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[[1911年]](明治44年)[[8月26日]]、[[震災予防調査会]]が長野測候所と共同で、日本最初の{{仮リンク|火山観測所|en|Volcano observatory}}を浅間山の西側山腹に設置した<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/kazan/50/Special/50_KJ00004285672/_pdf 近代火山観測の歴史] - 山里平</ref><ref>{{kotobank|2=[[日本大百科全書]] (ニッポニカ)}}</ref>。このことにちなみ、[[2023年]](令和5年)に[[活動火山対策特別措置法]]の一部が改正されて、毎年8月26日が「火山防災の日」に制定された<ref>{{Cite web |title=「火山防災の日」特設サイト |url=https://www.data.jma.go.jp/vois/data/tokyo/kazanbosai/index.html |website=www.data.jma.go.jp |access-date=2024-06-11 |publisher=[[気象庁]]}}</ref><ref>{{Cite web |title=「火山防災の日」とは? |url=https://www.data.jma.go.jp/vois/data/tokyo/kazanbosai/02_shoukai.html |website=www.data.jma.go.jp |access-date=2024-06-11}}</ref>。 |
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[[1925年]]度(大正14年度)には、政府の緊縮方針のために観測所が廃止されたが、復活運動が起こり[[1926年]](大正15年)から再開された。また、この頃には地元の[[小諸警察署]]が浅間山一帯を視察する「登山警察」を例年夏季に行っており、長野測候所の技手とともに登山を行っている<ref>「浅間山観測所が復活」『信濃毎日新聞』1926年5月13日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.528 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。 |
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⚫ | 過去の噴火事例から避難経路などを取りまとめた[[ハザードマップ]]の作成が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/tonesui/tonesui00017.html |title=浅間山火山防災マップ |publisher=国土交通省利根川水系砂防事務所 |accessdate=2016-11-05 }}</ref>。また、長野県小諸市の[[千曲川]]河畔まで溶岩流が流れた痕跡や群馬県側の[[吾妻川]]では、山体崩壊に伴い大規模な[[土石流]]が流下し、前橋市付近までの広い地域に土砂が堆積した形跡があり、山体付近だけの問題ではない。 |
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⚫ | 過去の噴火事例から避難経路などを取りまとめた[[ハザードマップ]]の作成が行われている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ktr.mlit.go.jp/tonesui/tonesui00017.html |title=浅間山火山防災マップ |publisher=国土交通省利根川水系砂防事務所 |accessdate=2016-11-05 }}</ref>。また、長野県小諸市の[[千曲川]]河畔まで溶岩流が流れた痕跡や群馬県側の[[吾妻川]]では、山体崩壊に伴い大規模な[[土石流]]が流下し、前橋市付近までの広い地域に土砂が堆積した形跡があり、山体付近だけの問題ではない。 |
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*'''鬼押出し''' - 過去に流出した鬼押出[[溶岩流]]の跡が[[鬼押出し園]]及び[[浅間園]]として整備されている。浅間園内に[[浅間火山博物館]]がある。 |
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*'''[[白糸の滝 (軽井沢町)|白糸の滝]]''' - [[火山噴出物]]が堆積した水平面から[[湧水]]が吹き出す[[滝]]が名所となっている。 |
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*{{Anchors|浅間山熔岩樹型}}'''浅間山熔岩樹型''' - |
*{{Anchors|浅間山熔岩樹型}}'''浅間山熔岩樹型''' - 天明浅間山噴火の際、吾妻火砕流が発生して群馬県側に流れ、[[原生林]]に到達。高熱の火砕流は木を包み込むように流れ、生えていた樹木が燃え落ちた。やがて木の燃えかすが朽ちて井戸のような穴だけが残ったものである(「溶岩樹型」という名称ではあるが、実際には火砕流によって形成されたものであることがわかっている)。嬬恋村には樹型が数百個見つかっており、そのうちの約百個は嬬恋村[[教育委員会]]の手によって樹型内に溜まった土や枯れ葉を定期的に除去する保護活動と周囲の整備が続けられている。樹型の大きさは直径数十センチメートル、深さ1メートルほどの小さなものから、大きなものでは直径2メートルを超え、深さが5メートル以上に及ぶ巨大なものまである。樹型内には[[ヒカリゴケ]]が群生しているものもあり、整備された区域では樹型と併せて容易に観察することができる。昭和15年(1940年)8月30日、国から[[特別天然記念物]]に指定された。 |
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=== 源流の河川 === |
=== 源流の河川 === |
2024年6月25日 (火) 00:47時点における版
浅間山 | |
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北方上空から望む浅間山 中央部の火口の外側にカルデラ、手前に溶岩流出跡(鬼押出し) | |
標高 | 2,568[注釈 1] m |
所在地 |
日本 群馬県吾妻郡嬬恋村 長野県北佐久郡軽井沢町・御代田町 |
位置 | 北緯36度24分23秒 東経138度31分23秒 / 北緯36.40639度 東経138.52306度座標: 北緯36度24分23秒 東経138度31分23秒 / 北緯36.40639度 東経138.52306度[注釈 1] |
山系 | 浅間山系 |
種類 | 成層火山(活火山ランクA) |
浅間山の位置
| |
プロジェクト 山 |
浅間山(あさまやま)は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568メートルの成層火山。山体は円錐形でカルデラも形成されており、活発な活火山として知られる。
概要
数十万年前から周辺では火山活動が活発であり、浅間山は烏帽子岳などの3つの火山体とあわせて、浅間連峰もしくは浅間烏帽子火山群と総称される。これまでに噴火と山体崩壊を繰り返し、現在の姿となった。大規模な山体崩壊と崩壊土砂が流出した痕跡は、遠く離れた群馬県前橋市の台地上などに厚い堆積物として残っている。現在噴火活動をしているのは、前掛火山である。山頂火口からは噴煙が上がり、その周りには複合のカルデラがあり、内側の外輪山の西側に前掛山がある。北側のカルデラは山頂部から「鬼押出岩」へと流れ出た溶岩流により崩壊している。外側の外輪山には、黒斑山、牙山、剣ヶ峰などがある。気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定している[2]。
1949年(昭和24年)9月7日に山域は、上信越高原国立公園に指定された[3]。2007年、日本の地質百選に選定された。日本百名山[4]及び花の百名山[注釈 2]に選定されている。
火山活動
浅間山の活動史
噴火口の位置と溶岩の性質から、3つに分類されている[6]。
- 黒斑期(約13-約2.6万年前)
- 玄武岩質安山岩及びから安山岩質の溶岩。現在の黒斑山は東に開いた馬蹄形カルデラである。この馬蹄形カルデラは約2.4-約2.3万年前の塚原・塩沢・応桑岩屑なだれの発生によって形成されたと見られている。山体崩壊した体積は4 km3と推定されており[7]、カルデラ形成以前は現在の湯の平付近に中心火道を持つおよそ2,800-2,900m(山頂火口の直径を500mと仮定した場合)の富士山型の成層火山であったと考えられている。この時に発生した泥流の痕跡が前橋台地や浅間山周辺の流れ山として確認できる。また、南軽井沢ではこの泥流に湯川が堰き止められ、大きな湖が形成された(南軽井沢湖成層)。溶岩流として牙溶岩グループや剣ヶ峰溶岩グループ、三ツ尾根溶岩グループなどを、火山灰として北関東ローム層の板鼻褐色軽石層群 (BP・F) を形成[8]。約8万年前から約7万年前の間と、約4万年前から約3万年前の間は活動が見られず、休止期となっている。
- 仏岩期(約2.6-約1.3万年前)
- 浅間山を南から見ると山体右側に膨らみを確認する事ができる。これが仏岩火山である。黒斑山の山体崩壊後に活動を開始し、最盛期の山体の高度は海抜2,000mを越えた。粘性に富む紫蘇輝石・角閃石デイサイト質及び、流紋岩質[9]の厚い溶岩流が繰り返し流出し、緩傾斜の火山体を形成した。軽井沢に隣接する離山は、仏岩期の最初期にあたる約2.6万年前の噴火によって形成された溶岩ドームである。また、白糸の滝は湖成層上に堆積した仏岩期の軽石層から湧水している。群馬県前橋市の岩神稲荷神社にある「岩神の飛石」は、約2万4千年前の崩落で発生した泥流で到達したものと推定されている[10]。
- 約1.6万年前に北関東ローム層の板鼻黄色軽石層 (YP)や、小諸第一火砕流、カラフル火山灰、浅間草津テフラなどを噴出する浅間火山の中では最大級の噴火(合計噴出量4.38 DRE km3)が発生した[8]。万座鹿沢口周辺に見られるベージュ色の崖はこの時の噴出物である。この噴火によってカルデラが形成されたと考えられている。また、この時の噴火の噴出物の総量は10.95km3で火山爆発指数:VEIは6である。これはピナツボ山の1991年の噴火の噴出物の総量(10km3)を上回る大規模なものだった。
- 前掛期(約1.3万年前-現在)
- 安山岩質の複成火山で、仏岩火山の活動終了後、黒斑山と仏岩火山の中間地点である浅間前掛火山(狭義の浅間火山)で噴火が始まった。13層の降下軽石層が確認され、大規模噴火の間隔は700 - 800年と考えられている[11]。大きな噴火としては4世紀、1108年、1783年のものが知られ、溶岩流、火砕流の噴出を伴っている。1108年の噴火(噴出物の総量1.55DRE=3.875km3)は1783年(噴出物の総量0.73km3)の噴火の5倍程度の規模で山頂に小規模なカルデラ状地形を形成した。現在は比較的平穏な活動をしているが活動が衰えてきたという兆候は認められない[12]。
- 史書などでは以下の年に噴火している(太字は被害記録があるもの)。
- 685年、1108年、1281?年、1427年?、1527-1528年、1532年、1582年?、1596年、1598年、1604年、1605年、1609年、1644-1645年、1647-1649年、1651-1652年、1653または1655-1659年、1669年、1704年、1706年、1708-1711年、1717-1718年、1720-1723年、1728-1729年、1732-1733年、1754年、1776-1777年、1783年(天明の大噴火・鬼押出し)、1803年、1815年、1869年、1875年、1879年、1889年[13]、1894年、1899年、1900年、1901年、1902年、1904年、1907年、1908年?、1909年、1910年、1911-1914年、1916年、1917年、1919年、1920年、1921年、1922年、1927年、1928年、1929年、1930年、1931年、1932年、1934年、1935年、1936年、1937年、1938年、1939年、1940年、1941年、1942年、1944年、1945年、1946年、1947年、1951年、1952年、1953年、1954年、1955年、1958年、1959年、1961年、1965年、1972年、1973年、1982年、1983年、1990年、2004年、2008年、2009年、2015年、2019年
記録に残る主な噴火
- 685年(天武天皇14年3月:飛鳥時代)『日本書紀』に白鳳地震の5か月後、信濃国(現・長野県)で灰が降り草木が枯れたとする記述がある。浅間山の噴火とされたが[14]、具体的に浅間山と記述されているわけではなく、風向きから寧ろ西方の例えば新潟焼山や焼岳などの噴火の可能性もあるとされる[15]。
- 1108年(嘉承3年、天仁元年:平安時代) 天仁大規模噴火。噴火場所は前掛山で30億トンと推定される噴出物を伴う大噴火。火山爆発指数:VEI5。上野国(現・群馬県)一帯に噴出物が降り積もり、田畑に壊滅的な打撃をもたらした。『中右記』に記録されている。天仁元年9月5日の条に、この年の40年も前の治暦年間(1065年 - 1069年)に噴煙が上がっており、その後も少しではあるが噴煙が上がり、同年7月21日になって突然、大噴火を起こした。噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野の国一帯に及び、田畑がことごとく埋まってしまった、と記されている[16]。復興のために開発した田畑を豪族が私領化し、さらに荘園へと発展した。この噴火は上野国の荘園化を促すきっかけとなった。また、長野県側にも火砕流(追分火砕流)が約15km駆け下り、湯川、小諸市石峠付近まで達し、山麓の集落が複数埋没した可能性がある。天明の大噴火よりも大規模な噴火だったとされている。最近、12世紀初めの北半球の気温が約1℃低下したことや欧州における暗い月食、数年間の異常気象、大雨や冷夏による作物の不作と飢饉の原因が浅間山の噴火であった可能性が示唆された[17] 。また、1040〜1180年頃にはフンガ・トンガ=フンガ・ハアパイ、又は他の熱帯地域で大規模な噴火活動が発生した可能性があり、これらも地球規模の気温低下に影響した可能性が考えられる。
- 1128年 大治3年 大規模なマグマ噴火、噴火場所は前掛山。火山爆発指数:VEI4。
- 1532年 享禄4年 噴火場所は山頂付近。噴石は火口の周囲 8kmにわたり落下、長野県側では泥流が発生し複数の村が流され、街道にも被害が出た。蛇掘川中流付近には直径25m 以上の「七尋石(ななひろいし)」が残っている。火山爆発指数:VEI2。
- 1582年 天正10年 『多聞院日記』『晴豊公記』『日本史』などが、2月11日に浅間山が噴火して、京都からでも観測できたと伝えている[18]。この噴火はちょうど織田信長の軍勢が武田領への侵攻(甲州征伐)を開始してまもなくだったため、武田領国内の国衆や領民は武田勝頼が天から見放されたと考え、この噴火の日を境に武田領国の諸城は織田軍に抵抗することなく陥落していった[19]。
- 1721年 享保6年 火砕物降下。噴石のため登山者 15名死亡、重傷 1名。火山爆発指数:VEI1。
- 1783年8月5日(天明3年7月8日) 天明大噴火 噴出物総量4.5×108m3、火山爆発指数:VEI4。
- 4月9日(旧暦。以下この項目では同じ)に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた。
- 6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増し、江戸や関西でも戸障子が振動するなどした。
- 7月6日から3日間にわたる噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて、約3か月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。なお7月8日頃の爆発音については京都や四国、広島まで聞こえ、疑わしいが長崎まで聞こえたとする記録もあるという。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。鎌原村(現・嬬恋村大字鎌原地域)と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムを形成して河道閉塞を生じた。天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら本流となる利根川へと入り込み、現在の前橋市から玉村町あたりまで被害は及んだ。増水した利根川は押し流したもの全てを下流に運び、当時の利根川の本流であった江戸川にも泥流が流入して、多くの遺体が利根川の下流域と江戸川に打ち上げられた。この時の犠牲者は1624人(うち上野国一帯だけで1,400人以上)、流失家屋 1151戸、焼失家屋 51戸、倒壊家屋130戸余りであった[20]。最後に「鬼押出し溶岩」が北側に流下して、天明3年の浅間山大噴火は収束に向かったとされている。
- 長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考えられてきたが、低温の乾燥粉体流が災害の主要因であった[21]。最も被害が大きかった鎌原村の地質調査をしたところ、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、1979年(昭和54年)から嬬恋村によって行われた発掘調査では、3軒の民家を確認できたが、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている。2000年代の発掘では、火山灰は遠く栃木県の鬼怒川から茨城県霞ヶ浦、埼玉県北部にまで降下していることが確認された[22]。また、大量に堆積した火山灰は利根川本川に大量の土砂を流出させ、天明3年の水害、天明6年の水害などの二次災害被害を引き起こした[23][23]。
- この時の噴火が天明の大飢饉の原因となり、東北地方で約10万人の死者を出したと長らく認識されていたが、東北地方の気候不順による不作は既に1770年代から起きていることから直接的な原因とは言い切れない。一方で同じ年には、東北地方北部にある岩木山が噴火(4月13日・天明3年3月12日)したばかりか、アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火、6月8日)とグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の長期噴火が起き、桁違いに大きい膨大な量の火山ガスは成層圏まで上昇。噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させたことから北半球に低温化・冷害をもたらした。このため既に深刻になっていた飢饉に拍車をかけ事態を悪化させた面がある。「火山の冬#有史時代の事例」も参照。
- 1937年(昭和12年)3月13日 小規模噴火。軽井沢をはじめ山麓周辺で猛烈な降灰[24]。
- 1938年(昭和13年)6月7日 降灰多量。噴出物総量2×105m3、9月26日13時43分噴煙高さ 8,200m。火山爆発指数:VEI1.3。
- 1947年(昭和22年)8月14日 噴煙高さ 12,000m、噴石により11名の犠牲者。また、山火事が発生し湯の平火山観測所の建物が焼失。火山爆発指数:VEI1。
- 1950年(昭和25年)9月23日午前4時37分に大爆発し、噴煙高さ6,000m。爆発音の外聴域出現[25]。登山中の高校生1人が噴石を頭に受けて死亡。降灰は茨城県、埼玉県、東京都にも見られた。爆発音は愛知県名古屋市まで届いた。[26]この噴火により噴出した千トン岩と呼ばれる巨大な岩塊が群馬県側の山頂火口付近に存在する。
- 1958年(昭和33年)11月10日 午後10時50分、突然大爆発して噴煙が高さ 7,000 - 8,000m、降灰域は太平洋岸まで達し、南側斜面へ小規模な火砕流が流下、南西へ流下した火砕流は前掛山の断崖で遮られ、内側に厚さ数mの堆積物を残した。山火事も数か所で発生。爆発音が大きく山麓では多数の窓ガラスが破損し、東北から関西まで広範囲で爆発音が聞こえた。噴火に伴う地震の規模はM4.5、噴出物総量3.6×105m3、火山爆発指数:VEI1。
- 1973年(昭和48年)2月1日 午後7時20分に爆発、北側斜面へ小規模な火砕流発生、火炎の高さは500mに達する。約1ヶ月前から活発な火山性地震を観測(1月13日、14日合計150回超)し、3月10日にはこの一連の活動で最大の噴火が発生、パン皮状火山弾及び軽石の多量噴出と北側斜面に小規模火砕流、融雪型の泥流が発生。5月24日まで微噴火まで合わせ87回の噴火と活発な活動が続いた[27]。火山爆発指数:VEI2。
- 1983年(昭和58年)4月8日 爆発、福島県の太平洋岸でも降灰を観測。火山爆発指数:VEI0.9。
- 2004年(平成16年)9月1日 20時20分頃 中規模の爆発的噴火を確認。気象レーダーによると噴煙高度は推定3,500-5,500m。小康状態の後、9月14日 - 18日にかけて小噴火が多発、及び9月23日と29日、11月14日には中規模の噴火が発生し、11月14日の噴火は噴煙高度推定3,500-5,500m。[28]。11月14日以降噴火は観測されず[29]。火山爆発指数:VEI1。
- 2008年(平成20年)8月10日 小規模噴火を確認[30]。
- 2009年(平成21年)2月2日 噴火確認。関東平野の広い範囲に10g/m2 - 50g/m2の降灰。ウィキニュースに関連記事あり。[31]火山爆発指数:VEI1。
- 2015年(平成27年)
- 2019年(令和元年)
- [34]。 8月 7日22時08分頃、小規模噴火。同日、浅間山に火口周辺警報(噴火警戒レベル3(入山規制))を発表
- 8月25日19時28分頃、噴火
防災
1911年(明治44年)8月26日、震災予防調査会が長野測候所と共同で、日本最初の火山観測所を浅間山の西側山腹に設置した[35][36]。このことにちなみ、2023年(令和5年)に活動火山対策特別措置法の一部が改正されて、毎年8月26日が「火山防災の日」に制定された[37][38]。
1925年度(大正14年度)には、政府の緊縮方針のために観測所が廃止されたが、復活運動が起こり1926年(大正15年)から再開された。また、この頃には地元の小諸警察署が浅間山一帯を視察する「登山警察」を例年夏季に行っており、長野測候所の技手とともに登山を行っている[39]。
過去の噴火事例から避難経路などを取りまとめたハザードマップの作成が行われている[40]。また、長野県小諸市の千曲川河畔まで溶岩流が流れた痕跡や群馬県側の吾妻川では、山体崩壊に伴い大規模な土石流が流下し、前橋市付近までの広い地域に土砂が堆積した形跡があり、山体付近だけの問題ではない。
火山噴火予知連絡会によって常時観測火山(火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山)に選定されている[41]。また、東京大学地震研究所等により365日24時間の観測が行われている。
地理
浅間火山の地形
その他
浅間山の南麓、長野県側には軽井沢町が、北麓の群馬県側には吾妻郡嬬恋村と長野原町北軽井沢があり、風光明媚な避暑地として古くから開発が進んでいる。北麓一帯は後述する、火山活動により形成された特徴的な地形があり、2016年に「浅間山北麓ジオパーク」として日本ジオパークに認定された[42]。
- 鬼押出し - 過去に流出した鬼押出溶岩流の跡が鬼押出し園及び浅間園として整備されている。浅間園内に浅間火山博物館がある。
- 白糸の滝 - 火山噴出物が堆積した水平面から湧水が吹き出す滝が名所となっている。
- 浅間山熔岩樹型 - 天明浅間山噴火の際、吾妻火砕流が発生して群馬県側に流れ、原生林に到達。高熱の火砕流は木を包み込むように流れ、生えていた樹木が燃え落ちた。やがて木の燃えかすが朽ちて井戸のような穴だけが残ったものである(「溶岩樹型」という名称ではあるが、実際には火砕流によって形成されたものであることがわかっている)。嬬恋村には樹型が数百個見つかっており、そのうちの約百個は嬬恋村教育委員会の手によって樹型内に溜まった土や枯れ葉を定期的に除去する保護活動と周囲の整備が続けられている。樹型の大きさは直径数十センチメートル、深さ1メートルほどの小さなものから、大きなものでは直径2メートルを超え、深さが5メートル以上に及ぶ巨大なものまである。樹型内にはヒカリゴケが群生しているものもあり、整備された区域では樹型と併せて容易に観察することができる。昭和15年(1940年)8月30日、国から特別天然記念物に指定された。
源流の河川
以下の源流となる河川は、それぞれ日本海と太平洋へ流れる[43]。
動植物
浅間山はシラビソやオオシラビソを中心とした亜高山帯の自然植生を残し、その周辺にカラマツの天然林が広がり、野生の動物が多数生息している。その中でも、イヌワシやツキノワグマなどの生息地として重要であることから国指定浅間鳥獣保護区(大規模生息地)に指定されている(面積32,218ha、うち特別保護地区947ha)。
信仰と伝承
「あさま」は火山を示す古語とされる。富士山の神を祀る神社が浅間神社(せんげんじんじゃ)と呼ばれるのも同様の理由であり、阿蘇山の「あそ」も同系のことばであると言われる。浅間山も多くの山々と同じく、古くから山岳信仰の対象となっており、浅間神社(通常の浅間神社とは祭神が異なる)が鎮座している。
登山
浅間山の火口付近は、火山噴火に伴い、1972年(昭和47年)より立ち入りが禁止されてきた。その後の沈静期には規制が解除されたこともあるが、その火山活動に応じて地元自治体より火口からの一定の直線距離以内が立入禁止区域として登山規制になることがある。
2022年時点では、長野県小諸市側から前掛山までの登山が認められている。群馬県側の長野原町と嬬恋村でつくる浅間山ジオパーク推進協議会は環境省と協議の上、2025年度開通を目指して登山道を整備する計画で、噴火に備えたシェルターも設ける[42]。
- 著名人の登山の記録
- 噴火予報は2018年8月30日以降、「噴火警戒レベル1」(活火山であることに留意)となっている[46]。
- 軽井沢口:国道146号線「峰の茶屋」コース。
- 浅間山火口周辺立入禁止(火口から0.5キロメートル以内規制)。
- 小浅間山・石尊山へ通ずる登山道は登山可能。
- 浅間山火口周辺立入禁止(火口から0.5キロメートル以内規制)。
- 小諸口:「黒斑コース・火山館コース」
- 浅間山火口周辺立入禁止(火口から0.5キロメートル以内規制)。
- 前掛山まで入山可能。
- 浅間山火口周辺立入禁止(火口から0.5キロメートル以内規制)。
以前は嬬恋村から黒斑山を経由する登山道もあったが、雨で登山道が崩壊してしまい、現在は不通となっている。
舞台となった作品
- 映画
- 絵画
-
- 「浅間」(連作)、小山敬三
- 書籍
- その他
-
- 桃神祭2016 〜鬼ヶ島〜 - ももいろクローバーZが2016年8月13日、8月14日に横浜国際総合競技場で開催したコンサート。オープニング・エンディング映像が山麓の鬼押出し園で収録された。演出は佐々木敦規。
関連画像
脚注
注釈
出典
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- ^ “火山噴火予知連絡会による活火山の選定及び火山活動度による分類(ランク分け)について” (PDF). 気象庁. 2016年11月4日閲覧。
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- ^ 火山登山者向けの情報提供ページ > 火山活動の状況(浅間山)気象庁(2019年5月21日閲覧)。
参考文献
- 国立天文台編『理科年表 平成20年』丸善、2007年、ISBN 978-4-621-07902-7。
- 根岸鎮衛『耳嚢』全3冊 長谷川強校注、岩波書店〈岩波文庫〉、1991年。- 江戸時代の随筆。浅間山の噴火についての逸話を収録。
- 西来邦章、高橋康、松本哲一「浅間・烏帽子火山群の火山活動場の変遷」(『地質学雑誌』119巻7号、2013年) pp.474-487, doi:10.5575/geosoc.2013.0014
- 高橋正樹、安井真也、黒澤貴之「浅間前掛火山十二世紀大規模噴火の噴火推移の再検討(火山活動史,口頭発表)」(『日本火山学会講演予稿集』2010巻70号、 2010年10月9日)NAID 110008511282, doi:10.18940/vsj.2010.0_70
外部リンク
- 浅間山 - 気象庁
- 浅間山の火山観測データ - 気象庁
- 日本活火山総覧(第4版)Web掲載版 浅間山 (PDF) - 気象庁
- 日本の火山 浅間山 - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター
- 浅間火山のページ - 東京大学地震研究所
- 浅間山ノート - 群馬大学 早川由紀夫
- 防災関連
- 浅間山融雪型火山泥流マップ(群馬県) (PDF) - 防災科学技術研究所
- 浅間山火山防災マップ - 国土交通省 関東地方整備局 利根川水系砂防事務所
- 浅間山融雪型火山泥流発生時想定マップ - 軽井沢町
- 浅間山融雪型火山泥流マップ - 御代田町
- 小諸市ハザードマップ - 小諸市
- 嬬恋村の火山防災 - 嬬恋村