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筑紫国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
両筑から転送)

筑紫国(つくしのくに、7世紀ごろまで)は、現在の福岡県のうち東部(豊国の地域)を除いた範囲にあたる。古代のである。645年大化の改新律令制により筑前国筑後国令制国)に分割された。

本項では、併せて筑紫国国造筑紫国造についても解説する。

概要

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古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に筑紫島(九州)を生んだとされ、さらにその四面のひとつとして、別名を「白日別(シラヒワケ)」といったとされる。

次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。

一方、『日本書紀』では、八島の一つとして九州全体が筑紫洲と表記され、その中に筑紫国火国豊国日向国が現われるが、『古事記』の四面にあたるものは現われない。

地理

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令制国(筑前国/筑後国)
筑前国(■)
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筑前国()
筑後国(■)
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筑後国()

筑紫国の範囲は現在の福岡県のうち、北九州市などのある東側(豊国)の地域を除いた部分で、のちの筑前国筑後国の範囲にあたる[1]。南側で火国(熊本県)に接している。

7世紀末までに筑前国筑後国とに分割された。両国とも筑州(ちくしゅう)と呼ばれる。また、筑前国と筑後国の両国をさす語としては、二筑(にちく)・両筑(りょうちく)も用いられる。

筑前国をなした郡は下記の通り

筑後国をなした郡は下記の通り

なお、「筑紫」の名を持つとしては、福岡県筑紫郡が存在したが(近代以降の明治29年(1896年4月1日から平成30年(2018年)9月30日まで)、この郡は御笠郡那珂郡席田郡(すべて旧筑前国)の区域をもって発足した。発足当時の郡域は、現在の福岡市の一部と筑紫野市春日市大野城市太宰府市那珂川市の全域にあたる。このうち、旧筑前国御笠郡原田村(現在の福岡県筑紫野市原田)には、筑紫国造の氏神である筑紫神社#氏神参照)があり、また、旧原田村に隣接して旧筑前国御笠郡筑紫村(現在の福岡県筑紫野市筑紫)があってこれも筑紫の名を持つ。

「筑紫」の名を持つ自治体としては、筑紫村もあった。

江戸時代の貝原益軒[注 1]の説によると、筑前は古来、異国から「大宰府」へ向かう重要な路があり、それが石畳にて造られていた。それを称して「築石」といい、これがなまって「筑紫」となったのである。石畳の道は筑前の海岸に現存しているという。また「筑紫」とは「西海道」(九州)全てではなく「筑前」のみを言ったとしている[注 2]

街道

博多から日田までは、大宰府を経由する日田街道があり、日田街道は日田から先も、火国熊本県)、豊国北九州市大分県)、日向国宮崎県)の各方面に伸びている。

歴史

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弥生時代後期

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3世紀に編纂された魏志倭人伝によれば、筑紫島の玄界灘側には、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)などの国があり、伊都国には一大率などの検問機関がおかれ、邪馬台国の国と帯方郡のあいだの貿易港として栄えていた。

248年に邪馬台国の卑弥呼が没したが、その後、帯方郡の武官長政が266年まで滞在していた。朝鮮半島では高句麗の南下により、313年、魏が支配していた楽浪郡が滅び、邪馬台国の貿易相手だった帯方郡も衰退していき、5世紀には漢人の都市は、百済次いで高句麗の支配下に置かれており、倭国にも朝鮮の各民族の影響が強まったと思われる。[要出典]

古墳時代

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先代旧事本紀』「国造本紀」には成務天皇の御代に筑紫国造が設置されたと見え、『日本書紀』には怡土県主や水沼県主、岡県主などの存在が確認できる。4世紀前半には筑紫国造に関連する八女古墳群などが築造されはじめ、7世紀前半まで古墳文化が続くこととなる。部民制品部の制度のもと、古墳を築造する土師部などの職業の世襲制の定着が顕著になった。

『日本書紀』によれば筑紫国には豪族の菟狭津彦がおり[注 3]神武東征の逸話では、日向国から出立した神武天皇のために一柱騰宮(あしひとつ あがりのみや)を造営して饗応したとされる[注 4]

また『日本書紀』によれば、第8代孝元天皇皇子大彦命四道将軍の一人)がおり、先述の「国造本紀」によれば、大彦命の後裔である田道命(日道命)が初代筑紫国造となったとされる(古代日本の地方官制)。

第14代仲哀天皇の御代には、橿日宮にいた神功皇后による馬韓弁韓辰韓(それぞれのちの百済任那加羅新羅の地域)への三韓征伐について逸文がある。この直前に皇后が武内宿祢を召して那珂郡に作った裂田の溝(うなで、神田の設備)は、日本最古の用水路であり現在も利用されている。

第15代応神天皇の御代には、秦の始皇帝の五世の孫であり、半島に移り住んだ秦人の集団の首領である弓月君が百済から日本に到り、その族人が帰化したとされる[2]

527年(第26代継体天皇即位21年)、新羅阻止のために朝鮮半島に出兵する近江毛野と、新羅と通じていたとされる筑紫国造の豪族筑紫君磐井とのあいだで磐井の乱が起きた。また、531年に北魏から善正上人が渡来して霊泉寺を創設して修験道を作った。

令制以後

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663年、白村江の戦い新羅連合軍に敗戦したヤマト政権は筑紫国に大宰府を置くこととし、また令制を整備しはじめ、7世紀末には、筑紫国を筑前国(現在の福岡県西部に当たる)と筑後国(現在の福岡県南部にあたる)に分割した。

731年(天平3年、第45代聖武天皇期)には、住吉三神を祀る志賀海神社福岡県福岡市住吉神社系)が、「那珂郡阿曇社三前」や「志賀社」として『住吉大社司解』には記載された[3]

859年(貞観元年)には、筑紫神社神階奉授を受けた記録がある(六国史)。

平安時代の筑前国については、藤原時平大宰府菅原道真を左遷して道真が没したのちに疫病天変地異が続き、919年(延喜19年)に大宰府天満宮、921年(延喜21年)に筥崎宮が、第60代醍醐天皇により造営された。

筑紫国造

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筑紫国造
本姓 筑紫氏
家祖 田道命
種別 皇別
主な根拠地 筑紫国(のちの筑前国筑後国
著名な人物 筑紫磐井
支流、分家 日下部氏(
凡例 / Category:日本の氏族

筑紫国造(つくしのくにのみやつこ、つくしこくぞう)は、のちに筑前国筑後国となる地域(筑紫国)を支配した国造である。本貫は、筑後国上妻郡[4]であったとされる。現在の福岡県八女郡[4]

「筑紫国造」は『日本書紀』における表記で、『先代旧事本紀』「国造本紀」においては、「国造」と表記される。ただし『国造本紀考』 (105コマ目)によれば、「国造本紀」における表記も筑紫国造であるという。

祖先

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氏族

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筑紫氏[注 6][注 7])。『日本書紀』が筑紫国造だったと記す後述筑紫磐井について、『古事記』は竺紫氏(姓は君)だったと記す。筑紫氏は阿部氏(姓は)とは同祖とされる。史書では7世紀末までこの氏の一族の名が見られ、その活躍が認められている[8][9]

氏神

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筑紫国造の氏神は、福岡県筑紫野市原田(旧筑前国御笠郡)にあり筑紫国の国名を負う筑紫神社(ちくしじんじゃ/つくしじんじゃ、北緯33度27分25.66秒 東経130度32分34.17秒 / 北緯33.4571278度 東経130.5428250度 / 33.4571278; 130.5428250 (筑紫神社))である[10]。この神社は「筑紫の神」(筑紫の国魂)を主祭神とする。元々旧筑前筑後二国の国境付近にある城山の山頂に祀られていたが麓に移されたという説(続風土記拾遺)、当初から現在地に祀られたという説(続風土記)がある[11]。この神社を筑紫君[注 8]・肥君[注 9]が祀ったという所伝が存在し特に注目されている[12]。当地は筑紫君の勢力圏内であるが、肥君が本拠地の九州中央部から北九州に進出したのは6世紀中頃の磐井の乱が契機で、この所伝にはその進出以後の祭祀関係の反映が指摘される[12]

関連神社

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八女古墳群

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八女古墳群八女丘陵の範囲にあり、前方後円墳12基・装飾古墳3基を含む古墳約300基からなる。その築造は4世紀前半から7世紀前半に及ぶ[15]。筑紫君(筑紫国造の氏族。#人物を参照。)一族の墓に相当すると推定されている[15][15]

以下に筑紫国造の墓と関係すると思われる八女古墳群中の古墳を記載する。なお以下の古墳はすべて旧上妻郡内にある。

人物

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以下に筑紫国造を務めた著名な者を記載する。

子孫

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脚注

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注釈
  1. ^ 尾崎雅嘉『蘿月菴國書漫抄』吉川弘文館(日本随筆大成 巻2)、1927年,500頁が引用する「益軒文集」、著者は19世紀初頭の人、貝原益軒は17~18世紀の人である。
  2. ^ のちの九州西部の国は、肥前、筑前、肥後という配置であったが、肥前と肥後はもとは1つの火国だったのであり、筑前も火国であった可能性がある。
  3. ^ 他方、『古事記』に現われる同じ宇沙都比古は、豊国の豪族であるとされている。
  4. ^ 菟狭津彦の後裔である宇佐公宇佐国造)はのちの8世紀には、南側で筑紫国に接する豊国で栄えた。
  5. ^ 前田氏加賀前田家加賀藩本家は明治維新侯爵となっている[7]
  6. ^ カバネ参照。
  7. ^ 真人参照。
  8. ^ 筑紫国造の氏族。#人物を参照。
  9. ^ のちの肥後国の一部にあたる地域である火国におかれた火国造の氏族である肥氏カバネ参照)は
  10. ^ 継体天皇晩年の編年は、『百済本記』の伝える辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)により3年繰り上げられたとする説がある。その場合、書紀の527年から528年という紀年は、実際には530年から531年の出来事になる[19]
出典
  1. ^ a b 筑紫国造(筑紫) - 日本辞典(2017年10月17日午前11時33分(JST)閲覧)
  2. ^ 王勇 (2010年). “「人」と「物」の流動—隋唐時期を中心に” (PDF). 日中歴史共同研究報告書 (日中歴史共同研究): p. 121-122. オリジナルの2021年10月8日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211008104847/https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_c_translate.pdf 
  3. ^ 『福岡県の地名』志賀海神社項。
  4. ^ a b 日本歴史地図 原始・古代編 下』。
  5. ^ a b 国史大系. 第7巻
  6. ^ a b c d 新訂増補國史大系 第7巻
  7. ^ 『寛政重修諸家譜』『金沢市史』『藩史大事典』
  8. ^ a b c 筑紫君葛子(古代氏族) 2010.
  9. ^ 岩戸山歴史資料館 2009, p. 13.
  10. ^ 姓氏家系大辞典. 第2巻
  11. ^ 『福岡県の地名』筑紫神社項
  12. ^ a b 『日本の神々』筑紫神社項。
  13. ^ 鞍手町再発見(史跡) - 鞍手町オフィシャル(2018年5月5日午後8時30分(JST)閲覧)
  14. ^ 鞍手町再発見(歴史) - 鞍手町オフィシャル
  15. ^ a b c 岩戸山歴史資料館 2009, p. 9.
  16. ^ a b c d 岩戸山歴史資料館 2009, p. 16.
  17. ^ 岩戸山歴史資料館 2009, p. 14.
  18. ^ 岩戸山歴史資料館 2009, p. 24.
  19. ^ a b 磐井の乱(古代史) 2006.
  20. ^ 磐井(古代氏族) 2010.
  21. ^ 『日本書紀』舒明天皇14年条5月3日条
  22. ^ 『日本書紀』舒明天皇15年条

関連項目

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参考文献

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