篠原英太郎
表示
(平野亮一郎から転送)
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
篠原 英太郎(しのはら えいたろう、1885年(明治18年)10月10日 - 1955年(昭和30年)3月7日)は、日本の内務官僚。林内閣の内務次官、官選県知事、京都市長。
来歴・人物
[編集]長野県木曽郡木祖村出身。篠原武兵衛の五男として生まれる。第三高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、内務省に入り山梨県属となる。1912年11月、文官高等試験に合格した。
以後、石川県理事官、朝鮮総督府殖産局土地改良課長、内務省大臣官房文書課長、同都市計画課長、北海道庁土木部長などを歴任。
1927年5月、山形県知事に就任。1929年10月、文部省普通学務局長に転じた。1931年12月、岡山県知事に就任。1934年8月、愛知県知事となり、1937年2月に内務次官に就任。同年6月に内務次官を辞任し退官した。
その後、東京市助役を経て、1942年7月、京都市長に就任したが、1946年2月、公職追放となり退任した。
1955年3月7日死去。享年69。
家族
[編集]- 父・篠原武兵衛(1848年生) ‐ 木祖村平民。親族の湯川九郎右衛門、平野隆策らと鳥居電力を設立。[1][2]
- 母・みね(1853年生) ‐ 慶安年間から続く薮原宿の老舗酒蔵主人・湯川九郎右衛門の二女。[1]
- 妹・かずえ(1887年生) ‐ 岩井商店副社長・平野亮平の妻。夫の亮平(1879年生)は寛永年間創業の薮原宿の酒蔵・平野又左衛門の三男に生まれ、兄の平野隆策(酒造業、楢川村村長)の養子となり、東京帝国大学法科大学政治科卒業後、専売局に入り、文官高等試験に合格、専売局長官まで昇進したが実業界に転じた。子に平野亮一郎(後述)、娘婿に内蔵頭の塚越虎男。[3][4][5]
- 弟・篠原小平(1895年生) ‐ 専売局副参事。東京帝国大学法学部英法科卒。岳父に大島戸一(大島堅造の兄)。[6]
- 甥・平野亮一郎(1906年生) ‐ 妹かずえの長男。オリンピック資金財団理事、日本勧業証券投資信託委託監査役。東京帝大卒業後日本勧業銀行入行。前妻は陸軍砲工学校校長・宮原国雄の二女、後妻は法学者・孫田秀春の三女。前妻との子に通産省事務官の平野達郎とNHK解説委員平野次郎、前妻の母方祖父に荘田平五郎がいる。[7]
参考文献
[編集]- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
脚注
[編集]- ^ a b 篠原英太郎『人事興信録』第8版、昭和3(1928)年
- ^ 中部のエネルギーを築いた人々 木曽谷の夜明け その1 長野県福島電気株式会社の創立者・河合勘助中部電気協会
- ^ 平野亮平人事興信録 第11版(昭和12年) 下
- ^ 平野亮平岩井産業(株)『岩井百年史』(1964.02)
- ^ 平野健吉郎君 平野酒造店主躍進長野県誌 1939年
- ^ 篠原小平大衆人事録 第5(昭和7年)版 ア-ソ之部
- ^ 『人事興信録』22版下、1964年、平野亮平の項
公職 | ||
---|---|---|
先代 湯沢三千男 |
内務次官 第39代:1937年 |
次代 広瀬久忠 |