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中島敦

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中島 敦
(なかじま あつし)
1940年前ごろ
誕生 1909年5月5日
日本の旗 日本東京府東京市四谷区箪笥町59番地(現・東京都新宿区四谷三栄町
死没 (1942-12-04) 1942年12月4日(33歳没)
日本の旗 日本・東京府東京市世田谷区世田谷(現・東京都世田谷区世田谷1丁目32-18)
岡田病院(現・世田谷中央病院)
墓地 多磨霊園
職業 小説家教員
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
教育 文学士
最終学歴 東京帝国大学文学部国文科
活動期間 1927年 - 1942年
ジャンル 小説
主題 中国古代武人の苦難と運命
戦時下の知識人の孤独と苦悩
芸術家の自我と悲劇
存在の形而上学的不安
哲学的懐疑
世界のきびしい悪意
代表作山月記』(1942年)
光と風と夢』(1942年)
弟子』(1943年)
李陵』(1943年)
主な受賞歴 第3回毎日出版文化賞(1949年)
デビュー作 『古譚』(山月記、文字禍)(1942年)
配偶者 橋本タカ
子供 長男・桓(たけし)
長女・正子(生後3日目に死亡)
次男・格(のぼる)
親族 中島慶太郎(祖父)
中島田人(父)、チヨ(生母)
中島靖、、翊、開蔵(伯父)
中島比多吉(叔父)
ふみ、志津(伯母)
うら(叔母)
澄子(異母妹)、折原一(甥)
桜庭幸雄(異父弟)
ウィキポータル 文学
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中島 敦(なかじま あつし、1909年明治42年)5月5日 - 1942年昭和17年)12月4日)は、日本小説家。代表作は『山月記』『光と風と夢』『弟子』『李陵』など[1][2][3][4]第一高等学校東京帝国大学を卒業後、横浜高等女学校の教員勤務の傍ら小説執筆を続け、パラオ南洋庁官吏(教科書編修書記)を経て専業作家になるも、同年中に持病の喘息悪化のため33歳で病没[5][6]。死後に出版された全集は毎日出版文化賞を受賞した[6][7]

その短い生涯に残した著作は、中国古典の歴史世界を題材にした作品や、南島から材を得た作品、古代伝説の体裁を取った奇譚・寓意物、自身の身辺を題材にした私小説的なものなど、未完作も含めわずか20篇たらずであったが[1][8][9][10][11]、漢文調に基づいた硬質な文章の中に美しく響く叙情詩的な一節が印象的で、冷厳な自己解析や存在の哲学的な懐疑に裏打ちされた芸術性の高い作品として評価されている[1][2][3]

特に遺作となった『李陵』の評価は高く、死後に名声をあげた作品の一つとして知られている[12][13][1]。また、『山月記』は雑誌『文學界』に掲載されたことで中島敦の名を初めて世間に知らしめた作品であり[1]、のちに新制高等学校国語教科書に広く掲載され、多くの人々に読み継がれている[14]。なお、自筆資料や遺品は神奈川近代文学館の「中島敦文庫」に所蔵されている[15][16][17][18]

生涯

生い立ち

1909年(明治42年)5月5日に、東京府東京市四谷区箪笥町59番地(現・東京都新宿区四谷三栄町[19])で、父・中島田人(たびと)と、母・チヨの長男として生まれた[6]。この地は母の実家の岡崎家であった[20]

父・田人は、儒学者中島撫山の六男で漢学の教育を父兄から受けた影響で旧制中学校の漢学教員となり、敦が誕生した34歳当時は千葉県銚子町(現・銚子市)の中学校に勤務していた[21][6]。母・チヨは元小学校教員で、前年1908年(明治41年)に2人は結婚していた(届出は1908年12月)。

しかしながら、敦が1歳の時に両親は離婚し、2歳の時から父の郷里の埼玉県南埼玉郡久喜町大字久喜新に引き取られ、祖母や伯母たちに育てられた[6]。祖父・中島撫山は敦の幼少時に亡くなっていたものの、伯父たちには学者の中島斗南中島竦らがいて、敦もまた彼らを通して儒学の影響を受けた[21]節「家族・親族」も参照)。

5歳の時に父が紺家カツと再婚し[22][6]、6歳から奈良県で父と継母と暮らした[6]。その後、14歳の時にカツが死去した後は、飯尾コウが新たな継母となり、少年時代に2人の継母と暮らしたが[23][5]、父や継母たちとの折り合いは必ずしも良くなく[24]、そうした「母」という存在の希薄さがのちの中島文学の形成に影を落とす[25]節「「母」の不在」も参照)。

また、9歳の時に教師の父の転勤で、奈良県の郡山小学校から浜松西小学校へ、さらに11歳の時には朝鮮総督府の京城市龍山公立尋常小学校へと転校する[26][6]

朝鮮での少年時代

京城市龍山公立尋常小学校卒業後は公立京城中学校に入学するなど、各地を転々とする少年時代を過ごした[6][25]。そのため、一般の人々が口にする「故郷」という懐かしみの感覚(愛郷心)が敦には分からなかった[27]

中学時代の同級生には湯浅克衛、小山政憲がいた[6]。湯浅が授業中に急進的な総合雑誌『改造』を読んでいた時や、寄宿舎の机の中の『痴人の愛』(谷崎潤一郎)が摘発された時、敦が強く湯浅を擁護し停学処分が免れたというエピソードも知られている[28][29]。また、とある級友に頼まれ彼の試験答案を代筆したことが発覚し、謹慎処分を受けたこともあったという[6]。小学校・中学時代を通して成績は極めて優秀で開校以来の秀才と言われていたが[30][31]、16歳の時、父親が関東庁大連中学の勤務となり、伯母・志津(京城女学校に勤務)の家に移り住んでいた間は少し成績が落ちたこともあった[6]

この龍山小学校・京城中学時代を通して、中島敦は合わせて5年半を朝鮮半島で暮らしている[26]。初期の複数作品における植民地時代の朝鮮の描写は、その後に得た朝鮮に関する知識によるところも大きいものの、この頃の朝鮮での経験をベースとしたものであるとされる[32]節「植民地への視線」も参照)。

東京での学生時代

1926年、通常は5年間通う旧制中学校を4年で修了し、合格した第一高等学校に入学する[23][33][31]。第一高等学校入学後は寮に入り、氷上英廣と知り合うきっかけとなった[6]1927年(昭和2年)の春に伊豆下田を旅するが[33][6]、夏休みの帰省中に大連で肋膜炎にかかったため1年間休学となり[22]、この時の療養生活中に「病気になった時のこと」という習作断片が書かれた[6]。そして『校友会雑誌』に投稿した「下田の女」が11月に掲載された[23][33]。これが活字となった初めての作品となった[6]

1928年4月に寮を出て、伯父・関翊の知り合いの弁護士・岡本邸に寄寓し、そこの息子(一高で高見順の同級生)と親交を結んだ縁で、田中西二郎と知り合う[6][34]。また、同じく岡本邸に寄寓していた日本女子大学に通う2人の従妹・褧子と美恵子(叔父・比多吉の娘)のうち、敦は2歳年下の褧子(英文科)と特に親しくなり、卒業論文(テーマはユージン・オニール)作成の手伝いをしたりした[35][6]。この年も『校友会雑誌』に「ある生活」「喧嘩」が掲載された[6]

1929年4月に文芸部委員となり『校友会雑誌』編集に参加する[22]。この年の夏に岡本邸を出て、同潤会アパートに移った[6]。秋には氷上英廣、吉田精一釘本久春らと共に季刊同人誌『しむぽしおん』を作り、翌年夏まで4冊を出すが、敦はこの同人誌に一度も執筆しなかった[6]

第一高等学校を卒業し、1930年4月に東京帝国大学文学部国文学科に入学する。友人らは敦が英文科に進むものだと思っていたという[6]。大学時代には、未完作品「北方行」の準備を除けば、文学発表活動への関与はあまりなく、友人・釘本久春の紹介で英国大使館駐在サッチャー海軍主計少佐の日本語教師を10月から約1年間務めながら[6]、ダンスホールや麻雀屋に入り浸る生活を送っていたという[36][6]。また、1931年の夏休みには天野宗歩の全棋譜(『将棋精選』)を読み上げ友人を驚かせたり、同年3月に麻雀屋で知り合った同年齢の橋本タカ(故郷は愛知県)と会う旅費稼ぎのため、下宿に友人らを集めレコードの売り立て会を開いたりしたこともあった[6]

一方で、永井荷風谷崎潤一郎正岡子規上田敏森鴎外らのほぼ全作品を読むなど読書にも熱中し、「耽美派の研究」と題する卒業論文に備えた[37]。1931年10月には、大連の中学校を退職した父親が東京に戻ったため、荏原郡駒沢町上馬の借家で父母と同居するようになった[6]。1932年(昭和7年)には、前年知り合った橋本タカとの結婚(入籍)を考えるようになった[6]。しかし、父から正式な結婚は大学卒業後にしろと言われ、この時点では婚姻届は出してはいない[6]。この年の8月、旅順にいる叔父の中島比多吉を頼り、南満州・中国北部を旅行し、久しぶりに母校の京城中学にも立ち寄ったりした[6][38][10]

横浜での教員時代

中島敦は当時の就職難に苦しみ、同年秋に朝日新聞社の入社試験を受けたが二次試験の身体検査で落ち、また叔父の満州国高級官僚の中島比多吉に就職の斡旋を依頼するなどしていた[39]。同級生38名中、順調に就職が決まった者は3名だけだった[6]。結局、1933年4月、祖父の門下生だった田沼勝之助が理事を務める横浜高等女学校(現・横浜学園高等学校)での教員の職を得て横浜市中区で単身暮らしとなった[40][6]。担当科目は国語・英語(および後にこれに加えて歴史・地理)であり、週23時間の授業を受け持ったという[41]。初任給は60円だった[6]

女学校教員となったこの年の12月11日には橋本タカと結婚(正式入籍)した[40][6]。タカは4月に郷里の愛知県碧海郡で産んだ長男・桓(たけし)を連れて11月頃に上京し、杉並区の佐々木方に下宿した[6]。教師時代も多趣味な生活を送り、また生徒からもかなりの人気があった[41]。教員時代は、山岳部生徒の引率で、箱根外輪山北アルプスに登ったり、同僚らと三国峠、法師温泉などにキャンプに行くこともあった[6]

教師時代に「斗南先生」「北方行」など多くの作品を執筆しており[42][6]1934年7月、「虎狩」を『中央公論』新人号に応募して、選外佳作10編に入る[33]。敦はこの結果に、氷上英廣宛てのハガキで「虎狩、又してもだめなり。(中略)なまじっか、そんなところに出ないほうがよかったのに。すこしいやになる」と、なまじっか佳作に名を連ねていることを悔しがり応募したことを後悔している[43][注釈 1]。同じ年の4月に釘本久春を介して、京城中学の1年後輩の三好四郎と知り合っており[6]、さらに1936年、その三好四郎から鎌倉に住む深田久弥を紹介されている[44]。なんとか中島敦を世に出したいと願う三好の勧めで、毎週深田の自宅を訪ね、作品評を乞うようになった[44]

一方で、教師時代の1935年(昭和10年)には、ガーネット列子荘子などを、1936年(昭和11年)にはアナトール・フランスラフカディオ・ハーンカフカオルダス・ハクスリーゲーテなどを読み[6]、さらに1940年(昭和15年)にはアッシリアや古代エジプトの歴史を勉強しプラトンのほぼ全著作を読んでいた[5]

しかし喘息の悪化によって教師を続けることが困難となり[45]、1940年の暮れごろから喘息のために週1、2回の勤務となっていた[5]。冬になると発作がひどくなるため、敦は釘本久春の勧めもあり、「役人になるのは、少しいや」だったが身体にいいだろうと常夏の南洋に移ることを決めた[46][47][48]。釘本の斡旋で南洋庁の就職が決まり、1941年(昭和16年)6月28日に横浜港からパラオに出発するが[23][6]、父への置手紙には、少し気が進まないといった内容も書き残していた[49][48]

パラオ南洋庁時代

日本統治時代のパラオ。

中島敦は転地療養を兼ねてパラオ・コロール町(コロール島コロール)の南洋庁の編修書記に任じられ、現地の教科書作成業務に携わりながら「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」の題材を得るが、アメーバ赤痢デング熱にもみまわれ、勤務が難しい状態にあった[50][51][25][6]。南洋庁では孤立したものの、東京美術学校彫刻科出身の土方久功や熱帯生物研究所の若い学者らとは親しかったという[52][34]

これに先立って、以前から交流のあった作家・深田久弥に「古譚」や「ツシタラの死」などいくつかの原稿を出発前に託した[53][6]。敦は深田が自分の作品を推薦して文芸誌に掲載してくれることを期待し、出張のときは父と妻に日程を細々と手紙に書き送っていたが、深田からはいっこうに連絡がなく失望する[54]11月9日には、妻タカに向け、「オレが死んだら」、深田に預けた原稿を、他の原稿と一緒にしまっておき、桓(長男)が成人して文学を愛好するようなら渡してほしい、という主旨の手紙をしたためている[55]

一方、深田は敦が旅立ってから半年後、ようやく原稿に目を通し、その内容に「歎息に似た感歎の声」をもらした[56]。託された4篇から成る「古譚」の原稿を『文學界』に推薦し、そのなかから編集の河上徹太郎が2篇(「山月記」「文字禍」)の掲載を決めた[57]

敦は喘息快癒を期待してパラオに赴任したが、雨の多いパラオではかえって喘息がひどくなった[58]。また、現地の島民たちと接するうちに、教科書を作って教育を押し付ける自分の仕事に熱意をなくしてゆく[59]。本屋や映画などの文化がほとんどないことも不満であった[60]。12月31日、敦は東京出張所勤務を希望することを課長に申し出る[61]。翌年1942年(昭和17年)3月、土方久功と東京に向かう船に乗り帰国する[62]

帰京後、没後

帰国の一方で、1942年(昭和17年)2月号の『文學界』に、「山月記」と「文字禍」が「古譚」と題して掲載されていた[57]深田久弥は掲載を知らせる手紙を送ったが、同年3月17日にパラオより帰国した敦が『文學界』掲載のことを知ったのは、東京に戻ったあとであった[63][6]。帰国後は喘息気管支カタルで、父親と妻子の住む世田谷の家で療養する[64]。当時の世田谷は周囲に田畑が広がり、冷たいおろし風が吹く喘息持ちには良くない土地で、敦は住み慣れた横浜への転居を希望したが実現しなかった[65]

続けて「ツシタラの死」を編集者の要請で「光と風と夢」と題名変更し『文學界』5月号に発表し、昭和17年度上半期の芥川賞候補となる[66]。しかし、同作品は室生犀星川端康成の2人の選考委員が高く評価したのみで、他の選考委員からの支持が得られず落選する[66]。とはいえ、「光と風と夢」の掲載後、筑摩書房中央公論社、今日の問題社の3社から中島の作品集を出版したいという申し出があった[9]

5月、小康状態になった敦の元へ、筑摩書房の古田晁、中央公論社の杉森久英の訪問があり、作品集の出版が決まった(中央公論社には第三創作集(「弟子」を含む予定で)の約束をする)[67][6][9]。7月に第一創作集『光と風と夢』が出版され[66]、その印税で妻子に着物を買った[6]。8月に南洋庁に辞表を提出し(9月に正式辞令が下り)専業作家生活に入った[6][68]

11月には第二創作集『南島譚』が出版されるも、同月に持病の気管支喘息悪化と服薬の影響で心臓もかなり衰弱し、世田谷の岡田医院に入院[69][70]。12月4日の午前6時に同院で死去した[5][6]。33歳没[33][71]。涙をためながら「書きたい、書きたい。」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい。」と言ったのが最期の言葉だったと伝えられている[72][70]

6日の午後2時から神式の葬儀が行われ、多摩墓地に埋葬された[6]。未発表であったいくつかの作品は遺作として没後に発表されており、「李陵」は1943年(昭和18年)7月号の『文學界』に掲載された[5]。全3巻の『中島敦全集』は1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)にかけて筑摩書房から刊行され[73]毎日出版文化賞を受賞している[7][6]

人物

人柄

中島敦は、横浜高等女学校に赴任し1年4組(66人)の担任となり、以後、同級を4年まで受け持ったが[6]、横浜高女教員時代の敦は「ラムネ」で作ったような厚い眼鏡をかけ、長髪を七三分けにしていた[74]。七の前髪が眼鏡の前に垂れてくると頭を振って髪をはねあげるのが独特の仕草だった[74]。小柄で細身だったが、職員室でもよく通る大きな声で話し、内容も当意即妙でウィットがあった[74][75]。なおかつ礼儀正しく律儀で細かい気遣いもできる人物だったという[74]。同僚から「トンちゃん」という愛称で呼ばれていた[75]

作文の評点は厳しかったが授業は楽しいと生徒たちからも人気があった[74]。中島の授業の際には常に教卓に花が飾られていたという[76]川村湊は、中島と関係のある女学生がいたのではないかと推測している[77]。中島の文筆活動を助けて「山月記」など清書していた生徒もいて、オルダス・ハクスリーの翻訳の原稿清書などもその鈴木美江子という親しい教え子に依頼していた(結婚後飯島姓となった美江子は「清書を手伝ったことなど」という回想文を書いている[78][6][79]。第一創作集『光と風と夢』が出版された1942年7月には病身ながらも、初担任した4組卒業生らのクラス会に出席している[6]

子供の頃は、生母のいない淋しさからか黒猫をとても可愛がっていて、寝る時もいつも猫を抱いていたため、猫も犬のようになつき敦が学校から戻ってくるのを家の門のところで待っていたという[38][80]。当時の様子を知る親族によると、敦の喘息の一因には猫の毛を常に吸い込んでいたことがあるのではないかとしている[81][80]

趣味

多趣味であり、教員時代には旅行・山登り・音楽鑑賞・園芸・ラテン語の学習など様々なことを行っている[76][6]シモン・ゴールドベルクジャック・ティボーなどの様々な演奏会を聴きに行っており[6]喘息の発作が酷くなってきた1939年頃からは天文学にも親しみ、相撲にも興味を持って見取り表を作るなどしていた[5][6]。旅行では1936年には小笠原や中国(上海杭州蘇州など)のほかにも、伯父・中島竦のお供で、地獄谷志賀高原にも旅している[6]。学生時代には、浅草レビュー小屋の踊り子を率いて台湾興行を計画したという話も伝えられ、行動的な一面も垣間見られる[76]

作風

中国古典からの影響

孔子の弟子の仲由子路。中島敦の『弟子』は、子路と孔子の関係性を描いた作品である[82]

中島敦は漢文古典に対する素養が深く、漢文的な硬質な文体を特徴とするとともに、中国古典を下敷きとして自らの小説を創作した作家であるとされてきた[11][2]。そのため、同じように古典を素材にして小説を書いた森鴎外芥川龍之介の流れを汲んでいる知識人・文人的な作家と捉えられているが[11]、中島には芥川のようなシニシズムで脚色する傾向はなく、例えば『弟子』では子路の人物や性行を愛して、描き出している[1]。中国古典を下敷きにした『山月記』『弟子』『李陵』などは中島敦の作品の代表的なものとして認知度が高く[11]、そのなかでも、『李陵』が中島文学の中の最も優れた作品であると評価される傾向がある[12][13][2]。 

ただし、素直に漢文の教養を活かした創作に至るまでは、反発や試行錯誤があり[2]、古典を踏まえて作品を作るという手法が取り入れられ、またその文体が成立したのは『古譚』4編以降のことであると考えられている[83]。それ以前の未完の長編『北方行』は当時の現代中国を描こうとしたものであり[11]、自己検証をテーマにした私小説としての性格を持ったものだった[84][8][10]。『北方行』の執筆を断念した後、中島敦は直接的な私小説の手法ではなく、遠い過去の時代を舞台にした『古譚』4篇などや[85]、『弟子』『李陵』のように、歴史上の人物を通して人間を描く方法をとるようになっていったのである[84]。そして、それらの運命的な人物に自身の内面性や死を投影させている[3]

同時に、中島敦はD・H・ロレンスフランツ・カフカオルダス・ハクスリーニーチェなどの様々な西欧文学や哲学書も愛読し、それらから人間の実存的解釈や審美的感覚の基礎を得ている[1]。カフカやデイヴィッド・ガーネットの作品にみられる変身譚は、『山月記』の題材「人虎伝」選びの過程に影響を与えたと見られる[1]。また「人虎伝」の原作の因果応報とは異なる、芸術家の純粋な内因性を虎への変身の原因とし、自己の心情を投影させた中島独自の小説として肉付けしている[1]

同じく中国古典に材をとった『古俗』1篇である『牛人』では、牛のように醜く、得体の知れない不気味な笑みを浮かべるわが子・豎牛に見つめられながら餓死していく政治家・叔孫豹の運命を描き、その牛男を「世界のきびしい悪意」として象徴させた作品となっている[86]武田泰淳は、この「世界のきびしい悪意」への叔孫豹の遜った「懼れ」(おそれ)が、中島文学の全作品に底流している暗い色調をなすものであり、『光と風と夢』や『弟子』『李陵』にまでひきづられているとしている[86]。またこの悪意への「懼れ」が私小説的な『過去帳』2篇(『狼疾記』『かめれおん日記』)での見事な自己告白を可能にし、中島が中国古代史実に吸い寄せられたのもこの「懼れ」だとしている[86]

形而上学的な思索

中国古典を題材にした『山月記』などにも私小説的な面があるが[87]、それ以前の「三造」という中島自身を投影させた主人公が登場する作品群は、自我がテーマになっているものが多く、宇宙の虚無や存在の不確かさの観念にとりつかれ、そこから生まれる形而上学的不安を対象化し哲学的懐疑を深める思索が見られる[1][88]。『過去帳』の1篇である『狼疾記』では、11歳の頃に担任教師からいつかは太陽が冷えて地球が滅亡する運命や、存在の無意味さの話を執拗に聞かされてから、しばらく神経衰弱になってしまい世界の虚無に戸惑った原体験が綴られており、さらにその自我の不安や不確かさを掘り下げている『かめれおん日記』も女学校という社会における「三造」の自己検証がテーマとなっている[8][88]

また、『狼疾記』には、『北方行』の原稿からの転用・流用があるが[9]、未完で放棄された長編『北方行』の主人公「黒木三造」では、大きな社会や歴史の中での自己検証であり、当時の戦争や革命運動、民族や国家、言語や文化、芸術や愛・性にまでわたって人間を捉えていこうとした未完の意欲作であったとされる[8][10]。青木純一は、『李陵』を書かせた筆力で、もし『北方行』が完成されていたならば、西欧化した日本人の自意識の地獄をアジアを背景に摘出した作品という意味で、横光利一の『上海』に拮抗する唯一の作品になっていた可能性があるとしている[89]。なお、『北方行』の原稿はその他にも、『かめれおん日記』『光と風と夢』『山月記』にも部分的に転用されている[10]

『狼疾記』の線上にある形而上学的・哲学的な思索は、未完の『わが西遊記』の中の2篇(悟浄出世、悟浄歎異)にも見られ、主人公の沙悟浄ピュロンを思われる懐疑派に設定していたり[2]、『古譚』の1篇『文字禍』の、文字が意味の無い単なる線の交錯に見えてくるという博士の懐疑に繋がっている[2]。そしてそうした懐疑から独特のユーモアやアイロニーが発せられているのが、中島の作品の特徴や魅力でもある[2][90]

『わが西遊記』などは、既存の古典作品の設定や登場人物を利用しつつ、私小説の「三造」ものの形而上学的・哲学的な自我の不安のテーマを俯瞰的な形で客観視・劇画化したものであるが[91][85]、こうした試みが中島の小説手法として確立されたのが、作品舞台の時代を遠い過去や歴史に設定した『文字禍』を含む『古譚』4篇であった[85]

植民地への視線

中島敦は朝鮮・満州・南洋と多くの日本の外地を訪れており、植民地体験を反映した作品が見受けられる(おもに朝鮮・満州)[92]。中島はイデオロギー的な作家ではないが、当時の朝鮮人に対する差別的感情に目を向けた習作『巡査の居る風景1923年の一つのスケッチ』や、1927年7月の大連の3つの対照的な叙景(辞任内定の満鉄総裁、夏休み中の下級満鉄社員の家族、失業中の中国人労働者)をそれぞれ描いた未完の習作『D市七月叙景(一)』がある[92][93]。また、朝鮮人自身の矜持の感覚にも触れている私小説的な『虎狩』では、小学校・中学校時代の1人の朝鮮人の友達の多面性や複雑な感情を観察して描き出している[94]。ただ京城中学は、朝鮮人でも上流階級の子弟が通っていた学校であったため、一般的な朝鮮の風俗や習慣を深くは描けなかったとされている[92]

中島敦は非政治的な人間であったとも言われるが[95]川村湊は、未完の長編『北方行』の草稿や『斗南先生』の作品内容から、伯父・中島斗南(英仏独露の列強による中国分割の危機に警鐘を鳴らし対岸の火事ではないと唱えていた[96])や、満州政府にいた叔父・中島比多吉の影響を受けて、当時の中国の政治問題に関心があったのではないかと指摘している[11]。『北方行』には張作霖爆殺事件後の中国の政治抗争過程が詳しく綴られており[97]、そうした現代史の政治的事件の忠実を散りばめながら、東西の異文化が交錯する中国情勢を俯瞰し国際関係を描きうる特殊な才能が中島にはあったと三浦雅士はみている[93]。そして、未完のまま放棄された『北方行』は短編『狼疾記』に転じて内面自我のテーマに絞られていくが、前項でも述べたように『北方行』は大きなテーマを目睹し、当時の戦争や革命運動、民族や国家も取り混ぜつつ社会や歴史の中での自己や人間を描こうとしていたとみられる[10]

一見平穏だった南洋の島々の体験からは、『巡査の居る風景』や『北方行』ような歴史的な問題意識を直接反映した作品は特に見られず[98][48]、南の海の人間の分かりにくさや異文化に触れたものが主で、滞在時の日記や書簡中には、自然に暮らしている原住民に近代的文明教育をほどこすことへの疑問などが記されている[99][48]。なお、小谷汪之によれば、朝鮮人の人間像については複雑・重層的に描写される一方で、南洋滞在時の日記や書簡中にみられる現地人の描写は月並みで表層的なものに留まっている[98]。小谷によれば、この理由は、朝鮮ものについては様々な知識のなかで経験を文脈づけて描写したものであるのに対し、南洋の日記や書簡は単にその時の体験をそのまま書いたものにすぎないという相違があったからであるという[98]。そして、もしそれらを反芻し発酵させる十分な時間があったなら歴史的な広がりのある南洋作品が書かれたのではないかとしている[98]

なお、南洋滞在後半に日米開戦となった太平洋戦争については、開戦直後の各所の日本の勝利の知らせには「我が海軍機」のすばらしさを称え喜びつつも[100]、それ以前の10月に見ていたトラック諸島夏島で現地民が戦争準備のための過酷な労働に従事させられている姿には同情し、そうした荒い扱いをしていた「為政者」の方針には否定的な考えを持っていた[101][98]。先の戦争に真正面から反対はしていなかった中島だが、異母妹・澄子によれば、戦争そのものに対して疑問を持っていた節もあるとされる[98]。中島は文学の戦争協力については文学の純粋性を損なうものとして否定しており[102][95]、文学が何らかの「ポスター的実用」(政治的な効用のようなもの)に供すること自体に反対する主義だということは随筆「章魚の木の下で」で書いている[102]。そして、ミクロネシアで触れた太平洋戦争の影は、『弟子』『李陵』などの遺作に見られる「人間の生の意味を問う」というテーマに影響を与えているとされる[95]

南洋への志向

パラオ南洋庁に赴任した時の見聞や現地で行動を共にした土方久功からの伝聞などミクロネシア諸島を題材にした『環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―』や、民間伝承から材を得た『南島譚』といった、いわゆる南島物の作品群が生まれ、未開の土地の様々な人や風物を中島敦独特の感覚と思考で描いたものとなっている[2]。パラオ行きは釘本久春からの斡旋という偶然的なもので、出発時前後に逡巡する気持ちもあったが[48]、中島の蔵書にはゴーギャンタヒチ紀行『ノア・ノア』があり、歌稿の『和歌ではない歌』の中にも、「ある時はゴーガンの如逞ましき野生のいのちに触ればやと思ふ」という歌があるため、何らか南島への誘われる意識や原始的なものへの関心があったと岡谷公二は指摘している[34]

また、『環礁』の1篇の『真昼』では、昼の静寂の中、旅立つ前の「期待」や「新しい・きびしいものへの翹望」と反する「無為と倦怠」を感じ、自分がヨーロッパ・近代の「蒼ざめた殻」をくっつけた目で風景を見ていることを自問自答し[2]、『寂しい島』では子供が5歳の女の子しかいなくなった島で人類滅亡と天体の虚無を想起し、『狼疾記』の宇宙的なテーマが引き継がれている面がある[48]

中島の南方への志向は、パラオ赴任の5年前(1936年)の小笠原諸島への旅がきっかけで[2]、旅の後に歌稿の「小笠原紀行」で100首あまりの小笠原の自然風景を綴った歌を詠んでいる[2]。この「小笠原紀行」で形成された南洋のイメージや原風景、南洋への志向から「ツシタラの死」(『光と風と夢』)の原稿がパラオ出発前には出来上がっていた[2][8]

ミクロネシアの南島物の以前の『光と風と夢』では、自身と同じく肺病を患っていたロバート・ルイス・スティーヴンソンを主人公に彼の晩年のサモア島での暮らしを描いたものであるが、中島はスティーヴンソンに自身を投影させ、「小説」が書物の中で最上のものであると言い切り、「何と云はれようとも、俺は俺の行き方を固執して俺の物語を書くだけのことだ」と作家としての強い自負の内面が語られており[103][104]、「魅力に富んだ怪奇な物語の構成」と「巧みな話法」を持つ新たな作品への意欲が含意されている[104]

また作中ではサモアを植民地にしている白人たちの西欧式支配構造の横暴や傲岸さも描かれ、スティーヴンソンの理想郷とする新しい生活の目標として、「白人文明を以て一の大なる偏見と見做し、教育なき・力溢るる人々と共に闊歩し、明るい風と光との中で…」といったウォルト・ホイットマンに関わる句も掲げられているが[104]、「ツシタラの死」から題名を変更するにあたり、この句の中の語と重なる「風と光と夢」を経てから「光と風と夢」に落ち着いたという[105]

「母」の不在

中島敦の文学の形成には、幼い時の生母との別れや、2人の継母とのあまり良好でなかった母子関係が少なからず影を落とし、中島文学に執拗に表れている「存在の不確かさ」へのこだわりや「己れ」を追求し彷徨する底には、そうした存在基盤としての「母なるもの」(無条件に安心し寄りかかれるもの)への欠如感も関係しているのではないかとされている[25]

評価・影響・受容

評価

中島敦の文学的評価は、1942年に33歳の短い生涯を終えた後に高まり、戦後の1948年に『中島敦全集』全3巻が筑摩書房から刊行され[73][5]。翌年の1949年には毎日出版文化賞を受賞する[7]。受賞にあたり、選考委員の吉川幸次郎桑原武夫は、『李陵』や『山月記』の名を挙げつつ、中島の文学について芥川龍之介の亜流であるというこれまでの評価を否定し、その透明性・美しさを高く評価する書評を寄せた[7]

死の約7か月前に発表された『光と風と夢』は第15回芥川賞候補となり、室生犀星川端康成久米正雄の好意的評価で、同候補の石塚友二『松風』に次ぐ2番人気となったものの、他の選考委員の低評価により受賞作にはならなかった(この回は受賞作無しであった)[106]。川端康成は、「前にも賞を休んだ例はあるが、今度ほどそれを遺憾に思ったことはないようである」「(『松風』と『光と風と夢』の)二篇が芥川賞に価いしないとは、私には信じられない」とコメントを寄せていた[106]。のちに吉田健一は、「こうした新しい形式の文学を受け入れる地盤が当時の文壇にはまだなかったのだ」と語っている[8]

三島由紀夫は、中島敦を、牧野信一梶井基次郎と共に、「夜空に尾を引いて没した星のやうに、純粋な、コンパクトな、硬い、個性的独創的な、それ自体十分一ヶの小宇宙を成し得る作品群を残したことで、いつまでも人々の記憶に、鮮烈な残像を留めている」作家と評価し[107]、量だけの玉石混淆の膨大な全集を残す作家よりも、中島らのように1・2冊の純粋な全集だけ残して早世した作家の方が幸せに思えるとしている[107]

研究面では、中村光夫がはじめて中島敦を総合的に論じており、「青春と教養――中島敦について」として雑誌『批評』(1944年3月・4月合併号)に掲載された[108]武田泰淳「作家の狼疾――中島敦『わが西遊記』を読む」(『中国文学』1948年1月・2月合併号)とあわせて、中島敦研究に大きな影響を与え、研究史上の基本文献であるとされている[108]

社会への影響

すでに戦後の国定教科書『中等国語』において、中島敦の作品『弟子』が孔子に関する補助教材として採用されていたという[109][110]。この『弟子』の教科書採用が、のちの『山月記』の検定教科書での採用のきっかけのの一つになったとされる[109][111]。また、中島敦の大学時代の友人であった釘本久春が文部省に勤めていて、釘本の推薦もあったとされる[112]

前述したように1948年に全集が毎日出版文化賞を受賞した[73][7]。当時の同賞は用紙不足からくる「良書主義」・「悪書追放運動」の一環として行われており、この受賞により『中島敦全集』は「良書」の代表として社会に受け入れられることとなった[7]。そして、この毎日出版文化賞受賞の影響を受けて、翌年の1950年の検定教科書の一つに『山月記』がはじめて教材として採用されることとなる[7]。1951年には別の2社の教科書も『山月記』を取り入れ、さらに1952年には実教出版の教科書が『李陵』の一部を『司馬遷』と題して収録しており、『弟子』『李陵』『山月記』の3作品の教科書での掲載数は増加していった[110]

昭和二十六年度版学習指導要領では、高校生の読書能力を高めるための「読書指導」の重要性が強調されており、『山月記』はそのための理想的な教材として受け入れられた[7]。他方で、中島の作品は旧来の儒学思想・漢文の保守的な伝統を引き継ぐものであるとも見られていた[113]。そのため、民主教育の立場に立つ人々や、国語教育の新しいあり方を探ろうとしていた柳田国男時枝誠記らの一部の教科書編者は教科書採用に肯定的ではなかったという[113]

その後も『山月記』は教科書に掲載され続け、高校国語教科書において最も多く採録された作品となっており、「国民教材」となった[114]。そして、教育現場では『山月記』を通して生き方を反省するという道徳的な点に指導内容の重きが置かれるようになり、この点が文学研究者たちの批判を招いている[114]

川村湊は、このように中島敦作品が教科書に掲載されつづけているのは、中島敦の作品に思い入れのある教師が多く、また教科書を通して中島敦の作品に触れた人々からも支持を受けているからだと述べている[15]

諸作品への影響

北方謙三は『三国志』や『水滸伝』などを題材にした小説を書いているが、中島敦の『李陵』から極めて大きな影響を受けているという[15]阿刀田高は中島敦の作品のうち、特に短編の『文字禍』と『狐憑』に強い影響を受け、これらの小説を模倣して自身の作品を執筆したと述べている[115]

また、2005年に新潮社から刊行された辻原登の『枯葉の中の青い炎』[116]には、表題作中に「ナカジマ」という南洋庁の役人が登場する[117]。その他、森見登美彦万城目学円城塔といった作家が中島敦の作品を意識した小説を書いている[117]

原作 朝霧カフカ・作画 春河35文豪ストレイドッグス』には、中島と同姓同名キャラクター中島敦英語版」が主人公として登場する[118][119]。作中の敦が持つ異能力「月下獣」は『山月記』から着想を得ており[118]、同能力をなかなか制御できなかったことは李徴の葛藤の反映であるといわれる[120]。また、同作では中島敦が『光と風と夢』から引用した文章を読み上げるシーンもあり[120]神奈川近代文学館では中島の文学世界を受容した作品として紹介されている[121]。この漫画作品の読者が中島の作品も読むようになるケースが見受けられるという[122]

家族・親族

中島家・漢学の系譜

中島家は代々、日本橋新乗物町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)で駕籠を製造販売する商家であった[123]。敦の祖父・中島慶太郎(号を撫山)は家業を嫌い、儒学者亀田鵬斎の孫弟子として鵬斎の子の亀田綾瀬の門下となり[2]、綾瀬没後はその後継者となった亀田鶯谷に師事した[124]。後に埼玉県南埼玉郡久喜町(現久喜市)に漢学塾「幸魂教舎」を開いた[125]

敦の私記『斗南先生』で活写されている伯父・中島端(号は斗南[126][注釈 2])は亀田鶯谷のもとで漢学を学び、私立中等教育機関「明倫館」の創設に携わった他、中国問題に関する著作などを著した[96]。斗南の下の伯父・中島竦(号は玉振[128])は、善隣書院でモンゴル語・中国語を教授しつつ、中国古代文字の研究を行った人物であった[129]。他に関翊・山本開蔵・中島比多吉(ひたき)などの伯父・叔父がおり、みな漢学を修めて世に出ている[130]。中島家の漢学の系譜は村山吉廣により調査され、『評伝・中島敦 家学からの視点』(中央公論新社、2002年)としてまとめている[131]

主要な家族・親族

以下、その他の家族・親族も含め主要な人物を列記する。基本情報や生年没年月日の出典は[127][6][132][133]

祖父・中島慶太郎(中島撫山)
1829年5月14日(文政12年4月12日)生 - 1911年明治44年)6月24日没
亀田鵬斎門下の五俊秀と称され、埼玉県南埼玉郡久喜町に開いた漢学塾「幸魂教舎」の門弟は千数百人にのぼる[6]。慶太郎の父は、中島清右衛門(良雅)[127]。異母弟には画家の中島杉陰がいる[134]
先妻・紀玖との間に、長男・靖(号は綽軒)を儲け、紀玖が安政の大地震で死去した後は、後妻・きく(敦の祖母)との間に、六男四女(ふみ、端蔵、辣之助、美都、若之助、開蔵、志津、田人、比多吉、うら)を儲けた(美都は早世)[135][127]
父・中島田人
1874年(明治7年)5月5日生 - 1945年(昭和20年)3月9日没
慶太郎ときくの五男(慶太郎にとっては六男)[127]
父や兄(端や竦)のもと幸魂教舎で学び、1902年(明治35年)5月に検定試験(漢文科)に合格し漢文科教員の免許を取得したあと、兄たちの関わった明倫館をはじめ複数の学校で教員を務めた[136][6]
田人自身は息子の敦に漢文を教えてはいなかった[136]。敦の多感な頃は親子の折り合いは良くなかったとされ[38][80]、2人目の継母がやって来た当初、父に反抗的な態度をとり酷く殴られたことなどが習作草稿の「プールの傍で」で描かれている[38][80]。当時の敦の同級生も「中島君の家庭的な不幸は誰でもよく知っていた」と語っている[80]。しかしながら、継母の死去後、敦の病没の直前には漢籍について家で話すなど関係が改善していたという[136]。田人は敦に他人行儀な接し方をしていたが、敦が自慢の種で他の者にはいつも「敦は、敦は」と子煩悩な面を見せていた[136]。敦の死後はすっかり意気消沈し、吾子を失った悲しみの歌を残している[136]
母・チヨ
1885年(明治18年)11月23日生 - 1921年(大正10年)7月3日没
旧姓名は岡崎千代子。実家は東京市四谷区箪笥町。元小学校教員[6]。大変な才女で敦の優秀さは中島の家系のみではないとも言われる[136]。敦を背中に背負ったまま撫山の素読を聞いていたという話が残っている。田人との離婚の原因は家事が不得手だったからともチヨに不貞があったからとも言われる[137]。離婚後も復縁を望み田人も許していたが、敦の伯母・志津や伯父・端の反対で叶わなかった[138][139]。後に桜庭氏と再婚し幸雄を儲ける[127]。敦12歳の年、敦の写真を抱いて病死したという[133]。敦の異父弟にあたる桜庭幸雄は詩人で、NHKを定年退職後、若い頃から書き溜めていた作品を纏めた詩集3冊や俳句集を出版[133][140]。幸雄の次男の顔は敦に似ているという[133]
異母妹・澄子
1923年(大正12年)3月11日生 - 没年不明
父・田人と継母・カツの長女。折原氏と結婚し、一(いち)を儲ける。敦の甥にあたる、この折原一は小説家[141]である[127]。澄子は兄・敦の死後に、回想文として「兄と私」(1976年筑摩書房版『中島敦全集 第一巻』月報1)や[136]、「兄のこと」(1989年)[142]、「兄敦の思い出」(2009年久喜・中島敦の会『中島敦と私 ― 中島敦生誕100年記念 ―』)を記している[143]
伯父・端(中島斗南)
1859年2月28日(安政6年1月26日)生 - 1930年(昭和5年)6月13日没
幼名は端蔵(たんぞう)。慶太郎ときくの長男(慶太郎にとっては次男)[127]。生涯独身[144]。俊才ながらも奇人的な人となりは敦の私記である記録作品『斗南先生』で描かれている[2]。外交問題を研究するため大陸にもしばしば単独で渡り羅振玉や汪康年らと意見交換などしていた[96]。『支那分割の運命』という「我に後来白人東亜より駆逐せんの絶大理想あり」「我は進んで支那民族分割の運命を挽回せんのみ。四万々生霊を水火塗炭の中に救はんのみ」と述べている著書を1912年10月に政教社から刊行[144][8][96]。死後は、詩文集『斗南存稾』が弟伯父・中島竦の編纂で文求堂書店から1932年10月1日に刊行された[144][8]。詩文のほか、若い30歳の時には小説も書き、「肌香夢史」(はだかむし)という筆名で『野路乃村雨』という作品を出版したこともあった[145][注釈 3]
斗南は敦のことを甥の中で一番気に入り信頼・期待していた[144][146]。敦は多くの親戚からこの斗南伯父の気質に似ていると言われ、特に年上の従姉妹から斗南伯父のようにならなければいいが、と会う度に言われていたことが『斗南先生』に書かれている[144]
伯父・(中島玉振)
1861年6月29日(文久元年5月22日)生 - 1940年(昭和15年)6月11日没
幼名は辣之助(しょうのすけ)。慶太郎ときくの次男(慶太郎にとっては三男)[127]。生涯独身。『斗南先生』の中で、中島斗南とは違った趣を持つ人物として少し描かれるが、「(2人の伯父は)共に童貞にだけしか見られない浄らかさを持って」と書かれている[144]。髪を牛若丸のように結い、二(60cm)近くの長い白髯をたくわえていた物静かな人物[144]。敦はこの玉振伯父と親しく、将棋を指すために伯父の家に数日間滞在することもあったという[147]。また、敦の次男・格の名付け親も竦であった[22]
伯父・翊(関翊)
1866年1月21日(慶応元年12月5日)生 - 1953年(昭和28年)8月18日没
「たすく」と読む。幼名は若之助。慶太郎ときくの三男(慶太郎にとっては四男)[127]。小学校教師を経て、プロテスタント派の牧師となった[148]。旧幕臣・関巳吉の娘と結婚し養子縁組で「関」姓となり、二男を儲ける[127][148]。関翊は『斗南先生』の中で「渋谷の伯父」として出てくる[144]
伯父・開蔵(山本開蔵)
1868年3月8日(明治元年2月15日)生 - 1958年(昭和33年)4月18日没
慶太郎ときくの四男(慶太郎にとっては五男)。3歳の時に久喜市の山本家の養子となる。海軍省に入り技術中将となった[149]。結婚し二男五女を儲ける[127]。山本開蔵は『斗南先生』の中で「洗足の伯父」として出てくる[144]
伯母・志津
1871年5月28日(明治4年4月10日)生 - 1958年(昭和33年)8月20日没
慶太郎ときくの次女。浦和高等女学校の教師として勤務した[150]。1度結婚したが1日だけで帰ってきて以来独身[142]。1925年(大正14年)ごろは京城女学校に勤務[6]。敦の1人目の継母が亡くなり、赤ん坊の澄子の世話のため京城に来たという[142]。中学時代、敦は父の転勤の際、京城に住む志津の家に寄寓したことがある[6]。敦は志津を「浦和の伯母」と呼び、1941年(昭和16年)に借りているお金を毎月50円ずつ返済していることが父への書簡に記されている[49]。これは、2人目の継母・コウが浪費し呉服店などの支払いを滞らせていたため、敦が工面し伯母から借りたものだったという[138]
叔父・比多吉
1876年(明治9年)11月23日生 - 1948年(昭和23年)12月4日没
慶太郎ときくの六男(慶太郎にとっては七男)。結婚し二男五女を儲ける[127]東京外国語学校支那語科を卒業後、早稲田大学の講師となった後、陸軍で中国語の翻訳・通訳を担当し、満州政府では中枢官僚として勤務[151]。皇帝溥儀の側近となり溥儀の日本訪問にも同行した[151]。1932年頃には旅順にいた[6][151]。敦は、比多吉の長女で2歳年下の褧子(あやこ)と親しく、はっきり結婚の約束はしていなかったが互いに愛情を持っていた[35][6]。比多吉の縁故で敦も教員退職後、満州に行く話もあったが、寒地での勤務に耐えられそうにないと断っている[151]
妻・タカ
1909年(明治42年)11月11日生 - 1984年(昭和59年)10月2日没
旧姓は橋本。郷里は愛知県碧海郡依佐美村字高棚新池。父・橋本辰次郎の三女[6]。高等小学校を卒業後、従兄を頼って15歳で上京。
麻雀荘で店員をしていた22歳の時に、同い年で東京帝国大学在学中の敦とし出会い[152]、その1週間後に敦から結婚を申し込まれた[152]
だが敦は当時タカの同僚とも交際し、タカも従兄(叔母の子)との縁談があった[152]。それを知った敦はタカの従兄宛てに、タカを与えてほしいと長文の手紙を出し懇願するが[152]、従兄の母親(タカの叔母)はこの手紙を持って久喜の中島本家に押しかけて300円を受け取った[152]。敦の父・田人も学生結婚に反対した[152]
そのためタカはいったん実家の愛知県に戻って敦の卒業を待つことになった[152]。その間タカは妊娠し長男・桓を出産[152]。子連れで上京するが、横浜高女の教員になっていた敦は「東京へくること。勿論よい。が横浜はよそう。」と同居を拒否[152]。タカは桓をかかえ、杉並堀之内自由ヶ丘緑ヶ丘と東京の下宿を転々とする生活を送り[152]、上京してから1年半後、ようやく敦は横浜本郷町で妻子と同居を始めた[152]。敦がタカを拒否した理由は定かではないが、森田誠吾は中島に従妹や他の女性との噂があったことをあげている[152]
タカは敦との間に、桓(1933年4月28日生-)、正子(1937年1月11日生-同年1月13日没)、格(1940年1月31日生-)の二男一女を儲けるが正子は夭折[6]。タカも夫・敦の死後に回想文「思い出すことなど」を書いている[138][153]

略年譜

  • 1909年5月5日 - 東京市四谷区箪笥町59番地(現・東京都新宿区四谷三栄町)に、父・中島田人、母・チヨの長男として生誕[22] [6]
  • 1910年(1歳) - 2月の父母の離婚により(正式な届出は1914年2月)、父と別れてしばらく母のもとで養育される[6]
  • 1911年(2歳)
  • 1914年(5歳) - 父親が2月に紺家カツと再婚[22][6]
  • 1915年(6歳)
  • 1916年(7歳)
    • 4月 - 奈良県郡山男子尋常小学校に入学[22]。学年末に優秀賞を授与される[6]。この好成績は小学校在学中ずっと維持[6]
  • 1918年(9歳)
  • 1920年(11歳)
    • 9月 - 父親の転勤により朝鮮京城に移り、第5学年2学期から京城市龍山公立尋常小学校に転入[22][6]
  • 1922年(13歳)
    • 4月 - 朝鮮京城府公立京城中学校に入学[6]。同級に湯浅克衛、小山政憲がいた[6]
  • 1923年(14歳)
    • 3月 - 異母妹・澄子が11日に出生[22]。その5日後の16日に継母カツ死去[22][6]
  • 1924年(15歳)
    • 4月 - 父親が飯尾コウと再婚(入籍は翌年6月)[22][6]
  • 1925年(16歳)
    • 10月 - 父親が関東庁大連中学の勤務となり、敦は伯母・志津(京城女学校に勤務)の家に移り住む[6]。この年の初夏、満州に修学旅行[6]
  • 1926年(17歳)
    • 1月 - 三つ子の異母弟妹(敬・敏・睦子)が誕生[5][6]。しかしながら、同年8月に敬、10月に敏が相次ぎ死去[6]
    • 4月 - 京城中学校4年を修了した後、敦は東京市に移り第一高等学校文科甲類に入学[22][5]。寄宿舎和寮5番に入る[6]
  • 1927年(18歳)
    • 4月 - 春に伊豆下田に旅行。寄宿舎明寮6番に移り隣室の氷上英廣と知り合う[6]
    • 8月 - 大連に帰省中に肋膜炎にかかり、そのまま満鉄病院に入院し、1年間休学となる[22]。その間、別府の満鉄療養所に移り、その後千葉県保田あたりに転地療養[6]
    • 11月 - 『校友会雑誌』に投稿した「下田の女」が掲載される[5][6]
  • 1928年(19歳)
    • 4月 - 寮を出て、伯父・関翊(若之助)の知り合いの渋谷町の弁護士・岡本武尚邸に寄寓し、そこの息子を通じて田中西二郎と知り合う[6]
    • 11月 - 『校友会雑誌』に「ある生活」「喧嘩」が掲載される[5][6]
  • 1929年(20歳)
    • 4月 - 文芸部委員となり『校友会雑誌』編集に参加。この年の夏に岡本邸を出て、同潤会アパートに移る[6]
    • 6月 - 『校友会雑誌』に「蕨・竹・老人」「巡査の居る風景―一九二三年の一つのスケッチ」を「短篇二つ」として発表[6]
    • 秋 - 氷上英廣、吉田精一釘本久春らと共に季刊同人誌『しむぽしおん』(翌年夏まで4冊発行)をおこす[5][6]
  • 1930年(21歳)
    • 1月 - 『校友会雑誌』に「D市七月叙景(1)」を発表[6]
    • 3月 - 第一高等学校を卒業。9日に三つ子の妹・睦子が大連で病死(享年4)[6]
    • 4月 - 東京帝国大学国文学科に入学[22][6]
    • 6月13日 - 伯父・中島端(斗南先生)が山本開蔵(5番目の伯父)宅で逝去(享年78)[6]。この年、本郷区西片町の第一・三陽館に移る[6]。この頃から夏休みを中心に、永井荷風谷崎潤一郎の全作品を読む[37][6]
  • 1931年(22歳)
    • 3月 - 橋本タカと初めて会う。父・田人が中島家の家督相続人となる[6]
    • 10月 - 大連の中学校を退職した父親が東京に戻ったため、荏原郡駒沢町上馬の借家で父母と同居する[6]。この年から翌春にかけ、卒論準備として上田敏森鴎外正岡子規の全集を読む[6]
  • 1932年(23歳)
    • 春 - 橋本タカとの結婚話が固まる[6]
    • 8月 - 旅順にいる叔父の中島比多吉を頼り、南満州・中国北部を旅行[6]。習作「プウルの傍で」の題材となる[10]
    • 秋 - 朝日新聞社の入社試験を受けるが第2次の身体検査で不合格となる[6]。11月に卒業論文耽美派の研究」を書き上げ提出[22][6]。この年、「療養所にて」という短編を試みるが完成しなかったとされる[6]
  • 1933年(24歳)
1934年2月に撮影された中島敦。
  • 1934年(25歳)
    • 3月 - 大学院を中退[22]。中区柏葉の市営アパートに移る[6]
    • 7月 - 雑誌『中央公論』の懸賞募集に応募した「虎狩」が選外佳作と発表される[6]
    • 9月 - 激しい喘息発作により生命の危機にさらされる[22][6]
  • 1935年(26歳)
  • 1936年(27歳)
  • 1937年(28歳)
    • 1月 - 長女・正子が11日に出生するが、13日に夭折[22][6]
    • 11月から12月にかけて歌稿となる「和歌でない歌」などを含めた和歌500首を作る[5][6]。この年、知友の出征などが続く中、草花づくりに熱中する[6]
  • 1939年(30歳)
  • 1940年(31歳)
    • 1月31日 - 次男・格(のぼる)が出生[22]。命名は伯父・中島竦[6]。この頃から、アッシリアや古代エジプトの歴史を勉強しプラトンのほぼ全著作を読む[5]
    • 6月11日 - 伯父・中島竦が逝去(享年79)[6]。夏頃、スティーヴンソンの作品や伝記を読む。この年も喘息の発作がますますひどくなり、暮れごろから週1、2回の勤務となる[5]
  • 1941年(32歳)
    • 3月 - 転地療養と文学に専念するため横浜高女を休職[22][6]。学校からの要請により代わりに父・中島田人が勤務[6]
    • 6月 - 釘本久春の斡旋で5月末に南洋庁の就職話が持ち上がり正式に確定。国語教科書の編修書記としてパラオに赴任決定[22]。これにともない横浜高等女学校は辞職[22]。タカと子供たちは世田谷に住む田人の家に移る[154]。赴任前、深田久弥に「ツシタラの死」(のちの「光と風と夢」)、「古譚」などの原稿を預け[22][6]、祖父・撫山没後30年祭のため埼玉県久喜の中島家に行く[6]
    • 7月 - パラオ着[6]。植民地用の国語教科書作成の準備・調査に携わるが、アメーバ赤痢に罹る[6]
    • 8月 - 下旬から9月初めまでデング熱に罹る[6]
    • 9月-11月 - 近隣諸島を巡り公学校を訪問する第1回長期出張旅行[6]
    • 11月-12月 - 第2回長期出張旅行[6]。この間、11月19日に「高等学校高等科教員無試験検定合格」の教員免許状(国語)が下りる[6]。12月8日に日米開戦のラジオ放送を聴く[6]。喘息発作のため激務に適しないとして「内地勤務」を希望する申告書を31日に提出[6]
  • 1942年(33歳)
    • 1月 - 同月から2月にかけ、土方久功と共にパラオ本島一周の第3回長期出張旅行[6]
    • 2月 - 「古譚」の名で「山月記」と「文字禍」の2篇が『文學界』に掲載される[22]
    • 3月 - 東京出張の許可が出て、土方久功と共に帰国[62][6]。妻子の待つ世田谷の父・田人の家に戻り療養するも、気候激変で激しい喘息と気管支カタルを発し、同区の岡田医院(現・世田谷中央病院)で診察治療を受ける[64][6]
    • 5月 - 「光と風と夢――五河荘日記抄」を『文學界』に発表、第15回(昭和17年度上半期)芥川賞候補となる[22][6]。同月、「悟浄出世」を完成させ、「弟子」を執筆[6]筑摩書房古田晁中央公論社杉森久英が来訪し、作品集出版の勧めを受ける[6]。この月、健康のために横浜へ帰り住むべく知友に家探しを依頼[6]
    • 7月 - 7日に第一創作集『光と風と夢』を筑摩書房より刊行[6][155]
    • 8月 - 南洋庁に辞表を提出(南洋庁から正式に辞令が下ったのは9月7日付)[68][6]。専業作家生活に入る[6]
    • 9月 - 第二創作集のための原稿を出版社(今日の問題社)に渡す。
    • 10月 - 「李陵」「名人伝」を執筆[6]
    • 11月 - 15日に第二創作集『南島譚』を今日の問題社より刊行。同時期、心臓の衰弱が激しくなり世田谷の岡田医院に入院[156][6]
    • 12月4日 - 気管支喘息で午前6時に死去[6]。33歳没。6日の午後2時から神式の葬儀、多摩墓地に埋葬される[6]。「名人伝」が『文庫』に掲載[6]
  • 1943年
    • 1月 - 遺稿のエッセイ「章魚の木の下で」が『新創作』に掲載[6]
    • 2月 - 遺作の「弟子」が『中央公論』に掲載[6]
    • 7月 - 深田久弥の命名による遺作「李陵」が『文學界』に掲載[6]
  • 1944年
    • 8月 - 盧錫台による中国語訳で上海の太平出版公司から『李陵』が刊行[6]
  • 1949年 - 『中島敦全集』(筑摩書房出版)が第3回毎日出版文化賞を受賞[6]

著作一覧

作品

個別の作品記事については、「かめれおん日記」、「狼疾記」、「山月記」、「文字禍」、「わが西遊記」(悟浄出世、悟浄歎異―沙門悟浄の手記―)、「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」、「牛人」、「名人伝」、「弟子」、および「李陵」も参照

以下に記す表において、基本情報の出典は[5][1][157][2][8][9][10][25][6][158]

中島敦の作品一覧
総称 作品名 脱稿・初出年月 説明・備考
斗南先生 1933年9月16日脱稿 中島敦自身を投影した「三造」の目を通して伯父・中島端について記録した作品。
もう一人の伯父・中島竦のことにも触れられている[2]
虎狩 1934年2月頃脱稿 京城中学校の生徒である「私」が、両班出身の朝鮮人同級生に誘われて虎狩りに行く[94]
1934年7月に『中央公論』の懸賞に応募し選外佳作となった作品[5][94][注釈 4]
過去帳
かめれおん日記 1936年12月26日第1稿脱稿
1938年-1939年完成稿執筆
教師の「私」が生徒から預かったカメレオンを飼育しつつ様々に想起する作品[注釈 5]
狼疾記 1936年11月10日第1稿脱稿
1938年-1939年完成稿執筆
「三造」を主人公にした形而上学的な不安や宇宙の虚無を題材にした作品。
未完の習作「北方行」の一部を転用している[9]
古譚
狐憑 1941年4月頃脱稿 紀元前8世紀ごろの未開人種スキタイの部落を舞台にした作品。
何かが憑依したかのように様々な面白い話を物語り聴衆を虜にする1人の村人が長老に煙たがられ、その憑きものが落ちたとたん部落にとって有害無益の存在として処刑され皆に食われてしまう話。
詩人(芸術家)の存在と社会との関係性を寓意した作品[159]
木乃伊 同上 紀元前525年のエジプトを舞台にした作品。
古い地下室でミイラの顔を凝視するうち、それが自身の前世だと悟ったペルシャ将士が過去世、そのまた前々世の想念を思い出し、合わせ鏡のように無限で不気味な記憶の連続に囚われ発狂する話。
自意識の呪縛が描かれ、自己の対象化を身体というモチーフによって試みる中島敦の独自性が表れている作品の一つ[159]
山月記 1941年4月頃脱稿
1942年2月『文學界』掲載
唐代の小説『人虎伝』をもとに、詩人になれなかった男が虎に変身してしまう姿を描く[1]
文字禍 同上 アッシリヤの博士が大王に命じられて「文字の霊」を探すという内容である[160]
光と風と夢 1941年1月末までに脱稿
1942年5月『文學界』掲載
イギリスの作家、ロバート・ルイス・スティーヴンソンサモアでの晩年の暮らしを題材とする[161]
第15回芥川賞候補作[66]
初出時は副題付きで「光と風と夢――五河荘日記抄」。原題は「ツシタラの死――五河荘日記抄[8][注釈 6]
わが西遊記
悟浄出世 1941年5月から執筆開始
1942年5月頃脱稿
執筆中、「ファウストツァラトゥストラなど、余り立派すぎる見本が目の前にあるので、却って巧く行きません」と語り、「僕のファウストにする」という意気込みで書かれたもの[9]
悟浄歎異
―沙門悟浄の手記―
1939年1月15日原形脱稿
(原稿33枚中32枚目まで)
のち日付に赤の抹消線
「悟浄出世」と同様、未完作「わが西遊記」の中の一篇。こちらは結末部にあたる[9]
南島譚
幸福 1942年8月中には完成 パラオにいる長老の下男を主人公にした作品。
島に伝わる神話と伝説が基になっている。
夫婦 同上 パラオのガクウオ部落に住む夫婦の愛憎をめぐる作品。
島に伝わる神話と伝説が基になっている。
同上 パラオの民俗を研究している「私」を主人公にした作品。
土方久功の著作が基になっている。
環礁
寂しい島 1942年8月中には完成 パラオ島の印象などを記した作品。
夾竹桃の家の女 同上 上半身裸体で赤ん坊を抱いていた艶っぽい島民の女について記した作品。
ナポレオン 同上 不良少年ナポレオンについて記した作品。
真昼 同上 ミクロネシアにおける文明人の自分の目線について思いを巡らす随想的作品。
マリヤン 同上 島民の女マリヤンについて記した小説的な作品。
風物抄 同上 クサイヤルートポナペトラックロタサイパンの見聞録。
古俗
盈虚 1941年4月頃脱稿と推察
1942年7月『政界往来』掲載
春秋左氏伝』を素材に、壮公の破滅を描く[162]
初出時の原題は「或る古代人の半生」[9]
牛人 同上 『春秋左氏伝』を素材に、 大夫・叔孫豹の餓死を描いた作品。
「盈虚」「牛人」2篇から成る「古俗」は、元々は「古譚」4篇と同じ系列で「古譚」6篇だったのではないかと推察されている[9][注釈 7]
名人伝 1942年9月以降執筆
1942年12月『文庫』掲載
列子』の記事をもとに、射術の名人が老荘的な理想の境地に達するさまを描く[1]絶筆[1]
弟子 1942年6月24日脱稿
1943年2月『中央公論』掲載
子路が孔子に弟子入りし、政変で劇的な死を遂げるまでの30年間の師弟関係を描いた作品[1]。没後発表作。
李陵 1942年10月脱稿
1943年7月『文學界』掲載
漢書』の列伝を素材に、匈奴と戦い捕虜となった李陵や、彼を擁護した司馬遷の運命が描かれる[1]。没後発表作で、深田久弥が遺稿に最も無難な題名を選び、「李陵」と命名した[10]。中島自身が書き残したメモには「漠北悲歌」の語があるが、その字を消してある部分も同時に見えるため断定しにくく、無難な「李陵」となったのではないかとされている[10]
初出や初単行本では、挿入部2か所の原稿脱落があり。完全翻刻のものは文治堂書店版の全集からとなる[10]。また、2012年からは山下真史や村田秀明によって、敦自身が書籍化した場合の本文が検討され、註釈付きで書籍化され注目を集めた[163][164]
章魚の木の下で 1942年11月執筆と推察
1943年1月『新創作』掲載
パラオの南洋群島で暮らしていた時に感じた戦争と文学についての短い感想文(随筆)。没後発表作。
種目 作品名 脱稿・初出年月 説明・備考
習作I
(学生時)
下田の女 1927年11月
『校友会雑誌』第313号掲載
同年春に旅した伊豆下田の体験を基にした作品[8]
ある生活 1928年11月
『校友会雑誌』第319号掲載
元来は「女」「喧嘩」と併せた3篇として投稿された。だが「女」は編集委員から難点があるとして棄てられ、「ある生活 」「喧嘩」だけが掲載された[8]
喧嘩 同上 同上
蕨・竹・老人 1929年6月
『校友会雑誌』第322号掲載
「巡査の居る風景」と併せて2篇として投稿[8]
巡査の居る風景 同上 副題の付いた正式タイトルは「巡査の居る風景――1923年の一つのスケッチ――」。
この作品のみだと「左翼のように思われる」ため、毒消しとして「蕨・竹・老人」と併せて投稿された[8]
D市七月叙景(一) 1930年1月
『校友会雑誌』第325号掲載
(二)(三)と書き継ぐ予定であったが、未完に終わった[8]
習作II
北方行 1933年頃-1937年執筆(未完)
1948年5月
『表現』第2・春季号掲載(抜粋)[注釈 8]
大学生の「黒木三造」が1930年代の中国を旅する[158]
プウルの傍で 1932年8月頃執筆 主人公「三造」が満州旅行の帰途、8年ぶりに母校の京城の中学校を訪れ、その光景から昔の思春期を思い出す作品。
無題 1935年3月以降執筆 「無題」と題された日常混沌の雑然とした教員生活を描いた作品で、「かめれおん日記」の前駆的なもの[10]
歌稿 その他
和歌でない歌 1937年11月・12月執筆
1947年4月
『藝術』第3号掲載(抜粋)[注釈 9]
歌集。「遍歴」「憐れみ讚ふるの歌」「石とならまほしき夜の歌 八首」「また同じき夜によめる歌 二首」「夢」「夢さめて再び眠られぬ時よめる歌」「放歌」から成る。
河馬 1937年11月・12月執筆 歌集。「河馬の歌」「狸」「黒豹」「マント狒」「白熊」「眠り獅子の歌」「仔獅子」「駱駝」などから成る。
Miscellany 同上 歌集。「理髪店の歌」「チンドン屋の歌」「聘珍楼の歌」「夜と林檎の歌」「真珠の歌」などから成る。
霧・ワルツ・ぎんがみ
―秋冷羌笛賦―
1937年11月・12月執筆
1947年4月
『藝術』第3号掲載(抜粋)[注釈 10]
歌集。「踊り子の歌」「ひげ・いてふの歌」「街頭スケッチ」などから成る。
Mes Virtuoses
(My Virtuosi)
1936年以降-
1937年11月・12月執筆
歌集。「シャリアーピンを聴く」「トレパク(死の舞踏) ムッソルグスキイ」「ハイフェッツを聴く」などから成る。
朱塔 1936年8月以降-
1937年11月・12月執筆
歌集。「杭州の歌」「蘇州の歌」などから成る。
1936年8月の中国旅行の風景を基にした歌。
小笠原紀行 1936年3月以降-
1937年11月・12月執筆
歌集。100首余りの歌から成る。
1936年3月の小笠原旅行の風景を基にした歌。
漢詩 1939年頃執筆 25の漢詩
訳詩 清の時代の詩人や、トーマス・ムーア(1779-1852年)の詩の訳詩。
雑纂
文芸部部史 1930年9月『向陵誌』掲載 『向陵誌』は第一高等学校の寮誌[10]
新古今集と藤原良経 大学時代のレポートの下書きと推察されている[10]
鏡花氏の文章 1933年7月『学苑』第1号掲載 泉鏡花の作品を読むことを生徒に勧めている文。
『学苑』は横浜高等女学校の学内誌で中島敦が編集発行人となっている[10]
他、タイトルのない雑記には『学苑』の編輯後記などがある。
十年 1934年3月『学苑』第2号掲載 将来フランスに行きたいと思っていた16歳のころの思い出を綴った文。
どのスポーツが好きか 1936年7月『学苑』第7号掲載 中学2年のころに野球をやっていたことや、その他スポーツについて一言書いた短文。
お国自慢 1937年7月『学苑』第9号掲載 各地を転々として育ったため、人々の言う「故郷」という言葉が持つ感覚が自分には分からないと述べた短文。
草稿
セトナ皇子(仮題) 題名は文治堂の全集編集者によって仮に付けられたもの。
「古譚」系統の草稿と推察されている[10]
妖氛録 巫臣の妻となった夏姫の物語。
「古俗」系統の草稿と推察されている[10]
論文
耽美派の研究 1932年11月脱稿・提出 大学卒業論文。卒業は1933年3月。
翻訳
パスカル
オルダス・ハクスリー作)
1938年8月9日翻訳脱稿
スピノザの虫
(オルダス・ハクスリー作)
1939年7月翻訳
クラックストン家の人々
(オルダス・ハクスリー作)
1939年頃翻訳(未完)
罪・苦痛・希望・及び
真実の道についての考察
フランツ・カフカ作)

作品集

単行本
書籍名 出版社 出版年月 Ncid 収録作品
第一創作集
『光と風と夢』
筑摩書房 1942年7月15日 NCID BA44738108 「古譚」(狐憑、木乃伊、山月記文字禍)、「斗南先生」、「虎狩」、「光と風と夢
第二創作集
『南島譚』
(新鋭文学選集2)
今日の問題社 1942年11月15日 NCID BA69658009 「南島譚」(幸福、夫婦、雞)、「環礁―ミクロネシヤ巡島記抄―」(寂しい島、夾竹桃の家の女、ナポレオン、真昼、マリヤン、風物抄)、「わが西遊記」(悟浄出世悟浄歎異―沙門悟浄の手記―)、「古俗」(盈虚牛人)、「過去帳」(かめれおん日記狼疾記)、「名人伝
『李陵』 小山書店 1946年2月 NCID BN11436604 「李陵」、「弟子」
『わが西遊記』 京北書房 1947年9月 NCID BA69612110 「悟浄出世」、ほか4篇
『李陵』
原稿復刻版
(手稿の複製)
文治堂書店 1980年11月 NCID BN05292204 「李陵」(清書原稿)、「李陵」(草稿)、「章魚木の下で」(清書原稿)
氷上英廣中村光夫の寄稿文もあり。

【全集】

【文庫】

【音声・映像作品】

保存活動・企画展

神奈川近代文学館・中島敦文庫

2019年の中島敦展開催中の神奈川近代文学館

神奈川近代文学館には1992年に中島家から寄贈された資料による「中島敦文庫」が設けられている[169][16]。同館からは

も発行されている[170]。この「中島敦文庫」には中島の自筆資料のみならず、パラオに赴いた際のトランク (鞄)など物品も所蔵されている[18]。かつては日本大学法学部も「中島敦文庫」を設けており[171]、同館は2006年に日本大学の蔵書も引き取っている[17]。ほとんどすべての中島敦の原稿・遺品等を収蔵した同館は「中島敦研究のメッカ」であるとされている[15]

また、同館は没後60年[169]、生誕100年[17]、生誕110年[122][172]に企画展を開催しており、

  • 『没後五〇年 中島敦展 一閃の光芒』 神奈川近代文学館、1992年9月。NCID BN08477024
  • 『中島敦展 ― 魅せられた旅人の短い生涯』 神奈川近代文学館・展覧会図録。2019年9月[173]

といった刊行物も発行した[174]

なお漫画作品のようなサブカルチャーとコラボレーションした企画が文学館で行われるようになっており[175][122]、神奈川近代文学館でも2019年の企画展で前述の『文豪ストレイドッグス』とのコラボレーション企画を実施した[176][122]

中島敦の会

中島がかつて勤務していた横浜学園高等学校(横浜学園)に事務局を置く「中島敦の会」が活動しており[177][178]、横浜学園理事長の田沼智明[179]や田沼光明[178]が会長を務めている。同会は1992年9月に没後50年中島敦を偲ぶ会を開催しており、陳舜臣白川静佐藤全弘を推薦人として酒見賢一に「没後五十年中島敦記念賞」を授与した[180]

また、同会は神奈川近代文学館の企画展も後援し[18]、同館で没後75年のイベントも主催[178]。生誕100年の2009年には『山月記』や『名人伝』を舞台化した野村萬斎[181]を招いての朗読会も開催している[182]

なお、研究者の村山吉廣も中島敦の会に参加しており[179]、同会が発行する以下の研究書は神奈川近代文学館で販売されている[183]

  • 山下真史、村田秀明『中島敦「李陵・司馬遷」定本篇・図版篇』、中島敦の会 発行、神奈川近代文学館 発売、2012年11月、NCID BB11149211[163]
  • 山下真史、村田秀明『中島敦「李陵・司馬遷」註釈篇』、中島敦の会 発行、神奈川近代文学館 発売、2018年11月[183]

記念碑

  • 元町幼稚園 - 1975年(昭和50年)12月7日、中島敦文学碑が横浜学園付属元町幼稚園の園庭に建立された[184]。元町幼稚園がある場所には、中島敦が勤務していた横浜高等女学校があった[185]。発起人は、中島の横浜高等女学校時代の教え子や同僚[184]。中島の筆跡で[186]、『山月記』の冒頭が刻まれている(原稿が行方不明のため『弟子』の原稿から集字した)[184][70]
  • 中島敦ゆかりの地記念碑 - 埼玉県久喜市にある[189]。祖父、中島撫山の家があり、中島敦は2歳から6歳をここで過ごした[189]。なお、久喜市には「久喜・中島敦の会」があり、生誕100年を記念して『中島敦と私』を出版している[143]

関連文献

#参考文献節も参照。

評伝・年譜

作品論

その他

脚注

注釈

  1. ^ この「又してもだめなり」という語から、「虎狩」がこれ以前の別の応募でも落選していたのか、あるいは、「斗南先生」を何かに応募していたのではないかと推察されている[8]
  2. ^ 戸籍謄本上は長男と記載されているが撫山には先妻との間に靖(号は綽軒)がおり、実際には撫山の次男となる[127]
  3. ^ 斗南の小説『野路乃村雨』は、保安条例に反対し皇居外3里の地に追放された病弱の青年を主人公にしたもので、有為の青年が悲運に陥る内容となっている[145]
  4. ^ 当選作は島木健作「盲目」、丹羽文雄「贅肉」などだった[8]
  5. ^ 「狼疾記」と共に1940年に雑誌『形成』(古今書院)に掲載する話もあったが実現ならず[6]
  6. ^ 『文學界』編集部からの要請で変更した[8]
  7. ^ 深田久弥の回想文中に「古譚六篇」という言い方がなされ、編集者(今日の問題社の)がこの「盈虚」「牛人」2篇を「古譚」と呼んでいたことから[9]
  8. ^ 『表現』は角川書店の季刊雑誌[6]
  9. ^ 「石とならまほしき夜の歌」から6首、「また同じき夜によめる歌」、「夢」から7首が掲載された[8]。『藝術』は八雲書店の季刊雑誌[8]
  10. ^ 「街頭スケッチ」から7首が掲載された[8]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 瀬沼茂樹「解説」(李陵 2003, pp. 207–215)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 氷上英廣「解説」(山月記 1994, pp. 401–419)
  3. ^ a b c 日野啓三「文学という恩寵」(ちくま3 1993, pp. 461–472)
  4. ^ 勝又 2009, pp. 38–43.
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「年譜」(李陵 2003, pp. 216–218)
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch ci cj ck cl cm cn co cp cq cr cs ct cu cv cw cx cy cz da db dc dd de df dg dh di dj dk dl dm dn do dp dq dr ds dt du dv dw dx dy dz ea eb ec ed ee ef eg eh ei ej ek el em en eo ep eq er es et eu ev ew ex ey ez fa fb fc fd fe ff fg fh fi fj fk fl fm fn fo fp fq fr fs 「中島敦年譜」(ちくま3 1993, pp. 445–459)
  7. ^ a b c d e f g h 佐野 2013, p. 44-54.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 勝又浩「解題」(ちくま1 1993, pp. 477–488)
  9. ^ a b c d e f g h i j k 勝又浩「解題」(ちくま2 1993, pp. 547–560)
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 勝又浩「解題」(ちくま3 1993, pp. 473–485)
  11. ^ a b c d e f 川村 2009b, pp. 2–3.
  12. ^ a b 勝又 2004, pp. 153–154.
  13. ^ a b 吉田 1984, pp. 155–156.
  14. ^ 勝又 2004, pp. 112–113.
  15. ^ a b c d 川村 2009b, pp. 14–15.
  16. ^ a b 宝島社 2009.
  17. ^ a b c 企画展「生誕100年記念 中島敦展―ツシタラの夢―」”. 神奈川近代文学館. 2019年10月20日閲覧。
  18. ^ a b c 特別展「中島敦展――魅せられた旅人の短い生涯」”. 展覧会. 神奈川近代文学館. 2019年10月21日閲覧。
  19. ^ 勝又 2004, p. 8.
  20. ^ 勝又 2004, p. p3.
  21. ^ a b 勝又 2004, pp. 5–12.
  22. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 中島略年譜(『KAWADE道の手帖』pp.189-191).
  23. ^ a b c d 日本近代文学館、小田切進 編『日本近代文学大事典 第二巻』 講談社、1977年、495-497頁、NCID BN00742846
  24. ^ 勝又 2004, pp. 13–21.
  25. ^ a b c d e 木村一信「作家案内」(斗南先生 1997, pp. 295–307)
  26. ^ a b 小谷 2019, p. 9.
  27. ^ 中島敦「お国自慢」(学苑 1937年7月・第9号)ちくま3 1993, pp. 364
  28. ^ 小谷 2019, pp. 9–12.
  29. ^ 渡邊 2005, pp. 49–54
  30. ^ 勝又 2004, pp. 8–9.
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参考文献

外部リンク