マリー・アントワネット
マリー・アントワネット Marie Antoinette | |
---|---|
フランス王妃 | |
マリー・アントワネット(エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン画、1783年) | |
在位 | 1774年5月10日 – 1792年9月21日 |
全名 |
Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ Maria Antonia Josepha Johanna マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ |
出生 |
1755年11月2日 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、ホーフブルク宮殿 |
死去 |
1793年10月16日(37歳没) フランス共和国、パリ、革命広場 |
埋葬 |
1815年1月21日 フランス王国、サン=ドニ、サン=ドニ大聖堂 |
結婚 | 1770年5月16日 |
配偶者 | ルイ16世 |
子女 | |
家名 | ハプスブルク=ロートリンゲン家 |
父親 | フランツ1世 |
母親 | マリア・テレジア |
サイン |
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌ・ドートリシュ(フランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃[1]。オーストリアとフランスの政治的同盟のために嫁ぎ[2]、フランスの資本主義革命(市民革命)である1789年の「フランス革命」で処刑された[1][3][4]。
概要
神聖ローマ皇帝フランツ1世と、オーストリア女大公マリア・テレジアとの娘[5]。ヨーロッパ史学者の山上正太郎によれば、アントワネットは「美貌、純情な反面、軽率、わがまま」な人物で[5]、ヴェルサイユの宮廷生活での享楽や浪費などから「赤字夫人」「オーストリア女」と呼ばれた[5]。1785年の王妃をめぐる無実の詐欺事件「首飾り事件」も、結果的に国民の反感へとつながった[5]。辞書・事典によると、乱費や民衆蔑視によって国民から反発されており[1]、またさまざまな改革に常に反対し、青年貴族たち(特にH.フェルセン)との情愛に溺れた[6][7]。
1789年のフランス革命に反対し、宮廷の反革命勢力を形成したアントワネットは、立憲君主制派(ミラボーやラファイエットなど)へ接近することさえも拒んだ[5]。君主制維持を目的として武力干渉を諸外国に要請し[1]、特にウィーン宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待した[6]。しかしヴァレンヌ逃亡に失敗[6]、反革命の中心人物として処刑された[1]。
詳細
アントワネットについてオックスフォード大学出版局の『世界百科事典』(World Encyclopedia)では「彼女の享楽と浪費の生活は、1789年のフランス革命勃発を促進した」と解説されており[8][注 1]、『UXL世界伝記百科事典』(UXL Encyclopedia of World Biography)では「彼女の浪費的な生活様式は、贅沢なパーティーおよび高価な衣服や宝石を含んでおり、ほとんどのフランス市民の間で不評になった」とされている[9][注 2]。『世界史の女性:伝記百科事典』(Women in World History: A Biographical Encyclopedia)には以下の解説がある[10]。
パリ・カトリック大学講師のエマニュエル・ド・ヴァリクール[11]は『マリー・アントワネットと5人の男』の「エピローグ」章で、次の通り述べている[12]。
ヴァリクールによると、アントワネットについての賛否両論は尽きない[14]。一方では、キリスト教的にアントワネットを「理想化・聖女化」する見方があり、彼女は
と見なされている[14]。もう一方の否定的見方では、彼女に関して
とされる[14]。これらの両論について、ヴァリクールはこう評する[14]。
「小説(ロマン)好きの彼女は、愛よりも現実離れしたもの(ロマネスク)を愛した。誘惑者よりも誘惑を愛した。テュイルリー宮殿に幽閉されていた彼女が外部との通信の暗号化に際して、『ポールとヴィルジニー』を用いたことは注目に値する。彼女はつねに夢見がちな面を持ち続け、極度に理想化された人間関係を求めた」[15]。
生涯
幼少期・結婚まで
1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲がよかった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりした。また幼いころからバレエやオペラを皇女らが演じている。
当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策した。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。
1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。
1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったため、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年5月16日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られ、盛大に祝福された。
宮廷生活
デュ・バリー夫人との対立
結婚すると間もなく、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していた、ルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワール、ソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に分かれ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[16][17]
ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けたアントワネットは、1771年7月に貴婦人たちの集まりでデュ・バリー夫人に声をかけることになった。しかし、声をかける寸前にアデライード王女が突如アントワネットの前に走り出て「さあ時間でございます!ヴィクトワールの部屋に行って、国王陛下をお待ちしましょう!」と言い放ち、皆が唖然とするなかで、アントワネットを引っ張って退場したと言われている。
2人の対決は1772年1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりに「本日のヴェルサイユは大層な人出ですこと」とアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。
結婚生活
マリー・アントワネットとルイ16世との夫婦仲はあまり良くなかったと語られることが多いが、マリーアントワネットはルイ16世のことを慕っており、ルイ16世もマリーアントワネットに対して好意はあったとされている。しかし、互いの気持ちが上手く疎通できていなかったことにより、フランス革命間際までは距離をとりがちであった。また、マリーアントワネットとルイ16世の部屋を繋ぐ隠し通路があったものの、使われることはほとんどなかった。新婚生活はラ・ミュエット宮殿(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区)でも送ったが、子どもが生まれず性生活を疑った母親マリア・テレジアより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がこの地の新婚夫妻のもとに遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子どもマリー・テレーズ・シャルロットが生まれた。
母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って戒めていたが、効果はなかった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座で仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われる。賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。
ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させたりもしていた。母親としてはいい母親であったようで[要出典]、もともとポンパドゥール夫人のために建てられるも、完成直後に当人が死んで無人だったプチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、王妃の村里と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。
フランス王妃として
1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステータスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になり、逆に反感を買った。
こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデンの貴族アクセル・フォン・フェルセン伯爵との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。
彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかった[要出典]という。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった[要出典]。
1785年にはマリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生する。このように彼女に関する騒動は絶えなかった。
フランス革命
1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、革命が勃発した。ポリニャック公爵夫人(伯爵夫人から昇格)ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女を見捨てた恰好で国外に亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃だけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。
1791年6月20日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とマリー・アントワネットは別々に行動することを勧めたが、マリー・アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。このため、もともと足の遅い馬車の進行速度をさらに遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせることとなった。結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。
1792年、フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。
タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団欒の時間があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。
革命裁判
1793年1月、革命裁判は夫のルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンによる斬首刑とした。7月3日、王位継承者のルイ17世と引き離される。タンプル塔の階下に移され、ルイ17世は後継人となったジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモンをはじめとする革命急進派から虐待を受けた。
マリー・アントワネットは8月2日にコンシェルジュリー監獄に囚人第280号として移送され、その後裁判が行われた。しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。業を煮やした裁判所はジャック・ルネ・エベールやアナクサゴラス・ショーメットらにルイ17世の非公開尋問を行い、「母親に性的行為を強要された」とアントワネットが息子に対して無理矢理に近親相姦を犯した旨を証言させた。しかし、このような荒唐無稽な証言は傍聴人からの反感を買うことになり、ロベスピエールを激怒させる結果となった。[18]
しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、10月15日に彼女は革命裁判で死刑判決を受け、翌10月16日、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。
処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった[19]。この遺書は看守からのちに革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書は革命後に再び発見され、革命下を唯一生き延びた第一子のマリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。
ギロチン処刑
遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。すべて終わりました」と述べたと言われ、そして白衣に白い帽子を身に着けた。斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによれば、その最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès.) [20]」だとされている。
通常はギロチンで処刑の際に顔を下に向けるが、マリー・アントワネットのときには顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が流れたという説もある。最後の瞬間まで一輪の薔薇を手にしていたという。
10月16日の12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた[21]。
死後
遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[注 4]に葬られた。のちに王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地[注 5]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。発見されたマリー・アントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世とともに改葬された。
研究上の評価
『世界大百科事典』においてアントワネットは、「悲劇的」な王妃ではあるが「嫁して夫を軽んじ、王妃でありながら国民を裏切った」と評されている[22]。
安達正勝によると現代の歴史研究では、特権階級への崇敬のためにマリー・アントワネットを「神々しい聖女」に祭り上げることもなければ、革命期の三文文士たちのように「堕落しきった色情狂」と貶めることもない[23]。革命から時代が離れたため、マリー・アントワネットは利害関係無しに、歴史上の人物として扱われている[23]。
ヴァリクールによればアントワネットとルイ16世の結婚は、オーストリア大公国とフランス王国の政治的同盟のためだった[2]。しかしこの同盟に反発する者は居り、王女たちもそうだった[24]。ルイ15世の四女であるアデライード王女は、婚前のアントワネットを「オーストリア女(オートリシェンヌ、雌犬を意味する「シェンヌ」をかけた言葉)」と呼んだ[24]。
アントワネットはオーストリア皇女として誇り高く、「宮廷作法を愚弄することさえあった」とヴァリクールは言う[25]。ある時、乗っていたロバから落ちた彼女は笑いながら、
「急いでノアイユ夫人を探してきてちょうだい。夫人なら、フランス王妃がロバを乗りこなせない場合に、宮廷作法はどう定めているかをご存じでしょうから」
と言った[25]。宮廷作法を拒んだり廃止させたりするアントワネットについてカンパン夫人は、
「ヴェルサイユのしきたりに代わってウィーン宮廷の簡素な習慣を導入しようとしたことは、ご自身が想像するよりも有害な結果を引き起こした」
などと書いており[26]、セギュール伯爵は若い夫妻の宮廷が軽率だったと後年の回想録に記した[27]。一方で記者たちは
「我々の若く魅力的な王妃は形式ばらず簡素にと願うあまり、古い宮廷作法のあらゆる滑稽な枷を宮廷から追放した」
と書いていた[28]。
マリア・テレジアはアントワネットに対して
「国王に法外な出費を強いてはなりません。〔…〕ましてや浪費などは禁物です」
と警告したが、娘は聞き入れなかった[29]。ヴァリクールが言うには、アントワネットはプチ・トリアノン改装に「常軌を逸した額」をかけ、さらに「村里」(アモー)を造園したことで費用は「青天井になった」[29]。それは理想化された村のミニチュアのようなものであり、そこでのアントワネットは「全能の首長」だった[29]。ヴァリクールによると
一方、アントワネットが自分の「村里」の庭園でもてなした人々の中でも、リーニュ大公やオーベルキルヒ男爵夫人は非常に肯定的な反応だった[31]。歴史家のジャン・シャロンもアントワネットについて
「彼女は雲の群れに乗ってさまよい、自らの手で天空の群れに餌をやる伝説的羊飼いなのだ」
と記した[32]。
また、アントワネットは1774年の即位時から攻撃されていた[33]。18世紀フランスで最大級に暑い夏、アントワネットはルイ16世に、夜通しで夕涼みをする外出許可を頼んだ[33]。彼は
「あなたは妙なことを思いつくものです。夜は寝るためにあるのですよ」
などと言いながら許可した[34]。アルトワ伯爵をいたずらで驚かすなど彼女の無邪気な夜遊びは、風刺作家たちにより「相手が男だろうと女だろうと」乱交する王妃像として知れ渡った[35]。ルイ16世は怒ってアントワネットを咎め、その怒りはマリア・テレジアも同様だった[35]。ヴァリクールいわく、アントワネットは悪評について「本当はもっと警戒すべきだったのだが」、相変わらず気にしなかった[35]。1777年の夏には、アントワネットは夜の闇の中で若い陸軍事務官や王弟付き衛兵とおしゃべりし、これが風刺歌にされてルイ16世は再び憤慨した[35]。こうした風刺歌がもとで数年後の首飾り事件では、王妃が夜にロアン枢機卿と密会したと信じられたほどだった[35]。
「悲劇のヒロイン」と君主主義
安達正勝によると、アントワネットは革命に遭遇しなければ、「悲劇」の王妃になることはなかった[36]。しかし、「悲劇」的最期が不可避だったわけでもない[36]。もともと資本主義革命(フランス革命)が開始された理由は、君主制打倒のためではなかった[36]。革命当初のスローガンは「国民、国王、国法!」であり、時代の雰囲気は、人民と君主が憲法(国法)のもとで協力すれば、世の中を改革できるというものだった[36]。一部に流血が発生しても、革命家たちは君主主義者だった[36]。革命開始から数年経過しても、君主主義や国王びいきは、ロベスピエールにさえ相変わらず当てはまっていた[36]。しかし、ルイ十六世もマリー・アントワネットも、好機を活かすことができなかった[37]。
個人性・使命感
アントワネットは非常に個性が強かった[37]。当時の君主主義・封建主義の社会において「期待される王妃像」とは、君主にそっと寄り添うような女性だった[37]。しかし彼女は、最高に「高貴」な出自・身分について揺るぎない矜持を誇ると同時に、「近代的女性」としての顔も持っていた[37]。この王妃は、普通の女の子として生きたいという願望を持ったが、そのように振る舞うことでさまざまな摩擦が生じ、徐々に評判は悪化した[37]。
アントワネットは、王妃としての義務を果たさなければならぬと強く思ってはいた[37]。その思いは、王家の威信が危機に瀕するほど、王家の立場が悪くなるほど、一層表現された[38](生前の彼女はよく、遊び好きで浪費家な王妃だと非難されていたが、そのような単なるエゴイストであるなら、わざわざ革命と対決するという面倒事を抱えこんだ理由を説明できない[37])。彼女は革命から逃避するよりも、対決することを選んだ[39]。その「健気」な姿が共感を誘いもしたが、それは必ずしも正確な状況判断に基づいてはいなかった[39]。
君主主義・神政主義・反民主主義
アントワネットが王妃になったのは18歳だったが、いかにも王妃らしい女性だった[40]。フランス革命前の時代では、国家は王家の「私有財産」のようなものであり、君主が好きにしてよかった[40]。アントワネットは、そのような時代に生まれ育った[40]。したがって、君主権(≒反民主主義的な権力)が「神聖にして侵すべからず」であるという思いは彼女にとって「自然」だった[40]。
そのため、君主権に「一般の国民」が異議を唱えることに関して、忌まわしいとアントワネットは思っていた[41]。彼女にとって、国は特権階級の所有物であり、主権システムは「人民主権」ではなく「君主主権」でなければならず、ほかの人間や革命家が口を差し挟むこと自体が許せなかった[42]。アントワネットからしてみれば、革命前の君主制が「正しきもの」であり、何としてでも革命を潰して、元の君主制へ回帰しようとした[42]。
一方、アントワネットは過去や君主制を懐古するだけの愚者ではなかった[42]。彼女の考えでは、立憲君主制(≒ブルジョア革命で成立した君主制)は長続きしない[42]。実際、革命後にナポレオン時代を経てフランス復古王政が発生したため、その点では彼女の考えは当たっていた[42]。とはいえ、復古した王政は16年しか保たなかった[42]。
「パンがなければ…」の発言
マリー・アントワネットは、フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したと紹介されることがある(ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある)。原文は、仏: “Qu'ils mangent de la brioche”、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」となる。ブリオッシュは現代ではパンの一種の扱いであるが、かつては原料は小麦粉・塩・水・イーストだけのパン(フランスパン)でなく、バターと卵を使うことからお菓子の一種の扱いをされていたものである。お菓子ではなくケーキまたはクロワッサンと言ったという変形もある。なおフランスを代表するイメージであるクロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだときにフランスに伝えられたと言われている。
しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではないことが判明している[43]。ルソーの『告白[44]』(1766年ごろ執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公夫人が答えたことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年ごろ)のことという。
アルフォンス・カーは、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言はすでにマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されている、と書かれている。実際はこれは彼女を妬んだほかの貴族たちの作り話で、彼女自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、ほかの貴族達から寄付金を集めたりするなど、国民を大事に思うとても心優しい人物であったとされる。トスカーナは1760年当時、マリー・アントワネットの父である神聖ローマ皇帝フランツ1世が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になったともされる。
現代のフランスにおいて、この発言は今なおマリー・アントワネットを象徴するものだと信じられている。2016年、保守派議員のジャンフランソワ・コペが「パン・オ・ショコラ」の価格について言い間違えたのを、現代のマリー・アントワネットのようだと報じられた[45]。
人物・言行
幼少期
幼いマリー・アントワネットの文学・歴史・フランス語・フランス風習などの教育には、ヴェルモン神父が派遣されてきた[46]。この33歳の神父は博士号を取得し、図書館司書でもあった[46]。
神父はアントワネットの信頼を勝ち得たが、学科の勉強はあまり成果が上がらず、5分以上集中させることもできなかった[46]。彼女は家庭教師を手懐けて勉強を回避する術を心得ていたため、学科ではなく、楽しいおしゃべりへと仕向けるのだった[47]。ヴェルモン神父は、駐仏オーストリア大使メルシ・アルジャントへ次のような手紙を宛てている[48]。
ヴェルモン神父はアントワネットに宿題を課すことや、まとまった講義をすることは早々に諦め、脈絡のない会話をするしかなかった[48]。フランス語については確実に進歩していったが、知識や教養は非常に心もとなかった[49]。マリア・テレジアはアントワネットの性格を、次のように把握していた[50]。
私は、あの子の性格に多くの軽薄さ、熱意の不足、自分の意思を押し通そうとする頑なさを認めました。しかも、誰かがあの子に意見をしようとすると、それを巧みにかいくぐる術を身につけているのです[50]。
宮廷生活・舞踏会・劇
アントワネットの教育がいかに不完全であるかをよく知っていた母マリア・テレジアは、このままでは娘は「破滅」するかもしれないとさえ心配していた[51]。マリア・テレジアは娘に、フランスで生活するにあたっての基本的心構えから始まり、ファッション、ヘアスタイル、読書指導、さらには普段の生活態度に至るまで、
ギャンブルはやめなさい
歯をちゃんと磨きなさい
などと、細かい注意を伝えていた[52]。しかしアントワネットは、
フランスではみんなこんなふうです
と言い訳することが多かった[53]。
アントワネットは、ルイ15世の死から4日後には、王妃になれた幸運を無邪気に喜び、母親へ次の通り書いた[54]。
これに対してマリア・テレジアは、王妃の勤めについての自覚が足りない娘の行く末を危惧していた[54]。マリア・テレジアの語ったところでは、いずれ娘は「完璧に偉大な存在になるか、非常に不幸になるか」である[54]。そして
娘の美しき日々は終わったと私は思っています。
と語った[54]。
祖父であるルイ15世だけには逆らえなかったアントワネットだが、祖父という「重し」が取れると、これから宮廷を取り仕切るのは王妃たる自分であると思うようになり、宮廷をもっと住みよい場所にしようとした[55]。
宮廷では、アントワネット主催で定期的に舞踏会が開かれるようになった[55]。パリからプロの劇団を招いて宮廷で上演することは以前から週2回行われていたが、アントワネットはそれを週3回に増やした[55]。しかし劇好きな彼女にとっては、これでもまだ不足であり、しかも宮廷ではオペラは上演できなかった[55]。そのため舞踏会、劇、オペラなどのため頻繁にパリへ出かけた[55]。夫であるルイ16世が同伴していれば問題はなかったが、夫はこうした遊びを好まず、アントワネットも若い貴公子たちと行くことをずっと楽しんでいた[56]。しかも彼女はお忍びで頻繁にパリへ遊びに行き、帰りはよく明け方になっていたため、人々から相当の顰蹙を買った[56]。
ほかに競馬や賭博にも熱中しており、賭け金が大きかったため借金をすることもあった[56]。
王妃は「いちばん美しい女性」であらねばならぬという思いがある彼女は、流行の最先端を行こうともした[56]。デザイナーのローズ・ベルタンと相談し、次々に新しいファッションを打ち出した[56]。パリの上流婦人たちは必死に王妃のファッションを追っていたが、
このままでは破産する!
と投げ出す人物もいた[56]。
プチ・トリアノン宮
アントワネットにとってプチ・トリアノンは自由な空間であるだけではなく、もっと「自然」である必要があった[57]。そこでは牛、羊、山羊、鶏、豚といった動物が飼われたが、これらは非常に丁寧かつ清潔に飼育されていた[57]。アントワネットにとって
ということが、当然の前提とされていた[58]。
トリアノンの一連の工事事業には、土木・造園・建築関係業者に加え、一流の芸術家や優秀な工芸職人が大量動員された[59]。その庭園の注意書きには、「国王の命により」ではなく、「王妃の命により」と書かれることになった[59]。
トリアノンはアントワネットにとって、「理想の世界」または「夢を実現させた世界」だった[60]。そんな「トリアノンの女王」であることは、彼女の評判をさらに下げた[60]。かかった費用が大きかったうえに、人々は彼女が「ヴェルサイユ宮廷の王妃」であるべきだと思っていたからだった[60]。
首飾り事件
首飾り事件では、ロアン枢機卿に無罪判決が出たため、世間の疑惑はアントワネットに向けられた[61]。彼女がロアンを利用し、首飾りを手に入れたのではないかと疑われた[61]。彼女は激怒して泣きくれ、フランス全体について
と非難し、急にフランス嫌いになった[61]。首飾り事件は図らずして、絶対君主制の凋落の一端を世間に晒した[62]。
財政問題・革命前夜
フランス革命の本格的始まりは1789年7月14日、バスティーユ牢獄の陥落であるとされる[62]。しかし革命的雰囲気が醸成されたのはそれ以前のことで、1787年2月に開催された名士会がきっかけだった[62]。名士会は財政問題に対処するため、ルイ16世によって召集された[62]。
国家財政が危機的状態にあることは、ルイ16世即位当初から政府内では意識されていたが、ほとんどの人々はそうではなかった[63]。アントワネットもその一人で、のちに
財政状態がそんなに悪いことに、どうして私が気づくことができたでしょうか? 私が5万リーヴル要求すると、10万リーヴル持ってくる、というふうだったのですもの。
と語っている。こうしたヴェルサイユ宮廷の人々は、従来の世の中がいつまでも続くと思っており、既得権益をさらに増大させようとしていた[63]。
1787年ごろ、アントワネットは以前とは異なり国全体について考え、倹約もするようになったが、そのころには「赤字夫人」と呼ばれるようになっていた[64]。パリでの評判があまりに悪くなっていたため、警視総監は不測の事態を恐れ、彼女に「パリにはお出でにならないように」と警告した[64]。
革命中
パリで武装蜂起したブルジョア(=市民・資本家)によってバスティーユ陥落が起こり、ルイ16世はパリとの和解の道を選んだ[65]。マリー・アントワネットは、夫にもしものことがあったら国会に避難しようと思い、国会で読み上げる声明書を作成し、
などと朗読を練習した[66]。
1790年5月ごろのアントワネットは、ルイ16世を「唯一の指導者」と呼びながら、希望的観測を持ってもいた[67]。
「過激派」批判・反民主主義
アントワネットはパリの人々のほかに、亡命貴族の動向も気にしていた[68]。早々に亡命し、外国を拠点とした貴族たちは、武力で革命を潰そうとしていた[69]。彼らはアントワネットを「民主主義者」とみなしていた[70]。彼らのような反革命家にとって、民主主義とは罵りの言葉である[70]。アントワネットとしてはやむを得ず革命に協調的態度を取っていたが、反革命家から見れば、彼女は「革命に与している」のだった[70]。
一方アントワネットは、少しでも進歩的な人物であるなら誰でも「過激派」と呼んでいた[70]。たとえば、王家のために様々な尽力をしたラ・ファイエット侯爵を、彼女は「革命家」として嫌っていた[70]。確かに、ラ・ファイエットは啓蒙主義から影響され、「フランスに自由を打ち立てる」ために革命に参入したが、彼はあくまでも君主制を当然の前提としていた[70]。ラ・ファイエットは革命前から、「両世界の英雄」として有名だった人物である(「両世界」とは、新世界(アメリカ)と旧世界(ヨーロッパ)のこと)[70]。革命前にヴェルサイユ宮殿の舞踏会で、アントワネットは彼とダンスしたこともあった[70]。
亡命貴族たちは革命に対して種々の挑発を行っていた[70]。こうした行動を、アントワネットは非常に迷惑がった[70]。彼女が亡命貴族たちと連携しているのではないかと革命家から疑われ、パリでの王家の評判が悪くなるからだった[70]。
君主主義・反革命・フェルセン
アントワネットとルイ16世はミラボーを頼るほうが現実的だったが、2人はこれまで通りフェルセンやブルトゥイユを一番頼りになる「味方」として信頼し続けた[71]。ミラボーは、革命に依拠したうえでの君主権強化を考えていたが、フェルセンたちにとって君主権強化とは、革命を否定したうえで成り立つものだった[71]。
バスティーユ陥落以降、アントワネットが「友人」と信じていた人々は次々に去っていったが、フェルセンは残った[71]。国王一家がパリへ移されてからは、アントワネットにとってフェルセンの政治的重要性が増し、2人は毎日のように会うようになった[71]。「恋」する女にとって、愛しい男の意見に従おうとするのは珍しくない[72]。アントワネットは彼の政治的意見を最重要視するようになったが、それは君主制にとっていい結果をもたらさなかった[72]。
ヴァレンヌ逃亡事件
1791年5月6日付の手紙で、アントワネットはメルシーへこう語った[73]。
アントワネットについてラ・ファイエットは
危険の中にあっても、危険を回避することよりもむしろ美しくあることを考える
と語っており、これは彼女の本質を突いている[75]。アントワネットは敗北を認めず、仮に敗れるとしても「美しく敗れる」ことを目指していた[75]。
アントワネットは政治的教育・訓練を一切受けたことがなかった[75]。彼女は政治的状況を冷静に分析して方針を出すということはできなかった[75]。彼女の方針はもっぱら、
から導き出されていた[75]。王家のためを思って彼女が打ち出した方針は、多くの場合、王家にとってマイナスの結果に終わった[75]。その最たる例が、このヴァレンヌ逃亡事件とされている[75]。アントワネットは、自分たちが成功するだろうという期待感や信条の中で動いていた[76]。
君主が従僕に変装してまでも逃亡しようとしたことに、人々は憤慨した[77]。「国王は外国の軍隊に頼って革命をつぶそうとしている」という噂が、一気に信憑性を増すことになった[77]。この逃亡事件をきっかけに、君主制廃止の声がフランス全土から沸き起こった[77]。それまでの君主は、空気と同じように「自然」であり、不可欠であるはずだった[78]。しかし、君主がいなくなった5日間、人々は変わらず生活できており、日は昇って沈んだ[79]。君主がいなくなっても国は亡くなりはせず、別に困りはしないということを、君主自らが証明してしまった[77]。
アントワネットは、ピルニッツ宣言によってヨーロッパ諸国が軍事力を誇示し、フランス人を震え上がらせることを望んだが、この宣言は火に油を注いだ[80]。革命が潰されて身分制度的差別や領主への年貢が復活することを、一般のフランス人は極度に恐れていた[80]。ゆえに大多数のフランス人は、何としてでも革命を守ろうとした[80]。
アントワネットは、軍事的に革命を屈服させ、君主権を再確立したいという思いのほかに、自分へ数々の無礼を働いた「不逞の輩」(民衆の活動家や革命家)を処罰したいという思いもあった[81]。「国王のもとに結集するよきフランス人」によってフランスは平和になる、と彼女は夢想していた[81]。
憲法・立憲君主制
君主は神から国を統治する権限を委任されたとする「王権神授説」は、革命によって否定された[82]。ヴァレンヌから帰った当初は君主制廃止が議論されていたが、一応混乱は収束され、立憲王政が成立した[82]。アントワネットは、近代的な憲法を受け入れるふりをしたが、本当は彼女にとって憲法とは
唾棄すべき作品
実行不可能な馬鹿馬鹿しいことの連鎖
であり、君主国に「不幸」や「滅亡」をもたらすものでしかなかった[83]。彼女の見るところでは、革命前の絶対君主制が正しく、「人民主権」は絶対に容認できなかった[84]。人民が君主の上にあるような「人民主権」は誤りであり、君主が人民の上にあることが正しい秩序である、というのが彼女の考えだった[85]。
音楽
上記の通り、ウィーン時代にグルックらから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。また、彼女が1774年1月30日にオペラ座でフェルセンと出会った時に二人は音楽について話し、グルックが好きという点で一致したというエピソードが残っている。[86]
後年、ルイ16世のもとに嫁いでからもハープを愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。
なおマリー・アントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。近年では“C'est mon ami”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。
2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をマリー・アントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇『ベルサイユのばら』で使用された。
このマリー・アントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜[87]も出版された。
入浴・香水
マリー・アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母マリア・テレジアも幼いころから彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだあとも彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。
入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だった香水に大きな影響をもたらした。マリー・アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、バラやスミレの花やハーブなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物を愛用し、これがやがて貴族たちの間でも流行するようになった。もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。
家具
家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。マホガニー、黒檀、紫檀、ブラジル産ローズウッドなどを使い家具を作らせた。珊瑚や銀も家具の装飾用として使われた。ドイツ人家具職人を多く抱え、ルイ16世様式(新古典主義)の家具を多く貴族に広めている。また日本製や中国製の家具や漆工芸品をとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。これらは現在もルーヴル美術館に展示されている。
ファッション・リーダー
当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた[88]。アントワネットも王妃になってまもなく、ローズ・ベルタンという新進ファッション・デザイナーを重用する。ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。
何より女性たちの視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた「庭ヘアー」や船の模型を載せた「船盛りヘアー」など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。
即位後最初の数年間を過ぎてからは、ドレスもヘアスタイルも簡素なデザインのものを好むようになった[89]。
このころベルタンは、アントワネットのために肌着として着用されていたモスリン生地や綿生地のシュミーズをパニエを着用しない気軽な普段着にアレンジしたシュミーズドレスをデザインしている。また、アントワネットはパステル調の色彩を好み、特に青を好んだといい[90]青いドレスをまとった肖像画が多数残されている。
容姿
身長は154cm[91]。 裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった[92]。一方で、30歳のときにはかなりふくよかな体型だったようで、その豊満さを覆い隠すようなギリシャ風の装いを考案している[93]。エロフ婦人が計ったところ、コルセットで58cm(23インチ)までウェストは締め付けるものの、バストは112cm(44インチ)を超えていたという。
顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、「ハプスブルク家の下唇」と言われる特徴があった。しかし、輝くばかりの真珠のような白い肌と、眩い金髪を持つ魅力的な容姿であった。
教育係であったド・ヴェルモン神父は、「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は、「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。これほど美しい腕や手は、その後二度と見たことがない」、王妃の御用画家であったルブラン夫人は、「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている[94]。
身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている[95]。
子女
- マリー・テレーズ・シャルロット - アングレーム公爵夫人(1778年12月19日 - 1851年10月19日)
- ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ - 王太子(1781年10月22日 - 1789年6月4日)
- ルイ・シャルル - ノルマンディー公爵、王太子、ルイ17世(1785年3月27日 - 1795年6月8日)
- ソフィー・エレーヌ・ベアトリクス(1786年7月29日 - 1787年6月19日)
4人の子供のうち3人は夭逝。長女マリー・テレーズは1799年結婚して夫と添い遂げ、子女の中で唯一、天寿を全うした。マリー・テレーズは結婚15年目の1813年1月に懐妊したが、流産。その後は妊娠することがなく子どもを残していないため、子孫はいない。
女官・侍女
- ノアイユ伯爵夫人
- カンパン夫人
- 1786年に部屋つき第一侍女に就任(第一侍女は数人いた。なお、侍女長ないし女官長だったノワイユ伯爵夫人、さらに侍女総監ないし女官総監だったランバル公妃やポリニャック公爵夫人らとは別の役職)。父は外交官ないし高級官僚。帝政下に開いた学校にてナポレオン・ボナパルトの子女を教育したことを理由に、王政復古後はマリー・テレーズから絶縁される。その後マリー・アントワネットの回想録を出版した[96]。
- ルイーズ・ケットペ・ド・ラボルド ("Louise Marguerite Émilie Henriette Quetpée de Laborde")
- カンパン夫人と同じ部屋つき第一侍女。ジャルジャイュ伯爵フランソワ・レーニエ将軍は再婚相手。
- トゥルゼール公爵夫人
- ポリーヌ・ド・トゥルゼール
- トゥルゼール公爵夫人の娘。母とともにテュイルリー宮殿で国王一家に付き従っていた。結婚後はベアルン伯爵夫人。マリー・テレーズとは生涯友情関係にあり[98]、復古王政期にマリー・テレーズの侍女になった。
参照文献
学術研究
- 安達正勝『マリー・アントワネット:フランス革命と対決した王妃』中央公論新社、2014年。ISBN 978-4121022868。
- 内海, 和雄「資本主義はなぜ, 女性にスポーツを普及させるのか(Why Does Capitalism Spread Women's Sport?)」『広島経済大学研究論集(HUE journal of humanities, social and natural sciences)』第40巻第2号、広島経済大学経済学会、2017年、1-22頁。
- 松村, 明「マリーアントワネット」『大辞林 第三版』Kotobank、2018年 。2018年9月3日閲覧。 大辞林 第三版『マリーアントワネット』 - コトバンク
- 山上, 正太郎「マリ・アントアネット」『日本大百科全書(ニッポニカ)』Kotobank、2018年 。2018年9月3日閲覧。 日本大百科全書『マリ・アントアネット』 - コトバンク
- Britannica Japan Co., Ltd.「マリ・アントアネット」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』Kotobank、2018年 。2018年9月3日閲覧。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『マリ・アントアネット』 - コトバンク
- Cengage (2018a). “Marie Antoinette”. Women in World History: A Biographical Encyclopedia. Encyclopedia.com 2021年11月14日閲覧。
- Cengage (2018b). “Marie Antoinette”. UXL Encyclopedia of World Biography. Encyclopedia.com 2021年11月14日閲覧。
- Oxford University Press (2018). “Marie Antoinette”. World Encyclopedia. Encyclopedia.com 2021年11月14日閲覧。
その他
ノンフィクション・評伝
- ヴァリクール, エマニュエル・ド 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットと5人の男:宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち』 上、原書房、2020a。ISBN 978-4562057962。
- ヴァリクール, エマニュエル・ド 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットと5人の男:宮廷の裏側の権力闘争と王妃のお気に入りたち』 下、原書房、2020b。ISBN 978-4562057979。
- (カストロ 1972a)カストロ, アンドレ『マリ=アントワネット』 1巻、村上光彦訳、みすず書房、1972年4月。ISBN 978-4-622-00507-0。
- (カストロ 1972b)カストロ, アンドレ『マリ=アントワネット』 2巻、村上光彦訳、みすず書房、1972年6月。ISBN 978-4-622-00508-7。
- (佐伯 2010)佐伯真魚『マリー・アントワネット曲集 王妃様の作った愛の歌』中央アート出版社、2010年6月。ISBN 978-4-8136-0586-7。
- (Erickson 1991)Carolly Erickson (1991-03). To the Scaffold: The Life of Marie Antoinette. William Morrow & Co. ISBN 978-0688073015
一次資料
- (アリソン 1855)Sir Archibald Alison (1855). Histoire de l'Europe depuis le commencement de la Révolution française en 1789 jusqu'à nos jours, V. F. Parent
フィクション・文学
- (藤本 2006)藤本ひとみ『王妃マリー・アントワネット 青春の光と影』角川書店、2006年10月。ISBN 978-4-04-873734-0。
- (藤本 2010)藤本ひとみ『マリー・アントワネット物語 中 恋する姫君』講談社〈講談社青い鳥文庫 284-2 歴史発見!ドラマシリーズ〉、2010年11月。ISBN 978-4-06-285171-8。
- (堀ノ内 & 千明 1992)堀ノ内雅一(シナリオ)、千明初美(漫画)『マリー・アントアネット 革命に散った悲劇の王妃』集英社〈学習漫画 世界の伝記 集英社版 20〉、1992年3月。ISBN 978-4-08-240020-0。
関連書籍
日本語で発行された書籍のみを記す。
- シュテファン・ツヴァイクによる評伝
- 「マリー・アントアネット」(シュテファン・ツワイク/高橋禎二、秋山英夫共訳、青磁社、上・下、1948年11月、NCID BN12899211)
- のち、三笠書房で刊行(三笠書房〈世界文學選書〉、上・下、1950年-1951年、NCID BN12662096)
- のち、岩波書店で文庫化(岩波書店〈岩波文庫〉、上・中・下、1952年-1953年、NCID BN0045547X)
- のち改版、(『マリー・アントワネット』、秋山英夫改訳版、岩波文庫、上・下、1980年6月、NCID BN01521004)
- 「マリー・アントワネット 或る月並な女人の肖像」(ツヴァイク/山下肇訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、1958年-1959年、NCID BN11369369)
- のち、角川文庫で再版(『マリー・アントワネット』ツヴァイク/山下肇訳、角川書店〈角川文庫 名著コレクション〉、上・下、1984年、ISBN ISBN 978-4-04-208205-7、ISBN 978-4-04-208206-4)
- 新訳版「マリー・アントワネット」(シュテファン・ツヴァイク/中野京子訳、角川書店〈角川文庫〉、上・下、2007年1月)
- 「マリー・アントワネット」(藤本淳雄、森川俊夫訳、『ツヴァイク全集 11・12』、みすず書房、全2巻、1962年、NCID BN01029932)
- のち、新装版(『ツヴァイク全集 13・14』、みすず書房、全2巻、1974年、NCID BN01940277)
- のち、改訂版(『ツヴァイク伝記文学コレクション 3・4』、みすず書房、全2巻、1998年9月、NCID BA37769305)
- 「マリー・アントワネット」(関楠生訳、河出書房新社〈第3集 世界文学全集 第15巻 ツワイク〉、1965年5月、NCID BN07302116)
- のち、河出文庫で改訂再刊(河出書房新社〈河出文庫〉、上・下、1989年6月 、新装版2006年11月、NCID BA80965908)
- 伝記・評伝
- 「マリー・アントワネット」(フランク・W.ケニョン/岡田真吉訳、潮書房、1956年10月、NCID BN1543575X)
- 「マリー・アントワネット」(アレクサンドル・デュマ/木村毅、大倉燁子訳、小山書店新社、1957年10月)
- 「物語マリー・アントワネット」(窪田般彌(窪田般弥)、白水社、1985年1月/白水社〈白水Uブックス 1007〉、1991年6月)。新書判
- 「デュバリー伯爵夫人と王妃マリ・アントワネット ロココの落日」(飯塚信雄、文化出版局、1985年3月)
- 「マリー・アントワネットの生涯」(藤本ひとみ、中央公論社、1998年7月/中央公論新社〈中公文庫〉、2001年6月)
- 「マリー・アントワネット」(ジョーン・ハスリップ/櫻井郁恵訳、近代文芸社、1999年6月)
- 「王妃マリー・アントワネット」(エヴリーヌ・ルヴェ/塚本哲也監修、遠藤ゆかり訳、創元社〈「知の再発見」双書〉、2001年11月)
- 「マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡」(パウル・クリストフ編/藤川芳朗訳、岩波書店、2002年9月)
- 「マリー・アントワネットとヴェルサイユ-華麗なる宮廷に渦巻く愛と革命のドラマ」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2003年8月)
- 「ロココの花嫁マリー・アントワネット ベルサイユへの旅路」(ケーラー・鹿子木美恵子、叢文社、2005年5月)
- 「マリー・アントワネット」Marie Antoinette: The Journey(アントニア・フレイザー/野中邦子訳、ハヤカワ文庫、上・下、2006年12月)
- 「マリー・アントワネット38年の生涯 断頭台に散った悲運の王妃」(新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2008年1月)
- 「王妃マリー・アントワネット 華やかな悲劇のすべて」(藤本ひとみ、角川書店、2008年6月)
- 「マリー・アントワネットとフランスの女たち 甘美なるロココの源流」(堀江宏樹、春日出版、2008年8月)
- 「マリー・アントワネットの「首飾り事件」」(アンタール・セルプ/リンツビヒラ裕美訳、彩流社、2008年10月)
- 「王妃マリー・アントワネット」(新人物往来社編〈ビジュアル選書〉、2010年4月)
- 「王妃マリー・アントワネット 美の肖像」(南川三治郎写真、世界文化社、2011年3月)
- 「マリー・アントワネット運命の24時間 知られざるフランス革命ヴァレンヌ逃亡」(中野京子、朝日新聞出版、2012年2月)
- のち、文藝春秋で文庫化(文藝春秋〈文春文庫〉、2014年8月、ISBN 978-4-16-790165-3)
- 「マリー・アントワネット ファッションで世界を変えた女」(石井美樹子、河出書房新社、2014年6月、ISBN 978-4-309-22612-5)
- 「マリー・アントワネット フランス革命と対決した王妃」(安達正勝、中央公論新社〈中公新書〉、2014年9月、ISBN 978-4-12-102286-8)
- 「マリー・アントワネット 華麗な遺産がかたる王妃の生涯」(エレーヌ・ドラレクス、アレクサンドル・マラル、ニコラ・ミロヴァノヴィチ/岩澤雅利訳、原書房、2015年3月、ISBN 978-4-562-05141-0)
マリー・アントワネットを扱った作品
小説
- 「SOSタイム・パトロール」- 光瀬龍著、朝日ソノラマ、1972年。ジュブナイル小説)
- 「王妃マリー・アントワネット」 - 遠藤周作著、朝日新聞社、1979年-1980年。のち新潮文庫)
- 「王妃に別れをつげて」 - シャンタル・トマ著、白水社、2012年11月13日刊行。翻訳:飛幡祐規 *2002年フェミナ賞受賞 (映画化題『マリー・アントワネットに別れをつげて』)
- 「マリー・アントワネット物語」 - 藤本ひとみ著、K2商会絵、青い鳥文庫 歴史発見!ドラマシリーズ、2010年。上「夢みる姫君」、中「恋する姫君」、下「戦う姫君」の全3巻。ジュブナイル小説)
映画
- 『マリー・アントアネットの生涯』 - 1938年。W・S・ヴァン・ダイク監督、ノーマ・シアラー主演のマリー・アントワネットを主人公にした原作シュテファン・ツヴァイク『マリー・アントワネット』の映画化。
- 『マリー・アントワネット』 - 1956年。ジャン・ドラノワ監督、ミシェル・モルガン主演のフランス映画。
- 『ベルサイユのばら』 - 1979年、ジャック・ドゥミ監督の日本映画。池田理代子原作の日本の漫画の映画化。クリスティーネ・ベームがマリー・アントワネットを演じた。
- 『愛と欲望の果てに』(1)<6回シリーズ> ―フランス革命200周年記念映画― 「マリー・アントワネット」』(NHK-BS放映) Les Jupons de la Révolution: Marie-Antoinette[1] - フランスのテレビ映画。キャロリーヌ・ユペール監督。主演エマニュエル・ベアール。VHS発売題『愛と欲望の果てに/ドレスの下のフランス革命』より「マリー・アントワネット」
- 『L'Autrichienne』 - ウテ・レンパーがオーストリア女の最後を演じた、フランス映画。日本未公開。
- 『ジェファソン・イン・パリ/若き大統領の恋』 - 1995年、ジェームズ・アイヴォリー監督。1785年から1789年までトマス・ジェファソンの駐フランス公使時期を描くことで、マリー・アントワネット(シャルロット・ド・トゥルケーム)が断頭台に送られる前後も描いた(アントニオ・サッキーニ作曲のオペラ《ダルダニュス》の再現や、舞台、会食、謁見なども)。
- 『マリー・アントワネットの首飾り』 - 2001年の米国映画。
- 『マリー・アントワネット』 - 2006年、ソフィア・コッポラ監督、キルスティン・ダンスト主演のマリー・アントワネットを主人公に、80年代の音楽なども混ぜて創作した青春映画。
- 『王妃マリー・アントワネット』 - 2006年に放映された、フランス・カナダ合作のテレビ映画作品。カリーヌ・ヴァナッス主演。
- 『マリー・アントワネットに別れをつげて』 - ブノワ・ジャコ監督、レア・セドゥ主演、2012年のフランス歴史映画。革命発生時のマリー・アントワネット(ダイアン・クルーガー)を朗読係の目から描く。
舞台作品
- ベルサイユのばら (宝塚歌劇)
- ミュージカル『マリー・アントワネット』 - 原作:遠藤周作『王妃マリー・アントワネット』
- ミュージカル『1789 -バスティーユの恋人たち-』
- 舞台劇『首のない王妃・マリーアントアネットのその後』 - 博品館劇場2011年9月舞台、武田光太郎主演。
- オペラ『ヴェルサイユの幽霊』 - ジョン・コリリアーノ作曲
ラジオドラマ
- 『フランツ・ルフレルの天使たち』 - 杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。(声:ReeSya)、脚本・杉崎智介
漫画
- 池田理代子『ベルサイユのばら』 - ルイ15世末期からフランス革命前後までのベルサイユ宮殿を舞台とした漫画。
- 森園みるく『欲望の聖女 令嬢テレジア』 - フランス革命初期からロベスピエール処刑までを舞台とした漫画。他の作品と違い、この作品ではアントワネットの悪行をメインに描いている。
- にしうら染『踊る! アントワネットさま』 - マリー・アントワネットの親友となった女流画家を主人公に、2人の友情を描いた作品。
- 惣領冬実『マリー・アントワネット』 - 「週刊モーニング」(講談社)で連載された漫画。史上初のヴェルサイユ宮殿による監修。
- 原作:池田悦子 / 作画:あしべゆうほ『悪魔の花嫁』 - コミックス10巻に収録された「ギロチンが招いた女」で、アントワネットと彼女によく似た娼婦が神のお告げの言い伝えのある洞窟で出会い、その後、2人の運命が入れ替わって娼婦はフェルセンの良心と引き換えに王妃として死ぬ代償として彼に抱かれ、ギロチンで処刑される。そのため、アントワネットは名もない幽霊となってさ迷う。
- 坂本眞一『イノサン』-国王ルイ十六世の斬首刑の指揮を執った実在の死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンを主人公にしている。マリー・アントワネットはアンリ・サンソンの妹・マリーの自由な生き様に憧れを抱く。
- 乃木坂太郎『第3のギデオン』-18世紀のフランスで反政府運動をおこなう平民のギデオン・エーメがルイ16世夫妻と知り合い、交流を深めるが時代の波を止められず、フランス革命に至る動向が描かれる。
- 磯見仁月『傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン』 - ローズ・ベルタンの生涯を取り扱った漫画。コミックス第3巻からマリー・アントワネットが登場する。
アニメーション
- 『ラ・セーヌの星』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。アントワネットは知らなかったが、彼女の父君ロートリンゲン公フランツ1世がフランスのオペラ座の歌姫との間に設けたシモーヌ・ロランという異母妹がいるという設定。
ゲーム
- 『ワールドチェイン』- レブナントとして登場。
- 『グリムノーツ』- 英雄として登場。
- 『IdentityV』- 血の女王として登場。
- 『SOUL REVERSE ZERO』ー 英霊として登場。
- 『モンスターストライク』 - モンスターとして登場。
- 『消滅都市』 - タマシイとして登場。
- 『少女☆歌劇 レヴュースタァライト −Re LIVE−』 - 花柳香子の衣装として登場。
- 『薔薇に隠されしヴェリテ』
- 『Oblivious』 - 2019年12月26日にサービス終了。
- 『マグナとふしぎの少女』 - レジェンズとして登場。
- 『ちょいと召喚!モンスターバスケット』 - モンスターとして登場。
- 『My Crypto Heroes』 - ヒーローとして登場。
- 『Fate/GrandOrder』-サーヴァントとして登場。
脚注
注釈
- ^ 原文: "Her life of pleasure and extravagance contributed to the outbreak of the French Revolution in 1789"[8].
- ^ 原文: "Her extravagant lifestyle, which included lavish parties and expensive clothes and jewelry, made her unpopular with most French citizens"[9].
- ^ 原文: "Marie Antoinette was the very symbol of a failed and hated monarchy in the most profoundly symbolic revolution of modern history, the sad fulfillment of all the prophecies of vanity"[10].
- ^ 当時のアンジュー通りの角で、寺院の敷地の外であり、パリ8区にある現在のマドレーヌ寺院とはかなり離れている。贖罪教会は旧敷地の一部に立ち、ルイ18世が兄夫妻の冥福を祈って建てさせたものである。
- ^ 1794年3月25日に墓地は閉鎖されていた。
出典
- ^ a b c d e 松村 2018, p. 「マリーアントワネット」.
- ^ a b ヴァリクール 2020a, pp. 10–11.
- ^ 内海 2017, p. 3.
- ^ 田口 2018, p. 「ブルジョア革命」.
- ^ a b c d e 山上 2018, p. 「マリ・アントアネット」.
- ^ a b c Britannica Japan Co., Ltd. 2018, p. 「マリ・アントアネット」.
- ^ 王妃アントワネットとフェルセン伯のラブレター、黒塗り部分の解読に初成功 2020年6月5日 時事ドットコム
- ^ a b Oxford University Press 2018, p. "Marie Antoinette".
- ^ a b c Cengage 2018b, p. "Marie Antoinette".
- ^ a b Cengage 2018a, p. "Marie Antoinette".
- ^ ヴァリクール 2020b, p. 奥付け.
- ^ ヴァリクール & 202b0, p. 197.
- ^ ヴァリクール 2020b, p. 197.
- ^ a b c d e ヴァリクール 2020b, p. 198.
- ^ ヴァリクール 2020b, p. 201.
- ^ 藤本 2006, p. 126「はみ出し者」- p. 159「元旦のできこと」
- ^ 藤本 2010 [要ページ番号]
- ^ 足達, 正勝『マリー・アントワネット』中央公論新社、2014年9月25日、232頁。ISBN 9784121022868。
- ^ マリー・アントワネットの遺言書
- ^ アリソン 1855, p. 157.
- ^ 作:シュテファン・ツヴァイク訳:高橋禎二、秋山英夫『マリー・アントワネット (下)』岩波文庫、1980年改訳第1刷発行、344, 345頁より引用 ISBN 4-00-324372-2
- ^ 『世界大百科事典』(2014年改定新版第6刷)189ページ。
- ^ a b 安達正勝 2014, p. ii.
- ^ a b ヴァリクール 2020a, p. 11.
- ^ a b ヴァリクール 2020a, p. 83.
- ^ ヴァリクール 2020a, pp. 81–82.
- ^ ヴァリクール 2020a, pp. 80–81.
- ^ ヴァリクール 2020a, p. 82.
- ^ a b c ヴァリクール 2020a, p. 101.
- ^ ヴァリクール 2020a, p. 102.
- ^ ヴァリクール 2020a, pp. 102–103.
- ^ ヴァリクール 2020a, p. 103.
- ^ a b ヴァリクール 2020a, p. 77.
- ^ ヴァリクール 2020a, p. 77-78.
- ^ a b c d e ヴァリクール 2020a, p. 78.
- ^ a b c d e f 安達正勝 2014, p. v.
- ^ a b c d e f g 安達正勝 2014, p. vi.
- ^ 安達正勝 2014, pp. vi–vii.
- ^ a b 安達正勝 2014, p. vii.
- ^ a b c d 安達正勝 2014, p. 247.
- ^ 安達正勝 2014, pp. 247–248.
- ^ a b c d e f 安達正勝 2014, p. 248.
- ^ 堀ノ内 & 千明 1992 p.89およびp.135
- ^ Jean-Jacques Rousseau (フランス語), Les Confessions (Rousseau), ウィキソースより閲覧。
- ^ “仏大統領目指す政治家がマリー・アントワネットを思わせる発言”. www.afpbb.com. 2020年2月15日閲覧。
- ^ a b c 安達正勝 2014, p. 8.
- ^ 安達正勝 2014, pp. 8–9.
- ^ a b c 安達正勝 2014, p. 9.
- ^ 安達正勝 2014, pp. 9–10.
- ^ a b 安達正勝 2014, p. 10.
- ^ 安達正勝 2014, p. 30.
- ^ 安達正勝 2014, pp. 30–31.
- ^ 安達正勝 2014, p. 31.
- ^ a b c d e 安達正勝 2014, p. 58.
- ^ a b c d e 安達正勝 2014, p. 63.
- ^ a b c d e f 安達正勝 2014, p. 64.
- ^ a b 安達正勝 2014, p. 72.
- ^ 安達正勝 2014, p. 73.
- ^ a b 安達正勝 2014, p. 74.
- ^ a b c 安達正勝 2014, p. 78.
- ^ a b c 安達正勝 2014, p. 83.
- ^ a b c d 安達正勝 2014, p. 88.
- ^ a b 安達正勝 2014, p. 89.
- ^ a b 安達正勝 2014, p. 95.
- ^ 安達正勝 2014, pp. 108–109.
- ^ 安達正勝 2014, p. 109.
- ^ a b 安達正勝 2014, p. 131.
- ^ 安達正勝 2014, p. 136.
- ^ 安達正勝 2014, pp. 136–137.
- ^ a b c d e f g h i j k 安達正勝 2014, p. 137.
- ^ a b c d 安達正勝 2014, p. 143.
- ^ a b 安達正勝 2014, pp. 143–144.
- ^ 安達正勝 2014, p. 150.
- ^ 安達正勝 2014, pp. 150–151.
- ^ a b c d e f g 安達正勝 2014, p. 151.
- ^ 安達正勝 2014, p. 152.
- ^ a b c d 安達正勝 2014, p. 161.
- ^ 安達正勝 2014, pp. 161–162.
- ^ 安達正勝 2014, p. 162.
- ^ a b c 安達正勝 2014, p. 172.
- ^ a b 安達正勝 2014, p. 173.
- ^ a b 安達正勝 2014, p. 174.
- ^ 安達正勝 2014, p. 175.
- ^ 安達正勝 2014, pp. 175–176.
- ^ 安達正勝 2014, p. 176.
- ^ 『マリー・アントワネットと5人の男(下)』原書房、2020年10月25日、83頁。ISBN 9784562057979。
- ^ 佐伯 2010 [要ページ番号]
- ^ 『ビジュアル百科 世界史1200人 1冊で丸わかり』145頁。
- ^ カストロ 1972a, p. 211.
- ^ 『マリー・アントワネット 華麗な遺産が語る王妃の生涯』原書房、2015年3月14日、60頁。ISBN 9784562051410。
- ^ マリー・アントワネット 154cm? 山梨の歴史研究家 肖像画から身長解析『読売新聞』2010年8月18日29面
- ^ カストロ 1972b, p. 298.
- ^ Erickson 1991, p. 177.
- ^ カストロ 1972b, pp. 5, 185-187.
- ^ カストロ 1972b, p. 186.
- ^ 『マリー・テレーズ』恐怖政治の子供、マリー・アントワネットの娘の運命 スーザン・ネーゲル著 2009年 近代文学社 P268
- ^ ネーゲル P122,124,171
- ^ ネーゲル p106,138,333
関連項目
- マリア・ルイーザ (パルマ女公) - 兄レオポルト2世の孫で、相手は皇帝ナポレオン・ボナパルトと、やはりフランスへ嫁いだ。
- ロラン夫人 - ジロンド派の黒幕的存在。同時代に生きたアントワネットとは対照的な"女王"だった。
- 首飾り事件
- プチ・トリアノン
- ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ - プチ・トリアノンにある"王妃の村里"。
- トリアノンの幽霊 - マリー・アントワネットの亡霊を小トリアノン宮殿で目撃したとされる事件
- ホープダイヤモンド
- ウビガン - 香水
- 森永製菓 - 同社のマリービスケットは、アントワネットが宮殿で初めて高級ビスケットを作らせ、自分の名マリーと名付けて常に愛用したという伝から創業者が命名[1]。
- ^ 同志社英学校と森永西洋菓子製造所─創始者たちの帰国より死に至るまで森永長壹郎、同志社大学『新島研究』103号、2012-02-28
外部リンク
マリー・アントワネット
| ||
フランスの君主 | ||
---|---|---|
空位 最後の在位者 マリー・レクザンスカ
|
フランス王妃・ナバラ王妃 1774年–1792年 ナバラ王妃は1791年まで在位 1791年以降:フランス人の王妃 |
空位 次代の在位者 ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネフランス皇后として |
請求称号 | ||
称号喪失 |
— 名目上 — フランス王妃 1791年9月4日 – 1793年1月21日 |
空位 次代の在位者 マリー・ジョゼフィーヌ
|