松本市歌
松本市歌 | |
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作詞 | 高野辰之 |
作曲 | 信時潔 |
採用時期 | 1940年7月31日 |
採用終了 | 戦後は公的行事での演奏を取りやめている |
言語 | 日本語 |
「松本市歌」(まつもとしか)は、長野県松本市の市歌である。作詞・高野辰之、作曲・信時潔。
解説
[編集]1940年(昭和15年)制定[1]。この年は皇紀二千六百年を記念して全国で多くの自治体歌が作られた年であり、作詞は一般公募を行わず国文学者の高野辰之に、作曲は東京音楽学校講師の信時潔に市がそれぞれ依頼し、7月31日付の『松本市公報』第43号で市歌の制定が告示された[1]。
戦後は3番の歌詞で取り上げられている歩兵第50連隊の兵営や護国神社が日本国憲法の戦争放棄や政教分離の観点から好ましくないとして演奏されなくなり[2]、次第に忘れ去られて行ったとされる[1]。そのため「まぼろしの市歌」とも呼ばれるが[1]、同じ3番の歌詞に含まれる「学都」は現在も松本市の雅称として親しまれている[3]。
戦後になり、1952年(昭和27年)に信越放送の開局を記念して信濃毎日新聞が新たに「松本市市歌」(作詞:西久保鶴雄、補作:西條八十、作曲:堀内敬三)を選定し市へ寄贈したが[4]、この楽曲に関する記述は『松本市史』を始めとする市の文献では一切見られない。1997年(平成9年)には市制90周年記念事業の「松本のうたコンクール」で最優秀作品に選定された市民愛唱歌「この街を忘れない」(作詞・作曲:黒岩玲子)が作成されており[5]、対外的にはこの愛唱歌の方が演奏実態の無くなった1940年制定の市歌に代わって紹介されることが多い[6]。
復活演奏
[編集]2022年(令和4年)、信州大学人文学部の学生有志が戦後に演奏実態の無くなった市歌の制定経緯に関する調査を行い[7]、東京芸術大学が所蔵する作曲者の直筆楽譜を基に伴奏を再現して復活演奏を行った。
歌詞
[編集]「松本市歌」は歌詞・旋律とも著作権の保護期間を満了し、パブリックドメインとなっている。
一、
日本 アルプス筑摩連峰 繋 ぐ平野 の松本市 こそ山色水光 世 に麗 しく宜 なり観光 都市 の名高 き東 は浅間 、山辺 のあたり玉吹 く温泉 所在 に尽 きず。二、
五層閣上 見渡 す限 四郊 は沃野 、交通至便 所々 の煙突 中空高 く宜 なり商工 都市 の名負 へる出 で入 る貨物 は車 に満 ちて力 は市民 の歩 みに著 し。三、
伸 びよ松本 、栄 えよ吾 が市 宜 しく学都 と呼 ぶべき此処 に国 を鎮 めの兵営並 び国 を護 りの社殿 は聳 ゆ- おう、
松本 足 らへる都市 の行 く手 に輝 け映 ある光 。
参考文献、注釈
[編集]- 中山裕一郎 監修『全国 都道府県の歌・市の歌』(東京堂出版、2012年) ISBN 978-4-490-20803-0
出典
[編集]- ^ a b c d 「幻? の松本市歌」 - 『広報まつもと』2005年4月1日号, p13 - ウェイバックマシン(2016年3月5日アーカイブ分)
- ^ “よみがえれ松本市歌”. 読売新聞オンライン (読売新聞東京本社). (2023年3月12日) 2023年5月6日閲覧。
- ^ 学都松本のあゆみ (10)まぼろしの市歌に歌われた「学都」(松本市中央公民館『学都松本と社会教育の推進』、2014年)
- ^ 信濃毎日新聞、1952年5月23日付4面「市歌と市民歌 松本市市歌」。歌詞と楽譜も記事上で紹介。
- ^ 松本のうた
- ^ 中山(2012), p231
- ^ “求む! 「松本市歌」の情報 1940年に発表も忘れられた存在 信大生が調査”. 信濃毎日新聞 (2022年7月25日). 2022年12月4日閲覧。
関連項目
[編集]- 長野県の市町村歌一覧
- 福岡市歌、呉市歌 - 松本市と同じく戦後復興期に作られた新市歌が忘却され、戦前の市歌だけが記録に残ったケース。