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全寧路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モンゴル時代の華北投下領。全寧路は地図上にないが大都路の東北方に位置する。

全寧路(ぜんねいろ)は、中国にかつて存在したモンゴル帝国および大元ウルスの時代に現在の内モンゴル自治区赤峰市オンニュド旗一帯に設置された。

コンギラト部族の遊牧地の一つで、応昌路遊牧生活における夏営地の役割を担っていたのに対し、全寧路は冬営地として用いられていた。

歴史

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金代北京路全州を前身とする。元代初期から応昌路とともにコンギラト部の遊牧地とされていたが、1270年代から都城が建築された応昌路と異なり、全寧路の都城建設が始まったのはオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世からであった[1]

1295年(元貞元年)にコンギラト部当主マンジタイがナンギャジン公主を娶ったことを切っ掛けに、応昌路の東700里に「駐冬之地(=冬営地)」を建設する申請がなされ、即位したばかりのオルジェイトゥ・カアンによってこの申請は許可された[2]。冬営地の都城が完成すると、1297年(大徳元年)に全州は昇格して全寧府となり[3]、さらにその6年後の1303年(大徳7年)に全寧府は全寧路と改められた[4]

朱元璋による明朝の建国後、全寧路および応昌路は一度明朝の統治下に入り、1388年(洪武21/天元10年)に全寧衛・応昌衛が設置された[5]。しかし、それから1年足らずでモンゴル人の叛乱によって全寧衛は廃止となり[6]、明朝はこの地方に恒久的な支配権を確立することはできなかった[7]

管轄県

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全寧路には全寧県のみが設置されていた[8]

脚注

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  1. ^ 箭内1930,650-651頁
  2. ^ 『元史』巻118列伝5特薛禅伝,「元貞元年、済寧王蛮子台亦尚嚢加真公主、復与公主請於帝、以応昌路東七百里駐冬之地創建城邑、復従之。大徳元年、名其城為全寧路」
  3. ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳元年二月]戊戌、升全州為全寧府」
  4. ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳七年十一月]辛未、升全寧府為路」
  5. ^ 『明太祖実録』洪武二十二年夏四月己亥朔「詔置全寧衛。遣使齎印往命捏怯来為指揮使、失烈門以下倶授以武職、有差」
  6. ^ 『明太祖実録』洪武二十二年八月庚申「故元丞相失烈門潜通塔失海牙等、率其部下襲刼捏怯来、至也速迭児……」
  7. ^ 和田1959,184-185頁
  8. ^ 『元史』巻58志10地理志1,「全寧路、下。領県一、全寧。下。」

参考文献

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  • 箭内亙『蒙古史研究』刀江書院、1930年
  • 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年