フランス革命の年表
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フランス革命の年表(フランスかくめいのねんぴょう、仏: Chronologie de la Révolution française)は、フランス革命(1789年〜1799年)とそれに関連する出来事、さらにその原因にまで遡って取りまとめた年表である。
革命以前
[編集]啓蒙思想の世紀
[編集]- 1709年:厳冬により西ヨーロッパ全域で大飢饉[1]
- 1715年9月1日:ルイ15世即位
- 1721年:財務総監ジョン・ローのミシシッピ計画がバブル崩壊
- 1725年:パンの価格高騰による食糧暴動
- 1729年:コルシカ独立戦争始まる(〜1769年)
- 1731年:宰相フルーリーの中央集権政策にパリの高等法院が反発し、法服貴族が多数追放される
- 1733年:ポーランド継承戦争勃発(〜1735年)
- 1734年:ヴォルテールが『哲学書簡[2]』を出版(後に発禁処分)
- 1740年
- オーストリア継承戦争勃発(〜1748年)
- パンの価格高騰による食糧暴動
- 1744年:ジョージ王戦争勃発(〜1748年)
- 1748年:モンテスキューが『法の精神』を出版
- 1749年:財務総監ダルヌーヴィル[3]が
20分の1税 ()を創設して全国に課す(課税反対運動) - 1751年〜1772年:ディドロ、ダランベールら『百科全書』を出版[注 1]
- 1752年:ジャンセニスムに関係した食糧暴動(パンの価格高騰と高等法院弾圧に反対した暴動)
- 1756年 : 七年戦争勃発(〜1763年)
- 1758年:重農主義経済学者ケネーが『経済表』を出版
- 1762年:ルソーが『社会契約論』を出版
- 1765年:ルイ15世、イエズス会に解散を命じる
- 1766年:重農主義経済学者テュルゴーが『富の形成と分配についての考察[4]』を出版[注 2]
- 1768年:ジェノヴァ共和国がコルシカ島をフランスへ売却
- 1769年:ポンテ・ノーヴォの戦い[5](5月8日〜9日)
- 1770年
- フランス東インド会社解散
- フランスがコルシカ島を併合
- 5月16日:ハプスブルク家の皇女マリー・アントワネットがフランスに嫁ぐ
- 1771年:大法官モープー[6]が高等法院を廃止(〜1774年)
財政危機
[編集]- 1774年5月10日:ルイ16世即位。 破産政策[注 3]を進めたテレー[7]を解任し、財務総監にテュルゴーを任命
- 1775年:凶作で飢饉。テュルゴーの自由主義的改革が物価高騰を招き、食糧暴動に発展(小麦粉戦争[8])
- 1776年
- 1777年
- 1778年
- 1779年
- ラファイエットが帰国して参戦運動
- 8月10日:ルイ16世が農奴廃止令を発布
- 1780年:フランスがアメリカ独立戦争へ出兵
- 1781年
- 1783年〜1789年:浅間山、ラキ火山、ヴェスヴィオ山、フエゴ山の大噴火(世界の気温低下・厳冬)[注 6][注 7]
- 1783年
- 1784年
- 1785年
- 4月14日:カロンヌ、フランス東インド会社を再建(〜1794年)
- 首飾り事件。王妃マリー・アントワネットに云われなき悪評
- 1786年
- 1787年
貴族の反抗
[編集]1788年
[編集]連年の凶作で収穫量激減。飢餓、物価高騰。長引く不況により失業者増大
- 1月29日:パリ高等法院、プロテスタントの宗教の自由と公職に従事する権利を認めず
- 2月9日:「黒人友の会」[11]設立
- 5月8日:ラモワニョンの司法改革(高等法院から立法権と司法権を剥奪)[注 15]
- 6月7日 : グルノーブルの
屋根瓦の日 ()[12][注 13] - 7月5日:ブリエンヌ、全国三部会の召集を約束
- 7月21日 : ヴィジル決議。ドーフィネ州ヴィジル[13]で国王無許可の地方三部会召集[注 16]
- 8月8日 : ルイ16世、財政改革の審議のために三部会の召集を布告[注 17]
- 8月16日:ブリエンヌ、フランス王室財政の破産を宣言
- 8月24日:ブリエンヌ罷免
- 8月26日 : ネッケル、再び財務長官(兼大臣)に就任
- 9月14日:ラモワニョン罷免(司法改革の失敗)
- 9月23日:高等法院の再建(王権の挫折)
- 11月6日:第二回名士会召集(ネッケルが提案した第三身分の定数倍増案を否決)
- 12月5日:高等法院、第三身分定員倍増を承認
- 12月27日:枢密院[注 18]が全国三部会の第三身分の定数倍増を承認し、ルイ16世が許可
第三身分の目覚め
[編集]1789年
[編集]前年末から春にかけて全国各地で農民一揆。穀物の価格上昇
- 1月
- 1月24日:全国三部会の選挙規定が発布される(ブルジョワジーに有利な内容、農民や都市平民は排除)
- 3月4日:三部会選挙始まる(〜14日)
- 4月28日:レヴェイヨン事件[注 19]
- 5月5日 : 175年ぶりにヴェルサイユで全国三部会が開会
- 6月10日:シェイエスが第三身分(平民)は独自行動をとると宣言。「時は来た。錨綱を切れ」
- 6月17日 : 第三身分部会による国民議会の宣言
- 6月20日:球戯場の誓い(テニスコートの誓い)[注 14]
- 6月23日:国王臨席会議、国民議会の無効を宣言。ルイ16世、議員に身分毎の部会に分かれるように命令[注 20]
- 6月25日:第一身分(聖職者)の大半が国民議会と合流
- 6月26日:第二身分(貴族)の一部が国民議会と合流
- 6月27日 : ルイ16世、第一・第二身分に国民議会への合流を勧告(王権の敗北)
- 7月6日 : 憲法制定委員会の設置
- 7月8日:ラファイエット、ミラボーら議会代表、パリ郊外の軍隊引き上げ要求
- 7月9日 : 国民議会、憲法制定国民議会(立憲議会)へと改称
- 7月11日 : ネッケル罷免。ルイ16世、軍隊のパリへの集結命令[注 21]
- 7月12日
- ネッケル罷免のニュースがパリに伝わり、暴動開始(入市税関の焼き討ち)
- ルイ15世広場でランベスク大公[14]竜騎兵部隊と群衆が衝突[注 22]
- パレ・ロワイヤルでカミーユ・デムーランが市民に「武器を取れ」と演説
- 7月13日:パリ市民の武装化が進む。武力鎮圧の噂
革命勃発
[編集]バスティーユ襲撃
[編集]- 7月14日
- 7月15日 : 選挙人委員会、パリ市長にバイイ、パリ国民衛兵隊司令官にラファイエットを選ぶ
- 7月16日 : ルイ16世、立憲議会の要求を受け入れてネッケルを復職させる
- 7月中旬〜8月:
大恐怖 ()始まる[注 23] - 7月17日
- 7月18日:カミーユ・デムーラン、最初の革命マニフェスト『自由フランス[15]』を公刊
- 7月25日:パリ・コミューン成立
- 8月4日 : 封建的特権の(有償)廃止を決議[注 24]
- 8月11日:封建制廃止令
- 8月26日:「人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言)」を採択
- 9月11日:立憲議会、国王の停止的拒否権を議決
- 9月12日 : マラー、『人民の友』紙を創刊(しばしば発禁と再刊を繰り返す)
- 10月1日:近衛兵の宴会でマリー・アントワネットが三色帽章を冒涜
- 10月5日〜6日 : ヴェルサイユ行進(十月行進)[注 25]
- 10月10日:ギヨタン博士、立憲議会で処刑器具ギロチンの使用を提言
- 10月12日 : 国王と共に、立憲議会もパリへ移ることが決定。室内馬術練習場を新議場に
- 11月:ジャコバン・クラブの設立
- 11月2日 : 教会財産国有化を宣言
- 12月19日:アッシニアを発行(第一回は債券で、非紙幣)
- 12月22日:地方自治法を制定(14日〜)
憲法と議会
[編集]1790年
[編集]- 1月15日:フランスは83県の地方自治体に再編
- 2月20日:オーストリアのヨーゼフ2世が病死
- 3月29日:教皇ピウス6世、人権宣言を批判
- 4月:コルドリエ・クラブの設立
- 4月17日 : アッシニアに強制流通力を付与(第二回より紙幣に)
- 5月21日:パリ市を48地区に区分
- 6月19日:貴族の称号廃止
- 6月21日:アヴィニョン(教皇領)をフランスに併合
- 7月12日:聖職者民事基本法を採択
- 7月14日 : シャン・ド・マルスで第一回全国連盟祭[16](革命一周年式典)
- 8月11日 : 十分の一税の無償廃止
- 8月31日:ナンシーで兵士の反乱鎮圧(24日〜31日)
- 9月3日:ネッケル、立憲議会と対立して辞職
- 9月6日 : 高等法院の廃止(司法の民主化)
- 9月:エベール、『
デュシェーヌ親爺 ()』紙を創刊 - 10月9日:トスカーナ大公が神聖ローマ皇帝レオポルト2世として即位
- 10月21日 : 三色旗をフランスの国旗に制定
- 11月27日:立憲議会、全聖職者に聖職者民事基本法への宣誓を義務づけ(教会と対立)
- 12月12日:銀本位制(銀単本位制)を採用
1791年
[編集]- 3月2日
- 3月10日:ピウス6世、聖職者民事基本法を批判して改めて人権宣言を攻撃(反革命)
- 3月20日:
徴税請負制 ()[17]廃止 - 3月23日:オランダの女権論者エッタ・パルム[18]がパリで初の女性団体「真実の友同盟」結成
- 4月2日:ミラボー死去。国王と議会の連絡役が不在に
- 4月18日:国王一家が復活祭のミサのためにサン=クルーに行くのを拒絶される
- 5月1日:入市関税廃止
- 5月16日:ロベスピエールの提案で立憲議員の次期議会での再選禁止決議
- 6月14日:ル・シャプリエ法(労働者団結禁止法)が可決
- 6月20日〜25日 : ヴァレンヌ事件[注 26]
- 7月5日:レオポルド2世、パドヴァ回状を発す
- 7月14日 : 第二回全国連盟祭
- 7月15日:ジャコバン・クラブでルイ16世廃位請願運動を決議
- 7月16日
- ジャコバン・クラブから立憲派が脱退し、フイヤン・クラブを設立
- フイヤン派主導の立憲議会、ヴァレンヌ事件はルイ16世が誘拐されたものとして免責を宣言
- 7月17日 : シャン・ド・マルスの虐殺[注 27]
- 8月14日:サン=ドマングでハイチ革命が勃発(〜1804年)[注 28]
- 8月27日:ピルニッツ宣言[注 29]
- 9月:オランプ・ド・グージュが「女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)[19]」を発表
- 9月3日 : 1791年憲法の制定。立憲君主制への移行始まる
- 9月14日 : 国王が新憲法に宣誓
- 9月25日:刑法制定(旧刑法)
- 9月27日:ユダヤ人同権化法令
- 9月28日:農事基本法可決(囲い込みの自由承認)
- 9月30日 : 憲法制定国民議会が解散
- 10月1日 : 立法議会の召集
- 11月9日:亡命者処罰法が成立(亡命貴族は翌年1月1日までに帰国しなければ死罪)
- 11月14日:ペティヨン[20]がパリ市長に当選
- 12月9日:フイヤン派内閣成立(第一次)
- 12月21日:ロベスピエール、反戦演説
- 12月31日:ブリッソー、「新しい自由の十字軍」を主張(革命の輸出)
祖国は危機にあり
[編集]1792年
[編集]この年は久しぶりの豊作だったがアッシニア下落につき、穀物価格上昇
- 1月2日:ジャコバン・クラブでジロンド派が開戦論を主張[注 30]
- 1月25日 : 立法議会、ピルニッツ宣言の取り消しをオーストリアに要求
- 2月7日:オーストリアとプロイセンが軍事条約を締結
- 2月9日:亡命者財産没収令
- 3月1日:レオポルド2世が死去
- 3月10日 : フイヤン派内閣総辞職(第一次)
- 3月23日 : ジロンド派内閣成立
- 3月24日 : 立法議会、植民地でのムラートや黒人も含むすべての自由人の平等を決議。(奴隷制は存続)
- 4月20日 : 立法議会、オーストリア[注 31]に対し宣戦布告(フランス革命戦争の開戦)
- 4月25日 : 『ラ・マルセイエーズ』が作曲される
- 4月28日〜9月20日:戦線が大混乱[注 32]
- 5月18日:ラファイエット北方軍司令官、攻撃不能を宣言し、国王に和平交渉を勧告
- 6月15日 : 国王がジロンド派の大臣を罷免。フイヤン派内閣(第二次)が成立
- 6月20日 : 民衆がテュイルリー宮殿の王の寝室にまで押し寄せ国王の前で示威行為
- 6月24日:プロイセン、ヘッセン=カッセルがオーストリアとの同盟を理由に参戦
- 7月10日 : フイヤン派内閣総辞職(第二次)
- 7月11日:立法議会、「祖国は危機にあり」の宣言(義勇兵の呼びかけ)
- 7月14日
- 7月25日 : 同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク公が声明(ブラウンシュヴァイクの宣言)[注 33]
共和国の樹立
[編集]サン・キュロット
[編集]- 8月10日
- 8月13日
- 8月14日:ラファイエット軍司令官、パリ進軍を企図(兵士の反対で失敗)
- 8月17日
自治市会 ()、特別重罪裁判所を設置- 連盟兵、国王廃位を要求
- 8月18日:バルナーヴ逮捕(〜1793年11月29日処刑)
- 8月19日:ラファイエット、軍を捨てて亡命
- 8月23日
- ギロチンの使用始まる
- ロンウィ要塞降伏
- 8月27日:次の議会のための予選会(第一次選挙)が始まる
- 9月1日:ヴェルダン要塞降伏
- 9月2日〜6日 : 九月虐殺[注 35]
- 9月3日:選挙集会(第二次選挙)が始まる(普通選挙[注 36])
- 9月20日
- 9月21日 : 王政の廃止を決議し、共和国宣言(フランス第一共和政成立)
- 9月22日:この日が革命暦の元年元旦となる
- 9月25日
- ジロンド派が提案した州連邦制度案を否決[注 37]
- ジロンド派、ロベスピエールを「独裁を目指す者」として告発
- 10月2日 : 国民公会、保安委員会や公教育委員会など14の委員会を設置
- 10月6日:ジェマップの戦い[注 38]
- 10月8日:ビュゾー、県衛兵隊(連盟兵)の創設を提案
- 10月10日
- ダントン、機密費問題で司法大臣辞職
- パリ・コミューン、ジャコバン・クラブからブリッソーを追放(ジロンド派脱退)
- 11月13日:サン=ジュスト、国王裁判について演説
- 11月27日:サヴォワを併合
- 12月4日:国王裁判開始(〜1793年1月15日結審)
1793年
[編集]対外戦争と内戦で共和国は最大の苦境に
- 1月1日 : 国防委員会[注 39]を設置
- 1月21日 : 国王ルイ16世処刑
- 1月23日:第二次ポーランド分割
- 1月31日:ニースを併合
- 2月1日 : 国民公会、イギリス・オランダに宣戦布告
- 2月13日 : オーストリア・プロイセン・イギリス・スペイン・オランダ等による第一次対仏大同盟結成
- 2月21日:アマルガム法
- 2月24日:30万人募兵令(国民軍・強制募兵制度[注 40])
- 3月3日 : リヨンの反乱(〜1794年10月9日)
- 3月7日 : 国民公会、スペインに宣戦布告
- 3月10日
- 3月18日
- ネールウィンデンの戦い[21](ベルギーでフランス軍大敗)
- ライン地帯に、マインツ共和国成立(〜7月22日崩壊)
- 4月2日:デュムリエの裏切り[注 42]
- 4月6日 : 公安委員会(第1期)の成立(臨時行政機関)
- 4月9日:派遣議員制度
- 4月13日:マラー逮捕(24日に無罪釈放)
- 4月14日〜7月23日:マインツ包囲
- 4月22日:アメリカ、対フランス中立宣言
- 4月27日:ダントン、ヴァンデの反乱鎮圧へパリのサン・キュロットを派遣
- 5月4日 : 穀物の最高価格令制定(価格統制が始まる)
- 5月18日:十二人委員会[22]の設置
- 5月20日:10億リーブルの累進強制公債
- 5月29日:マルセイユで反革命
ジャコバン派独裁
[編集]恐怖政治
[編集]- 5月31日:国民衛兵とサン・キュロット、国民公会を包囲
- 6月2日 : 6月2日の革命[23](議員29名が逮捕。ジロンド派追放)
- 6月22日:累進強制公債を修正して再可決(税率強化)
- 6月24日
- 1793年の人権宣言
- 1793年憲法(ジャコバン憲法)制定(実際には実施されず)
- 6月25日〜8月22日:アンラージェ[24](過激派)の活動激化
- 7月10日:公安委員会刷新
- 7月12日 : トゥーロンで王党派反乱
- 7月13日 : マラー暗殺
- 7月17日
- 封建的特権の(無償)廃止が決議
- シャルロット・コルデー処刑
- 7月27日
- ロベスピエールが公安委員会に参加(大公安委員会始まる)
- 買占禁止令
- 7月29日:ナントの戦い[注 43]
- 8月1日:度量衡の統一[注 44]
- 8月10日
- 第一回8月10日祭開催
- ルーヴル美術館開館
- 8月22日:ジャック・ルー[25]逮捕(アンラージェ弾圧)
- 8月23日 : 総動員法の施行[注 45]
- 8月29日 : サン=ドマングへ派遣された委員ソントナ[注 46]が独断で全ての黒人奴隷解放を宣言
- 9月:エベール派(矯激派)が活発化(極左政策・非キリスト教化運動)
- 9月5日
- 9月11日:革命軍[注 48]の創設
- 9月17日:反革命容疑者法制定
- 9月21日:航海条令
- 9月25日:国民公会、公安委員会に独裁権を付与(公安委員会独裁始まる〜1794年7月27日)
- 9月29日 : 最高価格令(一般最高価格令)制定
- 10月5日:国民公会、グレゴリオ暦を廃止しフランス革命暦(共和暦)を採用
- 10月10日 : 革命政府宣言[注 49]
- 10月15日〜16日
- 10月17日:ショレの戦い[注 51]
- 10月31日 : ブリッソーら、ジロンド派議員21名が処刑
- 11月8日 : ロラン夫人処刑
- 11月10日:ノートルダム聖堂で理性の祭典[注 52]
- 11月17日:インド会社事件[27](ダントン派の汚職)
- 12月4日
- 12月5日:デムーラン、『ヴィエイユ・コルドリエ』紙を創刊(恐怖政治批判)
- 12月12日〜13日:ルマンの戦い[28]
- 12月19日 : トゥーロン市奪回[注 53]
- 12月23日:サヴェニー会戦[29](ヴァンデ反乱軍壊滅、ゲリラ戦へ)
1794年
[編集]- 1月19日 : イギリス軍、コルシカ島に上陸
- 2月4日 : プリュヴィオーズ16日法(2月4日の法令)可決(全フランス植民地での黒人奴隷制廃止[注 54])
- 2月26日 : ヴァントーズ法可決[注 55]
- 3月4日:コルドリエ派の神聖蜂起(未遂)
- 3月10日:ダントン派(寛容派)一斉逮捕
- 3月13日〜14日:エベール派一斉逮捕
- 3月24日
- 3月27日:サン・キュロットからなる革命軍[注 48]を解散
- 4月2日 : ダントンの裁判が始まる
- 4月5日 : ダントン、デムーランらダントン派処刑
- 4月16日:公安委員会に治安局設置(ジェルミナル27日法)
- 4月22日:ルイ16世の弁護人、ラモワニョン・ド・マルゼルブ処刑
- 5月8日 : 化学者ラヴォワジエ処刑
- 5月31日〜6月1日:6月1日海戦(栄光の6月1日)
- 6月8日 : シャン・ド・マルスで最高存在の祭典
- 6月10日 : プレリアル22日法制定(刑罰を死刑のみに・大恐怖政治)
- 6月26日:フルーリュスの戦い [注 56]
- 7月27日 : テルミドール9日のクーデター[注 57][注 58]
- 7月28日 : ロベスピエール、サン=ジュスト、クートン、ルバら22名が処刑
テルミドール反動
[編集]軍隊の台頭
[編集]- 7月29日:ジャコバン・クラブ、タリアンやフレロンなどテルミドール派を除名
- 8月6日:元革命裁判所裁判長ジャン=バティスト・コフィナル処刑
- 8月10日:革命裁判所の改組(白色テロ始まる)
- 8月21日:フランスがコルシカ島を放棄(アングロ・コルス王国[注 59]成立)
- 8月24日:諸委員会改革、公安委員会の弱体化
- 9月5日:メルラン・ド・チョンヴィル、国民公会でジャコバン・クラブ解散を提案
- 9月7日:最高価格令を停止
- 9月19日:金ぴか青年隊、ジャコバン・クラブを占拠
- 10月25日:プロイセン軍、イギリスとの条約を破棄してオランダから撤退
- 11月12日 : 国民公会、ジャコバン・クラブを閉鎖
- 12月2日:ヴァンデ叛徒に対して大赦令[注 60]
- 12月16日 :ジャン=バティスト・カリエの処刑
- 12月24日 : 最高価格令を撤廃[注 61]
- 12月27日:ピシュグリュ将軍[31]、オランダ侵攻開始
1795年
[編集]- 1月19日:フランス軍、オランダ・アムステルダムを無血占領
- 1月31日:外国貿易禁止撤廃
- 2月9日:トスカーナ大公国と中立条約
- 2月21日:国民公会、「信仰の自由」を宣言
- 3月8日 : ジロンド派復活
- 4月1日 : ジェルミナル暴動[32]
- 4月5日:プロイセンと和平条約(バーゼルの和約)
- 4月7日:メートル法制定[注 44]
- 5月7日:アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル処刑
- 5月16日:バタヴィア共和国成立
- 5月20日 : プレリアル蜂起[33](モンターニュ派壊滅)
- 5月31日 : 革命裁判所の廃止(白色テロ終焉)
- 6月8日:ルイ17世がタンプル塔で病死
- 6月21日:アッシニア紙幣のデノミネーション(2/25に切り下げ)
- 6月23日〜7月21日:オッシュ将軍、イギリス軍と亡命貴族軍によるキブロン遠征を阻止[34]
- 7月22日:スペインと和平条約(第二次バーゼルの和約)
- 8月15日:新通貨単位フランを導入
- 8月22日 : 共和暦3年憲法(1795年憲法)の制定(9月23日より施行)
- 8月23日:1795年の人権宣言[35]
- 8月30日:3分の2法令
- 10月1日 : ベルギーを併合
- 10月5日 : ヴァンデミエール13日のクーデター[注 62]
- 10月24日:第三次ポーランド分割
- 10月25日:平時の死刑廃止
- 10月26日
- 10月31日:総選挙
- 11月4日:公安委員会解散
- 11月25日:ポーランド王スタニスワフ2世退位(ポーランド王国消滅)
1796年
[編集]- 2月28日:パンテオン・クラブ閉鎖
- 3月10日:アッシニア廃止
- 3月18日:総裁政府、
地券 ()を発行[注 63] - 3月27日 : ボナパルト将軍、第一次イタリア遠征を開始
- 4月28日:ピエモンテとの間にケラスコ休戦条約
- 5月10日:バブーフの陰謀(平等主義者の陰謀)が発覚[注 64]
- 5月15日:ピエモンテと和平条約
- 6月23日:教皇ピウス6世とモデナ、ボナパルトと休戦条約
- 6月29日:トランスパダーナ共和国成立
- 7月:オッシュ将軍、ヴァンデの反乱を鎮圧
- 8月5日:カスティリオーネ会戦および第二次ロナト会戦
- 8月19日:第二次サン・イルデフォンソ条約[注 65](仏西同盟)
- 9月7日:バイエルン選帝侯カール・テオドール、フランスと休戦条約
- 10月5日:スペインがイギリスへ宣戦布告
- 11月17日:ロシアのエカチェリーナ2世が崩御。パーヴェル1世が即位
- 12月16日:オッシュ、アイルランド遠征に出発(21〜27日、暴風雨によりボタニー湾への上陸失敗)
- 12月31日:チスパダーナ共和国成立
1797年
[編集]- 1月14日:リヴォリ会戦
- 2月2日:マントヴァ要塞陥落
- 2月14日:サン・ビセンテ岬の海戦
- 2月19日:教皇と和平条約(トレンチノ条約[36])
- 4月4日:共和国5年の選挙(王党派躍進)
- 4月18日:ボナパルトがオーストリアとレオーベン仮条約を結ぶ(総裁政府は4月30日に承認)
- 5月12日:フランス軍に降伏し、ヴェネツィア共和国解体
- 5月27日:フランソワ・ノエル・バブーフ、ダルテ処刑
- 6月14日:ボナパルト、ジェノヴァ共和国を解体し、リグーリア共和国を建国
- 7月9日:ボナパルト、チスパダーナ共和国とトランスパダーナ共和国などを合併し、チザルピーナ共和国建国
- 9月4日:フリュクティドール18日のクーデター[注 66]
- 9月30日:財務大臣ラメル、「三分の二破産」政策始める
- 10月17日 : カンポ・フォルミオの和約締結。オーストリアと講和
- 11月16日:プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世死去。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世即位
- 12月16日:ラシュタット会議始まる
革命の終焉
[編集]1798年
[編集]- 2月15日:ローマ共和国成立(教皇領消滅)
- 3月29日:フランス軍がベルンに進駐
- 4月9日〜18日:共和国6年の選挙(ジャコバン諸派躍進)
- 4月12日:スイスにヘルヴェティア共和国成立
- 5月11日 : フロレアール22日のクーデター
- 5月19日 : ボナパルト、東方遠征(エジプト遠征)に出発
- 6月11日:フランス軍、マルタ島占領(マルタ騎士団領消滅)
- 8月1日:ナイル海戦(アブキール海戦)
- 9月5日:ジュールダン法[37]制定(国民皆兵制・世界初の近代徴兵制度)
- 12月4日:ナポリに宣戦布告
- 12月24日 : 第二次対仏大同盟結成
1799年
[編集]- 1月23日:シャンピオネ将軍、ナポリに侵攻し、パルテノペア共和国を建国
- 2月10日:ボナパルト、シリア遠征(〜5月17日)
- 3月12日:フランスがオーストリアへ再び宣戦布告。第二次対仏大同盟戦争
- 4月18日:共和国7年の選挙(ネオ・ジャコバン派躍進)
- 5月18日:シェイエスが総裁に選ばれる
- 6月18日 : プレリアール30日のクーデター
- 6月28日:強制公債割当法
- 7月5日:ジャコバン・クラブの再建
- 7月12日:人質法
- 7月19日:ロゼッタ・ストーンを発見
- 8月23日 : ボナパルト、軍を残してエジプトを脱出
- 8月27日:ヨーク公爵率いるイギリス・ロシア同盟軍、オランダに上陸(〜10月18日に撤退)
- 9月9日 : ボナパルト、フランスに帰国
- 9月25日〜30日:マッセナ将軍、第二次チューリッヒ会戦[38]に勝利
- 10月22日:ロシアのパーヴェル1世、対仏大同盟から脱退
- 11月9日 : ブリュメール18日のクーデター(総裁政府が倒れる)
- 11月10日:臨時統領政府(臨時執政政府)が成立
- 12月25日
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 宗教的理由で1752年に発禁処分となるが、地下出版で続刊出版。
- ^ 自由主義経済の原理を示したものとして脚光を浴びる。
- ^ 些細な違反を咎めて債権を踏み倒し、あるいは支払いを遅延して、債権者であるブルジョワジーを破産させることで、国家債務を減らす政策。強権的なやり方でブルジョワジーから強い不満があがった。
- ^ 後任の財務総監クリュニーは反動政策を行って、テュルゴーの政策をすべて取り消したが、急死する。次の財務総監タブロー・デ・レオーの助手に任命されたネッケルが財務長官として財政の実権を握った。
- ^ ネッケル辞職後も、後任のジョリ・ド・フルーリー、ドルメッソンによって募債政策は継承されたが、改革には手が付けられなかったので、フランス財政は自転車操業が続き、赤字は膨れあがった。
- ^ 世界的な火山の活動期で、噴火による大気中の粉塵の増加によって世界中で気温が最大-1.5度低下した。これにより世界中のいたるところで厳冬と凶作に見舞われ、飢饉が起こったが、これはフランス革命の遠因の一つとされる。
- ^ フランス革命の遠因になったとされる1783年の浅間山大噴火については「天明大噴火」を参照
- ^ アメリカ独立の余波はフランスにも伝わり、国内でも自由への希求が高まった。
- ^ 完成は1791年で、革命勃発後も失業者向け公共事業として継続された。
- ^ 一方でカロンヌもネッケルの会計報告書が赤字を隠すなど虚偽であったとして批判した。論争は政治的対立となって激化した。
- ^ 20分の1税に代わる新税で、土地の生産高に応じて全ての身分に課されるもので、特権身分への課税を目論んだもの(Subvention territoriale)
- ^ 英仏は従来犬猿の仲であったが、1783年のパリ条約から1793年の革命戦争の参加までの10年間は平和な時代であった。両国間は通商条約を結んで交易を活発化したが、自由貿易の門戸が開かれたことで、より安価なイギリス製品がフランス国内を席巻する事態となった。翌年より本格的な不況に陥ったフランスでは、産業が衰退し、多くの失業者が発生して社会不安が増大した。フランス革命の遠因の一つとされる。
- ^ a b 高等法院を支持する民衆が軍隊に瓦や石を投げつけた事件。同様の暴動がディジョン(11日)、トゥールーズ(19日)など各地で頻発。
- ^ a b ルイ16世が三部会の議場閉鎖を命令。反発した議員は第三身分を中心に集まり、ムーニエの提案で、憲法制定まで解散しないことを誓う。
- ^ 5月10日にルイ16世は高等法院の縮小を命令し、月末からこれに反対して全国で騒乱に発展した。
- ^ バルナーヴ、ムーニエ(Jean-Joseph Mounier)らが指導したもので、第三身分定員倍増、階級別でなく個人別投票、三部会が召集を要求し、さもなければ増税を拒否することを宣誓した。
- ^ この時、期日は翌年5月1日を予定していたが、実際には5日開催されることになった。
- ^ 国王諮問会議とも訳す。(Conseil privé)
- ^ 賃金とパンの値段についての失言に端を発した労働者の大規模な暴動で、軍隊が出動し、工場長のレヴェイヨンと家族がバスティーユに避難する事態になった。(Reveillon riot)
- ^ 第三身分は拒否。ミラボー伯爵は「われわれは銃剣の力によらなければこの場を離れない」と宣言した。
- ^ 資金難のため実行できず、15日に命令撤回。一方で、命令を出した事実が一人歩きして民衆蜂起を誘発。
- ^ パリ守備隊司令官ブザンヴァル(Pierre Victor de Besenval de Brünstatt)は撤兵を決断して無政府状態に。
- ^ 革命が生み出した無政府状態により、全国の農村で大規模な蜂起。蜂起農民は、領主館を襲撃するなどして土地台帳を焼却した。領民の報復を恐れた貴族の亡命の動きが盛んになる。
- ^ 全国に広がる農民反乱を鎮めるために立憲議会の自由主義貴族はアンシャン・レジームの廃止を決断して農民の解放を宣言した。
- ^ 6日、国王ルイ16世一家がヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿へ強制移動。
- ^ 20日深夜、国王一家がパリを逃亡。21日、ヴァレンヌで捕われ、25日にパリへ連行。
- ^ シャン・ド・マルスでの国王廃位請願デモに対してラファイエットの国民衛兵隊が発砲。
- ^ フランス革命の余波で市民権を求めるムラートが蜂起。22日、これに誘発された黒人奴隷の大規模反乱始まる。
- ^ オーストリアのレオポルト2世とプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世が亡命貴族の圧力をうけて共同声明を発表し、革命を威嚇した。
- ^ 開戦論と反戦論の争いをきっかけに、ジロンド派とジャコバン派(モンターニュ派)の主導権争いが次第に激化する。
- ^ 厳密には「ボヘミア・ハンガリー王」としてのフランツ2世に宣戦布告したため、神聖ローマ国の諸邦の大半は当初戦争に参加しなかった。神聖ローマ皇帝もちょうど空位で、諸邦が実際参加するのはフランス軍がライン川に迫ってから。
- ^ よく訓練された職業軍人で構成されるオーストリア=プロイセン同盟軍が進撃を始めると、未訓練の義勇兵を中心とし、貴族士官と平民との軋轢をかかえたフランス軍は統制を欠き、戦える状態ではなかったので、敗走を重ねた。
- ^ 28日にパリに伝わり、民衆が激怒。蜂起の動きが始まった。
- ^ a b 民衆と連盟兵がテュイルリー宮殿を襲撃した事件。立法議会が王権の停止を議決し、議会の解散も決まった。
- ^ a b プロイセン軍がヴェルダン要塞を攻略したニュースがパリに届いて、パニックが発生し、数箇所の監獄に民衆が殺到して、大半が王党派とは無関係の収監者を無差別に虐殺した事件。
- ^ ただし間接選挙であり、選挙権も現代の普通選挙とは異なる幾つかの制限があった。
- ^ この提案は、ジロンド派の一部(ビュゾー派)が主張したものに過ぎないが、ジロンド派=連邦主義者という悪評が定着するもとになった。連邦主義は地方主権論であるが、中央集権とパリ独裁を主張する革命主流派の敵と見なされた。
- ^ オーストリア軍を撃破し、南ネーデルラントの支配圏を奪った。(Battle of Jemappes)
- ^ 公安委員会の前身。(Comité de défense générale)
- ^ 徴兵制度とは違うので注意。
- ^ 聖職者民事基本法への宣誓問題と、30万人動員令に反発した王党派農民が反革命の蜂起を起こした。
- ^ 北方軍司令官のデュムリエ将軍がオーストリア軍と共謀してパリに進撃して王政復古を目指した事件で、フランス将兵に拒否され、デュムリエはルイ・フィリップらとともに亡命した。前線の最高指揮官を失ったフランス軍は大混乱に陥った。
- ^ ヴァンデ反乱軍が撃退され、指導者カトリノーが重傷を負って後に死亡した。(Bataille de Nantes)
- ^ a b メートル法が一般に浸透したのは1840年代。
- ^ これも徴兵制とは異なる。人的・物的資源の無制限の動員を可能にするもので、総力戦体制の始まり。
- ^ ジロンド派(ブリッソー派)と親しい商人で、「黒人友の会」のメンバー。立法議会および国民公会が派遣した4人の委員の1人。議員ではなかったので両議会の変わり目でも活動した。ハイチ革命で重要な役割を演じるが、1797年にサン=ドマング代表の議員となって島を離れた。(Léger-Félicité Sonthonax)
- ^ サン・キュロットの要求を受け入れて恐怖政治が始まった。広義では8月10日事件や6月2日の革命にすでに開始されていたという考え方もあるが、国民公会が公式に認めたのはこの日から。
- ^ a b 別名・食糧徴発隊。軍事組織ではないので注意。
- ^ サン=ジュストが国民公会に提案し「平和が到来するまで革命的である政府」を続けると宣言。ここでいう“革命的”とは三権の非分立を意味する。
- ^ 10月12日から始まったマリー・アントワネットの裁判は、三日間の休廷を挟んで15日に結審し、死刑判決が下された。16日に刑が執行されたのは、会戦の日程に合わせるため。
- ^ ヴァンデ叛徒のカトリック王党軍大敗。(Battle of Cholet)
- ^ 「理性の崇拝」という無神論運動の祭典。(Cult of Reason)
- ^ イギリス・スペイン・ナポリ他の同盟軍が同市を放棄して撤退。フランス軍が入城。報復のテロも始まる。
- ^ ただしフランス本土で奴隷制完全廃止がなされたのは1948年である。またこの2月4日の法令はナポレオンによって修正された。
- ^ 反革命容疑者の全財産を没収して、貧困者に再配分しようとしたが、施行はされなかった。
- ^ このフランス軍の勝利により、オーストリアの反撃は失敗し、敗戦は確定的となった。革命戦争は防衛から侵略的性格へと変わった。(Battle of Fleurus)
- ^ 国民公会でロベスピエール派の逮捕決議採択。収監されたロベスピエール派指導者達を、同派の国民衛兵隊が奪回して市庁舎に立てこもるが、深夜にバラスらの襲撃部隊の急襲で再逮捕される。
- ^ 歴史家の中に狭義としてフランス革命をテルミドールのクーデターをもって終結としたものがあったが、現在、総裁政府期を革命に含めないという考えは主流ではない。
- ^ 英国王を王とする国家で、パオリ派による英領コルシカ。総督エリオットとの対立で崩壊した。(Anglo-Corsican Kingdom)
- ^ シャレットとストフレは相次いで講和に応じ、ヴァンデ戦争はキブロン遠征で再開されるまで、一時休戦した。
- ^ アッシニアの価値が急落。物価が高騰。
- ^ バラスの副官ナポレオン・ボナパルトがこれを鎮圧。
- ^ 「土地手形」や「土地証券」などとも訳す。ハイパーインフレに陥ったアッシニアを回収するための政策で、再び土地と交換する新紙幣として創設したものであったが、大量にアッシニアを保持する富裕者に土地を配ったも同然で、格差をより拡大させた。バブーフの「平等派宣言」で告発され、蜂起の要因になった。
- ^ バブーフをはじめ、陰謀に関わった数名が逮捕された。反乱未遂事件。
- ^ フランス・ブルボン家を打倒した革命政府は、その親戚であるスペイン・ブルボン家と、対英同盟を結ぶに至った。これにより革命戦争は革命対反革命というイデオロギーではなく、列強間の国益を巡る争いに戻った。(Second Treaty of San Ildefonso)
- ^ 王党派が躍進した選挙結果を軍隊の力で無効にした事件。ボナパルトがイタリアから派遣したオージュロー将軍が指揮した。(Coup of 18 Fructidor)
出典
[編集]- ^ (Grande famine de 1709)
- ^ (Letters on the English)
- ^ (Jean-Baptiste de Machault d'Arnouville)
- ^ 「Réflexions sur la formation et la distribution des richesses」
- ^ (Battle of Ponte Novu)
- ^ (René Nicolas Charles Augustin de Maupeou)
- ^ (Joseph Marie Terray)
- ^ (Guerre des farines)
- ^ (Réflexions sur l'esclavage des nègres)
- ^ (Traité Eden-Rayneval)
- ^ (Society of the Friends of the Blacks)
- ^ (Journée des Tuiles)
- ^ (Château de Vizille)
- ^ (Charles-Eugène de Lorraine)
- ^ 「La France Libre」
- ^ (Fête de la Fédération)
- ^ (Ferme générale)
- ^ (Etta Palm d'Aelders)
- ^ (Declaration of the Rights of Woman and the Female Citizen)
- ^ (Jérôme Pétion de Villeneuve)
- ^ (Battle of Neerwinden)
- ^ (Commission extraordinaire des Douze)
- ^ (Journées du 31 mai et du 2 juin 1793)
- ^ (Enragés)
- ^ (Jacques Roux)
- ^ (Battle of Wattignies)
- ^ (Liquidation de la Compagnie des Indes orientales)
- ^ (Battle of Le Mans)
- ^ (Battle of Savenay)
- ^ (Kościuszko Uprising)
- ^ (Jean-Charles Pichegru)
- ^ (Insurrection du 12 germinal an III)
- ^ (Insurrection du 1er prairial an III)
- ^ (Invasion of France)
- ^ (Déclaration des droits et des devoirs de l'homme et du citoyen de 1795)
- ^ (Treaty of Tolentino)
- ^ (Jourdan law)
- ^ (Second Battle of Zurich)
参考文献
[編集]- 樺山紘一・木村靖二・窪添慶文・湯川武監修『クロニック世界全史』講談社、1994年11月。ISBN 4-06-206891-5
- 河野健二(編)、『資料フランス革命』、1989年、岩波書店 ISBN 4-00-002669-0