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晋寧路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平陽路から転送)
モンゴル時代の華北投下領。晋寧路(平陽路)は左下に位置する。

晋寧路(しんねいろ)は、中国にかつて存在したモンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の山西省臨汾市一帯に設置された。治所は平陽府で、『東方見聞録』ではピアンフ (Pianfu) として名前が挙げられている。

旧名は平陽路で、元来はチンギス・カンの長男のジョチを始祖とするジョチ・ウルス投下領であったが、ジョチの一族が平陽から遠く離れたキプチャク草原に住まうようになったこともあり、タンマチや大元ウルスに服属したオゴデイ王家の遊牧地としても用いられた。

歴史

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唐代晋州金代平陽府を前身とする。チンギス・カンによる最初の金朝遠征の際、チンギス・カンの子供達(西道諸王)は右翼軍として山西地方を南下し、後の晋寧路一帯(当時は平陽と呼称されていた)もモンゴル帝国の勢力下に入った[1]。金朝遠征が成功裏に終わると、チンギス・カンは配下の諸王・諸将にそれぞれが攻略を担当した地域を領地(投下領)として与えており、この時平陽もジョチ家の領地とされたと見られる。

1236年、第2代皇帝オゴデイはチンギス・カン時代の領土分配を追認する形で華北の諸路を諸王・勲臣に分配した(丙申年分撥)が、この時平陽府はジョチの後継者のバトゥの投下領とされた[2]。しかし、オゴデイはチンギス・カン時代の諸王均等の原則を崩して自らのオゴデイ・ウルスを強化する方針をとり、オゴデイの三男のクチュを総司令とする南宋侵攻の補給基地とするという名目で平陽路潞州一帯に「クチュ・ウルス」を成立させた。バトゥを始めとするジョチ家の人間が主にキプチャク草原に住まうようになったこともあり、これ以後平陽路はオゴデイ系王家の人間の遊牧地としても利用されるようになる。

帝位継承戦争を経て即位したクビライは当初ジョチ・ウルスに友好的であったが、「シリギの乱」が勃発した際にジョチ・ウルスがシリギに与した事を切っ掛けに両者の関係は悪化し、クビライはジョチ家の平陽路における権益を無効化した[3]。代わって平陽路の有力領主として浮上してくるのがクチュの末子のソセで、ソセは同時期に太原路に移住してきたチャガタイ家のアジキとともにクビライ麾下の有力諸王の一人に数えられている。1305年大徳9年)、平陽路で地震が起こったこと(洪洞地震)を理由として、平陽路は晋寧路と改称された。

1336年後至元2年)、時のジョチ・ウルス当主ウズベク・ハンは大元ウルスに使者を派遣し、それまで中止されていたジョチ・ウルス分地(投下領)の歳賜の輸送を再開させるよう要求した。しかし、既にこれを管轄する公的機関がなかったため、1337年(後至元3年)に総管府が設置された。1341年至正元年)にウズベク・ハンが亡くなりジャーニー・ベク・ハンが立つと、晋寧路の平陽・晋州・永州分の歳賦2400錠のジョチ・ウルスへの送付が1345年(至正5年)から始められた[4]。このようなジョチ・ウルスからの要求は、逆説的に平陽路が元代中期にジョチ・ウルス投下領としての実質を失っていたことを証明している[5][6]

マルコ・ポーロによる記録

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クビライの治世に大元ウルスを訪れたとされるマルコ・ポーロは平陽府についても『東方見聞録』の中で言及している。

太原府/タイユァンフをたって西方に七日間の旅を続ける。途上は一帯にみごとな地域で、その間に数多くの都市・集落を過ぎるが、いずれも商工業で賑わっている。このあたりからは多くの商人が各地に出向いていて、非常な商利を上げている。七日間の騎行の末、平陽府/ピアンフ(Pianfu<Ping-yang Fu)という都市に着くが、これまた重要な大都会で商人が多い。住民は商業・手工業に従事し、絹を多量に産出する。 — マルコ・ポーロ、『東方見聞録』[7]

管轄州県

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晋寧路には録事司、52県(内6県が路の直轄)、1府、9州が設置されていた。

6県

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1府

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9州

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脚注

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  1. ^ 『聖武親征録』「辛未……秋、上始誓衆南征、克大水濼。又抜烏沙堡及昌桓撫等州、大太子朮赤・二太子察合台・三太子窩闊台破雲内・東勝・武・宣・寧・豊・靖等州。金人懼、棄西京。……乃分軍為三道、大太子・二太子・三太子為右軍、循太行而南、破保州・中山・邢・洺・磁・相・輝・衛・懐・孟等州、棄真定・威州境、抵黄河、大掠平陽・太原而還」
  2. ^ 『元史』巻2太宗本紀,「[八年秋月]詔以真定民戸奉太后湯沐、中原諸州民戸分賜諸王・貴戚・斡魯朶……抜都、平陽府」
  3. ^ 1例として、当初ジョチ家によって平陽路隰州のダルガチに任命されたテレンは大元ウルスとジョチ・ウルス間の交渉役を担ったが、後にクビライによって改めて絳州ダルガチに任じられており、平陽路ダルガチの任命権がジョチ・ウルス当主からクビライの手に移っていることが確認される(村岡2002,161-162頁)
  4. ^ 『元史』巻117列伝4朮赤伝,「朮赤者、太祖長子也。……至元二年、月即別遣使来求分地歳賜、以賑給軍站、京師元無所領府治。三年、中書請置総管府。給正三品印。至正元年、月即別薨、子札尼別嗣。其位下旧賜平陽・晋州・永州分地、歳賦中統鈔二千四百錠、自至元五年己卯歳始給之」
  5. ^ 村岡2002,162-163頁
  6. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「晋寧路、上。唐晋州。金為平陽府。元初為平陽路、大徳九年、以地震改晋寧路。戸一十二万六百二十、口二十七万一百二十一。領司一・県六・府一・州九。府領六県、州領四十県」
  7. ^ 訳文は愛宕1970,3頁より引用
  8. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「録事司。県六:臨汾、中。倚郭。襄陵、中。洪洞、中。浮山、下。汾西、下。岳陽、下。本猗氏県、属平陽府。至元三年、省入岳陽県。四年、以県當東西驛路之要復置、併岳陽・和川二県入焉。後復改為岳陽県」
  9. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「府一:河中府、唐蒲州、又改河中府、又改河東郡、又仍為河中府。宋為護国軍。金復為河中府。元憲宗在潜、置河解万戸府、領河・解二州。河中府領録事司及河東・臨晋・虞郷・猗氏・万泉・河津・栄河七県。至元三年、省虞郷入臨晋、省万泉入猗氏、並録事司入河東、罷万戸府、而河中府仍領解州。八年、割解州直隷平陽路、河中止領五県。十五年、復置万泉県来属。領六県:河東、下。府治所。万泉、下。猗氏、下。栄河、下。金隷栄州、元初廃栄州、復為栄河県。臨晋、下。河津、下」
  10. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「州九:絳州、中。唐初為絳郡、又改絳州。宋置防禦。金改晋安府。元初為絳州行元帥府、河・解二州諸県皆隷焉。後罷元帥府、仍為絳州、隷平陽路。領七県:正平、下。倚郭。至元二年、省録事司入焉。太平、中。曲沃、下。翼城、下。金為翼州、元初復為翼城県、隷絳州。稷山、下。絳県、下。至元二年、省垣曲県入焉。十六年、復立垣曲県、絳県如故。垣曲、下」
  11. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「潞州、下。唐初為潞州、後改上党郡、又仍為潞州。宋改隆徳軍。金復為潞州。元初為隆徳府、行都元帥府事。太宗三年、復為潞州、隷平陽路。至元三年、以渉県割入真定府、以録事司併入上党県。領七県:上党、下。長子、下。屯留、下。至元三年、省入襄垣。十五年復置。襄垣、下。潞城、下。壷関、下。黎城、下。至元二年、併渉県偏城等十三村入焉」
  12. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「沢州、下。唐初為沢州、後為高平郡、又仍為沢州。宋属河東道。金為平陽府。元初置司候司及領晋城・高平・陽城・沁水・端氏・陵川六県。至元三年、省司候司・陵川県入晋城、省端氏入沁水。後復置陵州。領五県:晋城、下。高平、下。陽城、下。沁水、下。陵川、下。至元三年、省入晋城、後復置」
  13. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「解州、下。本唐蒲州之解県。五代漢乾祐中置解州。宋属京兆府。金升宝昌軍。元至元四年、並司候司入解県。有塩池、方一百二十里。領六県:解県、下。安邑、下。聞喜、下。夏県、下。平陸、下。芮城、下」
  14. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「霍州、下。唐初為霍山郡、又改呂州、又廃州而以県隷晋州。金改霍州。元因之。領三県:霍邑、下。倚郭。有霍山為中鎮。趙城、旧属平陽府。霊石、下。旧属汾州」
  15. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「隰州、下。唐初為隰州、又改大寧郡、又仍為隰州。元以州隷晋寧路。領五県:隰川、中。州治所。至元三年、省大寧・蒲・温泉三県入焉。大寧、下。至元三年、省入隰川、二十三年復置。石楼、下。永和、下。蒲県、下」
  16. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「沁州、下。唐初為沁州、又改陽城郡、又仍為沁州。宋置威勝軍。金仍為沁州。元因之。領三県:銅鞮、下。州治所。至元十年、省録事司・武郷県入焉。沁源、下。至元十年、省綿上県入焉。武郷、下。至元三年、省入銅鞮、後復立」
  17. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「遼州、下。唐初置遼州、又改箕州、又改儀州。宋復為遼州。元隷晋寧路。領三県:遼山、下。倚郭。楡社、下。至元三年、省入遼山、六年復立。和順、下。至元三年、省儀城県入焉」
  18. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「吉州、下。唐初置西汾州、又為南汾州、又改慈州。宋置吉郷軍。金改耿州、又改吉州。元初領司候司・吉郷・郷寧二県。中統二年、並司候司入吉郷県。至元二年、省吉郷。三年、又省郷寧併入州。後復置郷寧。領一県:郷寧、下」

参考文献

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  • 愛宕松男『東方見聞録 1』平凡社、1970年
  • 松田孝一「オゴデイ・カンの『丙申年分撥』再考(2)」『立命館文学』第619号、2010年
  • 村岡倫「モンゴル時代初期の河西・山西地方--右翼ウルスの分地成立をめぐって」『竜谷史壇』117、2001年
  • 村岡倫「モンゴル時代の右翼ウルスと山西地方」『碑刻等史料の総合的分析によるモンゴル帝国・元朝の政治・経済システムの基礎的研究』、2002年
  • 村岡倫「モンゴル時代の山西平陽地区と諸王の権益 : 聖姑廟「阿識罕大王令旨碑」より」『龍谷大学論集』474/475、2010年