瀬峰場外離着陸場
瀬峰場外離着陸場 | |||||||||
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IATA: N/A - ICAO: N/A | |||||||||
概要 | |||||||||
国・地域 | 日本 | ||||||||
所在地 | 宮城県栗原市瀬峰小深沢232 | ||||||||
種類 | 場外 | ||||||||
所有者 | (株)村上商会 | ||||||||
標高 | 52.1 m | ||||||||
座標 | 北緯38度40分48.1秒 東経141度1分18.3秒 / 北緯38.680028度 東経141.021750度座標: 北緯38度40分48.1秒 東経141度1分18.3秒 / 北緯38.680028度 東経141.021750度 | ||||||||
地図 | |||||||||
滑走路 | |||||||||
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空港の一覧 |
瀬峰場外離着陸場(せみねじょうがいりちゃくりくじょう)は、宮城県栗原市瀬峰にある場外離着陸場である。通称「セミネ飛行場」「栗原飛行場」「栗原瀬峰飛行場」。
概要
[編集]奥羽山脈から東方に延びる舌状丘陵の1つの「瀬峰丘陵」東端近くに位置する。
名称にある「瀬峰」は栗原郡瀬峰町に所在したことによるが、平成の大合併期の2005年(平成17年)4月1日に周辺町村との合併で栗原市になったため、「栗原飛行場」とも呼ばれている。
定期航空路はないが、軽飛行機、グライダーの滑走路として利用される他、東日本パイロット協会によるパイロット育成にも使用される。また、ヘリコプター用のヘリパッドも備える。利用に当たっては航空法第79条のただし書きの場外申請が東日本パイロット協会を通じ必要である。
運営は主に、東日本パイロット協会が行う他、敷地内には同協会の関係者が経営する自動車用ハーネス部品メーカー(株)ブルーギアがあり、同社によって同飛行場の管理・活用がなされている。
毎年秋に「くりはら秋・夢まつり」が、東日本パイロット協会およびブルーギアの主催によって同離着陸場で開催され、毎回5,000人程度の来場者がある。同日は、モーターパラグライダーやセスナ機など小型機のデモフライトや体験飛行が行われ、さらにヘリコプターやマイクロライトプレーンを間近で見ることができる[1]。
2008年(平成20年)6月14日に発生した岩手・宮城内陸地震では、被災状況把握のための調査飛行で利用された[2]。同地震を機に、三陸海岸での防災訓練に以前から参加していたアマチュア航空家を中心にして、操縦士・無線技士・救急救命士・看護師等による災害ボランティア組織が当場を拠点として2010年(平成22年)1月10日に立ち上げられ、自主的に訓練をしている[3][4]。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震では、津波の被害が甚大だった沿岸部までヘリコプターで10分程度との近さを生かし、同組織が当離着陸場を拠点に活動し、支援物資の輸送拠点および報道ヘリコプターの中継点の1つとしても機能した[4]。
空港データ
[編集]- 開港:1977年(昭和52年)5月
- 所在地:宮城県栗原市瀬峰小深沢232
- 管理者:東日本パイロット協会(場外利用申請は、東日本パイロット協会から一括申請)
- 交信:離着陸時は、VHF122.6 MHzの一方送信。
参考
[編集]太平洋戦争中に日本海軍が少年航空兵の訓練用に設置した飛行場はここではなく、瀬峰と高清水の境界付近の低い丘陵地にあった四壇原飛行場である[5]。四壇原飛行場には戦闘機の配置はなく、複葉の練習機が置かれていた。この飛行場の建設時期は終戦間際であり、終戦の日となる1945年(昭和20年)8月15日にも飛行場整備のための作業が行われていて、作業員達は作業の合間の昼休みに日本の無条件降伏を知ったという。終戦後に飛行場として使われることはなく、その敷地は水田として開墾された[6]。
脚注
[編集]- ^ 私の街の頑張る会社・地域の行事(仙台銀行瀬峰支店)
- ^ 宮城県栗原市高清水(仙台銀行 営業所レター「仙台銀行のある街」)
- ^ 「災害救援に飛行機有効」 ボランティアが栗原で初訓練(河北新報 2010年1月11日)
- ^ a b 内陸地震の「恩返し」 宮城・栗原の有志ヘリなどで物資輸送(河北新報 2011年3月18日)
- ^ 『高清水町史 高清水歴史絵巻』168頁。
- ^ 『瀬峰町史』(増補版)668-669頁。
参考文献
[編集]- 瀬峰町史編纂委員会 『瀬峰町史』(増補版) 瀬峰町、2005年。
- 高清水町史編纂委員会 『高清水町史 高清水歴史絵巻』 高清水町、2003年。
関連項目
[編集]- 宮城県内にある他の空港