コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

浅草

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
浅草湊から転送)
日本 > 東京都 > 台東区 > 浅草
雷門

浅草(あさくさ)は、東京都台東区町名。また、浅草駅を中心とした副都心[注 1]

浅草寺門前町として東京有数の観光地および繁華街歓楽街となっている。浅草駅では東京メトロ銀座線都営地下鉄浅草線東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)の浅草駅が位置しているほか、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス浅草駅[注 2]とも近接している。東京都区部北関東を結ぶ東武鉄道特急列車の拠点となっている。

浅草(地域)

[編集]

浅草寺や仲見世通り雷門などを中心に東京を代表する観光地として有名である。東京都台東区のおよそ東半分を範囲とし、江戸東京下町を構成している地域の一つである。浅草は下谷本所深川と並ぶ、東京下町の外郭をなす。概ね東京旧市内高台に比べ低地を多く占める旧区分を下町としている。そのため旧浅草区に属する浅草地域は下町に当たる。

下谷区との合併後も住居表示導入以前は「浅草○○町」と旧浅草区内大半の町が浅草を冠称していた。区画ごとに住居表示実施による町名変更を行ったため、旧下谷区と旧浅草区との境目を、一目で境目を判別するのは難しくなっている。現在においては町会警察署消防署の管轄などで当時の区境や町境を継承している。

江戸時代以降より繁華街の一つとして栄えてきた。関東大震災では主に火災で焼かれた後、東京府都市計画により道路拡張をはじめ新たに市街地化された。高度経済成長期以降は山手線沿線の池袋新宿渋谷などの発展により、繁華街としての相対的な地位は大きく低下した。東京都が制定する副都心(7か所)として、上野駅近辺と共に上野・浅草副都心を形成しており、現在も下町情緒を感じさせる観光の街として賑わっている。

明治になり東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また、浅草寺を中心とした地区を近代的に公園化。それが日本初の都市公園の一つとされる浅草公園となった。浅草公園地を6つの区画に分けたことから、浅草公園地で最も賑わいを見せた繁華街を「浅草公園六区」と呼称するようになった。

浅草地域西端と下谷地域の境に当たる合羽橋道具街では厨房で使用する業務用調理器具関連用品を取り扱う個性的な商店街が存在。浅草地域南部には問屋街が広がっている。また「浅草花やしき」は日本最古の遊園地として知られる。裏浅草(観音裏、奥浅草)と称されている浅草寺以北の浅草地域には多くの中小の工場日雇い街、遊郭だった吉原跡には現在でも大規模なソープランド街が存在。浅草地域は様々な意味合いで下町らしさが色濃いエリアである。

歴史

[編集]

古代・中世

[編集]

浅草は古代の隅田川(古入間川)の河口近くに位置した。海の幸にも恵まれていた。浅草寺一帯は浅草台地の微高台で、現在の待乳山弁天山蔵前鳥越神社付近などから陸地化が進んだ。

628年推古天皇の時代、この土地の漁師、檜前浜成・竹成兄弟が、隅田川観音像を網で掬い上げ、礼拝供養した(浅草寺の始まり)。 下総国へ繋がる官道も通り、微高台は水害からも避難しやすく、町は発展した。

古代より浅草湊は、古入間川の河口に面し武蔵国の内部へ繋がる重要港だった[1]。石浜(現在の台東区橋場)や今津(現在の台東区今戸町)にあったとされる。浅草寺門前町としても栄えた。

また、隅田川は江戸時代以前は武蔵国と下総国の境目であり、中世後期には浅草から石浜にかけて境目の城である石浜城が築かれていた(ただし、荒川区南千住に所在地を比定する説もある)。

確実な史料における浅草という地名の初見は、鎌倉幕府が編纂した『吾妻鏡』である。1181年養和元年)の条に、鶴岡八幡宮造営のため、武蔵国浅草の宮大工と招いたと記される[2]。地名の由来は『台東区史』沿革編(昭和41年)で諸説が紹介されており、草深い武蔵野で「草が浅く茂っていたから」という地形描写説のほか、「海を越す」を意味する「アツアクサ」というアイヌ語説や「聖者のいる場所」を意味する「アーシャ・クシャ」というチベット語説などがある[3]

江戸時代

[編集]
歌川広重『猿わか町の夜』。猿若町(現・浅草6丁目)には江戸三座があり、劇場街として賑わった

江戸時代に浅草が発展した要因は、浅草御蔵(蔵前)に米蔵が設置され、札差株仲間)が登場してきたためといわれている。蔵前では、日本全国から集められた侍や江戸庶民たちの食用米、城で働く武士たちの給料としてのなどを保管していた。いわば金蔵のようなもので、この米を守るために大勢の警備が配置され、下級役人が暮らしていた。

江戸時代、武士の給料は米で支払われていたため、武士たちのために米を保管するだけでなく現金にも替える札差という商人が出てきた。札差は預かった米から手数料を引いて米と現金を武士に渡し、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料をつけて売っていた。札差は武士と小売の両方から手数料を取るため莫大な利益が出た。さらに儲かった金を武士たちに利子を付けて貸していたため札差は大富豪が多く、豪遊する場として浅草は江戸文化が発展した。また両国(現在の東日本橋)を中心に蔵前商人は店を構えていたので、商人や武士たちの多くが浅草周辺に集まった。中でも浅草は江戸で最も人が集中する所で人・物・金が集まってきた。 1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、日本橋芳町(現在の日本橋人形町)から新吉原遊廓が移転してきた。1841年天保12年)人形町の中村座の失火をきっかけとして市村座浄瑠璃の薩摩座、操り人形の結城座が焼失したことから、河原崎座を含めた江戸市中の芝居小屋を現在の浅草六丁目一帯(丹波園部藩主、小出邸の跡地面積約一万坪)に集め、猿若町と名づけて芝居町とした。

札差は武士と共に新吉原歌舞伎座を借り切りし豪遊(接待)したり、舟遊びを楽しんだりしたと伝えられる。当時、芝居小屋や吉原に出入りしては(いき)を競い、豪遊を行った町人を通人(つうじん)と呼んだ。中でも「十八大通」と呼ばれた人々がおり、その多くは札差連中であった。歌舞伎の演目『助六』のモデルとも言われ

明治・大正・昭和初期

[編集]

明治には12階建ての凌雲閣が建てられ、新たに演芸場や劇場等が建ち、東京らしい文化の発信地として知られるようになった。 1917年(大正6年)には常磐座で歌舞劇協会によるオペラ『女軍出征』が上演されたことがきっかけで、浅草ではオペラが大流行した[4]。 一方では、1921年(大正10年)4月6日に発生した浅草の大火(1200戸焼失)[5]1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で市街地の大部分が被害を受けた[6]1923年(大正12年)5月、浅草区内の、し尿処理が公営化される。料金は1荷(2樽)で10銭[7]

震災後の興行界は松竹の進出が本格的となり、昭和初期においては有楽町に進出した東宝と覇を争った。その後も松竹歌劇団 (SKD) の本拠地である国際劇場ロック座フランス座などのストリップ興行で賑わった。 次第に浅草の風紀の乱れが著しくなったため、1930年(昭和5年)、警視庁は通称「エロ取締規則」を発出。舞台上で着用するズロースの長さや色、肌の露出の程度や照明の当て方などの演出が厳しく制限されることとなった[8]

映画館は1931年(昭和6年)、外国映画に日本語字幕が入り始め、国産トーキー映画が封切られる[9]など繁栄が続く一方、浅草の映画館で活動していた映画説明者約70人[10]のほとんどが失業することとなった。

交通機関では1927年(昭和2年)12月東京地下鉄道の浅草駅が東洋で最初の地下鉄駅として開業。さらに1931年(昭和6年)5月東武鉄道が延伸して浅草雷門駅(現在の浅草駅)も開業した。また、昭和初期には、浅草国際通り沿いに森下仁丹仁丹塔の愛称で長らく親しまれた広告塔を建設した(戦後にも再建、1986年に解体)。

しかし第二次世界大戦と戦時体制が激化、一時期の繁栄の勢いが失われてしまい、末期には空襲の被害を受ける。

戦後復興期

[編集]

浅草は第二次世界大戦後も多くの人々を集め続けた。戦後には浅草寺周辺をはじめ、田原町、蔵前合羽橋周辺の旧浅草区道路インフラ整備が進み、拡幅された碁盤の目をもつ街並みとなった。

映画産業は依然として活況を呈し、戦後のどさくさに紛れて非合法のブルーフィルムを上映する映画館も現れた[11]1955年には浅草の私設馬券場が約400軒に急増して日本最大級の競馬の街となったが、同年、競馬法の改正に伴いノミ屋の規制が強化され、瞬く間に姿を消した[12]1974年には、合法的な場外馬券売り場(現、ウインズ浅草)が開業した。

低迷と復活

[編集]

1962年(昭和37年)、日本のテレビの保有台数は1000万台を突破するほどの普及をみせた[13]。この頃から六区にあった映画館が次々と閉館し、同時期、東京都区部西側の新宿渋谷池袋等が副都心として台頭。1967年(昭和42年)12月、浅草寺境内に展望塔ポニータワーが開業するも、客足が伸びず、結局5年で解体された。それらの煽りで1970年代にはめっきり人通りは減少した。

しかし地元民を中心に浅草を盛り上げる活動が成功し、隅田川花火大会(1978年再開)や浅草サンバカーニバル(1981年開始)などの開催がテレビで取り上げられるようになると、平成を迎え徐々に活気を取り戻すようになる。地方から観光バスが来るようになり、また人力車などの観光ガイドなどが雷門周辺に現れるようにもなった。さらには昭和を懐かしむ高齢の観光客が増加していることや、羽田空港成田空港の両空港と鉄道で直結されるようになったことで外国人観光客が増え、また飲食店の新規出店、雑誌やTV番組のグルメレポートで紹介された店目当てに訪れる人々が増えた。

外国人観光客は移り変わりの激しい原宿や渋谷、新宿や銀座とともに、昔ながらの佇まいを色濃く残す浅草を東京の名所の一つとして訪れる傾向が強く[14]、また首都圏新都市鉄道つくばエクスプレスの開通効果でマンションが建設されたことや2010年代の外国人観光客ブームもあり平日でも賑わうようになった。

一方、「映画館の街・浅草」は過去の話になっている。2000年代初頭までは複数の映画館が所在し、映画館の街を保ってきた。しかし2012年中映が複数の映画劇場を閉鎖し、現在、浅草地域に映画館は存在しない。それに代わるように2017年11月4日には上野シネコンTOHOシネマズがグランドオープン[15]した。

地域

[編集]

著名人

[編集]

作品

[編集]
文学
漫画
ドラマ
映画
テレビ
コンピュータゲーム

浅草(町名)

[編集]
浅草
浅草寺
浅草寺
浅草の位置(東京23区内)
浅草
浅草
浅草の位置
北緯35度42分42.78秒 東経139度47分48.05秒 / 北緯35.7118833度 東経139.7966806度 / 35.7118833; 139.7966806
日本の旗 日本
都道府県 東京都
特別区 台東区
地域 浅草地域
人口
2020年令和2年)12月1日現在)[16]
 • 合計 18,134人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
111-0032[17]
市外局番 03[18]
ナンバープレート 足立

浅草一丁目から七丁目まで設けられている。浅草寺を囲んだ観光の街および中小工場の街である。郵便番号は111-0032[17]

地理

[編集]

浅草地域東部に位置し、墨田区向島)との区境に当たる。

河川・架橋

[編集]

世帯数と人口

[編集]

2020年(令和2年)12月1日時点の世帯数と人口は以下の通りである[16]

丁目 世帯数 人口
浅草一丁目 788世帯 1,371人
浅草二丁目 1,451世帯 2,322人
浅草三丁目 1,706世帯 2,836人
浅草四丁目 1,630世帯 2,723人
浅草五丁目 2,754世帯 4,761人
浅草六丁目 2,010世帯 3,359人
浅草七丁目 456世帯 762人
10,795世帯 18,134人

小・中学校の学区

[編集]

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[19]

丁目 区域 小学校 中学校
浅草一丁目 全域 台東区立浅草小学校 台東区立浅草中学校
浅草二丁目 1〜12番
28〜35番
その他 台東区立金竜小学校
浅草三丁目 8〜19番
36〜42番
台東区立千束小学校 台東区立柏葉中学校
4〜7番
20〜24番
31〜35番
台東区立富士小学校
その他 台東区立桜橋中学校
浅草四丁目 1〜4番
48〜49番
5〜16番
17番1号、6〜8号
18番7〜10号
37番1号、7〜11号
38番1号、7〜10号
39〜47番
台東区立柏葉中学校
その他 台東区立千束小学校
浅草五丁目 8〜19番
28〜38番
53〜59番
4〜7番
20〜27番
39〜42番
49〜52番
台東区立富士小学校
60〜73番 台東区立東浅草小学校 台東区立桜橋中学校
その他 台東区立富士小学校
浅草六丁目 全域
浅草七丁目 全域

施設

[編集]

行政

[編集]

公園

[編集]
隅田公園内で行われた浅草流鏑馬(2010年4月20日撮影)

教育

[編集]

観光

[編集]
まるごとにっぽん

店舗

[編集]

交通

[編集]

鉄道

[編集]

バス

[編集]

道路

[編集]

ギャラリー

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 隣接する上野とともに上野・浅草副都心として指定。
  2. ^ 乗換駅にはなっていない(リンク先参照)。

出典

[編集]
  1. ^ なお品川湊は多摩川に沿う地域へ繋がる武蔵国の重要港だった。
  2. ^ 東京都文化財めぐり 浅草散策コース東京都教育委員会(2019年1月21日閲覧)。
  3. ^ 【東京地名研究室】浅草(台東区)地形?異言語?由来は諸説『産経新聞』朝刊2019年1月20日(東京面)。
  4. ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868→1925』河出書房新社、2000年、417頁。ISBN 4-309-22361-3 
  5. ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p343 河出書房新社 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
  6. ^ 日本の地震災害 写真特集”. 時事通信. 2021年12月24日閲覧。
  7. ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p344
  8. ^ 「股下二寸厳守」を警視庁が申し渡す『東京日日新聞』昭和5年11月25日夕刊(『昭和ニュース事典第2巻 昭和4年-昭和5年』本編p26 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  9. ^ 松竹初のトーキー「マダムと女房」『東京日日新聞』昭和6年5月11日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p27 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  10. ^ 邦文字幕の洋画、弁士に脅威『東京日日新聞』昭和6年2月15日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p26 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  11. ^ 「風立ちぬ」が“闇の最高傑作”? 昭和のエロ映画「ブルーフィルム」の世界”. 週刊朝日 (2016年12月6日). 2021年11月22日閲覧。
  12. ^ 「私設馬券売り場一掃へ ノミ屋横行に談 次国会で競馬法を改正」『日本経済新聞』昭和30年1月23日 11面
  13. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、110頁。ISBN 9784309225043 
  14. ^ 台東区 (PDF) - 早稲田大学文学学術院
  15. ^ “4日開業の上野フロンティアタワーを公開 シネコンも売り”. 産経ニュース (産業経済新聞社). (2017年10月31日). https://www.sankei.com/article/20171031-TP4XPWOG5NOHBBAVHFAZXZ47GM/ 2019年9月13日閲覧。 
  16. ^ a b 町丁名別世帯・人口数”. 台東区 (2020年12月8日). 2021年1月2日閲覧。
  17. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  18. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月29日閲覧。
  19. ^ 区立小学校・中学校の通学区域”. 台東区 (2016年9月5日). 2017年12月29日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]