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建昌路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モンゴル時代の江南投下領。建昌路は右に位置する。

建昌路(けんしょうろ)は、中国にかつて存在した大元ウルスの時代に現在の江西省撫州市南部一帯に設置された。治所は南城県で、大元ウルスの行政上は江西等処行中書省に属した。

華北済南路とともに、チンギス・カンの弟のカチウンを始祖とするカチウン・ウルスの投下領であった[1]

歴史

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宋代建昌軍を前身とする。モンゴル帝国第5代皇帝セチェン・カアン(クビライ)によって南宋が平定されると、1281年(至元18年)に建昌路の65,000戸がカチウン王家の投下領として与えられた[2]1282年(至元19年)にダアリタイ・オッチギンを始祖とするダアリタイ家の投下領とされた南豊県が南豊州に昇格となって独立し、広昌県のみが南豊州を挟んで飛び地となった[3]。以後、南豊州を挟む形で建昌路は元末まで存続する[4]

朱元璋明朝を建国すると、建昌路は建昌府と改められた。

管轄州県

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建昌路には録事司、3県が設置されていた。

3県

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脚注

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  1. ^ 植松 1997, p. 100.
  2. ^ 『元史』巻95志44食貨志3,「太祖弟哈赤温大王子済南王位……江南戸鈔、至元十八年、分撥建昌路六万五千戸、計鈔二千六百錠」
  3. ^ ダアリタイ・ウルスの始祖のダアリタイ・オッチギンはチンギス・カンの一族でありながら敵側についたことで処刑された人物で、その子のタイナル・イェイェはカチウンの子のアルチダイの奴隷とされていた。その後、タイナルは武功を重ねて諸王待遇を取り戻しており、南豊州が建昌路から独立したのはこのような経緯が関係していると考えられる(松田2020,125-128頁)。
  4. ^ 『元史』巻62志14地理志5,「建昌路、下。本南城県、属撫州。宋升建昌軍。元至元十四年、改建昌路総管府、割南城置録事司。十九年、南豊県升州、直隷行省。戸九万二千二百二十三、口五十五万三千三百三十八」
  5. ^ 『元史』巻62志14地理志5,「建昌路……領司一・県三。録事司、至元十四年立。県三:南城、上。新城、中。広昌。中」

参考文献

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  • 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101国立国会図書館書誌ID:000002623928 
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊; 65(新装版3)〉、2004年。ISBN 4876985227国立国会図書館書誌ID:000007302776https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007302776 
  • 松田孝一「窩闊台汗の「丙申年分撥」再考(1)-「答里真官人位」の寧海州分地について-」『西域歴史語言研究集刊 第4輯』2010年、115-134頁、CRID 1010000782033211145 
  • 村岡倫「元代江南投下領とモンゴリアの遊牧集団」『龍谷紀要』第18巻第2号、龍谷大学、1997年3月、13-30頁、CRID 1573950401567310720ISSN 02890917