「福本柳一」の版間の差分
修正 |
m Robot: ウィキ文法修正 2: <br/>タグの違反 |
||
9行目: | 9行目: | ||
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1896|8|10|1991|2|1}} |
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1896|8|10|1991|2|1}} |
||
| 出身校 = [[東京帝国大学]][[法学部]] |
| 出身校 = [[東京帝国大学]][[法学部]] |
||
| 出生地 = {{JPN}}・[[岡山県]][[上房郡]]川面村< |
| 出生地 = {{JPN}}・[[岡山県]][[上房郡]]川面村<br />(現:[[高梁市]]) |
||
| 親族(政治家) = 福本万右衛門(父) |
| 親族(政治家) = 福本万右衛門(父) |
||
| 就任日 = 1942年7月 |
| 就任日 = 1942年7月 |
2024年11月29日 (金) 00:00時点における版
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
福本 柳一 ふくもと りゅういち | |
---|---|
| |
生年月日 | 1896年8月10日 |
出生地 |
日本・岡山県上房郡川面村 (現:高梁市) |
没年月日 | 1991年2月1日(94歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
子女 | 福本一彦(長男) |
親族 | 福本万右衛門(父) |
愛媛県知事(官選第32代) | |
在任期間 | 1942年7月 - 1943年7月 |
埼玉県知事(官選第38代) | |
在任期間 | 1944年8月 - 1945年8月 |
愛知県知事(官選第36代) | |
在任期間 | 1945年8月 - 1946年1月 |
福本 柳一(ふくもと りゅういち、1896年(明治29年)8月10日 - 1991年(平成3年)2月1日)は、日本の内務官僚、実業家。官選県知事、全日本空輸副社長[1]。
経歴
農業・福本万右衛門の二男として岡山県上房郡川面村(現:高梁市)で生まれる。高梁中学、第六高等学校を経て、1922年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。1921年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1922年5月、司法官試補となり横浜地方裁判所に配属され、さらに東京地方裁判所で勤務。
1923年11月、帝都復興院属に転じた。以後、神奈川県橘樹郡長、同県社会課・社会教育課・工場課・水産課・庶務課の各課長を経験し、福井県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、内務省社会局軍事扶助課長、厚生省書記官、内務省土木局道路課長、同警保局図書課長、情報局第四部長などを歴任[2]した。
1942年7月、愛媛県知事に就任。1943年7月、東京都経済局長に転じた。1944年8月、埼玉県知事となり、終戦後の1945年8月に愛知県知事に転じた。1946年1月、東海北陸地方行政事務局長となるが、同年、公職追放となり退官した。
その後、自転車協議会理事長、大栄漁業株式会社社長を経て、1952年に日本ヘリコプタ-輸送株式会社常務取締役、昭和32年(1957年)名古屋空港ビル取締役、同年全日本空輸株式会社(全日空)代表取締役常務となり、1962年専務取締役、翌年副社長、1967年に顧問を歴任する。全日空創設時の資金問題に苦労し、わが国の民間航空の幕開けに尽力した。昭和47年(1972年)退職した[1]。
エピソード
若干29歳で神奈川県橘樹郡長として赴任することとなり、郡役所のそばにあった郡長の官舎に入居しようとした。しかし、福本の前の二代の郡長(武田巌作、伊藤匡義)はいずれも病没しており、郡役所職員から「縁起が悪いから住まない方がよい」という忠告を受けていた。福本は、社寺兵事課主任の池谷良助と相談して、稲毛神社の中村宮司に依頼してお祓いをしてもらってから、官舎に入居した。長男一彦氏はこの官舎で誕生しており、福本は「縁起直しとなった」と述べている[2]。
著作
- 『私の人生行路』福本柳一、1987年。