大鳥富士太郎
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大鳥 富士太郎(おおとり ふじたろう、慶応元年12月23日[1](1866年2月8日)- 1931年(昭和6年)11月7日[2])は、日本の台湾総督府官僚、外交官。貴族院男爵議員。
経歴
[編集]江戸で幕臣・大鳥圭介の長男として生まれる[3][4][5]。父の死去に伴い、1911年(明治44年)7日10日に男爵を襲爵した[3][5][6]。
1890年(明治23年)7月、東京帝国大学法科大学法律学科第一部を卒業[1][7]。同年、外務省試補となるが[4]、1896年(明治29年)台湾総督府に転じ台北県書記官となり、台湾総督府民政局参事官・台北県支庁長、総督秘書官を務めた[1]。1901年(明治34年)外交官及領事官試験に合格[1]。外交官に転じ、大韓帝国公使館勤務、オランダ公使館勤務、ウラジオストク総領事、外務書記官、フランス大使館参事官、駐メキシコ公使を歴任した[1][2]。1921年(大正10年)8月、病のため退官した[4]。
退官後、1923年(大正12年)7月7日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[8][9]、公正会に所属して活動し死去するまで2期在任した[2][10]。
栄典
[編集]- 位階
- 1898年(明治31年)10月21日 - 従六位[11]
- 1900年(明治33年)9月10日 - 従五位[12]
- 1915年(大正4年)10月20日 - 従四位[13]
- 1920年(大正9年)12月10日 - 正四位[14]
- 勲章等
親族
[編集]- 妻:ヨシ(斉藤良知長女)[3]
- 長男:圭三(富士太郎没後に襲爵手続きを行わず、1934年11月に華族の栄典喪失)[3][16]
- 二女:アヤ(河上徹太郎夫人)[3][5]
- 次男もしくは三男:蘭三郎(オランダのハーグ市で出生。慶應義塾大学医学部卒業後、同大で医史学研究を行い、日本医史学会理事長を務めた。)
脚注
[編集]- ^ a b c d e 人事興信録 1915.
- ^ a b c 議会制度七十年史 1960.
- ^ a b c d e 『平成新修旧華族家系大成 上巻』318-319頁。
- ^ a b c 『新版 日本外交史辞典』111頁。
- ^ a b c 『人事興信録』第9版、オ125-126頁。
- ^ 『官報』第8415号、明治44年7月11日。
- ^ 『東京帝国大学一覧 従明治23年至24年』東京帝国大学、1891年、385頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、31頁。
- ^ 『官報』第3282号、大正12年7月9日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、39頁。
- ^ 『官報』第4595号「叙任及辞令」1898年10月22日。
- ^ 『官報』第5159号「叙任及辞令」1900年9月11日。
- ^ 『官報』第967号「叙任及辞令」1915年10月21日。
- ^ 『官報』第2509号「叙任及辞令」1920年12月11日。
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」1916年8月21日。
- ^ 『官報』第2358号、昭和9年11月9日。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 人事興信所編『人事興信録』第9版、1931年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1960年。
- 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 大鳥圭介 |
男爵 大鳥(圭介)家第2代 1911年 - 1931年 |
次代 栄典喪失 |