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イザボー・ド・バヴィエール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イザボー・ド・バヴィエール
Isabeau de Bavière
フランス王妃
在位 1385年7月17日 - 1422年10月22日
戴冠式 1389年8月23日、於ノートルダム大聖堂

出生 1370年
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
バイエルン公領ミュンヘン
死去 1435年9月24日
フランス王国パリ
埋葬 1435年10月
フランス王国サン=ドニサン=ドニ大聖堂
結婚 1385年7月17日 アミアン
配偶者 シャルル6世
子女 一覧参照
家名 バイエルン=インゴルシュタット家
父親 シュテファン3世
母親 タデア・ヴィスコンティ
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イザボー・ド・バヴィエールフランス語: Isabeau de Bavière, 1370年頃 - 1435年9月24日)は、フランス王シャルル6世の妃。シャルル7世の母。ヴィッテルスバッハ家バイエルン公(バイエルン=インゴルシュタット公)シュテファン3世の長女。曽祖父は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世

結婚前はドイツ名でエリーザベト・フォン・バイエルンElisabeth von Bayern)と呼ばれていた。フランス語形はエリザベート・ド・バヴィエールElisabeth de Bavière)。

生涯

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1385年7月17日、14歳のときに、アミアンでシャルル6世(当時16歳)と結婚。翌1386年から1407年までに12人の子供をもうけた。

1392年9月、夫シャルル6世が、精神疾患を発症し、1400年頃までに統治が不可能な状態となった[1]。イザボーは王弟オルレアン公ルイと関係を持ったとされ[2][3]ブルゴーニュ派アルマニャック派の対立の一因となった。

1407年にルイが暗殺された(オルレアン公ルイ1世の暗殺英語版)後、両派の勢力争いの中で王家の権威の維持に努めた。暗殺事件によりブルゴーニュ派が勢力を拡大したのは、イザボーがブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)を新たな愛人にしたからだとも言われた[2]

ブルゴーニュ派アルマニャック派の系図
ジャン2世(善良王)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル5世(賢明王)
 
 
 
 
 
 
 
 
ベリー公
ジャン1世
 
 
 
 
 
ブルゴーニュ公
フィリップ2世(豪胆公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル6世(狂気王)
 
イザボー
 
オルレアン公
ルイ
ボンヌ
 
(アルマニャック伯)
ベルナール7世
 
ジャン1世(無怖公)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シャルル7世(勝利王)
 
 
 
シャルル
 
 
ボンヌ
 
 
 
フィリップ3世(善良公)
 
 

1415年10月のアジャンクールの戦いでの戦死者のみならず、翌年にかけアルマニャック派の要人が相次いで死去して、同派は弱体化する[4]。そこでアルマニャック派が擁立したのが、王太子シャルル(後のシャルル7世)だった[4]。アルマニャック派はイザボーを追放すると、彼女は公然とジャン無怖公と結んだ[5][4]。ブルゴーニュ派と王妃は翌1418年7月にパリに入城し、政権を握るが、イングランド軍の侵攻に為すすべがなかった[6]。ブルゴーニュ公はイングランド寄りの姿勢だったが、1419年に、ジャン無怖公の所領であるポントワーズが襲撃されるに至り、アルマニャック派と王太子との和解を画策する必要性を認識した[7]。同年9月にモントローフランス語版での会談の折、王太子の側近がジャン無怖公を暗殺した(ブルゴーニュ公ジャン1世の暗殺英語版[7]

トロワ条約締結時のシャルル6世とイザボー

両派の対立は決定的となり、新たなブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は、同年末に「アングロ・ブルギニョン同盟」を成立させた[8][9]。同盟の結実である1420年トロワ条約ではイングランド王ヘンリー5世の王位継承を認め、またシャルル6世と王妃イザボーによって実子のはずのシャルル王太子は「王太子ヴィエノワを称する者」とされた上、さらにジャン無怖公暗殺の責任を負わされるに至った[10]。条約締結に際し、イザボーは王太子シャルルがシャルル6世の子ではないことを示唆したといわれる[11]。フィリップ善良公はヘンリー5世に与し、同年12月には共にパリ入城を果たす等[12]、以後も長期にわたりイングランド側に与した。

英仏百年戦争の終盤期にあって、アルマニャック派に擁立されたシャルル王太子は、自らの出自に自信が持てず、積極的な攻勢に移ることができないでいた[13]。その後、ジャンヌ・ダルクの出現により、シャルルが1429年夏にランスでフランス国王としての戴冠を果たす。一方、1431年12月に行われたヘンリー6世のフランス王戴冠式にブルゴーニュ公フィリップ善良公は欠席し、フィリップ善良公はイングランド側と疎遠になっていった。そして1435年9月21日アラスの和約でシャルル7世とブルゴーニュ派は和解した[14]

その数日後、イザボーはパリで亡くなった。

子女

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  1. シャルル(1386年) - ドーファンとなるも夭折。
  2. ジャンヌ(1388年 - 1390年
  3. イザベル1389年 - 1409年) - イングランド王リチャード2世妃。
  4. ジャンヌ1391年 - 1433年) - ブルターニュ公ジャン5世と結婚。
  5. シャルル(1392年 - 1398年) - 2人目のドーファンとなるも夭折。
  6. マリー(1393年 - 1438年) - ポワシー修道院に入る。
  7. ミシェル1393年 - 1422年) - ブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ善良公)と結婚。
  8. ルイ1397年 - 1415年) - ギュイエンヌ公。3人目のドーファンとなるが早世。
  9. ジャン1398年 - 1417年) - トゥーレーヌ公。4人目のドーファンとなるが早世。
  10. カトリーヌ1401年 - 1437年) - イングランド王ヘンリー5世妃。ヘンリー6世の母。
  11. シャルル(1403年 - 1461年) - 5人目のドーファン、フランス王シャルル7世
  12. フィリップ(1407年) - ジャンヌ・ダルク私生児説の基になった。

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 佐藤 2003, pp. 124–125.
  2. ^ a b 佐藤 2003, p. 125.
  3. ^ カルメット 2023, p. 122.
  4. ^ a b c 佐藤 2003, p. 130.
  5. ^ カルメット 2023, p. 239.
  6. ^ 佐藤 2003, pp. 130–131.
  7. ^ a b 佐藤 2003, p. 131.
  8. ^ 佐藤 2003, p. 132.
  9. ^ 堀越 1996, p. 57.
  10. ^ カルメット 2023, p. 266.
  11. ^ 桐生1996 pp245-248
  12. ^ カルメット 2023, p. 268.
  13. ^ 佐藤 2003, pp. 147.
  14. ^ 佐藤 2003, pp. 165–166.

参考文献

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  • 桐生操 『血まみれの中世王妃 イザボー・ド・バヴィエール』 新書館、1996年
  • 堀越, 孝一『ブルゴーニュ家』講談社講談社現代新書〉、1996年7月。ISBN 978-4-06-149314-8 
  • カルメット, ジョゼフ 著、田辺保 訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』国書刊行会、2000年5月1日。ISBN 978-4-3360-4239-2 
    • カルメット, ジョゼフ 著、田辺保 訳『ブルゴーニュ公国の大公たち』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2023年5月10日。ISBN 978-4-4805-1177-5 
  • 佐藤, 賢一『英仏百年戦争』集英社集英社新書〉、2003年11月14日。ISBN 978-4087202168