時代の文人画家書家池大雅は、祖先の地・深泥池にちなんで「池」を名乗ったという[1]

読み

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深泥池地蔵堂に掲げられる御詠歌額で、「みぞろ池」と記されている。

「深泥池」の読みは、「みろ(が)いけ」「みろ(が)いけ」の二通りが存在し、特段の統一がなされていない。京都市のサイトでは「みろがいけ」[20]京都市交通局の市バス停留所名称では「みろがいけ」[21]と表記する一方で、京都府の公式ウェブサイトでは両方の読み方を併記している[22]。歴史的にも上述の通り、それぞれの振り仮名が使われ、混用されていた。

類聚国史』書中の「泥濘」について、観智院本『類聚名義抄』によると、古訓は「ミソコル」とされる。ミソは「溝」、一般的に人工水路を意味するが、もとは山中から谷に出てくる自然の流れのことを示した。「コル」は滞る意味の「凝」である。時代を経ていつしか水流が滞り、池の水が泥になった。『大日本地名辞書』(吉田東伍著、冨山房書店)には「御泥池 真泥(みどろ)の義也」と記されている。この「泥(どろ)」自体に着目するか、池古来の水流「溝(みぞ)」に着目するかの違いがもとで、両方の読みが残ったと考えられる[23]

文化庁に登録されている名称は「みろがいけ」であり、付近の地名「上賀茂深泥池町」「松ケ崎深泥池端」も、「かみがもみろいけちょう」「まつがさきみろいけばた」と読む。一方、『京童』(1658年[24]、『都名所車』(1714年[25]、『京城勝覧』(1718年[26]地蔵堂正面の御詠歌額(■右列に画像あり)からは、それぞれ「みろ池」と記されていることから、地元では「みろ(が)いけ」の読みで親しまれてきたことが分かる[要出典]

信仰等

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かつて、池には八大竜王が祀られ、八池[* 6]のうちの一つに数えられていた[27]

室町時代説経節小栗判官』には、深泥池に大蛇が棲むという話がある[28]

近現代においては、タクシー乗客の女性が突然消えた事件が新聞週刊誌に取り上げられたこともある[29][30][31][32]

深泥池生物群集

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最終氷期からの生き残りとされる生物と、温暖地に生息する生物が共存しており、学術的にも貴重な池として著名である。

1927年昭和2年)6月14日に、植物群落が「深泥池水生植物群」として国の天然記念物に指定され、その後、1988年(昭和63年)に「深泥池生物群集」として生物群集全体に対象が広げられている。また、2002年平成14年)に発刊された京都府レッドデータブックには「要継続保護」として掲載されている[33]

生物相

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浮島と高層湿原(ミズゴケ湿原)

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深泥池に広がる高層湿原

深泥池の南側から水域を隔てた池の中央部分に、池全体の3分の1を占める浮島が存在する。この下には水の流れがあり、島が池に浮いていることが確認されている。この浮島は、標高が水面とほぼ等しいほか、窒素リンなどの無機塩類がほとんど含まれない貧栄養性の湿原が広がる。ここでは有機物の分解が進まず、枯死した植物が堆積していくために、コケ類を始め多様な植物が生育する絶好の場となっている[9]

浮島は夏になると浮かび上がり、冬には沈んで冠水する動きを見せる。この特徴により、多様な植物が生育している[34]ミツガシワホロムイソウのような寒冷地に分布する植物や、ジュンサイのような各地に自生する植物、タヌキモ (en) やモウセンゴケのような食虫植物オオミズゴケハリミズゴケヌマガヤ学名Moliniopsis japonica)、イヌノハナゴケといった高層湿原(ミズゴケ湿原)の構成種が共存している[35][36]

約60種ものトンボが生息しており、これは、日本に分布するトンボが約200種いるなかでその4分の1以上が当地域に分布していることを意味する。また、フナヨシノボリスジエビクサガメニホンイシガメなどの池に生息する動物や、ヒドリガモルリビタキを始めとした、晩冬期を中心に170種の野鳥の飛来が確認されている[37]1930年(昭和5年)には、日本で初めてミズグモが発見されるなど、希少動物にとっての数少ない生息地でもある[38]

池の周囲

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深泥池畔に咲く白いカキツバタ

春になるとミツガシワの白い花が咲く中を、ニホンミツバチハナアブ(ハナダカマガリモンハナアブ)が、花粉や蜜を食べながら送粉の役割を果たして飛び回る。5月には主に白色のカキツバタ[* 7]や赤色のトキソウが、秋には青色のサワギキョウが咲き競う[9][35]。また、池の集水域となる周辺の山々には、コナラアベマキなどの落葉樹、アカマツなどの常緑樹による林が形成されている[34]

外来種の影響

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ナガバオモダカキショウブなどの植物や、ブルーギルオオクチバスカムルチーアカミミガメ、カダヤシなどの外来種が問題視されている。これらは繁殖力が強く、生態系に悪影響を与えているとされ、メダカタモロコなど、いくつかの在来種食物網(特に捕食-被食関係)の変化によって姿を消している[38][39]

また、北大路魯山人が「京の洛北深泥池の産が飛切りである。これは特別な優品」と評したジュンサイは、初夏から秋にかけて暗紅紫色の花を咲かせる。かつて、深泥池の水質悪化外来種植物の繁殖が影響したほか、ルアーフィッシングの妨げになると刈り取られたことから、ほとんど見られなくなった時期もあった。このため、地元住民や研究者らが、定期的に在来種の調査や外来種の駆除を行うなど、生物群集の生育に適した水質改善に取り組んでいる[40]

観賞用の水草として知られる外来種の食虫植物オオバナイトタヌキモが、2000年(平成12年)ごろに浮島の一部で確認され、その後急速に生息域を拡大させている。人の手で池に持ち込まれた可能性が高く、2012年(平成24年)夏には池の水面を10センチメートルの厚さで覆いつくすほどにまで繁殖した。後述の「深泥池水生生物研究会」によって調査と駆除が試みられているが、まだ十分な効果は上がっていない。水草の水面増殖により日光が遮断されて水中まで届かず、酸素濃度の低下を招くことによる生態系への悪影響が懸念される[41]

特記事項

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深泥池に沿う市道岩倉上賀茂線

道路拡幅計画

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深泥池の北西側に沿って延びる市道岩倉上賀茂線は交通量が多いものの狭隘な道路であり、1985年(昭和60年)、左京区岩倉地域住民らにより道路整備が望まれた。この請願申請が京都市会へ提出されたことにより、1990年(平成2年)に池を埋立てて道路拡幅を行う計画が持ち出され、深泥池やその周囲の自然環境をどう保全するかの論議が湧きおこった。京都市は「都市計画実現上の大きな課題となる『天然記念物深泥池』に影響するため、存続することは困難」と評価している[42][43]。その後2011年4月2日に計画の見直しが行われ、市道岩倉上賀茂線の都市計画は廃止された[44]。なお、1997年(平成9年)に京都市が地元の地権者から池を買い上げている[40][45]

市民団体

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1965年(昭和40年)以来、地元住民を中心とする「深泥池を美しくする会」が環境保護に資する活動を続けている。1990年(平成2年)には、上述の道路拡幅計画を反対する立場から「深泥池を守る会[43]が、1998年(平成10年)には、外来種の調査捕獲や植生管理をする「深泥池水生生物研究会」(当初は「深泥池水生動物研究会」)が相次いで発足した[9]

交通アクセス

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鉄道
京都市営地下鉄 烏丸線 北山駅で下車し、2番出口より北へ徒歩10~15分。
道路
京都市営バス 4号系統(均一系統。2コースある『上賀茂神社前発・京都駅前着』のいずれでも経由する)
●深泥池バス停留所[gm 8]を下車し、北へ徒歩3分(信号のある交差点[46]をさらに進み、突き当りの交差点で到着。東に見える)。
京都バス 45・46系統
●深泥池バス停留所を下車し、北へ徒歩約3分。
京都府道40号下鴨静原大原線(一部は旧・鞍馬街道)
遠く大原から回り込んで北から深泥池の西畔地域へ繋がる。鞍馬寺・貴船神社方面から延びる府道38号(一部は旧・鞍馬街道)とはかなり北に位置する市原付近で合流する。
京都府道103号上賀茂山端線(一部は旧・鞍馬街道)
西にある御薗橋上賀茂神社門前町方面からはおおよそ真東へ進み、府道40号の終点に当たる交差点[46]で左折して40号に入ってすぐ。下鴨中通りからはひたすら真北へ低い山が迫る所まで走り、信号のある交差点[46]で103号は西へ折れ曲がるが、まっすぐ進んで40号に入ればすぐ。
幡枝本通り
北東にある岩倉方面から南西にある深泥池の北畔へ繋がる。
補足
  • 駐車場 - 無し。

周辺情報

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上賀茂狭間町内・上賀茂深泥池町内
平安遷都の頃からの古街道で、御所鞍馬寺を結び、山城国から丹波国若狭国まで延びていた。深泥池付近では府道40号が旧・鞍馬街道にあたる。
深泥池の氏神神社。住所は上賀茂深泥池町53。[gm 9] 元の氏神神社は貴船神社
深泥池にある古社。すぐきの発祥地ともされており、参道には「すぐきの神様秋葉神社の縁起碑」がある[47][gm 10]
  • 深泥池地蔵堂
明治時代初期に遷座してしまった古来の深泥池地蔵堂に換わって再興された地蔵堂。住所は上賀茂深泥池町46。■右列に画像あり。[gm 11]
隣接地域
  • 深泥池児童公園
南の岸辺に隣接した畔にあり、池に最も近い施設といえる。住所は上賀茂池端町11。[gm 12]
北畔の谷間は複数の福祉施設が立地する区域となっている。住所は上賀茂ケシ山1。京都博愛会病院は、現在地にて1928年(昭和3年)12月に設立された結核療養所「京都保養院」を前身とする[48][gm 13]。昔の学術的図説では「病院」側などと記されている。介護付有料老人ホーム 京都ヴィラは、1985年(昭和60年)7月1日開設[49]。特別養護老人ホーム ユーカリの里は2000年(平成12年)2月設立[50]
山で隣接している、全国的に有名な神社。住所(社務所所在地)は上賀茂本山339。この神社の山(上賀茂本山)とケシ山と深泥池とに挟まれた谷間に深泥池の集落がある。
他地域

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 江戸時代初期にあたる寛文年間(1660-1670年間)のいずれかの年の10月23日までは貴船神社領であったが、深泥池の農民らの勧請によって分霊が叶った。
  2. ^ 台地の末端部分が断層活動や水流による侵食で、崖崩れが繰り返し発生してできた谷をいう。
  3. ^ 京都府愛宕郡村志』京都府愛宕郡、1911年https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000427148-00 
  4. ^ 六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の入り口にそれぞれ地蔵がおり、京都の境の街道口に祀られた六地蔵の巡る供養を行うことで、物故者が六道の流転から救われるとされた。
  5. ^ 鞍馬寺仁王門横の説明板によると、後醍醐天皇鞍馬寺の僧に、足利尊氏軍の若狭国からの南下を阻止する命令を下したとされ、深泥池の畔の道が若狭へ通じる街道として通じていたことを示している。
  6. ^ 八大竜王が勧請された貴船龍王の瀧、野中の清水、舟差、神供寺の池(干池)、大田の池(満池)、黒蛇池、新蛇池、御泥池の総称。(京都大学附属図書館所蔵「賀茂名所物語」より)
  7. ^ 大田ノ沢のカキツバタ群落」にて紫色の花をつけるカキツバタとは対照的である。
Googleマップ
  1. ^ 上賀茂狭間町(地図 - Google マップ) ※該当地域は赤色で囲い表示される。深泥池の全水域と西畔地域の大部分で構成される。町の東域は深泥池の輪郭を綺麗になぞっている。上賀茂の「狭間町」ではなく、「上賀茂狭間町」。
  2. ^ 上賀茂深泥池町(地図 - Google マップ) ※該当地域は赤色で囲い表示される。上賀茂の「深泥池町」ではなく、「上賀茂深泥池町」。
  3. ^ 松ケ崎浄水場(地図 - Google マップ) ※該当施設は赤色でスポット表示される。
  4. ^ 上賀茂本山(地図 - Google マップ) ※該当地域は赤色で囲い表示される。
  5. ^ 松ケ崎大谷町(地図 - Google マップ) ※該当地域は赤色で囲い表示される。西へ突き出している所がチンコ山。
  6. ^ 松ケ崎深泥池端町(地図 - Google マップ) ※該当地域は赤色で囲い表示される。深泥池の南岸の大半がこの地域と接している。
  7. ^ 松ケ崎西山町(地図 - Google マップ) ※該当地域は赤色で囲い表示される。南畔の部分でほんの少しだけ接している。
  8. ^ 深泥池バス停留所(地図 - Google マップ) ※該当施設は赤色でスポット表示される。
  9. ^ 深泥池貴舩神社(地図 - Google マップ) ※該当施設は赤色でスポット表示される。
  10. ^ 深泥池 秋葉神社(地図 - Google マップ) ※該当施設は拡大していって初めて青色系でスポット表示される。文字表記は「秋葉神社(すぐきの神様)」
  11. ^ 深泥池地蔵堂(地図 - Google マップ) ※該当施設は赤色でスポット表示される。
  12. ^ 深泥池児童公園(地図 - Google マップ) ※該当施設は緑色の文字でスポット表示される。
  13. ^ 京都博愛会病院(地図 - Google マップ) ※該当施設は赤色でスポット表示される。

出典

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  1. ^ a b c d 竹内義治「春告げる 氷河期の面影(時の回廊)京都・深泥池」『日本経済新聞日本経済新聞社、2016年4月15日。2019年7月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 京都府愛宕郡上賀茂村 (26B0020008) - 歴史的行政区域データセットβ版”. Geoshapeリポジトリ(公式ウェブサイト). GeoNLPプロジェクト (1920年1月1日). 2019年7月27日閲覧。
  3. ^ a b 山州名跡志” (PDF). 国立国会図書館デジタルコレクション(公式ウェブサイト). 国立国会図書館. 2019年7月27日閲覧。※該当ページのコマ番号は127/335。
  4. ^ 京都市情報館 天然記念物 深泥池生物群集
  5. ^ 松ケ崎浄水場のあらまし”. 公式ウェブサイト. 京都市上下水道局 (2019年5月21日). 2019年7月26日閲覧。
  6. ^ 深泥池における水質分布特性
  7. ^ 京都市役所. “ア 鞍馬街道 - 京郊の歴史的風致” (PDF). 京都市情報館(公式ウェブサイト). 京都市. p. (2-129). 2019年7月26日閲覧。
  8. ^ a b 西村2008 p.52:『京都五億年の旅』(地学団体研究会京都支部、法律文化社、1979年)p.163
  9. ^ a b c d 深泥池水生生物研究会 市民が誇れる京都最古の自然-深泥池-
  10. ^ 京都地名3 p.86
  11. ^ 類聚日本後紀”. デジタルライブラリー(公式ウェブサイト). 愛知芸術文化センター愛知県図書館. 2019年7月25日閲覧。
  12. ^ 京都地名3 p.86:寛仁2年(1018年)11月25日条
  13. ^ a b c 御菩薩池(深泥池)- 巻之六 後玄武再刻 - 都名所図会”. 公式ウェブサイト. 国際日本文化研究センター(日文研). 2019年7月26日閲覧。■画像あり。
  14. ^ 行誉 (1445). 壒嚢鈔. 国文学研究資料館 
  15. ^ 京都地名3 p.87:『上杉家本「洛中洛外図」』(米沢市上杉博物館蔵)の「みそろ池」
  16. ^ 巻之六 後玄武”. 都名所図会(個人ウェブサイト). 個人(竹林の愚人). 2019年7月26日閲覧。■画像あり。
  17. ^ 指定されたアイテムはリポジトリから取り下げられました。”. 京都大学附属図書館. 2022年11月14日閲覧。[出典無効](撤回済)
  18. ^ 京都地名2 p.312。
  19. ^ 京都地名3 p.89
  20. ^ 深泥池”. 2014年5月15日閲覧。
  21. ^ 京都市交通局 ハイパー市バスダイヤ 4号系統
  22. ^ 深泥池”. 2014年5月15日閲覧。
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  24. ^ 西村2008 p.109:『新修京都叢書1』(新修京都叢書刊行会、光彩社、1967年)p.65、『新修京都叢書1』(野間光辰、臨川書店、1967年)p.63
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  26. ^ 西村2008 pp.114-116:『新修京都叢書5』(新修京都叢書刊行会、光彩社、1968年)p.485、『新修京都叢書12』(野間光辰、臨川書店、1971年)p.645
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参考文献

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  • 京都地名研究会 編『京都の地名検証2』勉誠出版、2007年。ISBN 978-4-585-05139-8 
  • 西村勁一郎編 編『探訪 京都・上賀茂と二つの鞍馬街道-その今昔』西村勁一郎、2008年。ISBN 978-4-99-041980-6 
  • 京都地名研究会 編『京都の地名検証3』勉誠出版、2010年。ISBN 978-4-58-522000-8 

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯35度3分28秒 東経135度46分7.4秒 / 北緯35.05778度 東経135.768722度 / 35.05778; 135.768722