利用者:イカしたイカ/作業場01
狛江市 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 関東地方 | ||||
都道府県 | 東京都 | ||||
市町村コード | 13219-5 | ||||
面積 |
6.39km2 | ||||
総人口 |
83,568人 [編集] (推計人口、2024年10月1日) | ||||
人口密度 | 13,078人/km2 | ||||
隣接自治体 |
東京 世田谷区 / 調布市 神奈川 川崎市 | ||||
市の木 | イチョウ | ||||
市の花 | ツツジ | ||||
狛江市役所 | |||||
市長 | 松原俊雄 | ||||
所在地 |
〒201-8585 東京都狛江市和泉本町一丁目1番5号 座標: 緯度が指定されていません 座標: 座標: 緯度が指定されていません {{#coordinates:}} 関数に無効な引数が渡されました | ||||
外部リンク | 狛江市 | ||||
ウィキプロジェクト |
狛江市(こまえし)は、東京都の多摩地域東部に位置する市。東京都区部に接し、ベッドタウンとしての性格を帯びるが、多摩川を中心として自然が多く残り、将来市像として「水と緑のまち狛江」を掲げる。日本で2番目に面積が小さい市である。
概要
[編集]多摩地域の南東に位置し、東京都区部と接する。都心とは小田急小田原線や首都高速道路で移動でき、交通の便も良い場所にある。そのため住宅都市として発展し、逆に商業や工業などの発展はあまり見られない。
人類居住の歴史は古く、縄文時代まで遡る。縄文時代より人が定住しはじめ、古墳時代になると亀塚古墳などに代表される権力者が埋葬されたとされる古墳が多く築造された。以降、現在の調布や三鷹などの武蔵野の辺り一帯は狛江郷と呼ばれ、狛江を中心として栄えた。明治時代以降は農村として、農業や多摩川での鮎漁、養蚕業などで発達した。戦後、高度経済成長期に入り1969年に人口は5万人を突破、翌1970年には市制施行により狛江町から狛江市となった。都市化と共に農業や工業は衰退したが、人口はその後も増え続け、現在はベッドタウンとして機能している。
市名の由来
[編集]自治体の名称としての「狛江」は、狛江村成立時にこのあたりのかつての地名「狛江郷」から採られたものである。なお市制施行にあたり行われた新市名についてのアンケートでは、狛江の名前を継続させるという回答が最多で73.5%の町民が継続と回答したが、「こま江市」ないし「こまえ市」に変更し、ひらがな地名とするべきだという回答もあった。この狛江村の由来となった「狛江郷」の名前の由来については、いくつかの説が存在する。
地理
[編集]地勢
[編集]狛江市は多摩川中流北岸、地質学的に言えば武蔵野台地の南縁部、立川段丘上から多摩川沿いの沖積低地にかけて広がる土地に位置する[1]。
市域はそのほとんどがその台地上にある。土質は洪積層で、更新世に形成された比較的強固な地層である。また水捌けがよく、畑作にも適する。その台地面はさらに関東地方に特有の関東ローム層で覆われ、非常に安定した地盤となっているところが多い。対してかつて野川の流路だった現在の野川緑地公園周辺、かつての清水川周辺、岩戸川が流れていた岩戸川緑地公園周辺、六郷用水流路周辺は周りに比べ土地が低く、低地(谷)となっている。これらの地域は自然河川が土砂を削ってできたもしくは人の手によって削られてできたもので、水流の作用によって腐植土の堆積や土砂の再堆積がなされていたことから、特に軟弱な地盤となっている。また、多摩川に面する一部地域も沖積低地となっていて、地盤は軟弱で、建造物の圧密沈下が問題となる[2]。過去には1974年には台風16号によって堤防が決壊し住宅が流出する災害が起きたほか[3]、2019年の令和元年東日本台風の通過時には一帯が浸水し被害をもたらした。
市域の北は国分寺崖線及び野川に、南は多摩川によって、それぞれ調布市・世田谷区・神奈川県川崎市と隔てられている。標高は10メートルから30メートルの間にあり、北端の上和泉から南端の駒井地域に面する多摩川に向かって緩やかに傾斜しているが、概ね平坦といえる。市内最高点は狛江市によれば中和泉三丁目に位置する兜塚古墳の墳頂であり、標高は30.4メートルであり、墳頂には三等三角点が設置されている[2]。都心と呼ばれる新宿までの直線距離は13キロメートルで、小田急小田原線で約20分の距離に位置するため、東西方向は交通の便が良い。
河川
[編集]市内最南部を一級河川である多摩川が流れる。多摩川は狛江市の自然の核を成す存在で、狛江市における「水の拠点」とされている[4]。北部には野川が流れる。そのほか、多摩川住宅の外周を流れる根川、現在暗渠化されているが六郷用水や清水川なども流れる[5]。 たが、2011年10月に鳩ヶ谷市が川口市に編入されたことにより、現在の順位になった。なお、面積が大きい順に並べると790番目に位置する。面積が小さいことから、人口密度が非常に高くなっている。
気候
[編集]気候は太平洋側気候に属し、ケッペンの気候区分においては温暖湿潤気候に属する。夏の暑さが厳しく、猛暑の年には気温は連日35℃を超える。冬は冷え込むが、雪となることは少ない。雨は秋にかけて特に多く、台風によって甚大な被害をもたらす。多摩川に向かって微妙に傾斜しているため、日当たりが良い。
狛江市の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 10.3 (50.5) |
11.6 (52.9) |
15.4 (59.7) |
19.0 (66.2) |
25.3 (77.5) |
25.8 (78.4) |
27.5 (81.5) |
32.8 (91) |
29.4 (84.9) |
23.3 (73.9) |
17.7 (63.9) |
12.6 (54.7) |
20.9 (69.6) |
日平均気温 °C (°F) | 5.6 (42.1) |
7.2 (45) |
10.6 (51.1) |
13.6 (56.5) |
20.0 (68) |
21.8 (71.2) |
24.1 (75.4) |
28.4 (83.1) |
25.1 (77.2) |
19.4 (66.9) |
13.1 (55.6) |
8.5 (47.3) |
16.5 (61.7) |
平均最低気温 °C (°F) | 1.4 (34.5) |
3.3 (37.9) |
6.2 (43.2) |
9.2 (48.6) |
15.3 (59.5) |
18.5 (65.3) |
21.6 (70.9) |
25.2 (77.4) |
21.7 (71.1) |
16.4 (61.5) |
9.3 (48.7) |
5.2 (41.4) |
12.8 (55) |
降水量 mm (inch) | 16.0 (0.63) |
42.0 (1.654) |
117.5 (4.626) |
90.5 (3.563) |
120.5 (4.744) |
225.0 (8.858) |
193.0 (7.598) |
110.0 (4.331) |
197.0 (7.756) |
529.0 (20.827) |
156.5 (6.161) |
76.5 (3.012) |
1,873.5 (73.76) |
% 湿度 | 51 | 59 | 60 | 63 | 65 | 81 | 89 | 80 | 79 | 80 | 69 | 66 | 70 |
日照率 | 72 | 46 | 48 | 50 | 53 | 30 | 18 | 45 | 37 | 32 | 55 | 43 | 43 |
出典:狛江市[6] |
広袤
[編集]東西長は2,940メートルで、南北長は3,660メートルとなっている。そのため微妙に縦長である。市は市域の形を「枝豆の豆の形」であるとしている。面積は6.39平方キロメートルである。東京都の市としては最も小さく、日本国内では蕨市に次いで2番目に小さい市である。長らく鳩ヶ谷市に次いで3番目に小さな市であっ
歴史
[編集]ここでは、狛江市の前身自治体である狛江村及び狛江町の歴史、また狛江村が成立する以前のこの地域における歴史も取り扱う。
先史時代
[編集]地質時代の更新世前期にあたる約130万年前、のちの多摩丘陵から房総半島となる部分は海であった。そのため、多摩川の河床からはよく化石が発掘される。その後チバニアンの時代になると、のち狛江となる地域は海岸線付近に位置し、その後最終氷河までに陸地となった。市内北側に広がる武蔵野台地が古多摩川の網状流路から離水した時期はおよそ3万年前と考えられていて、その離水後からヒトの活動が確認されるようになる[7]。
旧石器時代後半、狛江においてヒトの活動が確認されるようになった。この時期の遺跡として弁財天遺跡や狛江駅北遺跡、寺前東遺跡があり、いずれも旧清水川沿いに位置した。遺跡からは黒曜石製・頁岩石製の尖頭器やナイフ形石器が発掘されている。ヒトの活動の痕跡は旧石器時代後期と末期の2点に集中していて、遊動生活の一部として一時的に残された遺物だと考えられている[8]。
縄文時代、地球規模で温暖化が進行し、地球においてヒトの定住は容易となった[9]。狛江でも中心部を中心として縄文時代前期に竪穴住居による集落が建設され、ヒトが定住するようになった。その後弥生時代中期になると各地で生活が営まれ、縄文時代から弥生時代の遺跡である弁財天遺跡では、敷石住居や方形周溝墓、陥穽などの跡が発掘されている[10]。また、この遺跡の方形周溝墓は一辺が18メートルほどある大規模なもので、また副葬品として権威や霊威の象徴である螺旋状鉄釧と帯状銅釧があり、少なくとも弥生時代後期までに指導者の存在とそれに付随する社会が存在していたことが推察される[11]。
古代
[編集]古墳時代になると、各地で古墳が造成されるようになった。狛江では、5世紀半ばから6世紀半ばまでの約100年間に集中して亀塚古墳や兜塚古墳に代表される古墳が多く造成された。それらは群集墳の形態をとる古墳群をなし、狛江古墳群と呼ばれる。現在は13基が現存するが、かつては70基ほど存在したとされ、その数の多さから狛江百塚とも呼ばれた。亀塚古墳の発掘調査によって一時高句麗系の古墳群とされたが、現在では否定されている。2023年現在ではその格式高い出土品から、亀塚古墳の被葬者は倭王権と強い関係をもっていた国内の人物であると推定されている。また、狛江古墳群に属す古墳である土屋塚古墳の被葬者も、出土した円筒埴輪から、畿内若しくは毛野と関係をもつ豪族であったとされ、狛江を治めた人物は周辺地域の者よりも強い権力をもっていたとされる。古墳の造成は一旦6世紀半ばに終わるが、その約100年後に狛江古墳群最後の古墳とされる猪方小川塚古墳が造られた。この被葬者もやはり畿内との関係性が指摘され、これらの古墳群の調査から、狛江は畿内の有力豪族によって治められていたと考えられている[12]。
また、古墳時代中期、狛江古墳群が造成される前の時代の集落遺跡である和泉遺跡からは大量の土師器が発見され、特にこれがこの時期のものとして初めて発見されたものであったため、関東地方における古墳時代中期の土師器の基準資料となった。この土師器は発見した杉原壮介によって和泉式土器と名付けられた[13]。
平安時代中期の辞書『倭名類聚抄』によれば、713年(和銅6年)に、狛江とその周辺地域で構成される郷の名前が狛江郷とされたとされる[14]。平安時代の869年(貞観11年)に成立した『続日本後紀』には狛江郷についての記述があり、これが史料における狛江郷の初見だとされる。その範囲は現在の狛江市、調布市を中心とする地域だと推定されている。『武蔵名勝図会』では「狛江」を井の頭池の古名としていて、「此沼あるゆへに其名を郷名に用ひたる旧池なり」「是全く狛江郷の狛江なり」との記述がある。現在でも井の頭恩賜公園内の井の頭池に架かる橋のひとつに「狛江橋」がある。また、同図会には「すへて此近辺深大寺辺迄四五里程の内は狛江郷と号し」とも記され、その範囲は広かったとされる。しかしながら現在の岩戸にあたる部分は狛江郷に属さず、東の木田見郷に属していたとされる[15]。
中世
[編集]近世
[編集]江戸時代に、和泉村、猪方村、岩戸村、駒井村、覚東村、小足立村、上野村の7つの村と、多摩川の氾濫によって生まれた宿河原村の飛地が現在の市域に成立していた。7つの村は全て武蔵国多摩郡に属し、彦根藩によって治められた。これらの村のうち、1745年の『泉村鑑』によると和泉村が最も大きい規模を誇り、この時代、産業としては米や野菜などの栽培のほか、多摩川での鮎漁などで栄えた[16]。
1868年(明治元年)時点で武蔵国に属していた猪方村と岩戸村の2村と、和泉村のうち一部地域は彦根藩によって治められていたが、これらの地域は、3年後の1871年の8月29日に廃藩置県が行われた影響で彦根県となり、翌年1872年1月2日に彦根県は長浜県となった。一方その他の地域は、1869年3月21日の行政官布告により和泉村の大部分と上野村、駒井村、覚東村、小足立村の計6村が品川県に移った。これらの地域は1872年1月14日に東京府に移管された。1872年3月3日には長浜県に属した3村が、同年5月には東京府に属した駒井村、覚東村、小足立村、大町村の4か村が神奈川県の所管となり、同時に7か村組合会所が置かれた。のち1878年7月22日、郡区町村編制法の施行により、北多摩郡が発足し、現在の狛江市域にあった村は全てこれに属した[17]。
1872年、明治政府が学制を公布したことから、7か村組合のうち大町村を除く村々が協力して泉龍寺境内にあった私塾を併合し、1872年9月25日に現在の狛江市立狛江第一小学校となる公立観聚学舎を設立した[18]。
近代
[編集]1889年4月1日、神奈川県における町村制の施行により7か村組合が廃され和泉村・岩戸村・駒井村・小足立村・覚東村の6村が合併し、狛江村となった。村名は、旧村いずれにもよらない名称を模索した結果、古代の地域一帯の呼び名であった狛江郷から採用されたと考えられているが、具体的な経緯は史料に乏しく分かっていない。村役場は泉龍寺に置かれ、初代村長に谷田部和吉が就いた。この時大町村は離脱し、のち神代村の一部となった。この時、狛江村は神奈川県に属したが、東京府の要求によって狛江村含む多摩地域は東京府に移管されることとなった。移管に際し狛江村は周辺自治体とともに断固反対の立場に立ったが、1893年4月1日、東京府及神奈川県境域変更ニ関スル法律が施行、同日より北多摩郡が東京府に移管され、東京府北多摩郡狛江村となった。1912年4月1日、東京府神奈川県境界変更ニ関スル法律が施行され、多摩川対岸に位置する稲田村にあった飛地が狛江村に編入された[19]。
1927年4月1日、小田急小田原線が全線開通し、同日に村内では和泉多摩川駅が開業した。その後同年5月27日、住民による請願駅として狛江駅が開業した。駅設置に係る用地は寄付され、駅舎建築費は村民により負担された[20]。
第二次世界大戦の発生当時、和泉原と呼ばれた現在の和泉本町三丁目にあたる場所には畑があり、その一角に大日本帝国陸軍の高射砲第一一二連隊第三大隊第一四中隊第六分隊が駐屯しており「狛江陣地」と呼ばれた。この部隊はこの陣地で昼夜を徹して照空灯を操作していた。そのほか狛江には、当時東京航空計器などの軍需産業関連工場もいくつか位置していたが、東京都区部を標的とした東京大空襲時にも空襲に遭うことはなく、むしろ都市部や島部から疎開する人を受け入れていた。しかし1945年5月25日の山手大空襲の際、同日20時頃に狛江も空襲の被害を受けた。狛江における被害としては、家屋十数戸、農業会事務所、作業場、狛江国民学校[注 1]が全焼し焼失したと報告された。終戦後、市は西河原公園に狛江市戦没者慰霊塔を建て戦没者を供養した[21]。
戦後の都市化とともに人口増加が続いていき、1951年には人口は1,000人を数えた。そこで、村民の中では町制施行に対する機運が高まり、村議会では1950年11月に町制施行特別調査委員会が設置され、動きは加速された。翌年10月18日、村議会で町制施行が議決され、6日後には都議会で承認された。そうしてその1年後にあたる1952年(昭和27年)11月10日に町制が施行され、狛江町となった。町制施行の記念式典は、狛江第一小学校の創立80周年式典と併せて行われ、同校の校庭で盛大に祝われた[22]。
このころまでに調布町と神代町の3町で合併する構想があり、協議が進んでいたが、1954年に町長となった飯田恵輔は世田谷区による編入を主張し、ここから10年ほどの世田谷区編入派と調布町合併派との争いが続くことになる。結局、町は単独市制を行うこととなったが、2派の争いは激化し、町民生活に影響が出るほどであった。
- ウィキソースには、狛江町の皆様にお知らせの原文があります。
現代
[編集]狛江町は1965年の国勢調査で人口が5万人に達しなかったため、市制を施行できずにいた[23]。その後、1970年3月の地方自治法改正によって規定が一時的に緩和され、人口3万人以上であれば政令で定める期間に申請すれば市制を施行できるとされ、狛江町は市制施行の要件を満たすこととなった。これを受け、同年3月18日には町議会により市制推進特別委員会が設置され、市制施行に向けて準備が行われた。同年8月12日の町議会で同年10月1日に市制施行することが議決され、同年8月19日に東京都議会に申請書を提出、同年9月の都議会で承認された。その後も計画は順調に進み、予定通り1970年(昭和45年)10月1日に市制を施行し狛江市となった。初代市長には第4代狛江町長の冨永和作が就任し、同日9時に市議会で市制施行を宣言した[24]。同時に花火が打ち上げられた他、狛江第二小学校と狛江第三小学校の児童による鼓笛隊がパレードしたり、狛江第一中学校で記念式典が行われたりし、盛大に祝われた[25]。
- ウィキソースには、狛江町を市とする告示の原文があります。
- ウィキソースには、町を市とする処分の原文があります。
1974年9月2日、台風16号に伴う豪雨により、猪方地区の堤防が260メートルに渡って決壊し、多摩川水害と呼ばれる大規模な水害が発生した。家屋19戸が流失した。
- 災害
地域
[編集]人口
[編集]この節には内容がありません。 |
経済
[編集]産業
[編集]第一次産業
[編集]- 農業
現在は畑作が主流である。もっとも大きい作付面積を占める野菜は枝豆で、全体の23%を占める。市は枝豆を特産品としていて、市のマスコットキャラクターのモチーフが枝豆であるなど(えだまめ王子)、狛江市産の野菜でも特に推している。農業生産工程管理を行い安全を管理した野菜を狛江ブランド野菜と位置づけ販売したり、直売所マップを制作し頒布したりなど、農業振興の取り組みを進めている。市域639ヘクタールのうち35ヘクタールが農地となっていて、割合としては5%にあたる。2019年度で農業労働人口は121人、農業産出額は合計1億8000万円である。近年では畑の面積の割合も、農業労働人口の高齢化に伴い、宅地化されたり駐車場になったりと減少を続けている[26]。
かつては畑作のほか、稲作や梨などの栽培が盛んであった。1950年代からは狛江における急速な都市化の影響で、農地が転用され面積が減少したり、さらに湧水の減少によって水源の確保が難しくなり衰退が進んだ。また、六郷用水の暗渠化や野川の流路改修はさらに水源の確保を難しくし、また工場排水などによるカドミウム汚染問題が発生し水田の減少に拍車をかけ、1984年の駒井町で行われた自家用米の確保のための稲作を最後に稲作は行われなくなった[27]。
1955年ごろからは花卉園芸も盛んに行われるようになった。技術は宇奈根から伝わったものとされるが、完成度や市場価格などから、東京都の品評会において農林水産大臣賞を受賞した[28]。
- 砂利採掘
昭和時代後半まで、多摩川周辺での砂利採掘も狛江の主要な産業として賑わった。昭和時代に入ってしばらく経つまでは多摩川の河原での採掘が主流であった。小田急電鉄も当時は和泉多摩川駅の東側から河原まで線路を敷設し、トロッコを川まで引き込み採掘していたが、砂利の掘りすぎによって多摩川の水位低下が目立つようになり、鉄道橋や道路橋の土台などの構築物が破壊される危険性が生じたほか、岩盤の露出によって鮎が確認できなくなったため禁じられた。その後は流域の田の地下に存在する砂利が採掘されるようになり、現在の猪駒通りの両側は穴だらけになった。昭和時代後半になるにつれ周囲の地価が上がっていき、穴も埋め戻され住宅用地として販売されるようになると、砂利の採掘は行われなくなった[29]。
第二次産業
[編集]この節には内容がありません。 |
第三次産業
[編集]- 商店街とその衰退
第一次産業、第二次産業の衰退に比べ商業やサービス業に代表される第三次産業は発展している。歴史的には、各地に点在していた商店が、1960年代から御台橋ストアーなどをはじめとする商店街として集約され、ほか和泉多摩川商店街や猪駒商店街、狛江ショッピングセンターなどが成立した。その後、全国で百貨店やショッピングセンターなどが台頭し、狛江にもその波がやってくるが、大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律によって、出店に地元商工会との調整が必要になった結果、多くの出店計画は糾弾された。例えば、狛江には1978年に岩戸南への高島屋ストアの出店計画があったが、多くの反対に遭い中止されたほか、シヅオカヤなども出店計画が撤回されることとなった。現在狛江駅南口に位置する三和に対しても激しい反対運動が生じたが、度重なる話し合いの結果、出店が認められることとなった。1985年の『狛江市地域商業振興計画書』では市内のスーパーマーケット出店などに反対運動を展開した商業者に対して、地域内での競争を回避した結果、他都市との商業競争に全面的に敗れていると指摘している[30]。
- 大手企業の進出
現在では後述の狛江駅北口の再開発に伴い建設されたECRMAの他、2017年には世田谷通りにニトリ狛江ショッピングセンターとヤマダデンキが、2021年には和泉多摩川商店街にイオングループによるまいばすけっとなども開店し、狛江市への大手企業の参入も相次いでいる。
- 映画撮影
また、市周辺に撮影スタジオなどが多く所在するため、市内はよくドラマや映画の撮影に使われ、撮影を有償で支援する組織として狛江市観光局に狛江ロケーションサービスが設置されている。
企業
[編集]政治
[編集]市政
[編集]狛江市の執行機関は狛江市役所である。狛江市役所は市民により正当に選挙された狛江市の首長たる狛江市長を長とする組織で、狛江市の執行機関としての事務を行う。市長の任期は地方自治法により4年と定められている。
狛江市の議決機関は狛江市議会である。狛江市議会は地方自治法第89条に基づき設置されている。定数は22名。狛江市役所とともに狛江市庁舎内に設置されている。
国政・都政
[編集]衆議院議員選挙において狛江市は調布市、三鷹市、稲城市の一部とともに東京都第22区に属す。東京都議会議員選挙においては狛江市と調布市で構成される北多摩第三選挙区に属す。定数は3名。
インフラ
[編集]警察
[編集]警視庁の調布警察署が調布市と狛江市を管轄しているため、狛江市内に警察署はない。調布警察署の庁舎は管轄地域の中心である調布市国領町の甲州街道沿いにある。過去に市の中心に警察の拠点がほしいという要望から「大型交番」が設けられたが、現在までに廃止、残った建物は市商工会館として使われ、交番としての機能は狛江駅前北口ロータリーに移転された[要出典]。
市内の交番は、狛江駅前の狛江交番、和泉多摩川駅高架下の和泉多摩川交番、一の橋交差点の岩戸交番、御獄神社東の小覚交番、狛江こだま幼稚園北の中和泉交番、供養塚児童公園北の猪方交番の6つがある[要出典]。
消防
[編集]消防は市町村の事務であるが、狛江市は多摩地域の多くの自治体と同様に東京消防庁へ業務を委託している[要出典]。市内に狛江消防署とその出張所である猪方出張所が設置されている。かつて南部地域へは小田急線踏切により移動に時間がかかったため開設された[31]。119番通報は立川市にある第八消防方面本部の多摩災害救急情報センターにつながる[32]。多摩川対岸の狛江市市域での水難事故などでは川崎市消防局が出動する場合がある[33]。
狛江における消防の歴史は、1895年12月に創設された消防組から始まった[34]。消防組は各地域ごとに組織された5個の組を基本単位とし、211人で構成される大規模な組織だった。のち警防団令により警防団となり、終戦後の1948年に197人で構成される狛江村消防団となった。長らくこの体制は変わらなかったが、1962年1月に発生した佐藤病院火災が転機となった[31]。病院の杜撰な危機管理体制や消防資材の不足から発生した火災は急速に悪化し、佐藤病院の敷地約1,000平方メートルが全焼、入院患者7人が焼死するという結果となった。この火災から、町では常設消防設置の動きが加速し、同年8月には町内に常設消防本部が設置され、今日の狛江消防署となった[31]。
消防団は現在第一分団、第二分団、第三分団、第五分団、第八分団、野川分団の6個分団となっている[注 2]。各分団に1台のポンプ車が配備され、それぞれに自動体外式除細動器を搭載している( [要出典] → 統計こまえ「9. 消防」)。
医療
[編集]市内には東京慈恵会医科大学附属第三病院と東京多摩病院が位置する。2020年現在、市内には一般診療所が58箇所、歯科診療所が41箇所、薬局が34箇所ある[36]。
明治時代中期になっても狛江には医者がおらず、狛江村発足後もしばらくは無医村となっていたが、1927年に小田急線が開通すると狛江駅前に「片岡医師」が開業し、無医村を脱した( [要出典] → 語り継ぐむかし「無医村返上」)。1950年7月には東京慈恵会医科大学附属第三病院が開設され、医療は充実した。当時村民は、役場で発行された診察券をこの病院で利用すると診察費等が減額されるという、当時にしては画期的なシステムがあった[37]。
郵便
[編集]郵便番号は「201」から始まる。以前は調布郵便局管轄で郵便番号は182であった。現在は、狛江局が配達、調布局が取集め、消印は東京北部郵便局で行っている。
1870年(明治3年)に始まった郵便は、1882年までには狛江でも普通に利用されるようになった。1900年には、登戸や調布などの周辺地域に郵便局が続々と設置されたが、狛江村には依然として設置されず、1915年(大正4年)には和泉に設置を求める請願書が作成されている。その後1930年(昭和5年)、狛江郵便局が現在の狛江駅前に三等郵便局として設置され、現在の狛江駅前郵便局となっている[38]。
上下水道
[編集]上水は都の管轄である。2007年4月1日まで、狛江市は多摩地域の他自治体と同様に東京都水道局から事務委託されていたが、以降は事務委託を廃止して都営一元化された。水道網は東村山系を利用している。市独自の水源は地下水のみで、現在も西野川に4か所と和泉本町に2か所の取水井戸を持っている。それ以外の水は東村山浄水場から送られており、その水源の多摩川と利根川の比は 3 : 7 である。多摩川の分は羽村取水堰から取水しているものである。市内に供給される水源の井戸と都水道局の比は 1 : 9 であり、市内に位置する和泉本町浄水場で混合され給水される。
上水道に関する施設として市内には多摩水道橋や水道道路、砧浄水場などがあるが、これらは川崎市多摩区にある長沢浄水場と田園調布を結ぶ長沢系と呼ばれるもので、普段は狛江市への給水には直接関与しない。ただし、狛江市が利用する東村山系で障害があった際には長沢系を代替することができる。
下水道に関しては、1969年から100億円余を投じて整備が進められ、1979年に市内全域が完備された。下水道完備の自治体としては全国で4番目である。下水処理は大田区の森ヶ崎水再生センターで行っている。←ぎょうせい時模様
ごみ処理
[編集]ごみ処理は有料である。ごみを廃棄する場合は市指定の有料ごみ袋を購入する必要がある。
狛江市は多摩川衛生組合[注 3]に加盟しており、クリーンセンター多摩川などの処理施設を共有している。最終処分場には日の出町の二ツ塚廃棄物広域処分場を利用している。市内で回収された缶や瓶などは市内の狛江市ビン・缶リサイクルセンターに運ばれ、分別や減容などが行われたのち処理される。
多摩川衛生組合が組織されるまでは町が独自にごみ処理を行なっていた。1959年からごみ処理が行われるようになり、当時ごみは砂利採取によってできた穴に埋め立てたり、堆肥として利用したい農家の畑に積み上げるなどの方法で処理されていた。その後ごみは増加し、穴が満杯になってしまうと、小足立の林に埋めるようになった。翌年には稲城町の林に、次は浦和市に、次に溝口の残土捨て場にごみを運んだ。←ぎょうせい時模様
教育
[編集]学校教育
[編集]小学校
[編集]狛江における教育は泉龍寺にあった私塾を起源とする。私塾は1872年(明治5年)9月25日に併合され、公立観聚学舎となった。観聚学舎の設立により、児童は教育を受けることができるようになったが、この時は生徒から授業料を徴収していいたため1874年の就学率は37%にとどまった。和泉学校は1878年に慶岸寺に移転されたが、これにより一部地域の児童が遠距離通学を強いられるようになり、組合の足並みが揃わなくなった結果、1880年5月に廃された[39]。
廃止後1年もせずに駄倉に新しい和泉学校が設立され、初等教育が再開されることとなった。1882年には就学率は51%に達し、明治後半になるとほとんどの児童が学校に通うこととなった。農業教育が重点的に行われ、1908年には新しい科目として農業が追加された。その後1910年、狛江尋常高等小学校に狛江実業補習学校が附設され、将来農業に従事する児童を対象に授業料無料で農業・修身・算術・国語を教えた。戦時体制下で狛江国民学校に改称。その後地震や戦争により狛江国民学校の校舎は2度焼失したが、青空教室などを経て児童数は増え、狛江村立狛江小学校和泉分校が設置された。この分校は2年後に狛江村立狛江第二小学校となり、同時に狛江小学校は狛江村立狛江第一小学校と改名した[40]。
1957年には狛江町立狛江第三小学校が開校し、南部で初めての小学校となった。狛江第三小学校では翌年より市内で初めて学校給食が開始された。また、町の失業対策事業の一環として各学校にプールが建設された[41]。
その後も人口増加が続き、1966年に狛江町立狛江第四小学校が設置され、2年後には狛江町立狛江第五小学校、さらに3年後には狛江市立狛江第六小学校、そのさらに2年後には狛江市立狛江第七小学校と、各地に学校が設置された。この時期は町(市)内各地で団地やマンションなどの建設が進んでいたため開校時からプレハブ校舎での授業が行われるなど、人口増加に間に合わず立て続けに学校の設置が行われた。10年で4校の学校が新設されたが、それでも狛江第四小学校では多摩川住宅の入居開始8年を迎え児童数は増加し、児童数1,257人とマンモス校となったため、1975年に狛江市立狛江第八小学校が開校した。同年、狛江第五小学校でも児童が急増したため、狛江市立狛江第九小学校の設置が計画されたが、以降は学校の新設はされず、学区域の変更によってその場を凌いでいる[42]。
平成になり、市内の児童人口は減少に転じた。特にそれぞれ団地やマンション建設に伴って設置された狛江第四小学校と狛江第八小学校、狛江第二小学校と狛江第七小学校で児童数の減少が目立ち、前者の2校は2001年に狛江市立和泉小学校に、後者の2校は2005年に狛江市立緑野小学校にそれぞれ統廃合された[43]。
すべての小学校にKoKoAと呼ばれる放課後児童クラブが設置されている。各小学校に属す全児童は登録していれば、KoKoAに滞在し、遊んだり宿題をしたりするスペースとして利用できる[要出典]。また、狛江市内小学校に通う保護者の就労などの理由で帰宅しても十分な保護を受けることができない児童を対象に学童クラブが設置されている。開設時間がKoKoAよりも長く、また学校がない土曜日も受け入れていることが特徴[44]。
中学校
[編集]市内における中学校の歴史は前述の狛江尋常高等小学校に遡る[注 4]。狛江尋常高等学校は1941年に狛江国民学校に、1947年に狛江小学校となり中学校と完全に分離された[要出典]。
1947年4月1日には学制改革における新制中学校として狛江村立狛江中学校が設置され、同年4月19日より授業が開始された[45]。設置後20年間は狛江における唯一の中学校であったが、生徒数は1,000人を超え、また南部に住む町民にとって狛江中学校は遠方に位置し不便であったことから、1967年に南部に狛江町立狛江第二中学校が設置され、同時に狛江中学校は狛江町立狛江第一中学校に改名された[46]。しかしながら狛江第一中学校では生徒数が増え続け、1972年には再び1,000人を数えた。1973年に狛江浄水場の跡地に狛江市立狛江第三中学校が開校したが、それでも再び狛江第一中学校の生徒数が増加したため1980年に狛江市立狛江第四中学校が開校した[47]。
狛江第四中学校は開校当時から児童数減少が予想されていたため市内最後の開校となった。その後、狛江第三中学校の狛江第一中学校への統合や狛江第三中学校の狛江第四小学校跡地への移転なども議論されたが、全て実現には至らなかった[48]。
高等学校
[編集]市内唯一の高等学校として東京都立狛江高等学校がある。
狛江高等学校は1972年に開校した都立学校であるが、かつて狛江には東京府立玉泉中学校が建設される計画があった。この旧制中学校ははじめ東京府立第十八中学校といい、1940年4月に東京府立第十中学校を仮校舎として開校した。翌年には校舎を建てるため和泉本町一丁目が用地として確保され、同時に校名が玉泉中学校に変更されたが、戦時中のため着工には至らなかった。その後用地は食糧難のため狛江村青年団の農場となっていたが、町に払い下げられ、1948年に校舎が竣工、この校舎に前述の狛江中学校が移転した。玉泉中学校の校舎は完成することなく、1946年に東京都立第十中学校(現: 東京都立日比谷高等学校)に併合された[49]。
その後は狛江に高等学校が設置されることはなかったが、人口が増えていくにつれ市内への高校設置を求める請願が増え、1972年の東京都立狛江高等学校の開校に至った[50]。
幼児教育
[編集]社会教育
[編集]図書館
[編集]狛江市の公立図書館として狛江市立図書館が市内各地の6か所に設置されている。市内における公立図書館は1966年に開設された水曜図書室が最初で、名の通り水曜日にのみ開館する小規模な図書室だった。1977年11月23日には水曜図書館は狛江市立中央図書館となり、市民センターと同時に開館した。その後も各地域センターなどに図書室が建設され現在に至る。2020年6月にはオンライン上で一部書籍を閲覧できる「こまえ電子図書館」が開館した[要出典]。
体育施設
[編集]狛江市にある体育施設としては狛江市民体育館が最大である。2013年に多摩地域をメインとして開催された第68回国民体育大会では、バレーボール少年男子の会場として使用された。他の体育施設としてが市民グラウンドや[49]、市民テニスコート[注 5]、元和泉スリーオンスリーコート、多摩川緑地公園のグラウンドなどがある。また、閉校した狛江第四小学校の体育館が西和泉体育館として暫定利用されている。市民プールは狛江市民体育館に併設されている[51]。
博物館
[編集]市内に公立の博物館や美術館は存在しない。2023年現在では狛江古墳群に属する古墳のうち、現存する一部の古墳の公園化が進んでいる。出土品などは展示されていない公園となっているが、古墳が見学できるようになっている[52]。また、博物館に準ずる施設として、むいから民家園がある。江戸時代に市内に存在した家を保存・移築し公園としたもので、無料で観覧できる[53]。
交通
[編集]鉄道
[編集]市内には小田急小田原線が通っており、市内には狛江駅、和泉多摩川駅の2駅が設置されている。世田谷区喜多見にある喜多見駅も利用しやすい。また、市北部からは調布市内にある京王線仙川駅、つつじヶ丘駅、柴崎駅、国領駅も利用できる。狛江駅と国領駅間の南北のアクセスはバスが担っている。
至町田 ← 和泉多摩川駅 - 狛江駅 - (喜多見駅) → 至新宿
1995年に高架化されるまで各地に踏切などが存在し、開かずの踏切問題や交通渋滞、沿線の騒音被害などのほか、線路も2線しかなく、電車はピーク時には混雑率は200%を超え、前述の踏切問題で電車の増発もできないなどと、多くの問題を抱えていた。その後高架複々線化がなされ、現在では安全に通行できるようになったとともに、輸送力なども飛躍的に向上した。現在市内に踏切は存在しない[54]。
最大の駅は狛江駅で、市の中心部にある。唯一準急が停車する駅で、狛江市役所はこの駅が最寄りとなる。接近メロディには市の歌「水と緑のまち」が採用されている。かつては市内では和泉多摩川駅のみが設置される予定であったが、住民の請願駅として開設された経緯をもつ[55]。また、喜多見駅は駅の住所こそ世田谷であるものの、駅舎は狛江跨って建っていて、一部地域では喜多見駅が最寄駅となる。喜多見駅にはかつて「狛江市側臨時改札口」が存在したが、現在までに廃止されている[56]。
バス
[編集]小田急バスと京王バスが乗り入れており、主に京王線、東急田園都市線の駅とを結ぶなど市内の南北方向の交通を支えている。市内から多摩川を渡って神奈川県方面へ越境する路線バスはない。狛江市内を発着する路線バスは東京23区内と同じ前乗り中降り均一運賃である。市内に小田急バス狛江営業所がある。また所在地は調布市国領町であるが京王バス調布営業所も市内のバスの運行を担当する。
他に狛江市内を走るバスとしてはコミュニティバスである「こまバス」がある。2008年11月24日より運行が開始された。小田急バスに運行を委託している。こまバスの名前は狛江の「狛」のみを表すのではなく、市内を「細」かく走るバスという意味がある。
ルートは北回りと南回りの2種類がる。バスは北回りは時計回りに、南回りは反時計回りにしか巡回しない。運行間隔は40分である。車体の色は空色であるが、狛江市の「絵手紙発祥の地 - 狛江」を宣伝するために、車体は狛江市名誉市民で絵手紙作家の小池邦夫がデザインした絵手紙のラッピングがされている。
道路
[編集]市内を東京都道が3路線通る。市内に国道と自動車専用道路は通らない。市道は市内に900路線ほどある。それらの道路の総延長は2019年時点で128,340メートルで、そのうち117,767メートル (92%) が市道、6,651メートル (5%) が主要地方道、3,922メートル (3%) が一般都道となっている[57]。川で隔たれている川崎市とは、多摩水道橋で接続される[58]。市は橋名を「狛江橋」とすることを提案したが川崎市と話がまとまらなかったため、水道局の提案で現行の名前となった[14]。この橋が建設される以前は、対岸との交通を渡し船である登戸の渡しが担っていた[59]。
狛江市を通過する東京都道は東京都道3号線世田谷町田線(世田谷通り)・東京都道11号大田調布線(狛江通り、水道道路、本町通り)・東京都道114号武蔵野狛江線(松原通り、六郷さくら通り)の3路線がある[60]。いずれも一部が緊急輸送道路として指定されていて、狛江市における道路の根幹である。また、市内の堤防道路全部が緊急河川敷道路に指定されている。高速道路は2023年現在市内を通過しない。周辺のインターチェンジとしては東名高速道路の東京ICもしくは東名川崎IC、中央自動車道の調布ICもしくは高井戸IC、首都高速3号渋谷線の用賀出入口、首都高速4号新宿線の高井戸出入口がある。
狛江市は、多摩ナンバー(多摩自動車検査登録事務所)が割り当てられている。
かつてあった計画
[編集]鉄道
[編集]かつては狛江市内を通る鉄道の新路線を建設する計画がいくつかあったが、いずれも住民による反対などにより実現には至らず未成線に終わっている。
- 狛江駅を起点とする新線計画
- 小田急電鉄は小田原線の開通前後から多くの新線の建設を申請していたが、その1つである1928年6月に申請された計画は、狛江駅を始点として、砧、神代、千歳、高井戸、中野を経由して高田馬場に至る路線を建設するというものだった。この路線は当時の狛江の主力産業であった砂利採掘で採れた砂利を戸山の軍事施設に輸送するためのものだったとされている。この路線は資料に乏しく、計画後どうなったのかはわかっていないが、少なくとも計画は実現することはなかった[61]。
- 地下鉄の喜多見駅乗り入れ
- 現在の東京メトロ千代田線である地下鉄9号線は、1964年の時点で世田谷通りの地下を通って喜多見駅に乗り入れることが決定されていた[62]。後述の小田急線新線計画は、この千代田線の延長として計画されていた。千代田線が喜多見駅に乗り入れられるよう用意されたのが、現在喜多見検車区およびきたみふれあい広場として使われている広大な土地である。しかしこの計画は変更され、現在小田急線と千代田線は代々木上原駅で接続するようになっている[63]。
- 多摩ニュータウンに至る新線計画
- 多摩ニュータウンの開発時、小田急電鉄は多摩ニュータウンに至る新線として、1962年に喜多見駅から分岐し狛江町内を経由する路線の計画をたて、免許が与えられていた[62](東京8号線)。この路線は喜多見駅で分岐したのち役場北側を通過、そのまま高架で西へ進み現在の中和泉三丁目の北側に新駅を開設し、多摩川を橋で渡るというものだった。この計画で小田急は新駅開設による恵沢としてその後建設される予定であった多摩川住宅へのアクセスのしやすさの向上に言及し、その意義を強調した[64]。しかし、住民[注 6]による騒音や立ち退きに対する不安から反対活動が活発化し、町議会も小田急による事前の説明が不十分なまま計画が進められたことに対する不信感から反対に傾いた[64]。さらにこのルートは、多摩川に新たに架橋する必要があることや、京王相模原線と似たルートになる懸念が生じたことから、小田急は計画を取り下げるに至った。結局この路線は実現することなく、代わりに建設された路線が現在の小田急多摩線である[64]。
- 小田急線以外の鉄道
- 1927年に小田急線が開通する以前から狛江を通過する路線の建設計画は複数存在した。1つは武相中央鉄道によるもので、千駄ヶ谷付近で甲武鉄道(現: 中央本線)から分岐し、世田ヶ谷や溝ノ口などに至るものであったが、狛江村の石井正義はこの「溝ノ口線」に代わって世田ヶ谷から狛江、生田、原町田を通過して厚木へと至る「登戸線」を提示し、実際に免許交付に至ったが会社の資金難により建設は叶わなかった[65]。
- また、多摩川電気鉄道による路線を狛江に敷設する計画もあった。この計画では狛江村内で生産される砂利や向丘村で生産される氷の輸送を目的として計画されたが、前述の武相中央鉄道と計画が一部重複していたため免許交付とはならなかった。その後は渋谷から三軒茶屋まで至る路線が計画され、玉川まで至る路線が1907年に開通している(東急玉川線)。開通後も砧線の砧停留所から小田急起業線玉川停車場(現: 和泉多摩川駅)まで延伸する計画もあったが、実現には至らなかった[66]。
- 他、明治末期には軽便鉄道敷設計画があり、城西軽便鉄道によるものと京西軽便鉄道によるものの2つがあった。前者は立川停車場(現: 立川駅)から谷保村、調布町などを通過する計画で、後者は大崎停車場(現: 大崎駅)付近から目黒村、碑衾村、駒沢村、喜多見村、狛江村を経由したのち国領に至る計画であった。どちらも狛江村の政治家などが数名参加したが、実現には至らなかった[67]。
道路
[編集]- 多摩川堤防沿い自動車専用道路計画
- 過去には1970年ころに東京都によって立川と羽田を結ぶ自動車専用の路線である多摩川堤防沿い自動車専用道路を建設する計画があったが、各通過自治体で反対運動が起こり、狛江でも多摩川住宅の住民を中心に反対運動が展開され、東京都が案を凍結したため実現には至らなかった[68]。
- トラックターミナル建設計画
- 日本自動車ターミナル株式会社によるトラックターミナルが、千町耕地と呼ばれた2万5000坪の土地に建設される計画があった。さらに計画では、東京外郭環状道路から分岐し、狛江の中央を貫きこのトラックターミナルまでつなぐ高速道路も建設するとされた。町は騒音などによる公害を懸念し一貫して反対の立場を採り、この計画は白紙撤回された[69]。
文化
[編集]建築物・名所
[編集]寺社仏閣
[編集]狛江村として成立する前、現在の市域には6つの村があったため、市内には5つの村社と1つの郷社が存在する。和泉村の鎮守として鎮座していた伊豆美神社が市内で最大の神社で、近代社格制度において郷社とされた。
寺は市内に999か所ある。狛江駅北にある泉龍寺が最大である。
文化財
[編集]イベント
[編集]狛江市で開催されるイベントはいくつかあるが、特に以下の3つが比較的大規模である。
- 狛江・多摩川花火大会
- 1922年ごろに始まったといわれ、戦争によって中断した後、1950年に復活し、その後毎年7月下旬から8月上旬に催されていたが、2004年の第32回大会を最後に市の財政難により中断された。その後、2010年に市制40周年を記念し「音楽と花火の祭典」と題し復活。現在は「狛江・多摩川花火大会」の名称で、以降、2015年、2019年、2023年と不定期で夏に開催されている[70]。
- 多摩川いかだレース
- 自作のいかだを用い、多摩川の五本松から河川敷グラウンド付近までの1,300メートルの川下りにかかったタイムを競う。タイムの他、いかだのデザインやアイデアにも賞が贈られる。優勝チームには和泉式土器をモチーフにした陶器製の「狛江古代カップ」が贈呈される。1991年に市政20周年記念行事として開催されて以来、毎年7月中旬に開催されている[71]。
- 狛江市民まつり
- 1977年に市民センター開館記念として催されたイベントだったが、その後も毎年11月中旬に催されるようになった。市役所前広場、狛江第一市小学校や市民グラウンドなどが会場に使われる。パレードが行われたり、露店が出店するほか、歌手やヒーローによるショーなども行われる。毎年7万人ほどの来場者が集まる[72]。
名物
[編集]この節には内容がありません。 |
シンボル
[編集]紋章
[編集]狛江市の市章は狛江市の「こ」を意匠化したもので、「こ」の一画目と二画目の間の空白が、狛江市を流れる多摩川の流れを象徴しているとされ、図案全体は「新都市発展途上にある狛江市に相応しい斬新なデザイン」とされる[24]。
図案は公募で選ばれたもので、デザインの用件は「狛江市の特性を表し将来都市として飛躍発展を象徴するもの」とされた。募集期間はわずか1箇月であったものの、136点の応募があり、そのうちの1つがこのデザインである[24]。他4作が佳作として選ばれ、1970年10月1日の市制施行当日に併せて行われた表彰式で5人が表彰された。入選者には賞金30,000円が、佳作者4名には賞金5,000円が贈られた。
歌
[編集]音楽・音声外部リンク | |
---|---|
「水と緑のまち」 | |
「水と緑のまち」の合唱 | |
防災行政無線用 | |
電車接近メロディー用 | |
防犯パトロール用 |
狛江市の市歌は「水と緑のまち」である。狛江市では作詞と作曲を著名な人物に依頼せず、公募して決定することとなった[73]。総数167編の応募があり、三木稔・宗鳳悦・大倉芳郎などで構成される11人の審査委員会によって最終的に現行のものが選ばれた。「水と緑のまち」は作詞作曲をどちらも狛江市民が担当したもので、作詞を当時67歳の男性、作曲を当時東京藝術大学に通っていた19歳の女性がそれぞれ担当した。審査委員会では、「末長く歌われるべきだ」とされたが、「その時代にあった市の歌に変わっても良いのではないか」ともされ、市の歌の変更の可能性も残されている。なお、「水と緑のまち」に僅差で敗れた「狛江に住んで何年目」も市の歌としての扱いを受けている[74]。
狛江市では毎日、17時に防災行政無線から「水と緑のまち」が流れる。かつては「夕焼小焼」が流れていたが、「音楽の街-狛江」構想推進事業の一環として、2012年10月1日より変更された。さらに翌年の2013年9月1日より、狛江駅の電車接近メロディーも「水と緑のまち」に変更された。
木・花
[編集]狛江市における市の木・市の花は、人口急増による宅地開発によって失われつつある自然の回復を期して1973年4月1日に制定されたものである。そのためこれらの制定と同時に、狛江市では毎年4月と10月に植樹週間が設定され、市民1人1人が緑の回復に努めるべきと定められた[75]。
狛江市の木はイチョウである。狛江に昔から多く植えられていることや、木の佇まいや葉の色の美しさ、力強さなどを理由に選定された。市内を通る道路の街路樹として多く植えられている[76]。市の木の候補として他にケヤキがあった[要出典]。
狛江市の花はツツジである。狛江市に住む家庭の多くが栽培していることや、市の気候風土に合っていること、花の栽培自体を楽しめる花であることなどから選定された[76]。候補にはツキミソウがあった[要出典]。
対外関係
[編集]地域 | 締結時期 | 詳細 | |
---|---|---|---|
県 | 市区町村 | ||
新潟県 |
長岡市 川口地域 |
1987年 7月25日 |
川口町出身の狛江市民との住民同士の交流をきっかけに川口町と1987年7月25日に「ふるさと友好都市」となり、翌年には災害時相互応援協定を締結した。その後川口町は2010年3月31日に長岡市に編入され消滅したが、長岡市が提携を継承したため、現在も関係は続いている。市民まつりでは川口町のブースが設けられる。特に2004年に発生した新潟県中越地震では市は応援物資を素早く届け、これに対する礼として「感謝の碑」が贈られた。また、この地域のゆるキャラのかわぐっちの好きな場所のひとつに狛江がある[77]。 |
山梨県 |
北都留郡 小菅村 |
2006年 10月 |
同村とは1994年に行われた多摩川いかだレースに多摩川の源流にある村として招待したことを期に交流が始まった。その後2006年に「住民交流友好都市」となった[77]。 |
地域 | 締結時期 | 詳細 | |
---|---|---|---|
県 | 市区町村 | ||
東京都 | 世田谷区 | ||
東京都 | 調布市 |
関連作品
[編集]この節には内容がありません。(2023年9月) |
関連人物
[編集]名誉市民
[編集]狛江市名誉市民は、学問や学芸の進展に寄与した狛江市民もしくは縁故の深い人物で、郷土の誇りとして市民により深く尊敬されている人物に贈られる称号である。この名誉市民制度は市制施行50周年記念の一環として2020年に始まったもので、現在は以下の2人に称号が贈られている[78]。
肖像 | 氏名 | 職業 | 事由 |
---|---|---|---|
映画監督
|
第33回日本アカデミー賞や最優秀撮影賞などを受賞し、国内外から高い評価を得る、日本を代表する映画監督であることから。なお1958年、東宝撮影部にカメラ助手として映画界に入り、黒澤明の組に配属されるが、この黒澤明も狛江に居住していた、ゆかりのある人物である。 狛江市初の名誉市民となった2人のうちの1人で、2020年8月31日に名誉市民の称号を受けた[79]。 | ||
絵手紙作家
|
日本絵手紙協会名誉会長で、絵手紙の第一人者。1981年、狛江郵便局で日本で初めて絵手紙教室を開き指導し、狛江市に絵手紙文化をもたらした。その結果狛江市が「絵手紙発祥の地 - 狛江」を称するまでに至り、狛江市の文化振興に多大なる貢献をしたとして選ばれた。 狛江市初の名誉市民となった2人のうちの1人で、2020年8月31日に名誉市民の称号を受けた。2023年死去[80]。 |
出身人物
[編集]狛江市出身の人物の一覧。
氏名 | 職業 | 備考 |
---|---|---|
荒木貞夫 | 陸軍大将[81] | 和泉村出身。現在の狛江弁財天池特別緑地保全地区に家を構えていた。 |
石井しおり | アナウンサー | |
石原千秋 | 国文学者[81] | |
石渡明 | 地質学者 | 生まれは神奈川県鎌倉市であるが、その後狛江市で生活し、狛江市立小学校に入学し、卒業後狛江市立中学校に進学、在籍していたことを明かしている[82]。 |
井丸ゆかり | 俳優 | |
岩崎こよみ | バレーボール選手 | 狛江第七小学校に入学し、小学3年生のときバレーボールチーム「狛江セブン」に所属。旧姓は「冨永」で、当時居住していた地域は冨永姓が多い地域であったが、両親はともに狛江出身ではなく、狛江にゆかりのある冨永姓ではない[83]。 |
上野聡行 | アナウンサー | |
大西竜平 | 棋士[84] | |
小野武彦 | 俳優 |
氏名 | 職業 | 備考 |
---|---|---|
清水次郎 | アナウンサー |
氏名 | 職業 | 備考 |
---|---|---|
野田朱美 | サッカー選手 |
氏名 | 職業 | 備考 |
---|---|---|
春野寿美礼 | 俳優 |
該当者なし
該当者なし
該当者なし
氏名 | 職業 | 備考 |
---|---|---|
Snail's House | 音楽家 | |
THE PEPPERMINT JAM | バンド |
ゆかりの人物
[編集]狛江に居住歴をもつ人物の一覧。死没地が狛江であるが居住歴がない場合は以下に含めない。
氏名 | 職業 | 備考 |
---|---|---|
相島一之 | 落語家[81] | |
青山光二 | 俳優 | |
青山景 | 漫画家 | 狛江市猪方のマンションに住んでいたが、2012年10月に自宅で首を吊って自殺した[89]。 |
秋葉長正 | 日本画家 | 晩年を狛江市内の自宅で過ごした[90]。 |
荒木経惟 | 芸術家 | 1977年から1982年まで居住していた。自身の作品に狛江付近の情景が描かれたものが多い。 |
IKUO | 音楽家 | 狛江ラジオ放送で自分のラジオ番組(IKUOのMAZE OF LIFE)を持ち、パーソナリティーをしている。 |
池田光夫 | 音楽家 | |
石井淳雄 | 弁護士 | |
石山嘉英 | 国際経済学者[81] | |
伊藤千尋 | ジャーナリスト[81] | |
岩井隆 | 作家[81] | |
上野昻志 | 評論家[81] | |
大島正光 | 医学者[81] | |
おいでやす小田 | お笑い芸人 | 上京後の2018年5月から約4年半居住していた。狛江駅に掲示してあった「2018年春から準急が止まります」というポスターを見て狛江市に住むことにしたという。2022年10月に羽田空港や新幹線停車駅へのアクセスの悪さから狛江を出て品川に転居した。転居後の「広報こまえ」2023年1月1日号で市長と対談し、狛江市について「ネガティブな印象は一切ない」「狛江から引っ越したくはなかった」と語っている。なお、過去に番組で、狛江市について「悪いところではないけどね」としつつも、「狛江に住んだことに後悔している」とも発言している。その他、狛江ラジオ放送で「ごみ収集日のお知らせ」の声を担当している[91]。 |
氏名 | 職業 | 備考 |
---|---|---|
櫻井孝宏 | 声優 | |
品川祐 | お笑い芸人 | 狛江第三中学校に通っていた時、春野寿美礼と同期であった。 |
鈴木英哉 | 音楽家 | 「Atomic Heart」に収録された「雨のち晴れ」という曲では自身がコンセプトになっていて、歌詞に「狛江」が登場する。 |
氏名 | 職業 | 備考 |
---|---|---|
原節子 | 女優 | 1947年10月に岩戸の電力中央研究所の西に土地を購入した。家族と共に住み、1964年まで拠点として住んでいたが、小津安二郎の死後は表舞台に出ることはなくなり、その後は専ら鎌倉市で生活した[95]。1993年に狛江の土地を売却するが、この時約12億円の所得を獲得したため1994年の高額納税者番付75位に登場し、再び話題となった[96]。 |
ヘルマン・ウォルシュケ | 実業家 | 第二次世界大戦後、狛江村にあった牛肉加工工場の一角を借り、ハム・ソーセージの製造を開始した。1947年にヘルマンウォルシュケ食品株式会社を設立しソーセージなどを製造した。泉龍寺に墓碑がある。2013年に市民によってヘルマンを研究する団体である「ヘルマンさんの会」が結成された[97]。 |
氏名 | 職業 | 備考 |
---|---|---|
丸山永畝 | 日本画家 | シベリア抑留を経て、1951年より長男の呼びかけで岩戸に住んだ。晩年は狛江と世田谷、多摩川など農村風景を写生し、膨大な写生帖を残した。残った300冊余りの写生帖は世田谷区立郷土資料館に展示されている[98]。 |
宮尾登美子 | 小説家 | 1979年より狛江駅近くのマンションに移って生活を始めた。『序の舞』『蔵』などを著したのち、多摩川ぞいに移り、1995年に新居をたてた。狛江市立中央図書館の1日図書館長となったり、市立図書館に自著の寄贈をするなどの活動も行なった。墓地は市内の明静院にある。 |
森繁久彌 | 映画俳優 | 故人。NHKのアナウンサーとして満洲国の新京中央放送局に勤務したあと引き揚げ、家族で狛江に移り住んだ。当時家は泉龍寺の東にあり、隣の家に黒澤明が住んでいたが、直接の交流はなかったとされる。わずか3年で狛江を出ているが、次男によると狛江での生活は「気力を養い再出発の原点」であったと言う[99]。 |
氏名 | 職業 | 備考 |
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安田亘宏 | 観光学者 |
該当者なし
該当者なし
該当者なし
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ のちの狛江市立狛江第一小学校。当時は狛江駅前に木造の校舎が建っていた。
- ^ 第四分団はかつて存在したが、1966年、第八分団に改称[35]。駒井地区担当。改名の理由・経緯等は駒井町#その他の狛江市消防団第八分団器具置場の箇所を参照のこと。
- ^ 加盟自治体は狛江市、稲城市、府中市、国立市。
- ^ 尋常高等小学校は現在の中学1年生から2年生にあたる児童を教育していた学校。
- ^ 北部と南部にそれぞれ1か所ずつ存在する。北部は東野川市民テニスコート、南部は元和泉テニスコート。
- ^ 特に戦後に移住してきた新住民。逆に昔からの住民は、新線開通に伴う地域の発展や地価上昇に期待してそれほど反対活動を行わなかった[64]。
- ^ 書き下し文: 起ちて高楼に向かい、暁鐘を撞く
出典
[編集]- ^ 狛江市史編集専門委員会 2021, p. 11.
- ^ a b 狛江市史編集専門委員会 2021, pp. 3–10.
- ^ 狛江市史編集専門委員会 2021, pp. 8–9, 38, 48–29.
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- ^ “統計こまえ 令和2年度版”. 2022年5月28日閲覧。
- ^ 狛江市史編集専門委員会 2021, pp. 29–33.
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- ^ 並木米一 et al. 1977, p. 17; 狛江市史編集専門委員会 2021, pp. 158, 572–573.
- ^ 狛江市史編集専門委員会 2021, pp. 345, 370–372.
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- ^ a b 井上 & 中島 2020a, p. 269.
- ^ 狛江市史編集専門委員会 2021, pp. 918–919; 井上 & 中島 2020a, p. 171.
- ^ 狛江市史編集専門委員会 2021, pp. 923–924.
- ^ 狛江市企画財政部秘書広報室 2020, pp. 20–21.
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参考文献
[編集]- 狛江市史編集専門委員会編
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- 狛江市史編集専門委員会『岩戸の民俗』狛江市〈新狛江市史民俗調査報告書〉、2017年3月。
- 狛江市史編集専門委員会『市史研究狛江 第2号』狛江市〈市史研究狛江〉、2015年6月。
- 狛江市史編集専門委員会『市史研究狛江 第3号』狛江市〈市史研究狛江〉、2016年3月。
- 狛江市史編集専門委員会『市史研究狛江 第7号』狛江市〈市史研究狛江〉、2020年3月。
- 井上, 孝、中島, 惠子 著、狛江市企画財政部秘書広報室 編『狛江・今はむかし 上巻』狛江市、2020年10月。
- 井上, 孝、中島, 惠子 著、狛江市企画財政部秘書広報室 編『狛江・今はむかし 下巻』狛江市、2020年10月。
- 狛江市発行
- 狛江市企画財政部企画広報課『萌動』狛江市企画財政部企画広報課〈狛江市制20周年記念誌〉、1990年10月、10-11頁。
- 狛江市企画財政部秘書広報室 著、狛江市企画財政部秘書広報室 編『躍動』狛江市企画財政部秘書広報室〈狛江市制50周年記念誌〉、2020年10月。
- 石谷清隆、佐藤匡、松村隆寛、冨岡佑太、安田将志、堀口剛、浅野慶子 著、狛江市小学校社会科副読本編集委員会 編『3・4年生 わたしたちの狛江市 令和2年度版』狛江市教育委員会、2020年4月1日 。2022年8月16日閲覧。
- 狛江市総務部安心安全課 著、狛江市総務部安心安全課 編『狛江市防災ガイド』狛江市、2019年12月 。
- 狛江市総務部安心安全課 著、狛江市総務部安心安全課 編『狛江市防災ガイド(令和2年度版』狛江市、2021年3月 。2022年8月15日閲覧。(pp.19-21においては改正情報が記されたページを代わりに出典とした)
- 狛江市立図書館 (2020年). “狛江ゆかりの作家”. 狛江市. 2023年2月24日閲覧。
- 狛江市環境部環境政策課『狛江市緑の基本計画』狛江市、2020年3月 。
- その他団体
- 並木米一、竹内秀雄、下村栄安、伊藤好一、沢井義雄、稲葉芳亭、鈴木樹造、白川宗昭 ほか『多摩のあゆみ』8号、たましん地域文化財団、1977年8月25日、16-19頁 。2022年7月15日閲覧。
- 竜門社『渋沢栄一伝記資』 49巻、渋沢栄一伝記資料刊行会、1965年2月 。
- 帝国市町村地図刊行会 編『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』帝国市町村地図刊行会、1941年。NDLJP1184234 。
- 東京府総務部地方課『市町村概観』東京府総務部地方課、1938年。doi:10.11501/1462372 。
関連文献
[編集]ここでは、この記事の出典としては用いなかったが参考になる文献を列挙する。
- 市史研究狛江
関連項目
[編集]外部リンク
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調布市 | 世田谷区 | |||
狛江市 | ||||
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