後花園天皇
後花園天皇 | |
---|---|
即位礼 | 1430年1月21日(永享元年12月27日) |
大嘗祭 | 1430年12月3日(永享2年11月18日) |
元号 |
正長 永享 嘉吉 文安 宝徳 享徳 康正 長禄 寛正 |
摂政 | 二条持基 → 一条兼良 → 二条持基 |
関白 |
二条持基 → 近衛房嗣 → 一条兼良 → 二条持通 → 鷹司房平 → 二条持通 → 一条教房 → 二条持通 |
征夷大将軍 | 足利義教→義勝→義政 |
先代 | 称光天皇 |
次代 | 後土御門天皇 |
誕生 |
1419年7月10日(応永26年6月18日) 庭田重有第 |
崩御 |
1471年1月18日(文明2年12月27日)卯刻 室町第泉殿 |
大喪儀 | 1471年1月23日(文明3年1月3日) |
陵所 | 後山国陵、般舟院陵(分骨所) |
追号 |
後花園院 (後花園天皇) 1471年3月10日(文明3年2月19日)追号勅定 |
諱 | 彦仁 |
別称 | 円満智(法名) |
元服 | 1433年1月24日(永享5年1月3日) |
父親 |
養父:後小松天皇 実父:伏見宮貞成親王(後崇光院) |
母親 |
養母:日野西資子(光範門院) 実母:庭田幸子(敷政門院) |
子女 |
観心女王 成仁親王(後土御門天皇) 他 |
皇居 |
土御門高倉殿 京都御所 一条東洞院殿 |
親署 |
後花園天皇(ごはなぞのてんのう、1419年7月10日〈応永26年6月18日〉- 1471年1月18日〈文明2年12月27日〉[1])は、日本の第102代天皇(在位:1428年9月7日〈正長元年7月28日〉- 1464年8月21日〈寛正5年7月19日〉)。諱は彦仁(ひこひと)。
伏見宮貞成親王(後崇光院。崇光天皇の孫)の第一王子。母は庭田経有の女の庭田幸子(敷政門院)。践祚前の正長元年7月17日(1428年8月27日)に後小松天皇の猶子となる。
本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、傍系で三従兄弟[注釈 2]にあたる称光天皇が嗣子を残さず崩御したため、皇位を継いだ。先帝とは8親等以上離れた続柄での皇位継承は53代(称徳天皇→光仁天皇)以来658年ぶりであり、かつ南北朝合一時の「明徳の和約」(皇位は両統迭立とする)にも反するため、旧南朝勢力の激しい反発を招き、以後、約60年にわたって南朝復興運動(いわゆる「後南朝」)が繰り広げられる引き金になった。
生涯
[編集]応永26年(1419年)6月18日、貞成親王の第一王子として生まれた。
応永29年(1422年)以降、先代の称光天皇は幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子がなく、称光の同母弟で皇儲に擬せられていた小川宮も応永32年(1425年)に早世したため、その父で院政を敷いていた後小松上皇は、早急に皇嗣を決定する必要に迫られた。
正長元年(1428年)、称光天皇が危篤に陥ると、両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の足利義教)は伏見御所にいた彦仁王を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。
同年7月20日、称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま、7月28日に践祚し、永享元年(1429年)12月27日に即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり[注釈 3]、父の貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。
永享6年には清原業忠を侍講に、『孝経』『論語』『孟子』を学び、3月24日には貞成親王より『誡太子書』を献上されている。『誡太子書』とは、かつて花園上皇が後花園の高祖父にあたる皇太子量仁親王(光厳天皇)のために著した訓戒書であり、南北朝の動乱の中でも光厳が他多くの記録類とともに崇光皇統(伏見宮)に守り伝えたものであった。このように、豊富な記録類を保有する崇光皇統(伏見宮)を背後に置けたことは、後花園天皇の長所であった[2]。
即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余りにわたって親政を行った。この間、永享11年(1439年)6月には勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。
天皇の治世、各地で土一揆が起こり、永享の乱(永享10年、1438年)、嘉吉の乱(嘉吉元年、1441年)などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って、朝廷権威の高揚を図った[3]。永享の乱での治罰綸旨の発給は、足利義満の代より廃絶していた朝敵制度が60年ぶりに復活したものであった[3]。以後、天皇の政治的権威は上昇し、幕府が大小の反乱鎮圧に際して綸旨を奏請したため、皇権の復活にもつながっていった[3]。
嘉吉3年(1443年)9月、後南朝勢力が土御門東洞院殿に夜襲をかけ放火し、後花園天皇は左大臣・近衛房嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われた(禁闕の変)。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。 この時、甘露寺親長と四辻季春が太刀を抜いて賊を追い払い、その隙に天皇は女房姿となって唐門から逃げたという[4]。伏見宮でも綾小路有俊の進言により貞成親王、貞常王、成仁王を邸宅から逃した[5]。
文安元年(1444年)2月、同母弟の伏見宮貞常親王に親王宣下を行い、文安4年(1447年)11月に父の貞成親王に太上天皇の尊号を奉っている。享徳4年(1455年)1月、後二条天皇の五世の孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行った。
長禄元年(1457年)12月、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲って神璽を奪還し(長禄の変)、長禄2年(1458年)8月には朝廷へ返還された。ここに全ての神器が天皇の手中に帰することになる。なお、神璽の不在は15年近くに及んだものの、二条良基の「三種の神器は天下のどこかにあれば問題ない」という言説や、一条兼良の「神鏡には宝剣と神璽が包摂される」という言説、さらに後光厳天皇以降三種の神器の不在が続いたという事実もあって、神器の不在での支障はほとんどなかったという[6]。
寛正2年(1461年)4月、亀山天皇の五世の孫にあたる常盤井宮全明王に親王宣下を行った。寛正3年(1462年)10月皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』[7]を与えている。
寛正5年(1464年)7月19日、成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣・足利義政を院執事として院政を敷いた。
応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が勃発した際、東軍の細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり、上皇はこれを拒否した。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、同年9月20日に出家、法名を円満智と号した。上皇の出家は、かつて自ら発給した畠山政長に対する治罰綸旨が乱の発端になったことから自責の念に駆られ、不徳を悟ったからだとされている[3]。この出家は義政の無責任さに対して帝王不徳の責を引いた挙として、世間から称賛を浴びた[3]。
応仁の乱により御所も仙洞御所も西軍に占拠され[8]、東軍は室町殿を中核に公家、武家屋敷や庶民の住むエリアまでを含めて土塁や堀を築いて要塞化した。当時の資料にはこれを「御構」と呼んでおり、天皇、院、将軍も一緒に「御構」の中に暮らした[9]。御構の外は西軍に包囲されており、比叡山延暦寺が東軍についたために北東のみが包囲されておらず、ここから物資を補給していた[10]。
後花園院は伏見宮貞常親王と一条兼良らを勅使として東軍の細川勝元に停戦を要請したり、畠山義就や斯波義簾の両陣営に勅使を派遣して停戦を促すなど乱の収束に努力したが、こうした努力もみのらず応仁の乱は長期化してしまった[11]。
文明2年(1470年)12月27日、中風のため室町第で崩御した。宝算53。実の弟である伏見宮貞常親王は、『山賤記』に後花園の崩御について次のように記している。
「 | 五十余り二歳の御齢、未だ御行末も遥かなる御事の、思ひあへず雲隠れ給へば、君も臣もただあきれまどへるばかりなり。(五十二歳の御年齢、まだまだ未来があるはずなのに思い通りにならずお亡くなりになったので、君臣共に驚き戸惑うばかりである[12]) | 」 |
臨終には甘露寺親長、後土御門天皇、足利義政、日野富子らが参上した[13]。後花園院は朝幕にリーダーシップを発揮し「近来の聖王」(『応仁略記』)と称えられて、その崩御は当時の人々にとって大きな衝撃をもって迎えられたという[14]。
文明3年(1471年)1月2日に高辻継長の勘申によって後文徳院と後花園院の案が提出され、諸卿の意見により後文徳院と追号されたが、漢風諡号(文徳天皇)に「後」字を加えた追号(加後号)は先例がないとする太閤・一条兼良の意見があり、諸卿からの意見を再勘案した上で、2月19日に後花園院と改められた[注釈 4]。
人物
[編集]- 後花園天皇は皇権を回復した「中興の英主」として極めて重要な人物であると評されている[3]。
- 寛正2年(1461年)春、天皇が長禄・寛正の飢饉の最中に御所改築など奢侈に明け暮れる将軍・足利義政に対して、漢詩を以って諷諫したというエピソードは著名である(『長禄寛正記』)[注釈 5]。もっとも、このエピソードは『新撰長禄寛正記』に記されたもので、真否は定かでない。また、義政の造営事業は飢餓対策の公共事業だったという見解もあり、実際義政は飢餓対策を実行していた。仮にこのエピソードが本当であったとしたら、後花園の諫言は的外れだったことになってしまう[18]。
- 義政とは蹴鞠を通じて親交があり、崩御の際には同じ室町第にいたという事情もあったが、足利義政・日野富子夫妻がその最期を看取り、義政は戦乱中の外出に反対する細川勝元を押し切って葬儀から四十九日の法要まで全てに参列している[19]。
崇光院流皇統か後光厳院流皇統か
[編集]後花園天皇は崇光院流皇統(伏見宮)の出身であるが、後花園天皇は後光厳院流皇統にあたるという見解がある[20]。というのも、後花園天皇は後小松上皇と光範門院の猶子として即位し、後花園天皇自身もその立場を遵守したからである。実例としては次のようなものが挙げられる。
- 実父である伏見宮貞成親王の尊号宣下の際、貞成を「傍親」(おそらく兄)とする詔書を、後花園天皇自ら採用した[21]。
- 後小松上皇の葬礼で後花園天皇は父に対する諒闇を行い光範門院の際も母に対する諒闇を実施しているが、貞成親王(後崇光院)の際には兄に対するものとして葬礼を行い、庭田幸子に対しては諒闇を行わなかった。
- 崇光院流皇統の楽器である琵琶(持明院統の正嫡のみが習得する)ではなく、後光厳院流皇統の楽器である笙と箏を習得した[22]。
- 『本朝皇胤紹運録』に、後小松天皇の皇子として記載されている[23]。
- その後も後光厳院流皇統の葬儀場である泉涌寺が使用された。
もっとも、後花園天皇は崇光皇統(伏見宮)との関係を断ち切ったわけではなかった[24]。実例は以下のものが挙げられる。
- 庭田幸子を実母として院号宣下した[25]。
- 貞成に対し、兄弟の例としながらも錫紵(実の親に対する天皇の喪服)を着用する新儀を行った[26]。
- 伏見宮家を優遇し[注釈 6]、伏見宮家の永世の存続を約束した[28][29]。
また、後花園の皇子後土御門は崇光皇統を意識し伏見殿を般舟三昧院に改めて、こちらも近世まで御寺とされてきた。皇統の崇光院流皇統と後光厳院流皇統との二面性は、後花園以降も継続していくこととなる。
貞成親王の尊号宣下に代表される、後花園天皇の後光厳院流皇統後継者として振る舞いつつ伏見宮を優遇する態度は、後小松の遺詔(後光厳院流皇統の継続を命じた)と足利義教の政治路線(貞成を後花園の実父として扱った)の間で、後花園が後光厳院流皇統の存続と崇光院流皇統の温存を遂げるためであった可能性が指摘されている[24]。
本朝皇胤紹運録による系図
[編集]【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
95 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 光厳天皇 | 97 光明天皇 | 後村上天皇 義良親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
99 後光厳天皇 | 98 崇光天皇 | 長慶天皇 寛成親王 | 後亀山天皇 熙成王 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
100 後円融天皇 | (伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
101 後小松天皇 | (伏見宮)貞成親王 (後崇光院) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
103 後花園天皇 (貞成親王第一王子) | 102 称光天皇 | 貞常親王 〔伏見宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
系譜
[編集]後花園天皇の系譜 |
---|
系図
[編集]88 後嵯峨天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗尊親王 (鎌倉将軍6) | 【持明院統】 89 後深草天皇 | 【大覚寺統】 90 亀山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟康親王 (鎌倉将軍7) | 92 伏見天皇 | 久明親王 (鎌倉将軍8) | 91 後宇多天皇 | 恒明親王 〔常盤井宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
93 後伏見天皇 | 95 花園天皇 | 守邦親王 (鎌倉将軍9) | 94 後二条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 邦良親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
康仁親王 〔木寺宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【持明院統】 〔北朝〕 | 【大覚寺統】 〔南朝〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 光明天皇 北2 | 97 後村上天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
崇光天皇 北3 | 後光厳天皇 北4 | 98 長慶天皇 | 99 後亀山天皇 | 惟成親王 〔護聖院宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)栄仁親王 (初代伏見宮) | 後円融天皇 北5 | (不詳) 〔玉川宮家〕 | 小倉宮恒敦 〔小倉宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(伏見宮)貞成親王 (後崇光院) | 100 後小松天皇 北6 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
貞常親王 〔伏見宮家〕 | 101 称光天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
102 後花園天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||
103 後土御門天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||
104 後柏原天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||
105 後奈良天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||
106 正親町天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||
誠仁親王 (陽光院) | |||||||||||||||||||||||||||||||
107 後陽成天皇 | 良恕法親王 | 〔八条宮(桂宮)〕 智仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||
智忠親王 | 広幡忠幸 (広幡家始祖) | ||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
[編集]- 女院:藤原(大炊御門)信子(嘉楽門院、1411年 - 1488年) - 藤原孝長女、大炊御門信宗養女
- 典侍:藤原(日野)郷子 - 日野秀光女
- 皇女(真乗寺宮、? - 1482年) - 真乗寺
- 後宮:藤原(三条)冬子(1441年 - 1489年) - 三条実量女
- 生母不詳
- 皇女:照厳女王(? - 1464年) - 大聖寺門跡
御製
[編集]- 思へただ空にひとつの日の本に又たぐひなく生まれ来し身を(後花園院御集)
- 賎民争採首陽薇 處々閉盧鎖竹扉 詩與吟酸春二月 満城紅緑為誰肥(『天地根本歴代図』)
在位中の元号
[編集]- 正長 (1428年7月28日) - 1429年9月5日
- 永享 1429年9月5日 - 1441年2月17日
- 嘉吉 1441年2月17日 - 1444年2月5日
- 文安 1444年2月5日 - 1449年7月28日
- 宝徳 1449年7月28日 - 1452年7月25日
- 享徳 1452年7月25日 - 1455年7月25日
- 康正 1455年7月25日 - 1457年9月28日
- 長禄 1457年9月28日 - 1460年12月21日
- 寛正 1460年12月21日 - (1464年7月19日)
陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区京北井戸町の常照皇寺内にある後山國陵(後山国陵:のちのやまくにのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造宝篋印塔。光厳天皇陵と同域に所在する。
葬送は文明3年(1471年)1月3日の夜に行われ、応仁の乱によって焼けた泉涌寺境内の悲田院そばで火葬・埋骨し、翌月、天皇の遺詔(「葬儀を厚くせず、広い野で火葬し、反骨を納めて常照〔皇〕寺の祖堂に安置せよ」)によって常照皇寺の光厳天皇陵の傍に移した。[30]幕末修陵の際に光厳天皇陵と併せて「山国陵」と称したが、明治2年(1869年)現陵号に改定。なお、分骨所が京都市上京区般舟院前町の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)、火葬塚が上京区扇町の大應寺境内にある。この火葬塚は、京都府内における近世以前の皇室の陵墓・火葬塚の中で、学術上最も確実なものの1つであるといわれる。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 実際は後円融天皇像であるとの臆説もある。
- ^ 三従兄弟姉妹とは、曾祖父母の兄弟姉妹の曽孫。
- ^ 北朝の祖であり、持明院統の正嫡であった光厳法皇は、南朝の拉致による崇光天皇の皇太弟直仁親王の出家に伴って、改めて崇光上皇を持明院統の正嫡として定めたが、三上皇及び直仁親王幽閉中に急遽即位しかつ皇位の正当性に欠けていた弟の後光厳天皇が、崇光の要求も顧みずに皇子の後円融天皇に皇位継承させ、以後崇光上皇の子孫である伏見宮家は零落を強いられたため。
- ^ これに関し秦野は、後花園の最側近であった甘露寺親長が徹頭徹尾「後花園院」を推していたことや、高倉継長が当初不適切な「後文徳院」とともに「後花園院」を提出したことから、「後花園院」という追号には後花園自身の意志が表れていると推測している。また、学問に秀でた「花園院」の加後号にすることで、「知性と教養」というメタファーを込めたのだともしている[15]。
- ^ 詩文:残民争採首陽薇 処々閉廬鎖竹扉 詩興吟酸春二月 満城紅緑為誰肥(生存者は首陽山でワラビを求めた伯夷・叔斉のように飢えて、食べられるものを争い採っている 至る所で飯櫃を閉ざし、扉も閉ざしている 春の二月だというのに、詩を吟じるにも痛ましい 都の花や草木は誰のために育っているのだろうか)[17]
- ^ 後花園は、「後花園院御消息」にて、後土御門に対し伏見宮を尊ぶようにという教訓を残している[27]
出典
[編集]- ^ 『後花園天皇』 - コトバンク
- ^ 秦野 2020, pp. 180, 181.
- ^ a b c d e f 「後花園天皇」『朝日日本歴史人物事典』
- ^ 中本真人 2021, p. 13.
- ^ 中本真人 2021, p. 17.
- ^ 渡邉 2019, pp. 169–171, 178.
- ^ 『後花園院御消息』
- ^ 中本真人 2021, p. 34.
- ^ 中本真人 2021, p. 36-37.
- ^ 中本真人 2021, p. 37-38.
- ^ 渡邊大門 2012, p. 65.
- ^ 秦野 2020, p. 293.
- ^ 中本真人 2021, p. 48.
- ^ 中本真人 2021, p. 49.
- ^ 秦野 2020, pp. 298, 299.
- ^ 秦野 2020, p. 167.
- ^ 原文出典 国文学研究資料館
- ^ 秦野 2020, pp. 17, 18.
- ^ 石原比位呂「義政期の将軍家と天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6
- ^ 秦野 2020, p. 152.
- ^ 田村 2018, p. 4(1672).
- ^ 豊永聡美『中世の天皇と音楽』2006,吉川弘文館,pp.136-138,148
- ^ 村田 1971, p. 336.
- ^ a b 田村 2018, p. 15(1683).
- ^ 田村 2018, p. 2-3(1670)-(1671).
- ^ 田村 2018, p. 5(1673).
- ^ 田村 2018, p. 14(1682).
- ^ 『貞常親王御記』康正2年10月条
- ^ 田村 2018, p. 13(1681).
- ^ 『天皇と葬儀—日本人の死生観』株式会社新潮社、2013年12月20日。
参考文献
[編集]- 石原比位呂「義政期の将軍家と天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6
- 秦野裕介『乱世の天皇―観応の擾乱から応仁の乱まで』東京堂出版、2020年。
- 渡邉大門『奪われた「三種の神器」―皇位継承の中世史』草思社、2019年。
- 田村航「伏見宮貞成親王の尊号宣下」『『史学雑誌』(127編11号)』2018年。
- 村田正志『南北朝史論』中央公論社、1971年。
- 井上亮「天皇と葬儀ー日本人の生死観」2013年。
- 中本真人『なぜ神楽は応仁の乱を乗り越えられたのか』新典社、2021年12月22日。
- 渡邊大門『戦国の貧乏天皇』柏書房、2012年11月10日。
関連項目
[編集]後花園天皇
| ||
日本の皇室 | ||
---|---|---|
先代 称光天皇 (実仁) |
皇位 第102代天皇 1428-09-07 - 1464-08-21 正長元年7月28日 - 寛正5年7月19日 |
次代 後土御門天皇 (成仁) |