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ウラジオストク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浦塩から転送)
ウラジオストク
Владивосток
ウラジオストクの市旗 ウラジオストクの市章
市旗 市章
位置
ウラジオストクの位置。ルースキー島(中央の赤い部分)の対岸、ピンクの部分がウラジオストク。の位置図
ウラジオストクの位置。ルースキー島(中央の赤い部分)の対岸、ピンクの部分がウラジオストク。
座標 : 北緯43度7分 東経131度55分 / 北緯43.117度 東経131.917度 / 43.117; 131.917
歴史
建設 1860年
旧名 海参崴
行政
ロシアの旗 ロシア
 連邦管区 極東連邦管区
 行政区画 沿海地方の旗 沿海地方
 市 ウラジオストク
市長 コンスタンチン・シェスタコフロシア語版(2021年 - )[1][2]
地理
面積  
  市域 331.16 km2
標高 40 m
人口
人口 (2020年現在)
  市域 606,561人
    人口密度   1832人/km2
その他
等時帯 ウラジオストク時間 (UTC+10)
郵便番号 690XXX
市外局番 +7 423
ナンバープレート 25, 125
自治体コード (OKATO) : 05 401
公式ウェブサイト : www.vlc.ru

ウラジオストクロシア語: Владивосток, ラテン文字転写: Vladivostok ヴラヂヴァストークロシア語発音: [vlədʲɪvɐˈstok], ru-Vladivostok.ogg 発音[ヘルプ/ファイル], 漢語: 海參崴拼音: hǎishēnwǎi)は、ロシア沿海州最大の都市で行政の中心地である。日本海金角湾周辺に位置し、面積は331.16平方キロメートル(127.86平方マイル)、人口は2021年現在で60万871人である[3]。ウラジオストクは、極東連邦管区、および極東ロシア地域において、ハバロフスクに次いで2番目に大きな都市である。

1860年にロシア軍の前哨基地として設立された。1872年、太平洋に面したロシア海軍の主要基地が移設され、以後ウラジオストクは発展していく。1917年のロシア革命勃発後、1918年に外国軍に占領され、日本からの最後の撤退は1922年であった。このとき、ウラジオストクの反革命白軍部隊は速やかに崩壊し、ソ連政権が確立された。ソ連崩壊後、ウラジオストクは沿海州の行政の中心地となった。

ウラジオストクは太平洋に面したロシア最大の港であり、ロシア極東の経済、科学、文化の中心地であり、ロシアにおける重要な観光地でもある。シベリア鉄道の終着駅として、2017年には300万人を超える観光客が訪れた[4]。極東連邦管区の行政の中心地であり、ロシア海軍太平洋艦隊の司令部が置かれている。その地理的位置とロシア文化から、「極東のヨーロッパ」とも呼ばれている[5] [6]。ウラジオストクには多くの外国領事館や企業がオフィスを構えており、毎年東方経済フォーラムが開催されている。ウラジオストクの年間平均気温は約5℃と、中緯度の海岸沿いの都市としては寒冷な気候である。これは、冬に広大なユーラシア大陸から吹く風が、海水温を下げるためである。

名称

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Владивостокという言葉は、「ヴラジ- (влади)」と「ヴォストーク (восток)」から成っており、「ヴォストーク」は「東」を意味し[注釈 1]、「ヴラジ-」は「領有・支配する、物件を自由に使う、制御する」を意味する動詞「владеть (ヴラヂェーチ)」からきている。

この名称は「東方を支配する町」を意味するが、その通りウラジオストクはロシアの極東政策の拠点となる軍事・商業都市であった[注釈 2]。これは、ロシアの古い都市ウラジーミル(公・大公の名に由来)に範を取った名称であるためであり、ほかにも同時期に作られたウラジカフカスカフカースを支配する町)などがある[7]。また、しばしば「東方を支配せよ(Rule the East)」、「東方の支配者(Lord of the East)」、「東方の覇者(Conqueror of the East)」とも解釈される[8]

日本語のカナ音記ではさまざまな表記が見られるが、ウラジオストク、ウラジオストック、ヴラジヴォストーク、ヴラヂヴォストーク、ウラディヴォストーク、ヴラヂヴォストーク(ソビエト科学アカデミーによる公式な日本語表記)、ウラジヴァストークなどが挙げられる。

上述の通り、本来のロシア語での造語としてはウラジ・オストク(ヴラディ・ヴォストーク)が正しいのであるが、日本ではたびたびウラジオ・ストクと異分析され、明治時代以降浦塩斯徳(または浦潮斯徳)と当て字された。通称は「浦塩(浦潮)/ウラジオ」と略され、気象通報でも以前は「ウラジオ」と呼称されていた。

中国語では清国の領土だった時代の呼称である海参崴と表記される他(後述)、ロシア語名の音訳である符拉迪沃斯托克の表記も使われる。

地理

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ウラジオストク市は沿海地方南部のピョートル大帝湾の南にあり、平地が少なく坂の多い港町である。日本海に突き出したムラヴィヨフ・アムールスキー半島(長さ30キロ、幅12キロ、ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーに由来する)南端部の北緯43度7分、東経131度51分に位置し、ロシア海軍の太平洋艦隊の基地が置かれる軍港都市でもある。

ウラジオストクの衛星画像

丘陵上の市街に囲まれるようにして金角湾が半島に切れ込んでおり、天然の良港になっている。街の中心部は金角湾の奥にある。南には東ボスポラス海峡をはさんで軍用地や保養所などのあるルースキー島が浮かぶ。

民族構成

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ウラジオストクを含む沿海地方ハバロフスク地方は、19世紀末からウクライナ人入植者が多く、緑ウクライナとも呼ばれていた。現在はロシア系ウクライナ系が大多数を占める。2010年の全ロシア国勢調査によると、ウラジオストクには70以上の民族が住んでおり、その中で最も多いのは475.200人のロシア人 、10,474人のウクライナ人、7,109人のウズベク人、4,192人の高麗人、2,446人の中国人、2,295人のタタール人、1,642人のベラルーシ人、1,635人のアルメニア人、1,635人のアゼリー人、その他1,252人。

調査によると、2002年以降、都市の民族構成が変化し、ウズベク人のシェアは14.4倍に増加し、中国人とタジク人のシェアは5.4倍、キルギス人は8.5倍、高麗人は1.6倍増加した。沿海地方の高麗人の半数以上は、ウラジオストクとウスリースクの2つの都市に居住している。沿海地方のウズベキスタン人の80%以上がウラジオストクに住んでいる。前述のように、ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人、タタール人の割合は減少している。また近年の建設ラッシュに合わせ、北朝鮮や中央アジア各地からの労働者が建設業などに携わっている。ロシア革命前後には日系人が6,000人ほど在住し日本人街が形成されていた。2011年現在、外務省へ届け出ている在留邦人(日本国籍所有者)は104人[9] にすぎない。

宗教施設

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ロシア正教会が多いが、そのほとんどはソビエト連邦時代に共産主義の宗教否定により破壊され、ソビエト連邦の崩壊後に再建されたものである。その他のキリスト教としてはカトリック教会ルーテル教会アルメニア正教会がある。ほかの宗教施設としてはユダヤ教シナゴーグイスラム教モスクチベット仏教の施設がある。

標準時

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この地域は、ウラジオストク時間標準時を使用している。時差はUTC+10で、夏時間はない。2011年3月までは冬時間がUTC+10で夏時間がUTC+11であったが、同年3月からは夏時間を標準時とする形で夏時間制が廃止された。そして2014年10月から、通年UTC+10となった。

気候

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ケッペンの気候区分によると、ウラジオストクは亜寒帯冬季少雨気候または湿潤大陸性気候に属する。寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候である。

冬季は乾燥しており、基本的に晴天が続く。沿岸都市であるにもかかわらず、1月の平均気温は-11.9℃と、日本でもっとも寒い陸別町の1月の平均気温-11.1℃よりも低い(平均最低気温は陸別町が-19.6℃と、4.6℃低い)。

夏季は湿度が高く、年間降水量の70%が集中している。晴天の日には高温になることもある。

ウラジオストク(1991~2020)の気候
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
最高気温記録 °C°F 5.0
(41)
9.9
(49.8)
19.4
(66.9)
27.7
(81.9)
29.5
(85.1)
31.8
(89.2)
33.6
(92.5)
32.6
(90.7)
30.0
(86)
23.4
(74.1)
17.5
(63.5)
9.4
(48.9)
33.6
(92.5)
平均最高気温 °C°F −7.8
(18)
−3.8
(25.2)
2.7
(36.9)
10.1
(50.2)
14.9
(58.8)
17.9
(64.2)
21.6
(70.9)
23.3
(73.9)
20.1
(68.2)
13.2
(55.8)
3.3
(37.9)
−5.4
(22.3)
9.2
(48.6)
日平均気温 °C°F −11.9
(10.6)
−8.1
(17.4)
−1.5
(29.3)
5.3
(41.5)
10.0
(50)
13.8
(56.8)
18.1
(64.6)
20.0
(68)
16.3
(61.3)
9.2
(48.6)
−0.7
(30.7)
−9.2
(15.4)
5.1
(41.2)
平均最低気温 °C°F −15.0
(5)
−11.3
(11.7)
−4.5
(23.9)
2.1
(35.8)
7.0
(44.6)
11.3
(52.3)
16.1
(61)
17.9
(64.2)
13.5
(56.3)
6.2
(43.2)
−3.5
(25.7)
−12.0
(10.4)
2.3
(36.1)
最低気温記録 °C°F −31.4
(−24.5)
−28.9
(−20)
−21.3
(−6.3)
−7.8
(18)
−0.8
(30.6)
3.7
(38.7)
8.7
(47.7)
10.1
(50.2)
1.3
(34.3)
−9.7
(14.5)
−20
(−4)
−28.1
(−18.6)
−31.4
(−24.5)
降水量 mm (inch) 12.4
(0.488)
16.1
(0.634)
26.9
(1.059)
43.2
(1.701)
97.4
(3.835)
104.6
(4.118)
158.9
(6.256)
176.1
(6.933)
103.3
(4.067)
67.4
(2.654)
36.2
(1.425)
19.2
(0.756)
861.7
(33.926)
湿度 58 57 60 67 76 87 92 87 77 65 60 60 70.5
[要出典]

歴史

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1918年、ウラジオストクでパレードを行う各国の干渉軍
シベリア出兵を伝える日本の画報(救露討独遠征軍画報)

石器時代

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古来よりツングース系民族が住んでいたと考えられている。2万年前に日本から運ばれた隠岐産の黒曜石などが発掘されている[10]

7世紀末から10世紀初頭は、渤海国の領域であった。アルセーニエフ沿海地方州立博物館には、渤海国時代の遺跡から発掘された文化財が展示されている。

内モンゴルを中心に支配した契丹人(キタイ人)や耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝の領域であった。遼王朝は916年から1125年まで続いた。

12世紀初頭から13世紀初頭は、中国の北半を支配した女真族の金王朝の支配領域であった。

元の時代、現在のウラジオストクにあたる地域は永明城(永遠の光の都市(City of Eternal Light)の意)と呼ばれていた[11]

明の時代、永楽帝が奴児干都指揮使司を設立、東北地方を支配する機関として「奴児干都司」が設置された重要な要衝地となっている[注釈 3][注釈 4]

清の時代、外満洲(がいまんしゅう、: Outer Manchuria)と呼ばれていた地域の中で、現在のウラジオストクにあたる地域は海參崴(「海辺の小さな村」の意)と呼ばれていた。外満洲は、1858年アイグン条約1860年北京条約によって、清からロシア帝国に割譲された。

ロシア帝国は1860年北京条約によって外満洲を清から獲得し沿海州を設置して、その南部にウラジオストクの街を建設した。ロシア人のほかドイツ人デンマーク人イギリス人も都市の建設に携わった。

イザベラ・バードの朝鮮紀行によれば、1860年に測量を開始、1863年にオークやマツの大木を切り払い仮設小屋を建て始めた際には野生のアムールトラによる被害が出た。1878年ニコラエフスクから海軍施設を移設すると人口は増加し、1897年には、朝鮮人中国人などの民間人を含め2万5,000人規模の都市となった[12]1880年以降、黒海沿岸オデッサとの間に義勇艦隊が定期航路を開設し、ウクライナから農業開拓移住者を運んだ[13]

19世紀末、日本海を通じての太平洋への玄関口として、また北に位置するロシアが悲願とする不凍港[注釈 5] として極東における重要な港町に位置づけられた。1878年にニコライエフスクから海軍が移駐、ロシア帝国海軍バルト艦隊太平洋艦隊の分遣隊が置かれた。これは、のちに強化されてウラジオストク巡洋艦隊となった。ウラジオストクには造船所ドックが建造されたが、これができるまでロシア極東にはまともな艦船の整備施設がなく、日本の施設に依存していた。

日露戦争時には、ウラジオストク巡洋艦隊は通商破壊に活躍し、黄海海戦ののち旅順艦隊の残存艦はウラジオストク巡洋艦隊に合流した。日露戦争後はその構成艦船の主要なものがほとんどバルト海へ帰還し、太平洋艦隊はシベリア小艦隊に縮小された。

日本占領~極東共和国時代

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ロシア革命の勃発により、第一次世界大戦の連合国(大日本帝国イギリス帝国アメリカ合衆国カナダフランスイタリア王国中華民国)が干渉戦争としてシベリアへ出兵することが決まり、まず1918年(大正7年)夏に3万7,000人の大日本帝国陸海軍が上陸。その後、その他連合国の少数の干渉軍が上陸した(シベリア出兵)。しかし1918年11月に起こったドイツ革命によって第一次世界大戦は停戦したため、これによってシベリア出兵の目的を喪失した他の連合国軍は、1920年に相次いで撤兵したが、その後も日本軍だけは事後処理を名目に駐留を続行した。日本出兵部隊の本部は現在の「沿海地方内務局ビル」内にあった。日本は当初のウラジオストクより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者、農民によるパルチザンとの戦闘を繰り返しながら、北樺太沿海州満州を鉄道沿いにバイカル湖東部まで侵攻し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大。ウラジオストクからイルクーツク以東を1918年から1922年にわたって占領した。ウラジオストクには1920年から1922年の間、極東共和国の支配下にあり、各地から白系ロシア人が押し寄せたため、市の人口は9万7,000人から41万人までに増加した。1922年10月25日、最後の日本軍部隊が撤収し、ウラジオストクは赤軍の支配下に入った。市の人口は、10万8,000人にまで減少した。

ソ連時代

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1935年、それまであった小規模な艦隊を拡張する形で、ウラジオストクを本部とするソビエト連邦海軍太平洋艦隊が創設された。ソビエト連邦時代の1938年には、沿海州を改組した沿海地方の州都となるとともに、軍港として重視されるようになった。

その後、第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争(日)・大祖国戦争(ソ))後、市内には第13収容地区(ラーゲリ)が設置されて、シベリア抑留された日本人捕虜が労働を強いられた。過酷な生活と環境の中で倒れた者のために日本人墓地も作られた[14]。その後、冷戦に入ると国際都市から一変。1958年からソ連が崩壊する1991年まで、ごく一部を除いて外国人の居住と、ソ連国民を含む市外居住者の立ち入りが禁止された閉鎖都市とされた。その間、ウラジオストクの代わりにナホトカが日本を含む外国との貿易港として、そしてシベリア鉄道の始発駅として機能した。そのため日本国総領事館もナホトカに移転していた。

ロシア連邦時代

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ソビエト連邦の崩壊後の1992年、ウラジオストクが閉鎖都市の指定から解除され、1993年には日本国総領事館がナホトカからウラジオストクへ移転した。民間旅客航空会社のウラジオストク航空が誕生し、日本の新潟空港富山空港関西国際空港北九州空港成田国際空港との間に定期便が就航していたが、サハリン航空と合併してオーロラとなった。2017年10月現在、ウラジオストクから日本への直行便は週10便ある。オーロラの成田-ウラジオストク便が週3便、S7航空の成田便が週4便、新千歳空港便が週3便[15] である。

2012年9月にはルースキー島ロシアAPECが開催され、首脳会議の会場となった。APEC終了後に極東連邦大学がその会場の建物に移転した。

ロシア政府はAPEC開催に備える形で、ルースキー島連絡橋の建設やウラジオストク国際空港の改修を行うなど、ウラジオストクに対して総額約6,000億ルーブル(1兆6,500億円)の莫大なインフラ投資を実施した[16]。ルースキー島は、リゾート地化を目的として大規模な開発が進められており、リゾートホテルやプリモルスキー・オケアナリウム水族館ができている。

2017年8月より無料の電子査証での訪問が可能となり、日本航空2020年3月29日より成田国際空港から毎日1往復を就航するなど、日本人観光客が増加傾向にある[17]

産業

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おもな産業は造船業漁業軍港関連産業である。ソ連崩壊後は日本などからの中古車輸入が盛んとなり、極東における一大市場となっている。経済的にはインフラ整備の遅れが問題になっていたが、2012年のAPEC開催が決まったことで大規模な公共事業が実施され、急速に整備が進んだ。

現在は自動車産業を積極的に誘致している。2009年12月にソラーズロシア極東地区初の自動車工場として操業を開始したほか、マツダトヨタ自動車など外資系メーカーの進出も進んでいる。また、ガスプロムと日系企業によるLNG生産プラントの建設が計画されている。

ロシア極東部への外国投資を促すのが主目的の国際会議「東方経済フォーラム」が、2015年から毎年9月にウラジオストクで開かれている。

交通

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道路

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ゴーゴリ通り
金角湾横断橋

市外との主要道路は、北方面へのM60幹線道路(ウラジオストク - ハバロフスク、別名:ウスリー幹線道路)が本市を起点としており、この道路はシベリア横断道路ノヴォシビルスクなどを経てモスクワサンクトペテルブルクへ)の最東端になっている。また東方面にナホトカへの道路、南方面へハサンへの道路(さらに北朝鮮国境を経て清津へ)もある。

鉄道

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美しい駅舎を構えるウラジオストク駅シベリア鉄道の東方の始発駅である。

航空

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ウラジオストク国際空港が、市の中心部から北に50キロほどのアルチョーム市にあり、ロシア国内の主要都市と日本(東京札幌大阪)、韓国ソウル釜山大邱)、中国北京天津ハルビン上海香港など)、北朝鮮平壌)、台湾台北)、タイ王国バンコク)に就航している。韓国へはLCCも就航している。

航空便は2008年ごろには日本との直行便は最大で4都市(新潟・富山・北九州)・週10便前後も運航していたが、2011年には1都市(東京/成田)・週2便へまでに減少してしまった。その後は2012年のAPEC開催を契機に、成田空港との間にS7航空の直行便が就航した。

2017年春からは、東京/成田はオーロラ航空も参入して毎日1往復と観光ビザ緩和でかつての賑わいを取り戻すようになった。2018年5月25日より再開した新潟へは夏期のみの期間就航となっている。2018年12月からウラル航空により新千歳空港にも就航を開始した。

2019年夏からは、季節限定便としてS7航空が関西空港へ週2便運航している。

日本航空は2020年2月26日から、当初は週3往復、夏ダイヤが始まる3月29日からは週7往復のデイリー運航に増便する見通しで機材はボーイング737-800型機(2クラス144席:ビジネス12席、エコノミー132席)を使う。全日空は2020年3月16日より成田から週に2往復運航することが決定した。機材はエアバスA320neo(2クラス146席:ビジネス8席、エコノミー138席)を投入するとしている。

船舶

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軍港で有名なウラジオストク港は国際貿易港でもあり、各地への航路が開かれている。

  • 阪急阪神エクスプレスが、2021年1月からシベリア鉄道を利用して、ポーランド着の「Sea&Rail定期混載サービス」を開始。東京、名古屋、神戸の各コンテナ・フレイト・ステーションから搬入した荷物を富山コンテナ・フレイト・ステーションで混載貨物に仕立て、富山新港からウラジオストク港へと海上輸送を行い、ウラジオストク駅からシベリア鉄道でポーランドのクトノ駅へと輸送したのち、クトノ駅から欧州代理店ポーランドのポズナンコンテナ・フレイト・ステーションに保税転送し、陸上輸送でポーランド国内やドイツオーストリアチェコなど欧州全域に配送を開始した。

市内公共交通

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ウラジオストク市電
ウラジオストク市電

名所・観光地

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第10要塞に残されている測距儀

教育

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大学

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ウラジオストクにある大学[18] は、

など。

その他

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文化

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ウラジオストクが舞台となった作品

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小説

  • 『死後の恋』『支那米の袋』『氷の涯』夢野久作
  • 『ミリオンカの女』『仕切られた女 ウラジオストク花暦』高城高
  • 『右ハンドル』ワシーリイ・アフチェンコ著、河尾基訳

紀行

映画

  • 『デルス・ウザーラ』(1975年公開、黒澤明監督。モスクワ国際映画祭で大賞、米国アカデミー賞で外国語映画賞)
  • 『ホテルビーナス』(2004年公開、草彅剛主演。モスクワ国際映画祭のパースペクティブ部門で最優秀賞)
  • 『タイフーン/TYPHOON』(2004年公開の韓国映画。チャン・ドンゴン主演)
  • 『Seventh Code』(2014年公開、黒沢清監督、前田敦子主演。ローマ国際映画祭で最優秀監督賞)
  • 『コップ・ベイビー』(2017年公開のロシア映画。山寺宏一が主役の声を担当する日本語吹替版はムービープラスにて配信中)

テレビドラマ

  • 浅見光彦シリーズ50「貴賓室の怪人」(中村俊介主演)
  • 十津川警部シリーズ18「シベリア鉄道殺人事件」(渡瀬恒彦主演)

バラエティ番組

漫画

  • ゴールデンカムイ野田サトル原作
  • 『乾と巽 -ザバイカル戦記』『韃靼タイフーン』安彦良和原作
  • 『普通の人でいいのに!』(講談社モーニング月例賞2020年5月期奨励賞)
  • 『ウラジオストクで会いましょう』(講談社アフタヌーン四季賞2020秋 安野モヨコ特別賞)

テレビアニメ

ゲームソフト

ミュージックビデオ

写真集、カレンダーなど

ウラジオストクにちなんだ命名

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艦船

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日本との関係

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ロシア帝国時代

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ウラジオストクと日本の関係はウラジオストク創設の1860年以降に始まる。

  • 1864年(元治元年)ロシア帝国政府から江戸幕府に対し極東ロシアへの移民募集の依頼あり。
  • 1866年(慶応2年)江戸幕府はロシア領事から要望されていたシベリア開発の移民募集につき、それまでの不許可の方針を検討対象に変更。
  • 1871年(明治4年)ウラジオストク - 長崎間に電信線が開通。
  • 1876年(明治9年)日本国政府貿易事務所が開設(1907年に領事館、1909年に総領事館に昇格)。
  • 1877年(明治10年)後に双日の元となった鈴木商店が、ウラジオストクに支店を開設。
  • 1886年(明治19年)西本願寺は初めての海外布教所として浦潮本願寺を開設。
  • 1890年代の始めに、長崎港 - ウラジオストク港航路に加え、神戸港からの定期航路が運航開始。
  • 1891年(明治24年)シベリア鉄道敷設工事が開始。日本からの建設関係労働者の出稼ぎ移民が増加し、鉄道建設等の集団による契約移民も数回にわたり渡航した。
  • 1892年(明治25年) 増大した在留邦人のために「浦潮斯徳同盟会」(会長・川辺虎)が結成される(1895年に「浦潮斯徳同胞会」、1906年に「浦潮斯徳居留民団」に改称)[24]
  • 1894年(明治27年)浦潮本願寺の1室に日本人学校が開設。
  • 1896年(明治29年)のちに双日の元となった岩井商店がウラジオストクに支店を開設。
  • 1902年(明治35年)敦賀港とウラジオストク港との間に定期船の運航開始。その年ロシア文学に傾倒していた二葉亭四迷は、ウラジオストクに3週間滞在したあとにシベリア鉄道ウラジオストク駅からモスクワへ向かった。当時日本からヨーロッパ方面へ行く最短ルートとして外交官や留学生などの多くがシベリア鉄道を利用した。12月時点でのウラジオストク在住日本人の数は2,996人を達成していた。その多くは九州、特に長崎県の出身者が多かった。当時、街の中心部(ペキンスカヤ通り、コソイ通り、スイフンスカヤ通り、フォンタンナヤ通り)に日本人街ができて商業活動が活発に行われ機能していた。
  • 1904年(明治37年)2月8日 日露戦争が勃発。開戦直前、日本政府から引揚げ命令が出されたため、ロシア各地に居住していた日本人がウラジオストクに集結した。しかし最終引揚げ船に間に合わなかった残留者が多数発生してしまった。浦潮本願寺の住職の太田覚眠は、ウラジオストク日本貿易事務官の川上俊彦からの即時帰国勧告を退け、本尊の阿弥陀如来像を背負い、シベリアを横断して、ロシア帝国により、ウラル山脈山中に監禁・抑留されていた800人ほどの日本人を救出し、日本に送還した。

3月6日上村彦之丞海軍中将が率いる日本海軍の第2艦隊は、装甲巡洋艦「出雲」「八雲」「吾妻」「磐手」「浅間」、防護巡洋艦「笠置」「吉野」がウスリー湾方面からウラジオストク港に接近して薄氷の外から造船場、砲台、市街地に向けて約50分間砲撃し、しばらくその海域に留まった。さらに支援の防護巡洋艦5隻と10隻の駆逐艦も集結した。

  • 1905年(明治38年)9月4日 日露戦争終結によりポーツマス条約が締結され、その後日本人がウラジオストクへ戻った。
  • 1906年(明治39年)大阪商船がウラジオストク線(小樽/新潟-ウラジオストク)を開設。
  • 1907年(明治40年)ウラジオストクに日本の領事館が開設。長崎県十八銀行が支店として松田銀行部を開設(のちに朝鮮銀行の浦塩支店が吸収)。ウラジオストクに持ち込まれる商品の13%が日本からのもので、日本人が経営する商店の数も54店舗までになっていた。店舗としては第一ギルドに所属していた「杉浦商店」「日本郵船会社」「日本九州茶業株式会社」「徳永商店」といった商社、また長崎、愛知、茨城、新潟、滋賀の各県出身の持ち主が第2級商店を経営していた。
  • 1912年(明治45年)ウラジオストク航路に接続する国際列車が新橋駅(1914年からは東京駅)と金ヶ崎駅(1919年に敦賀港駅と改称)との間にボート・トレインが運航を開始。この年の5月、与謝野晶子は、パリに滞在している夫の与謝野鉄幹に会いにいくためにウラジオストク駅からシベリア鉄道に乗車した。極東連邦大学東洋学院の敷地内には与謝野晶子の詩文が書かれた石碑があり、「巴里の君へ逢ひに行く」と刻まれている。
  • 1913年(大正2年) 日本人学校がフォンタンナヤ通りの建物に移転。
  • 1915年(大正4年) 当時カチューシャの唄で一世を風靡した女優の松井須磨子と、演出家島村抱月がウラジオストクを訪れ、ロシアの劇団との合同講演を沿海地方プーシキン劇場で行い大好評を博した。
  • 1915年(大正4年) 三重県津市丁子屋がウラジオストクに支店を開きハルピン・イルクーツク等の百貨店に既製服を卸す。

日本占領~極東共和国時代

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  • 1917年(大正6年) ロシア革命後にソビエト連邦による共産主義体制が成立したものの、ウラジオストクなどのロシア極東には、すぐには統治が及ばなかった。12月、日本語による新聞浦潮日報が創刊。
  • 1918年(大正7年) 日本を中心とした列強国によるシベリア出兵により日本からの軍艦がウラジオストク港へ到着し、伸べ7万3,000人の日本軍が上陸。その駐留する日本軍人に対し、ウラジオストク在住の日本人が商売を行った。またロシア革命により多くの白系ロシア人がウラジオストク港から船で日本へ亡命した。
  • 1918年から1922年(大正11年)にかけて、日本がウラジオストクからバイカル湖に近いイルクーツク以東のシベリアを占領。日本出兵部隊の本部が現在の「沿海地方内務局ビル」内に駐屯していた。またその年には横浜正金銀行の浦塩支店が開設。堀江商店杉浦商店などの商社、精米業の妹尾商店、雑貨商の太田商店などが営業していた。
  • 1920年ごろ(大正9 - 10年ごろ)には6,000人近くの日本人が暮らし、日本人による商店や企業が多数進出していたが、3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件(尼港事件)が発生。
  • 1922年(大正11年)内閣総理大臣加藤高明は6月23日の閣議で、この年の10月末日までの沿海州からの撤兵方針を決定し、翌日、日本政府声明として発表。撤兵は予定通り進められ10月25日に赤軍がウラジオストクに入った。

ソ連時代

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  • 1924年(大正13年) 横浜正金銀行の浦塩支店が閉鎖し撤退。
  • 1928年(昭和3年)7月末 歌舞伎の初の海外公演がウラジオストクで1週間行われ、その後モスクワに向けて出発した。
  • 1931年(昭和6年)9月18日 満州事変が勃発。またソ連政府の共産主義政策により私有財産制度の廃止、市民個人の自由の制限などで日ソ関係が悪化。日本人の帰国が多くなり日本人学校が閉鎖となる。
  • 1937年(昭和12年)ソ連政府の命令により、領事官員を除くウラジオストク在住の日本人全員が帰国することとなった。4月13日に浦潮本願寺は閉鎖となり、仏像・仏具とともに尼港事件やシベリア出兵時に死亡した兵士および日本人移民の遺骨94柱が、船舶「シベリア丸」で日本へ帰国した。
  • 1945年(昭和20年)第二次世界大戦終了後に捕虜となった日本人の兵士によって1940年代後半にナベレジナヤ通りのロタンダやディナモ競技場が建設された。

しかしその後の東西冷戦期のウラジオストクは、前述のように高度な軍事機密に関わる軍港として閉鎖都市となり、日露(日ソ)間の航路もナホトカに移動され、ほかのすべての外国人と同様、日本人にとって、ウラジオストクを訪れることができない状態がソ連崩壊後まで続いた。1909年 - 1922年、1925年 - 1946年、および1993年以降、在ウラジオストク日本国総領事館が設置されている(不在期間の後者は、東西冷戦期である)。

ロシア連邦時代

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現在のウラジオストク市内では、日本から輸入した右ハンドル中古車が数多く走っており、その比率はおよそ9割以上である。また一時期には、およそ10万人が車輸入販売、修理、洗車などの中古車関連ビジネスに従事していた[25]。2009年1月よりロシア政府が自国自動車産業の保護を目的とし輸入車の関税を大幅に引き上げたため、地元では大きな影響が出ている。

日本との地理的な近さ(東京からはソウルよりも近い)などから日本語教育が非常に盛んであり、市内の各大学や高校などでは日本語教育が行われている。また、同時にロシア語を学ぶ日本人留学生も少なくない。2017年8月8日よりウラジオストク域内では電子ビザでの滞在が可能となり、渡航日の4日前にネット上で申請することで無料でビザ取得が可能となった[26]

進出している主な日系企業・団体

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姉妹都市

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脚注

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脚注

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  1. ^ 日本で知られているものとしては、宇宙船の「ボストーク」と同じ語である。
  2. ^ 木村汎は著書『新版 日露国境交渉史』p.75で「ムラヴィヨフは、1860年の北京条約によって清国から割譲された海参威をウラジヴォストークと名づけた。「東方(ヴォストーク)」を「支配せよ(ウラジ)」の意味である。」と説明している。ただし、владеть命令形владей (ヴラヂェーイ)であり、「ウラジ」ではない。
  3. ^ "明代に入り3代皇帝、永楽帝の永楽7年(1409)、東北地方を支配する機関として「奴児干都司」が設置された重要な要衝地となっている。", アムール下流域奴児干都司としと永寧寺碑と先住民族たち
  4. ^ "1409年(永楽7),黒竜江(アムール川)下流の特林に置かれた明の軍政機関。正式には奴児干都指揮使司という。", 世界大百科事典内の奴児干都指揮使司の言及
  5. ^ 少なくとも1892年の時点では不凍港ではなかった。肝付兼行述『西比利亜鉄道ニ対スル日本ノ開港場ヲ論ス:港湾調査委員報告 』(金谷昭、1892年)において、海軍水路部長の肝付は、毎年12月21日より4月15日までは冬期氷結して艦船の出入りが出来ない(表示された右ページ1〜2行目)と記している。また、東邦協会会員・松浦充美著『東露要港浦塩斯徳』(東京堂、1897年秋田県立図書館および大阪府立中央図書館所蔵)39ページ、第五「冬時浦港氷塊破砕の模様」によると、1893年バルト海より「軍艦シラチー号を回航し来り同年冬季時結氷の初めより破砕に従事したるを始とし」たが、厳冬期には能力が不足し、軍艦・商船のための航路確保が困難であった。1897年から1898年の冬に状況が変わった(東京朝日新聞1898年1月18日3面「浦塩斯徳の繁忙」)。V.l.アガーポフ「研究ノート:露日戦争におけるウラジオ巡洋艦戦隊の作戦」堤明夫訳、軍事史学会編『日露戦争(二)---戦いの諸相と遺産』軍事史学41-1・2合併号、2005年6月、ISBN 4-7646-0319-5、99ページに、艦隊用の基地としてのウラジオストクの「最も不便な点は冬季における90〜120日間の港の凍結であったが、この問題は砕氷艦「ナデージヌイ(Nadezhny)」が配備されたことによって解決され、年間を通しての航行が可能となった」(出典は、Russkoe sudohodstvo, 1904. No.3(263), pp.227-28)と記されている。

出典

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  1. ^ ウラジオストク市長が辞任、代行に沿海地方副知事”. 日本貿易振興機構. 2021年6月3日閲覧。
  2. ^ ウラジオストク市議会、シェスタコフ市長代行を市長に選出”. 日本貿易振興機構. 2021年8月6日閲覧。
  3. ^ RUSSIA: Dal'nevostočnyj Federal'nyj Okrug”. citypopulation.de. 2022年3月13日閲覧。
  4. ^ Века, Екатерина (2018年2月7日). “Владивосток вошёл в топ-5 самых популярных у туристов городов России”. Администрация Приморского края. 2020年10月8日閲覧。
  5. ^ Alexander Jacoby (July 5, 2005). “Eastern Europe in the Far East”. The Japan Times. October 11, 2020閲覧。
  6. ^ Alex Nosal. “Vladivostok, Europe in Middle of The Orient”. The Seoul Times. October 11, 2020閲覧。
  7. ^ Фа́смер, Максимилиан Романович. “Этимологи́ческий слова́рь ру́сского языка́” (ロシア語). Internet Archive. 2022年7月7日閲覧。
  8. ^ Vladivostok” (英語). Encyclopædia Britannica. 2019年8月8日閲覧。
  9. ^ 海外在留邦人数調査統計 平成23年10月1日現在”. 外務省. 2021年11月20日閲覧。
  10. ^ いにしえの島根”. 島根県. 島根県古代文化センター. 2023年6月23日閲覧。
  11. ^ 符拉迪沃斯托克” (中国語). 百度百科. 2023年6月23日閲覧。
  12. ^ イザベラ・バード『朝鮮紀行』講談社学術文庫p282
  13. ^ 原暉之著『ウラジオストク物語』三省堂1998年、111ページ。川上俊彦著『浦潮斯徳』大倉保五郎、1892年6月、43〜44頁、「第十七 義勇艦隊」。
  14. ^ 長勢了治『シベリア抑留全史』原書房、2013年8月8日、186,294頁。ISBN 9784562049318 
  15. ^ Flights” (英語). S7 Airlines. 2017年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月24日閲覧。
  16. ^ “ウラジオストクAPECサミットの施設建設業者が作業が終了”. ノーボスチ通信. (2012年5月17日). http://jp.rian.ru/economics/20120517/130101855.html 2012年10月21日閲覧。 
  17. ^ 栗田シメイ (2018年10月31日). “ウラジオストク旅行に女性が熱を上げるワケ”. 東洋経済オンライン. https://toyokeizai.net/articles/-/245554 2018年11月26日閲覧。 
  18. ^ Vladivostok Universities” (英語). Russia-Ukraine-Travel. 2012年3月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年3月30日閲覧。
  19. ^ インタビュー:ウラジオストク・ビエンナーレとロシア極東の美術”. Relations (2021年3月27日). 2021年6月20日閲覧。
  20. ^ 和貴夫, 藤本 (2023年3月). “ウラジオストクにおける東洋学院の創設(1899年) : 東京外国語学校と比較の試み”. Север. pp. 11–30. 2024年7月3日閲覧。
  21. ^ 前田清次https://kotobank.jp/word/%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%B8%85%E6%AC%A1 
  22. ^ “ロシア、初のヘリ空母建造に着手へ”. スプートニク. (2020年7月16日). https://sputniknews.jp/20200716/7618871.html 2020年7月20日閲覧。 
  23. ^ “ロシア 極超音速兵器搭載の2つの潜水艦建造を開始”. スプートニク. (2020年7月21日). https://sputniknews.jp/20200721/7630188.html 2020年7月20日閲覧。 
  24. ^ 相川和子. “近藤一族”. ロシア語通訳協会. 2020年4月26日閲覧。
  25. ^ 信濃毎日新聞2010年5月7日より。
  26. ^ 電子ビザ”. 在日ロシア連邦大使館. 2017年8月1日閲覧。

参考文献

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  • 木村汎『新版 日露国境交渉史 北方領土返還への道 (角川選書)』角川学芸出版、2005年。ISBN 4-04-703386-3 

外部リンク

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