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中島撫山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中島 撫山(なかじま ぶざん、本名:中島慶太郎、1829年5月14日文政12年4月12日) - 1911年明治44年)6月24日)は、幕末から明治時代の教育者儒学者漢学者である[1][2]

人物・生涯

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中島撫山は1829年文政12年)4月12日、江戸亀戸に生を受ける。生家は江戸初期以来、諸大名に駕籠を納入する日本橋新乗物町(今日の東京都中央区日本橋堀留町1丁目)の豪商であった。数えで11歳の時、母が亡くなる。14歳の時に出井貞順に入門し、出井貞順の薦めで亀田綾瀬・鶯谷にも学ぶ。19歳で父と死別する。1858年安政5年)に両国矢ノ倉に私塾「演孔堂」を開塾する。1869年明治2年)12月、武蔵国埼玉郡久喜本町122番地(明治合併後、南埼玉郡久喜町大字久喜本、今日の久喜市本町6丁目)に移住する。1872年(明治5年)、久喜に戸籍を移す。1878年(明治6年)には久喜本町の住居に私塾「幸魂教舎(こうこんきょうしゃ)」を開塾する。「幸魂教舎」の「幸魂」とは埼玉の古い読み方である「さきたま」に由来する。その後、晩年の1909年(明治42年)には大字久喜本より大字久喜新(今日の久喜中央2丁目)へと転居する。その2年後の1911年(明治44年)6月24日、83歳で永眠する。

中島撫山の墓は神道式となっており、久喜市本町1丁目の光明寺に眠っている。また、久喜中央2丁目(旧:大字久喜新)の住居跡地に六男の田人(中島敦の父)撰文の記念碑が中島撫山の没後30年の1941年昭和16年)に建てられ、現存している。

上記の「幸魂教舎」のように、中島撫山は地域での教育においても功績を残し、また久喜の地に移り住み永眠するまで多くの撰文などを行い、碑文も数多く残すなど、旧久喜町やその周辺地域にその足跡・功績を多く残している。

略年譜

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石碑など

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  • 『雪齋高翁勤家之碑』 - 久喜市下清久に所在。
  • 『御嶽仮山之碑』 - 久喜市吉羽(吉羽天満宮付近)に所在。
  • 『適所先生招魂之碑』 - 久喜市久喜中央1丁目に所在していたが、吉羽1丁目に移転。
  • 『寿祉』 - 久喜市除堀に所在。
  • 『殪職』 - 久喜市下早見に所在。
  • 『野久喜鎮守社改造之記』 - 久喜市久喜北1丁目に所在。
  • 『並木氏家系記』 - 久喜市吉羽に所在。
  • 『吉羽菅神祠碑』 - 久喜市吉羽に所在。
  • 『殉國』 - 久喜市江面に所在。
  • 『激壮』 - 久喜市吉羽4丁目に所在。
  • 『撫山先生終焉之地』[3] - 旧南埼玉郡久喜町大字久喜新宅の跡地に中島撫山没後30年の1941年昭和16年)に6男の田人(中島敦の父)が撰文した記念碑

関連項目

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脚注

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  1. ^ 「中島敦年譜」(ちくま3 1993, pp. 445–459)
  2. ^ 「中島敦家系図」(ちくま3 1993, p. 443)
  3. ^ 「撫山先生終焉之地碑」 - 旧久喜市ホームページ
  4. ^ 「撫山中島先生之墓」 - 旧久喜市ホームページ

参考文献

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  • 『久喜市史 通史編 下巻(p162 - 165)』 久喜市史編さん室 編集 埼玉県久喜市 発行 平成4年1月20日 発行
  • 『平成十二年久喜市文化財調査報告書(ふるさと文化のみちづくり事業―久喜市の教育―) 中島撫山関係調査報告書(I)』 久喜市教育委員会 発行 平成十二年三月三十日 発行
  • 中島敦『中島敦全集3』ちくま文庫、1993年5月。ISBN 978-4480027535 
  • [1] 無料公開マンガふるさとの偉人「久喜地域の人を育てた 中島撫山先生」発行 埼玉県久喜市教育委員会 2022年10月

外部リンク

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