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アンナ・ヤロスラヴナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンヌ・ド・キエフ
Anne de Kiev
アンヌ・ド・キエフ像(サンリス
在位 1051年 - 1060年

出生 1024/32年
キエフ大公国キエフ
死去 1075年9月5日
埋葬 フランス王国、セルニー、ヴィリエール=オー=ノナン修道院
結婚 1051年5月19日 ランス大聖堂
1062年
配偶者 フランスアンリ1世
  ヴァロワ伯ラウル4世
子女 フィリップ1世
ロベール
エマ
ユーグ1世
父親 キエフ大公ヤロスラフ1世
母親 インゲゲルド・アヴ・スヴェーリエ
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アンナ・ヤロスラヴナウクライナ語Анна Ярославна)またはアンヌ・ド・キエフフランス語: Anne de Kiev1024/32年 - 1075年)は、フランスアンリ1世の2度目の王妃。キエフ大公ヤロスラフ1世と妻インゲゲルド(スウェーデン王オーロフの娘)の娘。

生涯

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幼少期

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画面向かって右端の人物はアンナ・ヤロスラヴナか、本人ではなく兄弟か姉の誰かと唱える説がある[注釈 1]。(聖ソフィア大聖堂のフレスコ画、キエフ)

ヤロスラフ1世ノヴゴロド公を経てキエフ大公の座につき賢公と慕われ、母は後妻でスウェーデンから輿入れをしたインゲゲルド英語版であり、きょうだいの何番目に生まれたか明確に伝わっていない。フィリップ・デロールメ英語版の説では生年を1027年としており[1]、一方、アンドリュー・グレゴロヴィチ(Andrew Gregorovich)はキエフの年代記を引用して、ヤロスラフ1世に娘が生まれたという記述を示し[2]1032年説を提案する。史料の後付はなくとも、末っ子であることはおそらく誤りではないこと、幼少期の記録がほとんど残っていないことは明白で、字が読めて自分の名前を綴ることはできたと類推する資料があり、1061年にキリル文字で署名を記している[1]。父王がユーゴスラビアの各地に学校を建てさせたと前出のデロールメは示し、家族内でも読み書きを覚えさせ教養を身につけさせたという説を示して、アンナ・ヤロスラヴナは教養人であったという[1]。論客のグレゴロヴィチはこの公女がフランス語を学んで、フランス王室への輿入れに備えたと唱える[3]

婚約

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アンリは婚約者であったマティルデ・フォン・フランケン神聖ローマ皇帝コンラート2世の娘)、その姪であった先の妃マティルド・ド・フリーズを亡くした後、ヨーロッパの各王家・貴族の中に王妃にふさわしい姫はいないか探したが[4]、なかなか見つからなかった。当時、6親等以内の血族婚は禁止されており、長年の政略結婚の繰り返しのせいで、血のつながりのない結婚年齢の女性を捜すことは難しかった。

フランス王アンリが18歳になった1080年台後半に、アンナ・ヤロスラヴナを妃に望んで折衝が始まる。先妃と子どもをとむらい嫡子がない王に対して、血族婚に反対の教会の圧が高まりつつあった。キエフ大公の家系はフランスとも縁があり、ヤロスラフ1世はビザンチン帝国の影響が強まらないように努め、娘たちを西側諸国の王室に嫁がせていたのである[1]

アンリ王はモーのゴーティエ司教 (Gauthier of Meauxショーニー英語版のゴスリン司教 (Goscelin of Chaunyに無名の顧問団を随行させ、1049年秋から1050年春のいずれかの時期にキエフ王宮のヤロスラフのもとに遣わした。当時、キエフ大公にさし向ける外交使節には2タイプがあり、シャロンのロジェ司教も同行した可能性はある[1][3][5]。婚姻をめぐる交渉や持参金の取り決めは記録に残っていないものの、キエフを出発したアンナは〈豪華な贈り物〉を携えたと伝わる[1]

歴史家グレゴロヴィチは、この時にフランスにもたらされた宝石や貴石の中から、シュジェール修道院長(スュジェ、1081年頃-1151年)にジャシント石英語版を下賜して、サン=ドニ大聖堂(パリ)の聖櫃(せいひつ)を飾らせたと主張する[3][注釈 2]。公女一行は1050年の夏もしくは秋にキエフを離れて、ランスに向かった[1]

アンリがキエフ大公国まで派遣した使節は公女アンナ[注釈 3]を連れて帰国した。聞けば、ヤロスラフ公の母は東ローマ帝国の皇女だといい[注釈 4][要出典]、この結婚で、かつてのローマ皇帝の末裔の縁者になり、カペー家の王座に権威がもたらされるとアンリは考えた。

婚約直後は全くフランス語を話せなかったアンナだが、ほとんど読み書きができなかったアンリに対し、アンナは5ヵ国を話す才媛で、婚約者が待つパリまで移動した日数でフランス語を覚えてしまう程であった。

ビザンティン帝国の影響が強かったキエフはフランスより文化的に先進しており、パリに着いたアンナは街並みのみすぼらしさにショックを受け、さらに野蛮で、不潔かつ無教養のフランス人に良い印象を持たなかった。夫アンリも例外ではなく教養のない田舎者と評して嘆き、アンナは祖国の父へ「家々は陰気で教会は醜く、習慣はとても不愉快」と書き送っている[8]

対するアンリはブロンドの美女であったアンナにたちまち心を動かされ、1051年5月19日にランス大聖堂で結婚する[注釈 5]と、以降、アンリは王妃をアンヌと呼び熱愛した。

王妃として

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摂政として

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ウクライナの硬貨に刻まれたアンヌ像(2014年発行)

1060年にアンリが没すると、まだ7歳の幼年だったフィリップを補佐して、アンヌはフランス初の王妃摂政を務め、後任にフランドル伯ボードゥアン5世が就任した。アンヌはフランス語こそ流暢ではなかったが、当時の女性には珍しく読み書きができたため、その地位が務まったものと考えられる[要出典]

夫を失って間もなく、アンナはヴァロワ伯ラウル4世と愛し合うようになり、それを隠そうともしなかった。ラウルは妻を離縁し1062年にアンナと再婚した[8]。この結婚はヴァロワ伯の政治的野心の現れであると貴族は警戒した。前妻は、そもそも血族婚であったと結婚の無効を言い立てられるとローマ教皇庁に不義の告発をして報復し、教皇アレクサンデル2世は、アンヌとラウルを破門した。

宮廷から遠ざけられた2人は、それでも仲睦まじく暮らした。1074年9月にラウルが亡くなると、フィリップ1世は母アンヌを許して宮廷に迎えた。1075年にアンヌは亡くなり、セルニーのヴィリエール=オー=ノナン修道院に葬られたといわれる。

没後の影響

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サンヴァンサン修道院に立つアンヌ像(2011年)
同じ修道院で1996年撮影された写真。碑文はこの後、修正された。
同じ修道院で1996年撮影された写真。碑文はこの後、修正された。

大衆文化

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歴史ファンはフランスとロシアの外交関係が増えた18世紀から19世紀にわたって再びアンヌに関心を寄せ、数多くの伝記が出版され、また忘れられた。20世紀にウクライナの国粋主義英語版がアンナを運動の象徴にした[1]。それとはまったく無関係に旧ソビエト連邦で映画『Yaroslavna, the Queen of France』(1978年、仮題フランス女王ヤロスラヴナ)が制作される。

歌曲「アンナ・ヤロスラフナ」はアンティン・ルドニツキーウクライナ語版が書き、初演はカーネギー・ホール(1969年、ニューヨーク市)である。ウクライナ政府は、記念切手(1998年[3])を発行してアンナ・ヤロスラヴナの事績をたたえたほか、サンリスに新しい銅像を立てる計画を後援して2005年6月22日の式典ではヴィクトル・ユシチェンコ大統領が除幕した[3]

家族

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アンリとの間に3人の男子と1女が生まれた。

  • フィリップ(1052年 - 1108年) - 長男、のちのフィリップ1世
  • ロベール(1054年 - 1065年頃) - 二男、10歳で夭折。
  • エマ(1055年 - 1109年頃) - 長女。
  • ユーグ(1057年 - 1101年) - 三男、ヴェルマンドワ伯の女子相続人と結婚、のちにクレピー伯を継ぐ。1101年の十字軍出征中にタルススで戦死。ユーグ・ル・グラン王子(Hugues le Grand)あるいはユーグ・マニュス(Hugues Magnus)と呼ばれた。

脚注

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注釈

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  1. ^ アンナ・ヤロスラヴナだとするのは美術史家Viktor Lazarev英語版。兄弟か姉の誰かであり公女本人ではないというのは歴史家ロベール・アンリ・ボーティエ(英語)の主張。
  2. ^ シュジェール修道院長の言葉を引用[6][7]
  3. ^ アンナの名前はフランス語でアンヌまたはアニエスとも呼ばれた。
  4. ^ アンナの母の出自には現在、異論がある。
  5. ^ 婚礼の正餐は母国ウクライナの伝統では5品のコース料理であるのに、3品しか給仕されなかったことにもアンナは不満をもらした。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h Shevelov 1978, doi:10.1515/9783110802146.249
  2. ^ Zavalina, Oksana L. (2010-11-30). “Cossack Bibliography: A Selected Bibliography of the Zaporozhian and Other Cossacks of Ukraine, the Don Cossacks of Russia and the Kuban Cossacks , by Andrew Gregorovich: Ukrainian translation of the introduction by Marta Olynyk. Toronto: Forum, 2008. 371 pp. ISBN 9780921537656.” (英語). Slavic & East European Information Resources 11 (4): 391–393. doi:10.1080/15228886.2010.523878. ISSN 1522-8886. http://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/15228886.2010.523878. 
  3. ^ a b c d e Gregorovich, Andrew (2011). Anna Yaroslavna, Queen of France & Princess of Ukraine: Anne De Kiev [アンナ・ヤロスラフナ、フランス女王にしてウクライナ公女:キエフのアンヌ]. Toronto: Forum 
  4. ^ Duby, G. J. Vale訳 (1991). France in the Middle Ages, 987–1460. Oxford. p. 117 
  5. ^ Raffensperger 2012, pp. 94–97
  6. ^ Bauthier 1985, p. 550
  7. ^ Hallu 1973, p. 168
  8. ^ a b ハバード 2018, p. 45.

参考文献

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主な執筆者の姓の順。

洋書

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姓のアルファベット順。 ウィキデータより。

  • Henry Gardiner Adams, ed. (1857年), “Anne of Russia” (英語), A Cyclopaedia of Female Biography: 53 , Wikidata Q115751576

書誌情報

  • Bauthier, Robert-Henri. (1985). “Anne de Kiev reine de France et la politique royale au Xe siècle”. Revue des Etudes Slaves 57: 543–45. 
  • Bogomoletz, Wladimir V (2005). “Anna of Kiev. An enigmatic Capetian Queen of the eleventh century. A reassessment of biographical sources” (英語). French History 19 (3). 
  • Bouyer, Christian (1992) (フランス語). Dictionnaire des Reines de France. Paris: Perrin. pp. 135–137  ISBN 2-262-00789-6
  • Dauxois, Jacqueline (2003) (フランス語). Anne de Kiev. Reine de France. Paris: Presse de la Renaissance  ISBN 2-85616-887-6.
  • de Caix de Saint-Aymour, Amédée (1896) (フランス語). Anne de Russie, reine de France et comtesse de Valois au XIe siècle. Paris: Honoré Champion. 
  • Delorme, Philippe (2015) (フランス語). Anne De Kiev : Épouse de Henri Ier. Paris: Pygmalion  ISBN 978-2756414898
  • Hallu, Roger (1973) (フランス語). Anne de Kiev, reine de France. Rome: Editiones Universitatis catholicae Ucrainorum 
  • Horne, Alistair (2005) (英語). La belle France: A Short History. New York: Knopf. https://archive.org/details/labellefrancesho00horn  ISBN 9781400041404
  • Lawrence, Cynthia, ed (1997) (英語). Women and Art in Early Modern Europe: Patrons, Collectors, and Connoisseurs. ペンシルベニア州立大学出版局 
  • Lobanov-Rostovskii, Aleksandr Iakovlevich (1825) (フランス語). Recueil de Pièces Historiques sur la reine Anne ou Agnès, épouse de Henri Ier, Roi De France, et Fille de Iarosslaf Ier, Grand Duc de Russie. Paris: Typ. De Firmin Didot 
  • McLaughlin, Megan (2010) (英語). Sex, Gender, and Episcopal Authority in an Age of Reform, 1000–1122. Cambridge University Press. http://www.history.illinois.edu/people/megmclau 
  • Raffensperger, Christian (2012) (英語). Reimagining Europe: Kievan Rus' in the Medieval World. Harvard University Press  ISBN 978-0674065468
  • Raffensperger, Christian (2016). Ties of Kinship: Genealogy and Dynastic Marriage in 'Kyivan Rus'. Harvard University Press  ISBN 978-1932650136
  • Sokol, Edward D. (1973). “Anna of Rus, Queen of France”. The New Review. A Journal of East European History (13): 3–13. 
  • Treffer, Gerd (1996). “Die französischen Königinnen. Von Bertrada bis Marie Antoinette”. Jahrhundert (Pustet: Regensburg) 8 (18): 81–83.  ISBN 3-7917-1530-5
  • Ward, Emily Joan (2016-03-08) (英語). Anne of Kiev (c.1024-c.1075) and a reassessment of maternal power in the minority kingship of Philip I of France. Institute of Historical Research, London University 
  • Woll, Carsten (2002) (ドイツ語). Die Königinnen des hochmittelalterlichen Frankreich 987-1237/38. 24. Stuttgart: Franz Steiner. 109–116  ISBN 3-515-08113-5

外部リンク

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