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ファマールの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ファマールの戦い
戦争フランス革命戦争
年月日1793年5月23日
場所フランス第一共和政ファマール英語版
結果:対仏大同盟の勝利
交戦勢力
フランスの旗 フランス第一共和政 ハプスブルク帝国 ハプスブルク帝国
ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領 ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
指導者・指揮官
フランスの旗 フランソワ・ジョセフ・ドルーオ・ド・ラマルシェ英語版 ハプスブルク帝国 フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト
ハプスブルク帝国 ジョセフ・ド・フェラーリ英語版
グレートブリテン王国の旗 ヨーク・オールバニ公フレデリック
戦力
27,000 53,000
損害
死傷者3,000
捕虜300
大砲17門
弾薬の詰まった台車14台
軍旗3本
死傷者約1,100
フランス革命戦争

ファマールの戦い(ファマールのたたかい、英語: Battle of Famars)はフランス革命戦争フランドル戦役英語版中の1793年5月28日フリードリヒ・ヨシアス・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト率いるオーストリア、ハノーファー、イギリスの同盟軍がフランソワ・ジョセフ・ドルーオ・ド・ラマルシェ英語版率いるフランスの北方軍英語版に勝利した戦闘。戦闘はフランス北部のファマール英語版ヴァランシエンヌから5キロメートル南のところで行われた。

背景

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1793年5月、数回の敗北によりネーデルラントにおけるフランス革命軍英語版は絶望的な情勢だった。指揮官のオーギュスト・マリー・アンリ・ピコー・ド・ダンピエール英語版が死亡した後は疲れ切っていた上に意気消沈して統率も乱れていた。さらに、各大隊からヴァンデ戦争への派遣軍が出されていた。新しく徴兵された兵士30万人のうちネーデルラントに派遣された者も多かったが、その多くが戦争に適さないか、はじめから脱走していた。新しく任命された暫定指揮官のラマルシェはこの時点ではファマールでの陣地とヴァランシエンヌの要塞に撤退するしかないと思い知った。

コーブルク公率いる同盟軍はヴァランシエンヌを包囲すべく動き出したが、まずはフランス軍の妨害を防ぐべくラマルシェをファマールから追い出そうとした。コーブルク公の軍勢には直前に26歳のヨーク・オールバニ公フレデリック率いるイギリス・ハノーファー連合軍が加勢しており、この連合軍が攻撃の先鋒を務めると決定された。イギリス軍の大半にとって、この戦闘はフランス革命軍との最初の戦闘であり、意外な決定であった。

ファマールの軍営は山の尾根の上、ヴァランシエンヌから3マイル南のところに位置しており、その東はロンネル川英語版でその橋と浅瀬が破壊されている。オーストリア軍のカール・マック・フォン・ライベリヒ英語版は本隊となる2個縦隊で軍営の東側への直接攻撃を仕掛け、より小規模な2部隊で両翼を攻撃して援護する、という計画を立てた。スヘルデ川の対岸にいたフランソワ・セバスチャン・シャルル・ジョゼフ・ド・クロワ英語版は同時にアンザン山の軍営を攻撃するとした[1]

戦闘

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戦闘の地図

本隊の第1縦隊はヨーク公率いる歩兵16個大隊と騎兵18個大隊で、5月8日のレムの戦いで戦っていたジェラード・レイク英語版率いる近衛歩兵連隊も含まれていた。マックがヨーク公に出した命令はアルトレ英語版近くの架橋でロンネル川を渡って、軍営の右翼を攻撃する、というものだった。つまり、フランス軍営に攻撃するまで抵抗を受けることは想定しなかった。

本隊の第2縦隊はオーストリアの砲兵大将ジョセフ・ド・フェラーリ英語版率いる歩兵12個大隊と騎兵12個大隊で、ラルフ・アバークロンビー率いるイギリスの第14歩兵連隊英語版第53歩兵連隊英語版で構成された部隊も含まれた。第2縦隊はソルタン英語版の村からロンネル川東岸にあった防御陣地を攻撃するとされた。陸軍元帥中将のニコラウス・コロレド=メルス(Nikolaus Colloredo-Mels)は第1小縦隊を率いてヴァランシエンヌの北東側を脅かし、ルドルフ・リッター・フォン・オットー英語版は第2小縦隊を率いてル・ケスノワを脅かした[2][3]

午前2時のすぐあと、ヨーク公の縦隊はアルトレから2マイル後ろの集合場所から出発したが、濃霧で行軍が遅れ、ロンネル川に到着したのは午前7時のことだった。ヨーク公にはマック自身、そしてコーブルク公の参謀長フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・ホーエンローエ=キルヒベルク英語版が同伴しており、ホーエンローエは無経験のヨーク公が先走りしすぎないようコーブルク公に派遣されて同伴したのであった[4]。霧が晴れるとともに、目指していた渡河点にフランス軍の歩兵と砲兵が林立していることが明らかになり、フランス軍はすぐに発砲してきた。開戦直後にマックが負傷したため、戦闘未経験者のヨーク公が自分で行動を決めなければならなかった。彼の決定は回れ右して、縦隊を2マイル南東のマレシェ英語版に向かって前進させ、オーストリアの大砲数門とすでに戦闘に入った部隊でフランス軍の注目を逸らした。マレシェの浅瀬を抵抗に遭わずに渡ったヨーク公の軽騎兵は低い尾根を登り、アルトレの南へ進んで、その先のケレナン英語版からフランス軍の側面を攻撃しようとした[5]。しかし、マレシェで遅延や混雑があったため、ヨーク公の軍勢がマレシェを出るのは午後3時のことであり、フランス軍は方向転換して脅威に対処することができた。ヨーク公がやや迂回してケレナンに到着したのは午後5時と遅かった。しかし、イギリス騎兵はフランス軍の南側にあった、守備されていないとりでの背後に移動、峡谷からとりでに入って守備軍を圧倒した。フランス騎兵はとりでを奪回しようとしたが失敗した。

一方、北のほうにいたフェラーリの縦隊は川の東岸の尾根にあった長い陣地を強襲、フランス軍をロンネル川の西岸に押し返した。フランス騎兵の数個大隊がフェラーリの軍勢の側面を脅かした場面もあったが、ハノーファーの衛兵に騎兵突撃を仕掛けられ、苦戦したのち敗走した[5]

ヨーク公はここでようやくフランス軍への攻撃の準備を整えたが、慎重なホーエンローエは兵士たちがつかれているとして反対、ヨーク公は強襲を翌朝まで延期することを余儀なくされた[4][6]

フランス軍は北側で持ちこたえたが、ラマルシェは自軍が切断される危険性に気づいた。そのため、彼はフェランにヴァランシエンヌの守備を任せて、自軍をブシャン英語版、シーザーズ・キャンプ(Caesar's Camp)、パイヤンクール英語版に撤退させた[7]。翌朝にヨーク公が攻撃を仕掛けるとき、コロレドの縦隊が北から一番乗りで軍営に入ったが、フランス軍がすでに撤退した後だった。

その後

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クロワはアンザン山で抵抗に遭ったが、結果的には攻撃に成功した。

戦闘に参加したフランス軍2万7千人のうち、3千人が死傷、300人が捕虜になった。同盟軍はほかにも大砲17門、弾薬の詰まった台車14台、軍旗3本を鹵獲した。同盟軍の損害は5万3千人のうち1,100人(主にオーストリア軍)だった。マックも負傷していた。ハノーファー軍の損害は戦死22、負傷61だった[8][9]

ファマールの脅威が去り、コーブルク公はヴァランシエンヌ包囲戦を開始、ヨーク公がフェラーリの支援で包囲を指揮した。

5月27日にはラマルシェが更迭され、代わりにアダム・フィリップ・ド・キュスティーヌが指揮を執った。

戦闘中、イギリス軍の西ヨークシャー連隊英語版(第14歩兵連隊)はサ・イラに合わせてフランス軍を攻撃した。後日、連隊は栄誉として、サ・イラが連隊の速歩行進曲に選ばれた。

評価

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オーストリア軍はラマルシェを取り逃した責任がヨーク公にあると考えたが、アルフレッド・バーンなどのイギリスの歴史家はそうとは考えず、「頭の固い指揮官は予め運命づけられたという理由だけで困難の海に潜る。しかし、適応性は戦争における正当な原則であり、将軍にとっては極めて重要な美徳である。[...]よって、ヨーク公は与えられた計画を捨てて別の計画で代替することを責められるのではなく、称えられるべきである。」とした[4]

脚注

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  1. ^ Officer of the Guards, p. 54.
  2. ^ Smith, p. 46.
  3. ^ Burne, p. 50.
  4. ^ a b c Burne, p. 53.
  5. ^ a b Officer of the Guards I, p. 50.
  6. ^ Officer of the Guards I, p. 51.
  7. ^ Phipps I, p. 181.
  8. ^ Smith, pp. 46-47.
  9. ^ Phipps I, p. 182.

参考文献

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  • Burne, Alfred (1949) (英語). The Noble Duke of York: The Military Life of Frederick Duke of York and Albany. London: Staples Press 
  • Coutanceau, Michel Henri Marie (1908) (フランス語). La Campagne de 1794 a l'Armée du Nord. Paris: Chapelot .
  • Fortescue, Sir John (1918) (英語). British Campaigns in Flanders 1690-1794 (extracts from Volume 4 of A History of the British Army). London: Macmillan 
  • Phipps, Ramsay Weston (1926) (英語). The Armies of the First French Republic and the Rise of the Marshals of Napoleon I. London: Oxford University Press 
  • An Officer of the Guards (1796) (英語). An Accurate and Impartial Narrative of the War, by an Officer of the Guards. London 
  • Smith, Digby (1998) (英語). The Napoleonic Wars Data Book. London: Greenhill. ISBN 1-85367-276-9 

外部リンク

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座標: 北緯50度18分58秒 東経3度31分12秒 / 北緯50.3161度 東経3.5200度 / 50.3161; 3.5200